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長編小説に俳句の本 「とてもまだ死ねませんね」と瀬戸内寂聴
長編小説に俳句の本 「とてもまだ死ねませんね」と瀬戸内寂聴 瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。著書多数。2006年文化勲章。17年度朝日賞。近著に『寂聴 残された日々』(朝日新聞出版)。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「何をでも如何にでもなく超越して描く」  セトウチさん  長いつき合いなのに、自分のことを理解してくれてないと怒ってらっしゃいますが、人を理解するなんて、自分の存在さえ不確かなのに無理です。次の一件でもセトウチさんは不可解です。ヘェー、何(な)んだか狐(きつね)につままれたような話です。デパートの一階で、誰かの絵の展覧会で若い絵描きさんが──? そこに集まっている見物人の中に僕の家族がいた──? セトウチさんが女子大生の頃、神戸のデパートでの出来事。しかも、そこで会話を交わしていた人達が僕の実の家族だと確信されたとか。  80年前の話でしょ。当時実の家族は(兵庫県の)西脇に住んでいて、「裕福そうなインテリ」どころか、長屋住いで僕の養父母は、尋常小学校しか出ていません。  当時、セトウチさんが女子大生だとすると、僕は四歳で養子になった年です。セトウチさんは僕の家族とは親類でもないのに交流があるはずがないし、どうしてそこにいた人達が四歳の僕の実家族だなんて、おわかりになるんですか。第一、セトウチさんが十四歳違いの四歳のチビの僕の存在など、知りようがないんじゃないでしょうか。  セトウチさんのお話を分析すると四歳の子供がデパートで個展をして、集まった人たちに絵の説明をしていたということになりませんか。第一、僕の存在など80年前のセトウチさんの意識の中では無いも同然です。セトウチさんは夢でも小説でもないとおっしゃっています。これが現実なら悪夢です。  さらに以前こんな話を僕にしたら、「何という大バカなのだろう。このオンナ!」と凄(すご)い言葉をまるで僕が吐いたかのように、ののしっておられます。僕はゾッとしました。あまりにも品性がなさ過ぎませんか。もうこの話は僕には身に覚えのない支離滅裂な話にしか聞こえません。  非現実的な話から現実的な話に切りかえます。僕の現実はやはり創作を抜きにして考えられません。  僕の場合はいつもいうように特定の主題がありません。主題は何んだっていいのです。何を描くかではなく、如何(いか)に描くか。つまり絵をフォルムとして考えています。世の中に存在する森羅万象は全てフォルムでしょ。人間自身もフォルムでできています。人と人との付き合いもフォルムと考えれば実にシンプルです。それが複雑になるのは感情が入り込むからです。だから感情もフォルムにしてしまえばいいんじゃないでしょうか。  生が複雑なのはフォルムではなく感情だからでしょ。そういう意味では死はフォルムです。だから死は単純で、いいと思います。もっというと考えなくっていいということです。考えるから感情的になって生にしがみつきたくなって、ますます複雑になるんじゃないですかね。描きたくないというのは究極のフォルムというか、フォルムさえ否定するフォルムです。フォルムで生きるということは単純に生きるということです。  ですから、何を描くかでも、如何に描くかでもなく、それらを超越して如何に生きるかということになります。ゴーガンの大作の題名に「われわれはどこから来たか、われわれとは何か、われわれはどこへ行くか」。結局この言葉につきると思います。  頭を空っぽにして寝ます。 ■瀬戸内寂聴「未来の小説 閑かに想えば落ち着きます」  ヨコオさん  今日、寂庵は、朝から雨に包まれています。  まさに春雨です。  想(おも)い出はみなやさしくて春の雨  ふっと、口をついてきた句です。寂庵はまだ梅が満開で、座敷には、お雛様(ひなさま)が壁一杯に並んでいます。例年の今頃は、お詣(まい)りの人々が次から次に訪れて、お雛様の前で、お菓子を食べながら、口々にお喋(しゃべ)りをしているのに、コロナのせいで、今年の春は訪れる人がなく、ひっそりとしています。  閑かでいいなど言っていたのは、とうの昔のことで、こうまで人の訪れがないと、やはり淋(さび)しくて、身も心も持て余します。  毎年の寂庵の春の行事のお釈迦さまの誕生日のお祭りも、今年は、庵の者たちで、お釈迦さまの像に甘茶の雨をかけてお祝いすることでしょう。  今年の春は、見事に改装出来た天台寺へ、ぜひ来いといわれているので、迷っています。とてもこの老衰体では、天台寺までの旅は無理と思う一方で、今年行かないと、もう死ぬまで行かれまいという想いも強く、心が乱れます。  墓の字も書いておかなければ、墓石屋が待ちかねています。井上光晴さん御夫妻のお墓は、すでに天台寺に造られています。井上さんの雄渾(ゆうこん)な字で、井上さんの詩が書かれた墓石です。遠い所なのに、御家族は言うまでもなく、井上さんの小説のファンたちのお詣りもあります。  甥(おい)の敬治の三回忌がこの間過ぎましたが、徳島の墓の外に、天台寺にも敬治の墓をたててやりたいと思います。  りんどうを踏まねばゆけぬ天台寺  という敬舟(俳号)の句を刻んでやろうと思います。  彼を見送ったのが、ついこの間のような気がするのに、もう三回忌とは!  別に朝も晩も自分の死や墓や、遺言のことばかり考えているわけではないのですが、考えておかねばならない事情も出て来て、そういうことも少しずつ片づけています。  ヨコオさん、改めて考えてみればあなたは私より十四歳も若いので、余生の時間はたっぷりありますね。  それまでにどんな大きな絵を描き残されることでしょう。  大きな絵を描く体力と、情熱は、長篇を書く小説の労力と比べたら、はるかに力が必要でしょう。その体力と、情熱を想像しただけでも体がきしみます。  私も一つ長篇を書き遺(のこ)したいと想い、題も内容も決めてあるのですけれど、この体力では、果(はた)して書けるかどうか怪しくなりました。  それを書くには、遠い旅も必要なので、さあ、出来るかどうか。  でも、今日のような静かな雨の日などに、一行も出来ていない未来の小説のことなど考えるのは心が落ち着くものです。出来れば俳句の本ももう一冊遺したいものです。  わあ、これではとてもまだ死ねませんね。まあ、想うことにはお金がかかりませんから、せいぜい、見る夢の数を増やしましょう。  そうだ! 油絵もせめて三枚くらいは遺さないとね。ああ、忙し。なかなか死ねないぞ!  春風邪にかからないように! おやすみ ※週刊朝日  2021年3月19日号
なぜノコギリだったのか 86歳夫を殺害した76歳妻の長年の恨みが表すもの
なぜノコギリだったのか 86歳夫を殺害した76歳妻の長年の恨みが表すもの 写真はイメージです(Getty Images) 北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表  作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、3月5日に起きた殺人事件について。逮捕された犯人はまったく知らない女性なのに、どこかで知っている気持ちになるという。 *  *  *  長年の恨みが積もっていたという。暴力を振るわれ、お金を家に入れない夫だったと、女性は警察で話した。  76歳の女性が83歳の夫の首をのこぎりで切って死なせ自首した。使ったのは刃渡り25センチの折りたたみ式ののこぎりで、一般家庭用の小ぶりなものだ。寝ている夫の首にのこぎりを立て、その後約2時間、女性は夫の上に馬乗りになり死んでいく様を眺めていたという。    家にいくらでも凶器となるものはあるはずなのに。包丁でもなく、錐でもなく、金づちでもなく、ハサミでもなくのこぎりを使ったことに、女性の殺意が衝動的なものではなく「長年の恨み」という言葉以外ではあらわせないものであることを知る。夫には抵抗した跡があったというが、自分より小さかった妻に馬乗りになられた状態で身動きが取れないくらいには、体は弱っていたようだ。首が完全に切られていたわけではなく、出血も大量ではなかったため、圧迫死の可能性もあると語る専門家もいる。  第一報からなぜか強烈にこのニュースに惹きつけられている。郊外の住宅街、小さな庭の小さな一軒家。40歳くらいの息子と高齢の両親の3人暮らしという高齢社会の今どきの家族。事件当時、息子は出かけていて、別に住んでいる娘に連絡し、娘に促されて110番をしてきたという。  近所の人によれば、女性は事件の2、3日前に庭の木を全てのこぎりで切ってしまっていたという。「一生懸命切ってました」と女性の姿を見た人が話していたが、テレビ画面に映された庭には、真ん中あたりでバッサリと切断された木がいびつに並んでいる。木の切断面は白くつやつやとなめらかで、家庭用の小さなのこぎりで、こんなにきれいに切れるものなのかと思わず画面に釘付けになってしまう。テレビリポーターの男性が「電動のこぎりで切ってたのですか?」と近所の住人に質問していたが、それほど鮮やかに何本もの木が切断されていたのだ。のこぎりをひきながら、女性は何を思っていたのだろう。切り落とされた枝や葉はきれいに片付けられ、切断面が剥き出しになった木が並ぶがらんとした庭を見ているうちに、会ったこともない女性の後ろ姿が見えるような錯覚に陥る。  殺された夫にしてみればたまったものではないだろう。でもなぜだろう、私を含め、この事件に心を囚われ、続報を待ち受けてはそれについて語りたくなる女性は少なくない。友人が会社に行くと「読みました? のこぎりの事件!!」と興奮気味に語りかけてきた同僚がいたという。それは私も同様で、会う人会う人にこの事件の感想を聞いている。多分それは、この国を今生きている女性として、「彼女の生活」をどこかで目撃したことがあるような、証人のような気分に簡単になれてしまうからなのではないか。  76歳の女性。戦後、男女平等、民主主義の教育を受けてはいるものの、経済的に女が簡単に自立できるような社会などではなかった。殺された夫はあの森喜朗氏と同世代。根深い女性蔑視から自由になれた人はどれだけいただろう。  日本でDVという言葉を根付かせたのは、90年代の女性運動だった。1992年「夫(恋人)からの暴力」調査研究をはじめた女性たちのもとに、当時約800人の女性からの回答があった。このアンケートは日本で初めてDV問題をまとめた本として後に出版されるのだが、アンケート結果のなかには、殴られる理由にセックスを拒否したためと答えた女性が3割、暴力を受けた後に性交を強いられ、避妊を拒否された女性たちの叫びのような声が多く残されている。経済的に支配し、「誰のおかげで食ってるんだ」と殴り、夫婦間にレイプなどないと口を塞がれ、何度も妊娠中絶を繰り返してきた女性たちの声がある。この調査をした女性たちは、のこぎりで夫を殺害した女性と同世代だ。2001年に配偶者暴力防止法が成立するまで、家庭内の暴力は「夫婦間の痴話ゲンカ」程度にしか語られない時代を、この国の女性たちは言葉にならない悔しさを抱え生きてきた。 「長年の恨み」  その言葉が突き刺さるのは、その悔しさが全く無関係の女の口から発せられたものと思えないからなのかもしれない。母の悔しさ、祖母の悔しさを、この国の女の子たちは見てきた。「お母さんみたいになりたくない」という思いと無関係でいられる幸福な女の子は、どれくらいいるだろう。私が幼いころ、近所のおばさんが(当時30代前半くらいだったろう)、必死の形相で縄跳びをしていたのが忘れられない。子ども心に異様な光景に見えたのだろう。その後、その女性が中絶をしたらしいと、大人たちがひそひそと話しているのを聞いた。ずいぶん後になって、あの時の大人たちのひそひそ話と、女性の必死な縄跳びの姿が結びついた時があった。その瞬間、何か大きなものに殴られたような重い気持ちになった。  女の恐怖、女の恨みは家庭の中で育つのだ。そのことを私たちはどこかで知っている。だからこそ、家の庭の木を全て切断し、夫の上に馬乗りになり死ぬのを見つめ、娘に連絡し、自ら警察に通報し、取り調べに「長年の恨みがありました」という女性の言葉が刺さるのかもしれない。まったく知らない女性のまったく知らない事件。でも私たちはどういうわけか、彼女を知っている気持ちになり、彼女を語りたがろうとしている。  事件のことはこれから少しずつ明らかになっていくだろう。夫の死は、女性を長年の恨みから解放したのだろうか。その恨みが消える日は、くるのだろうか。 ■北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表
「600年の歴史が消えていく」 震災後、住民が去った宮城・雄勝にフラワーガーデンを造った理由
「600年の歴史が消えていく」 震災後、住民が去った宮城・雄勝にフラワーガーデンを造った理由 2017年、オリーブの植樹作業をする徳水博志さん。17年から栽培を始めたオリーブは、既に搾油をするまでになった(徳水さん提供) 徳水さん夫妻が整備する「雄勝ローズファクトリーガーデン」では、花期になると1万本もの花が咲く(2020年6月、徳水さん提供) 大きく実ったオリーブの実。オリーブの6次産業化による産業創出を目指す(2020年10月、徳水さん提供)  震災10年。震災後、命をつないだ被災者たちが直面したのは住まいを巡る難問だった。津波による住居喪失は、街からの人の流出を引き起こした。被災三県の沿岸自治体で震災前より人口が増えているのは仙台市とその周辺だけで、ほとんどの自治体で急速な人口減少が進んでいる。そんななかでも、地域復興のために力を尽くす人を取材した。 *  *  *  宮城県石巻市の中心部から、車で約40分。市北東部に位置する雄勝半島の入り口に「雄勝ローズファクトリーガーデン」はある。群青の雄勝湾と深い山の緑に挟まれたその地には、初夏の花期になると1万本もの花が咲き競う。  徳水博志さん(67)の妻が、津波で亡くなった母の供養のために植えた一輪の花が始まりだった。以来、年間千人を超えるボランティアが口コミで集まり、整備を進めてきた。そしてその奥では、徳水さんが育てるオリーブの木々が風に揺れている。  2011年3月11日、雄勝町は高さ16メートルを超える津波に襲われた。  最大遡上高は21メートルにもなった。ローズファクトリーガーデンから湾沿いに続く低平地には震災前、住宅や商店が立ち並び、約350世帯が暮らしていた。だが、津波で街は全壊。周囲は災害危険区域に指定され、人が住むことはできなくなった。  いま、徳水さんらが進めるのは、そんな「人が住めない」海沿いの低地を利活用して交流人口の増加と生業創出を目指し、復興につなげる取り組みだ。当初、行政側は低平地の利活用方法として企業誘致を目指してきたが、移転予定の企業が倒産し、頓挫した。代案として浮上したのが雄勝の玄関口を花と緑で彩る「雄勝ガーデンパーク構想」だ。徳水さん夫妻のファクトリーガーデンは、その中核施設に指定されている。  ガーデンから徒歩10分ほどの距離に市が整備する雄勝地区の「拠点エリア」を結ぶ観光コースをつくったり、車で5分の位置にある旧大川小学校校舎(震災遺構)をつなぐ防災教育コースをつくったりして交流人口の増加を図る。さらに、「北限のオリーブ」と名付けたオリーブの六次産業化によって雇用創出を目指すという。オリーブは果実だけでなく、果汁や葉、枝にいたるまで活用でき、「オリーブハマチ」のようにオリーブを餌にした養殖魚のブランド化も事例がある。 「生業がなければ、たとえ故郷でも暮らしていけない。600年の歴史がある雄勝を後世につなげるための取り組みです」(徳水さん)  雄勝はいま、地域存続の岐路に差し掛かりつつある。震災後、このエリアにできた高台の集団移転地に移ったのは30世帯ほどで、地区住民の多くは雄勝を去った。雄勝町全体で見ても、震災前約4300人いた人口が、今は1100人。震災後の雄勝町では、防潮堤建設や高台移転などの復興事業が遅れに遅れた。高台移転が完了する2017年を待たず、別地区への移転を選んだ元住民は多い。  ただ、人口流出の要因はそれだけではない。雄勝を離れたある被災者はこう吐露する。 「家があったから雄勝にいた。家がなくなった以上、戻る理由がありません」  雄勝中心部に暮らしていた元住民の多くは、商店主や石巻市街へ通勤する会社員。家を失って生活再建を目指すとき、あえて不便な雄勝に残る必然性がなかったのだ。地区に残ったのは、漁師など雄勝に生業を持つ人と高齢者がほとんどだ。徳水さんは、雄勝の持続可能性を守るためには若者が暮らしていける新たな「生業」が欠かせないと力を込める。 「若者が食べていける、ここで家庭を持ち、子どもを育てる。そんな未来を描ける仕組みをつくらなければならない。私のガーデンでも、最低限何人かは雇用を生み出すまでは頑張ろうと思っています」  徳水さんが、妻の実家がある雄勝に越してきたのは震災の20年ほど前のこと。その後は雄勝町内の小学校教員として勤務を続けてきた。手つかずの雄勝の自然、室町時代から続くといわれる硯産業などに心を動かされた。 「雄勝の自然や文化を教材化して教育に取り組むなかで、地域が自分の人格の一部になった。地域が自分の歴史の1ページを作っていたんです。震災で地域が失われる様を目の当たりにして、初めてそのことに気が付きました」(徳水さん)  町を出る選択をした人が、責められる理由は全くない。そう前置きしたうえで、徳水さんは続ける。 「私の場合、既に子どもも成人していて雄勝に残ることができた。みんなが街を出ていく中で私たちも雄勝を離れたら、600年の歴史があるこの街が消えていくという危機感がありました。だから、私たちは2011年の段階で残ることを決めていました」  地域復興に主体的に取り組むことは、自分の喪失感を埋める回復の過程でもあった。徳水さんの活動に共感し、全国から集まる人との交流にも励まされてきたという。  10年の間に、雄勝の姿は大きく変わった。2016年には高さ9.7メートルの巨大防潮堤建設が始まり、2021年3月時点でほぼ完成に近い状態になっている。いま、海沿いに立っても高い壁に阻まれて海は見えない。  震災直後の2011年から、住民の多くは防潮堤建設に反対してきた。高台移転によって命を守りつつ、景観を生かした復興に取り組む――。一方、県は高台移転をしつつ、防潮堤建設によって「道路を守る」と主張した。当初は住民と一体になって防潮堤建設に反対した石巻市役所雄勝総合支所は2012年に防潮堤受け入れへ方針を転換。徳水さんらは住民団体「持続可能な雄勝をつくる住民の会」をつくって防潮堤の見直しを訴え続けたが、やがて工事が始まった。 「第一に、防潮堤は雄勝の自然を破壊します。海底20mまで鉄板を打つことで地下水や伏流水の流れが断ち切られ、将来的に漁業や生態系に深刻な打撃を与える危惧がある。第二に、景観の問題があります。高い防潮堤をつくらずに原型復旧して自然を生かした街づくりを私たちはイメージしていた。そして第三に、防潮堤建設は『無駄な公共事業』です。『防潮堤反対』は断じて『安全の軽視』ではありません。命を守るための高台移転は私たちも反対していません。しかし、高台移転したうえで防潮堤を整備するのは二重の投資で、復興を遅らせるだけです」(徳水さん)  防潮堤がほぼ完成に近づいたいまも、その思いは変わらないという。 「私たちは、こんなコンクリートに囲まれた街をつくるために残ったわけじゃない。県への憤りは今もあります。でも、現実に防潮堤はできてしまった。土木関係者など防潮堤賛成の人も含めて地域だし、復興を進めるうえで行政当局はパートナーでもある。現実をリアルに見て、限られた条件の中で、できることをやっていきます」(同)  2017年から栽培を始めた北限のオリーブは、既に搾油を始めるまでになった。ただ、今後実際に「産業」として育っていくかはまだわからない。10年後、20年後の雄勝に「持続可能性がある」と言い切れる確信もまだ見えない。 「それでも、できることをやるしかない。いまは100のうち1しか見えていなくても、まずはそこまで行ってみる。そうすれば次が見えてくるはずです。震災を経て思うのは、1日1日の積み重ねの先にあるのが、10年後、20年後だということです。希望とは一歩の行動を縦糸に住民や支援者との連帯を横糸に、足元から自ら紡ぎ出すものです」 (文/編集部・川口 穣) ※AERAオンライン限定記事
日々の世話から介護まで… 作家と編集、孤独抱えた2人の“愛情の歴史”描く一冊が刊行
日々の世話から介護まで… 作家と編集、孤独抱えた2人の“愛情の歴史”描く一冊が刊行 米本浩二(よねもと・こうじ)/1961年生まれ。新聞記者を経て著述業。著書に『みぞれふる空──脊髄小脳変性症と家族の2000日』、『評伝 石牟礼道子──渚に立つひと』、『不知火のほとりで──石牟礼道子終焉記』(撮影/江藤大作)  AERAで連載中の「この人この本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。「書店員さんオススメの一冊」では、売り場を預かる各書店の担当者がイチオシの作品を挙げています。 『苦海浄土』の作家・石牟礼道子と、地方の文芸誌編集者として道子の執筆を支えながら水俣病闘争に身を投じた渡辺京二。2人の半世紀の共闘と愛を、秘められた日記や書簡、発言から描いた『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』が刊行された。著者の米本浩二さんに、同著に込めた思いを聞いた。 *  *  *  大学卒業後に毎日新聞社へ入った米本浩二さん(60)。西部本社で九州中心に取材活動を続けるうち、水俣病の家族や患者の苦しみを描いた『苦海浄土(くがいじょうど)』の作家・石牟礼道子と、彼女を支えた歴史家・編集者でロングセラー『逝きし世の面影』の著者でもある渡辺京二の知己を得た。2人の取材を重ね、執筆した評伝『評伝 石牟礼道子──渚に立つひと』で読売文学賞を受賞。だがそれだけでは満足できなかった。彼らの関係には水俣闘争の伴走者である「聖女」とその「同志」という通説に収まり切れない、長い愛情の歴史があると知ったからである。晩年、長く病んだ石牟礼を介護したのも渡辺だった。 「何しろ渡辺さんは、40年ほど毎日道子さんのところへ通っていました。3時頃から晩ご飯を作り、片付けもして、家に帰るのは11時過ぎ。奥さんもお子さんもいらっしゃるのに。なぜそうするのかとずっと謎でした。渡辺さんから道子さんに宛てた手紙があるのを知って腑に落ちたんです。彼らはとても孤独な人たちでした。宇宙を抱えているような孤独感があって、しかも渡辺さんはフォークナーを愛する詩人性・文学性のある人。だから道子さんと共振できたのでしょう。私も卒論がフォークナーという文学好きだったので、2人といろいろな話ができたのだと思います」  新たに2人の関係を書きたいと言った米本さんに、渡辺さんは「今までも十分書いているじゃないか」と難色を示す。だが、米本さんが既に書いていた第3章「魂の章」を見せると態度が変わり、「実は水俣病闘争に参加したのも道子ありきだった」と告白する。その後は日記や手紙を託して自由に書かせてくれた。 「渡辺さんは歴史家だから文字で勝負する人。文字に残さないと自分たちの歴史的な邂逅が何もなかったことになると思われたのではないでしょうか。2人が共に歩まなかったら石牟礼文学も今とは違う形になっていたでしょう」  2人にはそれぞれ配偶者がおり、その存在が通奏低音のように感じられる。石牟礼は夫を、渡辺は妻を愛していた。それでいてなお2人の魂は引きつけあってやまない。その関係は熊本では知られていたが「暗黙のタブー」として語られることはなかった。「怒られたら泣いちゃうような可愛らしい道子さんを、渡辺さんは心から好きでした」という米本さんもまた、石牟礼道子に引かれ続けている。今後も別の形で彼女を書いていきたいと話してくれた。(ライター・千葉望) ■丸善丸の内本店の高頭佐和子さんオススメの一冊 『何とかならない時代の幸福論』は、コロナ禍の問題点を考えるためのヒントにもなる一冊。丸善丸の内本店の高頭佐和子さんは、同著の魅力を次のように寄せる。 *  *  *  この1年間、コロナウイルスに振り回されて浮き彫りになった問題は多い。イギリスに長く在住し保育士として働いた経験のあるブレイディみかこ氏と、演出家でありロンドンに留学経験もある鴻上尚史氏の対話をまとめた本書には、それを考えるための重要なヒントが詰め込まれている。  日本を覆う閉塞(へいそく)感の本質と、イギリスの多様性に対する取り組みが、2人の実体験をふんだんに交えながら親しみやすい言葉で語られる。「世間」と「社会」の違いや、シンパシーとは違うエンパシーという能力についての対話は新鮮で、硬直しそうな心を柔らかくし、起きた出来事を冷静に分析するための新しいものさしを得たような気持ちだ。  何とかならない時代をどうにかするために、まず変わるべきなのは自分自身なのだと思う。大切なことを気がつかせてくれた貴重な一冊だ。 ※AERA 2021年3月8日号
濁流が病院4階天井まで! 患者も地域も奪い去った「3.11」が医師人生にもたらしたもの
濁流が病院4階天井まで! 患者も地域も奪い去った「3.11」が医師人生にもたらしたもの 2020 年10 月に開園した宮城県南三陸町の震災復興祈念公園。写真中央にあるのが旧防災対策庁舎(写真/朝日新聞社) 津波の2日後に撮影された公立志津川病院(写真中央/朝日新聞社) 菅野 武医師/2005年、自治医科大学医学部卒。栗原市立栗原中央病院などを経て、09年、公立志津川病院内科医長。11年、東北大学大学院消化器病態学分野へ進学。15年、同博士課程卒業。現・東北大学病院総合地域医療教育支援部(消化器内科兼務)、東北大学東北メディカル・メガバンク機構地域医療支援部門助教など。 「3・11」が日本人にとって特別な意味を持つようになってから、まもなく10年が経過しようとしている。現在発売中の週刊朝日MOOK『医者と医学部がわかる2021』では、東日本大震災で自ら被災しながら、医療活動に従事した医師に取材した。医師の10 年を追う。 *  *  *  2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とする地震が発生した。そのマグニチュードは9・0。日本周辺における観測史上最大規模のものだった。  揺れは東北・関東を中心に広範囲に及び、最大震度は宮城県栗原市で7を記録。その揺れは多くの日本人にとって、初めて体験する強さだった。    この地震の影響で発生した津波は、東北・関東の太平洋沿岸部を襲った。その高さは15メートル以上にもなり、各所に壊滅的な被害を与えた。この津波により、福島県の福島第一原子力発電所では、複数の原子炉でメルトダウン(炉心溶融)が発生し、放射性物質が漏出。周辺住民は避難を余儀なくされた。避難指示区域はいまだ全面解除には至っていない。    東日本大震災での死者数は、1万5千人を超え、建造物は全壊が12万戸以上、一部損壊などを含めると100万戸以上に被害が及んだ。    震災の際、自らも被災したにもかかわらず、医師たちは目の前の命を守るために奮闘した。その体験は、その後の歩みにどのような影響を与えたのか。ある医師の姿を追う。 ■送別会予定日に起きた東日本大震災    菅野武医師が東日本大震災に遭遇したのは31歳のとき。宮城県南三陸町の公立志津川病院の内科医長として勤務しており、翌月からは東北大学大学院に進学することが決まっていた。 「地域医療に携わろうと思い自治医科大学医学部を卒業し、丸6年が経とうとしているころでした。大学病院などの比較的大きな病院では治療法を学び、病気と向き合うことが基本的なテーマとなりますが、地域医療では患者さんの悩みや苦しみを理解し、病気だけではなく『人に向き合い寄り添う医療』が大切になります。まだまだ若造でしたが、その意味が実感としてわかるようになってきたころでした」    地域医療の現場に携わるにつれ、疾病に対する診断と診療のひとつの基準となる「診療ガイドライン」に疑問を持つことが増えたという。 「実際の治療とマッチしにくいケースがあったんです。診療ガイドラインと臨床の差を埋めるためにはどうしたらいいのか、大学院で研究したいと考えました」    3月11日、その日の夜には菅野医師の送別会が予定されていた。    地震発生時、強烈な縦揺れが病院を襲ったが、建物はほぼ無事。停電はしたものの、すぐに非常用電源が作動し始めた。揺れに関しては対応可能なものだった。    しかし間もなく、津波警報が発令される。志津川病院は海からは約400メートル離れていることに加え、津波対策として、入院患者の病室は、3階以上に設けられていた。  菅野医師とスタッフは入院患者を車いすに座らせたまま持ち上げたり、担架などを使用したりして、階段で5階へと運び上げていった。    津波が押し寄せてきたのは、地震発生から約40分後のこと。ちょうど菅野医師が患者を5階に運んだときだった。その規模は、想定をはるかに超えており、津波の濁流は4階天井部分まで一気に建物をのみ込んだ。    交通がマヒし、陸の孤島と化した病院で、スタッフたちとともにできる限りの患者ケアをしつつ、眠れない夜を過ごした。ようやく救助のためのヘリコプターが病院に到着したのは、地震発生から24時間が経過したとき。    菅野医師が最後の患者とともにヘリコプターに乗り込んだのは13日だった。    地震発生からこの間、救えた命もあったが、救えなかった命も多かった。 「ヘリコプターで石巻赤十字病院に到着後、自分の患者さんを見届け、実家の仙台へ戻りました」    実家では、第2子出産のため帰省していた妻、長女と再会。その3日後には、無事に長男が誕生した。妻の退院を待って、南三陸町へ戻ったのは3月21日。そこからおよそ1カ月、避難所での活動を続けた。 ■「被災時受援体制」の構築を目指して    あれから10年――。菅野医師は現在、東北大学病院で総合地域医療教育支援部と消化器内科を兼務しており、その活動は多岐にわたる。「受援体制」に関する提言もそのひとつだ。    東日本大震災では、日本のみならず、世界各国からDMATなどの災害派遣医療チームが被災地で活動を行った。南三陸町にも多くのチームが集まった。 「南三陸町は志津川病院を含むすべての病院がダウンしたため、町内で一番大きい避難所に医療統括本部を立ち上げ、態勢を整えました」    菅野医師は、ほかの地元の医師と共に、地域の状況を把握し、適切に医療チームを派遣するようにする一方、医療のニーズの掘り起こしや医薬品の整備、衛生管理、感染症防止対策、支援後の医療体制の構築など、諸問題に対処していった。 「例えば、支援物資には多数のジェネリック医薬品が含まれます。支援する医師は専門外のケースも多いですから、薬剤師との連携が欠かせません」    医薬品以外のケースでも保健師や歯科医師などのほか、行政など医療者以外との連携が必要となる。 「この経験により、支援を受ける側の『被災時受援体制』の構築がとても大切だと気づきました」    避難所を離れた後、菅野医師は講演や執筆などを通じて「受援」に関する提言を続け、13年には高知県災害医療アドバイザーに就任した。19年からは東北大学と福島県立医科大学が共同で実施する「コンダクター型災害保健医療人材の養成プログラム」の運営にも携わる。 「医師のほか、看護師やNPO、行政などそれぞれが災害時における研修や訓練などを独自に行っていますが、このプログラムはそれらの職種を横断する内容となっています。災害時には、各分野の専門家をつなぎ、支援のベクトルを合わせられるような『受援体制』を構築できる人材育成を目指しています」    避難所での活動は、自身の専門である消化性潰瘍(かい・よう)についての研究にもつながった。 「避難所で活動を続けていると、震災後、いくつか特定の病気が増えることがわかってきました。そのひとつが、ストレス性の潰瘍(消化性潰瘍、特に出血性潰瘍)でした」    震災自体のストレスに加え、避難所での生活が潰瘍出血を引き起こす要因となっていた。 「これは、この震災ではじめて判明したことです」    菅野医師は、避難所での活動の後、1カ月遅れで大学院に進学。この時の体験をベースに報告をまとめた。その後も研究を続け、消化性潰瘍の診療ガイドライン作成委員にもなった。 「疑問に思っているだけではなく、自ら行動することで変えられるものがあるということを実感できました」    現在、災害支援の医薬品リストには強力な酸抑制の胃薬があるが、これは東日本大震災以降のことだ。 「ほか、技術の均てん化のため、消化性潰瘍の内視鏡手技に関するシミュレーターの開発にも携わり、実用化を目指しています」 ■命の大切さを伝えるメッセンジャーに    菅野医師はこれらに加え、もうひとつの役割を担ってきた。それは一通のメールがきっかけだった。    避難所での活動を終え、仙台へと戻った菅野医師に、4月20日、米ニュース雑誌「TIME」からメールが届く。そこには、菅野医師が同誌で毎年発表される「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたことと、ニューヨークで開催される記念パーティーでのスピーチ依頼が記されていた。    実は長男誕生の際、希望につながるような話題を探していたNHKの取材班が現地入りしており、父である菅野医師が南三陸町で被災しながら医療活動を続けていたことも含め、国内だけでなく世界へ向けて発信していた。 「最初、記念パーティーへの出席は断るつもりでいました。被災はしましたが、私の家族は幸いなことに生きています。私より苦しんで、どん底にいる人がたくさんいるなか、私が苦しみを語るのはおこがましいという葛藤があったんです」    その思いを変えたのは、南三陸町の被災者や共に活動した医療スタッフ、進学予定先の教授たちからの「被災者の代表として震災のことを伝えてほしい」という言葉だった。 「スピーチでは、被災の大変な状況のほか、『日本人は決して負けない』という思いを伝えたつもりです」    パーティーで印象に残っているのは、スピーチ後の現地の人たちとの会話だった。 「向こうの人は『なぜ日本人はこのような状況なのに黙っているのか』としきりに聞いてくるんです。『助けてと言ってくれたらいくらでも力を貸すのに』と。確かに日本人は我慢しすぎてしまう傾向がありますよね。そこから『声を出して伝えなければならない』という思いが強くなりました」    帰国後、菅野医師は取材や講演、執筆など、「メッセンジャー」の役割を果たし続けた。だが、菅野医師自身も震災の被災者であり、そのフラッシュバックに悩まされていた。講演で被災の状況を説明する際には涙があふれだすこともあった。 「命を救うことが役割の医師なのに、震災で患者も地域も失うだけ失ってしまいました。守れなかった怒りと自分が生き延びてしまった罪悪感が渦巻き、間違った感情だとはわかっているのですが、『自分が死んだらよかったのに』という思いが浮かぶこともありました」    葛藤の日々が続くなか、震災からちょうど1年後の3月11日、とあるテレビ番組の企画で、被災した傷跡が残る志津川病院の前からの中継を行った。 「その際に被災者へのメッセージを求められたのですが、『自分を責めなくていい。生きているだけで宝物です』と話しました。その後、『これは自分に向けて言ったことだな』と気づいたんです。このことで、気持ちが少し前向きになれたのかもしれません。その後、受援の活動や人材育成に、より力を入れるようになりました」    震災を悲劇としてだけで終わらせないための活動を続けてきた10年間。 「震災に関する暗く、恐ろしい気持ちはずっと自分のなかにある」と菅野医師は話す。 「これはこの先も忘れることはないでしょう。ですが、この思いが自分を動かす原動力にもなっています」    現在、特に力を入れていることは、子ども向けの講演・教育活動だという。 「自分の被災体験やその後の活動をきっかけにして、子どもたちに『命の大切さ』を伝えたいんです。これが、大人向けの講演などに比べると難しいのですが、その分、やりがいも感じているんです」 (文=AERAムック編集部・原子禅)
じい散歩
じい散歩 「お前たちが頼りにならないから、今は一日でも長く、俺が元気にしてないと」と金の無心に現れた三男に言いきる。もうすぐ90歳になる新平の物語だ。  散歩が趣味で、妻を誘うものの毎度「行かない」とつれない。妻が無愛想なのは羽振りのよかった頃に新平が浮気したからで、出かけようとすると女の名前を口にする。認知症の兆しのある妻の疑りにうんざりしながらも突き放さないのがいい。  一代で建設会社を築いたこと、駆け落ち同然の大恋愛のことなど、散歩の合間に思い出す新平の回想は昭和・平成の世相録の趣がある。  夫婦には3人の息子がいるが、50歳前の三男は口ばかり。長男は不登校のまま部屋にひきこもっている。ただ一人家を出て独立した次男は「長女」を自称する。なんとも深刻そうな一家ではあるが、植木等の歌声が聴こえてきそうな爽快感が漂う。(朝山 実) ※週刊朝日  2021年3月12日号
福原愛にも不倫&離婚騒動 国民的女性アスリートがスキャンダルに見舞われる理由
福原愛にも不倫&離婚騒動 国民的女性アスリートがスキャンダルに見舞われる理由 福原愛(C)朝日新聞社  あの「泣き虫愛ちゃん」が、わが子と夫を台湾に置いて、不倫デートをしていたとは……。  卓球女子団体で五輪2大会連続メダリストの福原愛(32)に降ってわいた不倫疑惑と離婚危機。福原が代表を務める「株式会社omusubi」は、4日、公式サイトで次のようにコメントを発表した。 《弊社 福原愛に関する報道につきまして この度、弊社代表取締役社長 福原愛に関する週刊誌報道に関しまして、福原を応援してくださっている皆様、関係者の皆様にご心配やご迷惑をお掛けしておりますことを深くお詫び申し上げます。》  これに対して、ネット上では「一体、誰に対して、何をお詫びしているのかわからない」「ご心配やご迷惑をお掛けしております、というなら説明してほしい」といった声が多く寄せられた。  3日にニュースサイト「NEWSポストセブン」は『福原愛に不倫報道! 夫と子供を台湾に残して横浜「お泊りデート」撮』と不倫を報じ、「文春オンライン」は『「この売女!」福原愛を離婚決意に追い込んだ「モラハラ夫」』という強いタイトルで夫の江宏傑(32・リオデジャネイロ五輪卓球台湾代表)がモラハラ夫であると暴露、福原が離婚を決意したと報じた。 「4日発売の『女性セブン』では、福原のデートの一部始終を写真付きで詳細に報じていますし、『週刊文春』も彼女の台湾で日常的に受けているモラハラを詳述しています。芸能人並みの盛大な結婚式もそうでしたが、台湾では夫婦そろってテレビ出演しラブラブぶりをアピールしていたおしどり夫婦でしたから、この報道は衝撃的でした」(スポーツ紙記者)  地元・台湾でもトップニュースとして取り上げられ、地元メディアによれば、江のマネジメント会社が「2人は離婚していません」とコメントを発表。さらに「江は愛が男性と遊んでいたことを知らなかった。国際結婚はいろいろなことがあるし、家庭のことを話し合っている。現在も子供たち、そして愛のお母さんは江の家にいますが、家族への中傷はお控えください」としている。  五輪代表選手のスキャンダルといえば、昨年9月には瀬戸大也がラブホテルでの不倫が発覚。日本水泳連盟から活動停止処分を下されたが、今年2月に復帰戦で優勝を果たした。 「瀬戸と妻の馬淵優佳さんも、アスリートカップルとしてSNSでは仲むつまじい様子をアップしていた矢先の不倫発覚でしたから、衝撃は大きかった。瀬戸はスポンサーからは契約解除されCMも降板、しばらくバッシングが続きました。芸能人の不倫も大きく報じられますが、とりわけ五輪選手は現役でも元でも、スキャンダルの対象になりやすい」(スポーツライター)  元五輪代表のアスリートのスキャンダルといえば、2013年にフィギュアスケートの安藤美姫が結婚せずに出産したときも世間を驚かせた。 「安藤は最初から子供の父親は明かさず自分で育てていく意向を示していましたが、一部メディアやネット上では父親が誰なのか詮索された。それからはツイッターなどにもの誹謗中傷のコメントが書かれるなどバッシングされました」(同前)  またバルセロナ五輪の200メートル平泳ぎで、14歳で金メダリストとなった岩崎恭子も結婚9年目に離婚した。『今まで生きてきた中で一番幸せです』の名言とともに記憶に刻まれていた彼女が離婚協議中に50代の既婚者と不倫、しかも密会する時はカツラを着用していたことまで写真誌に報じられた。 「読者にしてみれば、岩崎はあの14歳のあどけない少女のままのイメージが強いので、不倫していたと知って勝手に幻滅し、ショックを受けてしまうのでしょう。今回の福原も同じような感覚で、あの4歳の頃からの卓球少女・愛ちゃんがイケメンと結婚して、ラブラブだったのに、不倫デートなんてとんでもない!と、なぜか急に清廉潔白を求めてしまうのかもしれません」(スポーツ紙記者)  スポーツジャーナリストも「とりわけ五輪選手は、大きな期待を担う国民の代表なのだから、とプライベートでも勝手に聖人君子のような振る舞い求められてしまうのでしょう」と話す。  真実は当事者にしかわからないが、それだけ彼女たちが大きなものを背負って闘い、生きてきたからこそ注目されてしまうのだろう。(坂口友香)
小川彩佳の夫、マック元社長…“ハイスペ経営者”が自爆する理由
小川彩佳の夫、マック元社長…“ハイスペ経営者”が自爆する理由 原田元会長 (c)朝日新聞社(提供) 豊田元代表 (c)朝日新聞社(提供) 水野元会長 (c)朝日新聞社 “プロ経営者”、カリスマ経営者の事件や不祥事が続いている。ずばぬけたビジネス手腕と輝かしい経歴を持ち、分別をそなえた年齢である。お金も地位も名誉もあるカリスマたちは、なぜ踏み外したのか。心理学者や精神科医、夫婦カウンセラーら、専門家に聞いた。 *  *  *  なぜこの人が──。  そう声を出さずにはいられない。カリスマ経営者による事件や不祥事が続いている。  台湾発のティー専門店「ゴンチャ」を展開するゴンチャジャパン(東京・渋谷)は2月24日付で原田泳幸会長兼社長兼CEO(72)の辞任を発表した。  原田氏は日本マクドナルドホールディングス(HD)やベネッセHDなどの社長を歴任し、プロ経営者ともてはやされたが、妻でシンガー・ソングライターの谷村有美さん(55)に自宅で暴力を振るったとして、同19日、傷害罪で罰金30万円の略式命令を受けた。  同10日には、大手スポーツ用品の「アルペン」(名古屋市)の水野泰三元会長(72)が、強制わいせつ致傷と窃盗、暴行容疑で逮捕され、衝撃が走った。  水野氏はアルペンを創業し、浅田真央さんら有名スポーツ選手の“スポンサー”としても有名だったカリスマ経営者だが、事件後に会長を辞任。被害者と示談が成立したこともあり、名古屋地検は同22日、不起訴とした。  さらに2月には小川彩佳アナウンサー(36)の夫で医療ベンチャー「メドレー」の代表取締役医師だった豊田剛一郎氏(36)の女性との不倫騒動も話題になった。 「昭和どころか、近代日本以前の価値観。ゴーマンもいいところ」  そう憤慨するのは、夫婦問題研究家の岡野あつこさんだ。 「財力があれば浮気も亭主関白という名の暴力も、かいしょうのうち──、と考えている男性はいまだに存在します。女性を下に見て、何をやっても許されると思っている」  社会心理学を専門とする碓井真史・新潟青陵大学教授は、環境による影響が大きいと分析する。 「経営トップは、基本的に人に否定されることがない。トップが何か口にする前に周囲や部下は、忖度(そんたく)して意向に沿うように動く。ただでさえ経営トップは、ストレスがたまる生活ですから、お酒や夜のお店や趣味で発散する。だから口説いている女性に拒否されたり、相手が思い通りに動かない状況に遭遇すると、カッと激高しやすい」  だが、時代は令和。おとなしく耐え忍ぶ女ばかりではない。水野元会長に暴行を受けた被害女性も、原田元会長の妻の谷村さんも警察に被害を訴え、暴走経営者らは報いを受けることになった。  それでも、表沙汰になるのはごく一部。暴走するゴーマン経営者は、ゴロゴロいる、と話すのは前出の岡野さん。 「傲慢な経営者を親に持ち、その支配下から逸脱できない人にありがちですが、若くても女性をモノのように扱う男性はいる。こんな相談を受けたことがあります」  女性は、40代の夫から離婚を迫られていた。夫は、年収数千万円という高スペックな経営者。 「おやじが、お前(妻)を気に入らない」  夫婦には娘もいるが、「おやじがいいという女性と結婚して、男の子を産ませる」とうそぶく。妻が拒否すると、「お前なんかつぶすのは簡単だ」と夫は脅し文句を吐き、携帯電話を壊した。 「万能感を抱く男性に共通するのは、『しつけ』や『教育』だと信じ込み、罪悪感がない点です」  だが先の妻も、やられっぱなしではない。夫の暴言と暴力場面を録音し、離婚交渉の材料とした。  岡野さんは、メドレーの豊田元代表の不倫騒動も、女性を甘くみた結果の不祥事だと分析する。  高スペックな男の妻が、仕事と子育てに追われる生活と知れば、不倫相手は男の不満を補う存在となるべく努力を惜しまない。「妻が忙しくて、料理も手抜き」と愚痴を耳にすれば、手料理をふるまい、「私なら寂しい思いはさせない」と全力で愛情を注ぐのだ。 「妻も愛人もコントロールできているとあぐらをかく男は、女性の扱いもぞんざいになるのです」  外出を重ねると、レストランやホテルのランクを露骨に下げる男性は、珍しくない。最初は五つ星ホテルでも、数回目にはラブホテルに誘う、高スペック男。 「敏腕な経営者ほどケチというか計算高い。肉体関係を結んで『利益』を回収したのちは、投資金額を抑えようと考える」(岡野さん)  愛知県警によると、アルペンの水野元会長はホテルで女性の拒否にあい激怒。暴力をふるい、女性に渡していた現金10万円などを奪った。  ぞんざいな扱いをうければ相手も黙ってはいない。愛人が妻に自分の存在をにおわせて不倫が発覚するパターンは、王道だ。妻も、愛人と仲良くなって夫の弱みを握るなど、賢くなった。  精神科医で『「不倫」という病』の近著もある片田珠美さんは、人間の成功体験は、「もろ刃の剣」だと述べる。 「修羅場をくぐり、熾烈な競争に勝ち抜いてきた成功者にありがちな思考ですが、危ない橋や修羅場も『自分ならば、切り抜けられる』と過信しがちなのです」  医師として多くの事例を見てきた片田さんは、彼らの共通項として、(1)特権意識(2)自らの能力への過信(3)脱抑制状態の3点を指摘する。  ただし、(3)の「脱抑制状態」は注意が必要だ。  躁うつ病(双極性障害)、あるいはアルコールやストレスなど原因はさまざまだが、「病気」が原因で、自らの衝動が抑えられない状態となっている場合もある。  たとえばピック病(前頭側頭型認知症)と呼ばれるタイプの認知症は、記憶障害が目立たないため、はた目には、健康な高齢者として映る。 「しかし、すぐにイライラして怒鳴るなど、いわゆる“キレる老人”にありがちな言動は見過ごされがちです。実は、MRIで精密検査を行うと、衝動のコントロールをつかさどる脳の前頭葉の萎縮が確認されるケースは少なくありません。症状が進めば、攻撃衝動や性衝動の抑制が利かず、暴力事件やわいせつ事件を起こしてしまうこともあります」  事件とは無縁に思える人が、罪を犯すのはなぜか。前出の碓井教授によれば、「犯罪機会論」という考え方がある。 「罪を犯すに至る動機が存在しターゲットとなる相手を見つけ、実行に移す機会に出あう。この原因となる三つの条件がたまたま重なった時に、犯罪が発生してしまう」  成功体験を積み上げた人間ほどゴーマンな考えに陥りやすい。「自分ならば切り抜けられる」と思わないほうが賢明だ。(本誌・永井貴子) ※週刊朝日  2021年3月12日号
わが家の“埋蔵金”を探せ! もらい忘れ保険やお宝レシートも
わが家の“埋蔵金”を探せ! もらい忘れ保険やお宝レシートも ※写真はイメージです (GettyImages) (週刊朝日2021年3月12日号より)  新型コロナウイルス感染拡大の影響で仕事の収入が減り、家計が厳しくなっても、あきらめるのは早い。ウチにあるものを見回すだけでも“意外な埋蔵金”があるものだ。3月12日発売の『あなたのウチの埋蔵金 リスクとストレスなく副収入を得る』(朝日新書)の著者で、経済ジャーナリストの荻原博子さんら専門家に見つけ方を聞いた。 *  *  * 「テレワークが増え、残業代も出なくなって、手取りの収入は減りました。春には次男と長女がそれぞれ高校、中学に進学するので出費もかさみます。会社で副業は認められていませんが、こっそりアルバイトでもしないと……」  東京都内に住む40代の男性はため息をつく。3人の子どもは手がかからなくなってきたとはいえ、家事を一手に担う妻がパートで長時間、家を空けるのは難しいという。来年は長男が大学受験を迎える。家計はさらに厳しくなりそうだ。  荻原さんはこう話す。 「外出の機会も減って気分もめいりがち。でも、ウチの中でやれることは多い。前向きに構えると、見えてくるものもあります」  荻原さんが検討する価値があるとして挙げるのは、今入っている保険だ。いったん入ったら、そのままにしている人が多い。年齢やライフスタイルの変化に合わせて見直すと、毎月払う保険料の節約にもつながる。減った分は、毎月の生活費の足しや老後の蓄えなどに回すこともできる。  荻原さんによれば、貯蓄性の保険を「払い済み保険」にする手もある。払い済み保険とは、保険料を払わずに保険に入り続けられる仕組みだ。保険をやめたときにもらえる解約返戻金を保険料に充てることで、今より保障額は小さくなるものの、今までと同じ期間保障を残したままにできる。  利回りが高いときに入っていた貯蓄性の保険は、預けたお金が増えていることが多い。このため払い済み保険の保障期間が終わった後にお金が戻るケースもある。荻原さんが説明する。 「その場合、新たな元手なしに一時金が手に入り、保障も継続されます。『埋蔵金保険』ということもできます」  たとえば、亡くなったときに3千万円もらえる保険に入っていた人が、死亡保障を1500万円に減らす代わりに、保険料の支払いをゼロにできる。保険料を払わなくて済むようになれば、毎月の負担は減る。  保険の見直しで注意したいのは、バブル時代など利回りが高い時期に加入した生命保険だ。高利回りの保険は入り続けていたほうがいいと、荻原さんは助言する。 「貯蓄部分の運用利回りは、加入したときに約束した利回りが最後まで適用されます。低金利の今でも当時の高い利回りのままで、保険をやめたときにもらえる解約返戻金の額がどんどん増えていくのです」  保険に入っている人は、お金を借りるのに有利な方法がある。 「解約した場合に戻るお金の7~8割までを借りられる『契約者貸し付け』と呼ぶもので、運用利回りに1~2%上乗せした利率で借りることができます。銀行の個人ローンやクレジットカードのキャッシングなどと比べて低い。審査も簡単。比較的早くお金を得られますし、保険の保障もそのまま続けられるメリットがあります」(荻原さん)  家計を立て直せる見通しがあれば、今まで続けてきた保険をやめなくても、いったん借りて急場をしのげる。  保険で言えば、2007年の郵政民営化以前に加入した郵便局の「簡易保険」は、実はもらい忘れている人が多い。  民営化以前の簡易保険を預かっている「郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構」によると、満期や死亡によって本来もらえるはずの死亡保険や年金のうち、引き取り手のないものが19年9月現在、約1300億円に上る。  簡易保険も、今よりも予定利率が高い「お宝保険」だ。簡易保険の受け取りには期限がないので、今でもその高い利回りで運用されている。しかし、死亡保険金の額が民間保険に比べて少なかったり、子どものために入ったのに伝えないまま亡くなってしまったりして請求を忘れてしまうケースがあるという。  保険料を払ったのに放っておいてはもったいない。親や自分に心当たりがあったら、最寄りの郵便局に問い合わせよう。  もらい忘れている年金も、大きな埋蔵金だ。荻原さんはこう指摘する。 「意外と見落としがちなのが企業年金。1カ月でも加入していたら、一生年金がもらえます。老後に毎月もらえる額は少額でも、チリも積もれば山となります。実は100万人以上の人がもらい忘れているというデータがあります」  企業年金は、企業が独自に公的年金に上乗せしている年金のこと。10年間払わなければもらえない国民年金や厚生年金などの公的年金と違って、勤めている会社に独自の企業年金があれば、加入期間が短くても生涯もらうことができる。  企業年金連合会によると、企業年金をもらい忘れている人は20年3月現在で114万6千人もいる。もらい忘れている人には通知が送られているものの、結婚して姓や住所が変わるなどして届かないケースがあるようだ。心当たりがあれば、以前の勤め先や同会などに問い合わせてみよう。  学生時代や転職したときに使っただけで、その後利用していない銀行口座はないだろうか。10年間取引がない口座は毎年、額にして1200億円程度発生していると言われる。  こうした「休眠口座」も、預金者が気づいた時点で郵便局や銀行などに言えば、いつでも出金や解約ができる。通帳やキャッシュカードが見つからなくても、身分証明書などがあれば手続きできるところが多い。休眠口座のある金融機関が近くにない場合、他の金融機関でも手続きできるか相談してみよう。  ただ、郵便局の貯金の中には、預けてから20年出し入れしていないと消滅してしまうものもあるので要注意だ。かつては国の金融機関の扱いだったので、民営化以前に預けた「定額郵便貯金」や「定期郵便貯金」などは当時の法律が適用される。満期後20年2カ月経っても払い戻しの請求がなければ払い戻しの権利がなくなる。  意外な埋蔵金もある。硬貨だ。荻原さんは言う。 「古い硬貨ではなくても、発行枚数が少ない時期に作られたものは高値で取引されています」  最近でも、たとえば11~18年に製造された1円玉や09年発行の5円玉などの中には1枚3千円前後で取引されるものがある。1986~87年に発行された10円玉や50円玉、500円玉なども2千~2万円の値がつくものがあるという。  見逃せないのが、ドラッグストアや薬局でもらったレシートだ。年間の医療費が10万円を超えると、確定申告で払いすぎた税金が戻ってくる。  たとえ年10万円に達していなくても、「スイッチOTC薬」と呼ばれる市販薬の購入額が、1年で1万2千円を超えたら確定申告すると超過分の税金が戻る。セルフメディケーション税制という制度だ。スイッチOTC薬かどうかはレシートや薬のパッケージで確認できる。レシートは大切に取っておこう。  年賀はがきも用が済んだからといって捨てるのはもったいない。未使用や書き損じのはがきは1枚5円の手数料を払うと切手やはがきと交換できる。  埋蔵金はほかにもある。巣ごもり生活で通信費が家計を圧迫している人も多いのではないか。格安携帯に切り替えれば、たとえば月1万円近くから数千円台に下がることもある。使っていたスマートフォンも売れれば、ダブルでお得になる。ファイナンシャルプランナー(FP)の長尾義弘さんは、こう振り返る。 「夫婦そろって格安携帯に替えるため、iPhone(アイフォーン)を専門業者に買い取ってもらいました。下取りの値段は同じ機種二つで計1万2千円前後。このうち一つに大きな傷がなければ、もう少し高く売れたかもしれません。iPhoneならアップルストアのほか、中古品の買い取り業者もあります。ほかのスマホも、携帯ショップで下取りすることで買い替え品が安くなる仕組みもあります」  FPの丸山晴美さんは、家にいる時間が増えた機会を使って大掃除することを勧める。 「机やタンスの引き出しの中に未使用だったり残額が残っていたりするクオカードや商品券が見つかればもうけもの。MD(ミニディスク)プレーヤーや携帯型育成玩具『たまごっち』といった昔はやった商品や、定年後に着る機会が少なくなったスーツなどは、メルカリやラクマなどのフリマアプリを通じて売れることもあります」 (本誌・池田正史) ※週刊朝日  2021年3月12日号
大西みつぐ 世紀の変わり目で写した東京と、崖という地形に沿って写した東京
大西みつぐ 世紀の変わり目で写した東京と、崖という地形に沿って写した東京 撮影:大西みつぐ  写真家・大西みつぐさんが二つの作品展を開く。「路上の温度計 1997-2004」は3月5日から東京・六本木のZen Foto Galleryで、「地形録東京・崖」は4月1日から東京・目黒のコミュニケーションギャラリー ふげん社で開催される。大西さんに聞いた。  大西さんが最初に「路上の温度計」(ニコンサロン)を発表したのは2005年。 「そのときに思ったのは、時とともに変容していくイメージ、記憶があるのだから、いつかもう一回、この作品を見せるのはありだな、と。それがいま。ちょうど撮影から20年後」  そんな感じでインタビューは始まったのだが、その直後、大西さんが熱を込めて語り出したのは撮影で使ったカメラのことだった。中判のフィルムカメラ、富士フイルムGA645WiとブロニカRF645が「ものすごくよかった」と言う。  この「645」という画面サイズは35ミリ判よりもひと回り大きいため、そのぶん、カメラはごつくて重い印象がある。ところが、この2機種は「すごく軽快で、楽しく撮れるわけですよ」。 「特徴的なのは両方ともファインダーを覗くと、縦位置に見えること。それで、縦位置で撮るのも面白いじゃん、全部縦位置で撮ってやろう、みたいなことになったんです」  カメラが時代の空気に合っていたという。 「あまりしがらみがなくて。シャッターをパンパンパンと切っていく、みたいな。そういう快感があった」  実際、作品を目にすると、「楽しく撮った」感じが画面からにじみ出ている。カラーリバーサル(ポジ)フィルムで写した画面は比較的大きいこともあって、その画質にはこってりとした厚みが感じられる。 撮影:大西みつぐ ニューヨークとパリ、19世紀と20世紀の境で偉大な仕事をした二人の写真家 「期せずして、この645で撮り始めたのが1997年ごろで、当然、思ったのが『21世紀』。この時代の変わり目に向けて、いろいろな写真家がさまざまな試みをしていて、(さて、ぼくは何をしようかな)と、考えたんです」  大西さんの頭に浮かんだのは19世紀と20世紀の境で「都市と人間、写真という関係を刻み」、写真史に残る偉大な仕事をした二人の写真家、アルフレッド・スティーグリッツとウジェーヌ・アジェだった。 「スティーグリッツはニューヨークという大都市が新たな世界の象徴になっていく様子をしっかりと撮っています。アジェは逆に古いパリのイメージを写真に凝縮していった」 「そうすると、ぼくも下町をずっと撮ってきたとはいえ、下町、下町っていうわけにはいかない。都市の移り変わり、都市の変容をみたいなものに、やはり、立ち会わざるを得ないわけですよ」  大西さんはスナップショットで、都市・東京を素直に撮っていこうと決めた。  ただ、それは「それまでの下町歩きとはちょっと違っていた」と言う。 「深川や上野、浅草も生活圏のように歩いていたんだけれど、そこからポーンと、池袋に行ってみよう、とか。デモをやっているから芝公園に行って、デモに参加しつつ撮ってみようか、とか」 「いつもとはちょっと違うエリアで、縦位置で、カラーリバーサルフィルムで。そういう組み合わせで撮ったんです」 撮影:大西みつぐ 645のポジに、楽天的な都市と人の風景が非常に鮮烈に見えた  カメラを持って歩いていると、「なにかしらの唐突な出来事が向こうから押し寄せきた」。 「その勢いみたいなものがいわゆる世紀末であり、ミレニアムだった。乱痴気騒ぎではないけれど、ある面で、ノー天気な光景だな、と思ったんです。今回、改めて645のポジを見ていったら、そんな楽天的な都市と人の風景が充満していた。それが非常に鮮烈に見えた」  上野公園の一角、木が生い茂る湿った空気の漂う階段に寝転ぶ二人。千住の路上では何やら袋の中身の黄色いものが散乱し、そのそばに警察の白い自転車が写っている。根津神社の猿回しと見物客。柳橋の奥に見える隅田川の流れ。「花札みたいな、出来すぎの構図」で写された亀戸天神。浅草、吾妻橋のたもとで弛緩したような物憂げなポーズをとる男女。 「645のノリで街を歩いたというか、説明がつかないような風景に対して、素直にカメラが向いた」  撮影は2000年を過ぎてからも「だらだらと続いた」。それが「結果的に」ミレニアムの前後を写しとることにつながった。 「もう少し撮ってみよう、撮ってみようと。要するに、このカメラで撮るのが面白かったんです(笑)」 撮影:大西みつぐ 下町の平らなところを撮ってきたな、という思いがあった  もう一つの写真展「地形録東京・崖」は、これまでとは違うイメージで、地形を基に東京を写した作品。  そこには「もうちょっと広く東京を、写真を撮りながら見てみようという思いがあった。その気持ちがだんだん高まっていったのは、2010年以降ですね」。 「ぼくは、それこそ体を使って人を、風景を撮ってきたつもりなんだけれど、地形的に言えば、下町の平らなところを撮ってきたな、とずっと思ってきたんです」  地形を思い描きながら街歩きをする――といえば、NHKの人気番組「ブラタモリ」である。 「タモリが地形に興味を持って、面白そうに坂道を歩いているのを見たりして、(ああ、なんかまねっこでも、カメラを持ってやってみようかな)と、思ったんです。それで、下町からちょっと背伸びをするように、西側の街を散策し始めた」  最初に訪れる場所は「下町と山の手の境目で、土地感のある上野あたりがいいだろう」と、なった。 「そんな視線で上野を見ると、いろいろなものが凝縮されたような土地で、その先のイメージみたいなものが非常に期待できたんですよ」  上野は武蔵野台地の端っこにあたり、「上野台」と呼ばれる。その西にはかつて石神井川が流れ、その名残りの不忍池がある。  昔から物見遊山の名所として栄えてきた歴史もある。江戸時代、「上野のお山」には京都・清水寺を模して建てられた清水観音堂があり、そこから不忍池を見下ろした風景は歌川広重によって「名所江戸百景」に描かれている。 撮影:大西みつぐ 上野から飛鳥山へかけて続く「偉大」な崖 「地形というのを一つのテキストとして歩くと、上野から北に続く界隈というのは連続性があるわけですよ。崖に沿って景勝地や神社、仏閣が連なっている。そこにお祭りとか、昔の文化が今に伝わっている」  永井荷風は、「上野から道灌山飛鳥山へかけての高地の側面は崖の中で最も偉大なものであろう」と、東京散策記、「日和下駄」に書いているが、この崖は大昔の東京湾の縁にあたり、打ち寄せる波が上野台を削ってできたものらしい。  西日暮里の崖の上には諏訪神社があり、作品には澄み切った青空の下、大きなイチョウが写っている。 「このへんのいちばんの鎮守なんですけれど、古い東京のイメージが感じられる素敵なところです」  そのすぐ北には道灌山通りの大きな切り通しがある。「ここはほんとうに崖ですね。壮観というか、すごい。尖っている感じがします」。大西さんはその巨大なコンクリートの壁を向き合うように撮っている。  住宅地の一角で写した作品もある。画面右下には電車が走る。「京浜東北線と山手線の分岐点の崖のてっぺんです。下町と山の手の境目にポーンと、こんな空間があるんですよ」。  さらに北へ向かって歩いていくと旧古河庭園が見えてくる。小高い台地に石造りの洋館が建ち、斜面には洋風庭園、低地には日本庭園が配されている。 撮影:大西みつぐ 地形に寄り添って歩きながら、出来事や出会いを素直に撮り重ねる  飛鳥山は上野台のいちばん北にあたり、公園内にはかつて渋沢栄一が住んでいた旧渋沢庭園がある。 「ここは上野と並ぶお花見の名所。『名所江戸百景』を見ると、ぼくが歩いたポイントとまったく重なってくるんです。飛鳥山から花見ついでに富士山を眺めたり、逆に下町方面を見たりとか。台地と低地の風景が描かれている。そこがいまも庶民の景勝地になっていて、すごく和みます」  上野台は石神井川の流れによって途切れるのだが、その北には王子稲荷神社があり、「キツネが出てくるという、いわれのあるほら穴を祀ってあります」。作品には参拝に訪れた人たちが並び、いまも庶民から愛されている場所であることを感じさせる。  大西さんは地形に寄り添って歩きながら、そこでの出来事や出会いを素直に撮り重ねた。 「永井荷風的な雑学というか、日和下駄的な感じですね。でも、この歳になって、坂を行ったり来たりしなくちゃいけないんだから大変ですよ。ふつうだったら、そこからスタートして、いまごろは下町の平坦な路地を歩いていればいいのに、逆のことをやっている(笑)」                   (文・アサヒカメラ 米倉昭仁) 【MEMO】大西みつぐ写真展 「路上の温度計 1997-2004」 Zen Foto Gallery 3月5日~4月17日 「地形録東京・崖」 コミュニケーションギャラリー ふげん社 4月1日~4月25日 「路上の温度計 1997-2004」に合わせて写真集『TOKYO HEAT MAP』(Zen Foto Gallery、200×200ミリ、ハードカバー、4500円・税込)も発売する。
橋本聖子氏のキス、ハグ強要は許せない? 正論だけでは理解できない男社会で生きる地獄
橋本聖子氏のキス、ハグ強要は許せない? 正論だけでは理解できない男社会で生きる地獄 橋本聖子氏(c)朝日新聞社(代表撮影) 作家の北原みのりさん  作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長に就いた橋本聖子氏について。過去のセクハラ事件を断罪する風潮があるが、男社会で生きる女性の置かれてきた状況を考えると複雑な気持ちになるという。 *  *  *  橋本聖子氏は、“政治家たるもの産むべからず”という永田町の暗黙の了解を破った人である。  現役の国会議員として初めて出産した女性は、1950年の園田(旧姓松谷)天光光さんだった。交際発覚時、相手が妻子ある国会議員だったこともあり、女性の天光光氏への風当たりは相当激しかったという。出産後たった8日で国会に戻るなど驚異的な努力を見せたが、結果的に天光光氏は出産によって政治生命を絶たれてしまった。それ以降、現役の国会議員は誰も産めなくなった。  橋本氏はそんな永田町の不文律を50年ぶりに破った。橋本氏が2000年に妊娠を発表した際には、当時81歳の天光光氏が自民党本部の懇談会に出席し「国会のなかに託児所をつくる必要がある」などと発言している。当時は野田聖子議員等が中心となって、国会議員の産休に関する規則改正を推し進めた。  やっぱり、数は大切。女性が増えれば変わらざるを得ない現実が生まれるのだ。  それにしても当の橋本氏は、“そういうこと”をどのくらい意識していたのだろう。  東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の新会長に就いた橋本氏の過去のセクハラが連日報道されている。高橋大輔選手へキスを強要したり、安倍晋三首相(当時)と浅田真央選手を無理やりハグさせたりしたなどとして、過去の振る舞いに注目が集まり、批判の声が高まっている。過去の動画や記事を見たが、高橋選手へのキスも、浅田選手へのハグ強要も、軽いおふざけの高笑いの空気のなかで行われているのがわかる。“セクハラはコミュニケーション”という空気が、橋本氏が育ってきたスポーツ界にはあったのだろう。  橋本氏は出産した翌朝、実父から「本会議に出なさい」と怒られたという(2000年9月7日付朝日新聞夕刊スポーツ面「その後の五輪の女たち」)。本人は、出産翌日出勤の例をつくってはいけないと、1週間後に登院した。参院の産休制度(出産が理由の欠席)はつくられたが、何日取るかは本人に任せられている。長く取れば取るほど、肩身の狭い思いをする内容だった。1週間後など、フツーは動けない体のはずだが……かなりのプレッシャーのなかで、橋本氏は「出産する女」としてわきまえて仕事をしてきたのだろう。子ども産むのも、軽い骨折するのも同じくらいですよ~な、軽さで振る舞うことで「男並み」に仕事をしてきた。  橋本氏の過去のセクハラ事件を複雑な気持ちで見ている。もちろんあってはいけないことと思う。けしからん! 同意を何だと思ってるんだ! セクハラに男女は関係ない! と正論を言うことは簡単だ。でも、笑い声がうずまくなかでキスやハグを強要する橋本氏をみて、古傷が痛む……というような思いを味わう女性は、実は少なくないのではないか。それこそ「男並み」を求められる男性社会で生きている女性にとっては。  過激に下ネタを何でもない調子で言ったり、自ら性的に自虐したり、AVも男性と同じように楽しんでいると吹聴したり、性的からかいやエロをサブカルのように楽しもうと積極的な姿勢を見せることで、男性社会で「男並み」であろうと振る舞おうとしている女性たちは決して少なくない。「男のエロ文化」にフェミのようにいらつきを見せず、理解と共感を表明し、むしろ共に楽しんでいるという振る舞いをすることで得られるポジション。「性的お遊び/性的からかい」を批判しないどころか、一緒にからかう側に立つ女。そういう場所にあることで、守られることもある。  大手企業に勤める知人(女性)が、接待でキャバクラや風俗に行くことがあると言っていた。キャバクラでは隅のほうに座り、ソープランドでは受付で終わるのを待つのだと自虐気味に話していた。それができてこそ、女だけれど一人前の営業マン! になれるのだというような地獄は、決して100年前の話じゃない。  性差別者の後任が、日本のセクハラ問題や性差別、女の生きがたさの複雑さを表象する50代女性。橋本聖子氏の顔を見ると目を背けたくなるような、悲しみに胸がいたい。 ■北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表
写真家・田代一倫はなぜ、被災地に向かい、その後、東京を写したのか
写真家・田代一倫はなぜ、被災地に向かい、その後、東京を写したのか 2011年4月15日 岩手県釜石市大只越町(左)、2011年4月20日 岩手県大船渡市盛町(撮影:田代一倫)  写真家・田代一倫さんの作品展「2011-2020 三陸、福島/東京」が3月4日から東京・目黒のコミュニケーションギャラリー ふげん社で開催される。田代さんに聞いた。  田代さんが以前発表した作品「はまゆりの頃に:三陸、福島 2011~2013年」に加え、東京で写した写真で作品展を開くと知り、インタビューを申し込んだ。  私が初めて「はまゆりの頃に」を目にしたのは、まだ震災が生々しかった2013年。その被災現場で写された大量のポートレート写真。  田代さんに作品を写したときのことをたずねると、声をかけたほとんどの人から撮影を断られたという。 「責められることは多かったですね。『他人の不幸で飯を食うな』と。でも、おっしゃることはごもっともなんです。いちばん申しわけないな、と思ったのは、『勘弁してくれ』って、ぼそっと言われたとき。そのとき、(あー、そうですよね)と思いました。うーん。(長い沈黙)葛藤はすごくありましたね。どこまで踏み込むか、どこまでなら許されるのか」 「この土地を知っている人が行ったら、たぶん、こんな乱暴なことはしなかっただろうと思いました」 ――でも、乱暴なことをしていたつもりは当然ないわけですよね。 「そうですね。その葛藤ですかね」 2011年4月23日 岩手県宮古市田老田中(左)、2012年1月3日 岩手県遠野市小友町(撮影:田代一倫) 「報道をしているんだったら、避難所の中を撮りたいでしょ」と、案内する女子高生  撮影のきっかけは、震災の1週間後、用事があって福岡の実家に帰った際、目にした光景だった。 「東京は自粛とかで暗かったじゃないですか。ところが、福岡はふだんと同じくらいめちゃくちゃ明るくて。その距離の違いを如実に感じたんです。そのとき、実際に現地を行って、見てみたいと思いました」  被災地を訪れたのは「自分の興味でしかなく」、撮影した写真を「発表して伝えるつもりも全然なかった」。 「まあ、行って、どんな生活をしているのか、どんな話をしているのか、というのを聞いてみたいと思いました」  田代さんが語った撮影の動機は、軽いノリのようにも聞こえ、正直、困惑した。壊滅してがれきとなった街とのギャップはあまりにも大きく、その赤裸々な発言は悲惨な現実から遊離しているようにも感じられた。  最初に被災者のポートレート写真を撮影したのは岩手県釜石市。震災から約1カ月後の4月15日だった。 「女性が3人、井戸端会議をしていたんです。ふだん、私たちの街でも聞くような声、笑顔で話していて、(ああ、これなら声をかけられるな)と思って、声をかけたら撮らせてもらえたんです」  すると、一人が「自宅の2階に、津波で流された方の遺体が挟まっていました」と、語った。  それを耳にした瞬間、それまでがれきを目の前にしてもどこかテレビ映像のように感じていたのが現実となって押し寄せてきた。  翌日、隣の大槌町で出会った女子高生からは「ついて来てください」と言われ、避難所に案内された。田代さんが昼食を食べていないことを知った彼女は、「お弁当があるというのと、報道をしているんだったら、避難所の中を撮りたいでしょ、という感じの申し出で、ついて行ったんです。でも、避難所の入口に立ったら、食べもののにおいとか、すごくいろいろな話し声がして、生活の風景が一気に押し寄せてきたんです。『あ、ごめん、やっぱりここには入れない』と言って」、避難所を後にした。 2012年4月26日 福島県田村市三春町中妻(左)、2012年7月24日 岩手県大船渡市赤崎町蛸ノ浦(撮影:田代一倫) 「もう、途中で、どっちが目的なのか、わからなくなっていたんです」  撮影をお願いしても承諾してくれる人は20人から30人に1人にすぎなかった。  それでも、「写真を写すと、『頑張ってください』と、言われることが多かったんです。もちろんそれは、ありがたかったんですけれど、けっこうつらかったですね」。  東北に繰り返し足を運ぶようになり、「作品にする、発表するという覚悟を決めていった」のは、撮り始めてから1年ほどたってからのことだった。 「やっぱり、撮らせてくれたからにはきちんとしたかたちで世に残したい、という気持ちになってきて。そこまではやりきろうと思って、必死にやったんです」  撮影も後半になると、5人に1人ほどが受け入れてくれるようになった。 「自分でも、ちょっと恐ろしいな、と思ったんですけれど、お願いするのがうまくなるというか、人に詰めていく歩き方とか、間合いとか、それを人によって変えているんです。勝手に体が動いたというか。それはほんと、自分でも驚きましたね」  2年間で撮影した人数は約1200人。声をかけたのは数万人にもなるという。 「もう、むちゃくちゃ行っていましたね。1年の4分の1は東北にいたと思います」  話を聞いていくうちに思い浮かんだのは、被災地とはかけ離れた「沖縄病」という言葉だった。沖縄をあまりにも好きになってしまった人が、沖縄に通いつめてしまうことを病に例えて言うのだが、田代さんはいわば「東北病」にかかってしまったようだった。 「震災が起こったのにもかかわらず、この土地の豊かさとか、人柄の良さに引かれてしまったんです。みんな、とても奥ゆかしい。人と会って、気づくことがすごく豊かなものだった。楽しさ、と言ったらなんですけど」  しかし、その言葉を聞くと、またモヤモヤとした気持ちが湧き上がてきた。もちろん、地元の人とつながりを楽しく感じる気持ちは理解できる。けれど、写真家である田代さんの目的は被災者との交流ではなく、撮影のはずだ。  ところが、「もう、途中で、どっちが目的なのか、わからなくなっていたんですよ」。 2013年1月1日 福島県南相馬市原町区中太田(左)、2013年2月22日 福島県双葉郡楢葉町山田岡(撮影:田代一倫) 「東京が好きじゃなくて。嫌いだな、と思いつつ撮り続けた」  その発言の意味が腹にすとんと落ちたのは、しばらく話した後のことだった。 「はまゆりの頃に」を発表した後、田代さんはアルバイトをしながら東京を撮り始めるのだが、その一つ、福祉関係の仕事について、「写真家じゃなくて、こっちが天職なんじゃないかと思っていました」と、つぶやいた。  障がい者が働く喫茶店で、いっしょに働いた。車いすの人に連れ添って外に出た。  その体験と、被災地で20、30分ゆったりと会話を交わしながら写真を写した濃密な人との触れ合いが私の脳裏で重なった。しかし、それと同時に、田代さんのやっていることのアンバランスさというか、プツンと切れてしまいそうな糸を見るような、あやうさを感じていった。 撮影:田代一倫  写真展のもう一つのテーマである「東京」で、最初に写したのはアルバイト先の警備員仲間だった。 「東北にはお金をいろいろ借金して行ったんです。最初は車とかに泊まっていたんですけれど、やっぱり、地元にお金を落とすべきなのかな、と思って、ビジネスホテルや民宿に泊まるようになったんです。そうしたら、経済的に身動きがとれなくなってしまって、警備員のバイトをするようになったんです」  東北とは違い、東京では「できる範囲で撮影した」。警備員をはじめ、先に書いた福祉関係など、アルバイトの機会を利用して面白そうな場所を見つけたり、集合前の時間を利用してポートレート写真を写した。  ただ、最初の動機はともかく、必死に写した東北と比べると、東京での撮影に対する思いは複雑というか、屈折したものを感じざるを得なかった。 「人を撮ることに関しては、そんなにぼくの中では変化はない」と言うものの、「もともと、ぼくは東京が好きじゃなくて。嫌いだな、と思いつつ、いろいろ仕事のオファーをいただいたから、ずっと東京を撮ってきたんです」。 撮影:田代一倫 撮影することが自分の生活とは切り離せなくなっていた 「東京のさまざまなことを含めながら、東北のことも考えて撮影を続けてきた」とも言う。  それは具体的にどういうことなのか、たずねると、「『復興五輪』と名付けられて進んできたオリンピックに向けて」のことだと説明する。  しかし、東京オリンピックそのものには反対の立場だと言い、「オリンピックのために撮っているようなかたちになったら、いやだなと」、本来であれば開会式前日の昨年7月23日に今回の作品の撮影を終えている。  どうも、すっきりしない。東京を撮った明確な理由が見えてこない。 「たぶん、復興五輪とは別の感じで撮り続けていた、というのもありますね」  もう、撮影することが自分の生活とは切り離せなくなっていたという。 「撮っておけば、ちょっと気持ちが安定するというような感じで歩いています。写真を撮らないと、自分はどうなんだろうと、思っちゃうんですよ」  心の声を聞いたような気がした。結局のところ田代さんは、東北でも、東京でも、撮影という行為によって自分の心を支えてきたような気がする。それが本当の撮影の理由ではないだろうか。                   (文・アサヒカメラ 米倉昭仁) 【MEMO】田代一倫写真展「2011-2020 三陸、福島/東京」 コミュニケーションギャラリー ふげん社 3月4日~3月28日
上皇さまの貴重な秘話も 「週刊朝日」が報じた大正、昭和、平成、令和の皇室史
上皇さまの貴重な秘話も 「週刊朝日」が報じた大正、昭和、平成、令和の皇室史 小磯良平が描いた美智子さま 浩宮時代の天皇陛下が「激写」した北欧の美人カメラマン 週刊朝日99年の主な皇室関連記事 (週刊朝日2021年3月5日号より)  本誌「週刊朝日」が創刊されたのは1922(大正11)年2月25日。その4年後には大正天皇が崩御し、昭和が始まった。99年の歴史を振り返ると、今ではあり得ないような貴重な皇室報道の記録がぎっしり。本誌が報じた大正、昭和、平成、令和の皇室とは? *  *  *  創刊号の大正11年2月25日号は、東宮時代の昭和天皇がスキーに初挑戦した記事ではじまった。  茶色く変色した創刊号の定価は、1部10銭。  崩れ落ちそうな表紙を慎重にめくってゆくと10ページ目に最初の皇室記事を見つけた。 <スキーを御試乗遊ばされし 東宮の英姿を拝して 男爵 稲田昌植>  本誌第1号の皇室記事を執筆した人物は、スキーの練習相手を務めた男爵であった。 <七千万の国民が無限の敬愛を捧げつつある東宮殿下には此の日富士山麓に於て、初めてスキーの御練習を遊ばされた──>  天皇制を研究する、名古屋大学大学院の河西秀哉准教授はこんな印象を受けた。 「記事を読み進めると、当時の東宮殿下(昭和天皇)は英国の上流階級のスポーツである乗馬やゴルフ、テニスもたしなむと書いており、新しい皇室像をアピールしようという思いを感じます」  英王室に対する手厚い報道が続くのも、この時代ならではの特徴だ。この年4月に英皇太子が来日すると、摂政宮(のちの昭和天皇)が騎乗で閲兵する写真が表紙を飾り、グラビアや本誌で何号にもわたり特集を組んだ。  英皇太子に週刊朝日を寄贈した際にもらった感謝状は、1ページ目に大きく掲載。 「それまで日本の皇室がお手本にしてきたドイツ皇室は、4年前の大正7(1918)年に皇帝の廃位をもって消滅。日本は、皇室の手本を英国王室にしたばかりのタイミングで、国をあげて英国王室を歓迎する当時の熱気が伝わる誌面です」(河西准教授)  大正天皇と貞明皇后、摂政宮や次男淳宮(秩父宮)、光宮(高松宮)、澄宮(三笠宮)をはじめとする天皇一家に対しては、かしこまった報道をする一方で、宮家の特集は、ぐっと国民に寄った誌面になっている。  同年6月、赤坂離宮(現在の迎賓館)で各宮家の懇親会が催された際には、<若宮殿下姫宮殿下>の特集記事が掲載された。 <お写真を撮らして頂きたいと願ひ出れば『ウン好し、写して行き給へ』と快くレンズの前に立って下さる世の中です、皇族と国民の接近は、誠に喜ばしい事ではありませんか>  記事は時代の変化を素直に喜び、見出しは子どもらしさを伝えている。 <北白川宮永久王殿下はクラスのチャンピオン そして御馬も御上達><軍艦の模型をお作り 山階宮家の若君方><朝香若宮も姫君も皆様御運動好き/室内遊戯より戸外を御喜び>  朝日新聞の宮内庁担当記者であった石井勤さんは、距離感が変化した背景には、明治43(1910)年に侯爵になった北白川宮輝久王を皮切りに、昭和初期まで続いた男性皇族らの降下があったと話す。 「お金のなかった明治政府にとって、人数が増えた宮家皇族のための予算は重い負担でした。明治期に、政府は宮家皇族を徐々に華族身分に降下させる方針を固めた。そのため、世の中は皇族から国民の側へくる人たち、というやわらかな距離感があったのでしょう」  大正13(1924)年には、摂政宮と久邇宮家の良子女王が結婚する。世間はお祝いムードに包まれた。週刊朝日も<御二方いろいろの御姿>としてグラビアページで特集。お二方の数種類のポーズ写真を切り抜きでレイアウト。  いまよりよほど、自由な誌面だ。  戦前、戦時中になると「週刊誌らしい」記事は消える。昭和10(1935)年に臨時増刊号として愛新覚羅溥儀を表紙にした<満州国皇帝陛下御来訪記念写真画報>を出し、「皇軍」「皇国」といった言葉は躍るが高松宮と喜久子妃による戦災地の視察などわずかな記事をのぞき、皇室報道自体ほぼ誌面に登場しない。昭和20(1945)年8月15日の終戦を迎えた最初の8月26日号には、昭和天皇による終戦の詔書の全文が1ページを使って掲載された。  終戦翌年の昭和21(1946)年でも「アメリカの輿論 天皇および天皇制」「皇太子様の英語の先生 ヴァイニング婦人来朝」など3記事程度。  昭和24(1949)年でも記事数は多くはないが、<天皇御一家のこのごろ(本社記者座談会)>(1月2・9日合併号)では、東京裁判と昭和天皇の留位、退位問題についてざっくばらんに朝日新聞の担当記者が語り、<皇太子の教育を注目>(昭和25年10月1日号)など皇位継承者である皇太子の教育問題を報じている。  昭和27(1952)年には、明仁親王(上皇さま)が18歳の成年を迎えるとともに立太子の礼が執り行われた。この時期になると本社記者による<そこが聞きたい この頃の皇太子さま>の座談会シリーズが定期的に掲載される。小金井の学習院中等科の寮生活時代に、学友が皇太子に対して<このごろわがままで仕方がないといって林の中に連れて行き、気合かけたことがあるそうだ。(笑)><新聞記者は嫌い>、英語についても<スピーキングはあまりおとくいではないらしい>など、内緒話がほほえましい。  明仁皇太子のお妃選びに正田美智子さん(上皇后さま)が登場すると新聞、テレビ、週刊誌を問わず報道は過熱した。昭和33(1958)年12月7日号では、宮内庁の婚約内定発表を前に、報道陣が正田家を取り囲む様子を、<池田山はてんやわんや 正田家のこの一カ月>として掲載した。当時の混乱ぶりがよくわかる。 <テレビのカメラが隣家の二階に備えつけられた。(略)正田家では、窓という窓には全部、たえず、カーテンをおろさねばならなくなった(略)ヘリコプターも上空を飛びまわった。(略)午前十時ごろ美智子さんとお母さんは玄関を出た。だが自動車が動き出すと十二、三台もの車が後を追う。赤信号でストップすると、とびおりて横からシャッターを切る。ドアをあけようとするカメラマンも出たため、二人は恐怖におびえてしまった>  翌34(1959)年4月10日にお二人のご成婚の儀が執り行われた。週刊朝日御成婚記念特別号の表紙を飾ったのは、日本を代表する洋画家である小磯良平氏による美智子さまの肖像画だ。婚約間もない1958年12月10日。小磯氏は、朝日新聞社の依頼で肖像画を描くために正田家を訪れていた。  美智子さんは、お妃教育で忙しい身だったが、50分だけスケッチの時間を空けてもらった。絵を描きながら小磯氏は、こんな感想を抱いた。 「美智子さんかお母さまかが『描いていただくなら、正面よりななめ横の方がいい』といわれたように記憶している。けれど、私は正面のほうがいいと思っている。安定したいい面立ちである。目がたっぷりした感じで、どこか東洋的なものを感じさせ……おじいさん(貞一郎氏)の古武士のような風格を、どこかに受け継いでいるように思う」  素描画は新聞に、着物を着た油彩画は週刊朝日の表紙を飾った。  元日本テレビプロデューサーの渡辺みどりさん(86)は、婚約会見とご成婚のなかでミッチーブームに沸いた当時の熱気を体感したひとり。 「皇族でもない華族でもない民間出身の皇太子妃の誕生。そしてお見合いによる結婚が当たり前であった時代に、テニスコートでの運命の出会いですから、日本中が衝撃を受けたのは当然です」  渡辺さんも、体当たりで取材に挑んだが、明仁皇太子の浜尾実侍従はよく話してくれた。宮内庁側とマスコミの間に、ある種の信頼関係が存在していた時代だった。浩宮(現天皇)さまと礼宮(秋篠宮)さま、紀宮さま(黒田清子さん)が生まれ、「ナルちゃん憲法」や皇室の慣習を超えて子どもと一緒に暮らす等身大のご一家の姿がメディアに報じられた。 「人びとは昭和の理想の家族を、ご一家に投影したのです」(渡辺さん)  昭和の幕がおり、時代は平成に移った。 「象徴天皇として初めて即位した明仁天皇は、政治が期待する天皇像と自ら追い求める像との間でギリギリの立ち位置を探り続けた」(前出の石井さん)  平成4(1992)年10月。中国との国交正常化20年の節目に、明仁天皇と美智子皇后は中国を訪問した。週刊朝日は、同行した石井さんのドキュメント記事<「天皇」初訪中、五泊六日の旅>を掲載した。 <十月二十三日 警視庁が警察官二万六千人を動員、テロ、ゲリラを厳重警戒する中、天皇、皇后ご夫妻は午前、東京・羽田空港を北京に向け出発した。首席随員は渡辺美智雄副総理・外相──>  中国政府が非武装の学生や一般市民を武力弾圧し、多数の死者を出した天安門事件によって中国は世界から非難を受け、孤立する。中国の外相を務めていた銭其シン元副首相が、回顧録で「西側の対中制裁を打破する目的があった」と明らかにしたように、中国を国際社会に復帰させる第一歩だった。当然、日本の国内世論も割れた。  さらに、平成6(1994)年には、経済摩擦などで両国間が「戦後最悪」と揺れる渦中の米国訪問、平成10(98)年の英国、平成12(2000)年のオランダ訪問は、戦争の傷痕と対面する旅となった。英国で旧日本軍の元捕虜団体は、両陛下の馬車に背を向けシュプレヒコールを浴びせた。  石井さんが振り返る。 「平成の前半の皇室は、政府の外交に巻き込まれた時期だった。国事に関するすべての行為に内閣の助言と承認を必要とする天皇として、政治の意思は受け止めざるを得ない。その一方で、たとえば天皇訪中には国内でも賛否がある。『日本国民の総意に基づく』地位にある者として、だれもが納得する訪中にしなければならない。そんな状況にあって、明仁天皇は国の象徴としての姿勢を完璧に保ち、やり遂げました。戦争と敗戦によって皇居は焼け、皇室解体の危機を目のあたりにした天皇は、皇太子時代から象徴とはどうあるべきか、と考え続けた。だからこそ、ぶれのない判断力とバランス感覚で、この修羅場を潜り抜けたのです」  天皇ご一家の顔ぶれは、礼宮さまと川嶋紀子さん、徳仁皇太子と小和田雅子さん、紀宮さまの結婚。眞子さまと佳子さま、愛子さまに悠仁さまが誕生と増えていく。週刊朝日が出した臨時増刊号や写真集は、飛ぶように売れた。そしていま、令和の皇室が始動している。(本誌・永井貴子) ※週刊朝日  2021年3月5日号
政治的な意味合い強い? 巨人、阪神の間で起きた“禁断トレード”の歴史
政治的な意味合い強い? 巨人、阪神の間で起きた“禁断トレード”の歴史 巨人時代の野村克則 (c)朝日新聞社  複数のポジションをこなす27歳の中堅内野手・山本泰寛が昨オフ、巨人から金銭トレードで阪神に移籍。昨季は12球団ワーストのシーズン85失策と“守乱”に泣いた阪神とあって、守備力の高い内野手の加入は、願ったり叶ったりだ。山本自身も「必要としてくれる球団に入ることができてうれしい。ジャイアンツを倒して優勝できるように頑張ります」と今季にかける意気込みを語っている。  このトレードは、昨季1軍出場ゼロに終わった山本に“脱・飼い殺し”の機会を与えるとともに、関西を地盤に活動する妻の毎日放送・辻沙穂里アナウンサーと同居できるよう、原辰徳監督が配慮した結果といわれ、双方の球団にとっても、山本にとっても、良いトレードになったという印象が強い。  そして、巨人、阪神間のトレードは、2004年1月のカツノリ(阪神→巨人)の金銭トレード以来、約17年ぶり、2リーグ制以降の70年間でも、今回の山本も含めてわずか5例(広澤克実やダレル・メイのように自由契約後の移籍は除く)しか成立していないという珍しさも話題になった。 “伝統の一戦”を売りにする長年のライバル同士とあって、やはり「放出した選手に移籍先で活躍されたら困る」ということがネックになるようだ。  ちなみに5例中、最初のトレードは79年。あの世間を騒がせた江川卓と小林繁の三角トレードだった。  前年11月21日、“空白の一日”を利用して浪人中の江川と電撃契約を交わした巨人だったが、この契約は認められず、翌日、巨人が出席をボイコットしたドラフト会議で、4球団競合の末、阪神が江川の交渉権を獲得した。  だが、巨人を熱望する江川が阪神を拒否し、二浪することをプロ野球界全体の損失と考えた金子鋭コミッショナーは「江川を阪神に入団させたあと、速やかに巨人にトレードするように」と異例の要望を行い、最終的に阪神・江川、巨人・小林の交換トレードが成立した。  皮肉にも両球団の最初のトレードは、球界の最高権力者の“強い要望”に従った結果だったわけだが、“人身御供”になった小林は同年、巨人戦で無傷の8連勝を記録するなど、男の意地を見せて自己最多の22勝を挙げ、最多勝と沢村賞に輝いた。  もともとお互いトレードに乗り気でなかったのに、こんな騒動があれば、ますます消極的になるのも無理はない。  そんな紆余曲折を経て、83年オフ、2例目となる太田幸司と191センチ右腕・鈴木弘規の交換トレードが成立した。  太田は近鉄、鈴木は阪急からの移籍組で、どちらも生え抜きではないことに加え、当時は登板機会も激減。太田は在籍わずか1年と“巨人色”も薄いことなどから、話がまとまったと思われる。  同年、阪神はエースの小林がシーズン後に電撃引退したため、穴埋めに山内新一(南海)、稲葉光雄(阪急)の両ベテランを獲得。それだけでは足りず、近鉄時代に二桁勝利を3度記録した太田も浮上した形だ。  三沢高時代に国民的アイドルになった太田は、プロ入りの際に阪神を意中の球団に挙げており、野球人生の最後に希望が叶ったことになる。 「もう最後だと思っている。やれることはすべてやるつもり」と背水の陣で臨んだ太田だったが、球威不足で多彩な変化球を生かすことができず、翌84年は1軍出場ゼロのままユニホームを脱いだ。鈴木も登板わずか6試合で85年を最後に引退している。  3例目は90年オフの石井雅博と鶴見信彦の交換トレードだ。どちらも生え抜きだが、補強戦略と言うよりも、個人的な事情優先の半ば救済的なトレードだった。  石井は箕島高、明大、巨人でいずれも日本一を経験したが、プロ入り後はけがに悩まされ、同年も1軍出場はわずか5試合。「チャンスがあれば、新天地でチャレンジしてみたい」とシーズン中からトレード志願していた。  一方、89年にドラフト2位で阪神入りした鶴見も2年間1軍出場がなく、2軍首脳陣と折り合いが悪かったことから、トレードを希望していた。  しかし、2人とも新天地で活躍することなく、翌年、揃って戦力外になった。  4例目は冒頭でも触れた04年のカツノリだ。このトレードは、同年のドラフトの目玉で巨人が獲得を狙っていた野間口貴彦(シダックス)の背後にカツノリの父・野村克也監督がいたことから、「野間口獲りの布石ではないか?」と囁かれた。  99年、父の阪神監督就任とともにヤクルトから移籍してきたカツノリは、後任の星野仙一監督の体制下で出番が激減し、前年は1軍出場ゼロ。「1軍のベンチに座っているのは耐えられても、30歳で2軍のベンチに座っているのは辛い」と移籍を希望していた。  一方、巨人も夏のアテネ五輪で正捕手の阿部慎之助が日本代表に選ばれると、1、2軍とも捕手が手薄になるという理由から、カツノリ獲りに動く。  当時は阪神も“野間口詣で”の真っ最中で、カツノリは“掌中の珠”とも言えたが、「阪神のエゴではなく、とにかくチャンスを与えてやりたい」(野崎勝義球団社長)とすんなり送り出している。  同年、巨人は野間口獲得に成功し、カツノリ(巨人では本名の野村克則)はたった1年で戦力外に。真相はどうあれ、“人質”の印象は免れなかった。  世間を騒がせたり、実効が上がらなかったり、これまであまり良い印象がなかった両球団のトレードだが、山本がそんな負のイメージを払拭できるかどうか、今季の働きぶりが注目される。(文・久保田龍雄) ●プロフィール 久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」(野球文明叢書)。
「これがアメリカなのか?」議事堂襲撃事件の実態と共和党の分裂 早くも浮上する次期大統領選候補とは
「これがアメリカなのか?」議事堂襲撃事件の実態と共和党の分裂 早くも浮上する次期大統領選候補とは 米連邦議会議事堂の襲撃事件をめぐるトランプ前大統領の弾劾裁判で、上院はトランプ氏を無罪とした/13日、ワシントン(gettyimages) 車内から支持者らに対応するトランプ前大統領(gettyimages)  米連邦議会議事堂の襲撃事件で、トランプ前大統領を「反乱扇動罪」に問うた弾劾裁判は、無罪評決となった。だが、共和党内の分裂は鮮明になり、今後の党の行方も見通せない。AERA2021年3月1日号の記事を紹介する。 *  *  *  米連邦議会議事堂への暴徒による攻撃を未公表の映像で見せる身も凍るようなビデオ、襲撃の恐怖を思い出し声を詰まらせる下院弾劾(弾劾)管理人(検察官に当たる)、「証拠は何もない」とまるでトランプ氏のように検察側を挑発する同氏側の弁護士──。  1日約9時間にわたる丁々発止のやりとりが5日間展開された上院のトランプ氏弾劾裁判は、米議会史上まれにみるドラマに満ちていた。  弾劾管理人側は初日の2月9日(米東部時間)、1月6日の襲撃事件がトランプ氏の言葉に誘導されたと証明する、時系列で追った約14分間のビデオを証拠として提出した。ビデオは「生々しい映像があります」と警告付きでたちまちSNSで拡散されて、多くの人びとを震え上がらせた。 「反逆者ペンス(前副大統領)を吊(つ)るし首に!」と設置された絞首刑の台。「ナンシ~、ナンシ~、どこにいるの~」とホラー映画さながらの甲高い声で、議事堂内でナンシー・ペロシ下院議長を探し回る男たちの姿。警官に催涙ガスを吹き付け、ガスマスクをもぎ取る無数の手。議会職員が隠れている部屋のドアを何度も叩く暴徒たち──。 ■警察官は泣き崩れた  そのビデオを議場で見ていたのは、1月6日当日、恐怖におびえながら同じ議場から避難した上院議員たちだ。さらにビデオは、ペンス前副大統領やペロシ下院議長だけでなく、万が一、一人でも議員が暴徒に見つかっていたら「死」が待っていたかもしれない、と思わせるものだった。 「これが、アメリカなのか?」  弾劾管理人のリーダーを務めたジェイミー・ラスキン下院議員は冒頭、裁判員の役割を果たす上院議員らにこう尋ねた。 「議事堂警察官の一人は、暴徒と対峙し、議事堂から全員を退去させた後、床に倒れ、15分間泣き崩れたという。これがアメリカか?」  弾劾管理人の9人は、トランプ氏が議事堂襲撃を扇動したという証拠として、以下の論点を次々に明らかにしていった。(1)トランプ氏が投開票日の5カ月前から「選挙結果が盗まれる」と繰り返し、支持者を信じ込ませた(2)1月6日のワシントン集合を「えらいことになる」と言って盛り上げた(3)支持者が議事堂に向かう直前の集会で「死に物ぐるいで戦え」といった──ことなどだ。  このため、投票日にさえ、一部の武装市民が「監視する」として投票所に押しかけた。彼らが、トランプ氏の発言を信じていたからだ。 ■共和党7人が有罪判断  また、議事堂で警察と戦うため、催涙ガスやスタンガン、銃、火炎瓶などを準備していた支持者がいた。前述のビデオでは「3万丁の銃を持ってくればよかった」と仲間に話している支持者の映像さえあった。彼らは、「えらいことになる」というトランプ氏のツイートから、メッセージをくみ、行動を起こす準備を怠らなかった。 「トランプ氏は、長期間にわたり、支持者を愛国者だと褒めて、たきつけてきた。集会を開いて暴力を肯定し、暴力に訴えるように人びとを仕向けたのです」(弾劾管理人、ステイシー・プラスケット下院議員)  その結果、支持者と警官の計5人が死亡。警官の140人が負傷し、2人が事件後、自死した。その1人は、金属棒でヘルメットとフェースシールドを壊され負傷。米紙ワシントン・ポストによると、別人のようになった彼を妻が励まそうとしたが、出勤途中に自らを銃で撃ったという。  2月13日、トランプ前大統領が有罪かどうかを問う採決は、賛成57票、反対43票。有罪とするのに必要な上院100議席のうち3分の2以上の賛成には達せず、「無罪」という評決となった。  しかし、変化は起きた。元大統領指名候補でもあったミット・ロムニー氏など共和党議員7人がトランプ氏は「有罪だ」という判断を下し、過半数を確保した。しかも、無罪を主張すべき共和党からの有罪票が7票も出たというのは、過去最多だった。 ■鮮明になった党内分裂  評決の直後にも、大逆転劇があった。共和党で最も権力がある重鎮ミッチ・マコネル上院院内総務が議場で声明を発表し、トランプ氏に熾烈(しれつ)な非難を浴びせかけたからだ。 「あの日の事件を引き起こした事実上、倫理上の責任をトランプ氏が負うことには、全く疑いの余地がない」 「(トランプ支持者は)選挙に負けたことに怒っていた、地球上で最も力のある男から狂気じみた嘘を吹き込まれていた」 「上院の無罪評決は、トランプ氏の任期中の行動に対する刑事・民事上の潜在的な責任を免れられるものではない」  弾劾裁判が終われば、議事堂襲撃事件に関して、トランプ氏が民事・刑事的に「容疑者」になり得るとして、トドメを刺した。彼と共和党主流派が、トランプ時代を乗り越えようとしている表れだ。また、マコネル氏は、彼と主流派の共和党上院議員が無罪票を投じたのは、弾劾裁判で有罪とできる対象が、「現職大統領」だという憲法解釈による理由だと明らかにした。つまり、彼らが「無罪」だと思って反対票を投じたのではなく、唯一の理由は「憲法上、裁けないから」というものだった。  一方で、2016年の大統領選予備選挙でトランプ氏に対抗したテッド・クルーズ上院議員などは、いまだに「選挙結果は盗まれた」と主張。来年の22年中間選挙で全議席の改選がある下院の共和党議員の多くも、トランプ氏の人気に当選を賭けている。  実際、トランプ氏は大統領任期中、支持率が50%を超えなかったものの、最後まで40%前後をキープした。それだけの支持率を持つ全国ブランドの共和党リーダーが現在、いないのが実情だ。  しかし、こうした共和党内の分裂を見て、24年米大統領選挙の候補者の名前が、早くも浮上してきた。  米紙ニューヨーク・タイムズの保守派コラムニスト、ブレット・スティーブンズ氏は、トランプ政権で国連大使だったニッキー・ヘイリー氏を同紙のオピニオン欄で支持した。 「ヘイリー氏が、共和党を統一できる唯一の候補者になるかもしれない」(スティーブンズ氏)とした。これは党内の分裂状況を見極めた上での発言とみられる。 ■女性対決の大統領選も  対する民主党は、バイデン大統領が最高齢で大統領に就任したため再出馬はせず、黒人で女性初の副大統領であるカマラ・ハリス氏が出馬すると見込まれている。  もし、ハリス氏、ヘイリー氏の2人が、民主・共和両党のそれぞれ党指名候補となれば、米史上初の女性対決の大統領選挙となる。ヘイリー氏の一挙手一投足には、すでに米メディアの注目が集まっている。2人をめぐる報道が過熱気味になるのは、時間の問題だ。  他方で、一部議員と無数のトランプ支持者にとってトランプの魔力はいまだに続いている。トランプ氏はマコネル氏について、「共和党はマコネル氏のような政治『指導者』が率いる限り、尊敬され、強くなることはない」と批判する声明を発表し、共和党上院トップの交代を要求した。  22年中間選挙と24年大統領選挙までこうした状態は続くが、それに米国民がどう答えを出すのかが問われている。(ジャーナリスト・津山恵子(ニューヨーク)) ※AERA 2021年3月1日号
渋沢栄一が信奉した「論語」からの助言 「姉妹が互いに比べてみじめな気持ちに」と心配の父親へ
渋沢栄一が信奉した「論語」からの助言 「姉妹が互いに比べてみじめな気持ちに」と心配の父親へ ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主役である実業家・渋沢栄一が信奉していたことで、いまふたたび「論語」が注目されている。論語は、2500年前の思想家・孔子の教えをまとめた書物で、生き方の指針となる言葉の宝庫だ。「仁(=思いやり)」を理想の道徳とし、企業経営だけでなく、迷える現代の子育てにも役立つ言葉がたくさんちりばめられている。現代の親の悩みに対する処方箋として、「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、孔子の格言を選んで答える本連載。今回は、「姉妹間で互いに比べて劣等感に悩む娘たち」を心配する父親へアドバイスを送る。 【相談者:11歳と10歳の娘を持つ40代の父親】 小学5年生と4年生の娘を持つ41歳の父親です。小さいころから仲のいい姉妹なのですが、「妹は成績が優秀だけど自分はダメ」「お姉ちゃんは習字がうまいけど自分は書けない」など、互いを比較しては自信をなくし、みじめな気持ちになっているようで心配です。親としてはそれぞれいいところを褒め、比較しているつもりはまったくありません。これから思春期を迎えるにあたり、父親として2人にどう接したらよいでしょうか。また、本人たちが、劣等感や嫉妬を乗り越える方法はありませんか。 【論語パパが選んだ言葉は?】 ・季康子、問う、仲由(ちゅうゆう)は政(まつりごと)に従(したが)わしむ可(べ)き与(か)。子曰わく、由(ゆう)や果。政に従うに於(お)いてか何か有らん。曰わく、賜(し)や政に従わしむ可き与。曰わく、賜(し)や達。政に従うに於いてか何か有らん。曰わく、求(きゅう)や政に従わしむ可き与。曰わく、求や芸。政に従うに於いてか何か有らん。(雍也第六) 【現代語訳】 ・季康子がたずねた。「子路は政治に用いるのにふさわしいでしょうか?」 孔子がおっしゃった。「子路は果断である。政治の任につくのに、何の難しいことがありましょうか」 季康子がたずねた。「子貢は政治に用いるのにふさわしいでしょうか?」 孔子がおっしゃった。「子貢はものの道理に達している。政治の任につくのに、何の難しいことがありましょうか」 季康子がたずねた。「冉求(ぜんきゅう)は政治に用いるのにふさわしいでしょうか?」 孔子がおっしゃった。「冉求は技芸に優れている。政治の任につくのに、何の難しいことがありましょうか」 【解説】  お答えします。人は、そもそも、同じ範疇にあるものを比べる性質を持っています。子どもが2人あれば「姉(兄)と妹(弟)」を比べるでしょう。たとえば「都会に住むか、田舎に住むか」「趣味を優先するか、仕事に重きを置くか」など、自分の生活にしても、あらゆることを比較しながら生きています。「比較」は、人が持っている能力のひとつなのです。  ただ、ふたつ以上のものを比較して「異なる部分」を見つけるか、それとも「類似する部分」を求めようとするかによって、人の「意識」は大きく変わります。  古来、東アジアの思想には「比較して異なる部分に注意を向ける」という意識は強くありませんでした。「類化」と呼ばれますが、「類」でものを考えるという「似たところ探し」をすることが基本的な思考としてあったのです。これに対して、ヨーロッパで「異化」と呼ばれる、異なる部分を細分化して区別する思考が近代科学を生み出す原動力になったのでした。  明治時代以降、近代科学的方法によって物事を考える思考を学んできた我々は、ともすれば、「異化」という方法が「比較」の原則と思いがちですが、「類化」という視点もあるということを忘れないでほしいのです。  さて、これらのことを念頭に置いて、孔子の弟子である仲由(子路)、賜(子貢)、求(冉求)の3人に対する孔子の評価を見てみたいと思います。  魯の国の若い大臣であった季康子が、弟子たちの為政者としての適性について孔子に問う場面です。 「仲由は政に従わしむ可き与(=仲由は政治を担当するにふさわしい人物でしょうか?)」。これに対して孔子は言います、「由や果。政に従うに於いてか何か有らん」。訳すと、「子路は果断である。政治の任につくのに、何の難しいことがありましょうか」という意味です。  同じように、「賜や達」、つまり、子貢は知恵に優れている。「求や芸」、冉求は技芸に優れている。いずれも「政治をするぐらいのことは何でもない」と答えるのです。  人には、それぞれ得意・不得意があります。「国」を支えているのは、それぞれの異なる資質を持った人たちです。人と人を比較して異なるところを見るよりも、着目すべきなのは「皆が共通して持っている意識」でしょう。つまり、子路にせよ、子貢にせよ、冉求にせよ、皆、孔子にとってみればかわいい自分の弟子であり、自分の弟子であるならば「仁」という基本を深く理解していること、その部分は決してブレないということを、孔子は言っているのです。 「仁」は、論語で最も大切な考えです。漢字の「仁」は「人」と「二」で作られていますが、これは親子の「愛情」を表します。孔子が生きていた紀元前500年ごろ、人は平均30歳で亡くなっていました。結婚して子どもを産み、親になるのが20歳だとしたら、子どもが10歳ぐらいで両親は亡くなってしまいます。医学、薬学が発達していなかった当時、親は子が病気になって死なないようにと最大の「愛情」で育てたことでしょう。こうして育って自分の親が晩年を迎える時、子どもはきっと親に対して「孝」という愛情を抱いたことでしょう。「孝」は、大事に育ててくれた親に対する感謝の気持ちです。  孔子は、親子の間にあるこうした「愛情」を「仁」と名付け、そして他人に対しても「仁」の気持ちで接しなさいと教えたのでした。  ご相談では、「妹は成績が優秀だけど自分はダメ、お姉ちゃんは習字がうまいけど自分は書けない……など、互いに比較しては自信をなくし、みじめな気持ちになっている」とあります。  ですが、「仲のいい姉妹」と、互いが互いを大事に思う気持ちを共有していらっしゃるのですよね。  素晴らしい姉妹ではありませんか!  仲間同士、互いに励まし合って向上することをいう「切磋琢磨」は、もともと、孔子が編纂したとされる『詩経』で用いられた表現です。「切磋琢磨」は、決して、他人を蹴落として、自分だけが向上していくことをいうものではありません。「仲間を尊重し大事に思う気持ち」があって初めて生まれる向上をいうものなのです。  自分とまったく同じように考える人など決していません。でも、自分と違う考え方だからといって、人との「違い」「差異」を知って自信をなくしたり、優越感を持ったりするのは「仁」の精神に背く行為でしょう。  まず、娘さんお二人が、互いに共通して持っている「同類」の部分を見つけ合い、本当の意味での「切磋琢磨」をしていくのが大切な「比較」なのではないでしょうか。  お父さんは、かけがえのない2人の女の子がいつまでも仲良く「切磋琢磨」していけるように「仁」の心で見守ってあげてください。 【まとめ】 「比較」には「類化」という視点もある。姉妹が互いに「同類」の部分を見つけ、切磋琢磨していけるように「仁」の心で見守ろう 山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ  0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。
瀬戸内寂聴が負け惜しみ? 「百歳で理路整然としているババアなんて、気味が悪い」
瀬戸内寂聴が負け惜しみ? 「百歳で理路整然としているババアなんて、気味が悪い」 瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。著書多数。2006年文化勲章。17年度朝日賞。近著に『寂聴 残された日々』(朝日新聞出版)。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「僕の名誉のため、お話訂正します(笑)」  セトウチさん  先週の本誌の表紙のセトウチさんのお元気な近影を拝見して、この往復書簡の予兆を予感して連載の延命を確信しました。円空と木喰の共作かと思わせるほどの見事な芸術作品がセトウチさんの表情に刻み込まれていました。「死ぬ」と言ってみたり、「百まで生きる」と言ってみたり、全く人騒がせの好きなセトウチさんの信者は「どっちや」と迷妄していますよ。  セトウチさんは時々、フィクションとノンフィクションが混じり合う上に思い込みの激しいところがあって、一度そうだと思うと、その仮定が実体化するのです。その実例が先週の本欄にもろ露呈しました。「ヨコオさんは、すっかり忘れているだろうけれど」とわざわざ前置きして二人の出会いが語られています。ところが、これもセトウチさんの思い込みです。事実ではありません。二人が初めて逢ったのは、セトウチさんは「朝日新聞社の編集室の片隅で偶然出逢った時」だとおっしゃる。初めて逢ったのは新聞広告のための対談で、偶然というのはあり得ません。広告代理店の仕事のために新聞社の編集部が場所を提供することなどあり得ないことです。事実を話しましょう。  僕がニューヨークから帰ってきた翌年の1968年にサントリーの代理店のサン・アドに勤務していた高橋睦郎さんが、平河町の僕の仕事場から僕をピックアップして四谷界隈(かいわい)の小料理屋に案内してくれて、そこでサントリーの新聞の全面広告のためにセトウチさんと対談をしたのが初対面でした。思い出して下さい。その時の司会と対談の編集は確か矢口さんとおっしゃる、「婦人画報」だったかの名物編集者でした。  僕が着いた時、セトウチさんはすでに先着で大変失礼したのを覚えています。僕は確かに五色のストライプの幅広のベルトをしていましたが、セトウチさんがおっしゃるような「ヒモを腰に巻き付けていた」わけではないです。れっきとした男物のベルトでニューヨークのイーストビレッジのサイケデリックショップで買ったものです。  さて、対談はセトウチさんの独壇場で、僕は「ハイ」とか「ヘェー」とうなずく程度でしたが、名物編集者は対談の後半で僕が一気に巻き返して豆ごはんの話で見事に大団円にして二人のバランスを取ってくれました。「すっかり忘れている」のはセトウチさんじゃないですか。  ついでに、もうひとつ僕の名誉のために(笑)訂正しておきます。城崎温泉で朝食のあとでぜんざいを、僕は三杯食べた、とこの前の往復書簡で書いておられます。オーダーをしたのは僕ですが、旅館のおかみさんがセトウチさんと妻と僕と編集者の四人前のぜんざいを作ってくれたのですが、ひとりで三人前も食べていません。その後、街でまたぜんざいを食べたとも書いておられますが、食べたのはゴマ入りソフトクリームです。どんどん話が捏造されます。  僕は学問や知識にはうといですが、画家は肉体的な作業なので、体感したものは全部覚えています。この点、セトウチさんより、肉体感覚と視覚体験の記憶においては負けていません。その上、日記に全て記述しています。どうですか、怪僧寂面相殿、明智小忠郎にはまいったでしょう。 ■瀬戸内寂聴「呆けたバアさんの方が可愛らしいでしょ」  ヨコオさん  いつの間にか、明智小忠郎に改名されたらしいヨコオさん、やっぱり「ヨコオ」さんの方が、実物の天才に似合いますよ。  さて、今回のヨコオさんの文面によると、いかに私の毎回のこの手紙が、いい加減で、私の記憶は、すべてモーローとした夢みたいなもので、実在の記憶とは縁遠いということらしいです。  たしかに、ヨコオさんのこの文章を読むと、すべてのことがありありと思い出され、それは私の記憶とはすっかり縁遠く、ヨコオさんのいわれる通りなので、笑ってしまいます。 「笑い事ではないぞ!」  とヨコオさんの怒っている顔が浮かびますが、ちっとも怖くありません。  近頃、私はよくヨコオさんを怒らせている気がしますが、それが事実だったら許してください。  寂庵では、四人の世話係が、日と共に私からの迷惑に嘆息しています。  最初の頃は、 「ええ? それちがいますよ、10分前にこういったじゃないですか! いくらボケたってこんな正反対のことが、10分後にしゃあしゃあと言えますね、やっぱり、病院に行きましょう」  と責めたのですが、私はガンとして病院へは行きません。  自分が老い呆(ぼ)けたことくらい、自分でわかってるよ!と、肚(はら)をくくっています。  まだ、一日二度の食事は食べ忘れたことはないし、コーヒーと、お茶を間違えたこともありません。  原稿の締切(しめきり)も、ちゃんと紙に書いて、机の真中に置いてあります。A社に出す原稿を、B社に送ったりしたことはありません。  まあまなほ姉妹がついていて、わいわい叱りながら、監視しているので、仕事上の大きなミスは、まだしない様子です。  寂庵では彼女たちの最近の口癖は、 「だって、百だものね!」  ということです。私がヘンなことしたり、言ったりすると、たちまち、目と目でうなずきあい、その言葉を繰り返しています。  ある日から、私自身が、それを自分の口で言ってみたら、とてもすんなり彼女たちがうなずいたので、これ幸いと、何か失敗をしたなと思った時は、いち早く、自分で、 「だって、百だものね!」  と叫ぶようにどなっています。  一九二二年生まれだから、たしかに今年は数え百歳ということになります。  天才は早死にするものと、若い時から早世に憧れていたのに、病気をしても、怪我をしても、必ず治って生き返ってしまうのです。  ヨコオさんも、よく病気をしてハラハラするけれど、必ず、治って、また絵を描いています。天才にも、短命と長命の二種類があるのかしら。  そう、そう、お手紙で、ヨコオさんは、私の愚かさを、さんざんあげつらって、嗤(わら)っていらっしゃいますが、百歳にもなって、頭がしっかりして理路整然としているババアなんて、気味が悪いだけじゃないですか?  呆けて、阿呆なことを言ったり、したりするバアさんの方が、可愛らしいとおもいましょう。では、おやすみ。 ※週刊朝日  2021年3月5日号
原点は化粧品の実演販売 令和に誕生した爆笑王・落語家、桂宮治<現代の肖像>
原点は化粧品の実演販売 令和に誕生した爆笑王・落語家、桂宮治<現代の肖像> 時に高座の座布団からはみ出すほど全身で爆笑を誘う落語が真骨頂だ。国立演芸場で(撮影/横関一浩) 真打披露記者会見。「楽屋でも高座でもいつも変わらずに楽しそうにしている師匠のようになりたい」が夢だが真骨頂は全力で楽しませるパワフルな高座。「手を抜かずに努力していきたい」(撮影/横関一浩)  落語家、桂宮治。今年2月、落語界に新たな真打が誕生した。29年ぶり、5人抜きの抜擢昇進した桂宮治だ。本来であれば、華々しく披露興行も行われるが、コロナで客席は半数に抑えられた。それでも切符を求めて長蛇の列ができた。爆笑をさらう宮治の落語は、人生の辛苦を少し忘れさせてくれる。泣き虫で繊細な宮治だからこそ、多くのファンが集まる。 *  *  * 隣席の老人は眼鏡をはずして何度もハンカチで涙を拭う。桂宮治(かつらみやじ)(44)の落語を聴いて泣いている。悲しいのではない。あまりに馬鹿げていて腹がよじれ笑い過ぎているのだ。「お菊の皿」という「番町皿屋敷」に材を取った古典落語は、幽霊がちゃっかり見世物興行に出るという馬鹿ばかしい怪談ものの滑稽噺である。主人公の幽霊お菊は若き美人ゆえに見世物商売となるのだが、宮治が登場させたお菊はコンプライアンス上ここでは文章化できないほど真逆の幽霊。この掟破りの設定がとんでもない爆笑を生みだしていた。速射砲のようなテンポとキレ、意表を突くギャグ、古典作品を改作する能力に長けた「宮治落語」と呼ばれる宮治の落語会は、爆笑でいつも揺れるようだった。  このコロナ禍に令和の爆笑王が登場した。  緊急事態宣言下の2月7日、東京・新宿の京王プラザホテルのいちばん大きい宴会場に550人の関係者やファンなどの招待客が集まり、前代未聞の真打昇進披露パーティーが開催された。演芸界の歴史に残るであろう何もかもが異例ずくめの真打披露だ。800人の招待客から続々と届くキャンセルの葉書。いっさいの飲食なしだから引き出物に入れる豪華弁当をどう誂えるか。いっそのことやはり中止にするべきか。宮治がどれほど悩んでいたか。それでも550人もの客が祝いに駆けつけたいといっている。 「非常事態の中でパーティーをやってお客様がどう思われるかずっと悩んできました。でもなんとしてでも開きたかった。考えた結果がこれです」   宮治が涙ぐんで挨拶した。  壇上でエア乾杯の音頭をとった六代目三遊亭円楽の言葉が響いた。「今日の披露宴をやらないという選択肢があったはず。でも制限の中でどうやったらできるのかを考え続けた。こういうご時世にこういう人が出てきてくれて嬉しい」  落語芸術協会(芸協)所属の宮治は、会長の春風亭昇太以来29年ぶりの5人抜きの抜擢昇進だ。落語家には前座、二ツ目、真打という階級制度があり、最終階級の真打を目指して精進する。この真打になるのが「遅すぎる」と待たれていたのが宮治である。その人気と実力は前座時代から注目され、若手二ツ目たちでその実力を競うNHK新人演芸大賞落語部門大賞を、8カ月前まで前座だったという異例の早さで受賞し話題をさらった。そのほかにも多くの賞に輝く実力を持ちながら、芸協の「抜擢昇進は基本的にしない」慣例から、入門順序列の中にいた。昨年、人気講談師の神田伯山が9人抜き抜擢昇進したように、爆笑系スター落語家がやっと抜擢昇進されたのだ。  新真打披露目では、業界関係者や客に手拭いや扇子と一緒に「口上書き」というものを配ることになっている。所属協会会長や師匠からの挨拶とともに、歴々からの祝いの寄稿文を集めたものだ。そこに当代一の人気と実力を誇る春風亭一之輔が寄せている。「僕が知る限りはこういうのは見たことない」と演芸評論家の長井好弘(65)が笑うように、口上書きに他協会である落語協会の若手真打が祝いを寄せるというのは異例中の異例らしい。宮治が敬愛し公私ともに親しい一之輔が口上書きで述べている。「(中略)宮治はバケモノのような二つ目になってしまった。相変らず、彼の顔はおもしろく、それ以上に噺がおもしろく、そして彼のあとはとてもやりにくい。だから私も燃えるのだ。(略)宮治は私のライバルです」  披露宴の4日後、4カ月ほど続く披露興行の最初の日、大初日を新宿・末広亭で迎えた。緊急事態宣言下なので客席は半数に抑えられている。それでも入場整理券を求める客の列は徹夜組もいて末広亭を一周した。朝には150人ほどの列が寒さの中に並び、宮治が笑わせながら一人ひとりに使い捨てカイロを配っていた。こんな新真打もまた異例である。アクリル板が立てかけられた高座、掛け声の禁止、間隔をあけた立ち見席には小さな子どもたちまでいる。神田伯山の司会による口上の席には、この日のゲスト笑福亭鶴瓶も並び、めちゃくちゃに賑やかな披露目初日に、客はしばし災厄のただ中にいることを忘れた。  マシンガンのようなパワフルで速力の「宮治落語」の誕生は、宮治の社会人経験と無縁ではない。  東京・品川の生家は、肉屋、ステーキハウス、テナント業などを営み両親ともに多忙を極め、上に年の離れた姉が3人いたが、夕食はいつも一人。小学校の高学年になるまで祖母の部屋で眠った。中学生時代、祖母に連れられて観た大衆演劇をきっかけに芝居に魅せられる。高校で廃部になっていた演劇部を再開させようとしたが失敗。アルバイトに精を出しながら、芝居を観て歩いた。高校卒業後は役者の道を目指そうと、通い詰めていた加藤健一事務所に入所する予定がアクシデントで入所し損ねた。別の養成所に入り3年間、アルバイトと舞台役者の生活が始まった。とはいえ、この時点では落語との接点は皆無だ。  お決まりのような舞台役者のアルバイト生活。芝居をやるには金がかかる。1カ月に及ぶ稽古の間の生活費を工面しなくてはならない。そのためにレストランのホールやシロアリ駆除会社の営業マンなど必死で働いた。芝居の先輩から「役者やお笑い芸人もやっている仕事があるけどやってみないか」と紹介されたのが、ワゴンの化粧品販売の仕事だった。スーパーなどの通路にワゴンを置き話術を駆使して売る、いわば化粧品の実演販売だ。通りすぎる人の足を止めさせる。買わせられるという不安を拭いさり、無料配布の化粧品だけはもらいたいがあとは逃げだしたいという客の心理をつかみ、その場から一歩も逃さないため、息をつかせないほど畳みかける話術を天性で会得していった。この販売の様子をそのまま再現して織り込んだほろりと泣かせる新作落語「プレゼント」は、宮治落語の原点だ。かつてこの仕事を共にしていた現在テレビなどで活躍中のナレーター山崎岳彦(46)は、売り上げのトップを独走する宮治の販売をこっそりのぞいたことがあった。 「一生懸命に説明しながら額から汗が流れてくると、ほら豚の脂が流れてきたっていってお客さんをドッカンドッカン笑わせている。今の落語と重なります。これは僕には出来ないなとあきらめたものです」  芝居を続けるためのアルバイトだったはずなのに気が付くと有名化粧品メーカーから指名が入り、全国を飛び歩いた。売り上げは全国一。収入は20代の平均年収の倍を遥かに超えていた。 「人を不幸にしているんじゃないかと思いだして。要らないものを要ると騙して買わせているんだから一生の仕事には出来ないと悩みだしたんです」 「もう好きなことをしたら。私がまた働くから」と背中を押してくれたのが、2歳年上の妻の明日香(46)だ。ふたりの結婚披露宴で、列席していた宮治が所属していた会社社長を目の前に、突然退職を宣言する。宮治は30歳になっていた。  これから一生続けられる好きなこととはなんなのか。ノートパソコンでユーチューブを開いた。生まれて初めて観る落語というものがあった。ここで、関西の爆笑王と呼ばれた二代目桂枝雀(しじゃく)の「上燗屋(じょうかんや)」に出合う。タダの肴ばかり選りすぐる酔客の噺だ。枝雀のオーバーアクションと言葉遣いがめちゃくちゃ可笑しい噺である。 「10回は繰り返し観て大笑いした。これだ、落語だって確信したんです」。お笑い芸人になるのには反対した妻が賛成してくれた。落語家になるには、どうやら落語家の師匠に入門しなくてはいけないらしい。ユーチューブを観まくり、都内のあらゆる寄席や落語会に通った。どの師匠に入門したらいいのか皆目わからない。落語をまったく知らないからこそ自分の好きな落語を話す落語家を探すのではなく、父親のように一生慕っていけるような落語家を見つけようと漠然と決めていた。国立演芸場の寄席に出向いたとき、高座の袖からにこやかにゆらりと出てきた三代目桂伸治(しんじ)を観た時全身に稲妻が走った。 「頭が真っ白になって電気が走ったようなことは人生で初めてでした」。伸治の落語を聴く前にこの人を師匠としようと決めたのだ。 「博打みたいだって? 違いますよ。自分の人生を預ける人はこの人しかいないと一瞬で決めるということは正解でしかないんだ。親以上と思えるような人を探すのが師匠選びでした。変な話、下の世話までできると思える人が師匠なんです。この話してるだけで、僕涙が出そうだ」(文中敬称略) (文・守田梢路) ※記事の続きはAERA 2021年3月1日号でご覧いただけます。
将来の子どもたちに寺と本屋が居場所になるように根を張りたい 僧侶と子ども本専門店の夫婦が描く未来
将来の子どもたちに寺と本屋が居場所になるように根を張りたい 僧侶と子ども本専門店の夫婦が描く未来 【夫】扉野良人 [49]僧侶:1971年、京都府生まれ。多摩美術大学卒業。文筆家、詩人としても活動し、アマチュア出版「りいぶる・とふん」を主宰。書物雑誌「sumus」同人、美術同人誌「四月と十月」に属す。2019年12月に徳正寺18代目住職を継職。著書に『ボマルツォのどんぐり』など。本名は井上迅/【妻】鈴木潤 [48]子どもの本専門店「メリーゴーランド京都(https://www.mgr-kyoto2007.com/)」店長:1972年、三重県生まれ。四日市のメリーゴーランドで主に企画を担当し、2007年から京都店の店長。雑誌、ラジオ、テレビなどでの絵本の紹介、執筆や講演など多方面で活躍。著書に『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』『物語を売る小さな本屋の物語』。少林寺拳法弐段(掛祥葉子)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2021年3月1日号では、僧侶の扉野良人さん、妻で子どもの本専門店・店長の鈴木 潤さん夫婦について取り上げました。 *  *  *  2009年、夫38歳、妻37歳で結婚。長男(11)、次男(7)とお寺に暮らし、夫の両親と住む。 【出会いは?】妻が働く本屋と縁の深い故・今江祥智氏(児童文学作家)に、妻が「面白いお寺に連れていってあげましょ」と言われ、訪ねたのが夫の実家の徳正寺だった。 【結婚までの道のりは?】子どもの詩の投稿誌「きりん」(尾崎書房・日本童詩研究会)の作品を夫が本にまとめようとしていると知り、妻が興味を抱く。夫が妻の家でご飯を食べるようになり、一緒に住む。長男が生まれるのを機に結婚。 【家事や家計の分担は?】食事は基本的に妻が作り、時々夫が担う。妻の出張時、夫が息子2人と、山盛りの唐揚げを台所で立ち食いしたりするスタイルの「男子食堂」を開く。財布は大まかに一緒。 夫:扉野良人[49] 僧侶 とびらの・らびと◆1971年、京都府生まれ。多摩美術大学卒業。文筆家、詩人としても活動し、アマチュア出版「りいぶる・とふん」を主宰。書物雑誌「sumus」同人、美術同人誌「四月と十月」に属す。2019年12月に徳正寺18代目住職を継職。著書に『ボマルツォのどんぐり』など。本名は井上迅  潤と一緒に暮らしていると、よく近所の人や友達が食べ物を持ってきてくれるんです。食を引き寄せる力が潤にはあると思う。それは生きる上で大事な能力。僕たちの分け合い支え合う関係が家の中にも外にもある。動物的ですね。僕も出会った当初は、猫が迷い込むように潤の家にいた(笑)。ここにいてもいいよ、いいんだと互いに認め合える関係が家族になっていくんじゃないかな。  言葉が印刷されて、記憶を残していけるのが本。経典も書物で、仏の教えは最初に口伝、やがて書かれた経典で広く伝わり、今に至る。伝えるものを扱う仕事という意味で書店と寺は繋がります。徳正寺は、京都の今の場所に建てられて418年。人はわずか100年で生き死にを繰り返し、寺の器だけがあり続ける。その器を残すのが根を張ることじゃないかと。メリーゴーランド京都も、この先たとえ潤がいなくなってもお店が続いていくように。寺と本屋、子どもたちの将来に向けて居場所を残していきたいです。 妻:鈴木潤[48] 子どもの本専門店「メリーゴーランド京都」店長 すずき・じゅん◆1972年、三重県生まれ。四日市のメリーゴーランドで主に企画を担当し、2007年から京都店の店長。雑誌、ラジオ、テレビなどでの絵本の紹介、執筆や講演など多方面で活躍。著書に『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』『物語を売る小さな本屋の物語』。少林寺拳法弐段  私は「ご飯食べにおいで」とすぐに言うんです。食で人と結びつくのは多いかも。店で展示をお願いする作家さんも家に招きます。家族にも紹介できて、私がどんな思いで店をやっているかが伝わる気がします。何より楽しい。  迅(じん)くんとは最初から一緒にいるのが面白かったですね。迅くんが本にまとめようとしている子どもの詩。千篇選んでデータに打ち込んだと聞いて、まず仰天。大人の都合のいいイメージで塗られていない生の子どもの言葉に、私も衝撃を受けました。  子どもたちはこの先、学び方など自分で選べる選択肢が残されているのでしょうか。10年先でさえもわからない世の中で、大人として責任取れるもんは取っとこかと私は考えていて、本屋としては紙の本を読む選択肢を残せるように。それは相当な覚悟を持ってしないといけない。  私たち夫婦は違うけれど同じ方向を向いている。同じだけれど時々違う方向も向く。仕事も暮らしも地続きで、見えない根を共に育てています。 (構成・桝郷春美) ※AERA 2021年3月1日号
戦後の急成長は「マーケティング」のおかげ 週刊朝日の黄金期をつくった男
戦後の急成長は「マーケティング」のおかげ 週刊朝日の黄金期をつくった男 扇谷正造さん(提供) 同僚に宛てた遺言状(提供)  2月に99周年を迎える本誌「週刊朝日」には、発行部数150万部という黄金時代があった。扇谷正造が編集長を務めた1951~58年だ。敗戦後にわずか10万部だった雑誌を押し上げた原動力は何だったのか。息子・正紀氏(80)がカリスマの実像を語った。 *  *  *  ここに一通の古びた封筒がある。1944年6月、扇谷正造が通信兵として中国の前線に出る前、朝鮮半島の羅南で書いたものだ。宛先は宮城県の実家に疎開している妻になっている。中には3枚の便せんが入っていた。  手紙の冒頭には鉛筆書きで「遺言状」とある。<我らはペンを銃に持ち代えるに非ず、軍服を着たるペンなり。>  この部分だけ何度も書き直した跡があった。 「ここには父の、自分は絶対に軍人ではない、ペンで生きる男なんだという気持ちが表れている。こんなことを書いたら、上官から殴られるのは当然ですよ。でも自分の意思は残したい。ここを見るといつも涙します」  いったい扇谷とはどういった人物だったのか。  13年に宮城県で生まれ、旧制二高を経て、東京帝国大学文学部国史学科に進む。「帝大新聞」(現・東大新聞)に所属した。後に「暮しの手帖」名編集長で、NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモチーフになった花森安治も所属し、このころから2人は盟友だった。  35年に大学を卒業し、朝日新聞社に入社。支局を経て、社会部に配属され、二・二六事件(高橋是清蔵相など重臣が青年将校に殺害された事件)も取材したという。  38年には戦争特派員として中国、41年に台湾、フィリピンなどで従軍した。扇谷は20代の将来を嘱望された記者。主に将校や下士官を取材し、日本軍の“華々しい戦果”を記事にして日本に送っていた。多くの作家が戦地に送られ戦意高揚の役割を担っていたが、扇谷も例外ではなかった。  その後、戦争も末期を迎えた44年に宮城県の実家に赤紙が届く。既に家庭もあり子供が3人いたが、31歳で召集された。冒頭の遺言状は出兵先の朝鮮羅南で中隊全員が書かされたものだ。  所属した陸軍では、2等兵(最下層の階級)として壮絶な体験をしたと正紀氏は言う。 「父は30歳代にして全部入れ歯でした。陸軍で激しいリンチに遭い、歯を失ったんです。配属された中隊では大学出は父一人。『大学出といってもこんなもんだ』という見せしめだったのでしょう。軍隊がいかに不条理な組織であるか身に染みた経験だったと思います。これが反戦、反権力の姿勢につながった。また、人々のたくましさを改めて知ったと思います」  中国・漢口付近で終戦を迎える。引き揚げ船に乗るまで、バーで皿洗いのアルバイトなどをし、46年春に復員した。  扇谷が初めて週刊朝日に来たのは、47年だ。整理部次長から週刊朝日副編集長になった。  この時代の週刊朝日は、全22ページ。表紙は2色で、定価は5円。カラーページもあったが、かなりの薄さだ。紙は割り当てのものとヤミ紙を使い、10万部を発行した。  当初の目標は35万部にすること。これは太平洋戦争のはじめに発行していた部数だ。当時、一般週刊誌は新聞社系の本誌とサンデー毎日(大阪毎日新聞社発行・当時)の2誌だけしかなかった。  扇谷が重視したのは、トップニュース、つまり特ダネだった。週刊朝日を一躍ニュース雑誌として世に知らしめたのが、太宰治とともに入水自殺した愛人・山崎富栄の日記のスクープだ。この日記を入手したのは記者の永井萠二、担当副編集長として指示をしたのが扇谷だった。各新聞・雑誌による争奪戦の中でのスクープだった。  この記事が掲載された48年7月4日号は、巻頭から巻末まで全て太宰関連の記事で埋め尽くされている。発売後わずか4時間で売り切れた。  しかし、このスクープについては、社内外から「太宰の日記ならわかるが、愛人のを載せるなんて」「週刊朝日は朝日の品位を落とした」などの批判の声が上がった。  扇谷はこうした批判に対して、当時の出版局内報で次のような反論を掲載している。 <『週刊朝日』は何よりもニュース雑誌(略)。あるがままの素材を投げだし、読者が自ら結論を出せばよい。/我々は勿体ぶって読者に神々の声をささぐべき立場にはいない。そういう立場はすでに、戦争中の新聞の在り方とともに反省されるべきだ>(永井萠二著『焼け跡は遠くなったか』)  後年、扇谷はこのころから週刊朝日は「“買わないと損する雑誌”となった」と振り返っている。ちなみに、特ダネを取ってきてトップの記事を書く記者のことを「トップ屋」というが、この言葉を作ったのが扇谷という逸話もある。 「本人には何かモノサシのようなものがある様子でした。ひょっとしたら踏み外しているかもしれないようなネタでも、ぎりぎりのところを渡っていく。それまでの常識ではやらないことを切り開いていった人でした」  49年に週刊朝日を離れたが、50年に復帰。51年に編集長に就任した。その後、順調に部数を増やし、58年の新年号は150万部以上を刷った。  どうやってここまで部数を伸ばしたのか。  扇谷はこの時代では珍しく、マーケティングを重視した編集者でもあった。有名なのは「シュガーコート編集法」だ。シュガーコートとは、政治的な記事など難しい社会の問題を最近の流行などを交えながら、わかりやすく伝える手法のことだ。アメリカの月刊誌「リーダーズ・ダイジェスト」を参考にしていたと正紀氏は振り返る。 「自宅は国立(東京)にありましたが、会社へは中央線に乗り、東京駅に向かう。週刊朝日の発売日は最後尾から1両ずつ車両を移動して、週刊朝日とライバルのサンデー毎日を読んでいる人はそれぞれ何人か調査するんです。こうして読者の反応を掴んでいたようです」  ターゲットも明確に設定した。「戦前の義務教育卒の学力+10年の人生経験」を持った主婦を読者層として捉えたという。当時は、勝手口で新聞の料金を払ってもらうことが多く、このときに主婦に週刊朝日も買ってもらうことを狙ったのだ。扇谷の著書によると、新聞の集金は毎月25日前後、週刊朝日では第3週号にあたる。主婦が「パチン、パッ」と財布を開き、買ってもらえるトップ記事を用意する方針を打ち出している。  表紙を重視したのも扇谷が来たときからだ。戦前にはなかった「個性的な美人画」を表紙にすることに取り組み、手ごたえを掴んだ。48年ごろからは人物画以外にも風景画、静物画、抽象画にも挑戦している。好評を集め、その後、表紙コンクールを開催。100万を超える票が集まる企画になっていった。  名物連載も扇谷の時代に続々と始まっている。  その一つが吉川英治の小説「新・平家物語」(1950~57年)。映画化されたり、NHK大河ドラマにもなるなど絶大な人気を誇った作品だ。担当は扇谷で、吉野村(現・東京都青梅市)まで片道2時間半から3時間もかけて原稿を受け取りに行ったり、ゲラ刷り(原稿を活字にしたもの)を持っていったりしていたという。扇谷はゲラを急いで持っていった理由を著書の中でこう述べている。 「ゲラ刷りを急ぐのは、吉川さんは前のゲラ刷りを見ないと、次の原稿にとりかかれないのである」(『えんぴつ戦線異状なし』)  もう一つ人気を集めたのが、「名弁士で話芸にたけた」と評された漫談家・徳川夢声の「問答有用」(1951~58年)だ。第1回のテーマは、尾張徳川家当主・徳川義親との「真贋徳川対決」だった。その後、吉田茂、山下清、長嶋茂雄、秩父宮雍仁親王など多くの著名人と対談をしている。政治家でも武家でも皇族でも対談相手にズバズバと聞いていくスタイルは好評を博した。 「問答有用」について正紀氏は「特別な意味がある」という。扇谷は社会部記者として36年に二・二六事件を経験。帝大在学中の32年には青年将校による五・一五事件が起き、「話せばわかる」と言った犬養毅首相が「問答無用」と殺害された。 「政治家が問答無用と殺害され、軍を下手に批判できない時代だった。戦後、編集長になり、その反省が『問答有用』というタイトルに表れている。徳川夢声さんもそれを理解して対談に取り組んでいたのではないか」  このとき「日本拝見」という連載企画を戦略的に使っていた。日本各地をルポルタージュする企画で、執筆陣には大宅壮一、花森安治、小林秀雄などがいた。記事にすることでその地域の住民が週刊朝日を購入し、その際に「新・平家物語」や「問答有用」を見て、新規読者を開拓するという狙いだった。現在も続く「週刊図書館」も扇谷時代に誕生したものだ。  53年には週刊誌ジャーナリズムに新境地を開いたとして菊池寛賞を扇谷と週刊朝日編集部が受賞した。しかし、そんな父の背中を見て育った正紀氏だが、自身は記者や編集者にはなりたくなかったという。幼いころ、目撃した光景が今も鮮烈に残っているからだ。  54年に青函連絡船の洞爺丸が沈没した。第一報の電話が自宅にいた扇谷に入ると、すぐに編集部にいた記者を派遣することに。しかし、夜遅くでお金がない。そこで自宅に記者を呼び、お金を渡した。現場に行って扇谷宅まで戻ってきた記者は疲労困憊(こんぱい)。しかし、B5サイズのざら紙に原稿を書いていく。その一枚一枚に赤鉛筆で直しを入れる扇谷。すると、「なんだこの記事は」と叱責し始めた。正紀氏は襖越しにその様子を怯えながら見ていた。軍隊あがりの扇谷は「兵隊と新聞記者は、たたけばたたくほど強くなる」という信念の持ち主だった。扇谷に怒鳴られ続けた記者は睡眠不足と疲労でとうとう気を失ってしまったという。 「新聞社は本当に厳しいところだと感じました。絶対にこんなところ行くまいと思いましたね(笑)」 (本誌・吉崎洋夫) ※週刊朝日  2021年2月26日号

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