旧制中学校時代は、第4回(1927年)で和歌山中が優勝している。このとき、そのお祝いにアメリカ遠征旅行がプレゼントされた。旧制中学の生徒は修学旅行などで植民地だった中国をまわっていた。だが、米国となると別である。とんでもなく豪華なご褒美だった。

 戦後、1949(昭和24)年に大阪府立北野高校が全国制覇する。下馬評で優勝候補は強豪・和歌山中を引き継いだ桐蔭高校と目されていたが、北野は2回戦で桐蔭に勝ってしまう。これは北野にとってまさかの話だった。学校史に「戦評」が掲載されている。

「当時の林校長が試合前「桐蔭はアキラメますわ」と明言されたくらい、負けると思っていた試合。甲子園で二回試合が出来たらモウケもんやという気持でやったら、先様の西村投手さっぱりストライクが入れヘン。八番の市石でも出塁出来たくらいや。かくて快勝。カケ屋も大損しよった」(『北野百年史』1973年)

 関西人らしい述懐である。

 1958(昭和33)年には本県立済々黌高校が優勝した。全国高等学校野球連盟(現・日本高等学校野球連盟=高野連)会長の中澤良夫氏は「優勝した済々黌のナインは学問上では九州の名門で、学力テストをしても出場校随一であろう」と口をすべらせてしまう(『済々黌百年史』1982年)。この大会に出場した一中は済々黌だけである。「学力」より野球を重視する学校にすればおもしろくなかったのではないか。済々黌は準々決勝で早稲田実業学校高等部と対戦し、王貞治氏にはしっかりホームランを打たれている。

 1978(昭和53)年、一中の投手が甲子園史上初という偉業を成し遂げた。群馬県立前橋高校の松本稔投手が完全試合をやってのけたのである。前橋高校は夏の大会に4回出場しており(うち三回は旧制中時代)、いずれも初戦敗退だった。春の甲子園は1978年が初出場で、部員は二十人しかいなかった。

 残念ながら完全試合の後は続かなかった。大いに注目を集めた2回戦で、福井商業高校に0対14で負けてしまう。

 2001年、春の選抜に「二十一世紀枠」が生まれた。「秋季大会の成績にとらわれない「清新の気風あふれたチーム」」が出場校選考の対象になるが、公立高校、進学校が有利という見方もある。高野連が「文武両道」というフレーズを好むのは、前出、済々黌優勝の高野連会長のコメントからもうかがえる。

 メディアも「受験参考書を持ち込んで」などと「進学校」を美化して報道しがちだ。

 もちろん、強豪校が選ばれるので露骨な公立進学校びいきはない。「成績にとらわれない」とはいっても、推薦されるのは、秋季大会で128校以上が出場する都道府県ではベスト32以上、それ以外はベスト16以上のチームであることが大前提となっている。

「二十一世紀枠」に選ばれた一中は次のとおりだ。

 2001年 安積高校(福島)
 2002年 松江北高校(島根)
 2005年 高松高校(香川)
 2009年 彦根東高校(滋賀)、大分上野丘高校(大分)
 2011年 城南高校(徳島)
 2015年 桐蔭高校(和歌山)、松山東高校(愛媛)

教育ジャーナリスト・小林哲夫

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