「合併のとき、吉井と宇野は下級生ながらレギュラーだったので何の迷いもなく参加したと思うが、大川や自分など他の選手はレギュラーではなかった。数日練習に参加してみて「ここには自分の居場所はない」と思った。誰にも相談せずに退部を決意した。口惜しくなかったかと言うとウソになるが、意外に心残りはなかった」(チームまゆきよ『白球は時空を超えて―――松山東高野球部124年目のキセキ』ミライカナイブックス、2015年)

 旧制時代、松山中よりも松山商業学校のほうが強豪校として知られ、甲子園出場回数も圧倒していた。松山東が優勝したときの主力メンバーは松山商業出身だったこともあって、いま松山東と松山商業の学校史にはいずれも1950年全国優勝と刻まれている。

 1950年の松山東以降、夏の大会で一中をそのまま引き継いだ高校は優勝していない。

 なお、1949年に神奈川県立湘南高校が全国制覇しているが、同校は1920(大正9)年に県で8番目の旧制中学として開校している。ちなみに1951年神奈川県代表になった県立希望ヶ丘高校は一中そのものであった。

 旧制一中時代に甲子園常連校だった和歌山中は、和歌山県立桐蔭高校になってからは1948年、1961年、1986年に出場した。1970~1980年代、和歌山は箕島高校が全盛期である(同校は1970年春、1977年春に全国制覇、1979年に春夏連覇)。このなかで桐蔭が県代表となったのは相当な強豪だったからと言っていい。

 なお、「桐蔭」の名をもつ学校が甲子園常連の強豪校になったことは広く知られている。

 神奈川の桐蔭学園高校(1964年開校)は1971年に1回、大阪の大阪桐蔭高校(1983年開校)は1991年、2008年、2012年、2014年、2018年に5回優勝している。

 一中のなかで和歌山中=桐蔭高に次いで強かったのが、秋田高校、鳥取西高校、静岡高校である。秋田高校は秋田中を含めて18回、鳥取西高校は鳥取中・鳥取一中時代から数えると23回出場した。

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