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TBS宇内梨沙アナの「ガチゲーマー」ぶりが話題 「休みの日は15時間くらいやってます」
TBS宇内梨沙アナの「ガチゲーマー」ぶりが話題 「休みの日は15時間くらいやってます」
TBSの宇内梨沙アナ(撮影/加藤夏子) 学生時代には「ミス慶応」に選ばれたこともある(撮影/加藤夏子)  TBSアナウンサーの宇内梨沙さん(29)が「ゲーマー」としても注目されている。昨年11月には、自身もメンバーであるTBS eスポーツ研究所がYouTubeチャンネル「ゲーム実況はじめました。~女子アナゲーマー宇内e~」を開設。「うりゃー!」と叫びながらゲーム実況をする様子は、従来の女子アナ像とは一線を画している。“にわか”には厳しいゲーム愛好家からも「宇内は本物だ」との声が上がる。本人インタビューでも、その尋常ならざる「ゲーム愛」は止まらない。「かわいい女子アナ」ではなく「ガチゲーマー」としての宇内アナの素顔に迫った。 *  *  * ――チャンネル登録者2万人突破、おめでとうございます。宇内さんの動画からは、本気で楽しんでいる様子が伝わってきます。 宇内:プレイしているとムキになっちゃうんですよ。楽しそうにやっているというよりも、(思い通りにならない展開に)ずっとキレてるような(笑)。正直、直属のアナウンス部の先輩方には、声を大にして「動画を見てください!」とは言えないですね……。 ――実況するソフトのラインアップは、玄人寄りのものばかり。ファミリー向けのソフトはほとんどありません。 宇内:私の嗜好(しこう)で、どうしてもハードコア寄りになってしまうんです。中学生ぐらいまではポケモンやマリオシリーズなどもよく遊んでいたのですが、洋ゲー(外国のゲーム)に触れるようになってから、だいぶ嗜好が変わりました。 ――動画では『デモンズソウル』の再生回数が伸びています。でも、いわゆる“死にゲー”(ゲーム中に何度もゲームオーバーになることを前提とした高難度のゲーム)には苦手意識を持っていたそうですね。 宇内:そうなんです。クリア前に投げ出してしまったソフトがあって、苦手意識がありました。(死にゲーとして有名な)『デモンズソウル』も一切触ったことがなかったんですけど、せっかくPS5があるんだし、ローンチタイトル(ハード機と同時発売されるソフト)を絶対にやりたいと思って、手を出してみました。難しいですが、これがもう楽しいんですよ! 負荷のあるゲームって高ストレスなんですけど、その分、達成したときの興奮や多幸感がすさまじくて。疲れてゲームを中断しても、また1時間後ぐらいにもう一回プレイしたくなる。癖になっちゃいましたね。この中毒性が、精神的にも技術的にも負荷のあるゲームの魅力なんだなと、配信してみて気付きました。 ――2020年は、どのゲームに一番ハマりましたか? 宇内:『エーペックスレジェンズ』です。もともと私、バトルロイヤル系のゲームにはハマらなかったんですよ。野良(※)で、まったく知らない人たちとプレイするよりも、友達とやらないとそんなに面白さを感じられなくて。でも、エーペックスは野良でやっても楽しい。  ホラーだったりアクションだったり、友人にそういったゲームをプレイしている子もいなかったので、TBSに入社するまではずっと、ゲーム仲間は兄しかいませんでした。アナウンス部でも、マリオシリーズやどうぶつの森など幅広い世代に愛されるゲームは話題になることはありますが、『デット バイ デイライト』や『バイオハザード』といったホラーゲームの話ができるのは、男性アナ含めていないですね。 ※野良=仲間を連れず、マッチングシステムに任せて知らない人とゲームプレイを楽しむこと ――自宅には500本のソフトを持っていると聞きました。にわかに信じがたいのですが、本当ですか? 宇内:処分しているものを入れたら、もっとあると思います。飽きっぽいので、一つのソフトをずっと味わうというよりは、どんどんクリアして、次のゲームにいきたい。だから、トロフィーコンプリートとかはほとんどやらないんです。  自粛期間中も、ちょうどビッグタイトルが連続して発売された時期で、結構買いましたね。『FF7(ファイナルファンタジーVII)』のリメイク版や、『The Last of Us PARTII』とか。月に1本くらいのペースで出てくるので、とにかく大変! 「次のタイトル出るまであと1週間しかないから、早くこれクリアしよう」みたいな感じで(笑)。 ――これまで、1日の中で、どれぐらいの時間をゲームに充てていましたか? 宇内:長い日だと、1日15時間ぐらいやっていました。「寝る」か「ゲーム」みたいな(笑)。ごはんもゲーム時間の中に差し込んでいるので……。1日24時間の過ごし方をグラフ化したら、寝るかゲームかの真っ二つに割れますね。 ――ここまでゲームにのめり込むようになったのは、何かきっかけがあったのでしょうか。 宇内:2人の兄がいて、小さいときから、兄の横でゲームを見るのが大好きだったんです。ハード機もほとんどそろっている環境でした。  5歳ぐらいの時に初めてプレイしたゲームが、ポケモンの「赤」でした。友達との会話の中心には必ずポケモンがあったくらいブームでした。アニメも欠かさず見ていましたし。 さらに「ピカチュウ」「金・銀」などを遊んでからは、色んなジャンルのゲームに興味を持つようになり、RPG系に手を出すようになりました。「FF」も、兄が購入していたためソフトが全部あったんです。私は10から始めたんですけど、10は私のゲームに対する価値観を完全に変えましたね。映画みたいな物語の広がり方と、映像のクオリティーが圧倒的で。 ――すると、人生において一番大事なソフトはFF10ですか? 宇内:え~、選べないなぁ、選べないよ~(笑)。ゲーム自体の面白さを考えるとほかにも出てくるのですが、ちょうど思春期で人間関係に悩んでいた時期だったので、時期と境遇を踏まえると、やっぱりFF10ですね。10って言うと「ああ、ミーハーね」って思う方もいるんですけど、「いろいろ背景があるんだ、こっちは」って言いたい(笑)。 ――親御さんからゲームを制限されたりはしなかったのでしょうか。 宇内:それが、なかったんですよ!今思えば本当に不思議で、ゲームで夜更かししても怒られなかったんですよ。母は価値観が割と古風で、娘には「ピアスを開けてほしくない」というタイプだったのですが、ゲームについては文句が一切なくて。今どきのお母さんでいう、「子どもにYouTubeを見せれば、おとなしくしてくれる」みたいな感覚だったのかな。兄たちと3人で、やりたい放題ゲームしていました(笑)。 ――幼少からそんなゲーム生活を送りながら、大学は慶應義塾大学に合格されています。勉強に支障はなかったのでしょうか。 宇内:勉強はちゃんとやっていたんですよね。そこはプライドがありました。兄が優秀で、いい高校、大学に行っていたので、負けたくないという気持ちもあって。キャンパスライフの話を聞くうちに「私もこうなりたい!」と思うようになり、中学生ぐらいから早慶かMARCHに行きたいと考えるようになりました。ゲームも勉強も、兄の背中を見て育ちましたね。 ――アナウンサーという職業に就きながら、ゲーム実況で宇内さんの“素”を見せることには、どんな思いがありますか? 宇内:アナウンサーは「ニュースを伝えることが仕事」と思う方が多いと思いますが、実際はそれだけにとどまりません。テレビに出ている以上は、他のタレントさんや芸人さんと一緒で、「表現者」としても立ち振る舞う。ゲーム実況も「表現」の一つであると思うので、挑戦することで自分の幅が広がるはずです。また、普段テレビを見ない方々に、どういうものを見せれば面白いと思ってもらえるのかを勉強することもできます。 ――宇内さんのゲーム実況が軌道に乗ったら、このままYouTuberに転身してしまうんじゃないかという心配もありますが……。 宇内:いやいやいやいや(笑)。それは考えていないです。もちろんゲーム実況は大好きですが、アナウンサーの仕事も同じくらい好きなんですよ。極論、仕事詰めになってゲームが一切できなくても、それで満足できるくらいですから。  仕事から得られるものって、現実世界での自分のレベルアップなんですよね。昨日できなかったことができるようになると、ドラクエのレベルアップの音が、自分の中で鳴るような感じです。ゲームはそれを疑似体験できるし、自分の人間性や忍耐力の土台を培ってくれたと思っています。それを実社会で生かしてみるというのが理想の循環ですね! ――最後に、宇内さんにとって「ゲーム」はどのような存在ですか? 宇内:人間関係などでどうしようもなくつらいとき、ゲームがいつも、現実逃避させてくれました。「ゲームに救われた」と言うと嘘っぽく聞こえるかもしれませんが、本当にゲームに救われたと思える出来事が何回もあって。だから、ゲームをやらせたくない親御さんには、「教育に案外悪くないよ!」というところを伝えていきたいですね。特に最近は、『マインクラフト』や『フォートナイト』など、コミュニケーションありきのゲームが人気なので、現実世界で人間関係につまずいた時に社会性を培うためのセーフティーネットになってくれています。ゲームに対するポジティブなイメージをもっと伝えていきたいなぁと思っています!(構成=AERAdot.編集部・飯塚大和) ●うない・りさ 1991年生まれ。慶應義塾大学卒業後の2015年、TBSテレビにアナウンサーとして入社。主な担当番組は、ひるおび(水/金) / 有田プレビュールーム(月) / CDTVライブライブ(中継担当) / Bizスクエア(BS) / アフター6ジャンクション(ラジオ) など。ゲーム好きが高じて、格闘ゲームの大会『EVO Japan』に2度出場。YouTubeチャンネル「ゲーム実況はじめました。~女子アナゲーマー宇内 e~」のチャンネル登録者数は、開設から約1カ月半で2万人を突破した。
dot. 2021/01/10 11:32
お酒か読書か? 多くの人が両立に悩む「飲んだら読めない問題」を解消する三つの方策を紹介
小長光哲郎 小長光哲郎
お酒か読書か? 多くの人が両立に悩む「飲んだら読めない問題」を解消する三つの方策を紹介
お酒と読書、両立出来ますか。アエラ編集部で聞いたところ大半が「できない」との答え。編集長も両立に悩んでいるそうです(撮影/写真部・加藤夏子)  仕事が終わり、自宅でゆったりと過ごす時間。好きな酒を飲みながら本……が読めない、という人はいませんか。飲酒と読書を両立し、人生を豊かにする方法を探りました。AERA 2021年1月11日号に掲載された記事を紹介する。 *  *  * 「何とか両立できないのかな」  ビールの空き缶が転がるテーブルの上に「積読」された本。酔うことは至福だが、読みたい本も山ほど。手を伸ばして読んでみる。だめだ、頭に入らない。  ビール党の筆者はほぼ毎晩、飲む。つまみを食べながら、350ミリ缶を3、4本。締めのご飯ものや麺類も必ずとる。しかし私の場合、お酒を少しでも飲むと、文字が追えない。飲んだ後も酔いが抜けるまでの数時間、読めない。つまり1日の4分の1ほどは「起きてるのに読めない」時間なのだ。  作家の佐藤優さんは50代を迎えたとき、人生の残り時間で読める本を考え、お酒をやめる決断をしたと著書で書いている。すごくわかる。しかし、それも何だか悔しい。他の酒飲みたちはどうしているのか。悪あがきしてみたくて、取材を始めた。 「お酒を飲みながら本を読むのは無理、が私の結論です」  いきなり身も蓋もない話をしてくれたのは、フォークシンガーで翻訳家としても知られる中川五郎さん(71)だ。  中川さんは30代の頃から、後に自ら翻訳を手掛ける米国の作家チャールズ・ブコウスキーに影響を受け、グラスを傾けながら読んだり、酒を浴びるように飲みつつ文章を書いたりする「飲んだくれ作家」のスタイルに強い憧れがあった。しかし、何度試してもうまくいかない。  もともと酒に強く、飲むピッチも速い。ワインならグラス3杯目くらいから、お酒だけにどうしても心を奪われてしまう。 「シンガーとして、ステージで自分の中にある物を外に出す場合は、お酒がプラスに働くこともある。でも読書など自分の中に大事なものを取り入れていく作業は、お酒が入るとまったくだめなことに気づいたんです」  いまでもほぼ毎晩、飲む。ワインならボトル1本。しかし、「お酒に手を出すことは、もうその日は本を読んだり書いたりを放棄すること。早めに寝て、翌朝早く起きてやりたいことをやることにしてます」。 ■著者と一緒に飲む感覚  一方で、「飲みながら読めますよ」という人もいる。弁護士の山口元一さん(55)は、ひと晩でワインボトル1本半、ウイスキーならボトル半分を空ける。平日は仕事の傍ら打ち込む中距離走のトレーニングに支障が出るので飲むのは金、土、日だが、「大酒飲み」の自覚はある。 「飲むピッチも速いんです。1、2時間で飲んでしまう」  さらに「お酒はほぼ例外なく、本を読みながら飲みます」とも。信じがたいが、ある言葉で腑に落ちる気がした。 「著者と一緒に酒を飲んでる感じなんですよね」  仕事が終わった。そういえばきょうは月の第1金曜日、米国の雇用統計が発表される日だ。コロナで経済めちゃくちゃだけど、リーマン・ショックの時はどうだったか、当時の財務長官ティモシー(F・ガイトナー)さんに聞いてみよう……。そんな感じでたとえば『ガイトナー回顧録』を手に取り、飲み始める。 「著者に教わりながら、グラスを傾ける。これが楽しいんです」  その夜、試してみた。山口さんは「飲まずに読む方がいいに決まってます」と笑うが、「著者と飲む」という意識が「読める」カギかも、と思ったのだ。村上春樹のエッセー『遠い太鼓』を選び、ビールを飲みながら読む。気のせいかもしれないが、いつもより文字が追えた。1時間で3分の1ほど読み進む。飲むとまったく読めない私にとって初めての体験だ。よし。これも両立への小さな一歩かもしれない。  ただ、飲んでも読めるがこのやり方には否定的、な人もいた。 「私は、飲みながら本を読むことはしないですね」  こう話すのは、書評家の豊崎由美さん(59)だ。 「その本の世界にせっかくチューニングが合っているのに、飲む行為でチューニングがずれてしまう。それが嫌なんです」  ほぼ毎日、ソーダ割りでバーボンをボトル3分の1ほど空けるという豊崎さん。では、読書とどう両立させているのか。飲み始めるのは仕事を終えた夜7時ごろ。つまみを食べながらちょびちょびと、23時か24時くらいまで飲み続ける。そのあと寝るまでの間、寝転がって2時間ほど読書。何とまったく問題なく読めるという。なぜそんなことが? の問いには即答だった。 「ゆっくり飲むことです。そこ大事。いろんな人と飲んでいても、飲むピッチが速い人の泥酔率ってすごく高いですよ」  試してみた。いつもは50分ほどで飲み終えていた筆者。3時間ほどかけてゆっくりとビールを飲むと、たしかに酔い方が緩やか。本も少し読めた。なるほど! これも小さな一歩だ。 ■チョコと緑茶の効き目  ただバーボンやワインならいいが、ビールを「ゆっくり」はちとつらい。よし、次は専門家だ。相談したのは栗原クリニック東京・日本橋院長で肝臓専門医の栗原毅さん(69)。「なかなか斬新な質問。難題ですね」と当惑しながらも、「秘策」をねり出してくださった。カギは、チョコレートと緑茶だ。  糖質を含むビール、ワイン、日本酒など醸造酒を飲む人はとくに、またウイスキーなど蒸留酒を飲む人でも、飲むと食事でつい糖質を多くとりがち。カカオ成分70%以上のチョコは食物繊維が豊富で糖質の吸収を遅らせ、緑茶のカテキンは血糖値の急上昇を抑えてくれる。飲み始める前にこの二つをとることが「読書との両立」に有効だと栗原医師は言う。 「チョコは一かけ(5グラム)を2枚、緑茶は200ccが目安です」  糖質の吸収が速いと、急激に血糖値が上がって眠くなる。また、肝臓に中性脂肪が過剰にたまる「脂肪肝」は酒飲みにリスクが高いが、実はアルコールより糖質が大きな原因だ。肝機能が低下すればアルコールを分解する力が落ち、読書との両立どころではなくなってしまう。  つまみはたんぱく質をしっかり。たんぱく質には脂肪を燃やして内臓脂肪を落とす働きがあり、糖質の吸収を遅らせる。「食べて飲む」ことでアルコールの吸収を遅らせることもできる。麺類など締めの糖質はとらないに越したことはないが、どうしても食べたければいつもの3分の2ほどで。そしてここで再び登場、チョコだ。 「食べる前に、糖質の吸収を遅らせるためにチョコを2枚食べましょう。そのあと、ゆっくりよく噛んで締めのラーメンやご飯を」(栗原医師)  飲み終えたら、読書の前にまたチョコを1枚と緑茶だ。緑茶にはカフェインも入っているので、睡眠への影響も考え、ここは100ccでOKだ。 ■それって「酒に失礼?」  3晩続けて試してみた。栗原医師によると「ビールは1缶飲んだら、糖質を含まない焼酎やジンなどに変えるのが理想」とのことだったが、変化を見るためにいつも通りビール3缶で。他は忠実に守った。  わずか3日の「実験」ではある。ただ、体はいつも通り酔っているのに、頭だけさえている不思議な感覚があった。本もいつもより読めた、気がする。効果のある方法だと思いたい。継続して試してみよう。よし、これで何とか光が見えてきたゾ。  と、ここで原稿を終えるのが本当はいいのかもしれない。が、どうしても心に引っかかる言葉がある。「何か工夫できないですかね?」。取材でそうしつこく繰り返す私に、前出の中川さんはこう話してくれた。 「僕としては、読書のために何とか酔いを減らそうと考えることは、お酒に失礼な行為。そういう方法があっても、選択したくないですかね」  中川さんにとって、お酒も読書もかけがえのないもの。どちらかをどちらかのために抑制するという発想はしない。自分なりに、それぞれの時間を最大限楽しみたい。そう言うのだ。  これも刺さった。中川さんはチョコレート、試さないだろうな。うーむ、どうすべきか思案のしどころだ……って結局、今年も悩みの無限ループかよ。(編集部・小長光哲郎) ※AERA 2021年1月11日号
お酒読書
AERA 2021/01/07 17:00
広島のモテ男・菊池涼介が懺悔告白「交際相手に多額の慰謝料を請求され…」調停申し立て【2020年ベスト20 3月14日】
広島のモテ男・菊池涼介が懺悔告白「交際相手に多額の慰謝料を請求され…」調停申し立て【2020年ベスト20 3月14日】
インタビューを受ける広島の菊池涼介選手  2020年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で読まれた記事ベスト20を振り返る。  1位は「広島のモテ男・菊池涼介が懺悔告白『交際相手に多額の慰謝料を請求され…』調停申し立て」(3月14日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *  *  *  広島カープの菊池涼介選手が3月6日付で東京簡裁に調停申立書を提出したことが本誌の調べでわかった。交際相手の女性から8千万円の慰謝料を請求されたという訴えだが、交際相手との言い分には大きな隔たりがある。一体、何があったのか? 「シーズン前のこのような時期に、私の個人的なことでお騒がせして申し訳ない限りです」  本誌にこう訴えるのは、広島カープのモテ男、菊池涼介氏だ。手にしていたのは、バットやグラブではなく、東京簡裁に出された3月6日付の「調停申立書」――。  2012年に広島カープに入団した菊池氏。内野手として鉄壁の守備で知られ、2013年から2019年まで7年連続でゴールデングラブ賞を獲得。一昨年までの広島3連覇に貢献した。昨年のシーズン後は、アメリカのメジャーリーグ挑戦を表明したが叶わず、今年も広島でプレーすることになった。そして昨年9月にはメディアに明かさず、“極秘結婚”。近く二世が誕生する予定だ。 「子供も間もなく生まれるとあって、これまで以上に頑張るぞとの思いで、キャンプのために1月27日、沖縄のホテルに入りました。見慣れない番号から着信があり、電話をとると弁護士と名乗り、『Aさんの弁護士です。わかっていますよね』と言われました。弁護士からAさんの名前を聞き、戸惑い、ただ震えるばかりでした」  Aさんは菊池氏が結婚前に交際していた女性で、その代理人の弁護士からの電話だった。弁護士からAさんが菊池氏に対して慰謝料を求めているという説明を受けた。菊池氏はこう振り返る。 「広島出身の知人からAさんを紹介され、『軽く付き合えるならお願いします』と返事をし、会うことになりました。知人は私以外のカープ選手とも親しく、真剣な交際ではないとの意味はよくわかっていると思って頼んだのですが…」  Aさんとの最初のデートは東京でのドライブだった。その10日後に菊池氏はAさんと肉体関係を結ぶことになった。その後、1~2か月に1度程度、遠征先のホテルなどでAさんと会い、交際が続いたという。  ところが、菊池氏は妻と知り合い、交際が始まった。Aさんとは疎遠になっていった。 「Aさんには恋愛感情はなく、私から一方的に〇日に東京だけどという感じでSNSのメッセージを送信したりしていました。Aさんの都合が合えば、ホテルで一夜を過ごす感じでした。恋人同士なら、好きだとか、愛しているとかそういうやりとりになるじゃないですか。けど、私とAさんとの間は、お互いの日程を伝える内容だけで恋愛感情は感じられませんでした」  昨シーズンが終わってからも日本代表、侍ジャパンに選出され、世界一に輝いた。その後、アメリカのメジャーリーグ挑戦を表明するなど多忙だった菊池氏。Aさんとは連絡も途絶えがちになった。  しかし、昨年12月8日、紹介者の知人からSNSで<菊ちゃん結婚したの?><Aさんに伝えた?>などとメッセージが入った。  菊池氏はプライベートを一切、公開しない主義。SNSやメディアに結婚報告を発信することもなかったという。  結婚を知っていたのは、広島の選手など限られた人だけ。なぜ、知人が知っているのか、不可解だった。 「急になぜと思いましたが、知人のアドバイスを聞き入れ、Aさんに報告と感謝のメッセージを送りました」  その内容は<今までわがまま聞いてくれたり、いつも一方通行で悪かったけどいろいろしてくれてありがとね! この先も元気で居てね>というもの。  すると、Aさんから菊池氏に電話が入り、会って話をしたいと求められた。だが、メジャー移籍などで菊池氏は日本とアメリカを行き来するなど、多忙で会う時間がとれなかった。 「電話で何度かAさんと話しました。真剣な交際だったとか、好きだったなどという話もありました。普通、恋愛感情があれば、『今日の試合頑張って』とか『勝ったね、おめでとう』とかメッセージがくるじゃないですか。そんなメッセージはこれまでありません。急に言われて違和感がありました」  そして、年が明けて冒頭のような電話が弁護士から入った。 「Aさんとの電話の会話、弁護士からの有無を言わせない口調の連絡があり、私は恐怖を覚えました。そして1月27日に弁護士から『書面を送りたい』と電話があったので、沖縄のホテル宛てにお願いしますと言いました。すると『ホテルは誰が見るか、わかない』『広島の自宅に送りたい。ご自宅では問題ですか?』という話をしてきた。そして届いた書面を見ると驚きました」  その書面には<真剣な交際として菊池氏を紹介された> <菊池氏の子供を産んでくれるかと質問された> <菊池氏から(Aさんに)恋愛感情を述べられた> <デートの場所や時間帯、あらゆる点で自分を殺して菊池氏に奉仕してきた> <バレンタインデーや菊池氏の誕生日にはプレゼントを渡すなどして、結婚を前提とした交際> <好きでなければホテルに呼ばないと(菊池氏から)告げられた> <2年間を菊池氏に捧げてきた><都合よくホテルに呼ばれ、弄ばれた> <(菊池氏は)極めて無責任な行為><人間不信、対人不安に陥り、眠ることのできない毎日を過ごしております>などと記されていた。  Aさんは菊池氏とは結婚を前提にした真剣な交際であったと主張。両者の言い分には、かなりの隔たりがあった。Aさんの訴えに対し、菊池氏はこう反論する。 「デートは最初で最後、ドライブと食事だけ。Aさんがどんな仕事をしているのかも知らないし、自宅も聞いたことがない。Aさんが恋愛感情、奉仕だと言っていることが信じられなかった。一方的な主張が書き並べられており、威圧感を感じました」  菊池氏は広島で弁護士と対応を相談。Aさんと肉体関係があったことは事実、誤解が生じた可能性があるので一定の誠意は見せるべきと判断したという。弁護士の指示にしたがって和解金として500万円を準備した。  だが、Aさんが弁護士を通して要求してきたのは、8千万円。1か月以内(3月5日まで)の解決という期限を設定してあった。  プロ野球の開幕まで時間もないことから、早急に解決しようと菊池氏は動いてきたという。その後、何度か弁護士同士で交渉したが、慰謝料の隔たりが大きく、合意点は見いだせず、「議論を行うのであれば、訴訟の場」と決裂したという。  そして菊池氏は冒頭の「調停申立書」を東京簡裁に提出したのだ。  その趣旨は<債務不存在 8000万円もの異例に高額な慰謝料要求> <妻と婚姻後、関係は解消> <(解決金5000万円を下る)支払いがないのであれば訴訟をすると、(Aさんの弁護士が)しきりに表明した> <婚姻外の男女関係においては、両当事者の合意の下で関係が形成され、婚約や内縁といった特別な事情がない限り、その関係解消が権利侵害と評価されることはない>  このように主張し、菊池氏に対してAさんの請求する8千万円の債務は存在しないという調停を求めたのだ。菊池氏の代理人はこう話す。 「Aさんとの関係は、菊池氏が独身時代のものです。こちらの認識は恋愛関係ではない。だが、Aさんは結婚を前提だったと主張。8千万円という法外な慰謝料を請求してきた。裁判所という公平な場で解決した方がよいという菊池氏の判断です」  一方で、Aさん側の主張は菊池氏と真っ向から対立する。代理人弁護士に取材を申し込むと書面で次のように回答があった。 「Aさんは大手企業に長年勤務した一般女性です。菊池氏に『早く結婚したい。子供を産んでくれるか』などと言われ、結婚を前提にした交際と信じていました。著名人であることから外で会うのは難しいといわれ、このような関係が一年近く続いたころ、不安を説明し気持ちを確認したこともあります。菊池氏は妻と入籍後も結婚を隠して2度もAさんをホテルに呼び、肉体関係を持っていました。Aさんは自分が知らぬうちに、重大な不貞行為に加担してたと知り、驚きと悲しみで心療内科への通院を余儀なくされました」  Aさん側の回答書には『適応障害』という医師の診断書も添えられていた。  Aさんの弁護人によると、菊池氏と連絡を取ろうとしても昨年末からきちんと返事がなく、極めて不誠実な形で放置された。そのため「一カ月以内」と期限を付けたという。 調停の焦点となっている慰謝料8千万円の是非についてはこう主張した。 「最終的に5千万円の減額提示をしたところ、菊池氏の最終提示は1千万円でした。菊池氏は弁護士から脅されたというような主張をしているとのことですが、一切ありません」  菊池氏は「Aさんを傷つけて申し訳ない」と謝罪した上でこう主張する。 「最初は名前を公にせず穏便にこっそりと解決をしたいと思ったのは事実です。そのためにお金も準備した。だが、Aさんの主張は信じがたいもので、事実関係の認識の違いが多々あります。Aさんは結婚後も私と関係を持ったと主張していますが、交際は独身時代だけです。今シーズンの開幕も目前ですし、妻の出産も近い。コロナ問題がありますが、侍ジャパン、東京五輪もある重要な時期です。法廷で争うことで名前も公になり、恥ずかしい思いもしますが、逃げ隠れせず、裁判所の常識ある判断で解決をしてもらおうとの考えに至りました」  一方、Aさん側の主張はこうだ。8千万円という慰謝料は日本を代表する野球選手として高額の年棒を得ている菊池氏にとって、痛みのある金額である必要があると、考えたからという。 「(東京簡裁への申立は)、Aさんの訴訟やむなしとなり、先手を打ち、被害者と加害者の立場を逆転させて、訴訟提起を封じ込め、自己に有利に導くことを目的としたきわめて不当な対応です」(Aさんの代理人弁護士)  今後、法廷での対決はどうなるのか。(本誌取材班) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/12/31 18:00
「鬼滅の刃」に迫る勢い!急成長する韓国発スマホ漫画「ウェブトゥーン」
「鬼滅の刃」に迫る勢い!急成長する韓国発スマホ漫画「ウェブトゥーン」
『女神降臨』(yaongyi)(C)yaongyi/LINE=LINEマンガ提供 『復讐の皇后』(Kim So Hyun/MUSO)=(C)Kim So Hyun/MUSO/comico  スマホで読める韓国発の漫画「WEBTOON(ウェブトゥーン)」をご存知だろうか。ドラマが大ヒットした『梨泰院クラス』もこのウェブトゥーンが原作で、『六本木クラス』として日本語訳もされている。12月25日に発表された「LINEマンガ」の「2020年間ランキング」では『鬼滅の刃』が1位だったが、続く2位と3位は「LINEマンガ」オリジナルのウェブトゥーン作品で韓国発の『女神降臨』と『外見至上主義』。ここまで身近になってきているウェブトゥーンとは、そもそもどんなものなのだろうか。  日本の電子漫画は、見開きの紙媒体の形体を保ってデジタル化されているのが一般的だ。一方、ウェブトゥーンは縦スクロール方式の漫画。コマの区切りや横の制限はあるものの、縦の空間を際限なく利用した演出が可能だ。しかもカラーなので、アニメーションを見ているような感覚すらある。    韓国コンテンツ振興院日本ビジネスセンターの李咏勲(イ・ヨンフン)センター長は、ウェブトゥーンの起源は個人のホームページだったと解説する。 「1998年にクォン・ユンジュ氏が自身のホームページに公開したSNOW CAT(COOL CAT)という漫画が、ウェブトゥーンの始まりとされています」  はじめは、パソコンのモニター画面上で閲覧できるようにスクロールする方式が用いられた。後にスマートフォンが普及したことで、縦長の画面で閲覧しやすいウェブトゥーンが増えていき、韓国独自の漫画文化として形成されていった。 「例えばK-POPは、韓国固有の音楽にとらわれず、世界中の人が楽しめるようにジャンルをミックスさせています。ウェブトゥーンも同様に、韓国の新しい漫画文化として誕生したものですが、アメリカのカラーコミックや日本の劇画漫画など、多様な表現技法を取り入れたグローバル漫画文化として発展しています」(李センター長)  ウェブトゥーンの本格的なサービスの開始は2000年代に入ってからだ。韓国の漫画配信プラットフォームである「ダウムウェブトゥーン」(03年)をはじめ、「ネイバーウェブトゥーン」(04年)、「レジンコミックス」(13年)などで配信されていった。  日本では、主に「comico」(13年)、「LINEマンガ」(14年)、「ピッコマ」(16年)でサービスが展開されている。 「韓国漫画の日本語翻訳は1990年代末にもありましたが、ウェブトゥーンを日本語に翻訳した作品は2000年代に入ってからです。当時、日本では、ウェブトゥーンというサービスがなかったため、紙の単行本として10年に『僕たちヒョレッキョン! ~血液型に関する簡単な考察~』(Real Crazy Man著)が出版され、この作品が深夜アニメとして放映されたこともありました」(李センター長)  韓国は現在、ウェブトゥーン作家の育成に力を注いでいる。2017年、国と広域市の出資により、釜山広域市に「釜山グローバルウェブトゥーンセンター」を開設。同センターを視察した北九州市立大学の柳永珍(リュ・ヨンジン)特任准教授が解説する。 「視察当時には、ウェブトゥーンの楽しさや作家になる方法を教える『一般人教育事業』と、アマチュアで活動している作家をコーチングする『予備作家教育事業』の2つの事業が行われていました。予備作家教育事業の場合、オーディションで選ばれた受講生が5人1組のチームになり、それぞれのチームにプロ作家がメンターとして指導に入ります。約8週間で1話分のウェブトゥーンを作成してプロジェクトは終了、という流れでした」    また、同センターへの入居を希望する新人作家には、作業室が提供される。プロ作家の作業室も併設されているので、アドバイスを受けやすい環境にあるようだ。 「同センターの特徴は、入居している30~40代の若手作家が自主的に運営しており、それに対して市が予算を投じる点。トップダウンではなく、作家主体の運営方針です」(柳特任准教授)  作家に対する市の支援は手厚く、作業室の他、徹夜する作家向けの仮眠室、アシスタントや翻訳家を雇う費用、税や著作権など法律関連の指導も施される。連載が終わった作家に対しては、次の作品までの空白期間に月200万ウォンを6カ月間支援する取り組みもある。さらに、メンタルケアも含まれているという。 「ウェブトゥーンのメリットでもあり、デメリットでもあのが、リアルタイムでずっと読者とコミュニケーションが図れる点です。WEBで公開されると、直ぐにコメント欄に読者から感想が寄せられます。読者の反応を見ながら作家が話の流れを調整していける一方、厳しいコメントなどはストレスになるので、メンタル面のサポートも重視されています。また、1人の作家に対して6人ほどのアシスタントを雇って作家への負担を減らすなど、労働環境のケアにも手厚いです」(柳特任准教授)    韓国におけるウェブトゥーン市場は急成長しており、17年の産業規模が3799億ウォン、18年は4463億ウォン、19年は6400億ウォンで、年平均37%の成長率。20年時点でウェブトゥーンのプラットフォームだけで31社、その関連会社は217社あると報告されている(「2020ウェブトゥーン事業体実態調査」(韓国コンテンツ振興院、2020年12月22日調べ)。 「韓国でウェブトゥーンが人気を集める理由の一つに、“スナックカルチャー″つまり、スナック菓子のようにサクッと簡単に楽しめる文化として受け入れられていることにあります。1話約10分で読み終わるので、通勤時、仕事の休憩時間、寝る前などに手軽に見られます。短いコンテンツの中でも十分に楽しめるような内容で構成されています」(柳特任准教授)  ウェブトゥーンが発展する背景には、出版事情の悪化があったようだ。 「90年代後半から、韓国では出版市場の中でも漫画分野が崩れ始め、市場自体が小さくなっていきました。このままでは描く場を失ってしまうと危惧した作家たちが、新しい活躍の場としてWEBに移ったとされています」(柳特任准教授)  日本のプラットフォーム「ピッコマ」ビジネス戦略室長の杉山由紀子さんによると、日本におけるウェブトゥーンの読者層は、熱心な漫画好きというよりも、気軽にコンテンツを楽しみたいライトユーザーが多いという。 「従来の日本の漫画は、1つの画面の情報量の密度が高い複雑なコンテンツです。一方、ウェブトゥーンは横幅の制限があるため、たくさんの登場人物が出てくる群像劇よりも、登場人物を絞った1本道のストーリー展開には向いている。アニメーションのようなビジュアルも短時間で理解しやすく、こうした特徴がライトユーザーに受け入れられやすいのだと思います」  紙媒体が中心の日本の漫画は、単行本になってからプラットフォームで配信されるのに対し、ウェブトゥーンは週に1、2回のペースで新しい話が更新されていくことも、継続的な読者の獲得につながっているという。  同じく日本のプラットフォーム「comico」の広報担当者によると、当初は韓国発の作品が中心だったウェブトゥーンには近年、日本人作家も増えてきているという。 「日本でサービスを開始した2013年当初、ウェブトーンへの認知度はほぼゼロに近く、日本人作家もいませんでした。今ではさまざまな漫画配信プラットフォームが参入し、オリジナル作品に注力するところが増えてきています。日本人作家も増えてきて、『comico』でもオリジナル作品についてはほぼ日本人作家によるものです」  新たな漫画文化「ウェブトゥーン」がどんな進化を見せていくのか、21年も目が離せなさそうだ。 (本誌・岩下明日香) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/12/31 11:30
コロナ禍が加速させる「夫婦関係のモノ化」 もっとお互いの情緒的交流を
西澤寿樹 西澤寿樹
コロナ禍が加速させる「夫婦関係のモノ化」 もっとお互いの情緒的交流を
写真はイメージです(C)GettyImages  カップルカウンセラーの西澤寿樹さんが夫婦間で起きがちな問題を紐解く連載「男と女の処世術」。今回のテーマは「モノ化する夫婦関係」。自分に限ってそんなことはない――そう思いたいところですが、実は社会構造の変化でこの傾向が加速しているというのです。いったい、どういうことなのでしょうか。 *  *  *  2020年は誰もが新型コロナに振り回された年だったと思います。  カウンセリングではクライアントさんの個別のお気持ちやご事情の話をし、それは一つとて全く同じお話はないのですが、大勢の方とお話ししていますので、時代の変化を感じることもあります。2020年とこの20年間を振り返ってみました。  ミレニアムと騒がれた20年前やそれ以前を思い出すと、妻が夫を夫婦カウンセリングに誘うと、 「俺はビョーキじゃない!」  と言われたとおっしゃる方が少なくありませんでしたし、私の前でおっしゃる方もいらっしゃいました。でも、今はそんなことはまずありません。  ほかにも正面切って、 「誰に食わせてもらってると思ってるんだ!」  と言われたという訴えをお聞きすることも減りました。  一方、20年前は、妻の方が高年収というのは相当大きな問題で、妻もそれを配慮してわざと年収を下げたり、隠したり(で、何かの拍子にバレて問題になったり)というようなこともしばしば聞きました。でも、最近はそういう話を聞くことはほとんどなくなりました(夫が肩身が狭いという話は聞きますが)。  育児ではかつて、 「うんちはしょうがないけど、おしっこのおむつの交換ぐらいは手伝ってほしい」  という話を聞きましたが、今はそういう忖度を聞くことはまずありません。そもそも今は、家事育児を「手伝う」という言葉にカチンとくる方が多いように思います。  20年経って、社会の価値観が大きく変わったように見えますが、お会いするクライアントさんの年齢層の構成はさほど変わっていないので、社会全体というよりも世代の違いによるものも大きいと思われます。なので、特定の人の意識の変化は、実はこれほどは大きくないとも考えられます。  個人の意識の変化は、社会の環境の変化の圧力を受けながら、10年、20年という時間をかけてゆっくり変わっていくというのが今までの実態でした。ところが、この1年で私の実感としては、人々の意識に少なくとも10年分、もしかしたら20年分ぐらいの変化が起こったような印象があります。 ■夫婦関係で加速する「人のモノ化」  一言でいうと、「モノ化」が加速した感じがします。 「どうしたら妻を、夫を思い通りにできるか」というのは、古今東西尽きぬ悩みですが(笑)、これは相手をどうしたらコントロールできるかという話ですから、相手をやりようによってコントロールできる対象=「モノ」と見ているということです。  しばらく前、それを象徴するようなタイトルの本がベストセラーになりました。題して「妻のトリセツ」。このタイトルを見て私は気持ちがぞわぞわしましたが、ギリギリ受け入れられるかどうかの刺激で情緒的反応を惹起させるキャッチ―さこそ広告的には優れたネーミングです。  このタイトルに飛びついた男性も多かったのではないかと思います。一般的な傾向として男性は、無意識に「モノをコントロールする」という発想で外の世界と関わる人が多いので、男性の発想にはピッタリのタイトルです。  20年前だったら「人をそんな家電製品か何かのように……」という拒否感を感じる人が多くて、受け入れられなかったタイトルだと思います。しかし、このタイトルの成功を受けて続編やパクリが出て、何回もこの手の刺激にさらされることによって、人々は感覚が慣れ、結果的に人を家電製品と同一視することに抵抗感を生じなくなるという意識の変化が生じます。    実際、女性でもこの本のタイトルにひかれて読んでみたら、内容自体は納得のいく話が多いので、「これを読んで」と夫に突き付けた方も多いようです。  この20年の人々の精神面での大きな変化の一つは、こうした人をモノのように、ないしは人をモノとして捉える発想が受け入れられてきたことです。つまり、無意識のうちに、人をモノとしてみる傾向が進んだということです。  これを私は「人のモノ化」と捉えています。これがゆっくりと進行しているように感じていたのですが、この1年で急速に進行した感があります。  もっとも、理性というか意識の面では、人をモノとしてみてはいけない、という意識が高まっている領域も多いので、事情は複雑に入り組んでいて、平均的に見たのではわかりにくい現実があります。  モノ化が進むと、一言でいえば即物的になります。「人もモノなのだから役に立ってなんぼで、それも効率が良いほうがいいよね」「役に立たないなら捨てよう」となります。一言で言えば人も「コスパ」重視です。  具体的にどうなるかは、会社のありようを見ると参考になります。会社は情緒がない物的な存在なので、モノ的な状況は少なくとも夫婦の関係性よりも進んでいます。 ■「外注的な発想」を持ち込むと夫婦に強い上下関係が  昔の日本の会社は終身雇用で、清掃員から社長までいろいろな職種の人がいて、いわば家族のような一体感があってというような状況でしたが、いまは契約関係が増え、その会社におけるコアな業務以外は外注に頼ることが増えています。コアな業務を行う従業員は若干優遇されはしますが、そうであっても交換可能なパーツですし、コア業務でない外注はよりいっそう交換可能なモノ扱いをされることになります。  夫婦というか家庭も、育児、家事など様々なサービスを外注するようになっています。その結果、家庭におけるコア領域って何だろう、というのが突きつけられているとも言えます。さすがにセックスを外注していいという話はほとんど聞かないので、これはほとんどのカップルがコアな領域と感じるのだろうと思います(だからこそセックスレスは夫婦のコアの領域がない不安感をもたらすのかもしれませんが、セックスレスの話は語ると長いので、今回は横に置きます)。  家事・育児がコアな業務でないということになると、「外注でもいい仕事」ということになり、それをする側の人は業者扱いになります。厄介なことは、外注というのは、発注者との間で、事実上の上下関係が生じますが、外注的な発想を夫婦に持ち込むと、夫婦にも(最初は隠れた、そしていつの間にか否定しがたい強い)上下関係が発生することです。  こうしたことは昔もありました。先の「誰に食わせてもらってると思っているんだ」発言はその最たるものです。ただ、以前とちょっと様相が違うのは、稼ぐ人が上で、それ以外の家庭の仕事を分担する人は下だと必ずしも決まらなくなったことです。  かつては、お金を稼ぐ側が主で、そうでない人に家事を外注しているというのは暗黙の前提でしたが、いまは<お金を稼ぐ機能・良い夫の機能を外注>という関係性も見受けられるのです。  0歳と1歳の年子の育児をしているマキさん(仮名、30代、専業主婦)は言います。 「この人は、同期の中で部長になったのは一番でしたが、外資には年収が何倍の人もいるのに井の中の蛙だということがわかってなくて、ちっちゃな成果を威張ってるのは筋違いだっていうことがわかってないんです。そのくせ妻が毎日これだけ苦労して子どもを育てているのに理解がなく、毎日夜中まで帰ってこなくて、実は仕事できないのか、さもなければ家に帰って家事を分担するのを避けているとしか思えないんです」 「自分が家事を手伝えないなら、お手伝いさんを雇えるぐらいの年収を稼ぐべきだし、それができないならもっと家事を手伝うべきということに気づいてほしいんです」 「結婚だって、一つの契約なんです。契約の条件が守られないなら債務不履行ですから、解約だってあるってことをもっと真剣に考えてほしいです」  ちなみに、契約の条件というのは、マキさんは出産したら専業主婦になって子育てをする、夫の勉さん(仮名、40代、会社員)はその分マキさんに不自由な生活をさせない、マキさんを常に第一に考えるなど――だそうです。  マキさんは、勉さんを外注業者として扱っています。10歳近くの年齢差もものともせず、そうできるのは、マキさんがうまくマウントを取っているからです。確かに20年前もこういう事例は少なからずありました。 ■人をモノのように扱う人は自分自身をモノのように扱う  以前のケースでは仕事を辞めて社会のつながりが減ったことや育児のストレスが非常に高いと思われるので、そのお話に共感しながらお聞きすることで、妻のストレスが緩み、妻の中にある夫に対する感情(愛情や怒り)の話ができ、本来、最初に解く必要がある感情、特に怒りや悲しみに向き合っていくことができたのです。  今もそういうケースが過半ではありますが、一方でマキさんのように、ご自分の主張(契約を守れ、契約を守らない相手はいかにひどいか)の話からびくとも動かないケースが増えている感があります。  お話ししていてわかるマキさんの聡明さからすると、出産する前はご自分も仕事でも相当実績を出したり、評価されていたりしたのではないかと思われます。それが誰も褒めてくれないワンオペ育児になって相当きついことは想像に難くありません。  ケンカして相当ひどいことをいった経験がある人は多いと思います。しかし、その場合でもしばらくたって冷静になったり、相手のダメージを見て言い過ぎたかなと(相手には言わないまでも)気持ちがゆり戻されたりすることが多くあります。  夫婦カウンセリングの極意の一つは、それぞれが高ストレスな状態でおいでになるので、それぞれの気持ちをまずはカウンセラーが共感することで、双方の気持ちが多少なりとも緩んだ状態になるのを待って、そこで2人にお話ししてもらうことです。  一方、マキさんの場合は、怒っていますが、ご自分の怒りの感情の話には乗らず、高いテンションで夫の非を言い続けますし、揺り戻しも見受けられません。言ってみれば、クレーマーがクレームを言っているようなこの状態は、相手を情緒的交流がある「人」としてみると困難なコミュニケーションなので、夫を「モノ」と見て関わっているようにも思えます。  サンダルであれば、毎日踏みつけても、地面にこすりつけてすり減らしても、自分の心が痛みません。相手が人間でもそんな感覚です。  人によってはサンダルにも気持ちがあるかのように、履くのは仕方ないとしても優しく扱います。  心理学的な見地でいえば、対象をどう扱うかは、その人の心のありようそのものです。つまり、人をモノのように扱う人は、その人自身が自分をモノのように扱っている、とも言えます。  夫をモノのように扱っているマキさんは、マキさんご自分自身もモノのように扱っていることが予想されます。それは、本質的にはきついことですが、感情を感じないので、きつい感じもしないのかもしれません。  すべての人が少しずつそういう方向に動いているというよりも、そんな傾向の方の割合が増えてきた、という感があります。その進みが、コロナ禍による高ストレス状態も影響するのでしょうけれど、10年分か20年分進んだ感じがするのです。  世の中はモノ化が否応なく進んでいきますが、夫婦だけはそうでない関係性であれたらいいのにと思うことが多い1年でした。  よいお年をお迎えください。                         (文責・西澤寿樹) ※事例は、事実をもとに再構成しています。
男と女カップル夫婦西澤寿樹
dot. 2020/12/31 09:02
「先のこと? ここで死ぬよ」上野公園のホームレスの厳しい環境 コロナ禍で20代も路頭に
野村昌二 野村昌二
「先のこと? ここで死ぬよ」上野公園のホームレスの厳しい環境 コロナ禍で20代も路頭に
上野公園の一角の周りに置かれた、カラーコーンとバー。近くで寝泊まりしているホームレスの男性(50代)は、「いやがらせだよ」と吐き捨てた(撮影/野村昌二) 夜回りで、ホームレスの人たちに弁当を配る「ひとさじの会」の吉水岳彦さん。台東区にある浄土宗光照院の住職でもある(撮影/野村昌二)  上野公園にホームレスとして暮らす男性・カズさんを描いた、柳美里(ゆう みり)さんの小説『JR上野駅公園口』が、全米図書賞を受賞した。同書は2014年刊行だが、現在の上野公園のホームレスを取り巻く環境は当時より厳しいものになっているようだ。AERA 2020年12月28日-2021年1月4日合併号では、上野公園のホームレスの人々に話を聞いた。 *  *  *  ホームレスとは「家がないのではなく、人との絆が切れた状態」といわれる。話を聞いたホームレスの人たちは、何らかの「帰れない事情」を抱え、家族とも絆が切れ、孤立していた。  新潟県出身のホームレスの男性(50代)もそんな一人だ。  さまざまな事情を抱え、20年ほど前に故郷を出た。都内を転々としたが、気がつくと上野公園に戻っているという。 「家族に迷惑かけるでしょう」  生活保護を受けない理由を聞くと、そう答えた。男性は3人きょうだいの長男。きょうだいは地元にいて家庭を持って暮らしている。生活保護を受けるとなると、きょうだいに連絡がいく。小さな町なので噂(うわさ)はすぐに広がるだろう。兄貴がまだ生きていて、上野でホームレスをやっていたとわかると、きょうだいの肩身が狭くなるので生活保護の申請はしないという。東京に来てから一度も故郷に帰っていない。帰りたくないと話す。 「先のこと? ここ(上野)で死ぬよ」  上野公園を中心にホームレスの支援を続ける「ひとさじの会」事務局長の吉水岳彦(がくげん)さん(41)によると、上野公園のホームレスの数は増えているという。原因はコロナだ。 「60人近くだった上野公園のホームレス状態の人の数は、コロナが始まった2月から一気に100人近くになりました。年齢層も下がり、20代の若者も見ることがあります」 ■寒さは何より堪える  コロナ禍で仕事を失い、上野公園でホームレスをしている男性(40代)に会った。数日前から寝泊まりしているという。 「どうしようもなかったけど、奈落の底に落ちた感じです」  上野に来るまでは、千葉県の工場で派遣社員として働いていた。しかし会社の業績が悪くなると10月に雇い止めを告げられ、「退寮」も言い渡された。  行く当てもないまま、鞄(かばん)一つで東京に出てきてネットカフェで暮らした。やがて貯金も底をつき、ホームレスの人が多いと聞いた上野に。親からは子どもの時にDVを受けていたので、連絡は取りたくないという。  何より堪(こた)えるのは寒さだ。昼間はまだいいが、夕方になるとグッと冷え込み、夜は寝ることもできない。工場で働いている時に右の手のひらをけがし、寒くなると痺(しび)れてくる。その手をさすりながら、こう言った。 「このままだと寒さで死んでしまう。何とかしたいと思いますが、住む家がないのがこんなにつらいとは思いませんでした」  先の吉水さんによると、上野公園のホームレスの人たちが置かれた状況は厳しくなっているという。夏ごろ、ホームレスの人が寝泊まりする公園の片隅にカラーコーンとバーが置かれ、その一角に立ち入ることができなくなった。吉水さんは言う。 「居場所がなく公園に来ている人たちを、またどこかに追いやろうとしているのだと思います」  なぜ、この場所だけ立ち入り禁止としたのか。公園を管理する東京都の東部公園緑地事務所は、理由をこう説明する。 「公園は、レクリエーションや散歩など一時的に使用する目的で使うもので、生活の拠点として用いる場所ではありません。注意喚起したのは、その場所にそういう利用をする人が多く見られるためです」 ■人権への配慮が欠ける  しかし、と吉水さんは厳しく批判する。 「公園から追い出したところで何の解決にもなりません。福祉は何のためにあるのか。役所の対応は、人権への配慮が欠けています」  誰もなりたくてホームレスになる人はいない。自分の努力だけではどうにもならなくなるからだ。『JR上野駅公園口』のカズさんも、家族を失い孤独を抱え、たどり着いたのが上野公園だった。社会が抱える矛盾や差別、貧困が、コロナ禍で再びあぶり出されているかのようで胸が締めつけられる。  公園はイチョウの見ごろを迎えていた。冬の陽光が木々に降り注ぎ、樹下をじゅうたんのように黄色く染めている。それを見ていたホームレスの男性(60代)がつぶやいた。 「きれいだよね」  屈託のない笑顔に救われた。(編集部・野村昌二) ※AERA 2020年12月28日-2021年1月4日合併号より抜粋
AERA 2020/12/31 08:02
「私も人間なんです」コロナ禍のもと届くSOS “自己責任”に追い詰められる人たち 
「私も人間なんです」コロナ禍のもと届くSOS “自己責任”に追い詰められる人たち 
「遠慮せずに公助を使ってほしい」と語った小林さん(撮影/写真部・高野楓菜)  新型コロナウイルス感染症拡大による影響で、これまで安定した住まいや仕事を得ることができず、ギリギリの生活を続けてきた人たちからの切実なSOSが、支援団体のもとに届き続けている。生活困窮者を支援する一般社団法人「つくろい東京ファンド」の小林美穂さんに話を伺った。 *  *  *  コロナ禍が「パンドラの箱をあけた」と話すのは、「つくろい東京ファンド」の小林美穂子さんだ。  緊急事態宣言が発出され、東京都のネットカフェが休業要請対象になった4月7日、「つくろい東京ファンド」では緊急相談のメールフォームを開設した。その翌朝から今日に至るまで、小林さんたちはコロナの影響で困窮した人たちの支援に駆けまわっている。11月末に発行した書籍『コロナ禍の東京を駆ける』(岩波書店)には、そんな小林さんと相談者とのやりとりや福祉事務所の対応が綴られている。 「コロナ前まで、私たちが支援してきた人たちは、路上生活経験が長い60代以上の男性が中心でした。しかし今回SOSを出してきたのは、ネットカフェで寝泊まりしていた20代から40代が多い。女性も約2割を占めます」と小林さん。  一見すると、街を歩いている若者と何も変わらず、困難を抱えていることが分かりにくいのも特徴だという。 「アルバイトや派遣、日雇いなどで命をつなぎながら、何年も自力でギリギリの生活を続けていた人たちばかり。相談者の多くが、親が不在か、いても頼れる関係性ではありません。助けを求められる相手がいなくて、半数が『死』を意識するほど追い詰められていました。ネットカフェは最後の最後のよりどころだったのでしょう」 ◆放置されてきたネットカフェ生活者  2018年の東京都調査によると、都内でネットカフェを利用する「住居喪失者」の数は約4千人。不安定就労者が多く、平均収入は月11万4千円だ。 「ネットカフェ代を約7万円払って、食費やシャワーやロッカー代、仕事場への交通費も出す。フルタイムで一生懸命働いても日々の生活に消えて、アパートに移る初期費用をためられません。それなのに相談に行った福祉事務所で、『どうして今までアパートに入らなかったのか』と責めるような言葉を投げかけられたこともありました」  ネットカフェに「ホームレス状態」の人たちがいることは知られていたが、これまで支援団体にはつながる手段がなかった。国や行政からも実質的に放置されてきた「見えない貧困」が、コロナによって底が抜けることで可視化されたのだ。 「所持金が数百円という状態で、スマホの通話も止められて、無料Wi-Fiエリアから相談メールをくれる人がほとんど。私たちも連絡が来たら、すぐに返信しました。相談者が『早くてビックリした』って言うくらい(笑)。でも、それは次にいつ連絡がとれるか分からないから。その間に命にかかわるようなことが起こるのを、私たちは恐れていました」  緊急事態は5月末に解除されたが、その期間だけでも届いたSOSは約170件。その後も相談は増え続け、いまは他団体と協力して支援にあたる。コロナ禍が長引くなかで、困窮の度合いは深刻になるばかりだ。 ◆一人ひとりに名前があり、顔がある  相談者のなかには、<もう首を吊るしかないと思ったんですけど、私も人間なんですかね、生きたいと思ってしまったんです>とつぶやいた20代の女性もいる。<こんな雨のなか、わざわざ来てくださってありがとうございました>と深々と頭を下げた40代の女性は、10年間もネットカフェや深夜営業のファストフード店で寝泊まりしていた。その間に、身分証明書も携帯電話も盗まれたという。  全身黒ずくめで身をかため、街を歩くと職務質問される30代の男性は、子どもの頃から家庭が貧しく、<給食だけが支えだった>と打ち明けてくれた。  ニュースでは「ネットカフェ生活から行き場を失った人」とひと括りにされるが、もちろん一人ひとりに名前があり、顔がある。「それぞれに生きてきた歴史があって、笑ったり、泣いたりしてきた、私たちと違わない一人の人間なんですよ」と小林さんは言う。  しかし、やっとの思いで届いた相談者のSOSを受け、生活保護申請に同行した福祉事務所では、嫌がらせとしか思えない対応の数々が待っていた。 「東京都が住まいを失った人にビジネスホテルを用意していたのに、どの福祉事務所に行っても、まず相部屋の無料低額宿泊所(無低)に入れようとする。それでは感染対策になりません。不衛生な施設も多く、それがイヤで申請を諦める人も多い。実際、無低に送られて一睡もできなかった若者もいました」  それだけではない。一日500円で3食をまかなうように迫る福祉事務所の係長もいれば、「ビジネスホテルの利用はできないという文書が出た」と明らかなウソをつく人まで……。支援者が同行していてもこうなのだ。小林さんはこうした対応に抗議をしながら、ビジネスホテルなど個室への滞在を交渉し、そこからアパートに引っ越せるまでサポートしていく。 「とくに緊急事態の最中は、まさに福祉崩壊が起きていて、『来る人みんなを受けていたら、福祉事務所がパンクする』と相談員が口にするような状況でした。大変なのはわかりますが、この人たちは追い返されたら路上生活になるか、死ぬしかない。まさか福祉事務所が、困って相談に来た人に嘘をついて追い返すなんて、普通は想像しませんよね。でも、これが実際に起きていることなんです」 ◆「自己責任」のもとに、軽んじられる命  コロナ禍で困窮する可能性があるのは、ネットカフェ生活者だけではない。「明日は我が身」という言葉が、いまほど切実なことはないだろう。しかし、こうした福祉事務所のひどい対応を、社会に広がる「自己責任論」が後押ししていると小林さんは感じている。 「よく『不正受給』を取り上げて悪く言う人がいますが、割合でいえば保護費全体の0.4%です。その一方で、日本は捕捉率が2割。つまり生活保護を受給できる人の8割が受けられていない。他国と比べても低い数字なのに、ほとんど問題視されません。一部の政治家が生活保護バッシングを煽った成果か、『生活保護を受けるのは恥だ』という考え方が定着してしまっているんです」  実際に相談者のなかにも、生活保護に強い抵抗を感じる人は多いという。 「今まで無理をして働いてきて、大きな病気があったり、高齢だったりするのに、生活保護の申請を拒んだり、受給しても『早く抜けたい』と言ったりする。『自己責任』『他人に迷惑を掛けてはいけない』という社会の呪いが根深いあまり、一人ひとりの命が軽んじられています」  この先、家があって持ちこたえてきた人にまで困窮が広がっていくのではないかと小林さんは危惧する。とくに年末年始は公的機関の窓口も閉まるため心配だ。 「女性の自殺者が急増していますが、まずしわ寄せがくるのは女性や子どもです。菅首相が所信表明演説で、まず『自助』を掲げましたが、健全な国なら『公助・共助・自助』の順のはず。もし生活が立ち行かなくなったら、何より生き延びることを考えて、公助を使ってほしい。それは今まで私たちが払ってきた税金なので、遠慮せずに利用していいんです」   せっかく支援団体につながったのに、「自力で何とかしてみます」と、元の生活に戻っていった人も少なくない。この間に、小林さんが伴走支援をしてアパートに入居できたのは24人。その人たちとは今もLINEで連絡をとり合う。 「せめてコロナ禍が、この国の福祉をよくするきっかけになってほしい。社会に『自己責任論』が広がることで、いざ困ったときにきちんとした公的サービスが受けられなくなるのは私たちです」 (中村未絵) ■プロフィール こばやし・みほこ/1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所や就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーターを務める。共著に『コロナ禍の東京を駆ける』(岩波書店)。
dot. 2020/12/31 08:02
大晦日-滅除煩悩、滅尽コロナ-新たな年へ祈りよとどけ!
大晦日-滅除煩悩、滅尽コロナ-新たな年へ祈りよとどけ!
除夜の鐘を待つばかりとなりました。令和2年が終わりを迎えます。新型コロナウイルス感染症の拡大に影響を受けながら1年は大晦日で締めくくられます。いつもでしたら各地の賑わいがテレビ画面に映し出されますが、今年は多くの方が家で過ごしていらっしゃることでしょう。感染症との闘いは新しい年も続きます。いつもと変わらない1日の移り変わりも年があらたまる大晦日となるとやはり特別な感慨をもつものですね。大晦日ってどんな意味があるのかしら? あれやこれやの大晦日をお届けします。京都八坂神社のをけら火 大晦日、過ぎゆく年を浄め新しい年のスタートを切ります 年越しの支度を調えた全国各地の神社仏閣ではさまざまな行事が行われます。誰もが耳にするのはお寺さんの除夜の鐘です。ぐぉ~んと鳴るのが聞こえてくるといよいよ今年も終わるのだ、と心が引きしまります。百八つといわれる煩悩を祓い新しい年が始まります。 浄めの火を焚いて年を越す風習は京都八坂神社のをけら火が有名です。火は火きり臼と火きり杵を使う昔からの方法できり出されます。これを御神火とし、をけら木を加え夜を徹して元旦の朝まで焚かれます。この火を縄に頂いて消えないようにくるくる回しながら家に持ち帰り新年の火種とするのです。神棚のお灯明に移したり、祝いの雑煮をつくる竈の火とするなどして無病息災と家内安全を祈ります。 鐘の音に燃える火、よすがは違っても過去を浄め新しい出発をするのが根本の心、ここに大晦日のもつ意味があるのだとわかります。誰しも新しい年は心を真っ新にして始めたいですよね。 喜びにあふれる歌をともに歌おう! 「歓喜の歌」を聞く大晦日 今年はベートーヴェン生誕250年。18~19世紀に活躍した作曲家がいまだに世界で人気を保ち続けているのは彼が作りだした音楽の力ゆえ。とくに年末に聞こえてくる交響曲第九番の合唱「歓喜の歌」は季節のメロディとなっています。 ベートーヴェンが生きた時代はフランス革命により大きく社会が変革していった時期と重なります。市民が自由を求め権力に対して立ち上がり行動を起こした時。同じ頃ドイツではフリードリッヒ・フォン・シラーが強く自由を求める詩や劇作を発表していました。ベートーヴェンは市民革命の精神に共鳴し、詩人シラーの詩をのせ交響曲を生み出しました。初演は1824年、ベートーヴェンが命を絶つ3年前のこと。鳴り止まぬ喝采はもう耳には届きませんでしたが、大きな感動を人々に残したのです。 大晦日での演奏が始まったのは、20世紀初頭に起こった第一次世界大戦後の1918年。平和を願う人々の声が高まったドイツのライプツィヒでした。「交響曲第九番(合唱付き)」の演奏は現在でもライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって大晦日に演奏されています。 日本で初めて演奏されたのがなんとライプツィヒの演奏と同じ1918年なのです。第一次世界大戦で日本は連合国の一員として参戦、終戦後には敗戦したドイツ軍捕虜が日本に収容されました。徳島県鳴門市の俘虜収容所では捕虜といえども行動の自由が許され、地元の人々との交流が行われていたということです。その中でドイツ兵による交響曲第九番が、あり合わせの楽器で演奏されたのです。ドイツ兵の胸は誇らしさでいっぱいだったことでしょう。戦争における敵・味方を越えた交流に、音楽の力のなんと大きなことでしょうか。初めて交響曲を聴いた地元の人々の驚きや感動も想像にかたくありません。合唱曲の付いた第九の魅力はその後、市民を巻き込んで開かれる演奏会として親しまれるようになっていきました。 大きな変化の時、困難に向かい合った時、私たちは誰もが共に幸せを感じられる世界を切に願います。ベートーヴェンの「歓喜の歌」は文句なく今年の大晦日に聞きたい一曲です。 大晦日、人情いっぱいの江戸っ子の噺で結びましょう 大晦日といえば思い出すのが落語の「芝浜」。天秤棒を担いで魚を商う勝五郎と女房の夫婦愛の噺を本年の掉尾に! 腕はいいが酒に目がなく飲んでばかり。なかなか仕事に精を出さない勝五郎がある日、芝の浜で拾った財布を持ち帰るとなんと42両の大金が! もう働かなくたって食っていけるっ、とばかりに大喜びでご近所友達を集めて酒を振る舞いどんちゃん騒ぎ。大いに飲んだくれたあげく酔っ払って寝てしまいます。翌朝女房に、 「おまえさん、河岸へ行って稼ぎに出ておくれ」と起こされた勝五郎は、 「きのう、芝の浜で拾った金があるじゃないか」というと、 「なに言ってんだい、おまえさん、夢でも見たのかい」と女房にいわれ押し問答の末、夢の財布で振る舞い酒をしてしまったことに仰天。残った莫大な借金に勝五郎は、 「もう二度と酒は飲まねえ。勘弁してくれ」と平に謝り、その後はすっかり心を入れ替えて仕事に精を出すようになったのです。 そして幾年月が過ぎたある大晦日の夜。勝五郎は小さいながらもお店を切り回す主人に出世を果たし、女房とふたり除夜の鐘を聞きながら借金取りを怖がっていた昔を懐かしみ、穏やかな年の瀬の幸せに浸っていると、 「おまえさん、この財布に覚えはないかい」と女房が持ち出したのは古い財布。 「そういや、昔こんな財布を拾った夢を見たことがあったっけなぁ」と勝五郎。 すると女房が、あれは夢じゃなかったんだと打ちあけます。拾った金を着服したらそれは大きな罪になる、と大家さんと相談して番所に届けたこと。亭主を立ち直らせたくてついた健気な女房の嘘には、今の勝五郎も感謝の言葉しかでてきません。なにもかもを話してしまった夫婦の心はすっかりうちとけ、 「おまえさん、今夜は一盃飲むかい」と女房がいうと、 「よし、飲もう」と長年断っていた酒を晴れて楽しめると喜ぶ勝五郎。注がれた酒を目の前にフッと出たことばは、 「よそう。また夢になるといけねえ」 このオチは何回聞いてもグッとくる男気を感じてしまいます。大晦日は言えなかったことを言い、出しにくかったことも除夜の鐘を聞けば思いきって話せるかもしれませんね。 除夜の鐘を待つばかり、そろそろ新しい年の足音も聞こえてきました。さあ心を清らかに、どうぞよいお年を!
tenki.jp 2020/12/31 00:00
三浦春馬の結婚への思い「一人っ子なので兄弟を作りたい」サーファー恩師が明かす【2020年振り返り 8月2日】
三浦春馬の結婚への思い「一人っ子なので兄弟を作りたい」サーファー恩師が明かす【2020年振り返り 8月2日】
サーフィンが好きだった三浦春馬さん(写真:卯都木睦さん提供)  2020年も年の瀬に迫った。そこで、反響の大きかった記事を振り返る。  今回は「三浦春馬の結婚への思い『一人っ子なので兄弟を作りたい』サーファー恩師が明かす」(8月2日配信)を再掲する。(※肩書年齢等は配信時のまま) *  *  *  30年という短い人生を終えた俳優の三浦春馬さん(享年30)。彼が10代の頃から交流を続けてきたサーフィンの師匠に話を聞くと、テレビ画面では見えなかった彼の素顔が垣間見えた。 「当時、春馬は中学生、14歳くらいでした。母親が連れてきて、『うちの息子は俳優をやっていて、今度サーフィンの映画の主役が決まったから、サーフィンを教えてやって欲しい』て」  茨城県出身の三浦さんのサーフィンの師匠でもあり、その後、家族ぐるみで交流を続けてきた、つくば市の卯都木睦さん(53)が、最初に三浦さんと会った時のことをそう話した。卯都木さんと三浦さんの母親が知っている共通の居酒屋を通じてつながったという。  映画の収録が終わっても、三浦さんは「サーフィンを続けたい」と卯都木さんの元に通い続けた。 「春馬はサーフィンが楽しくて楽しくて仕方がない感じだった。忙しいスケジュールの中、半日でも空くと、前日にラインで『明日は大丈夫ですか』とメッセージがきました。私や3人の息子たちと一緒にサーフィンをするのが、仕事のストレス解消にもなっていたようです」  三浦さんは地元の中学校を卒業後、東京の高校へ進んだ。この頃は、母親が三浦さんをサーフィンに連れてきていたという。 「海岸で、母親と春馬と待ち合わせて、サーフィンをし、終わったら一緒に食事をすることもありました。とても仲のいい母と息子でした。一人っ子でね」  今から約10年前、三浦さんは外車を購入し、それで茨城まで来るようになったという。サーフィンをするのはいつも鉾田市の海岸。三浦さんは、スピードが出て、波乗りが難しいショートボードを使っていた。身長、体重に合わせて、プロが板を削ったオリジナルのサーフボードを持っていた。 「夜から撮影なのに昼間にサーフィンに来るんです。車には台本を積んでいることもありました。だから帰りは、私が運転して、彼には寝てもらっていました。40~50分でも寝られれば、撮影でもリフレッシュして臨めると言ってました」  サーフィンが終わってからは一緒に酒を酌み交わすこともあったという。 「彼は冷酒が好きだったけど、そんなには飲まないよ。コップに2~3杯」  三浦さんはプライベートの話も卯都木さんにしていた。2年くらい前のある日、こんなことも。 「車できれいなお花畑の近くを通りかかった時、春馬から『車を止めて』と言われたんです。なんだろうと思ったら、お花畑をバックにした写真をSNSで誰かに送っていました。彼女じゃないかと思いましたね。『30歳になったら結婚したい』とも言っていました。『なんで』と聞いたら、『自分は一人っ子だから、兄弟を作りたい』と」  幼い頃に三浦さんの両親は離婚している。三浦さんが小学1年生の時、母親に連れられ家を出た。高学年になると母親は再婚。新しい父親は地元ホストクラブの経営者の息子で、その店で働いていたホストだった。同僚だったという40代の元ホストがこう話す。 「その店は30年くらい経営していて、名の通った店でした。全盛期には12人のホストがいました。春馬くんの父親もホストとして店に出ていました。春馬くんの母親は再婚前、お客として何回かは来たことがありましたね。常連客ではないです。太陽みたいな女性で、いつもニコニコしていました」  三浦さんが俳優となる原点は、地元にあった俳優養成所だ。元ホストは、三浦さんが養成所に通うことになった経緯を母親から聞いたという。 「母親は、うちの子はまじめでおとなしくて、はにかみ屋で、なかなか仲間に入っていこうとしないから、少しでも改善するために、ピアノやサッカーを習わせる感覚で4歳のころから養成所に通わせた、と言ってました」  ホストクラブは2007年ごろに閉店。その後、母親と義父は地元で居酒屋の経営を始めた。 「2人は5年くらい前に離婚していると思います。義父は別れてからも、春馬から『一人で大丈夫?』と心配する電話があったと言ってました。離婚後は、春馬くんとは距離ができていたようです」  前出の卯都木さんは最近の三浦さんについてこう話す。 「昨夏は週に2回くらい来てましたが、今年はコロナの影響で一度も来られなかった。今年3月ごろ、外出自粛だし、サーフィンにしばらく行けないというメッセージをもらってました。そして、500ミリリットルの水のペットボトルを2ケース送ってきました」  三浦さんの死については様々なことが報道がされているが、卯都木さんは、 「最近は大好きなサーフィンができず、仕事のストレスばかりがたまっていたのではないかな。ネットでは、サーフィンと足を結ぶリーシュコードを使って自殺したとあちこちで書かれている。もしそれが事実だとしたら、好きなサーフィンのことを考えているうちに衝動的に……」  と感じたという。三浦さんとは、いつか海外で一緒にサーフィンしようと約束したという。 「カリフォルニアにある世界最大の人工サーフィンプールへ行く約束をしていたんです。実現できなくて本当に残念です」(本誌・上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/12/30 18:00
6年に及ぶ執念の取材!日本3大ドヤ街「寿町」の知られざる日常と大久保さんとの出会い
6年に及ぶ執念の取材!日本3大ドヤ街「寿町」の知られざる日常と大久保さんとの出会い
 東京の山谷、大阪の西成と並び称される「日本3大ドヤ街」のひとつ「寿町」。伊勢佐木町の隣町で、寿町の向こう隣には、横浜中華街や横浜スタジアム、横浜元町がある。横浜の一等地だ。  その寿町を6年にわたって取材し、全貌を明らかにしたノンフィクション『寿町のひとびと』。著者は『東京タクシードライバー』(新潮ドキュメント賞候補作)を描いた山田清機氏だ。寿町の住人、寿町で働く人、寿町の支援者らの人生を見つめた14話のうち、「第一話 ネリカン」から一部を抜粋・再構成し、2回に分けてお届けする。今回は前編。 *  *  *  吉浜町公園で友苑の350円弁当を食べようと思っていると、隣のベンチからじょぼじょぼと液体が流れ落ちる音が響いてきた。  友苑とは、東京の山谷、大阪の西成と並び称される横浜のドヤ街・寿町のシンボル、センターこと寿町総合労働福祉会館のはす向かいにあるスーパーマーケットである。  スーパーといっても、友苑は普通のスーパーとはかなり趣を異にする。細長い店内を縦に仕切る高い棚があり、棚を埋め尽くすのは無数のカップ麺、即席麺、パックご飯、缶詰、袋菓子などのすぐに食べられるものと、石鹸、歯磨き粉、ラップ、ホイルなどの日用品であり、一般的なスーパーの主力商品である野菜や魚などの生鮮食品は申し訳程度にしか置いていない。  その代わりとでもいうように、入って右手の壁ぎわと奥の冷蔵ケースの前を埋め尽くすのは、肉じゃが、イカ大根、玉子焼きといったパック入りの惣菜である。トマトやキュウリのざく切り、冷奴、おかゆにスープまでパック入りで売られているのには驚かされるが、要するにこの店、ドヤ(簡易宿泊所)で暮らす単身者専用のスーパーなのである。  惣菜の中心価格帯は100~200円だから、350円の弁当は高額商品の部類に入る。この、得体の知れないホルモンらしき具がのった丼を食べてみようと思い立ったのは、取材をする肚がなかなか決まらなかったからだ。口では寿町のひとびとを取材してみたいなどと言いながら、一歩寿地区に足を踏み入れては、滞在時間数十分で地区外に退散することを繰り返していた。  理由は、この街特有の臭気にある。  一説では、この街の住人の多くが好んで立小便をするために、街全体が小便臭くなったという。たしかにセンターのある交差点の一角には旧式の公衆便所、つまり便器がなく壁に向かっていたすタイプの公衆便所があって、そこから臭気が漂ってきはするのだが、どうもその手の臭いばかりではなさそうである。  この公衆便所の道路を挟んだ対面にはマルキン屋という酒屋があって、店の周囲には昼間から路上で酒を飲んでいる人が何人もおり、店の前の路面はのべつまくなしこぼれたアルコールで濡れているし、ここ以外にも缶ビールや缶酎ハイを抱えて路上に座り込んでいる人が大勢いる。  アルコールと小便の入り混じった臭い。それがこの街特有の臭気の正体なのかどうか定かではないが、いずれにせよこの臭いに慣れない限り長時間の取材は無理だ。だが、どうすれば慣れることができるのか……。  毒食らわば皿まで。どっぷりとこの街に浸ってしまうしかあるまい。それにはまず、この街で売っているものを食べるのが早道だ。そんな悲壮な決意を固めて友苑の弁当を買い込み、私は寿地区の入り口、いや“序章”とでも言うべき吉浜町公園で弁当の蓋を取ったのだった。  じょぼじょぼと液体が流れ落ちる音が聞こえてきたのは、茶色いホルモンらしき具を恐る恐る口に入れたのとほぼ同時だった。ホルモンと見えたのは鶏の皮と細切れの肉。そこに、申し訳程度の万能ねぎが緑を添えている。甘塩っぱい味付けだが甘さの方が優っていて、妙にうまい。  音の主は、隣のベンチに座っている若い男だった。黒い野球帽の後ろからパーマをかけたもじゃもじゃの髪がはみ出している。うす汚れた黒いジャージの上下を着込み、クロックス風の穴あきサンダルを履いた男は、何を思ったか、飲んでいた酎ハイのアルミ缶を、目の高さで逆さまにしていた。いささか芝居がかった感じもしないではなかったが、松田優作に似た男の風貌と、決然としたその仕草に私の目は釘付けになった。  缶酎ハイは中身が相当残っていたらしく、音はしばらくの間続いた。液体が、男の足元から目の前にある植え込みの方に向かってヘビのようにくねりながら流れていく。中身がすっかりなくなると、男は片手でアルミ缶をベキベキと握りつぶしながら立ち上がり、植え込みに置かれた金属製のゴミ箱の中に叩き込んだ。  クソッタレな自分の人生に毒づいているのか、クソッタレな世の中に対する恨みなのか、それともその両方なのか、いずれであるにせよセリフをつけるとすれば、 「クソッタレ!」  以外にあり得ない。  ベンチから立ち上がった男はかなり上背があった。ゆらゆらと上体をゆすりながら、公園の出口の方へ歩いていく。  声をかけて話を聞くべきか……。  まだ肚が据わり切っていなかった私は、丼を掻き込んでから公園の出口に向かった。左右を見回したが、男の姿はすでになかった。  幅わずか200メートル、奥行き300メートルほどの長方形の中に120軒ものドヤが櫛比し、6000人を超える人間が“宿泊”する寿地区。宿泊者の大半は単身の男性であり、その半数以上が高齢者だという。  この蟻塚が林立するようなドヤ街の中にもぐり込まれてしまったら、行方は杳としてわからない。あの黒ゾッキの男に会うことは、もう二度とできないだろう。 ■ドヤに入る  数日後、寿町ではちょっと名の知れた扇荘新館の帳場さん(簡易宿泊所の管理人)、岡本相大の手引きでようやくドヤの住人の話が聞けることになった。  住人の名前は大久保勝則。昭和19年1月の生まれだから、満で72歳になる。岡本に部屋番号を教えてもらい、ビジネスホテルと見紛うばかりの小奇麗なエントランスに恐る恐る足を踏み入れてみると、そこは意外にも清浄な空間だった。あの臭いもドヤの内部までは追ってこない。  エレベーターで6階まで上がったが、乗り降りする女性が多いことにも驚かされた。ドヤの内部ではヘルパーの女性がたくさん働いているのだ。エレベーターの中で、知り合いのヘルパー同士が屈託なく笑い合っている。足を踏み入れるのに勇気を振り絞った自分が馬鹿馬鹿しく思えるほど、ドヤの内部はあっけらかんと明るい。  部屋番号の記された白い引き戸をノックすると、野太い、しわがれた声で返事があった。白髪を短く刈り込んだ大久保が、ベージュ色のベストを着込んでベッドのへりに腰をかけていた。  小柄だが、胸の前で組んだ両腕が太い。 「俺は一日中この部屋にいて、何もすることがないんだからさ、時間は気にしなくていいよ」  ベッドは四畳ほどの部屋の長辺に沿って置いてあり、ベッドの脇にキャスターのついた幅30センチほどの細長いテーブルがひとつ。病院でよく見かける、ベッドとテーブルのセットと同じである。  入って左手には白いカラーボックスがあり、最上段に衣類、上段に小型の液晶テレビ、中段に小物と調味料と薬、下段に靴。カラーボックスの左に小型の冷蔵庫。入って右手には、プラスチックの衣装ケースが四段ほど積んである。 「脳梗塞をやって、杖がないと歩けないからほとんど外出しないんだ」  時々ヘルパーに付き添われて公園に行くのと、週に2度、デイサービスで風呂に入るのと、近くのコンビニに缶酎ハイを買いに行く以外、この部屋から出ることはない。一日中、テレビを見て暮らしているという。  大久保は寿町のすぐ近く、伊勢佐木町の生まれである。伊勢佐木町といえば青江三奈の『伊勢佐木町ブルース』だが、大久保が生まれたのは阪東橋に近い方だというから、繁華街ではない。育ったのは、金沢区の京急富岡駅の近く。横浜高校の海側に住んでいたという。 「いまで言う里山と海に囲まれて、いいところだったねぇ。富岡から能見台にかけては環境がいいってんで、サナトリウムが多かったんだ」  父親は「無理やり分ければサラリーマン」だった。現在、日産自動車の追浜工場がある夏島にはかつて進駐軍が駐留していて、父親は進駐軍で何らかの仕事をしていたらしいが、大久保は仕事の中身を知らない。 「里山」という単語、「無理やり分ければ」という表現。いずれを取っても、大久保の言葉にはそこはかとなく知性とユーモアが漂っているのだが、歩んできた道のりはそれとは正反対のイメージだから面白い。  父親が進駐軍で働いている間に母親が結核で亡くなると、父親はあっさり進駐軍を辞めてしまい、退職金で茅ヶ崎の北の高座郡寒川町の仕舞屋を買った。寒川には本家と菩提寺があって、そこに母親の墓を建てたと聞かされた。 「弟がひとりいたんだけど、生き別れでいまは行方知れずだな。寒川で親父が何をやってたかよくわからないけど、毎日俺が飯を作ってたんだから、どこかに行って収入は得てたんだろうな」  寒川で中学を卒業した大久保は、蒲田の町工場に就職して旋盤工になる。 「昔で言う口減らしだったんだろうけどさ、あの頃は、高校行くのは学力が高い子ばっかりで、手に職持てば食うに困らないって風潮だったからさ」  同級生の何人かが高校に進学せずに就職したというから、決して大久保が特殊だったわけではなかった。  ちなみに現在、寿地区に暮らす60歳以上の実に96%が生活保護受給者なのだが(平成26年度・寿地区社会調査)、中卒で自活した大久保の言葉に、国や行政への依存心は微塵も感じられない。  蒲田の町工場で職工になった大久保は、物覚えが早かったこともあって社長にひどく気に入られた。住まいは工場の2階。従業員は社長を入れて14、5人。作っていたのは主に、くろがねオート三輪の部品だった。  その町工場には、大きな親モーターが一台しかなかった。個々の旋盤は天井で回転している親モーターのシャフトからプーリー(滑車)を通して動力を得る仕組みだった。だから、旋盤を一台だけ動かすのにも親モーターを駆動させる必要があった。  腕のいい大久保は短納期の部品を任されて徹夜をすることが多かったが、大久保ひとりのために親モーターを回すのは電気代がもったいないし、騒音で他の職工が眠れない。そこで、社長自ら茨城の日立まで出向いて大久保専用のターレット旋盤を買ってきてくれたというから、本当に腕がよかったのだろう。  しかし、若い大久保にとって“社長の信頼”はそれほどありがたいものではなかった。それよりも、なけなしの給料を懐に先輩たちと夜の町を飲み歩く方が数倍面白かった。「月給は2500円。寮費を1000円引かれて、残りは1500円。それっぽっちの金で、ヨタって遊んでたんだな」  職工の引き抜きも多かった。大久保は給料が少しでも高い工場を求めて蒲田、大井、池上界隈を渡り歩き、旋盤だけでなく、溶接もプレスもバフ(研磨)も何でもやった。昭和30年代初頭、日本の景気がようやく回復し始めた時期である。  当時の蒲田駅東口にはDという柄の悪い建設会社があり、一方、西口の繁華街には新宿から東声会という暴力団が流れ込んで、西口周辺をシマにしていた。大久保はもっぱら西口の繁華街を飲み歩いては、Dの社員や東声会の組員としょっちゅう喧嘩をしていた。 「当時は警察が暴力団狩りをしていて、一律に引っ張ってたから、東声会も人手不足だったんだろうね。兵隊がほしいところに、生きのいい兄ちゃんがいるってんで、うちに入んないかって声をかけられたんだけど、俺は昔からつるんで歩くのが嫌い。グループ活動が苦手なんだよ」  暴力団はたしかに“グループ活動”の一種に違いない。 「一匹オオカミなんて、大久保さんかっこいいじゃないですか」 「そんなこたぁねぇよ、ただのチンピラだもん。結局、ゴロマキ(喧嘩)が原因でネリカン(練馬区にある東京少年鑑別所の俗称)に入るんだからよ」  ある日、喧嘩相手を呑川に叩き込んで、土手に這い上がってきたところを鉄板を仕込んだ下駄でしこたま張り倒したら、それを見ていた堅気の人に通報されてしまった。 「チンピラ同士は絶対に通報なんてしなかった。だってよ、レクリエーションみたいなもんだったんだから」  ドヤの住人、一匹オオカミの大久保さんは、それからどうなったのか? ※後編「日本3大ドヤ街「寿町」で出会った“ともかくモテる”大久保さんの波乱万丈人生」へつづく ※スーパーマーケット友苑の店名はダモアに変わった。
山田清機朝日新聞出版の本読書
dot. 2020/12/28 17:00
日本3大ドヤ街「寿町」で出会った“ともかくモテる”大久保さんの波乱万丈人生
日本3大ドヤ街「寿町」で出会った“ともかくモテる”大久保さんの波乱万丈人生
 東京の山谷、大阪の西成と並び称される「日本3大ドヤ街」の一つ「寿町」。伊勢佐木町の隣町で、寿町の向こう隣には、横浜中華街や横浜スタジアム、横浜元町がある。横浜の一等地だ。  その寿町を6年にわたって取材し、全貌を明らかにしたノンフィクション、『寿町のひとびと』。著者は『東京タクシードライバー』(新潮ドキュメント賞候補作)を描いた山田清機氏だ。寿町の住人、寿町で働く人、寿町の支援者らの人生を見つめた14話のうち、「第一話 ネリカン」から一部を抜粋・再構成して紹介する。 ※「6年に及ぶ執念の取材!日本3大ドヤ街「寿町」の知られざる日常と大久保さんとの出会い」よりつづく *  *  *  寿町ではちょっと名の知れた扇荘新館の帳場さん(簡易宿泊所の管理人)、岡本相大の手引きで話が聞けることになったドヤ街の住人、大久保勝則。大久保は若い頃、派手な喧嘩をしてネリカンに入れられたという。ネリカンとは、練馬区にある東京少年鑑別所の俗称である。大久保はネリカンでいったいどんな生活を送ったのだろう。 「鑑別所ってのは読んで字のごとく、少年刑務所に入れるか保護観察で外に出すかを、一方的に観察しながら鑑別するところだよな。言ってみれば動物園の仮小屋みたいなもんで、特別、やらされることはないんだね」  ネリカンの部屋は六畳ほどの広さに4、5人が入る相部屋で、外の世界との最も大きな違いは、囲いもドアもない剥き出しの便器が部屋の片隅にあったことだという。  やらされるのはせいぜい鑑別所周辺の草むしりや窓拭きなどの軽作業ぐらい。特段、辛いことや苦しいことを強制されることはなかった。  幸いにして少年刑務所送りを免れ保護観察処分となった大久保は、身元の引き受けに来た父親と同じ飯場で一緒に働くことになった。父親は飲み代を捻出するために、寒川町の家を売り払ってしまっていた。  飯場は箱根駅伝で有名な権太坂に近い狩場町(横浜市保土ヶ谷区)にあり、狩場町の宅地造成が主な仕事だった。しかし、父親と一緒の大部屋暮らしは、大久保青年には耐え難かった。 「じゃあどうするかっていったら、あの当時、10代の小僧が金を稼ぐには運転手が一番よかったんだ。免許さえあれば、18、9だって60だって同じだからさ」  大久保は飯場を飛び出すと、三ツ沢下町にあるモグリの運送屋で大型トラックの助手として働くことになった。  モグリということは白タクと同じことで、緑ナンバーではなく白ナンバーをつけたトラックしかない。では、モグリだからロクでもない人間ばかりの会社だったかといえば、そうでもなかった。大久保の相方の運転手は、川崎の市営埠頭に行くたび、免許を取りたいという大久保にハンドルを握らせてくれた。 「埠頭の中は道路交通法の対象にならないんだね。川崎の市営埠頭にはいすゞの工場があって(現在は閉鎖)、ナンバーをつけてない裸馬(エンジンだけのトラック)がたくさん走ってたもんだ。あそこなら無免許でも捕まらないってんで、港湾の仕事が入るたびに練習させてくれたんだ」  モグリの会社を経営していた社長も、決して悪人ではなかった。大久保が横浜に戻らずに専ら東北で仕事をしていた時分、寿町からそう遠くない天神橋にあった天神寮という養老院で、父親が死んだ。社長は大久保が横浜に戻ってくるまでの間に、葬式一切を済ませてくれていた。  モグリの運送屋時代に、大久保は最初の結婚をしている。相手は反町の隣の松本町にあった、小便臭い居酒屋の女将の娘である。 「当時、東横線の反町駅近くのガード下は両側がずーっと飲み屋でさ、運送屋の寮があった三ツ沢は何もなかったから、俺は年じゅう反町方面に飲みに行ってたわけだ」  そのうちの一軒の女将が大久保を気に入って、婿になって店を継いでくれと言う。娘は一流会社のOLで大久保も気に入っていたから、居酒屋の二階で新婚生活を始めることになり、やがて反町駅裏のアパートでふたり切りの所帯を持った。  この頃、大久保は毎日のように反町界隈を飲み歩いてはいたが、ほとんど金を払ったことがなかったという。 「飲み屋のお姉ちゃんとしんねこになってたから、お姉ちゃんの方で金はいらないって言うんだよ」  しんねこ。  私はこの言葉を生まれて初めて聞いた。  辞書には「男女がさしむかいで仲よくしていること」(講談社・日本語大辞典)とある。英語のsteadyに近い言葉かと思ったが、どうもそうではない。「しんねこを決め込む」といえば、人目を忍んで語り合うというニュアンスになるらしいから、公然の関係には使わない言葉だろう。  この「しんねこ」、大久保の人生につきまとい、大久保の人生を左右し続けた言葉だと言ってもいい。  居酒屋の娘と結婚した大久保は、相性がよかったこともあってしばらくは幸福な生活を送っていた。運送屋から転身したタクシーの仕事も順調で、常に某タクシー会社の間門営業所の三羽烏に数えられるほど水揚げがよかった。  早朝に間門営業所を出庫して本牧まで流すと、簡単に客を拾うことができた。本牧から乗る客のほとんどは、麦田のトンネルを抜けて桜木町駅か石川町駅まで行く客だ。  桜木町駅で客を降ろすと、今度は横浜港の倉庫会社に勤めるサラリーマンが待ち受けていた。彼らは山下町か新山下町まで乗る。一方、石川町駅で客を降ろした場合は、山手の高台にある女子高の生徒が次の客になった。 「フェリスとか横浜女学院の生徒が4、5人のグループを作って乗ってくるんだね。生意気だとは思ったけど、山手は急坂が多いから歩くのが嫌だったんじゃないの」  幸福な結婚生活に水を差したのは、義理の父親だった。大久保は婿に入ることを条件に結婚をして、実際、苗字も変えていた。ところが、義父がもうひとつ条件を持ち出したのだ。それは自分が入信している新興宗教に、大久保も入ることだった。しかし大久保は、この条件だけはどうしても呑めなかった。 「実は俺も東京で働いてた時分、ある新興宗教に入ってたことがあるんだけど、もう、懲りたんだよ。宗教ってのが大嫌いになっちゃったんだね」  なんせ暴力団を「グループ活動」と喝破した大久保である。やはり集団活動は性に合わなかったのだろうか……。 「新興宗教ってのは、あれは中に居ると摩訶不思議なもんでね、妙な情熱で夜明けまで議論とかしちゃうと、女の子とすぐしんねこになっちまうんだ。まぁ、やり放題ってわけだよ。女房には惚れてたし、親父さんが入れ入れってうるさいから形だけ入ったけど、俺はああいうのが大嫌い」  すぐしんねこになってしまうが、しんねこになると煩わしい。大久保はそれを、身をもって体験していたのだ。  結局、新興宗教は長続きせず、それが原因で義父と反りが合わなくなり、ある日、一昼夜タクシーの仕事をして反町駅裏のアパートに帰ってみると、女房も家財道具も、一切合切が跡形もなく消えていた。 ■四布半(よのはん)  最初の妻と暮らしたのはわずか2、3年のことで、27歳のときに2度目の結婚をした。相手は、間門営業所近くのガソリンスタンドで働いていた女性である。集団就職で小田原の大同毛織に入社して、横浜に流れてきた女だった。出身は福島県。実家は農家で、両親は福島で暮らしていた。 「向こうの親にすれば、横浜のタクシー運転手なんてのは聞こえが悪かったんだろうな。たまたま叔父さんって人が保土ヶ谷の峰岡町で布団屋をやっていて、今度、笹山団地の方に支店を出すってんで、峰岡町の本店を俺にやってくれないかっていう話になったわけだ」  大久保は西谷(横浜市保土ヶ谷区)の布団職人のもとに通い、半年余りで布団の作り方を覚えてしまった。注文を受けると、妻がミシンで布団皮を縫い大久保が綿を入れていく。このコンビネーションがうまくいって、布団屋はそこそこ繁盛した。他所に発注しなかったから中間マージンを抜かれることがなく、利が大きかったのだ。  大久保によると、布団の仕立て代(手間賃)は皮にする反物の幅で決まったそうである。「反物は桐生の銘仙なんかを使うんだけど、敷布団は反物を3三枚横につなぐから三布布団、掛布団は四枚つなぐから四布布団、婚礼布団は幅が広くて四布半って言ったな。幅が広くなると手間賃を多く取れるんで、婚礼布団は儲かった。まぁ、昭和の布団の話だな」  布団屋時代、一姫二太郎に恵まれて、大久保の人生は絶頂期にあった。布団屋の他にアルバイトでタクシーの仕事もやり、布団産業が斜陽になってくると砂糖や小麦の配送の仕事もやった。一時は三股で仕事をしていたという。  大久保が得意の絶頂にいたことを物語るエピソードがある。伊勢佐木町に近い福富町には70年代前半までグランドキャバレーがたくさんあり、大久保はそのほとんどを飲み歩いたが、なんと、生まれたばかりの長女をよくキャバレーに連れていったというのである。 「グランドキャバレーってのは、いまのキャバクラなんかと違って、ちゃんとしたホステスがいるんだ。ホステスには、いろいろあって子供を作れない女が多かったから、赤ん坊を連れていくとかわいいかわいいでさ、いつまでたっても俺のとこへ戻ってこないんで心配になるぐらいだったな」  布団屋の売り上げをちょろまかしては、和田町(相鉄線の駅名)のスナックにもよく出かけた。和田町のスナックにはやはりしんねこになったママがいたが、大久保はその店に子供だけでなく、嫁さんまで連れていったという。なぜわざわざそんなことをしたのか。 「俺としては、隠しごとをしないで遊んでるって気持ちだったんだけど、まぁ、正体を明かし過ぎたのかもな」  やがて、横浜の旭区に中古だが一戸建ての家も買い、子供たちも順調に育っていると信じ込んでいた矢先、大久保は青天の霹靂に遭遇する。 「あんた、この家から出ていってくれないかな」  突如、妻から三下り半を突き付けられたのである。 「いきなり後ろから、丸太で殴られたみたいだったな。いまだに理由はよくわからないんだけど、毎晩飲み歩いてたしな。和田のスナックにさんざん通ってたこととか……。きっと恨み骨髄だったんだろうな」  家も買ったし子供も育てた。男としての役目は終えたんだという思いで、大久保は妻の言葉に従い潔く家を出た。家の名義も車の名義も妻の名前に変えて、桜ケ丘(保土ヶ谷区)のアパートでひとり暮らしを始めることにした。タクシー会社に正式に復帰したから、食べるのに不自由はなかった。  大久保がなぜ妻から疎まれたのか、本当のところは妻本人にしかわからないのだろうが、たとえば、キャバレーのホステスとのエピソードにその答えがあるように、私には思えた。 「普通のタクシーは、ホステスを乗せたがらないんだな。ホステスはみんな店からワンメーターのアパートに住んでるから、メーターが出ないんだよ。でも俺は、可哀想だと思って一度も乗車拒否をしなかった。そうしたらホステスの間で評判になっちゃって、クボちゃん今度はあの店の○○子を乗せてやってよ、なんて話になるんだ。昔、曙町に十八番って朝までやってる中華料理屋があってさ、そこでホステスと一緒に飯を食ってると、クボちゃん今日はどうだった? お茶っぴきばっかりでダメさ、なんて話になるだろう。そうするとさ、昔は粋なホステスがいたんだよ、クボちゃんいまから湯河原行こうよって言うんだ。それでメーター倒して湯河原行って、駅前でただUターンして帰ってくるんだ。そうやって俺に稼がせてくれたんだよ」  こんな派手な振る舞いに痺れる大久保を、福島の農家出身の妻は、いったいどのような思いで見つめていただろうか。 ■最後の砦  大久保は桜ケ丘のアパートで肺気腫が原因の呼吸困難を起こして、岡沢町の横浜市立市民病院に二度入院をした。その後に娘の手配で都筑区のグループホームに入ることになったが、そこを追い出され、ふたつ目の戸塚区のグループホームも追い出されて、寿町にやってきた。  戸塚区のグループホームでは、大久保の部屋の前を大声でわめきながら行き来する認知症の老人がうるさかったので、平手でペチっと頭を叩いたら大騒ぎになってしまったという。  施設長に向かって、「俺が本気でグーで殴ったら、このジジイは死んじゃったかもしれねぇんだぞ。こっちが手加減してやったんだ」と凄んだら、あっさり退去処分になってしまった。  ネリカン時代の面目躍如といったところだが、以来、社会人になったふたりの子供からも、もちろん妻からも何の音信もない。 「だからさ、ここは最後の砦なんだよ。要するに俺は家族に見放されたんだよな。トラックやってた時代から寿町がどんなところか知ってたから、ここが終の棲家かと思うと一抹の寂しさはあるよな。もう一歩踏み込んで相手の気持ちを考えてりゃ、こんなところに住んじゃいないんだろうけど。いまは懺悔の気持ちしかないんだよ」  なぜ、荒くれ者の大久保が女性にモテたのか。私には最後まで、その理由がよくわからなかった。 「自惚れて言わしてもらえば、俺の心の根底にお袋の言葉があったからだろうな。お袋は結核で家事ができなくて年じゅう親父に手をあげられてたから、勝坊、男は強いのが当たり前なんだから、絶対、女に手をあげちゃいけないよって、よく言われたんだ。俺は、女には優しいんだよ」  エアコンの利きすぎた狭い部屋に、なぜか、温かい血が通い始めるのを感じた。 「でもな、しんねこになって情が絡むと抜き差しならなくなるのがわかってるから、それは嫌なんだ。こっちもそうなっちゃうからね。かといって、女を渡り歩くほど器用じゃねぇし。まぁ、俺はどんな殺され方をしても仕方ないな」  妻はまだ籍を抜いてくれとは言ってこないんだと、大久保はつけ加えた。
山田清機朝日新聞出版の本読書
dot. 2020/12/28 17:00
42歳男性引きこもり、家族と仲良しなら無害?「みんな、おかしいよ!」と姉は大泣き
42歳男性引きこもり、家族と仲良しなら無害?「みんな、おかしいよ!」と姉は大泣き
仲がよければ問題はない?※写真はイメージです(Getty Images) 「引きこもり」というと、家族と顔を合わせることすらせず、社会との関わりを断絶し、家庭内に不穏な空気が漂っている……そんなイメージがあるかもしれない。しかし、引きこもりにはさまざまなタイプがあり、一見すると仲良し家族というケースも珍しくない。今回筆者が取材したのもそんな家族だ。親が無理やり外に出そうとしたり、精神的に追い詰めたりしないことで、家庭内の平和は保たれていた。ただし取材を進めるうちに、根本的な問題解決へはなかなか進展しない現実も見えてきた。 *    *  *  いわゆる引きこもりで、実際に自室にカギをかけて閉じこもっている人は多い。食事は廊下に置かれたものをひっそり食べて、家族も含めて他人とはディスコミュニケーション。ところが、家族とは普通に会話をして、日常生活は問題なく送れている引きこもりもいる。 ■    働かない弟、見守るだけの両親  花村美奈さん(45歳・仮名)は、地方都市で会社員として働いている。実家から車で2時間ほどの場所に一人暮らし。趣味は海外旅行。健康で、やりがいのある仕事に就くことができているので、「独身だが、自分はまあまあ幸せだ」と思っている。  ただひとつの悩みは、実家で暮らす2歳年下の弟の慎吾さん(仮名)のことだ。慎吾さんは「大人の引きこもり」で、もう20年以上、仕事をせず、外に出ることもほとんどない生活を送っている。  2人が生まれ育ったのは、大きな団地。第2次ベビーブームで同世代の子がたくさんいたため、年齢の違う友達が大勢入り混じって遊ぶようなにぎやかな環境だった。父は出張が多くて家に不在がちだったが、祖父母も近くに住んでおり、母も子も寂しい思いをしたことはなかった。 「両親は勉強しろとうるさくいわず、伸び伸びと育ちました。弟も、高校に入るまではごくふつうの子どもでした」(美奈さん)  それが高校1年生のある日突然、不登校になった。なぜ行きたくないのか、家族が聞いても弟は何も言わない。休みが1カ月、2カ月と長引くようになり、母親は学校に呼び出されて話し合いをしたが、らちがあかず、そのまま高校を中退することになった。  弟は20歳になったころ、「専門学校に行く」と言い出して、県外で一人暮らしをしたことがある。家族は「ようやく歩き出した」と大喜びしたが、たった1年で戻ってきてしまった。そのあと、バイトをしたが、続かなかった。 「30歳くらいの時に、近くのコンビニに履歴書を出したらしいのですが、落とされてやる気をなくしてしまったみたいです。それからは、就職活動も一切やめてしまいました」(美奈さん)  母親は、そんな息子を責めることも叱ることもせず、優しく見守った。カウンセリングを受けさせたり、地域のサポートセンターに相談に行ったりすることも全くなかったという。父親はというと、弟との関係にはもともと距離があり、コミュニケーションが少なかった。結局、両親は長い間、手を打とうとすることがなかったという。  引きこもりは、学校に通っているときは学校側が心配してケアをしてくれるが、学生・生徒でなくなると、家族が頼まない限り、第三者が積極的に関わってくれることはほとんどない。法を犯しているわけでなないので、誰かが当事者の元にやってきて「出てきなさい」「働きなさい」と、解決に向けて動いてくれるわけでもない。家庭内暴力をふるう、精神疾患で治療が必要、外で事件を起こすなどの問題がない限り、他者の介入はなく、そのまま月日は流れていく。 ■    姉からみて母は弟には甘かった すぐかばう  慎吾さんは、多くの引きこもりの人のように、部屋にカギをかけることもない。ゲームに没頭することも、昼夜逆転することもない。口数は少ないが、話しかければ普通に答えるし、朝、昼、晩と家族と一緒に食事を共にする。頼めば掃除や洗濯など、手伝いもしてくれる。それ以外の時間は、自分の部屋でベッドに座って、インターネットを眺めて過ごしているという。  盆や正月に、親せきの家にあいさつに行くときも、嫌がらずについてくる。親せきの結婚式や葬式にも普通に出席する。運動不足のため少し太り気味だが、不健康というほどでもない。  うるさく言うことのない両親に囲まれて、毎日が平和に過ぎていく。全く、家庭に問題はない。ただひとつ、慎吾さんが「働かない」ということを除いては。  慎吾さんは、それで幸せなのだろうか。 「友達はまったくいないですね。以前は音楽を聴くこともあったのですが、今はそれもなくなりました。本も読まないし。一緒にお笑いのテレビを観ていても、私はゲラゲラ笑うんだけど、弟はニヤリとするだけ。『声出して笑え、笑え!』って言うんですけどね」(美奈さん)  どうして、慎吾さんの親は今まで何も手を打たなかったのだろうか? 「さぁ……。たぶん、母は正直、弟が家にいてくれてうれしいという気持ちもあるんだと思います。父の出張が多かったので、ひとりで暮らすより心強かったはず。7~8年前に父が骨折して入院したときも、弟が家にいてくれるから安心だと言ってました。それに、小さい時から母は弟には甘かったですね。今でも私が弟に何か言うと、すぐかばおうとするんです」(同) ■    「どうなってんの?」両親にも腹が立ってキレたが…  しかし美奈さんは、姉として黙っていられない。 「実家に帰るたびに、『どうなってんの?』『なにやってんの?』とつい弟を問いただしてしまいます。でも彼は口をつぐんだまま。何も言わず、何もしようとしない両親にも腹が立って、この間は思わずキレてしまいました」  大泣きしながら家族に向かって「あなたたちはみんなおかしいよ!」と訴えたあと、部屋にこもって泣き続けてしまったという。 「そんな私に両親はおろおろしていましたが、結局何も変わらず。翌日からはまた同じ日常が繰り返されるだけでした」(美奈さん)  両親はいま、70代。生きている限りは弟の食事を作り、面倒をみてくれるだろう。しかし弟が一生遊んで暮らしていけるほどの貯蓄はない。 「両親がいなくなったら、私が弟の面倒をみるしかないでしょうね。私がいるのに生活保護を受けさせるわけにもいかないし。もう、覚悟しています」(同)  美奈さんはきっぱりと言った。 「自分の幸せを第一に考えて」と他人が言うのは簡単だが、そんなふうに単純にわりきれないのが家族というもの。仲のいい家族ならなおさらだ。  実は、美奈さんはつい数カ月前に、長年付き合っていた男性と別れてしまったという。 「誰かとお付き合いをしていて、将来を考えるようになると、いつも弟のことが頭をよぎってしまうんです。もう、結婚はしないかもしれませんね」(同)  そんな美奈さんの気持ちを、両親や弟は知っているのだろうか。何かしら将来のことは考えてくれているのでは?と言うと、美奈さんは首を振りながらこう言った。 「母親に、『これから先どうするつもり?』って聞いたんです。そうしたら、『大丈夫、私が慎吾より長生きするから』だって。楽天的すぎますよね」 ■    仲がいいのは無害? 「何もしない」という選択の末路  筆者は多くの引きこもりの家庭を取材したが、今回のように親が何も手を打たなかったという家庭は珍しい。多くは、なんとかわが子を自立させようと、公的、民間含めてさまざまなサポートを求めて奔走するものだ。 「自立してほしい」という親の切なる願いは、当事者にとってプレッシャーとなる。解決を急ぐ過程で、関係が悪くなり、長期化すると親子ともに精神的に追い詰められてしまうことも。説得してサポート団体の寮などに入れるには大変なエネルギーと費用が必要で、社会復帰には時間がかかる。  花村家では、「何もしない」という選択をして、あるがままの息子を受け入れた。その結果、いまは平和な日々を送ることができている。  このまま波風を立てないことが幸せ……。  筆者は話を聞いていると、深刻な中にも家族の絆が感じられて、しみじみとしてしまった。こんな生き方だって認められていいのかも。女性なら、「家事手伝い」として堂々と家にいる人だっているではないか。  いやしかし、「勤労」は日本人の三大義務の一つだ。それに、何よりも将来が不安だ。現在、5年以上引きこもっている人は、日本中に100万人以上いるといわれている。きょうだい数の平均がだいたい1.7人とすると、70万人くらいの「引きこもりのきょうだい」がいることになる。  家族の形がさまざまだから、引きこもりの解決策もひとつではない。誰でも、自分の生き方を選ぶ自由がある。ただし、それが家族の誰かに犠牲や我慢を強いるようなことになってはならない。  誰にも先のことはわからないし、花村家も、危機に陥ることなくこのまま逃げ切れるのかもしれない。ただし、もし「生活が立ち行かない」となったとき、ブランクが長ければ長いほど社会復帰は難しい。  完全な引きこもりではなく、何らか社会とのつながりを持ちながら、折り合いをつけながら生きていく道が、慎吾さんにも見つかるといいと、願わずにはいられない。(取材・文/臼井美伸) 臼井美伸(うすい・みのぶ)/1965年長崎県佐世保市出身。津田塾大学英文学科卒業。出版社にて生活情報誌の編集を経験したのち、独立。実用書の編集や執筆を手掛けるかたわら、ライフワークとして、家族関係や女性の生き方についての取材を続けている。株式会社ペンギン企画室代表。http://40s-style-magazine.com 『「大人の引きこもり」見えない子どもと暮らす母親たち』(育鵬社) https://www.amazon.co.jp/dp/4594085687/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_fJ-iFbNRFF3CW
dot. 2020/12/27 11:32
なかにし礼さん死去 石原裕次郎からの運命を変えた「ひと言」とは? 
なかにし礼さん死去 石原裕次郎からの運命を変えた「ひと言」とは? 
写真は1978(昭和53)年、39歳のなかにしさん。当時の人気番組「ザ・ベストテン」にもランキングした(写真/朝日新聞社) 週刊朝日『ハレやか』4月号での撮影。凛とした姿勢と力強くも温かみのある瞳が、印象的だ(写真/小原雄輝) 「恋のフーガ」「北酒場」「石狩挽歌」「まつり」……日本の歌謡史に輝く数多くの名曲を生み出し、さらに小説『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞と昭和・平成を通して大活躍の作家・作詩家、なかにし礼さんが、23日、心筋梗塞のため都内の病院で亡くなりました。82歳でした。  故人をしのび、週刊朝日別冊『ハレやか』(2019年4月号)に語ってくれた、戦争体験からがん克服に至る波乱の半生を掲載する。 *  *  * 「作って80%は当たる。ヒットなれして、わかっちゃった感じ」 「もの心ついてから、ゆっくり食べ、ゆっくり湯につかって、ああ、いい気持ちなんていう日、一日もありませんでした」  これ、取材に訪れた編集者が僕に見せてくれた「朝日新聞」のインタビュー記事の一部です。日付は1970年1月4日、初めて僕が「朝日新聞」に載ったときの記事だそうです。50年も前のことなので、よく覚えてはいませんが、われながらなまいきな30代だったようですね(笑)。でも確かに、僕の半生を振り返ってみれば、ここ二・三年くらいかな、ゆっくりできるようになったのは。    生まれは旧満州(現中国東北部)。父は醸造業「中西酒造」を興して成功し、裕福な家庭で育ちました。しかし、そんな生活が“見せかけの平和”だったことを思い知らされます。  1945年8月9日、突然、ソ連軍が満州へと侵攻してきました。僕たちは東京が空襲で焼け野原になったこと、広島に原爆が落とされたことさえも知りませんでしたから、まさに突然の出来事でした。命からがらの逃避行生活を余儀なくされ、ようやく引き揚げ船に乗って日本にたどり着いたときには、すでに終戦から1年が経っていました。当時6歳だった僕の目の前でたくさんの人が死に、まさに地獄絵図に放り込まれたような状態。父は再び日本の土を踏むことはかないませんでした。    日本では、父の実家である小樽でしばらく過ごしますが、そこへ戦死したと聞いていた兄が復員してきます。無事を喜んだのもつかの間、兄は祖母の家を勝手に抵当に入れて借金をし、一獲千金を狙ってニシン漁に大金を賭けて大失敗。家族は小樽を追い出され、青森、東京と移りますが、平穏とは程遠い少年時代を送っていました。 ■石原裕次郎さんとの出会いが運命を変えた  立教大学に進学し仏文学を学びながら、シャンソンの訳詩のアルバイトで学費と生活費は自分で稼いでいました。学生時代に最初の結婚をし、新婚旅行先の伊豆下田で、僕の運命を決定づける出来事がありました。    石原裕次郎さんとの出会いです。映画のロケで下田を訪れていた裕さんに声をかけられ、訳がわからないまま一緒に酒を飲んでいると、「シャンソンの訳詩なんかで食っていけるのか? 日本の歌を書かないのかよ。流行歌をよ。ガツンとヒットを飛ばしてみなよ。気分いいぜ」と。    いくら大スターとはいえ、あまりに遠慮のない言葉に少しムッとしましたが、それでも、僕はその言葉が頭から離れず、訳詩をやめて日本の歌を書く決意をしたのです。裕さんと出会って1年後にできた「涙と雨にぬれて」を持って石原プロを訪れました。作詩家・なかにし礼の誕生です。    その後は「恋の奴隷」「石狩挽歌」「北酒場」などの歌を作り、ラジオパーソナリティーやテレビのコメンテーターも務めました。それでもなかなか生活が楽にならなかったのは、肩代わりしていた兄の借金返済に多くを奪われていたからです。 「見ればただ なんの苦もなき 水鳥の 足に暇なき我が思いかな」……まさにそんな心境でしたね。 ■がんを克服できたのは、自分に正直だったから  2012年、なんとなく声が引っかかるような感覚があり、病院で検査を受けると、食道がんであると診断されました。しかもステージIII。    20代の頃から心臓に持病があって、57歳のときには発作で死のふちに立ったこともあり、人一倍健康管理には気を使っていたつもりでした。「なぜ、自分が……」。がん患者の多くが、そう衝撃を受けるといいますが、僕もまた同じでした。    しかし、いまやがんは二人に一人がかかる病気。70歳を過ぎていた僕も、ほんらい覚悟しておくべきことですが、「自分だけは大丈夫だろう」と高をくくっていたわけです。    医師は、「すぐに手術しましょう」と勧めてきましたが、ほかに選択肢はないのかと思い、別の病院でも検査することにしました。心臓に持病があるため手術に耐えられるのかという不安と、医師のビジネスライクな対応に違和感を抱いたからです。    ようやく探し出したのが、国立がん研究センター東病院での陽子線治療。切らずにがんをやっつけ、寛解することができました。    しかしその二年半後に食道近くのリンパ節にがんが再発します。今度は陽子線治療ができない場所だったので、手術を受けますが、気管支と密着していて、がんは摘出できませんでした。幸いにも、その後の抗がん剤による治療でがんはほぼなくなり、ほんの小さながんは陽子線治療によって消し去ることができました。    僕はがんを通じて、“善き人”よりも“正直な人”であることを選びました。手術を断ったことで、私の治療にかかわった多くの名医の方々は不愉快に感じたかもしれません。それでも僕は正直に自分の意見を述べたことで、「医者と患者」という関係性を超えた人間関係が成立し、二度のがんを克服できたと思っています。    僕は70代という期間をがんとの闘いに費やしました。特に、二度目は一度克服したはずのがんが再発したことで、一時は虚無感に襲われました。抗がん剤治療中も、医師からは「今後の人生設計は一カ月単位で考えてください」と言われ、無事に乗り切った日は、毎晩、女房とハイタッチを交わしていたほどです。 「やり残したことはないか?」と毎日のように考えるなかで、真っ先に思い浮かんだのが1997年の出来事。「石狩挽歌」の石碑が小樽貴賓館に建てられ、その除幕式に招かれたときのことです。石碑には歌詞とともに、「なかにし礼 作詩」「浜圭介 作曲」と刻まれました。しかし、「歌手・北原ミレイ」の名がそこにはなく、同席していた彼女がフッと寂しそうな横顔を見せたことが、ずっと引っかかっていたのです。    退院後に石碑の管理者に電話をして「北原ミレイ 創唱」と入れてもらいました。翌年の年賀状には石碑の写真とその横に「僕が新しく生まれて初めてやった良いことです」と書き添えました。    こうして、僕にとって後悔しそうなことは何もなくなりました。仕事も「痛恨の思いが残るほど」やり残したものはありません。今は好きな黒澤映画と夏目漱石の小説を何度も繰り返し読みながら、 冒頭で申し上げたとおり、「ゆっくり食べ、ゆっくり湯につかって、ああ、いい気持ち」という毎日を送っています。仕事を始めて60年、80歳にしてようやく、そんな安息の日々が、僕にも訪れたわけです。 「夜と朝のあいだに」(ピーター)、「人形の家」(弘田三枝子)「恋の奴隷」(奥村チヨ)などの大ヒットを連発していた、1970(昭和45)年、なかにしさん31歳当時の朝日新聞のインタビュー記事。驚異的なヒットメーカーぶりに「オバケの礼」と呼ばれていたと記事にある。ご本人も「べらぼうだと自分で思います。作って80%は当たる」と語っているが、これを読んだなかにしさんも当時の自分に「なまいきだなあ」と笑顔。ただ、インタビューの最後には「もの心ついてから、ゆっくり食べ、ゆっくり湯につかって、ああ、いい気持ちなんていう日、一日もありませんでした」と、平穏ではなかった人生を感じさせる一言も述べている。 なかにし・れい/1938(昭和13年)年、中国黒龍江省牡丹江市生まれ。立教大学文学部仏文科卒。在学中からシャンソンの訳詩を手がけ、64(昭和39)年「知りたくないの」のヒットを機に作詩家となり活躍。「今日でお別れ」「天使の誘惑」など約4000曲の作品を生み出し、日本レコード大賞を3回など受賞歴多数。その後、作家活動を開始し、『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞。『てるてる坊主の照子さん』はNHK連続テレビ小説「てるてる家族」の原作となる。2012年、食道がんを公表。先端医療の陽子線治療を選択し、一度は克服したものの、15年に再発を明かし、闘病生活に入る。
がん病気病院
dot. 2020/12/25 16:06
【電通過労死から5年】高橋まつりさん母の手記全文公開 在りし日の笑顔
【電通過労死から5年】高橋まつりさん母の手記全文公開 在りし日の笑顔
大手広告会社「電通」の新入社員だった高橋まつりさん(享年24)が自ら命を絶ったのは、2015年12月25日のこと。5年目の命日を迎え、母の高橋幸美さんが手記を寄せた。在りし日の笑顔とともに、ここにその全文を公開する。(AERA dot.編集部) まつりの5年目の命日によせて 高橋 幸美 2020年12月25日 「こんな富士山のある田舎で育ったのは、今思えば、幸せだったのかもしれないな。お母さんと弟とカニを捕まえたり、ホタルを見に行ったり、川で泳いだり・・・」 とまつりが語ったのは、なくなる2、3カ月ほど前のことでした。 まつりが亡くなって今年で5年目のクリスマスを迎えました。 最愛の娘、生きていたら29歳です。 まつりはいつも「お母さん、お仕事終わったの」と電話してくれました。 東京に行くと駅まで迎えに来てくれて「お母さん大好き」とぎゅっと抱きしめてくれました。まつりの笑顔が私の幸せ、生きる希望でした。 いつかの誕生日のように「お母さんおめでとう」と突然帰ってきてくれることを夢見ています。 でも、私が仕事帰りに向かうのは娘のお墓です。 どんなに娘を思っても、二度とまつりを抱きしめることはできません。 娘のベッドには小さい頃のパジャマとお人形とぬいぐるみ。 娘の眠る赤い箱の前には、小さい頃遊んだオルゴールの宝石箱。母の日の手紙。きらきらのアクセサリーや口紅。娘が可愛がっていた猫の「ももちゃん」。たくさんの娘の遺した大切な娘の息遣いと一緒に、私は5年間なんとか生きてきました。 「死んだ子の年を数える」と言いますが、嘆いても仕方のないことだとわかっていても、最愛の娘が生きた24年間の一瞬一瞬をひと時も忘れることなどできません。最愛の娘を失った苦しみは一生癒えることはありません。 5年前、まつりは確かにこの世界に生きていました。 「こんなに辛いと思わなかった」 「休職か退職か自分で決めるからおかあさんは口出ししないでね」と言ったまつり。「会社の色んな人に相談したからもう大丈夫になったはず」と11月に私に言ったのに、徹夜労働や深夜勤務は続いていました。 2015年12月25日クリスマスの朝、入社後わずか9カ月、24歳になったばかりの人生を終わらせました。 私は駆けつけた警察で娘の自殺の原因を尋ねられた時「仕事が原因です」とすぐに答えました。 「電通に入社しなければ、あの部署に配属されなければ、娘は自ら命を絶つことはなかったのだ」と後悔はつきません。 娘は「文章力や発想力、コミュニケーション能力を発揮したい。早く自立して母に仕送りをしたい」と年収が高いと評判の電通を就職先に決めました。 私は電通の激務の評判や過去に過労自殺があったことを知り、とても心配でした。でも娘は「私は大丈夫。ハングリー精神で色んな困難を乗り越えてきたんだから」と言いました。 しかし長時間労働や異常な上下関係やハラスメントは、あんなに健康で明るく向上心の強かった娘をも、あっという間に「うつ病」に追い込んだのです。 「これ以上耐えられない。この会社でキャリアを積むことは考えられない。辞めよう」と考えていたのに、責任感の強い娘は頑張っているうちに、「苦しい、辛い、死にたい」と考えるようになり、「死んでしまったら苦しみから逃れられる」と自分で気付かない間に正常な判断ができなくなったのです。 「残業するなと言われるのに、新人は死ぬほど働けとか言われて意味分からない。この会社おかしい」 「今週10時間しか寝ていない」 「生きるために働くのか、働くために生きるのか分からなくなってからが人生」 「これが続くなら死んだ方がよっぽど幸せなんじゃないかとさえ思う」 2016年10月私が娘の過労自殺を公表した当時、これらの娘のSNSは多くの働く人の共感を呼びました。過労死問題は連日、テレビや新聞やネットニュースで取り上げられ、その後、日本中の多くの職場で長時間労働やハラスメントを無くす動きがおこりました。企業は優秀な学生を採用するために社内の働き方の改善に努めました。 私の元には仕事で追いつめられた沢山の人たちの声が寄せられ、「まつりさんの苦しみとお母さんの悲しみを自分と重ね合わせ、自死を思い留まった」と打ち明ける方はひとりではありませんでした。娘の命の犠牲によって、日本から過労自殺がなくなり、若者たちの命が救われるのではないかと期待しました。 ところが昨年「仕事が原因」で自殺した人は警察庁発表で1,949人もいます。労働環境を改善しない職場で、未だにたくさんの人が犠牲になっているのです。 国は本気で過労死等の防止に向き合い、すべての業種で過労死ラインの労働とハラスメントを禁止し、11時間以上の勤務間インターバル制度を義務化し、過労自殺を無くして欲しいと思います。どうかこれ以上私たち母娘のような犠牲者を増やさないでください。 またこの一年、人々の意識から過労死問題の風化を感じています。過労死の記者会見があっても、報道されることが少なくなりました。過労死・過労自殺が無くなっていないのに、問題が風化することは、国民の命と健康を守ることが困難になると大変危惧しています。 新型コロナウイルス対策で、在宅勤務を導入し社員の健康に配慮した働き方の改善に努めている企業がありますが、在宅勤務で逆に労働時間が増えている人もいます。コロナ禍にあっても、コロナ後においても改善を継続して欲しいと思います。 電通に関する報道があるたびに言葉にできない複雑な心境になりますが、電通に対しては引き続きグループ全体での労働環境の改善の取り組みを注視して参ります。 社員の個人事業主化ということが政策に上がっていますが、会社の労務管理の責任が曖昧にならないように取り組んでいただきたいと思います。 また、日本でこれまで立場の弱い人たちが、コロナ禍で一層追い込まれていると感じています。非正規雇用労働者、低賃金の業種、ひとり親家庭などの年収が低い人達が、さらに生活が困窮して追いつめられています。 国の雇用政策の中で、望まないのに非正規雇用に就いている人は年々増加しています。私が長時間労働の削減を訴える度に「残業代が減って困る」という声があがります。生活の為に長時間労働をしなければならないような、労働条件の悪い雇用形態をやめ、賃金を底上げする労働政策に転換して欲しいと思います。このような政策は貧困対策や、虐待、いじめ、少子化対策、子育て支援、自殺防止、過労死防止にもつながるのではないでしょうか。 自殺者の増加にも胸を痛めております。相談体制の充実は重要ですが、国民の生き辛さの根本的な問題の解決を行い、あらゆる人の痛みに向き合い、支援し、救済し、必死で生きている人たちが報われる国にして欲しいと思います。 私は2年間、厚生労働省の過労死等防止対策推進協議会において遺族の代表の1人として、娘が苦しみの中で命を絶った経緯や、長時間労働やハラスメントの恐ろしさを語り、過労自殺を無くす実効性のある対策を講じて欲しいと訴えて参りました。 日本が、誰もが安心して活き活きと働き、若者たちが希望を持って人生をおくれる国になるように発言していくことが、娘が私に遺した使命と思い、微力ながらまつりと共に力を尽くしてまいります。 (原文ママ)
命日手記高橋まつり
dot. 2020/12/25 00:00
聖飢魔IIの創始者である大魔王・ダミアン浜田陛下「……神、全否定」さくら“シエル”伊舎堂と共に新バンド・D.H.C.について語る
聖飢魔IIの創始者である大魔王・ダミアン浜田陛下「……神、全否定」さくら“シエル”伊舎堂と共に新バンド・D.H.C.について語る
聖飢魔IIの創始者である大魔王・ダミアン浜田陛下「……神、全否定」さくら“シエル”伊舎堂と共に新バンド・D.H.C.について語る  聖飢魔IIの創始者である大魔王・ダミアン浜田陛下が再び人間界に顕現。選ばれし6人の改臟人間と結成したヘヴィメタルバンド・Damian Hamada's Creaturesが2か月連続で『旧約魔界聖書 第I章』『旧約魔界聖書 第II章』と2枚の大聖典(アルバム)をリリースした。これを記念し、ダミアン浜田陛下とさくら“シエル”伊舎堂(vo)にインタビューを敢行! 神を完全否定する大聖典や、正義の暴力が蔓延る人間界について等々語って頂いた。ぜひご覧頂きたい。 ◎Damian Hamada's Creaturesインタビュー <世を忍ぶ仮の姿(学校の教員)「もう思い残すことはない!」> --陛下はしばらく世を忍ぶ仮の姿で生活されていたそうですが、このタイミングで再び人間界に顕現し、6人の改臟人間とヘヴィメタルバンド・Damian Hamada's Creatures(以下D.H.C.)を結成することになった経緯を教えて頂けますか? ダミアン浜田陛下:世を忍ぶ仮の姿の仕事(学校の教員)を35年続けてきて、そのうちの32年分は担任を持っておった「もう思い残すことはない!」と。それで去年の3月に早期退職し自由な時間が出来たのはよかったのだが、ずっとテレビを観てたり、呑んでいたり、そんな生活を送っていたら1か月ぐらいで飽きてしまったのだ。体調まで崩してしまったのだ。 --働いていたほうが健康的だったんですね(笑)。 ダミアン浜田陛下:で、もうこんな暮らしはやめようと。それで5月半ばぐらいに「ギターを弾いたり、曲を作ったり、生産的なことを始めてみよう。生き甲斐を見つけよう」と思ったのだ。そしたら、やっぱり曲作りは自分にすごく合っていたみたいで、久しぶりにやってみたらめちゃくちゃ楽しかったのだ! 本当に朝起きてから夜寝るまで、飯や風呂の時間以外はアレンジも含めてずっと曲を作っておったのだ、気付いたら12曲も出来てしまった。「じゃあ、これを世に出そう!」と思ったのだ。 --そうして生まれた音楽を改臟人間にされて歌うことになったのが、さくら“シエル”伊舎堂さん。聖飢魔IIやダミアン浜田陛下の音楽を聴いて育ったそうですが、どんなきっかけで出逢ったんですか? さくら“シエル”伊舎堂:初めて聖飢魔IIさんを知ったのは、小学生の頃にCD屋さんで流れていた地球デビュー25周年のミサ(ライブ)のDVDですね。すぐに「これ、誰っ!?」となりまして、この格好良い人たち……あ、人じゃない、悪魔の方々は誰なんだろうと思って、店員さんに教えてもらったんです。それから大好きになりました。 ダミアン浜田陛下:そのCDショップのあんちゃんだかねえちゃんだか分からないが、「大儀であったぞ!」と言わねばならぬな。 さくら“シエル”伊舎堂:良い仕事していただきました(笑)。そのあとにまた急接近する機会がありまして、デーモン閣下がご出演される【洋楽カバーイベントのCLASSIC ROCK JAM】を観たくて東京まで母に連れて行ってもらいました、初めて生で閣下を拝見して「こんなに格好良いボーカリストがいるのか!」ともっとのめり込んでいくことになって。そこからずっと「聖飢魔IIが好き!」と言い続けていたら、ダミアン浜田陛下の新プロジェクトの話が舞い込んできて……本当にビックリなのです。 <聖飢魔IIとD.H.C.「聖飢魔IIは360度 D.H.C.は30度ぐらい(笑)」> --沖縄米軍基地の居住者が通う教会のクワイアで歌っていたり、60年~80年代のクラシックロックに傾倒してドラマーとして活躍したり、シンガーソングライターとしても活動したり、14歳の時に人気オーディション番組『X FACTOR OKINAWA JAPAN』やその後も日本テレビ「歌唱王」などのファイナリストになったり、凄まじい経歴をお持ちですが、メタルボーカリストに傾倒していったのは何故なんでしょう? さくら“シエル”伊舎堂:元々静かに歌うのは得意じゃなくて、バラードとか本当に苦手なジャンルですし、邦楽のポップスも歌うのはすごく苦手で、とにかくステージで全力で歌うのが好きなタイプでしたし、それしか出来ないと思っていたので……日本のメインストリームにある音楽を得意としていないかも(笑)。なので、言い方はアレですけど、騒がしい、うるさいハードロックの世界が向いている。で、そういう音楽がリスナーとしても好きだったし、私は好きなことだけやっていたいタイプなので、それもあってズブズブとこっちのHR/HMにハマっていった感じ。もう抜け出せないです。 --陛下はさくらさんのボーカルにどんな印象を持たれていたんですか? ダミアン浜田陛下:悪魔寺(事務所)や悪魔教会(レコード会社)からいろいろ音源や映像を送ってもらいチェックしたのだが、曲によってスタイルを変えてくる器用な子だなという印象であった。で、この者が自分のバンドに入ったらどんな風になるのだろうとイメージして「この者ならやってくれるな!」と思ったのだ、実際にレコーディングをしたら私の想像を遥かに超える出来栄えだった、相当な努力をしたのが分かる。で、このインタビューで今初めて分かったのだが、バラードが苦手であると。そこ、すごい共通点であるぞ! 私はバラードが作れないのだ(笑)。 さくら“シエル”伊舎堂:そうなんですね(笑)! ダミアン浜田陛下:作ろうとすれば作れるのだろうが、たぶん良いバラードは作れない。私の好きなヘヴィメタルやハードロックの好きな曲のTOP100を作ったとして、そこにバラードは数曲しか入らないと思うぞ。 さくら“シエル”伊舎堂:陛下分かります! いっしょです! ダミアン浜田陛下:レインボーの「キル・ザ・キング」とか、わりとああいう系統の曲ばかりがガンガン入ってくるんで。だから今話を聞いていて「ここまで相性が良いとは!」って驚いたぞ(笑)。 さくら“シエル”伊舎堂:D.H.C.はバラードができないバンド(笑)。 --奇跡的な巡り合わせだったんですね。 ダミアン浜田陛下:D.H.C.は聖飢魔IIとよく比較されるのだが、私が魔界へ帰還した後の聖飢魔IIは、ヘヴィーメタルだけでは無くいろんなジャンルの音楽性を持った構成員の集合体なのだ。まったく指向性が異なる。その中であの幅広い音楽性が出来上がっている。360度にわたって多種多様なロックを奏でているバンドなのだ、D.H.C.は超狭い! せいぜい30度ぐらいの角度しかないのだ(笑)。 <2枚の大聖典「絶望的。神の傲慢さも表現して……神、全否定」> --ちなみに、D.H.C.のコンセプトはどうやって組み立てていったんですか? ダミアン浜田陛下:コンセプトなどないのだ、私の理想とする音楽を世に送り出す事が目的なのだ。 さくら“シエル”伊舎堂:その目的のために我々は選ばれました! ダミアン浜田陛下:コンセプトというより、そこを上手に説明するとすれば、D.H.C.に招集したメンバーは悪魔ではない。人間なのだ。しかし、ただの人間には私の理想とする音楽は創ることができないのだ、よって改臟人間にしたのだ。あと、今後ライヴを行う場合も悪魔ではないので、ミサでは無くライヴなのだ。その改臟人間たちを統べるものとして、大魔王・ダミアン浜田が存在している。だから、私がアートワークやミュージックビデオで抱えているギターはただ触っているだけじゃなく、それぞれの弦で改臟人間たちをコントロールしているのだよ、分かるかね? 1弦:さくら“シエル”伊舎堂(vo) 2弦:マスヒロ“バトラー”後藤(dr) 3弦:秀貴“ジル”栗谷(g) 4弦:大地“ラスプーチン”?木(g) 5弦:ケン“アレイスター”宮嶋(b,key) 6弦:宏美“ローズ”稲益(cho) ダミアン浜田陛下:そして、当然、作詞、作曲、編曲、プロデュースまで私が関与している。以上がD.H.C.の構造なのだ。 --2か月連続で『旧約魔界聖書 第I章』『旧約魔界聖書 第II章』と2枚の大聖典(アルバム)をリリースされましたが、それぞれどんな作品に仕上がったなと感じていますか? ダミアン浜田陛下:『旧約魔界聖書 第I章』は最初の挨拶のような作品であるな。なので、聴きやすい。ミュージックビデオにもなっている「Babel」は王道中の王道であるな。名刺代わりとでも言っておこう。でもそこにダミアンらしさは当然詰まっている。王道ではあるが、絶望的であり、なおかつ神の傲慢さも表現して……神、全否定。 --神、全否定(笑)。20年ぐらいインタビュアーの仕事をさせて頂いているんですけど、初めて飛び出したワードです。 さくら“シエル”伊舎堂:当然でございます。 ダミアン浜田陛下:そして、そのあとの「Heaven to Hell」は天界の天使を悪魔が拉致するのだ。「昔の恋人に似ている」というだけの理由で。それで、魔界に連れてきたのはいいんだが、上手くいくわけがないじゃないか。でも、紆余曲折を重ねながら最終的には愛を育んでいく。悪魔が愛を育む! 「Babel」で愛を切り捨てた神との対比になっているのだ。その「Heaven to Hell」は大作なので、さっき言った「名刺代わり」には相応しくないのだが(笑)、聖飢魔II時代から通ずる信念をしっかり踏襲していることを伝える為には必要な楽曲でもあるのだ。でも、どの曲も「名刺代わり」になるような王道で聴きやすい楽曲群である。 --『旧約魔界聖書 第II章』は? ダミアン浜田陛下:『旧約魔界聖書 第II章』はとっつきやすくはないけれども、味のある楽曲が揃っている。「ちゃんと身構えて聴いてね。勉強頑張ってね」っという感じなのだ(笑)。 さくら“シエル”伊舎堂:私は陛下の曲はもちろん、詞も大好きで。歌詞カードを読んでいるだけでも小説を読んでいるような気分になるんですよね。すごく想像力を掻き立ててくれる。いろんな挿絵が思い浮かぶんです。で、それらが曲と合わさることによって絵が動き出して映像になっていく。なので、音楽を聴いているはずなんだけど、映画を観ているような気分になるんです。私はその語り手として招聘されている訳ですから、どうやってその体験を聴き手の皆さんにもしてもらうか、そこはすごく研究しましたね。大学とかで文学の作品研究の授業があるじゃないですか。あれをやっている気分。ダミアン浜田陛下の作品研究をしている学生みたいな(笑)。 <TikTok世代へ「30秒じゃ、歌は始まらないのだ(笑)」> --この先のD.H.C.は我々にどんな世界を見せてくれるんでしょうか? ダミアン浜田陛下:私の好きな世界しか描かない(笑)。メンバーもみんな賛同してくれているが、まず現(うつつ)ではないのだ。現実社会ではない、神話の世界であったり……神話って言うと「神」って書くからイヤなのだが、神話には悪魔も登場するのだから、そういう人類が生まれる前の話だとか。仮に人間について書くとしても、それこそ聖飢魔IIの「蝋人形の館」のようにすごくホラーチックな話であったりとか。そういうモノしかやらない! でも、願わくば、アニメの主題歌もやりたい! 恋愛モノとかじゃなくて、戦闘モノやダークファンタジー。以前テレビアニメ『テラフォーマーズ』の楽曲を手掛けて聖飢魔IIに提供したのだが、水を得た魚のように「この世界、最高!」と思いながら制作できたので、D.H.C.としてもアニメの主題歌はやりたいと思っているのだ。 --ここまでの話を聞いて、ギターソロすら失われつつある日本の音楽シーンに衝撃を与える存在になってほしいと思いました。 さくら“シエル”伊舎堂:たしかに、最近ギターソロとか印象に残るギターリフとか少ない気がします。私は元々ドラムを叩いていたんですけど、その頃からギターソロやキーボードソロも歌として覚えるのがあたりまえになっていたので、ドラム叩きながら各ソロを口ずさんだりしていたんですよ(笑)。 ダミアン浜田陛下:良いぞシエル! さくら“シエル”伊舎堂:その楽しみを私の同世代の子たちにもっと知ってほしいですね! 「このギターソロ、格好良いんだよね」と言っても「え、そんなところまで聴くの?」って不思議がられる時があるんです。歌しか聴いてない事が多いみたいです! ダミアン浜田陛下:アーティストからの全メッセージを受け取って欲しいものだな。それぞれの音から想像を膨らませて楽しむのが音楽だと思うのだが。 さくら“シエル”伊舎堂:歌詞とメロディー以外のサウンドも含めて全部で聞いて欲しいです。 --そんな人たちにこそ『旧約魔界聖書 第I章』『旧約魔界聖書 第II章』を聴かせましょう! それで音楽本来の楽しみ方を知ってもらう。聖飢魔IIデビューの十数年後に生まれた世代のさくらさんがD.H.C.のフロントマンになった意義になると思いますよ。 さくら“シエル”伊舎堂:本当、私の世代にも聴いてほしい!ヘヴィメタルをよく知らない人たちまで広めたいですね。 ダミアン浜田陛下:実際「私はメタルはあんまり聴かないんですけど、このアルバムは良いと思いました!」っていうコメントが多くあったようだ。 さくら“シエル”伊舎堂:それはとてもうれしいですね! ダミアン浜田陛下:起承転結しないような、あっさり感が今は求められているのかもしれないけど、我々はそんなものを求めない! そんなにあっさりした調理はしないのだ! --30秒ぐらいしか曲を聴かないTikTok世代に食べさせたらとんでもないことになりそうですよね。「え、世の中にこんなコッテリした料理があんの!?」って。 ダミアン浜田陛下:30秒じゃ、歌が始まらないのだ(笑)。まだ全然イントロの途中だから。 さくら“シエル”伊舎堂:驚かせたい(笑)! <正義の暴力が蔓延る人間界「正義ほど曖昧なものはない」> --「……神、全否定」している音楽がどう響くのか。 ダミアン浜田陛下:『旧約魔界聖書 第II章』に「女神と死神」という曲があるのだが、その中でも歌われているが、死を恐れないことがすごく大事であることを唱えているのだ。女神を生きることに例えて、死神を死ぬことに例えて、相反するふたつのモノが禁じられた愛を育むわけなのだが、すごく刹那的なのだ。で、2番で「生を食い尽くした死は尊い」ということも歌われているのだが、これは要するに「人生を全うしたということは、すごく尊いことなんだよ」ということを表現している。 --神を全否定するし、悪魔や絶望がキーワードになるような世界観だけど、捉え方によっては聴き手を鼓舞したり、前向きな気持ちにさせる作品でもあると。 ダミアン浜田陛下:アメとムチであるな。絶望ばかり味わわせていると「このバンド、聴いていていいのか?」ってなってしまうではないか(笑)。でも、そこに救いの手を差し伸べると魔界の良さを分かってもらえる。そもそもD.H.C.の絶望的な歌は現実世界の絶望を表現しているパターンが多いので、要するに「魔界へどうぞ、どうぞ」と勧誘しているのだ。『旧約魔界聖書 第I章』の「Lady into Devil」なんて「もうやってらんないわ、この世界」みたいな感じで人間辞めて悪魔になっちゃうのだ。 --勧誘技術のレベルが高い(笑)。 ダミアン浜田陛下:悪魔教は素晴らしいのだ! さくら“シエル”伊舎堂:その通りでございます! ダミアン浜田陛下:やっぱりね、無理して頑張っちゃいけないという事なのだよ。 --今の発言、めちゃくちゃ悪魔のささやきに聞こえました(笑)。 ダミアン浜田陛下:いや、生きることに対しては頑張らなきゃならないであろう、なんでもかんでも掟通りで、神の教えに従って生きていると、神は結構厳しいからな。 --たしかに。特に今年は「ジャスティス・ハラスメント」問題もあって、何もかも掟通りに人を制裁する集団心理が表面化しましたけど、あの正義って神的な思想かもしれない。 ダミアン浜田陛下:正義ほど曖昧なものはない。正義なんて立ち位置によって変わってくるのだ。みんな自分のことを正義だと思っているから、そういう姿勢でいるから戦争は起きるのだ。つい最近『恋妻家宮本』という阿部寛が先生役の映画を観たのだが、その中で彼がこんなことを言うのだ。生徒の保護者から「先生がそんなことしていいんですか! それは正しいことなんですか!」とすごく責められるのだが、それに対して「あなたの言っていることは正しいです。でも、優しくないです」と。正しいと正しいはぶつかり合うかもしれないが、優しいと優しいは決してぶつかり合うことはない。そう考えると、神が「正しい」と言っていることが必ずしも優しいとは限らないのだよ。 --奇しくも、神より悪魔の考え方のほうが優しく思える世の中になってきたのかもしれませんね(笑)。 ダミアン浜田陛下:ハハハハ! まぁ我々も優しいだけじゃないがな。でも「よく考えてごらん?」と問いかけてはいく。 さくら“シエル”伊舎堂:『旧約魔界聖書 第I章』『旧約魔界聖書 第II章』と共に人生観が変わるくらいのアルバムになっているのでたくさんの方々に聴いいただきたいです。人間界では「チャンスの神様」と言う言葉をよく聞きますが、私は「チャンスの悪魔」説を提唱します! 何故なら私は実際に悪魔からチャンスを頂いたから(笑)! ぜひ陛下率いるD.H.C.に注目して下さい! Interviewer:平賀哲雄
billboardnews 2020/12/25 00:00
中島美嘉、KEYTALK、まるりとりゅうが出演のABEMA音楽特番【青の洞窟 XmasオンラインLIVE】無料配信中
中島美嘉、KEYTALK、まるりとりゅうが出演のABEMA音楽特番【青の洞窟 XmasオンラインLIVE】無料配信中
中島美嘉、KEYTALK、まるりとりゅうが出演のABEMA音楽特番【青の洞窟 XmasオンラインLIVE】無料配信中  中島美嘉、KEYTALK、まるりとりゅうがが出演するオンライン音楽特番【青の洞窟 XmasオンラインLIVE】が、2020年12月20日にABEMAで配信された。  イベント当日のオープニングを飾ったのはKEYTALK。毎年渋谷・代々木公園を彩っていたイルミネーションイベント【青の洞窟 SHIBUYA】を想起させるステージで「DROP2」を歌唱し、オープニングにふさわしいパフォーマンスを披露。また、メディア初披露となった新曲「Orion」を熱唱した。  ライブの感想を聞かれると「寒さを吹き飛ばすようなライブになりました。初披露の「Orion」も素敵な「青」の空間で演奏出来てうれしかったです!」とコメント。また、スタジオでは、“音楽を通じた人との繋がり”をテーマにトークを展開。今年、人との繋がりを感じた曲について聞かれると「「流線ノスタルジック」という曲を配信した時に妹から『お前のわりには頑張ってるな』と連絡がきました。この曲が僕と妹を繋げてくれたと思います(笑)」とコメントした。  続いて登場したのは、SNS発の新世代アーティストとして注目を集める男女ユニット、まるりとりゅうが。渋谷の夜景をバックに、定番ソングの「気まぐれ時雨」から今年発表したミニアルバム『改めまして』から「嫉妬」と「ONE STEP」を披露。さらに、クリスマスならではのパフォーマンスとして「メリクリ」のスペシャルカバーも披露し、イベントを盛り上げた。  スタジオトークでは「渋谷の夜景が本当に綺麗でした。後ろを向いて歌いたいくらいでした(笑)」とパフォーマンスを終えた感想をコメント。また、今年の音楽活動について「ずっとライブができなかったのですが、先月にツアーができて、ファンの皆さんと会えたのでよかったです。この期間だからこそできた曲もあったので前向きに考えています」と振り返った。  トリを飾ったのは中島美嘉。黒のシックなロングドレスで登場し、全4曲を披露。冬の名曲「雪の華」をパフォーマンスした中島は「たのしかったです! 青い空間ですごく素敵でした」とコメントした。  スタジオトークでは、「クリスマスは家族と必ず過ごすようにしています。今年も仕事が終わったら家族と過ごす予定です」と冬の思い出を話した中島。また、「今年は予想外の事が起きすぎて臨機応変に対応する力が身につきました。アーティストとしては、やりたいことができなかったり、レコーディングが延びたりしたけど、そのおかげで一曲増やせたり したのでマイナスなことばかりではなかったです」と今年を振り返った。  なお、このオンライン音楽特番は、2021年2月21日まで無料で配信される。 ◎セットリスト 【青の洞窟 XmasオンラインLIVE】 2020年12月20日(日)21:00~23:00 <中島美嘉> 01. 花束 02. ノクターン」 03. RESISTANCE 04. 雪の華 <KEYTALK> 01. DROP2 02. ララプソディー 03. Orion 04. BUBBLE-GUM MAGIC <まるりとりゅうが> 01. 気まぐれな時雨 02. 嫉妬 03. メリクリ(カバーソング) 04. ONE STEP ゲストMC :澤部佑(ハライチ)、菅沼ゆり、ねお、瀧山あかね(ABEMAアナウンサー) 見逃し配信:2021年2月21日(日)まで https://bit.ly/3ayTMDg
billboardnews 2020/12/24 00:00
いつ聴いても古くならない大貫妙子サウンド 本人が明かす“こだわり”とは?
いつ聴いても古くならない大貫妙子サウンド 本人が明かす“こだわり”とは?
大貫妙子 (撮影/品田裕美) ユニバーサルミュージック社内で、原宿の竹下通りを眺めながらの撮影 (撮影/品田裕美)  過去にリリースしたCDがLPとして再販され、大貫妙子さんが今改めて注目されている。いつの時代でも古さを感じないサウンドの秘密とは。 *  *  *  夜明け前。眠っている大貫さんの顔に、小さくて柔らかい物体がペシペシと当たる。飼い猫だ。言葉を持たない猫は、そうやって「起きて」とねだる。時計を見ると、だいたいが5時前で、「まだ早い」と大貫さんは無視を決め込む。 「4時ぐらいからだいたい1時間おきに、2匹の猫が私を起こしにやってきます。3回目には空も明るくなっているので、諦めて起きて庭に出ます。そして両手を広げて太陽の光を浴びる。それがルーティン」  東京と葉山との二重生活から、葉山の家を仕事と生活、両方の拠点にすると決めたのが15年前。その家で両親を看取り、2012年には、札幌にアパートを借り、しばらく葉山と札幌の二重生活を続けていた時期もある。それらの日々は、大貫さんの著書『私の暮らしかた』(新潮文庫)に詳しいが、本のあとがきでは外飼いだった猫は、いつの間にか家に招き入れられていた。  お風呂に入るのはいつも朝。夜は就寝前に足湯か腰湯、そのほうが温まる。なので、朝の発声練習は湯船の中。声の調子を確かめるのはそのときだけだそうだ。話しながら、大貫さんは「♪は」「♪は」と、小鳥のように澄んだ声を出して、その様子を再現した。 「60歳をこえ、肩の荷が下りたようにこだわりが消えてしまった。今は『もう、好きなことをしていいのだ』という気持ちによって動かされています」  それでもさすがに、この新型コロナウイルスによって生じた変化には、「ステージで言えば緞帳がドーンと下りたような状態」だと感じた。 「いろいろな予定が立たなくなって。春に出演するはずだった大きなフェスは中止になったりしました。でも、私のように小さな看板でも、掲げて仕事をする立場の人間にとって、コンサートをすることで、今までサポートしてくれているスタッフやミュージシャンの暮らしの糧になるのであれば、コンサートは、必ずできる形にしたいと思っていました。それは金銭的なことばかりではなく、日々の活力や希望に繋がることなので、自分の責任だと思っているんです」  9月26日には、新宿文化センターでコンサートを開催した。会場にお客さんは半分。 「私のコンサートに来るお客様は、元々お一人様が多くて、いつも静かに聴いてくださる。だから、飛沫とか関係ないのにな、と思っていたら、この日ばかりは一斉にスタンディングオベーションが起きたんです。鳴りやまない拍手とお客さんたちの笑顔を見て、『生の音楽が聴きたかった!』という思いがヒシヒシと伝わりました」  11月3日に90年代に発表したアルバム4タイトルが、12月には、90年代から2000年代にリリースされたアルバム6タイトルが初アナログ化される。自粛期間中は、その準備などにも追われた。 「今日も、サロンでシャンプーをしてくれた若い女の子から、『大貫さんのLPを買いました。宝物です』と言われて、『どのLP?』と聴いたら、すごく初期の、70年代のアルバムだったので驚きました」  音楽も、LPやCDなどの“盤”ではなく、サブスクリプションのような定額利用サービスやダウンロードが主流の今、大貫さんは、「耳に異物を入れるのは疲れるし。やっぱりスピーカーから聴かないとダメ」という理由で、LPやCDを愛聴している。 「いつ聴いても、大貫さんの音楽は古くならないですね」と言うと、「何度も聴き返して思うのは、“サウンドにこだわっている”ことが、古さとか新しさとかとは無縁でいられる理由なのかな、と思います」と答える。 「そもそも作るときに、“今流行っている音楽は何?”とか、そういうことは全く考えずに、今までやってきたので。私たちの時代は、アルバム制作を始めてから発売するまでに急いでも1年はかかっていた。新しさにこだわれば、作ったそばからどんどん古くなるわけで、そこにフォーカスして作ってもしょうがない。自分が本当に好きな音像、好きな世界観にどうしたら近づけるか、考えてきたのはそれだけですね」  とはいえ、70年代に大手のレコード会社と契約した際に、「ぜひ売れるものを作ってください」と言われたこともあった。 「そのときは、『売れるものって何ですか? 知っているなら教えてくださいよ』と言いたかったけど、我慢しました(笑)。当時20代の私は、売れるということに、全く興味がなかったし。ただ夢中で、楽しいし、そんな気持ちのまま、『レコーディングまでできるようになってラッキー』って思っていて。だからと言って、これが自分の一生の仕事になるとまで考えていなかった。それほど若かったんです」 「シンガー・ソングライター」という肩書自体、海外から輸入されて間もない頃のことだった。  以来、アルバムに関しては、“誰と一緒に作りたいか”“今自分にできることは何か”を考え、人との縁を大切にしながら、湧き上がる創作意欲を頼りに作り続けてきた。その一方で、ライブでステージに立つのは毎回怖かったという。 「元々が、引っ込み思案なんです(苦笑)。でも、それじゃいけないと思い、なんとか自分で自分の背中を押してきた感じです。自分の可能性って、自分にはわからない。目の前にきた仕事を精一杯頑張ることしか。それに、『この人には無理だ』って思う人には、主催者側もオファーしませんよね。そのようなチャンスを与えてくださった方々が私を育ててくれたんだと思います」 (菊地陽子 構成/長沢明) 大貫妙子(おおぬき・たえこ)/1973年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成。ポップス史に名を刻むアルバム「SONGS」をリリース。76年に解散後、ソロ活動を開始。2015年にバンドネオン奏者・小松亮太とのアルバム「Tint」で日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞。著書に、アフリカ、南極などへの取材体験をスケッチした『ライオンは寝ている』、葉山での猫との暮らしなどを綴った『私の暮らしかた』など。 >>【後編/大貫妙子「年齢を重ねることはメリット」精神面、仕事面での変化】へ続く ※週刊朝日  2020年12月25日号より抜粋
週刊朝日 2020/12/17 11:32
その日、妖怪が家にやってくる?由緒不明の行事「事八日」の正体はなんと…!
その日、妖怪が家にやってくる?由緒不明の行事「事八日」の正体はなんと…!
冬の入口ごろにあたる12月8日、そして立春ごろにあたる2月8日は、民間習俗で「事八日(ことようか)」にあたります。12月8日を「事納め」、2月8日を「事始め」(またはその逆)とも呼ばれます。以前は「事」とは、12月8日を一年の農事の終わりとはじまりのことだとか、または正月に歳神を迎える行事のことだとかと解釈されてきましたが、研究が進むうち、その解釈には異論も出てきています。地域によって一つ目の妖怪が里にやって来るとも、福神が家を訪れるともされ、複雑奇怪な信仰行事が各地で行われてきました。「事八日」とは一体どういう日なのでしょうか。北風とともにやって来る冬の災厄。人はそこにさまざまな魔物の姿を幻視しました ダイマナク、針供養、お事汁。多種多様な事八日行事が意味するものは? 事八日の風習および伝説としてもっとも有名で印象的なのは、主に関東地方から東海地方に分布する、目籠を長いさおの先にかけて軒先に吊るすならわしです。 この日各戸を訪れて災いをもたらすという一つ目小僧や、やはり一つ目の妖怪・箕借り婆 (みかりばばあ)が、目籠の無数の目におじけづいて近づいてこない、とされるためです。 茨城や福島ではこの妖怪をダイマナク、栃木ではダイマナコと呼び、グミの枝を囲炉裏でいぶし、ヒイラギや匂いのきついニンニク、ネギ(ナンバン)などを戸口に飾って魔除けとします。さらに裏庭などの敷地の目立たない場所に笹竹を組み合わせた簡素な門松状の祭壇「笹神様」をしつらえて、小豆飯や蕎麦などを供えます。 逆に東北地方や関東の一部では、事八日には家に福の神である大黒様と恵比寿様が訪れるとして、供え物をして歓待する風習があります。 福島市では、12月8日、2月8日を「メケイ八日」と言い、やはり村の家々は厄病神除けの飾り付けをするのですが、特定の数件の家は、家の戸口をいっぱいに開けて疫病神を招き入れ、小豆飯や牡丹餅を供え、しばし歓待して送り出すという風習も見られます。 愛媛県では2月8日は「命乞い(イノチゴイ)」とも呼ばれ、魚や芋を混ぜたご飯を藁に包み、箸を添えて屋根に上げ、鳥に食べてもらうことで福がもたらされると信じられてきました。 宮城県では、12月8日を「つめの八日」「厄神様」と呼び、桃の木の枝に団子を家族の数だけ刺して門口に飾ります。 北陸の新潟県では事八日は「しょうき祀」と呼ばれ、人形道祖神を村境に飾り厄除けとします。 長野県では、とうとの神送り、風の神送り、こと神送り、八日様などとも呼ばれる厄神で、疫病除けのために藁で巨大な馬やムカデ、人形を作り、村郷の境まで運び、燃やすという虫送りに似た行事が行われます。 愛知県の北設楽郡でも、虫送り行事とも習合して、疫病神の依代となる藁人形を村境まで送り災厄防除を祈願する「八日送り」が2月、6月、12月の計三回も行われます。 またこの日は物忌みの日でもあり、野良仕事や針仕事などを休み、派手な行いは慎んで静かに屋内で過ごし、無病息災を祈って「お事汁」「六質汁(むしつじる)」と呼ばれる汁物を食べる風習も全国に分布します。芋、大根、にんじん、ごぼう、こんにゃくの根菜に、魔除けの効果がある小豆を加えた味噌汁で、これを家族で食して養生するわけです。門口に飾られた魔除けのヒイラギ。事八日には多様な災厄除けの民間風習が見られます 北陸地方では12月8日には「八日吹き」という荒天とともにフグの一種ハリセンボンが浜にあがってくるという言い伝えがあり、これは災神の到来を告げるものととらえられています。 このハリセンボン伝説から波及したと思われるのが事八日行事として全国各地に分布する針供養。折れたり曲がったりして使えなくなった古い縫い針を、寺社に奉納して弔う行事です。針供養の総本山ともいわれるのは和歌山県の加太淡嶋神社で、2月8日には全国から数多くの針が奉納されます。加太淡嶋神社は『延喜式』にも「加太神社」として記載され、戦後は神社本庁に属さず、神道淡島教団を設立しています。「淡島」とは、国生み神話で伊耶那岐命と伊耶那美命が、蛭子の次に生んだとされる子(島)の名で、海に流された蛭子と同様、親神たちに「子の例にいれず」と見捨てられた神です。 特に婦人病などへの恩恵あらたかとして、加太淡嶋神社を勧請した東京の浅草寺の淡島堂では、2月8日に豆腐に古い針を指して供養します。事八日に行われる針供養。その総本山である加太淡嶋神社は人形供養の神社でもあります 古代中国の重要な祭祀・臘日とは? このように、事八日の行事は調べるほど雑多で幅が広く、あまりにとらえどころがありません。 地理学者で民俗学者の山口貞夫氏は、事八日とは、山の神・田の神往還の信仰行事である、としました。つまり、12月8日に里にあって働いた田の神が山へと戻り、2月8日に山の神が再び田の神として里に降りてくる。この神の移動・往還に際して人もまた物忌みをしたのだ、というものです。現在の事八日に関する説明の多くはこの説に準拠しています。 川や泉の水源が山に由来することから、山の神と田の神が農民によって同一視され、往還する信仰があることはそのとおりなのですが、一般的には山の神を田に下ろすのは卯月八日の天道花行事ですし、逆に山に帰るのは十日夜(とおかんや)が知られ、神無月十日に田の神は山へと帰るとされています。ですから実はこの説はつじつまが合わないのです。 ちなみに山口氏の説は、事八日にやって来るとされる一つ目小僧の由来を説明するもので、柳田國男による一つ目小僧とは山の神が磊落(らいらく)した姿であるという説に依拠しています。 民俗学者の宮田登(1936~2000年)は、12月8日の事八日について、霜月(十一月)八日に行われる製鉄民・鉱山労働者の信仰する金屋子神を祭る鞴(たたら)祭が、一ヶ月後ろ倒しになったものだろう、とし、同様に2月8日については、前後して行われる初午の稲荷祭との関連を指摘し、稲荷神もまた金工労働者の信仰する神であり、山の民の信仰が、農村や江戸の都市文化に影響を与え、浸透したものとしています。山の神を一つ目とする信仰は、たとえば製鉄・鍛冶の守護神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)などによって知られるところですし、鞴祭が起源だとすれば、一つ目妖怪が里をうろつく、という伝承の説明はつくように思います。しかし、12月8日という日付けについては、単に「鞴祭が一ヶ月移動した」と短絡するのはどうでしょう。 陰暦十二月の八日は古代中国では「臘日」と呼ばれ、「臘祭」が行われました。この日は新旧、天地、祖霊と生者がつながり、合一する日とされ、人々は野獣を狩猟して先祖に供えて祈りを捧げました。中国の南北朝時代の王朝「梁(502~557年)」時代の月令を記した『荊楚歳時記』には、臘日には「臘鼓鳴春草生(臘鼓を鳴らせば春草生ず)」という信仰があり、村人たちは腰にさげた鼓(臘鼓)を叩き鳴らして踊り、また武者帽に金剛力士の仮装をして、災い、疫病を払った、と記されています。 後漢時代の『四民月令』 では、臘日の数日前から豚や羊を屠り、祭壇に捧げる。二日前から斎戒に勤め、室内を掃除する。臘日当日は野良仕事も雑事も休み、祖霊と五祀(戶=家屋の出入り口、戸口の神/竈=カマド神/門=敷地の門の神/中霤=家屋全体の神/行=旅人、道の神の五柱の神)を祀る儀式をおこなう、としています。 中国古代の臘日のならわしが日本に伝播し、山の神信仰やつくも神信仰と一体化して、独自の事八日行事になった、ということなのではないでしょうか。東北を中心に、村境に据えられる人形道祖神。災厄を村に入れないための守護神です 災厄と福は表裏一体。事八日とはアジア版クリスマスだった? しかしここで話は終わりません。ヨーロッパでは、冬の訪れとともに、魔物たちを引き連れて、戦争と死と霊感をつかさどる北欧神話の最高神・オーディンの狩猟団が冬の夜空を引き裂くような叫び声を上げながら駆け抜け、目撃した者の命を奪っていく、恐怖の百鬼夜行・ワイルドハント(Wild Hunt)の言い伝えが広く分布します。 ワイルドハントは特に冬至の祭りであるユール(jul、yule)の頃に目撃が最高潮に達するといわれます。事八日の元になった中国の祭祀「臘日」の「臘」とは「猟」を意味します。オーディンの狩猟団と臘。これは偶然なのでしょうか。 オーディンは隻眼(片目)の神。事八日に里をさまよう一つ目妖怪とも重なります。そしてさらに、人の命を奪う死神、厄病神であると同時に、子供たちや貧しいものにはその者の靴下、靴に施しをしていくとも伝えられています。オーディンの渡りは、トナカイのそりで夜空を駆けるサンタクロースのイメージの原型にもなっているのです。 長野県などの中部地方では、事八日に大きな編みわらじを戸口につるすならわしが知られ、クリスマスツリーに靴下やブーツをつるす風習とよく似ています。千葉県では、疫病神除けに掲げた目籠の周辺に、夜の間に親が小銭を撒いておき、翌朝起きた子供たちに、天からお金が降ってきたと告げて与えます。クリスマスのプレゼント行事とそっくりです。 さらに、事八日に家に招きいれる福の神である大黒様(大黒天)と恵比寿様。大黒様の姿は、恰幅がよく、ゆったりとした頭巾をかぶり、大きな袋を背負っています。そのいでたちから、私たちは容易に「サンタさん」との共通性を見出すことができます。事八日とは、意外にもアジア版のクリスマス、と言っても過言ではないかもしれません。 人を含めた生物すべてにとって生命の存亡に関わる過酷な季節である冬。古代人は風とともに襲い来る冬のウイルス病や細菌病(厄神)を恐れながら、同時に冬至を境にした太陽の回帰に福神の到来を重ねました。 古代エジプトやゾロアスター教、ミトラ教などの古代太陽信仰の系譜は、ユーラシアの西と東に伝播しながら、共通する信仰形態をつくりあげたのかもしれません。現代ではめっきりマイナーな事八日信仰には、壮大な人類の精神史が刻まれているように思われます。 (参考・参照) 疫神とその周辺  大島健彦 岩崎美術社 製鉄・鍛冶神事としての針供養-「コト八日の一視点」  三田村佳子 伊那谷のコト八日行事サンタとオーディンの狩猟団、一つ目妖怪と大黒様。疫神と福神は実は同じものなのかもしれません
tenki.jp 2020/12/17 00:00
リスカにゲーム漬け、学級崩壊…コロナで止まぬ「教育格差」
リスカにゲーム漬け、学級崩壊…コロナで止まぬ「教育格差」
※写真はイメージです (GettyImages) パソコン・タブレットPCをいずれも保有していない割合 (週刊朝日2020年12月25日号より) 「コロナ格差」。新型コロナウイルスによる休校を機に子どもたちの間に広がる学力や生活環境の格差を、東京都内の小学校の養護教諭は、そう呼ぶ。家庭で勉強を見てもらえずついていけない子、親が失業し家で食事も食べていない子……。感染の拡大とともに格差は広がる一方だという。  ここは東京都内の小学校の保健室だ。窓辺の水槽の金魚を、じっと見ているのは3年生の隆君(9)である。足を抱えて座って見始めて、もう30分になる。  2学期が始まって1カ月ほどたった10月半ば、教室に入ろうとすると、おなかが痛くなった。なぜなのか。本人は「わかんない」と言う。  だが養護教諭の幸恵先生は、コロナによる休校がきっかけではないかと見ている。担任の先生がプリントを自宅の郵便受けに次々入れていったが、隆君はやる気になれず、裏表に印刷された計36枚のほとんどが、白紙だった。  両親は介護の現場で働き、日中、家には中学生の兄と隆君だけがいる。どうすごしていたのか。本人は答えず、なぞのままだ。  分散登校を経て授業が通常に戻ると、担任の先生はいつもの年の進度に追いつこうとスピードを上げた。隆君は、しばらくぼんやりしたり外を見ていたりして「お客様状態」だったが、「調子が悪い」「おなかが痛い」と保健室に来るようになり、そのままいついた。  保健室登校組は隆君だけではない。4年生の大地君(10)もだ。3人きょうだいの真ん中。父は運送業、母は、朝は弁当店、午後はスーパーとダブルワークで、二人とも大地君の学習の面倒を見るゆとりはない。  勉強が苦手な大地君はゲームに走った。いまも家で「ずっとゲームをしていたい」が、学校に来ているのは「給食があるから」。給食が「一日で最初のご飯」と話す。  この日の献立は、ミートソーススパゲティと大根サラダ、フルーツゼリー、牛乳。大地君は口いっぱいに詰め込み、4分半で一気に食べた。大地君が残したのを、幸恵先生は見たことがない。  学級では、休校中も保護者がプリントに取り組むよう促し、塾のオンライン授業を受けている子もいる。 「いままでなら学校がカバーしていた家庭環境の差がもろに出て、学力格差がどんどん広がっている。感染の拡大につれて格差の拡大も止まらないのがこわい」と幸恵先生は話す。 「コロナ格差」は学級も揺さぶる。大阪府内の小学校では9月、5年生のクラスのひとつが「学級崩壊」した。新採用の担任の先生が授業をしようとしてもマスク姿の子どもたちが雑談をやめない。  同じ学年の先生の目から見た学級の様子は、こうだ。何人かが教室から走って出ていき、先生が追いかけていると、授業がそのつど止まる。他の子どもたちは、またか、とうんざりしている。塾で先の内容まで教わっている児童は、学校の授業は「かったるい」。勉強が苦手な子は授業に置いていかれ、ますますわからなくなる。  同じ学年の先生は言う。 「教師の未熟さ、学級を練り上げる学年頭が休校だったこと……。理由はいろいろあると思うが、クラスの児童の間の学力格差が広がり、どこに焦点をあてたらいいかわからないことがある」。保護者会では担任への批判が相次ぎ、12月1日から担任が交代した。 「コロナ前から厳しい家庭環境だった児童生徒には、勉強どころではない子がいる」と静岡市の小中学校でスクールソーシャルワーカーを務める川口正義さんは話す。 「保護者が休業や失業で仕事を失い、夫が妻に暴力をふるうなど、家庭が安全安心な場ではない。そのしわ寄せが子どもに来ている。休校中にゲーム漬けになったり昼夜逆転したり、リストカットしたり」と川口さん。従来の格差や貧困をコロナがあぶりだし、増幅した形だ。  そんな子らを支える動きはどうか。文部科学省初等中等教育局は6月、「『学びの保障』総合対策パッケージ」を発表。「あらゆる手段で、子供たち誰一人取り残すことなく、最大限に学びを保障」と掲げ、コロナ対策と学びの保障の両立を目指す施策を集めた。  例えば学習内容を次年度に繰り越すのを認めたり、校内でしかできない協働学習や実習に優先的に授業時間を使い、一人でできる学習はICTも使いながら自宅でするよう促したり──といった内容だ。経済的理由で環境を準備できない家庭への支援にも触れている。  低所得の世帯の家庭学習を支えるための通信費について「要保護児童生徒援助費補助金、特別支援教育就学奨励費、高校生等奨学給付金の特例的な追加支給により対応」といった記述もある。  だが、困窮している家庭の子どもの学習を学校以外の場で直接支える施策は見当たらない。  これまでの学習の遅れに家庭環境の厳しさが加わり、さらにオンライン環境のなさが重なる三重苦。子どもたちをどう支えるか。NPO法人のなかには、子どもたちや保護者を支援する取り組みが出てきている。  NPO法人の「カタリバ」(東京都)はコロナ禍で困っている子に学びの機会を届ける「あの子にまなびをつなぐ」プロジェクトを立ち上げた。  一斉休校を受け、カタリバは小中高生向けのオンラインの居場所を開き、英会話や遊びのプログラムを提供してきた。  さらにオンラインに集える環境にない子らにパソコンとWi-Fiを無償で貸す試みを「キッカケプログラム」として開始。AI型タブレット教材「Qubena(キュビナ)」や、フィリピンの英会話の先生と楽しく英語を学べる「WAKU WORK ENGLISH(ワクワークイングリッシュ)」を無料で使えるようにした。  課題を抱える子どもへの個別面談や、保護者とのオンライン相談、福祉相談など顔の見えるつながりを大事にしながら伴走している。2020年度は350人の子どもを支援し、さらに来春以降も継続的に取り組む。(朝日新聞編集委員・氏岡真弓) ※週刊朝日  2020年12月25日号より抜粋
新型コロナウイルス
週刊朝日 2020/12/16 08:02
妻に子を連れて行かれたノンフィクション作家が「夫から逃げる妻たち」を取材した理由
作田裕史 作田裕史
妻に子を連れて行かれたノンフィクション作家が「夫から逃げる妻たち」を取材した理由
離婚後の親権者の約9割は女性となっている。写真はイメージ。(写真/PIXTA) ノンフィクション作家の西牟田靖氏(写真=本人提供) 厚労省の調べでは、離婚した夫婦のうち未成年の子どもがいる割合は約58%(2016年度)。離婚後の親権者の約9割は女性であることから、未成年の子のほとんどは母親と暮らすことになる。ノンフィクション作家の西牟田靖氏(50)は、長女が3歳のときに妻子が家を出ていった。以降、子どもに会えない父親たちを取材して単行本を出版したり、共同親権に関する記事を書いたりしてきた。 そんな西牟田氏が、今度は「妻」の視点から夫婦問題をとらえた新著「子どもを連れて、逃げました。」(晶文社)を出版した。自らも妻に「逃げられた」立場である西牟田氏が、夫を置いて逃げた妻たちを取材しようと思った理由は何だったのか。 *  *  * ――新著「子どもを連れて、逃げました。」では、16人のシングルマザーがなぜ夫から逃げて子どもと暮らすことになったのかを赤裸々に語っています。同時に、西牟田さんご自身が妻子と別れることになった経緯にも触れられています。この自身の経験が今回の著書のテーマと密接に結び付いているわけですが、まずは西牟田さんの結婚生活がどういうものだったのかを教えてください。 西牟田:結婚したのは、2007年。妻になった女性は年下の聡明な女性で、僕の本の読者だったことが縁で出会いました。娘が生まれたのは、結婚して3年目でした。もちろん妻の妊娠はうれしかったのですが、正直、僕はそのころ、子どもがいる家族の将来像を明確には描けませんでした。というのも、不安定なライター業ですぐにはもうからないと思っていたし、家計を支えられないかもしれないという不安もあったからです。  とはいえ、娘が生まれたことは本当にうれしかったし、沐浴やおむつ替えは積極的にやっていました。離乳食作りも簡単なものはやっていたかな。あと、娘が保育園に入ってからは送迎を半分はやっていたし、夕食などの食事作りも3~4割くらいは担っていたと思います。もちろん、元妻側の言い分は全然違うかもしれませんが(笑)。娘が体調を崩したときなどは、妻の実家から義母がかけつけてくれたり、ファミリーサポートを利用したりもしていたので、家のことは回っていると思っていました。 ――元奥さまから家事や育児で不満を言われたことはなかったのですか? 西牟田:それは、もちろんあります。これは今でも後悔しているんですが、寝かしつけと夜中のミルク作りは元妻に任せっぱなしでした。僕は夜に原稿を書くタイプで、とにかく夜は仕事モードになってしまう。元妻から「たまには(寝かしつけを)代わってよ」と言われていたのですが、仕事を理由に断っていました。当時は自宅の近くに仕事部屋のアパートを借りていたので、執筆に集中したいときは、夜は自宅を出てそっちに行ってしまうこともありました。これには、元妻は相当不満をため込んでいたと思います。 ――寝かしつけの大変さはやってみないとわからないので、乳幼児を持つ夫婦の火種になりがちですが、これだけで離婚ということも少ないかと思います。他に何か思い当たることはありますか? 西牟田:一度決定的なことがあったのは、3・11の東日本大震災のときです。娘はまだ0歳だったのですが、ちょうどその年の4月から元妻が仕事復帰するので保育園に入ることが決まっていました。一方で、僕はライターとして「これは福島に行くべきだ」と思い、4月上旬から福島出張を決めていました。元妻からは「保育園の入園式には一緒に出てほしい」と言われたのですが、僕は「もう決まった仕事だから」と仕事を優先してしまったんです。保育園に入ってからは、元妻も働きながらの子育ては大変だったようで、仕事を辞めて、出張がない仕事に就きました。後で知ったことですが、このとき元妻は義母に「このままでは(結婚生活を)やっていけない」という相談をしていたようです。でも僕は「仕事のことは(妻は)理解してくれているはずだ」と思っていて、相変わらず出張に行く生活を続けました。  結局、僕は自分の仕事のペースは落とさずに、肝心なところは妻任せにしていたんです。子どもが生まれても僕はどこか恋人気分のままというか、妻への愛情があるから大丈夫だろうと考えていました。だから、元妻から言われる子育ての不満にもきちんと向き合あわず、仕事優先のスタンスで生活してしまっていたのです。 ――すると、西牟田さんが仕事のペースを落とさずに育児を元奥さまに任せっぱなしだったことが離婚の主たる原因だったということですか? 西牟田:もうひとつ、大きなネックになっていたのは経済状況です。当時、僕は生活費も含めて月に10万円しか家に入れていませんでした。全然足りないのはわかっていたんですが、そこは僕なりに考えがありました。浮き沈みの激しい仕事だということはわかって結婚してくれたんだから、お金が入らないときがあっても一緒に頑張ってほしい。それに今、本を書くために全力で頑張っているんだから、今こそ支えて欲しいって。ちなみにその10万円も、僕の実家から援助されたお金を充てていたんです。こうした状況は元妻も知っていたと思います。一度、「コンビニでバイトしてでもいいから、もっと家にお金を入れてほしい」と言われたこともあったのですが、僕は「そんなこと言われても……」と正面から向き合わなかった。それともうひとつ、家の中に本を置きすぎていたことも彼女の気持ちを損ねた原因だと思います。 ――そこから離婚までの経緯はどういったものだったのでしょうか? 西牟田:娘が3歳だった13年の12月ごろには、元妻から「今後のことについて話し合いを持ちたい」と言われるようになりました。このころはちょっとしたことでお互い気持ちが高ぶってしまうありさまでした。同年の12月末には、朝におせち料理の準備をしていた元妻が全然起きてこない僕の態度に怒り、おせちの材料を持ったまま、娘を連れて実家に帰ってしまいました。このときは年明けまで5日くらい帰ってきませんでした。  そして、翌年1月に元妻が実家から戻ってくると、もう離婚の意思は固まっているようでした。「別れの条件」を突き付けられて、そこには「親権は私(元妻)が持つ」「月に2回は娘に会わせる」など具体的な取り決めが書いてありました。「公正証書にしたいから確認しといて」と言われたんですが、僕は離婚するつもりはなかったので、まともに取り合わず、返事をしませんでした。すると予約をとっていて、ある日公証役場に行くことになりました。ここからはもう僕の意思とは関係なく、別居は避けられない状況になっていきました。元妻は3月末に合わせて引っ越し業者を手配して、自分の持ち物を実家に送るなど着々と準備を進めていました。僕も最後はどうにもならないと諦めて、3月下旬には娘との最後の思い出作りとして、遊園地や観光地などに行ったりしました。別居当日は、引っ越し業者が家財道具を運び出すのを、ただぼうぜんと見ていた気がします。そして最後、元妻は私の前で3歳の娘を連れて出ていきました。  その直後のことは、正直、あまり覚えていません。体重は10キロくらい落ちました。僕はぼうぜん自失の状態だったので、求められるがまま、(離婚届に)ハンコを押してしまったんだと思います。そうしたら、4月上旬には役所から「離婚届を受理しました」という通知が届いたんです。あの日は前年、家族の経済状態を挽回するために渾身の力を振り絞って取材・執筆した作品が、応募していた文学賞から落選したという知らせがあった日でもありました。ガッカリしてして記憶が全部飛んでしまって、その日、乗っていた自転車をなくしてしまったほどでした。 ――現在、西牟田さんは共同親権や共同養育も取材テーマの一つとしていて、17年1月には離婚後に子どもと会うことができなくなった父親たちを取材した「わが子に会えない―離婚後に漂流する父親たち」(PHP研究所)も出版しました。西牟田さんは離婚後もお子さんに会えているということですが、こうした父親たちと関わるきっかけは何だったのでしょうか? 西牟田:離婚後の喪失感を埋めるために、パートナーや妻子と離れ離れになった親たちの当事者団体に連絡をとって、その集会などに参加するようになりました。そこには僕よりも辛い経験をしている人たちがたくさんいました。身に覚えのないDVを妻からでっち上げられて子どもと全く会えなくなった父親などもいて、日本では夫婦が離別すると、親が子どもに会えない実態があるのだと知りました。  そのとき僕が頻繁に相談していたのが、旧知の仲である某テレビ局の報道記者でした。彼は離婚調停中だったのですが、Facebookには親子で面会する様子などをたまに書き込んでいました。その文面はとても悲しげで、もっと子どもと会いたいという思いはひしひしと感じました。それでも彼は福島の除染業者の実態をルポするなど、精力的に仕事をしていました。しかし、僕が彼に相談を始めてから4カ月後、彼は自ら命を絶ってしまったのです。なぜ彼の心の不調に気が付けなかったのか。すごく大きなショックを受けました。彼の死によって、「子どもと会えない父親の実態をもっと社会問題として提起すべきだ」という思いが強くなりました。そうして書いたのが「わが子に会えない」(2017)という本です。  ただ、夫婦関係においては、どちらが一方の主張が正しいということはなく、一方の主張を聞くだけでは不十分だろうとは感じていました。また、当時から当事者団体の中では「相手の同意なく子どもを連れて家を出ることは実子誘拐だ」「外国では犯罪行為になる」などの主張も多く聞かれたのですが、これには違和感を持っていました。というのも、欧米では共同親権や共同養育に関する法整備が進んでいて、妻側が一方的に家を出なくてもいいような仕組み作りができている。親権制度も違う日本では「連れ去り」の定義自体が異なります。日本では、どうしても逃げなければいけない状況にある妻子を救済する仕組みが不十分だという思いも抱いていたのです。  そんなタイミングで「わが子に会えない」について「cyzo woman」から取材を受けたのですが、そのインタビューが「なぜ一方的に男性側の主張だけを掲載したのか」とケンカ腰だったんです(笑)。編集者たちと話をする中で「じゃあ、逆の立場から女性側のインタビューを掲載する連載をしよう」ということになり、妻側の話を聞く企画がスタートしました。 ――それまではご自身の体験も含めて「夫側」に共感する部分も大きかったと思いますが、「妻側」の話を聞いていくことで、新たな発見や心境の変化はありましたか? 西牟田:取材に応じてくれた16人の女性はさまざまな理由でシングルマザーになっていました。直接的なDV被害にあった人もいれば、夫が精神的な病にかかってしまって別れざるを得なかった人、義母との関係が悪化した末に離れ離れになった人など、本当にさまざまです。取材前、僕はもっと元夫に対して憎しみのような感情を持っていて「絶対に会わせたくない」と思っている女性ばかりなのかと思っていました。でも、少なくとも取材した女性たちは「離婚後も元夫には子どもに会ってほしい」と語る女性が少なくありませんでした。「会わせたくない」という女性にしても「面会交流はしなくちゃいけないもの」という認識をほとんどの方がお持ちでした。これは意外でした。じゃあ、なぜ夫を置いて子どもを連れて出ていくという行動に出たのか。もちろん理由はいろいろですが、僕なりに解釈すれば、女性たちが生き残り、そして幸せになるための「究極の選択」だったということです。このままでは子どもと自分の生活がダメになってしまう、ここから抜け出して一歩でも幸せになるにはどうしたらいいか。それを考えて、考え抜いた選択が「子どもを連れて逃げること」だったということです。もちろん、自分の感情に任せて元夫に会わせることを拒否している女性も一定数はいると思います。でも、世の中のシングルマザーの多くはもっと寛容なのではないかと。たとえ元夫とは会いたくないと思っていても、子どもにとって必要な存在であることは十分に理解しているのではないか、と思えるようになりました。 ――すると、今考えると、西牟田さんの元奥さまも生き残り、幸せになるために「究極の選択」をしたというお考えですか? 西牟田:うーん……すみません、僕の中でその答えはまだ出ていません。ただ、自分が深く考えなかった経済的な不安は彼女にとっては相当に大きかっただろうし、その上で、僕自身が支えてもらうことばかり考えていて、自分が夫として父親としてどうやったら家族を支えていけるか、ということを真剣に考えられていなかったことは痛感しています。本当に大人になりきれていなかったんですね。何度も修正するチャンスはあったのに、妻の気持ちと正面から向き合わなかった積み重ねが、「子どもを連れて出て行かれた」という結果になったのだと思います。自分の中で何か結論が出たわけではないですし、自分と向き合う作業はこれからも続けていきます。 ――この本の取材、執筆を通して、共同親権や共同養育に対するスタンスに変化はありましたか? 西牟田:今でも共同親権の導入に賛成であることには変わりませんが、もっと柔軟に対応すべきだとは考えています。たとえすぐに民法が改正されなくても、世の中全体は「子どもは夫婦一緒に育てるもの」という意識はもっと強くなっていくはずです。学校教育では家庭科と技術の授業は男女別ではなくなっていますし、共働き夫婦の増加で男性の育児意識も以前よりもはっきりと高まってきました。離婚後の共同養育に関する親教育はもっと充実させるべきだと思いますが、今の30代~40代は「共同養育」という価値観は自然と身についているように思います。  共同親権や共同養育の議論は、強硬な反対派と賛成派のせめぎ合いがずっと続いてきました。反対派の女性支援団体などが主張している「DV被害者の救済」はDV防止法の改正など別で法整備をしていくべきですし、一部のDVだけにスポットを当てて共同親権そのものを否定する論調には同意できません。一方で推進派の人たちは、元妻側とかなりモメてしまって調停や審判に進んでいる人たちが大半で、子どもに会えないことで「相手憎し」になってしまっている部分もある。しかし、離婚した夫婦の9割は協議離婚です。つまり、強硬な推進派の人たちもまた「少数派」なのです。少数派同士が賛成、反対を主張し合っても、建設的な議論にはなりません。もっと社会の全体像をとらえながら、「どうやったら子どもとの関係が途切れない社会にしていくか」を議論すべきだと思います。男性側も「連れ去った元妻が悪い」と凝り固まった考えにこだわるのではなく、妻が「究極の選択」をしなければいけなかった背景をもっと考えるべきだと思います。今回の本がその一助になれば、と思っています。 (構成=AERAdot.編集部・作田裕史) ◎西牟田靖(にしむた・やすし) ノンフィクション作家。1970年、大阪府生まれ。神戸学院大学法学部卒。中国経済や家族をテーマにした記事を雑誌やウェブメディアに執筆している。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『本で床は抜けるのか』『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)など。
dot. 2020/12/14 18:00
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