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滝川クリステル夫人は「さげまん」?40歳の誕生日を迎えた小泉進次郎氏の私生活 
滝川クリステル夫人は「さげまん」?40歳の誕生日を迎えた小泉進次郎氏の私生活  小泉進次郎氏と滝川クリステル夫人(C)朝日新聞社 『タッチペンで音が聞ける!はじめてずかん1000 英語つき』(小学館)  小泉進次郎環境相が4月14日、40歳の誕生日を迎えた。進次郎氏は自身のSNSでこう誕生日の思いを書き綴っている。 <今日、40歳の誕生日を迎えました。40歳になった自分が1歳の息子を持つ父親になり、大臣になっていることなんて全く想像できなかったですね。もちろん、コロナのようなことが起きるとも。大臣の立場になり、コロナもあり、今までのように地元に戻れなくなりましたが、戻れないと余計に横須賀・三浦に対する思いが募る日々です>   妻のフリーアナウンサー滝川クリステル(43)との間に昨年1月、長男が生まれた。これまで東京都渋谷区広尾の商店街を愛犬のラブラドールレトリバーのアリスと一家団欒で散歩や食事に行く姿も目撃されている。   横須賀の地元後援者は進次郎氏の大臣とパパの両立ぶりをこう話す。 「昨年、進次郎さんが長男を抱っこして地元に帰ってきたんですよ。進次郎 さんが行動する時はいつも秘書やSPがついてます。子供を見せてくれてかわいかった。ほんとに子煩悩なお父さんって感じでした。ちょうどその時は、クリステルさんが仕事で家にいなかったらしいんですね。電話で連絡を取り合って、『クリステルの仕事が終わった』と言って戻りました。車で迎えに行くみたいでした。幸せいっぱいって感じでしたね」   進次郎氏は地元紙・神奈川新聞発行の「ヨコスカ新聞」(3号)で、『子育ては親育てを痛感』という見出しで、最近の長男との日々について語っていた。 <最近の私の愛読書の一つは、妻が息子に買ってきたこの一冊です>  進次郎氏がクリステルさんが買ってきたというのは、『タッチペンで音が聞ける!はじめてずかん1000 英語つき』(小学館)という大型本だ。 小泉氏はこの本を重宝しているとも話していた。 <海外の大臣と英語で会談や会議を行う機会も多い私にとっては、自分自身の英語の勉強にもなり、育児と仕事の両方を支えてくれています。育児中の友人にもプレゼントしたところ、喜ばれました。> <子ども向けの本や絵本には、大人にとっても学びが多いものがたくさんあります。まさに『子育ては親育て』ということを痛感する日々です>       そんな進次郎氏は「ポスト菅」の有力候補としても、名前が上がる。菅義偉首相の自民党総裁任期は9月末までで、それまでに総裁選が行われる。だが、進次郎氏は総裁選への出馬に関しては明言していない。   進次郎氏は父親の小泉純一郎元首相の地盤を引き継いで衆院選挙で初当選したのが2009年。それ以来、当選を重ね、次で5回目の選挙になる。   2回目の2012年の衆院選では18万4360票を獲得。得票数ではわずかに河野太郎行革相に及ばなかったが、 3回目の14年の衆院選では、全国で最多得票数である16万8953票を獲得した。  「思えば、2回目、3回目の当選の頃が人気のピークでしたね。4回目の17年の衆院選の得票数(15万4761票)は下がった。19年にクリステルさんと結婚して環境相になってからはメディアに叩かれるようになりました。 結婚する前までは地元のお祭りや小さな会合にもまめに顔を出していましたが、新型コロナウィルスの感染拡大に伴う自粛でほとんど地元に帰って来なくなりました」(前出の地元後援者)    衆院議員の任期満了が10月21日。残り半年となった。 進次郎 氏は「政治家の妻だからと夫の選挙を手伝わせるのはおかしい」とクリステル氏に選挙を手伝ってもらわないと公言してきた。 「政治家の妻という立場にとらわれずに、クリステルさんには自由に生きて欲しいということでしょうが、われわれ支援者やボランディアには選挙を手伝わせるわせですからね…。進次郎氏は次の自分の選挙に危機感を持っています。選挙は戦という考え方で、スピーチも命がけとか言ってましたからね。もっとも強力な対立候補がいないので勝つでしょうが、得票数はさらに減らす可能性はあります……」(同前)   地元では結婚後、進次郎氏が顔をあまり見せなくなったことからクリステル氏を「さげまん」と揶揄する声もあるという。父親の純一郎氏の場合、別れた元妻の佳代子さんは選挙を手伝った。妻に手伝わせない選挙という実験的な試みでもあるという。いずれにしても、40歳になった進次郎氏の動向から目が離せない。  (AERAdot.編集部上田耕司)
ニンジンジュース出し続け、夫の叫びで目が覚める…善意だから歯止め聞かない「寄り添いハラスメント」
ニンジンジュース出し続け、夫の叫びで目が覚める…善意だから歯止め聞かない「寄り添いハラスメント」 谷島さん(左奥)が大阪市内にひらいた社会実験カフェバー「カラクリLab.(ラボ)」。がんをカジュアルに語れる場所として人気だが、現在はコロナ禍で休業中(写真:谷島雄一郎さん提供) AERA 2021年4月12日号より 「スキルス胃がんの患者会を作りたい」という故・轟哲也さん(左)の気持ちに寄り添い、妻の浩美さんは尽力。哲也さんの遺志を継ぎ、がんについて正しく知る大切さを伝えている(写真:本人提供)  身近な人ががんなどの病気になった場合、助けになりたいと思うのはごく自然な感情だ。だが、善意から発せられた「両親より先に死ぬのは親不孝」「弱気になってはダメ」「これで治る」という言動が、相手を傷つけることもある。AERA 2021年4月12日号の記事を紹介する。 *  *  * 「寄り添う」とはどんな意味ですかと聞かれたら、多くの人が「困っている人を支えること」、あるいは「体をぴたりとそばに寄せること」と答えるはずだ。いずれにしても、善意にあふれ、繊細で、やさしい印象が強い。しかし、大阪ガス勤務でがん経験者の谷島雄一郎さん(43)は、こう語る。 「『寄り添う』の延長線上にある励ましや共感、忠告は、相手が善意のつもりであっても、がん経験者や家族が傷つけられることがあります。つまり、寄り添われる側から見れば、時に諸刃の剣にもなりかねない、正解がなくて、悩ましい言葉なんです」  谷島さんががんと診断を受けたのは、34歳のとき。長女の誕生に際し、生命保険を手厚くしようと受けた健康診断で発覚し、10万人に1~2人程度の希少がんであるGIST(消化管間質腫瘍)と診断された。  長女誕生の4カ月後には肺に転移。翌年1月に食道を全摘し、肺も一部切除したが、約1年後に再発した。以降、谷島さんは計6回の手術を経験。完治の望めない現状だから、年3、4回の定期検診の前後は、特に神経が過敏になる。そんな時は身近な人であれ、見ず知らずの他人であれ、善意のつもりで発せられた言葉に傷つくことも少なくない。  約7年前のこと。谷島さんはがんのイベントに参加した際、面識のない年配の女性から「私の夫もがんになりましたが、克服できました。ご両親より早く死ぬのは本当に親不孝だから、頑張ってください」と話しかけられた。  他人から言われるまでもなく、幼い娘や妻を遺し、両親より先に旅立つ可能性は、もっとも直視したくないものだった。彼はざわつく気持ちを抑えて「頑張ります」と答えた。 ■「頑張ります」「ありがとう」無難に対応するしかない  大抵の場合はそこで話は収まるのだが、その女性は眉間に小さなしわを寄せてこう続けた。 「私には20代の一人息子がいて、その存在は本当にかけがえない。そのせいか、谷島さんのご両親のご心配もすごくわかる気がして、だからがんに絶対に負けないでほしいんです」  谷島さんはその執拗さにカチンときて、つい反論してしまったという。 「お気持ちはうれしいんですけど、両親より先に死ぬかどうかは、僕がいくら頑張っても、どうしようもないことですよね?」  努めて穏やかな口調でそう伝えると、やっと相手も気づいたらしく、バツが悪そうな表情になって黙り込んだ。谷島さんはこう振り返る。 「善意の発言だとは思いますが、そう言われた僕がどう感じるのかまでは想像できてないんです」  こうした経験は他にもある。たとえば、「がんは治る時代だから弱気になっちゃダメ」という言葉。そんなことは知っている。だが、自分には当てはまらないから、一時的な気休めは逆につらくなる。  友人知人から送られてくる有名人のがん克服記事もそうだ。病状には個人差がある。それなのに、部位もステージも違う人の記事に添えられた「救いになると思って」「支えになれば」という言葉に違和感を覚える。 「『自分はいいことをしてあげている』という陶酔感のようなものを感じることもあり、複雑な気持ちにさせられましたね」(谷島さん) 「大丈夫だよ、私なんて……」という発言もそうだ。がんを告白すると、自分の病気について語り始める人は少なくない。だが、悩みやつらさはその人固有のもので、他人の不幸話を聞いても心は軽くならない。  谷島さんは2015年から、がん経験を新しい価値に変える「ダカラコソクリエイト」というプロジェクトを立ち上げ、がん経験者やさまざまな分野の協力者と共に活動している。そのなかでも「善意の言葉とわかっていても、傷つくことがある」「善意の押し付けがつらい」という話題になることがあった。  19年に谷島さんが大阪市内に開いた不定期営業の「がんについて語らなくても、隠さなくてもいい」カフェバーでも、この話になった。善意なのであからさまには反論しづらい。だから「頑張ります」「ありがとうございます」と答えて、相手の感情を損ねずに無難に対応するしかない、というのが経験者の感想だった。 ■相手の心に土足で踏み込む 自己満足だと気が付いた  そこで谷島さんは、こうした周囲の言動を「寄り添いハラスメント」と命名し、がんの啓発活動を続けるグリーンルーペプロジェクト主催のウェブセミナーで今年2月に発表した。 「寄り添うことは肯定的な印象が強く、ハラスメント的な側面ががん経験者以外にはなかなか伝わりづらい。言葉を作ることで社会に広めていければと思いました」(谷島さん)  身近にがんなどの病気の人がいた場合、自分の気持ちを押し付けず、いざというときに話しかけやすい雰囲気を作り、相手が不安に思う点を取り除いてあげるだけで寄り添いにつながると、谷島さんは語る。 「入院中の僕は、職場や家庭を失うかもしれないことが、最大のストレスでした。それに対して妻は『何があっても支えるから』、信頼する上司は『お金のことも含めて何でも相談しろ』と言葉をかけてくれました。それですごく救われました」  がん研究会有明病院腫瘍精神科部長の清水研(けん)医師(49)は、このセミナーに出席し、「寄り添いハラスメント」という言葉を広めていく意義を感じたという。 「そもそも他人に寄り添うことは、とても難しいこと。善意であるために歯止めが利きにくく、時には相手を傷つけてしまうことさえあります。それらの注意点を社会で共有する上で、訴求力のある言葉だと思います」  精神科医としてがん患者や家族を支える清水医師もまた、かつては「患者に寄り添うには、本人の気持ちを聞き出すことが必要」と思い込み、相手の心に土足で踏み込んでしまったという。 「患者さんのために試行錯誤してきたつもりでしたが、実際には自分が役に立てていないことを認めたくなかったのではないか、ただの自己満足ではないかと気づいたんです」  現在は、患者に何かを提案する際は常に、「このことは本当に患者さんの役に立つのか、自己満足ではないか?」と自問自答を繰り返す。 「相手の気持ちがわからない間はもどかしいですが、『あなたを気にかけているし、手伝えることがあれば何でも言ってほしい』と伝えて、見守るほうが無難です」(清水医師)  患者にとってもっとも身近な存在である家族も、「寄り添いハラスメント」とは無縁ではない。前出のグリーンルーペプロジェクト発起人代表である轟(とどろき)浩美さん(58)は、自身の経験をこう振り返る。 「今思うと、私も亡くなった夫に対してハラスメントをしていたかもしれません」 ■ニンジンジュースを出し続け 夫の叫びで目が覚める  轟さんは16年、スキルス胃がんで夫の哲也さんを54歳で亡くしている。主治医から「余命は月単位」と言われたのは13年12月だった。 「私だけは夫の命をけっして諦めない。どんなことがあっても彼を助けようと思いました」(轟さん)  自分の料理や健康管理に原因があったのではないか、そんな自責感情にも苦しめられた。その失敗を取り返そうと、轟さんは告知後の半年間で、“がんに効く”というキノコや海藻類、無農薬のニンジンジュースなど10以上の民間療法を手当たり次第に試した。 「本を乱読して探すんですが、周囲からも善意で『〇〇ががんに効くらしい』という情報が寄せられました。私の情報と重複するものがあると、『やっぱり○○はいいんだ!』と思い込んだりして。玉石混交の情報にどんどん溺れていきました」(同)  夫は妻がすすめるものを、黙々と食べ続けた。だが、胃がんの症状が出る中、ニンジンジュースを毎日2、3杯飲み続けることは、体の負担でしかなかった。抗がん剤治療の副作用で口内炎だらけになり、痛みで口を開けられないこともあった。それでも轟さんは、毎日何本ものニンジンをミキサーにかけ続けた。痩せて体力が落ちた夫はある夜、ニンジンジュースを作る轟さんに向かってこう叫んだ。 「いい加減にしてくれ! 君は誰のためにやっているんだ。僕のことなんて見てないじゃないか。お願いだから病気を、治療を、科学を理解してくれ」  轟さんは驚きのあまりに自宅を飛び出し、街を一晩中さまよった。夫に寄り添っているつもりが、寄り添ってくれていたのは夫のほうだった。彼は「妻に後悔が残らないように」と無理をしていたのだ。自分の愚かさをただ噛みしめるしかなかった。 「夫を失いたくないという一心で頑張っていたつもりでしたけど、実際には私は自分がやりたいことを次々と試していただけだったんです」  轟さんは夫が望まない民間療法はやめ、今度こそ本当に彼に寄り添おうと決心した。スキルス胃がんの患者会設立に向けて動き始めた夫に協力し、14年10月に「希望の会」を発足。その後はNPO法人となり、夫の他界後は彼女が理事長を引き継いだ。夫は亡くなる20日前まで講演活動を続けたという。「彼は社会に爪痕を残そうとしていました。彼が命をかけた活動を共に進める日々は、まさに二人三脚でした。その人の考えを尊重し、信じて、見守ること。転びそうになったらさっと支える。それが本当の意味で、寄り添うことだと学びました」  困っている相手がいたら、助けてあげたい、力になりたいと思うのは自然な感情だ。だが、それを相手が望んでいない場合は、ストレスを与えることになる。前出の谷島さんは、病気に向き合う人に接する際の心構えを、次のように話す。 「自分がしたいことではなく、相手のストレスを取り除き、望むことの手助けをする。がんだけでなく、すべての病気や人間関係において、言えることではないでしょうか」(谷島さん) (ルポライター・荒川龍) ※AERA 2021年4月12日号
流産と震災――わが子を抱く腕の輪の中に感じた宇宙 写真家・山田なつみ
流産と震災――わが子を抱く腕の輪の中に感じた宇宙 写真家・山田なつみ ショスタコーヴィッチの森(撮影:山田なつみ)  写真家・山田なつみさんの作品展「TOKΘYO(常世)」が3月8日から東京・新宿のリコーイメージングスクエア東京で開催される。山田さんに聞いた。 *  *  *  取材前、山田さんからメールのメールには、今回の作品についてこう書かれていた。 <子育てを通じて得た母としての成熟、なかなか分かり合えない夫と妻の格闘……いろいろなモヤモヤと晴れ間を経て、フィルムで撮る意味がまるで地下室に眠るワインのように、発酵によって味わいを増しているかのようです>  展示作品はワインのように楽しんでほしいそうで、<どちらもテロワール(大地)と時間が紡ぎ出した発酵物>とある。  実際に作品を目にすると、子育てのように生み出されたプリントは墨絵のよう。画面の枠が滲み、絵柄のトーンもネガの階調をそのまま再現したものではなく、ムラとは異なる微妙な変化がある。作品によっては大胆にも墨汁を垂らしたような丸い跡が見える。それらが単なる絵柄ではなく、焼きつけられた印画紙の質感と相まって作品をつくり上げている。 エグレット・トラヴェルサン・アン・プティ・ヴィラージュ(撮影:山田なつみ) ■日本の原風景が雪室のような場所で完璧な状態で保存されていた  おもな撮影地は福島県・奥会津地方。三島町を中心とする山間の地域に小さな集落が点在している。  フランスの大学で写真史と映画史を学んだ山田さんがこの地で「TOKΘYO(常世)」シリーズは撮り始めたのは10年ほど前(「Θ」は死の神、タナトスをギリシャ語で表記した際の頭文字)。 「常世」とは、山田さんにとって、「胎内のような閉ざされた別世界」だと言う。 「あの世とこの世の間にある、子宮のような場所です。会津の小さな集落の暮らしを、その胎内に見立てています」  小さな限られた世界。そこに生命力があふれている。文化が生き生きと根づいており、根源的な豊かさを感じるという。 「円環をなすように親戚のつき合いとかも集落ごとに完結している。同じ『サイノカミ』という祭りでも、川をまたぐと違うんです。常世感というか、雪で覆われたなかで人々が非常に楽しそうに暮らしている」  初めて奥会津を訪ねたのは2010年春。7年間のパリ暮らしを終えて帰国した直後だった。福島県郡山市に住み始めた山田さん夫妻はドライブに出かけた。すると、「えーっ、何なんですか、ここは!」。「見たことのない空間」に衝撃を受けた。  コンビニどころか、似たようなチェーン店も1軒もない。ハウスメーカーの家もほとんどない。そこでみんなが雪下ろしをしている。 「目が外国人になっている身としては、日本の原風景が雪室のような場所で完璧な状態で保存されていたように見えたんです」  もともと、山田さんは山形市で生まれ育ったのだが、「風景の濃さがあまりにも違いすぎた」。 アリヴェ・ドゥ・デュ、サイノカミ(撮影:山田なつみ) ■雰囲気がほんとうに美しくて、死んだ子どもに会えるような気がした  そんな風景に魅了され、父親から譲り受けた中判カメラ、ゼンザブロニカにモノクロフィルムを詰めて撮り始めた。 「デジタルカメラでも写したんですけれど、しっくりとこなかったですね。あまりにも景色が素晴らしすぎて、デジタルで残すのがもったいないというか。色や電子技術が介在すると時代性が入ってしまう。このままの状態を撮って保存するには、モノクロのフィルムじゃないと表現できない、と考えたんです」  最初は「農作業をするおばあちゃんとかを『記録』として撮っていた」。しかし、すぐに「撮りたい気持ち、心情をそのままを記録する感じ」に変化する。原因は流産だった。 「非常にどこに行ったらいいのかわからない感じ」だった山田さんは、「すがるような気持ちで」集落を訪れた。すると、みんなが温かく迎え入れてくれた。 「撮影に行くと、『また来た』みたいな感じでもてなしてくれるんですよ。『今まで、元気してたか?』『あなたが好きなたくあんを漬けといたからね』とか、いろいろ話を聞いてくれたり。前に写した写真を見せると、とてもよろこんでくれて。すごく励まされた」  さらに、「もう準備してあるので、撮ってください」と、言わんばかりの光景にたびたび出合った。 「腰の位置に霧が立ち込めているとか。振り返ると、村が水面に映っていて、えーっ、と思ったり。私が撮っているというより、カメラに導かれているとしか思えないような光景に毎回出合うので、ほんとうにどうなっているのかな、と。私にとって、ここは心がいちばん落ち着く場所でしたね。雰囲気がほんとうに美しくて、死んだ子どもに会えるような気がした」 プティット・フィーユ・ダンザン・シャン・ドゥ・コルザ(撮影:山田なつみ) ■原発事故の直後、菜の花畑で写しとった白昼夢のような光景  ところが翌年、さらなる不幸が降りかかった。東日本大震災で郡山の自宅は「ぺしゃんこにつぶれてしまった。たまたま外出していたからよかったんですけれど」。  流れ着くようにやってきたのは福島第一原発から直線距離で約65キロ離れた宮城県角田市。新しい住まいの裏には広大な菜の花畑が広がっていた。そこで白昼夢のような光景を目にし、シャッターを切った。 「そのとき、放射線の値がけっこう高かったんです。なのに、みんな和気あいあいと写真を撮ったり、子どもが駆け抜けていった。天国みたいな場所が広がって、ふわーっと浮遊しているように見えた。『いったい、ここはどこなんだろう』と。そういう事故が起きたときって、人々がののしり合ったり、物を取り合ったり、世紀末のような光景がさまざまな映画で描かれてきたのに、それとはあまりにも違いすぎて、もうどこにピントを合わせていいかわからないくらいすごく動揺したことをはっきりと覚えていますね」 フー・サクレ(撮影:山田なつみ)  そのころ、2度目の流産をした。原因はわからない。 「でも、子どもが命、体を張ってというか、私に伝えたかったメッセージもあったんじゃないかな。たぶん、そういう出来事がなかったら『常世』をつくろうとは思わなかったでしょうし。生まれてこられなかったこと、というより、生命が訴えかけてくるもの。それはすごく意味深いと思いました」 ■白と黒だけ写真に宇宙のような広がりを感じる  それから3年後、待ちに待った子どもが誕生した。すると、写真に対する意識がさらに大きく変化した。それは、「撮ることというより、プリントすることの意味」についてだった。 「子どもがお乳を飲んで寝て、また飲んで。おしっこしたり、うんちしたり。それが全部、この『腕の輪の中』で完結している。それに気づいたとき、ハッとした。すごく驚きを感じました」  山田さんはそう言って、子どもを抱くように両手をつないで輪をつくる。  それまでは、ほかの写真家の活躍を知ると、「ヒマラヤとか行っているんだ」「いいなあ、うらやましいなあ」という気持ちが湧き上がった。 「でも、この腕の輪の世界もすごく濃厚で、宇宙があるな、と思ってから作品の見方が非常に変わってきたんです。時間をみつけては子どもをおんぶして暗室に入って、少しずつ焼き直していくと、自分の心象風景がさらに立ち上がってきた。新しい経験や視点、さまざまな要素が自分の中で反響して広がって、何回も何回も試して。その成長を『もの』として見届けられることが非常に面白い」  目を閉じて、額に集中していると、「白と黒だけ」の写真のなかに宇宙のような広がりがあることをすごく感じるという。 「得難い子育ての体験ですね。ほんとうにどこにも出かけられないのに。無限って、大海原にだけあるんじゃなくて、閉ざされたなかにもある。それにすごく気づかされた」 プルニエ・ブラン(撮影:山田なつみ) ■与謝蕪村の辞世の句に感じるモノクロ写真的なもの  震災前、1度目の流産をした直後に雪の残る奥会津で写した白梅の写真がある。それを与謝蕪村の辞世の句、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」と重ね合わせてプリントしている。 「いまから死んで広い世界に、梅の白さのなかに吸い込まれていくよ、というのは非常にモノクロのフィルム写真的だと思うんです。ネガを印画紙に焼きつけると、黒いところは白くなり、白いところは黒くなる。それがずっと交互に円環をかたちづくっているようで、この世とあの世のつながりを感じさせるんです」 (文・アサヒカメラ 米倉昭仁) 【MEMO】山田なつみ写真展「TOKΘYO(常世)」 リコーイメージングスクエア東京 4月8日~4月26日。 会場では特装版の写真集「TOKΘYO」(私家版、A4変形、平綴じ、24000円・税別)を限定10部、販売する。桐箱入り。ブックカバーは「生命の樹」をモチーフに作家のデザインを刺し子で仕上げた。刺し子は角田市障害者就労施設「のぎく」の手仕事によるもの。バライタ作品1点と手刺しゅうのシリアル番号つき。
ワクチン接種後は「献血NG」期間あり 専門家から「血液製剤の供給に影響する可能性も」の声
ワクチン接種後は「献血NG」期間あり 専門家から「血液製剤の供給に影響する可能性も」の声 新型コロナワクチンの一般向け接種は夏以降とされている。短期間に大勢の人が接種すれば、血液の供給にも影響が出る可能性もある (c)朝日新聞社  新型コロナのワクチンを接種すると、当面の間献血ができなくなってしまう。基準はまだ示されていない。接種後の献血制限期間はどれくらいになるのか? AERA 2021年4月12日号から。 *  *  *  医療従事者を対象とした新型コロナウイルスのワクチン接種が始まって約1カ月経った3月下旬。ある医師がツイッターでこうつぶやき、話題になった。 「献血してます。新型コロナワクチンを打つとしばらく献血できないから」 ■インフルは制限24時間  ツイートしたのは「産婦人科医」のアカウント名で発信している産婦人科専門医の太田寛さん(56)だ。出産では出血は珍しいことではなく、輸血用血液が十分にあることが大切だと現場で実感していて、日頃から時間をつくって献血に行くという。今回は特に、ワクチン接種前にこだわった。 「血液は人工的につくることができないので、献血量が足りなくなると助かるはずの人が助けられなくなることもあります。コロナワクチンを打つとしばらく献血できなくなるので、接種前に行っておこうと思いました」  血液事業を行う日本赤十字社は2月下旬、新型コロナのワクチンを接種した人の献血の受け入れ基準について、「国において検討中の段階であることから、基準が示されるまでの間、献血はご遠慮いただく」と発表した。  実は、新型コロナに限らず、ワクチンを接種した後は一定期間献血ができない。インフルエンザなどの不活化ワクチンは接種後24時間、風疹やおたふくかぜなど弱毒生ワクチンは4週間、破傷風などの抗血清は3カ月といった基準が設けられている。今回はどうなるのか。  新型コロナのワクチンはこれまで使われてきたワクチンとは異なる過程で作られていて、不明な点も多く、献血制限期間も国によってまちまち。「制限期間なし」もあれば、ワクチンの種類や副反応の有無によって期間を変えている国もある。  国内での制限期間については、厚生労働科学研究班が2月に薬事・食品衛生審議会血液事業部会で「すべての種類の新型コロナワクチンで接種後4週間」という見解を示した。ワクチンの種類によっては、多くの国で長めの4週間ほどの制限期間を設けているものもあり、献血者が接種されたワクチンの種類を正しく認識していない恐れもあることから、全てのワクチンで一律の制限期間とされた。 ■4~5月頃基準を示す  厚生労働省血液対策課の担当者によると、この見解をもとに再度検討し、4~5月頃には基準を示す予定だという。  2回接種するため、接種スケジュールによっては、制限期間が実質7~8週続くこともある。  ワクチンの接種者の献血制限期間について審議する中で、有識者からは、「かなり大規模な集団接種になる可能性があり、血液製剤の供給に影響を及ぼす可能性は大いにあるのではないかと危惧する」という意見も出た。インフルエンザのように毎年接種が必要となれば、接種時期によっては献血者不足をきたす恐れがあるとの指摘もあった。  日赤のデータによると輸血を受ける人の85%は50歳以上。少子高齢化が進む中、将来の献血を支える若い世代の献血協力が必須だが、10~30代の献血者数は2010年の約275万人から19年には約180万人と、この10年で3分の2以下に激減。このままでは今後、血液の安定供給に支障をきたす恐れもある。  冒頭で紹介した太田さんは、これまで「妊婦の夫は献血を」と呼び掛けてきたという。 「妊娠中の妻に夫ができることは少ないけど、献血は必ず誰かの役に立つことができる。これから一般の方にも新型コロナのワクチン接種が始まるので、今度は『ワクチン接種前に献血を』という意識が広まるといい」  普段献血に行かない人や献血デビューしていない人も献血を意識するチャンスになるかもしれない。ただ、血液は長期保存できず、献血者が殺到するのも安定供給に支障が出る。混雑と集中を避けるためにも事前予約を。(編集部・深澤友紀) ※AERA 2021年4月12日号
LINEで「死にます」 若者から老人まで蝕む「孤独」、背景に何が?
LINEで「死にます」 若者から老人まで蝕む「孤独」、背景に何が? ※写真はイメージです (c)朝日新聞社 (週刊朝日2021年4月9日号より)  新型コロナウイルスが世界で猛威を振るい始めてから1年が経った。人々の生活環境は一変し、人生設計に狂いが生じた人も多いはずだ。そのなかで、人知れず「孤独の闇」に入り込んでしまった人への対策が急務になっている。政府は孤独・孤立対策を宣言したが、はたして処方箋はあるのか。 *  *  *  昨年末、自殺対策に取り組むNPO法人東京メンタルヘルス・スクエアに、無料通信アプリ「LINE(ライン)」を通じてメッセージが届いた。そこには、こう書かれていた。 「死にます」  自殺対策の現場では、自殺をほのめかす言葉は珍しいわけではない。しかし、「死にたい」と「死にます」では意味が異なる。「今から死ぬ」と言う人には、緊急対応が必要になるからだ。  このときも、相談員は即座にカウンセリングセンター長の新行内勝善さんに連絡し、詳細を報告。新行内さんは緊急対応が必要な案件と判断し、警察に通報、自殺を止めるための協力を要請した。  新行内さんは言う。 「『死にます』というはっきりとした言葉が出て状況が差し迫ると、通報する必要があります。そうしたケースは月に1件あるかないかですが、昨年は年末だけで何件も警察への通報を検討しなければならない状況がありました」  同センターでは、対面や電話のほかに、LINEを使った相談にも力を入れている。昨年末からは、相談員の数を2倍以上に増やし、毎日20~25人の態勢で応じている。 「コロナの感染が広がる前は、1日の相談申し込み件数は100件程度でした。それが、今は1日200~250件ぐらいにまで増えています」(新行内さん)  内容はさまざまだが、年末から孤立・孤独を訴える人が増えたという。  離婚して子供にも会えず一人になり、仕事でも大きなトラブルをかかえた男性、コロナ禍で人と会えず、悩みを友人にも相談できない女性、親がコロナ禍で経済的に苦しくなり、さらにずっと家にいたことで精神に不調をきたした高校生が、自傷行為をしたという相談もあったという。  警察庁のまとめによると、2020年に自ら命を絶った小中高生は499人。前年比で100人増え、統計が確認できる1980年以降で最多となった。  全体の自殺者も2万1081人で前年比912人増。前年を上回るのは09年以来で、女性の自殺者は7026人(前年比935人増)にのぼった。  同センターに寄せられる相談は、LINEを通じてのものが約8割を占める。ところが、LINEが保有する個人情報が、中国の関連企業からアクセスできる状態にあったことが発覚。それを受けて同センターは、3月20日からLINEによる相談を一時中止せざるをえなくなった。 「若い世代は特にLINEを通じての相談が多い。1日200~250件あった相談申し込み件数は、LINE相談を一時中止して150件程度まで減りました。ホームページ上のチャット機能やツイッターなどを通じた相談も受けていますが、気軽に連絡を取りやすいLINEが使えなくなったことの影響は大きいです」(新行内さん)  コロナの感染拡大が始まる前から、日本の15~34歳の死因は自殺がトップだった。主要先進国で自殺が若者の死因の1位なのは日本だけだ。  日本の若者は孤独を感じやすいことも指摘されている。OECD(経済協力開発機構)加盟25カ国を対象に、03年に実施された15歳の意識調査では、「孤独を感じている」と回答した比率は、日本が29.8%でトップ。2位のアイスランド(10.3%)の約3倍の差があった。  孤独・孤立問題を研究する早稲田大学の石田光規教授(社会学)は言う。 「もともと日本は孤独に陥りやすい環境があったにもかかわらず、コロナの影響で友人と会うにも理由が必要になってしまった。新しい友人もできない。そのため、もともと他人とのつながりが薄い人は、ますます社会から孤立しています」  誰にもみとられることなく亡くなる「孤独死」も、高齢者だけの問題ではなくなっている。  大阪府警が初めて実施した調査によると、19年に府内で、遺体発見まで2日以上かかった事案は2996人。そのうち働き盛りの40~50代が18.4%を占めた。  単身世帯の増加に伴い、孤独死は今後もさらに増えると予想されている。国立社会保障・人口問題研究所によると、1985年に50歳時に結婚をしたことのない人の割合は男性3.9%、女性4.3%だったが、2015年にはそれぞれ23.4%、14.1%に増えた。40年には、29.5%、18.7%まで上昇すると推計されている。  日本では、家族以外に頼れる人が少ないのも特徴だ。60歳以上を対象にした国際比較調査によると、病気になったときなどに同居の家族以外に頼れる人がいるかをたずねると、「頼れる人はいない」と回答した人は日本が最も多かった。 「友人」や「近所の人」と回答した人も、他国に比べて最も少ない。日本は、世界でも有数の「孤独に陥りやすい国」なのである。 「1990年代から非正規雇用で収入が不安定な若者が増え、日本は結婚が難しい社会になりました。一方で日本の社会保障制度は、欧州のように『社会保障は政府が担うもの』という設計にはなっていません。その結果、家族からの扶助や終身雇用を前提とした企業の福利厚生を受けられない人は、社会から排除されています」(石田教授)  孤独によって心配されるのは、身体的な側面だけではない。  東京都内に住む70代の元公務員の男性は、妻に先立たれた後、一人で暮らしていた。子供はいないが、毎月20万円程度の年金や都内の一等地に所有するマンションがあり、生活に困ることはなかった。しかし、退職してからは職場の仲間と会う機会もなく、孤独を感じていた。そんなときに、同年代の女性が近づいてきた。  この男性の生活支援をしていたNPOスタッフが話す。 「女性は、男性と親しくなった後、資産を管理する権利を求めました。さらに、男性の死後は財産のすべてを自分に相続することを条件に、結婚することを提案しました」  しかも、別の条件には、女性に指一本触れてはいけないというものもあった。それでも男性は、こう話す。 「財産のことなんてどうでもいいんです。一緒に話をして、出かけてくれる人がいればいい」  前出のNPOスタッフは言う。 「孤独な老人を狙って資産を奪おうとするケースはほかにもあります。信頼できる友人とか、つながりのある人がいれば違ったと思うのですが……」  若者から高齢者まで、孤独対策はすでに待ったなしの状態だ。  世界を見渡せば、英国が18年に世界初の孤独担当大臣を任命した。日本でも、今年2月12日に坂本哲志地方創生相が孤独・孤立問題の担当になった。実は、この孤独・孤立相は計画されていたわけではなく、ちょっとした「ハプニング」から生まれたといっていい。  1月28日、参院予算委員会で国民民主党の伊藤孝恵氏が、菅義偉首相に孤独問題について「今はどの大臣が担当になるんでしょう」とただした。すると、菅首相は「厚労大臣です」と答弁。  しかし、厚生労働省には、自殺対策推進室はあっても孤独や孤立問題を担当する部署はない。周囲からは「えっ!」という声が上がり、突然指名された田村憲久厚労相は「任命いただいたのか、ちょっとわからないんですが……」と困惑した様子だった。  伊藤議員は、「そういったこともあって、質疑が終わると『孤独担当大臣』がツイッターで大きな話題になっていたんです」と話す。  その後の調整で、省庁を横断的にカバーすることができる内閣府が担当することになり、坂本氏が担当大臣に。2月19日には内閣官房に孤独・孤立対策担当室が新設された。  菅政権が国民民主党の政策を丸のみしたことに、「野党への分断工作」と見る人もいる。それには、国民民主党の玉木雄一郎代表はこう反論する。 「孤独を抱える人が追い込まれて自殺してしまっている現状を考えると、対策は急がなければなりません。そこに与党も野党も関係ありません。孤独問題を社会全体で考える契機にして、国会でも超党派での議論を呼びかけたい」  坂本担当相は、まずは緊急対策として食事を提供するフードバンクへの財政支援や孤独・孤立問題を扱うNPO団体への支援強化を掲げる。これらは野党の提案を採り入れたものだ。その上で、政府の経済財政運営の指針となる「骨太の方針」に孤独・孤立対策を盛り込むという。  政府による孤独対策はまだ始まったばかりで、課題も山積している。石田教授は言う。 「孤独は個人の主観的な問題で、行政が関与するのが難しい領域です。一方で、今の日本は個人がバラバラで頼れる人が少ないにもかかわらず、『他人に迷惑をかけてはいけない』という考え方が根強い。そのため、本当に支援が必要な人に届きにくい社会になっている」  人と人がつながる仕組みをどう作るか。それが問われている。(本誌・西岡千史) ※週刊朝日  2021年4月9日号
眞子さまの結婚問題、「内定者」の警備費の負担は? 愛子さまのティアラは予算計上されず
眞子さまの結婚問題、「内定者」の警備費の負担は? 愛子さまのティアラは予算計上されず ティアラを身に着けた眞子さま(c)朝日新聞社  愛子さまのティアラ予算つかずーー。  2021年度予算の成立とともに流れたニュースに、驚いた人もいるだろう。皇族女性は、二十歳の成人を迎える年に宮中晩餐会など公式の場で身につけるティアラ(宝冠)・ネックレス・イヤリング・ブレスレットといった宝飾品5点を制作する。今年の12月には、愛子さまが二十歳の誕生日を迎える。だが、ティアラの予算は計上されなかったのだ。  1月1日の新年祝賀の儀に臨む皇后雅子さまをはじめ皇族女性が、コロナ禍で苦労する国民に配慮してティアラの着用を控えた。そのことから、愛子さまも、他の皇族が大切に使ったものを引き継ぐなど、新調を控えるのでは、ともささやかれた。ただ、眞子さまと佳子さまの成人では、宝飾品はそれぞれ和光とミキモトが受注し約2900万円、大正天皇のひ孫にあたる三笠宮家や高円宮家の女王方は1500万円程度の制作費だった。天皇の娘がティアラをつくらないということがあるのか。 愛子さま(c)朝日新聞社  ヒントになるのは、上皇夫妻の長女、黒田清子さんの例だ。ある宮内庁OBは、こう話す。 「ティアラを公金で支払うようになったのは、三笠宮家の彬子さまのときからです。近代皇室においては、天皇家も宮家も相応の財産を持っていたこともあり、宝冠など装身具は私的な費用で賄っていたのです」  黒田清子さんのティアラもその流れで、天皇家の日常の生活費である内廷費で制作したのだという。  眞子さまなど公金でつくったティアラは国有財産となり、皇籍を離れるときは置いてゆく。だが、日常費で制作したものは、あつかいがあいまいなところもある。昔の皇族のように、『娘に持たせてあげたい』、と結婚先で大切に保管されているものもあるようだ。    元宮内庁職員の山下晋司氏は、こう話す。 「愛子内親王殿下のティアラは、令和三年度の予算要求に入っていませんでしたから、私費である内廷のお金でおつくりになるのでしょうね」  もうひとつ、予算計上で気になるのは、眞子さまの結婚に伴って支給される1億5千万円の一時金だ。  眞子さまと小室圭さんの結婚問題については、2017年に当時の明仁天皇が結婚を認める裁可をして婚約が内定。宮内庁は、11月に帝国ホテルで結婚式を行うと発表した。政府は、18年度予算案で一時金にあてるための1億5千万円を計上した。しかし、小室家の金銭問題が明らかになり、2018年2月に納采の儀など一連の儀式は正式に延期された。一時金の予算は、その年に結婚した高円宮家の三女、絢子さんの一時金に割り当てられた。 絢子さんの結婚晩さん会の様子(c)朝日新聞社  それから進展のなかった結婚問題だが昨年11月に、眞子さまが、結婚は「必要な選択」とお気持ちを公表した。さらに秋篠宮さまはご自身の誕生日の際の会見で、「(2人の結婚を)認める」と述べられた。その後、12月10日には、宮内庁の西村泰彦長官が会見で、小室さん側の金銭トラブルについて、「きっちり説明していくことで、批判にも応えていけるのではないか」と発言。宮内庁の西村長官は小室さん側の代理人弁護士と面会し、金銭問題への説明をするよう求めたとも報じられおり、「宮内庁としては、眞子さまの結婚を進めたいのでは」という見方も強まっている。  米フォーダム大学に留学中の小室さんは、履修コースを5月に修了し、卒業する予定だ。ニューヨーク州の司法試験を7月に受けるとすれば、この秋には合否の結果が出る。今年の10月には、おふたりそろって30歳の誕生日を迎えることから、年内の「強行入籍」もあり得るだろう。 秋篠宮家(c)朝日新聞社  先の山下氏が言う。 「現時点で結婚の日取りが決まっていませんので予算年度が未定です。そのため要求には入っていませんでしたが、日取りが決まり、皇室経済会議で額が決定すれば、その予算は必ずつきます。当然、査定もされません」  皇室に関する予算で、こうしたわかりやすい費用ついては国民の注目が集まる一方で、気づいていない負担もあるという。さる宮内庁職員はこうつぶやく。 婚約内定の会見時の眞子さまと小室圭さん(c)朝日新聞社 「内親王や皇族女性が晩餐会や宮殿行事に身につけるティアラは、1千数百万円から3千万円と確かに高額です。しかし、国を代表して海外の国賓や要人を接遇する立場ですから、相応の装身具でしょう。一方で、眞子さまの婚約内定者が帰国すれば、ご本人やご家族にも警備がつくでしょう。そうした目につきにくい費用には、皆さまの関心が高くないのは、不思議な気もいたします」 (AERAdot.編集部/永井貴子)
アフリカンプリントでウガンダ女性の自立を目指す 社会起業家、仲本千津<現代の肖像>
アフリカンプリントでウガンダ女性の自立を目指す 社会起業家、仲本千津<現代の肖像> フェアトレードのバッグは革製が多いが、仲本はアフリカンプリントの布で差別化を図る(撮影/今村拓馬) 仲本が「森本クン」と呼ぶ夫(右)は、同じ社会起業家で企業コンサルタントでもある。仲本が社外のさまざまな人物を集めて定期的に開く「チームミーティング」にも参加。妻の事業を支えている(撮影/今村拓馬)  社会起業家、仲本千津。東京・代官山にある「RICCI EVERYDAY(リッチー エブリデイ)」には、カラフルなアフリカンプリントで作られたバッグが並ぶ。これらは仲本千津がデザインし、ウガンダのシングルマザーたちが縫製したもの。最初は4人だったスタッフも今は21人。学生時代からアフリカのために何ができるかを考えてきた。女性が自立すれば社会が変わると、目を輝かせる。 *  *  *  がらんとした出発ロビーで、仲本千津(なかもとちづ)(36)はスマートフォンの画面に呼びかけた。 「これからウガンダに行ってきますね!」  仲本は、アフリカンプリントで作られたバッグや雑貨を製造して販売するブランド「RICCI EVERYDAY(リッチーエブリデイ)」を経営する社会起業家だ。コロナによる渡航制限が解除されてすぐの昨年10月、成田空港でインスタライブを行ってから、赤道直下の東アフリカ、ビクトリア湖に面したウガンダへ飛んだ。  苦境のファッション業界にあって、SNSでの精力的な発信や通販を駆使し売り上げを伸ばしている。商品を製作するのはウガンダのシングルマザーが主だ。20年ものあいだ内戦が続いたとあって、それぞれが壮絶な過去を持つ。 「彼女たちを雇用することで、ウガンダのみならず、世界の女性たちが自立し、自分らしく生きられる社会を実現したい」と仲本は目を輝かせる。  26歳で大手邦銀を退職。笹川アフリカ協会(現ササカワ・アフリカ財団)の駐在員としてウガンダの首都カンパラで農業支援にかかわっていた2014年に、アフリカンプリントに出会った。布屋の床から天井すれすれまでうずたかく積まれた布たちを写メで送ると、日本人の友達から「可愛い!」と絶賛された。日本をマーケットにしたビジネスができると直感した。  アフリカの貧困問題解決のために何かできないかと考えていた。ウガンダの農村地域で車を走らせれば、道沿いのギャンブル場にたむろしているのは男性ばかり。家事や育児をこなしながら外でも働いているのは女性だった。一夫多妻制が残り、突然夫が帰ってこないなどよくあることと聞いた。駐在員として農業支援をするなかで、女性の勤勉さやエネルギーを実感していた。 「彼女たちは、稼いだお金を自分のためじゃなく、子どもの教育費や家族、コミュニティーのために使っていた。女性の雇用を生み出せばお金が循環するが、国さえも変えられると思えた」  18年の起業家精神に関する調査(GEM調査)によると、アフリカの起業件数は世界トップレベルで5カ国が10位以内だ。経済成長を遂げてはいるものの、貧困問題は一向に解決しない。世界銀行によると、アフリカではその全人口の約40%が貧困層で、農村部などの地方にいたっては80%を超える。続いた内戦で男性を主とした成人層が死亡したため、多くが「大人がいない国」なのだ。例えばウガンダなら18歳以下が人口4500万の半分を占める。子どもをまっとうに育てることが国力につながると考えれば、現時点で子育てを担っている女性への支援はマストだ。  布を使って何を作るべきか。洋服はサイズ展開が必要で季節サイクルもあり在庫管理が難しい。この問題をクリアするため、製造アイテムはバッグに決めた。  次に、布を縫い合わせてバッグを作る人を探し始めた。最初に現地法人の仲間に紹介してもらったシングルマザーのグレースは、たったひとりで4人の子どもを育てていた。うちひとりは、HIV感染で亡くなった姉の子だ。グレースは「子どもたち全員を学校に通わせたい」と訴えた。学校は3学期制のため学期ごとに授業料を払うそうで、「お金が払えないと、次の学期は子どもが学校に行けなくなる」と顔をゆがめた。収入源は週に1度の清掃の仕事だけで「私がちゃんとした教育を受けてこなかったからだ」と自分を責めた。 「彼女が悪いわけでなく、社会構造の問題なのに。話を聴いていて本当につらかった」  貧困のリアルを目の当たりにした仲本は、グレースを仲間に招き入れた。ただし、単なる同情からではない。それには理由があった。  彼女の家に通されると、中に鶏が10羽いた。理由を尋ねると「卵を産むし、クリスマスには高く売れる」。庭には豚がいた。豚は高価で1頭育てると、1学期分の学費になる。餌は残飯で済み、1頭の雌は一度の出産で8~10匹産むという。 「これは、つまり運用しているってこと。なんて賢いんだと感動した。畑では穀物や野菜を育てて、完全に自給自足を成立させている。生活を少しでも良い方向に変えようと彼女なりに努力していた」  日本の青年海外協力隊が運営していた職業訓練校のミシンを学べるコースに通ってもらった。もともと器用だったグレースは技術を会得。これならいけると、仲本がデザイン画を描いてバッグを作ってもらったものの、残念ながら日本で売れるクオリティーではなかった。 「彼女の技術が向上するのを待つしかないのか」  途方に暮れる仲本の前に、2人の救世主が現れた。同じ訓練校にいたスーザンという女性が、「私もやりたい」とやってきた。試作を頼んだら、完璧に縫い上げてきた。もうひとりはサラ。レザーの縫製技術を学んだが、技術を生かせる仕事がないため売店の売り子をやるしかないという。10代なのに子どもを2人も育てていた。  15年2月、仲本を含む4人でバッグ作りをスタート。貯金を崩しては布を買い、3人の給料を払っていたある日、縫製のエースであるスーザンが「インド系の縫製工場から引き抜きの話がある」と言う。給料は仲本が渡す金額の2倍だった。 「でも、断ったよ。私は千津と一緒にやる。昨日、外国人の女性(仲本)が私とやろうと言ってくれた夢を見たの。神様のお告げだと思う」  こう話してくれたスーザンに、仲本は涙しながら感謝した。 「スーザンは、雨が降れば泥水が入ってくるような家に住んでいた。誰もが飛びつくヘッドハンティングなのに私を選んでくれた。この時、従業員を抱えることの意味を理解した。この人たちの人生を引き受けなければと強く思った」(文中敬称略) (文・島沢優子) ※記事の続きは2021年4月5日号でご覧いただけます。
年収460万円会社員が47歳で「FIRE」を達成できたワケ 「ケチ投資」で1億円成して早期退職
年収460万円会社員が47歳で「FIRE」を達成できたワケ 「ケチ投資」で1億円成して早期退職 イラスト/石山好宏 AERA 2021年4月5日号より  株式投資などで築いた資産をもとにした運用益で生活する――。そんな「FIRE」達成者はいかにして成し遂げたのか。AERA 2021年4月5日号は「FIRE」特集。 *  *  * 「FIRE」という言葉が注目を集めている。「Financial Independence(経済的な自立)」と「Retire Early(早期退職)」の頭文字で、収入の一定割合を株式などへの投資に回し、ある程度まとまった資産を築いたら早期リタイアして会社や組織に縛られず、主に資産運用益で生活する生き方を指す。  はいはい、株で儲けた億万長者の話ね──と思うのは早合点。FIRE達成に必要なのは、「収入」「支出」「投資」のバランスだ。生活費をなるべく切り詰め、年間支出を上回る運用収益さえ確保できればFIREは達成できる。たとえば月々の生活費が8万円の人は、2400万円を運用すればよい計算だ。 ■「ケチ」で成した1億円  2020年10月、資産約1億円を築いて会社を早期リタイアした桶井道(おけいどん)さん(47)の会社員時代の年収は、最高でも460万円と民間給与所得者の平均値並みだった。彼の座右の銘は「ケチは財を成す」だ。  実家暮らしの特権も生かし、入社早々から収入の半分を株式投資と貯金に回し続けた。月々7万円は必ず株式投資か貯金。5万円は貯蓄性の高い個人年金保険などに積み立て、実家に入れる食費は3万円。残った7万~10万円は外食や本代、趣味代に充て、余りは投資か貯金に回す。たまの贅沢はホテルでティータイムを楽しんだり、有名寿司店のランチを食べたり。 「家にある中古品は絶対に捨てずに買い取りショップに持っていき、そこで買い取ってもらったお金は、ブランド品の紙袋50円、外国の古コイン20円でも証券口座に入れて投資に回していました。額は少なくても『貯めたお金は必ず投資に回す』というメンタルだけは維持していたかった。その習慣はFIREを達成した今も変わりません」と桶井道さんは語る。  たばこやお酒はもともと嗜まない。自販機で飲料を買わずマイボトルに入れたお茶を飲む。街で配布されているポケットティッシュは必ず受け取り、価格が割高なコンビニには近づかない。飲み会も大切なものだけに絞り、2次会は行かない。ムダ遣いを排除し、余ったお金をどんどん投資や貯金に回す生活スタイルが資産形成の原動力になった。  現在も、支出は最大でも月8万5千円弱で、年間102万円足らず。資産のうち4400万円を運用に回しており、そこから上がる運用収益は約120万円。税引き後の利回りが2.8%前後と安全性を重視した運用だが、それでも十分に生活費はまかなえる。 「退職前は会社を辞めたあとのことを相当熟考しましたが、いざ実際に退職したら、小学校を卒業して中学に入学するのとそれほど変わりませんでした。ブログなどを通じて他人との交流も広がり、新しいビジネスを始める予定も生まれました」  最終目標は、60歳時点で年間240万円の配当収入を得て、シニアマンションの家賃をまかなうことだという。 ■50代見据え自由度確保  19年に51歳でFIREを実現した個人投資家のエルさん(53)は妻子と4人家族。40歳のとき「20年までに株式投資で1億円の金融資産を築き早期リタイアする」という目標を掲げ、1年前倒しで達成した。 「私にとってのFIREとは、『自由な時間の確保』。そこの意識がいちばん強いです」  そう考えた理由は、新卒から勤めてきた金融機関特有の事情だ。若い頃は夢をもって働けるものの、50歳前後で、たいていは取引先やグループ会社への「出向→転籍」という道をたどる。その年齢以降も第一線でバリバリ働ける人はほんの一握りだ。 「まさに『半沢直樹』の世界です。自分の上司たちのそういう姿を見ていますし、40歳ともなれば『自分がこの会社でどの程度までいけるか』は見えてきます。それって楽しいかな?と思ったんです。ならばそれまでに経済的にも『自由度を確保できる状態』になれれば、仮に出向の内容が嫌なら辞めればいいだけだと考えました」  エルさんのFIREを支えたのは株式投資だ。入社2年目で株式投資を始め、割安な時期に買ったファーストリテイリング株が1999年の「フリース・ブーム」で急騰したタイミングで売却、初めて大きな利益を得た。これが株にのめり込むきっかけになったという。  01年からは「レバレッジ投資」も行った。マンション購入に際し、頭金を少なくして住宅ローンをあえて最大限借り、余った資金で株式投資。1%を下回るほどの低水準が続く住宅ローンの金利を上回るリターンを得て、ローンは11年に完済した。 「投資信託などで分散投資もするのであれば、投資経験が少ない人でも十分使える技です。定期的な収入がある会社員のある意味での特権を、とくに年収などの条件で恵まれている人なら生かさない手はない」  15年以降は株式投資の軸足を日本株から米国株に移した。現在の投資は「米国株7:日本株3」の割合で、配当金収入と、株の値上がりによる利益の両にらみという。 「配当金と値上がり益の合わせ技で、トータルでプラスになることを意識しています。いまは配当金収入は200万円台で、それだけでは当然、4人家族の生活費はまかなえませんし、値上がり益による収入の割合の方が断然大きいです」  エルさんの会社員時代の年収は1千万円を超えていた。日本株の短期売買などで値上がり益が得られれば、収入が当時の月収を上回ることもあるという。 「投資での利益は会社員時代から出していたので、給料がなくなった分だけ収入は減っています。贅沢できる理由はないですね。でも『節約生活』みたいなことはしておらず、生活費は会社員時代とほぼ変わりません」 (ジャーナリスト・安住卓也、編集部・小長光哲郎) ※AERA 2021年4月5日号より抜粋
田原総一朗「河井夫妻の買収事件 検察は大本の党幹部を追及せよ」
田原総一朗「河井夫妻の買収事件 検察は大本の党幹部を追及せよ」 田原総一朗(c)朝日新聞社 イラスト/ウノ・カマキリ  元法相で衆院議員の河井克行被告が買収を認め、議員辞職の意向を示した。検察の捜査について、ジャーナリストの田原総一朗氏は、自民党幹部まで及ぶべきだと指摘する。 *  *  *  2019年7月の参院選広島選挙区をめぐる大規模買収事件で、公職選挙法違反に問われた元法相で衆院議員の河井克行被告が、これまでの無罪主張を一転させた。  3月23日、東京地裁で始まった被告人質問で「全般的に選挙買収を争うことはしない」と述べ、起訴内容の大半を認めたのである。議員辞職の意向も表明した。  河井氏はこれまで、現金を渡したのは、妻の案里元参院議員(有罪判決が確定、失職)の票のとりまとめを依頼する目的であったとする起訴内容を否定してきた。  ところが、「あからさまな投票依頼をしたことはない」としながらも、「妻の当選を得たい気持ちがまったくなかったと否定することはできない」と語り、さらに国政への不信を与えたとして謝罪したのだ。  そして、議員辞職をする理由を「民主主義の根幹である選挙の信頼を損なった。国民の皆様に取り返しがつかない甚大な迷惑をかけた」からだと説明した。  さらに、無罪主張を一転させた理由については、長年の支援者たちを法廷で証言させる事態となり、買収の趣旨が全くなかったのかと自問自答したのだと語った。(毎日新聞3月24日から)  河井夫妻が逮捕されたとき、マスメディアのほとんどは「まるで田中角栄時代のような、あきれた金のばらまき方だ」と大批判をした。地元の議員や後援会関係者たち100人に計約2900万円をばらまいていたのである。  だが、河井夫妻が大批判を浴びていたとき、実は私はむしろ同情していた。案里氏には参院議員になりたいなどという野心はなく、克行氏にも妻を出馬させたいという気持ちはなかったはずである。参院の広島選挙区は、自民党は溝手顕正氏と野党の議員の2人で安定していたのである。  ところが、自民党の幹部たちが、「溝手氏は安倍首相を『あの政治家は過去の人。時代と大きくずれている』と強く批判している。あのような議員は落選させなければいけない」と安倍首相(当時)に持ちかけた。そして、そのためには誰かを出馬させるべきだと主張した。自民党の広島県連は反対したのだが、党幹部たちが押し切り、安倍首相も拒めず、2人当選させようと言ってしまったようだ。  そこで幹部たちが克行氏を口説いて、妻の案里氏を出馬させることになったわけである。  だが、広島の首長や議員たち、有力者はいずれも溝手氏を支持していて、案里氏に投票させるには強引に多額の金をばらまかなければならなかった。当然ながら有力者たちはそれを嫌がった。溝手氏に対する裏切りになるからである。それを党幹部たちが、金を受け取らなければお前たちの将来はないぞ、と脅したのだ。  そして、河井夫妻に1億5千万円もの資金を出した。対して、溝手氏にはわずか1500万円である。あきらかに溝手氏落選のための仕掛けである。克行氏としては自らの立場を持続させるために、この仕掛けに応じざるを得なかったのであろう。  検察は克行氏を有罪にするだろう。ただ、なぜ大本の自民党幹部たちを追及しないのか。なぜ検察にそれができないのか。少なくともジャーナリズムは、そこをとことん追及すべきである。 田原総一朗(たはら・そういちろう)/1934年生まれ。ジャーナリスト。東京12チャンネルを経て77年にフリーに。司会を務める「朝まで生テレビ!」は放送30年を超えた。『トランプ大統領で「戦後」は終わる』(角川新書)など著書多数 ※週刊朝日  2021年4月9日号
夫婦間の“モラハラ”コロナ禍で顕在化、あなたは…? 今すぐチェック!
夫婦間の“モラハラ”コロナ禍で顕在化、あなたは…? 今すぐチェック! (週刊朝日2021年4月2日号より) モラハラ チェックリスト (週刊朝日2021年4月2日号より)  言葉や態度による精神的暴力や、嫌がらせを示す「モラハラ」。長年の結婚生活で、夫や妻の言動で傷ついてきた、不愉快な思いをしてきたことが、実はモラハラだったということが非常に多いという。長びくコロナ自粛で顕在化することもある。 *  *  *  新型コロナウイルスの影響で夫婦での在宅時間が増えたことで、相手の言動にイライラしている人も少なくない。  多くの女性から離婚相談を受けている丸の内ソレイユ法律事務所では7年前からモラハラ(=モラルハラスメント)の相談件数が増えたという。代表の中里妃沙子弁護士は、コロナ禍でのモラハラ相談について、自粛中にモラハラが発生したのではなく、今までモラハラ状態にあった人が、自粛生活で顕在化しているのではないかと推測する。 「コロナがなければ“3年後に離婚”だったのが、今に早まったような感じ。自粛生活で接触頻度が高くなったことで、モラハラの頻度も高まったのではないでしょうか」  モラハラという言葉は今や“市民権”を得て、これを理由に離婚を考える人が年々増えている。 「幅広い年齢の方が相談に来られます。20~30代は夫婦ともに耐性がなく、自分の価値観どおりに物事が進まないと相手を責め、お互いがモラハラの被害者だと思っている場合が多いですね。婚姻期間が短く、子どもがいないことも多いので、離婚の成立は比較的早いです。一方、60~70代は、『もう夫の身の回りの世話をし続けるのが嫌だ』という女性が相談に来ます」(中里弁護士)  離婚を望んでも、加害者側にはその気がないことが多い。次は調停や裁判だが、モラハラだけを理由に離婚を裁判所に申し立てるのは難しいという。 「民法770条で、裁判で離婚が認められている五つの事由があり、『その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき』がモラハラに該当する可能性がなくはありませんが、認められることはなかなかなくて困難。モラハラは言葉の暴力が主で、証拠を残しにくいんです。四六時中ICレコーダーで録音するわけにもいかず、長期間、克明に日記を書いてようやく認められるくらいです」(同)  そのため、モラハラで離婚を望む人には、別居が一番だという。別居期間が長ければ、客観的に見ても婚姻生活が破綻していることは明らかで、民法770条の『その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき』に該当すると判断されるからだ。 「別居という既成事実を作るほうが早くて確実。ただし、結婚生活が長いとその分、別居期間も長くないと認められません。別居中も相手に婚姻費用分担請求ができるので、生活費はある程度確保できます。相手が拒めば調停や裁判で認めさせることになります」(同)  シニア夫婦の離婚は、結婚後の財産が折半されるため、慎重にすべきだと中里弁護士は言う。 「二人で共有して使えていたものが半分になると、思った以上に少ないと感じるはず。生活水準が落ちても一人がいいなら別ですが、亭主元気で留守がいいと割り切ったほうがいい場合もある」(同)  モラハラ相談は妻からだけとは限らない。離婚相談や関係修復の夫婦カウンセリングを行うピリアロハカウンセリングの緒方リサコさんによると、男性からのモラハラ相談が増えたという。 「以前は女性が大半でしたが、今や男女半々。妻が実家時代から築き上げた価値観を夫に押し付け、夫を否定する事例は多いです。夫が『稼いでるのは俺だ』と経済的なモラハラをすることがありますが、専業主婦の妻が、『家事労働をお金に換算するとこんなになる。私だけに押し付けるな』などと強気で男性に責任転嫁することがあります」  もちろん夫から妻へのモラハラも健在だ。 「男性に多いのが、『うちの奴は馬鹿で』と人前でけなすこと。本人は謙遜のつもりでも、妻は傷つきます」(緒方さん)  特に、シニア世代は夫が絶対で、妻は従うのみという価値観に漬かっていただろう。そのため、つらくても自分の中に抑え込むしかなかったかもしれない。しかし、精神的暴力や嫌がらせは確実に心を傷つけていく。  振り返れば、「あれがモラハラだったかも」と気づくこともあるはずだ。「モラハラチェックリスト」で、相手の言動を改めてチェックしてみよう。 「独立した子どもから、『長年我慢したんだから、もうお父さんから離れてもいいよ』と言われて、モラハラ被害に気づくシニア女性もいます」(同)  モラハラ被害者は相手から否定され続けてきたために、自己肯定感が低い人が多いという。 「家事ができていないと責められても、ちゃんとやっている自負があれば言い返せますが、自分が悪いと思ってしまう。責めるほうも自己肯定感が低いから、相手を人格否定して貶めることで優位に立とうとします」(同)  緒方さんのもとには、モラハラを改善したいという夫婦も相談に訪れる。 「結婚生活は長くても、お互いのことやどんな夫婦になりたいかという共通認識が希薄。まずは時間をかけてでも、どんな夫婦関係になりたいかを具体的に考え、実現のためにお互いの改善点を明確にすることをおすすめしています」(同)  自分がモラハラ被害者の場合、生活が苦しくなっても一人で自由に暮らしたいか、家庭内別居と割り切って一緒に暮らすか、改善すべく歩み寄るか。その選択は自分次第だ。 「長年モラハラを受けていると、自分を大事にする気持ちが欠落しがちに。どの道を選ぶにせよ、自分に正直でいることこそが大切なのです」(同) (ライター・吉川明子) ※週刊朝日  2021年4月2日号
40歳でセミリタイアを決意した中川淳一郎 「若手に”要らない人”と思われる前に」
40歳でセミリタイアを決意した中川淳一郎 「若手に”要らない人”と思われる前に」 中川淳一郎さん/1973年生まれ。97年博報堂入社、2001年退社。未経験でフリーランスのライター・編集者として働き始め、06 年にネットニュースの編集者になる。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『節約する人に貧しい人はいない。』など多数。(影/江藤大作)  ネットニュース編集者で、メディアの連載も多数抱える中川淳一郎さん。2020年、47歳で「セミリタイア」し、佐賀県唐津市に移住した。現在発売中の週刊朝日MOOK『定年後からのお金と暮らし2021』では、どのようにしてそれを達成したのか、赤裸々に語ってもらった。 *  *  *  九州の玄関・博多から高速バスで90分。日本百景の一つ・唐津湾に接する佐賀県唐津市は、呼子の「活イカ」や唐津焼などで知られている。この街に東京から移住したのが、中川淳一郎さんだ。  大学卒業後、博報堂に勤め、退職後はライター・編集者の仕事を未経験の状態で引き受け、フリーランスとして働く。小学館でニュースサイト「NEWSポストセブン」の立ち上げなどを提案し、ウェブメディアを黎明期から支えてきた。だが47歳を迎えた昨年、「セミリタイア」としてキャリアに区切りをつけ、東京を離れた。 「年に364日、仕事をしてきました。年120日休みがある人に換算すれば、60歳の人と同じぐらい働いたと思うんです。それに競争の激しいフリーランスの世界では、50代になると、下の世代から疎まれるかもしれない。若手に『要らない人だ』と思われるのは怖い。そう思われる前に辞めたかったんです」  こうした理由で、2013年、40歳の時にセミリタイアすることを決意した。 「当時は『東京五輪が終わったらアメリカに住もう』と思っていたのですが、コロナでそれもできなくなってしまい、どうしようと思っていた時に仕事の友人から唐津を勧められました」  唐津には「昔、仕事で一度行ったことがあるだけ」という中川さん。しかし引っ越してからは「魚が安くてうまい」「春から釣りが楽しみ」「人も親切で受け入れてくれる」など、良い面ばかりが目についた。 「フェイスブックに写真を投稿しても、顔つきが穏やかになった、とよく言われます(笑)。競争から降りて、人間関係からも解き放たれました」 ■先人が周りにいなかったからこそ、一番手になれた  今は自身が執筆する約40本の連載をメインの仕事とし、それ以外の編集の仕事はすべて後任者に引き継いだ。そのために中川さんは、5年前の15年にはすでにセミリタイアの意思を関係者に伝え、後戻りできないよう背水の陣を敷いていた。 「そうすると撤回できない気持ちになるんですよね。周りの人も最初は『またまた』と笑うのですが、ずっと言い続けることで、『本気で辞めるつもりなんだ』と理解してくれました」  セミリタイアのモデルケースとなるような先人は周りに誰一人いなかった。「でもだからこそ、一番手になることができる」と話す。 「フリーライターを始めたときも、広告代理店出身の同業者はいませんでした。ネットニュースがまだあまりなかったころ、出版関係者が嫌がる無料の記事配信を提案しました。こうしたキャリアで地方移住をした人は珍しいので、いまも自治体からPRの仕事がきたりします。みんなの逆を行くことで一番手となり、仕事をもらえるのです」  とはいえ、いくら仕事があったとしても気になるのがお金の問題だ。 「定年を迎える方には、今からでもいいから浪費をやめてくださいと言いたいです。私は20代から浪費をやめていたから、47歳でセミリタイアができました」  中川さんは博報堂にいた4年間で1300万円を貯金した。この年齢までにこの金額をためようといった具体的な目標はなかったが、いつ会社を辞めてもいいよう、貯金残高が減らないように通帳を気にしていた。 「臆病なんです。豪快で見栄を張る人生よりもいいと思います」  では、スムーズな定年を迎えるために、どのように節約をしていけばいいだろうか? その一つが自炊だ。自炊をテーマにした著書では、「栄養面や免疫を高めるという観点から考えると自炊をし、野菜も大量投入して数多くの食材を摂った方が優れているのは自明である」と喝破した。そして何より、自炊は安い。 「無職になり、貯金を切り崩していた時、マクドナルドの一つ59円のハンバーガーをアレンジしたのが自炊の原点です。野菜がないのでレタスを買い、ベーコンを焼き、豪華にするのです。チーズバーガーを買うよりも自分でスライスチーズをちょい足ししたほうが節約できるということも学びました」  仕事で多忙になってからも自炊は続けている。 「お酒のつまみを料理して、妻と楽しく飲んでいます。自炊は娯楽でもあるのです。唐津は東京よりも間違いなく物価が安いですし、節約の効果を感じています」 ■名前に価値を感じて無理して住むのはバカ  また、毎月の固定費としてかかるのが住まいに払うお金だ。「家賃は月収の3割」という説もあるが、「それはうそ」と否定。中川さんの住まいの遍歴を見せてもらうと、家賃が月収の3割を超えたことは、収入が激減した時を除き、ない。(注:博報堂を辞めた際、月収が5万円に減った。風呂なし、トイレ共用で月3万円の部屋に引っ越し、家賃の占める割合は60%だった) 「〇〇パークタワー、〇〇ヒルズのような名前に価値を感じて無理して住むのはバカですよ。収入に応じて生活水準を上げると、貯金はできません」  このことに関連して中川さんが繰り返し強調するのが、「見栄を張らない」ということだ。 「昨今は在宅勤務が推奨されていますが、快適な椅子が必要だといって7万円もする椅子を買う人がいます。そして、フェイスブックで自慢する。私は01年に東大の先生からもらった不用品のパイプ椅子で仕事をしています。『座れる』という実利を取れば、椅子にお金をかける必要はないはずです」  唐津の生活を満喫する中川さん。最後に、地方移住をお勧めしたいと思った、あるエピソードを教えてもらった。 「農業に興味があり、伊万里市にいる74歳の農家の方を訪ねました。するとその方は『こんなに若い人がいてよかった』と言うのです。私はもう47歳ですよ。それでもここでは若者に見られる。  糸島の村の寄り合いでも、57歳の九州大の先生が若手扱いされているようです。地方の方は後継者不足で悩んでいる。そう考えると、50代の人が、地方の酒蔵のおじいさんに『弟子にしてください!』と頭を下げに行くのも面白いと思いませんか。定年前後の人が『小僧』になれる場所が、地方にはある。世話を焼いてもらえるし、向こうも小僧を探しているのですよ」  それゆえに「私は大企業の部長にまでなった男だ」などと偉そうにしてはいけません、と警告する中川さん。見栄を張らない定年ライフを送ろう。(文/AERAムック編集部・白石圭) ※週刊朝日MOOK『定年後からのお金と暮らし2021』より
「ゲコノミスト」「ソバーキュリアス」って知ってる? ノンアル市場隆盛、新たな流行の予感!
「ゲコノミスト」「ソバーキュリアス」って知ってる? ノンアル市場隆盛、新たな流行の予感! YOILABO 「THE MID」はソムリエの監修でできた、ソフトでもハードでもない“ミドルドリンク”。スパイスと茶葉が料理を引き立てる(写真:各社提供) ロイヤルブルーティー/ゲコノミストもノミストも魅了する。最高級版は税込み66万円だが、完売。「33万円のものなら、あと少しご用意できます」とのこと(写真:各社提供) AERA 2021年3月29日号より  毎日飲み歩いていた、あの日々は何だったのだろう。コロナ禍で飲み屋から遠ざかったら、朝もスッキリ。そんな人が増え、お酒に代わってノンアル市場が隆盛だ。AERA 2021年3月29日号に掲載された記事で、ノンアル市場の動きを追った。 *  *  *  財布の中身がほとんど減らない。考えられる理由は一つ。飲みに行かなくなったからだ。  出版社勤務の男性(45)は、以前はほぼ毎晩のように銀座や六本木のバーで飲んでいた。ところが昨春の緊急事態宣言以降、会社から「原則、会食禁止」という通達が出され、バー通いを自粛。妻と2人暮らしの自宅ではお酒を飲まないため、飲酒量がほぼゼロに。  代わりにハマったのは、オンラインジム。約1年で体重はトータル15キロ減った。スカッと汗をかくのが気持ちよく、お酒なしで迎えた朝の爽快感は何物にも代え難い。飲まない日が続くにつれ、「お酒はもう卒業かな」と思うようになった。行きつけだったバーがどうなったか気になるものの、夜、飲みに出かける気がしない。  総務省の家計調査によると、コロナ禍で外食での飲酒代が激減。最初の緊急事態宣言が出た2020年4月は前年同月比90.3%減。「Go To キャンペーン」があった10月、11月も、前年同月比マイナスは変わらずだった。   ■ノミストも新規顧客に 「コロナで飲み会や会食が敬遠され、お酒を飲まない動きが急加速した。アフターコロナになっても、一度変わった習慣は元に戻らないでしょう」  こう指摘するのは、資産運用会社「レオス・キャピタルワークス」社長の藤野英人さん。下戸である藤野さんは、コロナ以前から「下戸市場」に関心を持っていた。というのも、厚生労働省の「平成30年国民健康・栄養調査報告」では「お酒を飲まない(飲めない)」「やめた」「ほとんど飲まない」人が約56%。しかし世間ではお酒を飲まないことをネガティブに捉える傾向が強く、お酒を飲まない人向けの商品やサービスはほぼ未開拓だったからだ。 「下戸市場が新たな成長産業となる可能性は高い」と考えた藤野さんは、下戸市場を「ゲコノミクス」、お酒を飲めない・飲まない・飲みたくない人を「ゲコノミスト」と命名し、19年6月にはFacebookグループ「ゲコノミスト(お酒を飲まない生き方を楽しむ会)」を開設。下戸の気持ちを理解したいノミスト(飲める人)も含め、会員数は約4700人に上る。  もともと健康などの観点から注目されていた下戸市場が、コロナ禍で飲酒量が減るという現象が起き、ますます注目されているというわけだ。冒頭の男性のようにもともとはよく飲んでいたノミストが、飲まない習慣を身につけたことで下戸市場の新規顧客となったケースもある。 「欧米ではソバーキュリアス(Sober Curious=体質と関係なく飲まない人)がブームになり、日本でも『卒アル(アルコールを卒業)』が増えている。飲食業界も今後ゲコノミスト向けの商品開発がより重要になるのは間違いない」(藤野さん) ■66万円の緑茶が完売  1本(750ミリリットル)税込み66万円。年代物のワインの話ではない。緑茶だ。驚くことに、完売……。  販売するのは、ボトルに入った高級茶のトップブランド「ロイヤルブルーティージャパン」。同社が扱うボトルドティーは最も安いものでも1本4千円台。しかし会長の佐藤節男さんによれば「コロナ禍でもネット注文は好調で、2月は前年同月比110%の売り上げ。ワインはお酒を飲む人しか飲まないが、お茶は飲まない人も飲む」。  従来なら「お酒」が当然という場所にも導入されている。お酒をたしなみながら寿司をつまむのがこれまでの定番だった名古屋のある寿司屋では、33万円のお茶を含むペアリングの会の予約を1人8万8千円で募ったところ、30分で埋まった。 「ナイトクラブやホストクラブからの注文も増えています。お酒を飲まないお客さんに烏龍茶やコーラを出すより、高級茶の方が喜ばれる。従業員も酔わずに済む。飲む人も飲まない人も、みんなハッピーなんです」(佐藤さん)  緊急事態宣言が出ている地域では、飲食店の閉店も早い。長々とお酒を飲むより、ノンアルで短く切り上げるという人が増えている影響もありそうだ。 「世界からお酒の不公平をなくす」をミッションに掲げているのは、ベンチャー企業「YOILABO」だ。創業者の播磨直希さんはお酒好き。一方で、飲めない・飲まない人との溝を感じていた。飲食店ではお酒のメニューは豊富なのに、ノンアルドリンクは烏龍茶、炭酸水、コーラ、オレンジジュースくらい。この不均衡をなんとかできないか? 調べてみると、食事に合うノンアルドリンクを作りペアリングするには専門的な知識が必要で、飲食店が自らやるには難しいことがわかった。  それならプロがしっかりと作ったノンアルドリンクを飲食店に提供すればいい。播磨さんはお茶をベースに、独自ブレンドの「Pairing Tea」を飲食店用に開発。続いて、家庭用の「THE MID」も商品化した。 ■ノンアルバーも登場  いずれもペアリングを大前提として設計されている。 「コロナで飲食店は厳しい状況で、ウチもその影響を受けていますが、クラウドファンディングサービスを使って開発した家庭用は反響が大きかった。それだけ求められていたということ。お酒を飲まない選択肢はこれからもっと受け入れられていくと思います」(播磨さん)  ある年代以上の人なら記憶にあるであろう「紅茶キノコ」。かつて一大ブームを巻き起こしたこの飲み物が「コンブチャ」と名前を変え、ファンを増やしている。現在、世界のコンブチャブルワリー数は1626カ所。25年には世界市場3677億円に成長すると予測されている。  コンブチャはお茶に砂糖を加え、菌塊を入れて発酵させた飲み物。コンブチャを生産・販売する「大泉工場」広報担当の林健志さんが言う。 「発酵飲料なので整腸作用や免疫力向上が期待できる。それもあってか、18年に飲食店への販売を始めて以降、取扱先が50~60店舗のラインで上下していたのですが、コロナ禍の今、一気に70店舗になり、さらに数が増えそうな状況です」  コンブチャを置くバーもあり、「お酒のようにノンアルドリンクで料理を楽しみたい。免疫アップにつながるならなお良し」という人の集客に一役買っているという。  バーといえば、「イコールお酒を飲む場所」では今後なくなるかもしれない。昨年3月、東京駅近くに開店した「Low−Non−Bar」は、日本初の本格ロー/ノンアルコールバー。オーナーでバーテンダーの宮澤英治さんはほかに6店舗のバーを経営するが、宮澤さん自身は健康のために4年前にお酒をやめた。しかし、バーそのものは好き。バーテンダーとおしゃべりをし、一日の疲れを癒やせる場所がバー。だれもが楽しめるバーを作りたいと考えた。早くも飲めない・飲まない人の止まり木として話題になっている。 「世界的に見て、低アルコール志向は強くある。ロー/ノンアルドリンクを勉強していかなければならないと考えているバーテンダーも多い」  今後はさらにロー/ノンアルドリンクをそろえるバーが出てくるだろうとみている。 ■アルコール依存も減?  こう見てくると、ゲコノミクスは健康志向が支えているとも言える。一度飲まなくなると、健康にもいい、それなら飲まない、飲んでもノンアルで、という循環が生まれているようだ。  アルコール依存症治療に長年取り組む「大船榎本クリニック」精神保健福祉部長の斉藤章佳さんは「お酒はキング・オブ・ドラッグ。身体的・社会的損失の影響があらゆるドラッグの中で最も大きい」と指摘する。コロナでゲコノミクスの市場拡大が急激に進み、ゲコノミストばかりかノミストも飲みたくなるノンアルドリンクが増えれば、アルコール依存症といった問題も減っていく可能性がある。  1年365日最低ワイン1日1本消費の記者としては……。うーん、やっぱりアルコール入りがいいな。(ライター・羽根田真智) ※AERA 2021年3月29日号
斬新なアイデアも「生意気な嫁を育てた村」とかつて揶揄された飯舘村に、ハチ公像が贈られた理由
斬新なアイデアも「生意気な嫁を育てた村」とかつて揶揄された飯舘村に、ハチ公像が贈られた理由 「飯舘村忠犬ハチ公像維持会」は新旧の村民が起ち上げた。三瓶政美会長(右)と松本奈々副会長(左)、後ろが塚越栄光事務局長(撮影/菅沼栄一郎) AERA 2021年3月29日号より  福島・飯舘村は震災前と比べて人口が2割強に減るなど、震災10年で生活環境が一変した。そんな中、100人を超える移住者が村民たちと新たな村づくりに挑みはじめた。AERA2021年3月29日号の記事を紹介する。 *  *    震災以来、福島・飯舘村では様々な団体が調査、研究活動を展開してきた。  ボランティアや研究者らが地元農家と震災直後に起ち上げたNPO法人「ふくしま再生の会」は、コミュニティー再生や村内の放射線測定、農畜産業再生などに力を入れてきた。地元農家らが出資した「飯舘電力」は太陽光で発電と植物生育の一石二鳥を狙うソーラーシェアリングなどを開発。ほかにも東京大学農学部の研究者が、放牧地の水飲み場にカメラを固定して、牛の健康状態を診断するシステムなどの開発を試みる。 「瀬戸内国際芸術祭」など現代アートをまちづくりに生かす活動を展開する北川フラムさんも、実験場に参入する予定だ。2年ほど前に十数人のアーティストと村内を視察。先月のオンラインフォーラムでは、「飯舘にはやはり、牛が大切。アートがどう農村と関われるか。村人が参加できる芸術祭を具体化したい」と話していた。  そうした移住者らとの共同作業を見守るのは三瓶政美さん(72)。「何でも一緒にやろう、という気持ちが大事だね」と言う三瓶さんは、村の特別養護老人施設「いいたてホーム」の元施設長で、全村避難中も100人を超えるお年寄りらと村を守った経験がある。  そうした「留守番」中に、渋谷の商店街から寄贈された「忠犬ハチ公像」を維持する会の会長も務める。副会長は先の松本奈々さんで、事務局長は「100人目の移住者」だった塚越栄光さん(45)だ。新旧住民の3人が相談して、ハチ公には、「村民(主人)の帰りを待つ」と同時に「新旧村民の出会いを見守る」役割もお願いすることにした。  東北各地の被災後のまちづくり事情に詳しい大滝精一・東北大学名誉教授は、こう指摘する。 「震災前の姿に戻るという目標でなく、人口減を受容しつつ、新しいまちづくりを目指す覚悟、決意を共有しながら進んでいくモデルとして興味深い」 ■「つなぐ」「ハブ」が大切  こうした試みが成功するカギは、「新旧の住民が協力関係を結べるかどうか」だと指摘。市民をつなぐ役割を持つNPOなどの存在、飯舘村でいえばMARBLiNGのような「ハブのような役割」を果たす存在が重要だという。  大滝さんは、飯舘村に息づく発想の豊かさの一例として「若妻の翼」をあげた。1989年から5年間実施された村単独事業だ。40歳代までの女性に10日間、欧州旅行をしてもらった。5年で91人が訪欧、自己負担が10万円だった。欧州で自由や自立を体得してもらうことが目的だったこのプロジェクト。一部で「生意気な嫁を育てた村」と呼ばれたが、時代の潮流に敏感な風土が、村に根付いている。そんな伝統と知恵を掛け合わせ、新たな村づくりに立ち向かう。(ジャーナリスト・菅沼栄一郎) ※AERA 2021年3月29日号
中井貴一の生きる醍醐味「正しいばかりの世界は息苦しくてつまらない」
中井貴一の生きる醍醐味「正しいばかりの世界は息苦しくてつまらない」 中井貴一 昨年末からドラマの収録のために体重を増やした。現在は、次の舞台に備えスリム化&筋力アップに励む 「今作で、久しぶりに黒電話のダイヤルを回しました。急いで電話をかけようとすると、ゼロの穴に指をかけたつもりが滑ってしまい、うまく回せない。一回電話を切り、またダイヤルに指をかける。焦る心が、その指先の動きに表れる。今ではほとんどしないアナログ的な動きや感覚に、懐かしさを覚えたんです」  そう語るのは、俳優・中井貴一さんだ。山崎豊子の『華麗なる一族』がWOWOWでドラマ化される。中井さんへオファーが来たとき、当初は長男の鉄平役を演じるのかと勘違いした。 「ちゃんとお話を伺ったら、鉄平の父の万俵大介でした(笑)。大介は高度経済成長期、閨閥によって富と権力を獲得しようとする銀行家です。子供の頃、佐分利信さんが大介役を演じた映画を観たことは鮮明に覚えています。70年代のドラマでは山村聰さん、2000年代には北大路欣也さんが演じられていますが、まさか自分がそんな年齢に達していたとは。正直驚きました(笑)」  WOWOWでは、5年前の開局25周年には「沈まぬ太陽」、30周年に「華麗なる一族」と、折に触れ、山崎豊子の小説をドラマ化している。コロナ禍も手伝って、世の中の価値観が大きく転換しているこの時代に、描かれる昭和の人物像。中井さんは、万俵大介という人物に、どんな魅力を感じていたのだろうか。 「ひとつの信念を貫き通す人間は、いつの時代でも魅力的です。大介は『ついてこい』という言葉さえ言わず、野心を胸に自分の道を歩いている男。つまり人間の業や性(さが)を背負った人物です。欲望の塊ですが、どこかに悲しみも背負っている。人間が社会を形成する限り、矛盾や葛藤が生じるのは当然のことだと思いますし、どんなに立派に見える人物でも、必ずどこか愚かな部分、弱い部分、ずるい部分を持っている。どんなに才能と運と権力を持っている人物でも、社会を自分の思い通りに動かすことはできませんよね。生きていく上でぶち当たるそれらの困難や矛盾をどうやって受け入れていくか。それこそ、人間が社会を作り、社会の中で生きていく醍醐味でもあると思うんです」  ドラマの中で、万俵大介は子供たちの家庭教師という名目で、妾を本妻と一緒に住まわせている。 「妾が本妻と一緒に住んでいるなんて悪いことに決まっている。今だったらありえないことですが、それもこれも大介に魅力や甲斐性があるからできていることだと思うんです。すべて正しいことばかりが行われる世界というのを想像してみると、実は息苦しくてつまらないんじゃないか。僕はそんなふうに思ってしまいますね」  今の時代、正しさばかりが求められてしまうのは、SNSが普及したためでもあるだろう。 「SNSの発展によって、みんなが多様な意見を言えるようになっていきましたが、時に大多数の意見が『正』だとみなされる傾向がありますよね。その意見に取り残されるのを恐れるあまり、少数意見に一斉にバッシングが始まったりもする。少数意見のほうが『正』の可能性があるにもかかわらず、です。でも、少数意見が通らなくなったら、人間は退化してしまうのではないでしょうか。コミュニケーションツールの多くがデジタル化し、さらにコロナ禍でなかなか人に会うのが難しい状況ですが、僕はいつも心はアナログでいたいと思っています」 (菊地陽子 構成/長沢明) 中井貴一(なかい・きいち)/1961年生まれ。東京都出身。81年に映画「連合艦隊」で俳優デビュー。88年「武田信玄」で大河ドラマ主演。2003年の映画「壬生義士伝」では日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。昨年は、ドラマ「共演NG」でのコミカルな演技も話題となった。20年紫綬褒章を受章。NHK「サラメシ」のナレーションは10年にわたって続いている。 ※週刊朝日  2021年4月2日号より抜粋
隅田川で最後まで残った57年前「佃島」の渡し船 知られざるその船内の光景とは?
隅田川で最後まで残った57年前「佃島」の渡し船 知られざるその船内の光景とは? 隅田川を横断して、対岸の佃島渡船場に向かう佃島渡船。二艘目が無動力の客船で、後部に総舵手が乗り組んでいた。背景の佃島右側奥に銭湯(日の出湯)の煙突が見える。(撮影/諸河久:1964年8月24日)  1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、隅田川最後の渡し船となった「佃島渡船」(つくだじまわたしぶね)と月島の都電を回顧した。 *  *  *  幸いなことに長く続いているこの連載。ネット世代の若い人たちに、かつての東京の光景を知っていただきたくスタートしたが、皆さんからいただく反応を見ていると、ご年配と思しき方のコメントも多い。往時を振り返っていただくのは、この上なく嬉しいことだ。  そんな読者の皆さんの中に、隅田川の渡し船に実際に乗ったことがあるという人は、どれくらいいるだろうか。  筆者の少年時代は、地下鉄網が未発達だった。それゆえ居住する新富町(現・新富)から月島方面への交通手段は、都電で勝鬨橋や永代橋を渡るコースの他に、徒歩で隅田川畔の湊町(現・湊)に赴き、佃の渡しとして知られた「佃島渡船」に乗船して対岸の佃島経由で月島に行くコースが選択できた。  新富町から都電を使う場合は、勝鬨橋、永代橋のいずれの経由も乗換を必要としたため、年少者には料金が無料の佃島渡船は魅力的な存在だった。歩行者ばかりではなく、自転車利用者の乗船も可能で、晴海、豊洲、東雲方面への遠出に佃島渡船は必須の交通機関だった。  冒頭の写真を見ていただきたい。  湊町渡船場から佃島に向けて隅田川を横断する佃島渡船だ。曳船は石炭炊きの蒸気動力で、煙突には東京都の都章が掲げられていた。無動力の客船の後方に操舵手が乗務した。佃島渡船場は画面右側に位置し、背景には戦災を免れた佃島の家並と住吉神社の鳥居が写っている。  佃島渡船場から少し東に位置する清澄通りには、都電月島線の新佃島停留所が所在し、ここからは門前仲町や押上方面を結ぶ23系統(福神橋~月島)が頻繁に運転されていた。 佃大橋の架橋で消えた佃島渡船  次のカットは乗船客で賑わう佃渡船の船内の一コマ。客室への出入口は四か所あり、座席定員24名のボックスシートを配置していた。客室妻面に非常用の救命胴衣が収納されていた。対岸まで10分程度の乗船だから客室に暖房装置はなく、冬季には扉を閉めて寒風を防いだ。夏季は蒸し暑い船室には入らず、デッキに乗船して涼をとっていた。 佃島渡船の客室スナップ。ボックスシートが配置されており、乗客はちょっとした船旅を楽しめた。甲板上には自転車を積載していた。(撮影/諸河久:1964年8月24日)  小学生の筆者は、学友を誘って弁当持参で佃渡船に乗船。件のボックスシートで昼食を摂りながら何往復か船旅を楽しんだ。この時は船頭さんに「お前たち、渡し船は観光船じゃないぞ。いい加減に降りろ!」と叱責された記憶がある。  戦前の月島は深川方からの相生橋が唯一の連絡橋で、永代橋から下流の隅田川には橋がなかった。隅田川畔の石川島には石川島造船所(後年、石川島播磨重工業→現IHI)が所在した。ここで進水・入渠する船舶の通行を橋が支障するために、石川島から下流の架橋は実施されなかった。1940年、隅田川河口に架橋された勝鬨橋が開閉式構造になったのも、石川島造船所に出入りする船舶に対応したものだった。  勝鬨橋が架橋されるまで、往年の隅田川には鬨(かちどき)、月島、佃島の三つの渡し船があり、月島方面への往来に供されていた。前述の勝鬨橋の竣工で、鬨、月島の渡船は役目を終えて廃止された。三つの渡し船のうち一番上流にあって中央区湊町と佃島を結んでいた佃島渡船は、隅田川最後の渡船として最盛期には一日70往復も運行された。石川島播磨重工の造船所移転や月島への道路交通の逼迫により、1961年に佃大橋の架橋工事が開始された。佃島渡船が廃止されたのは、佃大橋が竣工した1964年8月のことだった。 廃止3日前の佃島渡船場風景。画面左側の「佃島渡船」の石碑は移築保存されている。(撮影/諸河久:1964年8月24日) 佃島に残る旧き佳き時代の面影  服装から夏を感じさせる次のカットは、佃島渡船場から対岸の明石町方面を撮影した一コマ。昭和39(1964)年8月27日に佃大橋が開通。同時に佃島渡船が廃止される旨を告知した縦看板が掲示されていた。渡船場の屋根越しに完成した佃大橋の橋梁が写っている。  旧景の佃島には戦災を免れた家並や盆栽を飾る路地裏など、旧き佳き時代の面影がここかしこに残っていた。川畔の路上では、漁獲した鯵を原材料にする「くさや」の天日干しが散見されたりして、名物の佃煮店とともに、漁村だった昔日の風情を醸し出していた。 佃島渡船場跡の近景。隅田川の堤防は嵩上げされ、渡船乗り場の跡地には「佃まちかど展示館」が建設された。展示館の右側に移築された「佃島渡船」の石碑が見える。(撮影/諸河久:2021年2月7日)  次のカットが渡船廃止から57年を経た佃島渡船場跡の近景。正面の建物は「佃まちかど展示館」で、館内には千貫神輿や中央区有形文化財の龍虎と二対の獅子頭が展示されている。画面右側のカーブミラーの左隣には、旧景左隅に写っている「佃島渡船」の石碑が移築保存されている。また、手前の広場では江戸期から踊り継がれた東京都指定無形民俗文化財「佃島の盆踊り(念仏踊り)」が毎年7月に開催されている。 変貌を遂げた新佃島停留所と初見橋界隈  佃島渡船場を東南に歩くと、佃川支流に架かる佃小橋が見えてくる。ここまでが江戸期の佃島で、佃小橋を渡った先が明治期に埋め立てられた新佃島になる。徒歩で左から右にクランクすると佃大通りに出る。まっすぐに数分進むと都電月島線が走る清澄通りに行き当たり、清澄通りの左右に新佃島停留所の安全地帯が見えてくる。   新佃島停留所で乗降扱中の23系統月島行きの都電。画面左側に折返し分岐器があり、11系統新宿駅前行きや臨時9系統渋谷駅前行きが発着していた。(撮影/諸河久:1965年10月28日)  次のカットが、新佃島停留所に停車する23系統月島行きの都電。23系統はこの先二つ目の月島(旧称月島通八丁目)が終点だ。停留所で都電を待つ乗客は、ここで折り返す11系統新宿駅前行きの到着を待っているのだろう。新佃島停留所は11系統や23系統の他、朝夕のラッシュ時には臨時9系統渋谷駅前行きや臨時30系統東向島三丁目(旧称寺島町二丁目)行きの二系統も加わり、賑いを見せていた。   佃大橋架橋時に埋め立てられた佃川の初見橋跡を走る23系統福神橋行きの都電。右側に佃大橋の終端道路と左側に佃島説教所の寺院が見える。月島通三丁目~新佃島(撮影/栗原秀行:1970年11月29日)  次が新佃島と月島通三丁目の間に所在した旧初見橋の交差点を行く23系統福神橋行きの都電。画面の右奥には月島通一丁目、月島西仲通一丁目(現・月島一丁目)の家並が展開した。以前はこの地点に隅田川と朝潮運河を結ぶ佃川が流れており、佃大橋架橋時に埋め立てられた。佃川には隅田川寄りから佃橋、新月橋、初見橋が架けられていた。画面右奥の佃大橋への乗降道路の終端が旧新月橋跡で、道路の左側には浄土真宗本願寺派佃島説教所が写っている。この寺院は佃島の人々の浄財によって建立され、建直しのため先年解体されるまで、当地のランドマークの一つだった。   初見橋交差点の現景。頭上に新富晴海線の新月陸橋が架橋されて、往時の面影は皆無となった。(撮影/諸河久:2021年3月4日)  最後のカットが初見河岸の近景で、佃大橋から延伸された都道新富晴海線の新月陸橋が頭上を覆っていた。右奥に見える佃大橋終端部は、旧新月橋跡の地点で地平に降りている。  月島地区から都電の姿が消えたのは1972年11月だった。都電が走った清澄通りは拡幅されて清楚な街並みに変貌していた。都電や佃島渡船の乗客で賑わった生活感に溢れる半世紀前の風情が懐かしい。 ■撮影:1964年8月24日 ※AERAオンライン限定記事
国際女性デーには約20分間も女性をたたえるニュース 一方でミニスカートは注意の対象…北朝鮮の“偽りの男女平等”
国際女性デーには約20分間も女性をたたえるニュース 一方でミニスカートは注意の対象…北朝鮮の“偽りの男女平等” 韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領と南北首脳会談を行った金正恩氏(右)と李雪主氏/2018年4月27日、韓国の板門店(Korea Summit Press Pool/gettyimages)  北朝鮮でも国際女性デーに、女性をたたえるニュースが流れた。だが、北朝鮮の女性をめぐる環境や地位は実際にはどうなっているのか。AERA 2021年3月29日号で取り上げた。 *  *  *  3月8日は国際女性デー。同夜、北朝鮮の朝鮮中央テレビは23分余の放送時間中、約20分を「国際婦女節」のニュースにあてた。様々な職場で活躍する女性の姿、花束を渡してたたえる同僚の男性たち。北朝鮮では最近、金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党総書記の妻、李雪主(リソルチュ)氏や実妹の金与正(キムヨジョン)氏、崔善姫(チェソンヒ)第1外務次官ら女性の活躍も目立つ。だが、様々な資料や証言をたどると、「男目線」で作られた、偽りの男女平等の世界が浮かび上がる。 ■女性は大事な労働力  北朝鮮は建国前の1946年、「男女平等権法」を制定した。日本統治から解放した祖国を「地上の楽園」に変えるべく、女性の選挙権や被選挙権などを保障し、社会主義の優越性を説く根拠の一つにした。  確かに、北朝鮮では多くの女性が社会進出を果たしている。北朝鮮では各世帯で最低1人以上が、国家のために働く義務を負う。朝鮮戦争(50~53年)で大勢の男性が死亡したことや、北朝鮮当局が「千里馬運動」と呼ばれる大勢の労働者を動員した国家建設事業を推進したことなどから、大勢の女性が働く機会を得ることになった。北朝鮮では共働き家庭のための託児所が数多くあり、なかには週末を除いて月曜から金曜まで続けて子どもを預かる施設まである。  しかし、それは労働力として期待されただけであり、本当の意味で、男女平等の世界が実現したわけではなかった。その象徴的な言葉が、金正日(キムジョンイル)総書記が生前好んで使った「雌鳥が鳴けば、家が滅びる」(女性が力を持つとろくなことがない)という朝鮮の古いことわざだった。  金総書記は、金日成(キムイルソン)主席の後妻、金聖愛氏との間で激烈な権力闘争を繰り広げたため、女性が政治の世界に進出することを嫌ったとされる。2009年初め、金総書記は三男の金正恩氏を後継者に指名した。その際、同席した金与正氏が「私も政治に参加したい」と訴えたが、許されなかったという。  金総書記は女性関係に放埒で、正妻の金英淑(キムヨンスク)氏のほか、17年に暗殺された金正男(キムジョンナム)氏の母、成恵琳(ソンヘリム)氏や正恩・与正兄妹の母、高英姫(コヨンヒ)氏らと次々に内縁関係を結んだ。側近たちとの秘密パーティーには「喜び組」と呼ばれる女性の接待係を呼んだ。当時の平壌では、「街を歩けば、1日に1度は将軍様と似た顔に出会う(それだけお手つきが多い)」という笑えないジョークが流行したという。  男尊女卑、家父長制度という朝鮮王朝時代の遺物が、金総書記の女性に対するゆがんだ考え方と相まって、そのまま北朝鮮社会に残る結果になった。 ■ミニスカは注意の対象  金総書記率いる北朝鮮は女性に「主体性」を求めた。それは、「女性らしさ」を求めるという男性の目線から決めた独りよがりな基準だった。最近では見られなくなったが、女性はチマ(スカート)姿が基本で、自転車に乗ってはいけないとされた。現在でも、北朝鮮では髪の色を黒以外に染めることは認められていない。体にぴったり合う服や、肌を多く露出するタンクトップやミニスカート姿で街を歩けば、「糾察隊(キュチャルデ)」と呼ばれる風紀担当者に注意される。 「女性は30歳前には結婚するものだ」というのが社会通念になっている。結婚は自由恋愛もあるが、まだまだ親や職場の上司の紹介でのお見合い結婚が多い。家庭を持てば、子どもを産むのが当たり前だとみられてもいる。ただ、平壌でも経済難のため、事実上「一人っ子政策」が推奨されているという。  職業にも偏りがある。北朝鮮の保健医療事情に詳しい韓国の安景洙(アンキョンス)統一医療研究センター長によれば、北朝鮮の看護師はほぼ全員女性で、しかも結婚すると退職する人が多い。教育現場や保育施設などは女性が多いが、大学教育現場では男性が多数を占める。北朝鮮が3月に開いた市・郡党責任書記講習会の参加者は、国営テレビの映像を見る限りでは全員男性だった。  セクハラも横行している。かつて94年の米朝枠組み合意をまとめた姜錫柱(カンソクチュ)副首相と生前、平壌で会食した専門家によれば、姜氏が突然、女性従業員の胸を触って、「大きくなったな」と笑う場面に出くわして驚いたという。従業員は怒らず、「本当かどうか、確かめてみますか」とかわしていた。 ■セクハラは我慢する  1996年と2003年にそれぞれ朝鮮新報平壌特派員を務めるなど、北朝鮮での長い取材経験がある、週刊金曜日編集部の文聖姫(ムンソンヒ)さんも、特派員時代、セクハラに遭ったという。文さんは「文句を言ったら、不利益を受けるかもしれません。小さいときから、我慢するものだと教えられているのでしょう」と語る。文さんは訪朝前、母親から「女性なんだから、会食時にはお酒を控えなさい」と助言されたという。(朝日新聞編集委員・牧野愛博) ※AERA 2021年3月29日号より抜粋
メーガン妃と小室圭さん ふたりの「上昇志向」は想定を超えていた
メーガン妃と小室圭さん ふたりの「上昇志向」は想定を超えていた 眞子さまとの結婚延期が公表された当日の2018年2月6日、勤務先を出る小室圭さん。同年8月から米フォーダム大学のロースクールへ留学中だが、今年5月に卒業する予定だ (c)朝日新聞社  人が上昇志向を持つのは自然なことだ。だがそれが、時に「自己犠牲」がキーワードになる王室や皇室が絡むと、難しい面も出てくる。共感を集められないメーガン妃と小室圭さんの共通項を読み解く。AERA 2021年3月29日号から。 *  *  *  どことなく似ている。英国のメーガン妃(39)を見てそう思った。誰に似ているかというと、秋篠宮家の長女眞子さま(29)のお相手、小室圭さん(29)だ。予定調和でない感じ。アンコントローラブルな感じが重なった。 ■対照的でも共通点  3月7日夜、米CBSテレビで放送されたメーガン妃のインタビューで最も注目されたのは、長男アーチー君(1)を妊娠中、「肌の色がどれだけ濃いのかという懸念」について、王室内でやりとりがあったという告白だった。ことの真偽はわからない。が、世界中で「ブラック・ライブズ・マター」が支持されている時代に、アフリカ系米国人の母を持つメーガン妃が、アフリカ系米国人のインタビュアーにそれを語れば、どれほどの反響があるか。夫妻はしっかりわかっていたはずだ。  元女優のメーガン妃がインタビューを重要視することは、夫妻が公務から引退した2020年時点で王室も予測したはずだ。が、これは、想定を大きく超えていたに違いない。  そう思い、小室さんが浮かんだ。語るメーガン妃に、沈黙の小室さん。対照的だが、「想定を超えている」という面では、同じだ。王室、皇室、国民。それぞれの想定を大きく超えてくる2人だと感じたのだ。  眞子さまと小室さんが婚約内定の記者会見をし、母の「借金問題」が発覚したのが17年。翌年2月に結婚延期が発表されると、半年後、小室さんは米国の大学に留学した。「(借金問題は)母も私も解決済みと理解している」という文書を発表したのが19年1月、以後は音沙汰なしだ。  一方、眞子さまは20年11月に「文書」を公表、結婚への強い意志を明らかにした。同時に「様々な理由からこの結婚について否定的に考えている方がいらっしゃることも承知しています」と述べた。 「返さない400万円」と、結婚時に眞子さまに支給される「1億円超の一時金」が大きいことは間違いない。事情はさておき、さっさと返すか、いずれ返すと表明する。それが嫌なら、一時金の辞退か。それなら返した方が早いのに、と思うのが、大人というものだ。  その後秋篠宮さまは「結婚を認める」としつつ、「見える形での対応が必要」と会見で語り、宮内庁長官は12月の定例会見で小室さん側の「説明」に言及した。2人とも「大人の対応」を求めたわけだが、小室さんは無反応。しみじみ想定を超えた人だ。 ■「公」より「私」寄りの人  メーガン妃と小室さんに共通するのが、上昇志向だと思う。誰がどんな志向を持とうと自由だが、それゆえに王室、皇室入りを望んだのかもしれないと感じてモヤモヤする。2人を、どうとらえればいいか、識者に話を聞くことにした。  名古屋大学の河西秀哉准教授(歴史学)から出たのが、「自己犠牲」という言葉だった。 「今の皇后である小和田雅子さんは、今の天皇に見初められ、何度も結婚を求められて承諾しました。美智子さまも同様です。外交官だった雅子さんがわかりやすいですが、2人とも『上昇しなくていい人』でした。つまり皇室入りにはいいか悪いかは別として、皇室外交という自己実現はあったにせよ、ある種の自己犠牲という面がありました。2人とも『お役にたつ』という思いがあったと思います」  小室さんもメーガン妃も、「公」より「私」寄りの人と見える。そういう人が皇室、王室に現れるのは、社会的現状と重なると河西さん。「新自由主義的な世の中」が影響しているというのだ。「新自由主義的な世の中では自己実現が重要で、それには『上昇』です。上昇志向的な人が増えているのは間違いないと思います」。でも、だからこそ平成から令和にかけて皇室を敬愛する人が増えたという。  例えば上皇、上皇后夫妻が高齢にもかかわらず、毎週のように被災地に足を運ぶ姿。自己犠牲と自己実現の板挟みで病を得て、何とか折り合いをつけて皇后になった雅子さま。ギスギスした世の中にあって「無私の心」で生きる人たちを見て、若い人も皇室を敬愛するようになった。  その点小室さんは、若い人たちには自分たちと同じように感じられる。皇室が大切にしてきた「丁寧に語る」ことをしないことも、炎上のガソリンを投下してしまっていると河西さん。 「人には上昇志向的な部分と自己犠牲的な部分と両方がある。例えば紀子さまが秋篠宮さまと結婚した時、上昇したいという思いがゼロだったかといえばそうではないでしょう。でも当時、マスコミは『キャンパスの恋』『3LDKのプリンセス』という美しいストーリーを描き、国民も受け入れ、祝福しました」。結婚する人、国民、双方の微妙なバランスで成立していたこの関係、今後は崩れるだろうと河西さんはみている。 「これから皇族と結婚しようという人は自己犠牲の思いがあったとしても、上昇志向的な面を粗探しされてしまうでしょう。100パーセント無私の人などいるはずもなく、佳子さま、愛子さま、悠仁さまの結婚のハードルはすごく上がってしまった。小室さん、罪だなあと思います」と河西さん。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2021年3月29日号より抜粋
YOASOBI、Ado、優里…動画SNS発信ソングの豊作で変わった「ミュージシャン像」と「ヒット曲の定義」
YOASOBI、Ado、優里…動画SNS発信ソングの豊作で変わった「ミュージシャン像」と「ヒット曲の定義」 「うっせぇわ」のMV(画像はYouTubeより)  3月13日放送の「ノブナカなんなん?」(テレビ朝日系)に、まなまるが登場した。ヒット曲「うっせぇわ」(Ado)をクレヨンしんちゃんの物まねで弾き語る動画がバズったアーティストだ。  7日と14日の「林修の初耳学」(TBS系)には2週連続で、YOASOBIが登場。ヒット曲「夜に駆ける」にまつわるエピソードなどが紹介された。  そんな土日のテレビを見ながら、音楽シーンの変化を改めて感じた。 「うっせぇわ」も「夜に駆ける」も、新たなシステムから生まれたヒット曲だからだ。どちらもボカロPが作詞作曲を手がけ、SNSで注目された歌手がうたって、動画サイトから火がついた。ともに配信限定ながら、音楽チャート首位にまで登りつめている。  もっとも、こうした流れは数年前から目立ち始めていた。2009年にボカロP・ハチとして、12年に本名で活動を開始した米津玄師は18年に「Lemon」をヒットさせ、翌年にはFoorinに提供した「パプリカ」(リリースは18年)がレコード大賞を受賞する。  3月3日に放送された「関ジャム J‐POP20年史 2000~2020プロが選んだ最強の名曲ベスト30」(テレビ朝日系)では「Lemon」が17位、「パプリカ」が7位にランクイン。「Lemon」について、作詞家のいしわたり淳治がこんな評価をしていた。 「YouTubeなどで音楽を聴く世代はイントロを飛ばして聞く人も多いので『再生した瞬間から”歌”が続いていく』というこの曲の構成は、世の中の音楽の聴き方が変わりゆく中でたくさんの人に届いた一つの要因かもしれません」  ちなみに、このベスト30で29位に入っていたのが「PPAP」(ピコ太郎)。動画が国内外でバズり、世界的なヒット曲となった。  とはいえ、こうした流れはやや散発的であり、2010年あたりからCD売上を目安とした音楽チャートの主役は長らくアイドルポップス、あるいはアニメソングだった。嵐などのジャニーズ系にAKB・坂道系、RADWIMPSやLiSA。アイドルやアニメの人気と音楽が結びつくことで「恋するフォーチュンクッキー」や「前前前世」のようなヒット曲も生まれたが、固定ファン以外には広がらなかった曲も少なくない。  また、CDに握手券や総選挙投票権のような特典をつける販促戦略が、AKB商法として批判もされた。  そんななか、一昨年の「NHK紅白歌合戦」では嵐が「カイト」を初公開。東京五輪に向けたNHK2020ソングとして、米津が書き下ろしたものだ。つまり、新旧勢力のトップ同士がコラボしたわけで、これが昨年の目玉的な作品になるはずだった。  しかし、五輪はコロナ禍によって延期。それもあって「カイト」はミリオンヒットのわりに今ひとつ浮揚しなかった。さらに、コロナ禍はAKBのようなファンとの直接的コミュニケーションが持ち味の「会いに行けるアイドル」にも打撃を与えることになる。  その一方で、音楽をスマホの動画などで楽しむ傾向は加速。つまり、新旧コラボがやや不発に終わったり、旧勢力が勢いを失うなか、新勢力が一気に躍進する状況が生まれたわけだ。  そして、昨年の「紅白」。AKBは落選し、嵐は活動休止前の無観客ライブを行うため、NHKホールには姿を見せなかった。そのかわり、新鮮な印象をもたらしたのが前出のYOASOBIや「香水」の瑛人といった、令和スタイルで売れた面々である。すなわち、CDセールスより、配信セールスや動画のバズり具合のほうがヒットの指標だという現実がより明確になってきたのだ。  その流れは今年に入ってからも持ち越され、前出の「うっせぇわ」や「ドライフラワー」(優里)のような、令和スタイルのヒットが次々と生まれている。その結果、音楽シーンは活性化した。アイドルやアニメ頼みだった時代は、その華やかさとは裏腹にヒット曲が欠乏しているかのようなさびしさも感じたものだが、最近はミョーににぎやかだ。  こうした状況は、かつてグループサウンズが席巻した時期やニューミュージックが台頭した時期を思わせる。前者はレコード会社における作詞家や作曲家の専属制度を崩壊させたし、後者はフォークやロックがJポップになるための橋渡し的な役割を果たした。最近の状況は、GSとニューミュージックのブームがふたつまとめて来たくらいの衝撃かもしれない。  当然、既存システムは混乱するし、アレルギー反応を起こしたりもする。それもまた、興味深いことだ。「香水」における「ドルチェ&ガッバーナはNHKで歌えるか」論議しかり「うっせぇわ」批判しかり、である。  しかも、こういう状況にはヒット曲を生み出した当事者自身も混乱する。新勢力の強みは、従来のシステムに縛られない、作り手個々の着想やつながり、発信の自由さだったりするわけだが、曲のヒットにともない、従来のシステムにも巻き込まれるというか、つきあわされることにもなるからだ。  2月19日放送の「ミュージックステーション恋うた3時間SP」(テレビ朝日系)では「春を告げる」のyamaや「ポケットからきゅんです!」のひらめがテレビ初歌唱を披露した。また「浮気されたけどまだ好きって曲。」のりりあ。も「Mステ」初歌唱。3人とも顔出しをせずに活動してきただけに、そのパフォーマンスが注目された。  このうち、りりあ。は顔出しをしない理由についてこう語っている。 「ただ、単に自信がないというのと…(笑)。あとは、好きなアーティストの皆さんは顔出しをしていない方が多く、弾き語りするのに顔っていらないかな、と思っています」(フジテレビュー!!)  その言葉通り、顔から下だけを映す方法で歌唱。yamaも顔の上半分を隠すかたちで歌唱したが、ひらめだけは「素顔で音楽番組初歌唱!」との触れ込みだった。しかし、寄りのカメラワークは少なく、しかも画面全体を少しぼかして顔をはっきりとはわかりにくくしていた。高齢の視聴者などは、自分の目が悪くなったのではと不安になったかもしれない。  おそらく、彼女と番組スタッフとのあいだで相談して決めたのだろう。ニューミュージックブームの頃には、顔出しをしたらイメージと違っていた的な悲劇がちょくちょく起きたものだが、これも現代的な自由さのあらわれといえる。  かと思えば、その前週の「ミュージックステーション」には「ドライフラワー」の優里が出演。この番組への初登場だったのみならず、いわゆる文春砲によるスキャンダル報道の直後とあって、大いに注目された。  そのスキャンダルとは、アイドル・高木紗友希(Juice=Juice)との半同棲。これにより、高木は活動休止に追い込まれたが、それが発表された同じ日、優里は「Mステ」で何事もなかったように歌っていた。ネットでは「メンタルがすごい」という声も聞かれたものだ。  しかも、その後、同じく文春砲で高木以外との「三股」交際疑惑も報じられることに。そのなかのひとりは下積み時代の彼に500万円くらい援助したとか、有名になるにつれだまされるようになり、最後は逃げられたという恨み言を語った。印象的なのは「優里の話はどこまでうそか本当か分からない」という言葉だ。  もちろん、優里にも言い分はあるだろうが、好青年っぽい容姿とピュアな歌世界に対し、このスキャンダルはなかなかエグい。えてして、芸能界ではこういう人のほうが生き残っていくものだ。  逆に、ちょっと心配してしまうのが「魔法の絨毯」の川崎鷹也。こちらも好青年っぽさや歌のピュア感が魅力だが、すでに妻子持ちだ。「魔法の絨毯」は交際中だった頃に妻を思って書いたラブソングで、この曲が2年がかりでヒットしたことをきっかけに、昨年、会社を辞めたという。2月27日放送の「MUSIC FAIR」(フジテレビ系)ではこんな思いを明かした。 「サラリーマン、がっつりやってたんですけど。11月11日付けで退社しまして。頑張ろうということで。(手応えを感じた?)そうですね、まだまだですけど」  その物腰はいかにも真面目そうで、そういうところがアダにならなければよいのだが、とも感じた。なお、前出のひらめも本業はパティシエ。作品の発信が手軽にできるようになったおかげで、令和スタイルのヒット歌手には完全なプロではない人も多い。歌一本で生きていけるか、生きていきたいのかという見極めも大事だろう。  とはいえ、残る人もいれば消える人もいることでブームは落ち着き、新たなシーンがこなれて成熟していく。今の混沌とした状況から何が生まれるのか、楽しみである。  ちなみに、ニューミュージックブームがあだ花に終わらなかったことの最大の功労者は、1978年に世に出た桑田佳祐だろう。そして、サザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」でデビューした翌月、歌謡界の大作曲家・古賀政男が没した。古賀メロディーから桑田サウンドへというバトンタッチが期せずして行われたわけだ。  そういえば、昨年の秋には古賀に匹敵する大作曲家・筒美京平が世を去った。そんな年に、大きな変動が起きたのもあるいは何かの必然かもしれない。音楽シーンはまさに、過渡期の真っただ中なのだ。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など  
「イライラしちゃうけど許してね」と妻 夫や子どもに「生理前」をタブーにしない賢い対策
「イライラしちゃうけど許してね」と妻 夫や子どもに「生理前」をタブーにしない賢い対策 写真はイメージです(Getty Images)  突然イライラしたり、不意に涙が出てきたり、生理前は自分が制御不能になる――。月経に伴う身体症状については近年、社会でも認知されるようになったが、生理前に起こる心身の症状については、あまり知られていない。体の変化のほか、緊張感や不安の高まり、注意力の欠如や脱力感などメンタル面の不調を伴うことがあり、医学的には「月経前症候群:PMS(Premenstrual Syndrome )」と呼ぶ。特に心の症状が重い場合を「月経前不快気分障害:PMDD(premenstrual dysphoric disorder)」という。日常生活にも支障をきたすこともあるが、なかなか周囲の理解を得られず、トラブルを一人で抱えがちだ。今回は、漢方でPMSの症状が改善した漢方薬剤師の女性に話を聞いた。 *  *  * ■ 働くママは家庭内で「タブー」にしない  東京都内で漢方薬剤師を務める柳沢侑子さん(35歳)は、働くママ。社会人になってから、PMSに悩まされるようになった。現在、子どもは3歳と1歳。手のかかる年頃の2児の子育てと仕事との両立は普段でさえ大変なのに、月経前のPMSをどうやって乗り越えているのだろうか。 「睡眠を十分に摂るために、月経前ではない元気なときに夕飯のストックを作っておいたり、月経前になるとどうしても普段よりイライラしやすくなってしまうので、あらかじめ夫や子どもたちには『イライラしてしまうかもしれないけど、一時的なものだから許してね』と伝えておくことで、お互いにストレスを減らす工夫をしています」  漢方薬剤の柳沢さんは、月経前中後の不調になりやすい時期でも、漢方・食・生活養生で、自分の体と心にストレスをかけずに一日を過ごせるよう、心がけている。実践で重視しているポイントは二つ。一つ目は、月経期は養生期間ということをしっかりと認識し、家事、育児、仕事でできるだけ無理しないで早く寝て、睡眠を十分に摂ること。二つ目は、月経前であることを家族に知らせることだ。 「私は、普段から月経に関することを隠さず口にして、家庭内でタブー感がないようにしたいと思っています」  近年、PMS・PMDDなど、月経に関する女性たちの悩みにようやくスポットが当たるようになってきたが、まだまだ月経前に身体的・精神的不調が起こることは、女性でさえ知らない場合もある。 「勤務する薬局で漢方相談を受けていても、『月経に関することは家族にも言えなかった』『我慢しないといけないと思っていた』という声をよく聞きます。同世代の男性はPMS・PMDDへの認知はあるほうだと思うのですが、年齢が上がるほど男性の認知・理解が少ない印象です。『昔から無理をしてきてPMSになり、更年期の症状も夫にわかってもらえず……』などとおっしゃる方もいます」  柳沢さんは、「誰にも相談できず、体調不良に悩む方の役に立てば」と、「家庭でできる漢方の知恵」をテーマに、2年前にYoutube「やなゆう漢方ちゃんねる」を開設。月経関係の動画には、10代から「母親にも話せず悩んでいた」というメッセージをもらうこともあるという。 「『不調を気軽に打ち明けられる場所がある』『理解してくれる人がいる』ということはとても大事だと思います。ただ、社会にそうした場所をつくることも大切だと思いますが、まずは一番身近である家庭がその場所になることだと思います」。 ■   漢方薬剤師としての出発点  柳沢さんが、月経に伴う不調に気づいたきっかけは、漢方との出会いだった。実は、漢方薬剤師を最初から目指していたわけではなく、新卒で就職したのは外資系の製薬会社。働き出して間もなく、胃腸系の体調不良に悩まされるようになった。頭痛や目の奥の痛みも出始め、いろいろな病院を受診。脳神経外科でMRIを撮るも異常はなく、偏頭痛薬を処方された。 「さまざまな検査を受けましたが、どこも異常なし。それでも自分としてはずっと体調不良に悩んでいました。頑張りたいのに頑張れない。友だちと楽しく遊びたいのに、出かけると疲れてしまい、心から楽しめない……。そんな自分の身体が嫌で健康になりたくて、サプリメントや健康食品、アロマなどの代替医療の勉強をし始め、24歳のころ、漢方(中医学)にたどり着きました」  漢方を学び始めて初めて、頭痛や過食、肌が荒れやすいのは生理前に多いことに気がついた。そこで「これはPMSなんだ」と自覚。  漢方薬局にかかり、漢方薬を服用するようになってから、1ヶ月程度で「いいかも」と効果を感じ始める。半年ほど続けると、これまで悩まされてきた胃腸系の不調や慢性疲労、頭痛が軽減。それでも身体が疲れてくるとやはり頭痛が出ていたが、やがて1年経たたないうちに、頭痛もなくなってしまった。  漢方のおかげで元気になった柳沢さんは、今後の自分や家族、友人たちのために、本格的に漢方の勉強を開始。日本で漢方を学んだ後、中国・北京での研修を経て、25歳で漢方薬剤師としてき始めた。 ■   出産前後のPMS対策とは  柳沢さんは、現在3歳と1歳の子どもを持つお母さんだ。出産前後にPMSの症状は出なかったのだろうか。 「漢方は、産後の養生は今後の体調面で非常に大切だと考えます。実際に出産してみて、産後はものすごく体の変化を感じました。出産前にかなり対策をしておいたので良かったのだと思います」  漢方の世界では「産後三カ月は養生」といわれている。このため柳沢さんは、この期間に休めるようにと、産前に産後の漢方薬をそろえておき、区の産後支援サービスの申し込みをしておいたほか、産後にあれこれ考えなくていいよう、育児に必要そうなものをピックアップし、すぐに購入できるようにしておいた。 「慣れない育児で消耗しているのに、さらに生理が戻ると、体への負担が本当に大きいなと感じました……」  漢方では、産後は出産と授乳により、「血」の不足による不調になりやすいと考える。代表的な症状には、精神的に不安定になる、疲れているのに眠れない、物忘れ、頭が働かない、頭痛、めまい、枝毛・抜け毛などがあげられる。 ■  イライラには柑橘系や香り野菜を  普段のPMS対策とはどんなものなのだろうか。漢方薬剤師ならではの経験と知恵を知りたいところ。柳沢さんは、その時々の不調に合わせて漢方薬を飲んだり、食事を変えたりしているという。 「生活面での基本的な対策は、『血(体の中の栄養素)』が不足すると『肝(現代医学の肝臓だけでなく自律神経系も含む)』の働きが悪くなり、PMSを起こしやすくなるので、普段から肉類、ほうれん草、小松菜、黒ごま、黒豆など、血を補う食べ物を摂ること。生理前のイライラ対策としては、柑橘系の食べ物やセロリ・春菊などの香り野菜、ミントなど、『気の巡り』をよくするものを食べること。むくみが気になる時は、黒豆茶など水を出す働きがあるものを取り入れています」  柳沢さんによると、漢方的には生理前は「気の巡り」が悪くなりやすい時期。「気の巡り」が悪いと、イライラの症状が出ると考えるため、「気の巡り」を良くする柑橘系や香り野菜が良いという。  また、大豆は胃腸を元気にし、体内の余分な水を抜く力があるが、黒豆はそれに加えて、血(体の中の栄養素)や、腎(生殖機能のみなもと)を補う力がある。生理関連のトラブルがある人は「血」や「腎」の不足タイプが多いので、大豆より黒豆をオススメする。もちろん、お茶だけでなく、そのまま食べてもOKだ。 ■   健康によいとは限らない運動や食べ物も  自分に合った対策をたてるには、自己流ではなく、漢方薬局に相談することが近道だが、漢方に興味はあるものの、処方箋薬局ほど一般的ではないため、漢方薬局にかかることをためらう人もいるだろう。気になる料金や、カウンセリングの内容を柳沢さんに聞いてみた。 「漢方薬局により多少違いはあると思いますが、私が漢方相談を行っている成城漢方たまりでは、初回は1時間程度かけてカウンセリングをし、生理のこと、便のこと、食欲、睡眠時間などさまざまなことをお伺いします。舌や唇、声、話し方、姿勢なども体質を知る手がかりです。料金は、お悩みの症状によりますが、PMSや生理痛などですと1カ月5000円~2万円程度が目安。漢方薬をすすめするだけでなく、食事、運動、睡眠などライフスタイルに合わせた生活養生をアドバイスしています」  例えば、月経前に弱りやすい「肝」はストレスに大きく関連しているため、友だちとお喋りするなど、好きなことをして発散することをすすめるという。「気の巡り」は、深呼吸を朝昼夕10回ずつする、好きな香りのアロマオイルをティッシュに1~2滴垂らして枕元に置いて眠る、ヨガやストレッチをするなど、呼吸を意識した動きで改善することも説明。そして「血」が不足すると「肝」の不調を起こしやすいため、普段から肉類、ほうれん草、小松菜、黒ごま、黒豆など、血を補う食べ物を摂ることをすすめている。  最後に、PMSとの向き合い方について、アドバイスをもらった。 「自分で『健康に良い』と思って頑張っていることが、漢方的にみると体質にあわないということもあります。例えば、女性に多いエネルギーや血の不足タイプは、ジョギングなどよりもヨガ(ホットではないヨガ)や、ストレッチ、ウォーキングなど、エネルギーを消耗しない運動の方があっています。食べ物においても、『健康に良い』とよく言われるものが自分にあうとは限りません」  また、柳沢さん自身がそうだったが、健康になりたくて一生懸命やっても良くならないと、逆にそれがストレスになることもあるという。漢方では「中庸」という「何事もほどほどに」という意味の言葉があるそうだ。 「『食事も運動も!』とストイックに頑張りすぎている方は、一度ペースダウンし、『今日はできなかったけど、まぁいいか』という思考に変えて、ゆるく養生してみてもいいかもしれません」  甘やかし過ぎはもちろん良くないが、「何事もほどほどに」。緩急バランス良く養生することが、健康への近道なのかもしれない。(旦木瑞穂)
「家事のできない夫」が定年後に夫婦の“リスク”? 妻も気づかない盲点とは
「家事のできない夫」が定年後に夫婦の“リスク”? 妻も気づかない盲点とは シニア世代の“家事シェア”はリスクヘッジになる(※写真はイメージです/GettyImages) 家事シェア研究家・三木智有さん。NPO 法人tadaima! 代表。「〝ただいま!〟と帰りたくなる家庭を増やそう」をテーマに、〝家事シェア〟の普及に尽力。  定年後の夫婦の心地いい暮らしづくりに、家事の分担は重要なファクターだ。では、どうしたら上手に分担できるのだろうか。現在発売中の週刊朝日MOOK『定年後からのお金と暮らし2021』では、“家事シェア”を提唱する三木智有さんに取材した。「オレはちゃんと家事をしている」「うちの夫には何を言ってもムダ」という人も一読を。 *  *  * 「家事を“家族の仕事”ととらえ、シェア(共有)しようという意識が、互いに不満を抱かずに暮らす秘訣です」  “家事シェア”という言葉をつくった三木智有さんが、基本的な考え方を説明する。 「ただ、家事シェアといっても、子育て世代とシニア世代では、その意義が違います。子育て世代は、シェアすることで互いの信頼関係を築くという意味が大きい。シニア世代はむしろ、リスクヘッジの側面が強くなります」  多くの場合、妻が家事を担っている。その妻が倒れたときに、夫が何一つ家事をできなければ、夫も妻も困ってしまう。 「夫が一人でも生活していけるよう、家事全般のスキルを伝達することが、シニアの家事シェアの最終的なゴールになります」  どう伝達すればいいのか。三木さんによると、夫のタイプに応じることがコツのようだ。  家事は得意ではないし、あまりやってこなかったという夫には、妻が少しずつやり方を伝えていくことになる。ここで注意点があると三木さんはいう。 「“洗濯物はこう干して”“何時になったら取り込んで”などと、作業を細かく分割し、一つひとつ指示を出し続けていては、夫は主体的になれません」  子ども扱いされたようで、嫌になる夫もいるだろう。 「“洗濯をお願い”と、全体を任せたほうがいいと思います。妻の指示のもとでする“タスク”(作業)でなく、夫の“ミッション”としてその家事を丸ごと委ねる。このほうが結局は早くスキルを身につけられます」  一方、夫が積極的に家事にかかわろうとするタイプの場合は、まず夫側に注意が必要だ。 「積極的に家事に参加したい男性は、“いきなり出しゃばらない”を心掛けてください。シニアの男性は、ある程度社会的な地位もあり、家庭でも威圧的になりやすい。でもこの世代になると妻は自分なりの家事の進め方を確立しているもの。夫のやり方を押し付けられると、カチンときてしまいます」  夫側も、“家事をしているのに妻に感謝されない”と不満を抱くことになる。 「妻のやり方を尊重することが大事です。そして妻は、自分がどうしても譲れない点を明らかにし、夫に伝えましょう」  例えば、食器棚の食器の位置が変わっているとイラッとする場合。いきなり「場所が違うでしょ!」では、夫は驚いてしまう。「私は置き場所が変わるのが嫌みたい」と、あらかじめ地雷のありかを伝えておくと、夫も踏まずに済むわけだ。  では、まったくやる気のない夫は、どうしたらいいだろう。 「もちろん、話し合うのが一番いいのですが、できないという人もいます。その場合は、退職後の生活が話題になったときに、“定年後はこの家事をお願いしようと思う”と、しれっと言うといい。“お願いしたいんだけど、どう?”ではなく、やることを前提に話を進めるのです」  大切なのは勝負に持ち込まないことだと、三木さんはいう。 「“こういう理由で、あなたは家事をするべきだ”と、相手を論破するような言い方は、反感を買って言い争いになります」  スキルの伝達という目的を、思い返すことが大切だ。 三木智有(みき・ともあり) 家事シェア研究家。NPO 法人tadaima! 代表。「“ただいま!”と帰りたくなる家庭を増やそう」をテーマに、“家事シェア”の普及に尽力。著書に『家事でモメない部屋づくり』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。 (文/松田慶子) ※週刊朝日MOOK『定年後からのお金と暮らし2021』より

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