撮影/今村拓馬

 母は日本人コミュニティーにはあまりなじまず、和食よりもブラジル料理を好んだ。体育教師だった父と出会ったころは美容師で、結婚後にロジェリオと弟と妹、3人の子育てをしながら夜間高校を卒業して公務員になった努力家だ。両親共働きのおかげで家庭はミドルクラス。ロジェリオはいつもストリートでサッカーやバスケに興じ、13歳からはスケートボードに夢中になった。

 ロジェリオが10歳のときまでブラジルは軍事政権下にあり、物資もカルチャーも海外からは入ってこなかった。「テレビも白黒で、共産主義国家のようでした」という。民主主義に移行してからも街の治安は決してよくなかった。「行ってはいけない」とされるエリアも多く、常に角を曲がった先に誰かがいるかもしれない、と意識して育った。危ない目にあったこともある。バスに乗ろうとしたとき銃を持った少年3人組がロジェリオを追い越して乗り込み、乗客からスニーカーや時計を奪っていった。幸い被害を免れたが、そうしたことは日常茶飯事だった。

ちょっと日本を見てみたい 茨城県で工場勤務を始める

 13歳のとき両親が離婚し、サンパウロから160キロほど離れた田舎に引っ越した。高校卒業後はサンパウロの専門学校で機械工学を学び、大学受験のために夜間の学校にも通った。同時に日本への就職派遣会社にも登録していた。

「いとこがいる日本をちょっと見てみたい、という軽い気持ちからでした。でも思いがけずトントン拍子に就職先が見つかった。デカセギ、という言葉も知っていたし、その気持ちもありました。1年でお金をためれば、ブラジルに戻って大学の費用も払えるなと」

 茨城県の古河市は、現在もブラジル人が200人ほど暮らす街だ。19歳のロジェリオは会社の寮に住み、近隣の小さな工場で20人ほどのブラジル人と香水のビンを検査する仕事についた。同僚たちはみなブラジルの家族に送金するため工場と寮を往復し、節約して日々を過ごしていた。

「当時はつらいこともありましたけど、思い出そうとしてもパッと思い出せないんですよね」

 とロジェリオは言う。

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