「外国人として見られた経験ももちろんあります。でも差別というより、ディスコミュニケーションなだけだと思います。ブラジル人たちはお金をためるために必死で、休みの日も出かけない。だからどうしても世界が狭くなってしまう。地元の飲食店に入っても僕らはポルトガル語で、お店の人は日本語。向こうは『外国人だから、なにか悪いことをしようとしているんじゃないか』と思い、こちらは『日本人は厳しい。ひどい』となる。でもだんだん日本語がわかってくると、お互いに単なる勘違いだったんじゃないかと思えるんです」
そんななかロジェリオは、若さと好奇心で状況を変えていく。1年間の節約生活を経て、2年目も働くことを決め、休みの日に電車で1時間かけて上野に行き、駅前でスケートボードをする若者に交じるようになった。日本語はできなくてもトリック(技)は共通でコミュニケーションが取れた。山手線で今日は渋谷、明日は恵比寿とひと駅ずつ行動範囲を広げていった。レコード店やライブ、クラブにも一人で行くようになった。
さらにスノーボードにハマり、ニュージーランドにひとり旅をする。しかし英語が話せず、入国審査で長時間止められた。幸いポルトガル語を話す日本人男性に助けられたが「英語が話せないとダメだ」と痛感し、1年間のカナダ留学を決意する。その後日本に戻って再び工場で働き、留学生として大学進学を目指して拓殖大学の日本語教育課程で学びはじめる。だが学費を稼ぐためアルバイトをしようとしても、日本語が話せないことがネックとなり仕事がない。ようやく採用されたのは恵比寿にあったカナダ人が経営するカフェ。ここから現在につながる道が開きはじめる。
伊藤拓也(49)は大学時代からカフェやサロンなどの空間作りに興味を持ち、恵比寿に薬草酒アブサンを出す「Bar Tram」を開いた。2003年ごろロジェリオが客としてやってきた。長めのウルフカットに特徴的なヒゲをはやし、個性的な人だなと思ったという。