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「毎日がアルツハイマー」シリーズの関口祐加監督に聞く 介護には愛より理性
「毎日がアルツハイマー」シリーズの関口祐加監督に聞く 介護には愛より理性
関口祐加(せきぐち・ゆか)/1957年生まれ。大学卒業後、オーストラリアに渡り29年を過ごす。その間、「戦場の女たち」「THEダイエット!」などドキュメンタリー作品を発表。各種映画祭で高評価を得る。2010年、母の介護のために帰国。認知症を患う母との日々を綴った「毎日がアルツハイマー」シリーズが大きな反響を呼ぶ(撮影/編集部・石臥薫子) シリーズ完結編「毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル~最期に死ぬ時。」のワンシーン。7/14(土)からポレポレ東中野、シネマ・チュプキ・タバタほか全国順次公開 (C)2018 NY GALS FILMSシリーズ前2作『毎アル』『毎アル2』の再上映も予定公式サイト http://maiaru.com/  関口祐加さんが、認知症の母、ひろこさんとの日常を記録し、YouTubeに投稿し始めたのは2009年。動画は200万回以上再生され、12年にドキュメンタリー「毎日がアルツハイマー」として結実した。「認知症あるある」な出来事をユーモラスに描き、見る人を笑わせ、泣かせ、考えさせる映画は、多くの共感を呼んだ。続く第2弾で関口さんは、認知症の人を一人の人間として尊重し、その人の視点でケアを行う「パーソン・センタード・ケア」に出合う。そして今年7月公開の完結編では「死に方」をテーマに据えた。   ――「毎日がアルツハイマー」を見ると、認知症は怖くないと思えてきますが、関口さんがポジティブに対応できるのはなぜですか。  私が小学生の頃に認知症になった母方の祖母の影響が大きいですね。祖母は、実の娘たちのことはすっかり忘れてしまったのですが、母の兄のお嫁さんのことを「お姉ちゃん」と呼んで甘えて、お嫁さんも一生懸命面倒をみてくれました。最期はお腹いっぱいご飯を食べて、「眠くなった」と横になってそのまま逝っちゃった。子ども心に、ボケてお腹いっぱい食べて死ぬって最高だなと。 ――でも自分の親が認知症になったら、普通はそこまでポジティブになれません。  私は認知症というのは嘘発見器だと思っているんです。認知症になると、世間体のために取り繕ったり、隠したりしていたことがどんどんなくなって、素が出せるようになる。  例えば今の母は、私の息子とは1週間以上、同じ家にいられません。息子に嫉妬してしまう。孫はかわいいけど、私の関心が息子に向いてしまうのが、母はイヤなんですね。でもそれは人間としての素直な反応であって、私はいいと思うんです。認知症のお陰で本音が可視化されれば、人間関係の築き方や対策が考えられる。  実は、母は私の妹と折り合いが悪く、妹に介護されるのはイヤだというのを認知症になるまで言えませんでした。母は認知症になる前は、とても真面目で優等生。実は、妹はそんな母によく似ています。反対に私は、親の言うことなんか聞かないし、勝手にオーストラリアに行って映画監督になって、母にとっては理解不能な人間でした。でも認知症になったら、不思議に自分と正反対な私のほうに介護してもらいたかったんですね。母にだって、誰に介護されたいのかを言う権利があると思います。  もし、認知症の人が暴れたとしたら、それはその介護者を拒否しているのではないでしょうか。言葉で言えなければなおさら、行動で表すしかない。認知症で人が変わったわけではない。介護する側は、きょうだいで順番にとか、長男の嫁だからとか、自分たちの勝手な都合で介護する人を決めてしまいますが、たとえそれが自分の子どもであっても「介護されたくない」ということがあると思います。「認知症は嘘発見器だ」というのはそういうことです。  認知症になると、その人の本音が見えてくる。だからよく人間観察をして、その人が本当に欲していることを理解し、それに沿ったケアをすることが大事です。 ――それが2作目のテーマとなっている「パーソン・センタード・ケア」の考え方ですね。  そうですね。その人の心を探り、心の不安があればそれをどう取り除くのかを考えるケアです。「パーソン・センタード・ケアなんて簡単だ」とよく言われますが、とんでもない。実は一番難しい。なぜなら認知症になっても十人十色で、私の母のケアと隣のおばあちゃんのケアは全く違いますから。生き様も、性格も食べ物の嗜好も全部違うので、まったくマニュアルが通用しない。非常に高度なスキルなんですね。だから家族にケアができないのは当然ですよ。 ――「毎アル」シリーズではそれを関口さんが明るく、サラッとやっているので、自分もできるような気になってしまいますが、実際には難しいと。  私はドキュメンタリー映画の監督で、人間観察をするのが商売だし、母とは性格も真逆なので、被写体として面白い。そういう特殊事情があるからというのもあるでしょう。対談した認知症の専門医も「僕は冷たくてドライだ」と言っていましたが、私もまったくそう。そのくらい距離がないと認知症の介護はできないと思います。  結論を言えば、家族に認知症の介護はできない。それを無理してやろうとすると、家族の負担が大きくなって介護殺人が起きたりする。厚生労働省が「住み慣れた自宅で最期まで介護」なんて旗を振るのは罪です。自宅にいることが重要なのではなくて、どこであっても安心できる場所にしてあげるスキルこそが必要なんです。  パーソン・センタード・ケアについては、施設に勤める「専門職」と言われる人たちでさえ、きちんとした教育を受けていないのではないでしょうか。だから虐待が起きてしまう。とにかく、高度なケアができるプロを、国を挙げて育成するということが急務です。 ――シリーズ3作目は、監督自身が両股関節の手術を受けるシーンから始まります。介護する側が年をとったり、病気をしたりする中で、どのように介護を続けていくのか。多くの人にとって切実な問題です。  両股関節の痛みはずっと前からあって、手術をする直前は車椅子が必要な状態にまで悪化していました。手術で人工股関節に全置換して、いま身体障害者3級、介護保険では「要支援2」がついています。  2回の手術でリハビリも含めて7週間入院しましたが、母の介護については事前に「チーム関口」の体制をしっかり作りました。おかげで入院中は、母から解放されて、担当医もイケメンで、実はすっごく楽しかったんです(笑)。  ただそのためには段取りが命。闘う必要もあります。例えば、母をお風呂に入れるのに、ヘルパーさんではなく訪問看護師さんをお願いしています。母は幼いころから看護師になりたいと夢見ていた人なので、看護師のケアは喜んで受けるだろうと考えたんです。  でもかかりつけ医は「お母さんは要介護3でまだ歩けるので、訪問看護師は必要ない」と言いました。でもそこで諦めちゃダメ。私は地元の横浜ではなく、テレビで知り合った名古屋の医師にお願いして、「看護師が必要」という指示書を書いてもらいました。  さらに、デイサービスに行きたいと思ってもらえるように、母好みのイケメン介護福祉士をケアマネさんに探してもらいました。いろいろな場面を想定して、ひとを動かす。こういうのがパーソン・センタード・ケアですし、私も楽しい。 ――そこまでお母さんのことを考えて手を尽くすというのは、すごい愛がなければできないのでは?  いえ、愛じゃないんです。愛だと考えると「相手を思って私はこんなにやってるのに」となって、かえってややこしくなる。ウェットな愛じゃダメなんです。母が心穏やかに過ごしてくれれば、私がハッピーな入院生活を送れる。回り回って私が得をするというドライな考え方。動機は「Me(自分)センタード」でいいんです。「人のため」なんていう綺麗ごとではケアはできません。 ――介護に必要なのは「愛」じゃないと?  介護に必要なのは愛じゃなくて理性です。もっと言えば科学、サイエンスですね。パーソン・センタード・ケアは究極のサイエンスですから。動機は「Me」だけれど、ケアは介護される側が一番心地よく過ごせるパーソン・センタード・ケア。それが理想の介護だと思います。 ――映画では、老いと尊厳ある死についても考察を重ねています。  死ぬことを忘れてしまった母を、どうやって看取るのか。さらに、私自身が手術や入院をしたことで、死に方の選択肢について考えるようになりました。今回、日本ではまだ馴染みのない「自死幇助(ほうじょ)」についても取り上げています。医師が薬を使って絶命させる「安楽死」とは違い、医師が薬の準備はするものの、その薬を使って命を終わらせるのは自分自身、という方法です。  ちょうど5月初めに、オーストラリア人の104歳の植物学者が、私が映画で撮影したスイスのクリニックで、幇助を受けて自死したというニュースが世界中で報じられました。彼は90歳くらいまでは元気で学者としてフィールドワークもできて幸せだった。でもそこからの14年間は、頭ははっきりしているのに、体の自由がきかなくなって車椅子での生活。毎日身体の痛みもひどい。目も見えなくなってきた。こんな人生に何の意味があるのかと悩み、自殺も試みたんですね。それでも死ねなくて、入院させられて精神科医にかかり、なかなか退院が出来なかった。  今回のケースは、世界で初めてターミナルな病気を持たずに人生の最期を自分で決めることが許されての、自死幇助になりました。  本当の尊厳死とは何なのか。深く考えさせられました。暴れるからといって老人をベッドに縛り付ける、管だらけにして生かす、ということがいいのかどうか。死に方の選択肢については、これから大きな課題になってくると思います。 ――認知症の場合、本人の意思がわからないので、尊厳ある死をどう考えるか、余計に難しいですね。認知症のお母さんは映画の中で「ある日ぽっくり死にたい」と言っていますが、なかなかぽっくり死ねないのが現実です。  私はゆるーい介護をしてあげるのが、一番いいんじゃないかと思っています。いまの一般的な介護の考え方というのは、歩けなくならないように筋トレをさせたり、ボケないように漢字や計算のドリルをさせたりという発想ですよね。医者に「朝食後にこの薬を飲ませて下さい」と言われれば、無理やり起こしてご飯を食べさせ、薬を飲ませる。  ゆるーい介護というのは、そういうガチガチの管理型の介護はやめて、本人がゆっくりと自然に死に向かっていけるように寄り添う介護のことです。  今の日本社会を支配しているのはできることを良しとする価値観。だから、できなくなることに対して、みんな恐怖がある。それは老いを受け入れていないということです。現実にはみんな年をとるのに、年をとっていろいろできなくなることがダメだと考えれば、その延長にある死はもっとダメになってしまう。そういう価値観自体を、変えていかないといけない。それが、私がこの映画の製作を通して強く感じたことです。 ――介護する側も、される側も老いを受け入れていく必要があると。  よく「介護には終わりがない」といいますが、私は「終わりからの介護」を提唱したいです。 「終わりからの介護」という考え方に立って、朝食後に飲む薬を処方した医師にこう聞いてみる。「これは絶対に朝食後に飲まないといけないんでしょうか。うちの母は午前中は起きられないことが多いんです」と。すると、医師も「これは循環器系の薬だから、お母さんが一番元気な夕食後に飲んでも大丈夫ですよ」と言ってくれるかもしれない。これで母を無理に起こさなくて済むわけです。  常に介護される側の立場で考え、疑問を持ち、その人が自分らしい死を迎えられるように、どのくらいゆるく介護してあげられるか。  それには、ケアをする側が自分の頭で考える力が必要です。日本の介護のあり方と教育のあり方を同時に考え直す時期に来ていると思います。 (構成/編集部・石臥薫子) ※AERAオンライン限定記事
介護を考える
AERA 2018/06/03 07:00
介護の相談、身近な人より遠い人がいい? 経験者が語る3つのコツ
介護の相談、身近な人より遠い人がいい? 経験者が語る3つのコツ
介護の相談は誰にすればいい?(※写真はイメージ)  高齢化が進む今、介護の負担に悩む人は少なくない。AERAで介護に関するアンケートを実施したところ、様々な声が寄せられた。介護にまつまる悩みと、それに向き合った人の声を紹介する。  アンケートでは、「身近に相談相手がいない」と訴える声も目立った。特に認知症は介護する人が悩みを抱え込みがちだ。在宅から施設入所を経て、現在は精神科病院の認知症病棟に入院している母(82)を介護する女性(57)は言う。 「母のためを思ってやってきましたが、不幸の真っただ中にいるような様子ですべての介護を拒否している。胸が痛みます」  元気だった頃の母は、家事を完璧にこなし、お洒落で外出も大好きだったが、父親が亡くなってから、料理も掃除も入浴も嫌がるようになった。母とケアマネジャーはほとんど面会できないまま、症状は悪化。なんとか入れた施設でも「介護拒否がひどすぎる」と言われ、精神科病院に行き着いた。この先どうすればいいのか……。  仕事との両立、認知症のケア、遠距離介護。これらをすべて経験し、「40歳からの遠距離介護」というブログで発信する人がいる。工藤広伸さん(45)だ。  工藤さんは末期がんと認知症を患う祖母と、祖母の介護をしながら自分も認知症を発症した母の介護で、40歳で離職。東京と実家のある岩手を年間20往復しながら、一時期は父の末期がんの闘病も支えた。工藤さんからのアドバイスは主に三つ。 (1)認知症介護者が必ずたどる「四つのステップ」を知ること (2)相談は身近な人より遠い人に (3)人やモノにとことん頼る。 (1)では認知症の症状を目の前にした時の「戸惑い・否定」が第1ステップ。自分の常識で認知症の人を説得しようとして失敗し「混乱・怒り・拒絶」の気持ちと格闘するのが第2ステップ。「割り切り・あきらめ」が第3ステップ。認知症の人の不安な気持ちに寄り添って介護できるようになる「人格的理解」が第4ステップだ。 「普通、第2ステップまでに多くの時間を費やしますが、意識的に第3、第4ステップに進むだけでかなり違う」(工藤さん) (2)について工藤さんは、介護関係のブログやツイッター上で相談するのも手だと話す。 「ネットで発信している介護経験者や専門家はパッと返信をくれたりします。家族だとケンカになることも、離れた薄いつながりの人に言われると納得できることが多い」(同) (3)は工藤さんの介護のモットーでもある。母の遠距離介護では、毎日、誰かしらが母のもとを訪ねる体制を組む。安くて設置・操作も簡単な見守りカメラなどもとことん使い倒す。  アンケートでも、身近に欲しい介護機器について、様々なアイデアが寄せられた。  認知症の母の介護拒否に悩む前出の女性は、ある時、ソフトバンクグループの人型ロボット「ペッパー」の効果に驚いた。母をなんとか入浴させようと温泉に連れだした時のこと。不機嫌そうだった母の表情が、フロントにいたペッパーと握手し、会話すると一変した。 「あんな柔らかな顔を見たのは何年ぶりでしょう。母は動物が大好きだったので何か思い出したのかもしれません」(女性)  認知症の人と会話ができる技術の開発も始まっている。成蹊大学理工学部の中野有紀子教授が実証実験を進めるのは、パソコンの画面にキャラクターが映って対話する「会話エージェント」。「朝ごはんを食べましたか?」「何を食べましたか?」などと次々と質問を投げかける。 「そんな単純なものと話をしてくれるのか心配でしたが、予想外に楽しんでもらえた。認知症の専門家によれば、本当は話がしたいのに、同じことを何度も聞いて周囲を困らせるからと話をしなくなる患者さんもいる。人工物相手なら話したいだけ話せます」(中野教授)  技術が進めば、独居の高齢者の会話の様子から体調の変化を家族や介護スタッフに伝えられるようになるかもしれない。 「孤独から救い出し、周囲の人につなぐ『人に寄り添うロボット』は十分実現可能です」 (編集部・石臥薫子、柳堀栄子、高橋有紀) ※AERA 2018年6月4日号より抜粋
シニア介護を考える
AERA 2018/06/03 07:00
「『死なない程度』のサポートしか…」介護経験者が明かす“失望”
「『死なない程度』のサポートしか…」介護経験者が明かす“失望”
家族の介護には、多くの悩みが付きまとう(※写真はイメージ)  家族の介護には、多くの悩みが付きまとう。AERAでは、介護に関するアンケートを実施。介護に向き合った人々の悩みや苦労など、リアルな声を紹介する。 ●仕事と介護が両立できない 「子育てと仕事と介護の両立。今思うと、寝る時間がなくて、よく生きていたな~と思う」(55歳・男性) 「家は京都で勤め先は大阪。母がよく体調を崩し、その都度、急な帰宅、休み、半日休等で対応しなければならなかった。終わりが見えない状態に絶望していた」(54歳・女性) 「仕事と家庭と介護のうち、仕事を諦め、無職となり今とても後悔している」(58歳・女性) 「職場の上司や同僚の理解を得ることがむずかしい」(59歳・女性) 「介護を理由に閑職に回され、手当もつかなくなり、マミートラック※ならぬ介護トラックに乗せられて、現在転職先を探している」(49歳・女性)※育児中の女性が配置されがちなキャリアアップと無縁のコース ●心がつらい 「精神的・肉体的な負担が大きく、持病の腰痛やストレス過多の状態が続いていました。自分がいなければという使命感が強く、そこだけで頑張り続けていたと感じます」(62歳・女性) 「自分の生活がどんどんなくなっていくのに初めは気づかず、気づいた時には精神的に限界でした」(40歳・女性) 「夜中に起きだして大きな声で呼びつけ用事を言いつけるので、添い寝する家族は一睡もできなかった」(47歳・女性) 「施設に入所させた。家で見てあげられないのがつらい」(69歳・男性) 「ストレスを周囲に向けてくるので、私はどうにか我慢すればいいことでしたが、当時中学生の娘たちと衝突させないようにするために、いつも見ていなければなりませんでした」(58歳・女性) 「現在は精神科病院の認知症病棟に入院中です。母のためによかれと思っていたことをしてきたつもりですが、母は不幸の真っただ中にいる感じで胸が痛みます」(57歳・女性) ●相談相手がいない 「ママ友でもない、介護友がいないので、悩みを共有できない」(43歳・女性) 「27歳から介護が始まったが、周りに介護について相談できる人がいなかった。友人たちはまだまだ親に頼る世代。それができなくなったことがつらかった」(34歳・女性) 「同居している他の家族の協力が全くなく、孤立無援の状況で介護していたことで精神的に追い詰められていました」(43歳・女性) ●制度への不満 「母が大病をし手術後自宅に戻った時、要介護認定を受けるのにかなりの労力を費やしました。要介護認定を受けたところで『死なない程度』のサポートしか受けられず、本人の生活の質を保つことはとてもかなわないことに失望しました。サービスを提供する事業者が新規参入している市場で、人手不足・教育不足などの未成熟さにも失望しました」(56歳・女性) 「電話して、最初に出た人がケアマネになったといういきさつです。素朴で誠実な方でしたが、母とは全く合いませんでした」(57歳・女性) 「父母のダブル介護で片方は認知症、片方はがん。施設、病院と全く違うので倍以上に手間がかかった」(55歳・女性) ●あったらいいなこんな機器 「男性を簡単に持ち上げられるロボット」(47歳・女性) 「排泄の介助をしてくれる機械」(58歳・女性) 「一緒に徘徊してくれる見守りロボット」(47歳・女性) 「夜、寝てくれるように誘導する催眠サービス」(47歳・女性) 「ベッドから一人で車いすや歩行器に移れる機械」(55歳・男性) 「誤嚥やのどに詰まってしまった時に、自動処理してくれる機械」(55歳・男性) 「冬は乾燥し、かゆがるので、身体の乾燥具合などを計測できるチップ形式の機器」(36歳・女性) 「ちょっとした怪我などを察知する機械(打撲や切り傷があっても、本人が心配させまいとして言わない)」(36歳・女性) 「介護する家族が簡単に扱えて、患者にも痛みが少ない痰の吸引機器」(42歳・女性) 「金銭のからむ手続きをワンストップでできるアプリやシステム」(40歳・女性) (編集部・石臥薫子、柳堀栄子、高橋有紀) ※AERA 6月4日号より抜粋
AERA 2018/06/02 07:00
「少女の血が見たい」警察官を両親に持つ勝田容疑者の”異様な愛情”とは?
今西憲之 今西憲之
「少女の血が見たい」警察官を両親に持つ勝田容疑者の”異様な愛情”とは?
勝田州彦容疑者を乗せ、岡山刑務所を出る車 (c)朝日新聞社 岡山地検に送検される勝田州彦容疑者 (c)朝日新聞社  事件から14年経過して急転直下、犯人が逮捕された。岡山県津山市で2004年9月、小学校3年生の筒塩侑子(つつしお・ゆきこ)さん(当時9)が殺害された事件で、岡山地検は31日、別の殺人未遂事件で岡山刑務所に服役中の勝田州彦容疑者(39)=兵庫県加古川市=を殺人容疑で送検した。  これまで少女をナイフで襲うという同様の事件を繰り返していた「過去」があった勝田容疑者が捜査線上に浮上。岡山県警が事情を聞いたところ、「ナイフで刺してはいないが、首はしめた」と供述したため、殺人容疑で逮捕に踏み切ったのだ。  勝田容疑者が過去、起こした事件はいずれも“異様”なものだった。2000年に兵庫県内で女児を殴るなど、暴行を加え、逮捕。その時は、10件を超す暴行の余罪を認めていた。  さらに2009年にも兵庫県内で、女児に暴行を加えて内臓から出血するほどのけがを負わしたとして逮捕。この時も5人の女児をすれ違いざまに殴っていたことがわかり、懲役4年の実刑判決を受けた。 そして2015年には兵庫県姫路市で中学3年生の女性をナイフで刺し、逮捕。傷は肺にまで達するほど深く、懲役10年の実刑判決が言い渡され、岡山刑務所で服役中だった。当時の捜査関係者は話す。 「勝田容疑者の両親は兵庫県警に勤務していた。2015年の事件で容疑者として浮上した時、さすがにこんなひどいことはしないだろうという思いこみが捜査員にあった。だが、防犯カメラなどで勝田容疑者の犯行で間違いないとなり、逮捕に踏み切った。勝田容疑者は母親に甘やかされて育ち、引きこもりからアニメオタクとなった。その趣味が高じ、とんでもない性癖があり、事件を繰り返すようになった」  筒塩侑子さんの事件でも岡山県警は3年前から勝田容疑者に対し、獄中で聴取を繰り返し、今回の逮捕にこぎつけたという。  2015年に逮捕、起訴された事件での裁判記録をひも解くと、勝田容疑者の信じがたい「性癖」が法廷で明らかにされていた。  裁判記録によると、勝田容疑者は、自分の腹をナイフ、彫刻刀で刺して血を見ながら、好きな少女、女児が血を流していることを思い浮かべ、自慰行為に及んでいたという。  ところが、精神科に入院するなどして、自分の腹を刺すことができなくなり、実際に少女や女児の腹を刺して、その苦しむ姿や血を見て自慰行為をしようとして勝田容疑者は、街中を2時間以上も徘徊。制服姿の好みの中学3年生の少女をみつけ、ひとけのない細い道で待ち伏せして、少なくとも5回、クラフトナイフを突き刺すことで「快楽を得ていた」と法廷で明かされた。  そして、犯行に使用した自転車で血を流している少女を隠すようにして逃走。  その途中に犯行当日に買った、赤い帽子をかぶって変装をして捜査をかく乱。  法廷で勝田容疑者は異様な犯行動機をこう語っていた。 「自分の腹を刺せなくなった。刺すと痛いので、好みの女の子を狙った」 「殺すつもりはなく、女の子の血を見たかった」  精神鑑定では精神科医からは「性的なサディズム」「サディズム型ペドフィリア」と診断されていた勝田容疑者。いじめなどがきっかけでそのような、性癖を持つようになったという。  勝田容疑者の実家は兵庫県加古川市内にある。実は、周辺で女児が襲われ、未解決事件が複数あるという。中でも2007年に小学2年生の女児が刺殺された事件は今も犯人逮捕には至っていない。 「女児が刺殺された現場から勝田容疑者の自宅は3キロほどしか離れていない。付近では、まだ女児や少女が襲われて、未解決という  事件がいくつもある。今後、勝田容疑者に事情を聞くことも視野に入れている」(前出・捜査関係者)  勝田容疑者のおぞましいまでの心の深淵を解明することはできるのだろうか。(今西憲之) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2018/05/31 00:00
小室哲哉が110分語った「介護うつ」と“不倫”の関係
上田耕司 上田耕司
小室哲哉が110分語った「介護うつ」と“不倫”の関係
19日の会見で引退を表明した小室哲哉 (c)朝日新聞社  小室哲哉(59)は1月19日に引退を表明した記者会見で、引退を考え始めた時期を質問されると、「仕事と妻の介護を両立することの限界を感じたのは昨年8月だった」と語った。  引退を考え始めていたところに、「週刊文春」で看護師の女性Aさんとの不倫疑惑を報じられ、引退を決断したという。 「ほんとにお恥ずかしい話ですが、5~6年前から普通の男としての能力がなくて、精神的なものの支えが必要だったと思います。男女関係はありません」と疑惑は否定した。  小室は2度の離婚を経て、みずからもメンバーだったglobeのボーカル、KEIKOさんと2002年に結婚。  しかし、08年に小室は詐欺事件で逮捕、翌年、有罪判決(懲役3年、執行猶予5年)を受け、11年10月にはKEIKOさんがくも膜下出血で倒れ、人生が暗転する。妻に身体に見える後遺症はなかったが、「脳にちょっと障害」が残ってしまったという。 「夫婦のコミュニケーションというのが日に日にできなくなり、会話も1時間、10分、5分という形で間が持たなくなった」  KEIKOさんとの会話はさらに短くなり、「ごめん」「わかった」「やだ」など単語のやりとりとなった。 「僕から見て女性ということから女の子になった。小学4年生の漢字のドリルを楽しんでいる。すべてがそのレベルというわけではありませんが……」  歌手だった妻はもう歌に興味を失っていた。 「何度も繰り返しの質問であったりとかで、3年前からちょっと疲れ果ててしまっていたと思います」  介護疲れからか、小室自身、体調が悪化。原因不明のC型肝炎になって治療を受けたという。昨年夏前には突発性難聴になり、左耳が聞こえない状態。 「今もキーンという音が鳴りっぱなしで、(病院でも)ストレスだろうということしかないみたいです。診断書によると、ストレスによる摂食障害、睡眠障害みたいなことで、昨年8月に入院をしました」  入院しても一人で闘病。 「普通の家庭の奥さんじゃないので、僕の看病や見舞い、言葉をかけてもらうのは難しい状況でした」  医学ジャーナリストの松井宏夫氏はこう解説する。 「介護は大変です。介護している人の4人に1人は介護うつになると言われている。昔は大家族で支え合ったが、今は一人っ子が多い。会社のスタッフが介護に協力してくれたという話はとてもいいこと。行政やデイケアなどのサービスを利用することが大切です」  介護うつはこれからも増えてくる。早めに精神科などにかからないと治療が長引いてしまう。 「小説家でもうつになっていて、作品を書き続けた人もいます。ただし、明日に向かっての明るさはないですよね。ストレスが強い人は早めに病院で心理療法や認知行動療法などを受けるのも効果があります」  小室も介護についてこう警鐘を鳴らした。 「たった一人の行動で世間が動くとは思えないが、高齢化社会、介護、ストレスにこの10年でふれてきました。僕の話が微力ながら響けばいいなと思います」  介護に悩む人を音楽で、もう一度、救えないものなのだろうか。(本誌・上田耕司) ※週刊朝日  2018年2月2日号
不倫介護を考える夫婦病気
週刊朝日 2018/01/24 11:30
ふたご
ふたご
 デビュー作がいきなり直木賞にノミネートされ、話題騒然の一冊。藤崎彩織『ふたご』は、人気バンドSEKAI NO OWARIのメンバーによる初の長編小説だ。  物語は語り手の「私」こと西山夏子の、彼女が〈人生の大半を彼のそばで過ごしてきた〉と語る1歳上の月島悠介との14歳から20代のはじめまでを描く。  5歳からピアノをはじめ、音楽系の高校から大学に進んだ夏子に比べ、月島は頑張るのが嫌い。高校を中退して一度はアメリカに留学したものの、夏子に電話してきては「帰りたい」といい続け、パニック障害を起こして帰国。あげく夏子の家に現れて暴れた末にカッターナイフを向けてきた。月島に下された診断はADHD(注意欠陥多動性障害)。とうとう彼は精神科に保護入院となるが……。  恋人でも友だちでも家族でもなく、しかしそのどれでもあるような二人の関係を、月島は「ふたごのようだ」というのだが、夏子はいいきる。〈私たちがふたごのようであったら、絶対に、一緒にいることは出来なかった〉。青春小説以上、恋愛小説未満の、ちょっと切ないストーリー。  かと思ったら、第二部で小説は別のトーンに変わるのだ。20歳になり、突然バンドをやるといいだした月島。戸惑いながらも結局はバンドに参加する夏子。  かつてタルそうに〈俺からすれば、みんなが一体何が面白くて人生を生きているのか全く見当がつかない〉とかいっていた月島は、バンドにのめり込むうち、決意を込めていい放つのだ。〈俺たちは上にいかなくちゃいけないんだよ〉。そして夏子も〈月島が言うのを聞いて、とにかく上にいかなくちゃいけない、と思った〉。  こうなると、普通のバンド誕生物語だよね。デビュー作で自身の体験をベースにするのはよくある手だが、又吉直樹『火花』と同じで、これを芸能人がやると、なべて「芸術家の苦悩小説」になっちゃうのよね。しかも「上にいく」がメジャーデビューを指すのだとしたら、俗物すぎない? 前半との齟齬が大きすぎるよ、月島! ※週刊朝日  2018年1月19日号
今週の名言奇言
週刊朝日 2018/01/10 00:00
アルコール依存症と家族の悲劇…危ない飲酒習慣をチェック!
亀井洋志 亀井洋志
アルコール依存症と家族の悲劇…危ない飲酒習慣をチェック!
アルコール依存症の自助グループの案内書 飲酒習慣スクリーニングテスト(AUDIT)(週刊朝日 2017年12月22日号より)  日本を見渡せば、酒はコンビニなどで24時間いつでも購入できる。スーパーやディスカウントストアに行けば、ジュースより安い100円以下で売られている酎ハイ缶もある。繁華街、電車内などでは酔っ払った中高年が溢れているが、依存症に陥るケースが急増している。  救急外来の紹介を経て、ようやくアルコール専門病院に入院してくるのは重症化した患者ばかりだ。厚労省の調査では、日本には100万人を超えるアルコール依存症患者がいるというのに医療機関で治療を受けているのは、わずか4万人だけというお寒いデータもある。垣渕洋一医師がセンター長を務める成増厚生病院(東京都板橋区)の東京アルコール医療総合センター(以下、東京アルコールセンター)には、年間約1500件の電話相談が全国から寄せられる。そのうち適応患者になりそうなのが約500人。直接来院しての無料相談に応じている。入院に漕ぎつけるのは、約半数の260人前後だ。垣渕医師が言う。 「電話をかけてくる時点で家族は相当に追い詰められています。無料相談の面接時点で、私はアルコール依存症に該当しない人に会った例がありません」  だが、酒が飲めなくなるということは、患者本人にとって身体的にも精神的にも多大な喪失感に見舞われることになる。だから、本人はアルコール依存症であることを認めようとしない。 「ですから、依存症であるという医師の診断をとりあえず受け入れた人が入院しますが、ほとんどの患者さんは本音では自分は依存症ではないと思っている。しかし、本人が病気であることを実感するのを待っていたら、本当に死んでしまいます。本人が納得していないうちに入院・治療するのが、断酒への成功の秘訣なのです」(垣渕医師)  アルコール依存症は本人ばかりでなく、家族も巻き込んで苦しみにさらされることになる。  断酒会に参加していた60代の夫婦は現在、夫が医療機関に入院中の身だ。数年前から過度の飲酒が原因で何回か救急搬送された。今年になって肝臓がんが見つかり、手術して肝臓の3分の1を切除した。妻が困惑した表情を浮かべながら語る。 「何と言っていいのか……、理解できません。手術後も夫はお酒を飲むと何も食べないので、55キロあった体重が39キロまで減りました。入院を促しても嫌だという。『もう別れるしかないね』と離婚を切り出すと、いっそう飲んでしまいました。絶望的な気持ちにさせられます。夫は暴力は振るいませんが、お酒がなくなると『買って』と何度もせがんでくるのです」  根負けして酒を買い与えてきたというが、そうしないとふらふらになりながらも自分で買いに行ってしまうのだという。 「いまは『酒をやめたい』と言っています。年内まで命が持たないんじゃないかと思いましたが、入院して少し元気になってくれた。長い時間をかけて克服していくしかありません」(妻)  アルコール依存症者は、節酒して適度な飲酒者に戻ることはできないとされている。唯一の治療方法は断酒しかない。  東京アルコールセンターでは3カ月の入院期間で、患者はアルコール中心の生活環境から一時的に離れることになる。  毎日、午前と午後にアルコール依存症についての勉強やグループワーク(集団精神療法)などのプログラムを実施する。病棟での飲酒を防止するために、患者にシアナマイドなど抗酒剤を服用させることもある。もし飲酒すれば、激しい頭痛や嘔吐などに襲われる劇薬だ。  夜間は、回復者たちが集まる断酒会やAA(アルコホーリクス・アノニマス)といった自助グループに参加する。退院後も多くの患者が定期的に医療機関で受診しながら、自助グループに参加している。  もちろん、再飲酒して入退院をくり返す人は多い。東京アルコールセンターで相談室長を務め、現在は慈友クリニックの精神科で課長を務める重黒木一(じゅうくろきはじめ)看護師はこう語る。 「一直線に回復していく人は非常に少ない。ほとんどの人は再飲酒を3回4回とくり返します。再飲酒は回復へ向かう次のステップと考えればいいのです。患者さんたちは『酒は命の水だ』と言います。『酒がなければ生きてこられなかった』とも。ならば、酒に代わる『命の水』を新たに見つけるしかありません」 ■【飲酒習慣スクリーニングテスト(AUDIT)】(カッコ内は点数) <1>あなたはアルコール含有飲料をどのくらいの頻度で飲みますか? ・飲まない(0) ・1カ月に1度以下(1) ・1カ月に2~4度(2) ・1週に2~3度(3) ・1週に4度以上(4) <2>飲酒するときには通常どのくらいの量を飲みますか? ・1~2ドリンク(0) ・3~4ドリンク(1) ・5~6ドリンク(2) ・7~9ドリンク(3) ・10ドリンク以上(4) (例:ビール大瓶2.5、日本酒1合2、ウイスキー水割りダブル2、焼酎お湯割り1、ワイングラス1) <3>1度に6ドリンク以上飲酒することがどのくらいの頻度でありますか? ・ない(0) ・1カ月に1度未満(1) ・1カ月に1度(2) ・1週に1度(3) ・毎日あるいはほとんど毎日(4) <4>過去1年間に、飲み始めるとやめられなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか? ・ない(0) ・1カ月に1度未満(1) ・1カ月に1度(2) ・1週に1度(3) ・毎日あるいはほとんど毎日(4) <5>過去1年間に、普通だと行えることを飲酒していたためにできなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか? ・ない(0) ・1カ月に1度未満(1) ・1カ月に1度(2) ・1週に1度(3) ・毎日あるいはほとんど毎日(4) <6>過去1年間に、飲酒の後体調を整えるために、朝迎え酒をしなければならなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか? ・ない(0) ・1カ月に1度未満(1) ・1カ月に1度(2) ・1週に1度(3) ・毎日あるいはほとんど毎日(4) <7>過去1年間に、飲酒後、罪悪感や自責の念にかられたことが、どのくらいの頻度でありましたか? ・ない(0) ・1カ月に1度未満(1) ・1カ月に1度(2) ・1週に1度(3) ・毎日あるいはほとんど毎日(4) <8>過去1年間に、飲酒のため前夜の出来事を思い出せなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか? ・ない(0) ・1カ月に1度未満(1) ・1カ月に1度(2) ・1週に1度(3) ・毎日あるいはほとんど毎日(4) <9>あなたの飲酒のために、あなた自身か他の誰かがけがをしたことがありますか? ・ない(0) ・あるが、過去1年にはなし(2) ・過去1年間にあり(4) <10>家族・友人・医師らがあなたの飲酒について心配したり、飲酒量を減らすよう勧めたりしたことがありますか? ・ない(0) ・あるが、過去1年にはなし(2) ・過去1年間にあり(4) 【判定】 0~8点危険性が低い(問題なし)/9~19点危険性が高い(注意が必要。適正な飲酒量を)/20点以上アルコール依存症が疑われる(専門医療機関で受診を) (本誌・亀井洋志) ※週刊朝日 2017年12月22日号より抜粋
週刊朝日 2017/12/18 07:00
「徳之島へ帰れ!」 医師会と徳田虎雄が繰り広げた壮絶バトル
「徳之島へ帰れ!」 医師会と徳田虎雄が繰り広げた壮絶バトル
現在の湘南鎌倉総合病院。日本初のバチスタ手術を行うなど先進医療に取り組む。最上階にALSの徳田虎雄が入院している(撮影/出版写真部) 1978年撮影。「武見天皇」と呼ばれた元日本医師会会長、武見太郎。「喧嘩太郎」の異名をとった (c)朝日新聞社  超高齢化社会が到来したいま、地域による医師不足の解決は喫緊の問題だ。徳洲会はわざわざ医療過疎地に病院を建ててきた。どのようにして巨大グループとなったのか。ノンフィクション作家・山岡淳一郎氏がレポートする。 *  *  *  地域による医師不足、偏在の解消は、日本医療の永遠のテーマである。  1970~80年代にかけて徳洲会は、医療過疎地に的を絞り、「年中無休・24時間診療」を掲げて病院を次々に建てた。総帥の徳田虎雄は「患者からはミカン一個ももらわない」「生活に困る患者の医療費自己負担は猶予する」と宣言し、マスコミの寵児となった。  その徳洲会の前に巨大な壁がそそり立つ。開業医が中心の医師会であった。  当時、ベッド数20以上の病院の新設は、都道府県に申請し、開設者の資格や施設基準、従業者の定員などが満たされていれば許可が下りた。開設許可を得た医療法人は、病院をつくる自治体に建築確認申請をし、支障がなければ着工。開院へと進んだ。  しかし、徳洲会の場合、医師会の影響力が強い都道府県は開設許可をなかなか下ろさない。あるいは都道府県が許可をしても、自治体の医師会が「進出阻止」を唱え、立ちふさがった。徳洲会に「患者を奪われる」「生活権を侵害される」というのがその理由だ。  医師会は医師個人が会員の職能団体である。そのころ、トップには「武見天皇」と呼ばれた日本医師会会長・武見太郎が君臨し、都道府県医師会、郡市区医師会が下を支えていた。  明治の元勲、大久保利通のひ孫を娶(めと)った武見は、戦後日本の通商国家路線を定めた総理大臣、吉田茂の謦咳(けいがい)に接して政治力を蓄えた。「喧嘩(けんか)太郎」の異名をとり、攻撃的な姿勢で医療行政に医師会の意見を反映させた。 ●医師会と徳田が壮絶バトル 「住民の声は消せない」  自治体の医師会は、武見の威光をバックに徳洲会に対抗する。医師会員は徳田に憎しみをぶつけた。  京都府宇治市では医師会と徳田が壮絶なバトルを展開している。  京都府が徳洲会に「申請通りの価格で宇治の土地を買収してよい」と通告したのは78年6月のことだった。宇治医師会は、これに反発し、8月に「徳洲会病院進出絶対反対、健全な地域医療の確立にご協力を!」と地方紙に全面広告を掲載。医師会員の学校医ボイコット、予防接種拒否をちらつかせる。  9月、徳田は建設予定地の町内会・住民説明会で「医師会が反対しても、住民の(病院建設を望む)声は消せない」と語る。住民側は徳洲会の進出を望んでいた。医師会は地元住民に「徳洲会は危険な病院だ」と訴える。宇治市長は、住民が推す徳洲会と、集票力を持つ医師会の板挟みで頭を抱えた。  同年12月、市長の仲介で徳洲会と医師会の話し合いの場が持たれた。その会議の録音テープをもとに週刊現代79年1月4・11日合併号は、次のようにやりとりを再現している。 医師会「あんたは地元紙に『医師会に入らなければならない法的根拠はない』とまでいっている。そんなことをいう人間は人格に疑問がある」 徳田「地元紙が勝手に書いている。人格をいうなら、(自分を門前払いせず)本人に直接会って確かめてほしい」 医師会「徳洲会は二十四時間オープンというが、全科の先生がいるのか」 徳田「内科、外科、産婦人科、小児科の医師が当直し、他のどの医師も十分から二十分で病院にこられる場所に住んでいる」  対話は、どんどん感情的になり、火花を散らす。 医師会「あんた、最終的にはなにをやりたいのか?」 徳田「最終的には無医村をなくすことで、出身地・徳之島の医療をやりたい」 医師会「それなら、人のいやがる場所に病院を建てんと、徳之島へ帰ったらええやないか。徳之島へ帰りなさい。島へ帰って自分でやればいいじゃないか」 徳田「行ったこともなく、知りもしないで徳之島のことがいえるのか」  医師会側の発言には、奄美群島出身の徳田への差別的な匂いが漂う。話し合いは、物別れに終わった。 ●医療費抑制という命題病床規制に乗り出す  数日後、宇治医師会のメンバーは、武見天皇へ直訴に行く。徳洲会は医師会に相談せず病院をつくり、地域医療を破壊すると訴え、歯止めをかけるよう政府に働きかけてほしいと頼んだ。喧嘩太郎の剛腕にすがったのだ。  だが、予想に反して武見の返答は木で鼻をくくったようなものだった。 「地区のことは、地区で片づけたまえ」  武見は、世論が医師会に味方しないと見抜いていた。医師会は徐々に孤立する。とくに学校医や予防接種のボイコットへの風当たりが強まった。 「医師会は子どもを人質に取るのか」  と親たちが抗議をする。  宇治と同じく徳洲会と対立していた神奈川県の茅ケ崎医師会は、市当局に予防接種、日曜・祝日の当番医、休日夜間診療の拒否を申し渡したところ、市民の激しい怒りを買った。  なおも京都府と神奈川県の両医師会は、厚生大臣(現厚生労働大臣)の橋本龍太郎(のち首相)に「徳洲会の理念と、その実行方法を誇大に宣伝することは医療法違反」と陳情する。何が何でも徳洲会の進出を止めようとした。橋本は「慎重な対応が必要」と言ったきり、面談を打ち切った。  勝負あり、医師会の完敗であった。宇治市と茅ケ崎市に徳洲会の新しい病院が建設される。最終的に民意が徳洲会の後押しをしたのだった。  徳洲会と医師会の対立が激化するなか、厚生省は、戦後最大の医療法改正にとりかかる。目的は「医療資源の適正配置」だ。都道府県が「地域医療計画」を策定し、複数の市町村を一単位とする「二次医療圏」ごとに必要病床数を設定する。  実際の病床数が必要病床数を上回る過剰地域では病院新設(増床)を認めない。必要病床数より不足している医療圏なら増床を認める。もしも医療法人が地域医療計画に従わなければ、都道府県知事は医療審議会に諮ったうえで、強く是正の勧告ができる。病床規制の色が濃い法改正である。  厚生省が病床規制に乗り出した背景には、医療費抑制という命題が横たわる。83年3月、厚生省保険局長・吉村仁は、全国保険・年金課長会議で「このまま医療費が増え続ければ、国家がつぶれるという発想さえある」と「医療費亡国論」をぶっている。 ●病院新設プランは「不可」「個人病院」として申請  その2年後、医療法の大改正は行われた。各都道府県は順次、地域医療計画を策定し、病床を適正に配置するよう方向づけられる。民間の医療法人は、もう自由に病院を建てられなくなると焦った。地域医療計画が施行される前に大急ぎでベッド数を増やそうと「駆け込み増床」に拍車がかかる。  徳洲会も然りだ。医療過疎地、神奈川県鎌倉市で病院建設に動く。プロジェクトを仕切ったのは、徳田に次ぐナンバー2の盛岡正博(現佐久学園理事長)だった。盛岡は、68年に京都大学医学部を卒業し、精神科医療の改革運動に加わった後に渡米。帰国後、徳洲会に入職していた。  鎌倉も地元医師会が徳洲会の進出に猛然と反対していた。神奈川県は地域医療計画の策定を急いだ。幸い、苦労して開設した茅ケ崎徳洲会病院(現湘南藤沢徳洲会病院)に多くの鎌倉市民が時間をかけて通院し、評判は上々だった。「駆け込む」チャンスはいましかない。  盛岡は地元の「民意」をさぐる。33人の鎌倉市議会議員を個別訪問し、話を聞くと、共産党の4人を除く、29人が「病院は必要」と賛意を示す。いける、と手ごたえをつかんだ。  すでに徳洲会は北海道から九州まで、20近い病院網を構築していた。盛岡は全国の病院スタッフに「可能な限り、車で鎌倉に集まってくれ」と大動員をかける。鎌倉に集結した職員は、一斉に署名活動を行った。わずか2週間で徳洲会の進出を望む署名が約8万5千も集まる。鎌倉市の総人口は約17万5千人だったので、およそ半分の市民が署名したことになる。  この大量署名を武器に、盛岡は神奈川県へ徳洲会の病院開設の認可を求める。地域医療計画が発効するのは87年4月1日だった。前日の3月31日までは、従来の原則的に自由な方針で開設は認められる、はずだった。  ところが、医師会主導の神奈川県医療審議会は鎌倉の病院新設プランを「不可」とした。盛岡は、神奈川県庁に日参し、市民が希望する病院を開設できないのは理不尽だと訴える。県の職員とやりとりしている過程で、ひとつの突破口が見つかった。  それは「個人病院」として申請し、開設することだ。法的に医療審議会も個人病院は拒めなかった。  盛岡は個人で建設資金の融資を受けて病院を建てる決心をした。 ●湘南鎌倉病院の竣工式 神奈川県庁に怒鳴り込む 「徳洲会幹部の医師に打診したけれど、引き受け手がいない。自分でやるしかなかった。貯金は全然ありませんでした。銀行が3千万円の定期預金を組んでくれて、土地などを担保に14億円余りを借りて約400床の個人病院の新設プランをつくりました」  と、盛岡は振り返る。87年3月、盛岡が院長兼オーナーの「湘南鎌倉病院」の開設が認められた。個人が病院を開き、その後に医療法人へ移行するのはよくある話だ。法的に問題はない。  だが、事情が事情だけに医師会側は徳洲会の隠れ蓑だと神経を尖らせる。87年7月の衆議院決算委員会で医師免許を持つ自見庄三郎(のち郵政大臣)は、「実態は徳洲会が開設しているのではないか」と厚生省に質した。厚生省は「事業計画も資金計画も適正で、申請した盛岡氏自らの責任のもとで運営する」と神奈川県が判断したと答える。国会で認可問題が取り上げられ、神奈川県の職員はピリピリした。  当時、社会福祉・医療事業団(現独立行政法人福祉医療機構)から徳洲会東京本部に出向した平腰昭は、神奈川県に挨拶に行った際の印象をこう語る。 「徳洲会の病院建築に携わる建築士の案内で神奈川県庁に参りました。すると、担当職員が『君は徳洲会の人間じゃないか。なんでここにいるんだ。出入りならん』と建築士を大喝した。驚きましたねぇ。県は“盛岡病院”に許可を下ろしたのであり、徳洲会は一切手出しをするな、という態度でした」  しかし、そうした現場の緊迫感が徳洲会グループの司令塔、東京本部にはなかなか伝わらない。湘南鎌倉病院の建設現場に東京本部名で「看護師募集」の広告が掲げられた。  それを地元の医療関係者が見て「あれは何だ」と県にねじ込む。同じ公務員として行政の「胸のうち」がわかる平腰は、配慮が足りなかった、申し訳ないと詫び状を県に提出した。  一方、盛岡は病院開設へと歩を刻む。88年11月、建物の竣工式を迎えた。けれども、県は「保険医療機関」の指定を下ろそうとしない。保険医療機関でなければ、保険診療ができず、すべて自由診療。患者が全額自己負担しなくてはならず、病院経営は不可能だ。  竣工式の白薔薇を胸につけた盛岡は神奈川県庁に駆けつける。保険医療部のフロアの真ん中で怒鳴りあげた。 「医療過疎の解消という社会的課題を、個人に押しつけ、十数億も借金を背負わせ、どこまで苦しめるのだ。指定をしないのはどこの誰だ、名乗り出ろ」  顔見知りの職員が近づいてきた。 「ここは任せてください。盛岡さん、今日はハレの日ですね。帰って、お客さんを迎えてください。みんな、わかってますよ。いい病院にしてください」  間もなく湘南鎌倉病院は、保険医療機関の指定を受け、開院した。盛岡が30年前の病院開設を回想する。 「医療過疎をなくしたい。医師の過重労働に頼る医療を、トータルに変革したいという思いが強かったですね」  湘南鎌倉病院は、7年後に徳洲会の医療法人申請が認められ、湘南鎌倉総合病院へと名を変える。かつて2時間かけて東京都西部の病院に搬送されていた救急患者は、早ければ数分で治療を受けられるようになった。  病院開設の裏には、単純な善悪論では語れない人間のドラマが潜んでいる。(文中敬称略) (ノンフィクション作家・山岡淳一郎) ※AERA 2017年12月4日号
AERA 2017/12/05 07:00
記憶障害から認知症と勘違いも 「高齢発症てんかん」とは?
記憶障害から認知症と勘違いも 「高齢発症てんかん」とは?
てんかん患者の約3分の1は高齢者が占めている(※写真はイメージ)  てんかん患者の約3分の1は高齢者が占めている。発作時にけいれんがなく、ボーッとした状態が時には数日続くため認知症に間違われやすい。症状は薬でほぼコントロールできるので、早く見つけて治療を受けることが大事だ。  てんかんは、「子ども」が突然意識をなくして全身が「けいれん」する珍しい病気──。こんなイメージを持っていないだろうか。 「てんかんは誰もがかかる可能性のある病気で、症状も一様ではありません。子どもの病気とか、発作=けいれんといった先入観は捨ててください」  と、新宿神経クリニック院長の渡辺雅子医師は言う。  日本のてんかん患者は約100万人、その3分の1が高齢者といわれる。男女差はない。65歳以上の有病率は1~2%とされており、決して珍しい病気ではない。  患者には、小児期や成人期に発症し、それが継続している人もいれば、「高齢発症てんかん」の人もいる。てんかんの発症率は乳幼児で高く、10代になると低下するが、50代後半から上昇に転じる。これを高齢発症てんかんという。  高齢発症てんかんはさらに、原因となる病気がある「症候性てんかん」と、原因不明の「潜因性(せんいんせい)てんかん」に分けられる。3分の1は後者だ。前者の原因疾患としては、脳血管障害を筆頭に、認知症などの神経変性疾患、頭部外傷、脳腫瘍などが多い。ここでは潜因性の高齢発症てんかんを中心に取り上げる。  てんかんとは、大脳の神経細胞が過剰に興奮するために神経ネットワークに障害が起こり、発作を繰り返す脳の慢性疾患だ。  発作には、神経細胞の興奮が大脳の一部に見られる「部分発作」と、大脳全体が興奮している「全般発作」がある。高齢発症てんかんの多くは部分発作で、なかでも意識障害を伴う「複雑部分発作」が多い。 「突然意識をなくすので、危険な状況になりやすい。料理中なら熱さを感じないのでやけどすることがありますし、自動車運転中なら事故の原因になります」  と話すのは、朝霞台中央総合病院脳卒中・てんかんセンター・センター長の久保田有一医師。「だからこそ、早く高齢発症てんかんに気づいて治療を受けてほしい」と2人の医師は声をそろえて強調する。  複雑部分発作は、けいれんがないのが特徴だ。目は開いたまま、急に動きを止めてボーッとしたり、口をモグモグ動かしたり舌をペチャペチャ鳴らしたり、貧乏揺すりのように足を小刻みに動かしたりといった具合で、知識がなければてんかんの発作には見えない。  発作は数十秒から数分で終わる。ただ、その後も症状は続き、元の状態に戻るまで数時間から時には数日かかることもある。その間は話しかけられると「ああ」とか「うん」とか生返事をすることが多い。元の状態に戻ってからそのときのことを聞いても、本人は覚えていない。 「また、人生の大事な出来事を忘れてしまう記憶障害も起こります。それで、よく認知症に間違われるのです」(前出の渡辺医師)  東京都に住む町田隆さん(仮名・67歳)は2年ほど前から短気になり、ささいなことで怒るようになった。半年後、家族で食事中に、初めての家族海外旅行だったハワイの話題になった。しかし町田さんは、その旅行にまつわるすべてのことを覚えていなかった。  家族は認知症を疑い、町田さんを神経内科に連れていった。認知症の検査は正常で、MRI(磁気共鳴断層撮影)にも異常はなかった。「元気がないし、何か変」と思いながら町田さんの様子を注意深く見るようになった妻は、1カ月ほどで、町田さんの動きが急に止まること、口をモグモグさせることに気づいた。娘に話すとインターネットで調べてくれ、てんかんかもしれないことがわかった。  てんかんの診断では、問診と脳波検査が重要だ。 「家族など身近にいる人が同行して普段の言動を教えてくれたり、発作中の様子を動画撮影してくれたりすると、よい情報になります。一人暮らしの方は、趣味の会やデイサービスなどに参加して、普段の自分をよく知る人を作っておきましょう」(久保田医師)  脳波検査は、発作が起こっていないときにしても、てんかんが疑われる波形が描出されることが多い。それがあったら、長時間ビデオ脳波モニタリングの実施が望ましい。  これは数日から1週間ほど入院してもらい、連続して患者の様子と脳波を同時に記録する検査だ。専用の装置が必要であり、患者の負担も大きいので、できる施設は限られる。なお、MRIなどの画像検査は原因疾患を特定するためにおこなわれるもので、てんかんかどうかの診断はできない。  町田さんは妻と一緒に新宿神経クリニックを訪ねた。渡辺医師は問診、脳波検査、関連病院での長時間ビデオ脳波モニタリング、MRIを実施。町田さんを潜因性の高齢発症てんかんと診断し、薬物療法を開始した。  てんかん治療は、発作を防いで日常生活が支障なく送れるようにするためにおこなわれるが、とくに高齢者に対しては、記憶障害を進行させないことも大きな目的になる。治療開始までに失われた記憶は戻ってこないが、それ以後は人生における大事な出来事を忘れないようにするのだ。  治療には抗てんかん薬が用いられる。てんかんを根治するのではなく、発作を抑えるもので、20種類ほどある。発作のタイプによって効くものが違い、高齢発症てんかんには、部分発作に有効な種類を選ぶ。  それらはさらに、従来薬と新規薬に分けられる。効果は同等だが、新規薬は副作用が少ない。これにはラモトリギン、レベチラセタムなど数種類あり、副作用の内容などを考慮して、患者に合ったものを用いる。  また、高齢者の多くは持病があり、ほかの薬を飲んでいるので、相互作用にも注意が必要だ。 「大事なのは、少量から始めることです。高齢者は薬の効きがよいのですが、副作用も出やすいので、通常量の3分の1から始めます。効果と副作用を秤に掛けながら、必要があれば徐々に増量していきます」(渡辺医師)  町田さんは、レベチラセタムを通常の3分の1量から始めた。2週間後、妻は「発作は出ていない。元気になって、イライラも少なくなった」と話した。それから1年以上、同じ量を維持しているが、発作は起きていない。 「医師の指示どおりに服用を続ければ、約9割の人は発作を起こさずにすみますが、飲むのをやめると発作が出ます。飲み忘れがないよう、薬をカレンダーに貼り付けるなど工夫するといいでしょう」(久保田医師)  てんかんが疑われる場合は、精神科、神経内科、脳神経外科などが受診先になる。てんかん専門医は、日本てんかん学会のホームページに掲載されている。(ライター・竹本和代) ※週刊朝日 2017年11月24日号
週刊朝日 2017/11/21 07:00
ゴッホの奇行と作風は梅毒のせい?それとも薬物中毒? 現代医師が診断
早川智 早川智
ゴッホの奇行と作風は梅毒のせい?それとも薬物中毒? 現代医師が診断
『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、ゴッホを紹介する。*  *  *【ゴッホ (1853~1890年)】 19世紀のフランスには、新古典派から印象派を経て、20世紀に開花するキュービスムやシュールレアリスムなど新たな美の潮流が次々現れた。その中でもひときわ大きな存在感を示すのが、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent van Gogh)であろう。ゴッホの前にも後にも(意識的な模倣は別として)彼のような画風は存在せず、一連の作品は美術史の中でも孤高を保っている。しかし現在でこそ絵画市場で最も高値の付く画家であるが、生前にはほとんど評価されず1枚しか売れなかったという。 ゴッホは、1853年3月30日オランダ南部ズンデルトの牧師の家に生まれた。16歳で美術商の伯父が経営するグーピル商会に勤めるが、失恋を機に離職。次に補助牧師を目指したものの、人間関係のトラブルでこれも中断。画家になることを決心したのは27歳の時。ブリュッセルで個人的に師についたが満足できず、翌年にはアントワープの美術学校に入る。 1886年には芸術の中心地だったパリに移住し、2年後にはゴーギャンとアルルで共同生活を開始する。しかしじきに不和となり、自画像の耳の形をからかったゴーギャンへの腹いせに、自らの左耳を切り取って女友達に送り付けた。見かねた周囲の勧めもあって、サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神科病院に入院。退院後は精力的に創作活動を行うが、1890年7月27日、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで腹部を銃で撃ち、2日後に死亡した。享年37。■奇行の原因 ゴッホの奇行は生前から有名で、その生涯と独自の作風は後年に病跡学者の格好の材料となり、現在までに、「双極性障害」「統合失調症」「緑内障」「メニエール病」「神経梅毒」などの仮説が提唱された。  メニエール病では幻聴やめまい、耐え難い耳鳴りのために自らの耳を鼓膜が破れるまでたたく例があり、ゴッホの耳切りもその延長ではないかとする説もある。ただ、メニエール病では切断した耳を送るという行動は説明できない。 様々な精神神経症状を説明する場合、梅毒説は好都合である。実際、ゴッホが同時代のロートレックやゴーギャン同様、娼婦との交渉を好んでいたこと、17~19世紀フランスでは梅毒が猛威を振るっていたことなどから感染していた可能性は高い。だが晩年まで彼の外観にゴム腫やバラ疹などの皮膚所見は見られない。 もう一つ、アルコールや薬物中毒の可能性もある。ゴッホや同時代の芸術家が愛飲したアブサンは、ニガヨモギのテルペノイド、ツヨンを含み、幻覚作用や錯乱作用があるとされる。しかし毎晩泥酔する画家は数多いて、その中でもゴッホの芸術的境地は異彩を放つ。もっとも、最近ではよほど大量に摂取しなければツヨン自体にそれほどの毒性はないとされている。■黄色が最も美しい 英国のアロンソは、ゴッホの主治医だったガッシュ博士がジギタリス治療を得意としており、ゴッホは適応外かつ過剰な投与を受けたのではないかという仮説を提唱している。視野が黄色く見える「黄視症」はジギタリス中毒の教科書的な症状の一つである。ゴッホがオランダやパリで過ごしていた時の絵は暗い色調であるのに対し、南仏に移って突然画風が変わったのは、南欧の夏の光や日本の浮世絵の影響に加えて、ガッシュ博士の治療が始まったためであるという。面白いことにこの時期のゴッホによるルーベンスの模写は、原画に比べて著しく黄色がかっている。しかしゴッホ自身、弟のテオに宛てた手紙に「黄色が最も美しい」と記す。単なる黄色好きかもしれない。 ゴッホ没後100年に、生前のゴッホを知っていた長寿記録者のジャンヌ・カルマン夫人(当時113歳)が、「汚い格好をした変な人だった」と証言している。ゴッホが変わり者で周りから受け入れられなかったことは間違いないが、彼の異常行動は芸術上の表現と分けて考えるべきだろう。
朝日新聞出版の本歴史病気
dot. 2017/10/26 07:00
増加する認知症患者の身体拘束  本当に“仕方がない”のか
増加する認知症患者の身体拘束 本当に“仕方がない”のか
腹部・手足用ベルト、マグネットキーで自分では外せない。(長谷川利夫教授=提供) 精神科病床で身体拘束を受けた患者の数(週刊朝日 2017年9月22日号より)  身体拘束を受ける患者の数が増え続けている。背景として考えられるのが、認知症と診断される人の増加。転倒などを避けるため、安全管理の側面もあるが、やむを得ない処置なのか。医療ジャーナリストの福原麻希が拘束ゼロの取り組みから、その答えを探った。 「どうして、こんなことになってるの?」  30代の女性は病院へ祖母のお見舞いに行ったとき、ベッド上の姿を見て、驚いた。両手首がベッド柵に固定され、胴にも太いベルトが締めてあったからだ。ベッドの周囲は柵で囲われていた。 「取って。痛いし、動けないの」  祖母は女性にそう訴えた。あわてて、女性が看護師を呼ぶと、こう言われた。 「『家に帰る』とベッド柵を乗り越えようとしたんです。転落して骨折しかねません。安全のための『抑制』です」  祖母は認知症が進み、徘徊や暴力的な言動が目立つようになっていた。入院前、自宅で興奮して大声を出したり、入浴時には服を脱ぐのを嫌がり、娘である女性の母親にかみついたりしたこともあった。  母親は症状の改善を期待して、精神科病院に入院させた。身体拘束に関しては、病院からあらかじめ同意書に署名を求められ、「必要なら」とサインしたという。  女性の祖母のように、自らの意思で身体を動かせないように道具で抑える「身体拘束」の問題について、今、改めて関心が高まっている。拘束を受ける患者が増え続けているからだ。  厚生労働省と国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所が毎年作成する「精神保健福祉資料」によると、全国の精神科病院および一般病院精神科病床の入院患者のうち、2003年に身体拘束を受けていた患者数は全国で5109人だったが、14年には1万682人と約2倍増となった。  精神科病院や一般病院精神科病床で医師(精神保健指定医)が必要と認めた場合、身体拘束は違法ではない。精神保健福祉法に基づく「一時的で、代替方法が見出されるまでの間のやむを得ない処置(行動制限)」にあたる。  拘束の方法は、手足や胴体にベルトを着けるほか、「車いす用腰ベルト」「ミトン」「つなぎ服」「四点柵」などがある。薬で、行動を落ち着かせたり、眠らせたりすることも。方法や身体拘束の範囲は病院によって異なり、「ミトンや車いすの腰ベルトは身体拘束でない」とする病院もあり、実際の患者数はもっと多いと思われる。  拘束を受ける患者の数が増えている背景の一つとして、認知症と診断される患者の増加が考えられる。暴力的な言動など認知症の周辺症状への対応が追いついていないのだろう。  精神科病院には、認知症患者が一定数入院している。14年の精神保健福祉資料では精神科病院の入院患者は約29万人で、うち認知症患者(アルツハイマー型および脳血管性の認知症)は約4万4千人(15.4%)に上る。10~13年の4年間でも、毎年同数程度の認知症患者が入院中で、入院患者の15%前後を占めている。  ここに、参考となるデータがある。  杏林大学の長谷川利夫教授が15年、全国11の精神科病院を対象に実施した調査では、隔離・身体拘束を受けていた患者689人のうち約1割(83人)が認知症患者で、拘束を受けた期間は平均2カ月(約64日)だった。  高齢化社会を迎えた今、家族や自分が認知症になって入院した場合、「縛られる」可能性は十分にある。長谷川教授はこう訴える。 「身体拘束が増加の一途をたどっていることを、社会全体で考える必要があると思いませんか。人間の尊厳を傷つけ、命まで奪いかねないからです」  身体拘束は身体への影響が大きい。長時間足を動かさず同じ姿勢でいると「突然死」の可能性がある。足の静脈に血のかたまりができ、一部が血流に乗って肺の血管に詰まる。いわゆるエコノミークラス症候群である。  さらに、1980年代にいち早く身体拘束廃止に取り組んだ、ケアホーム西大井こうほうえん(東京都)施設長の田中とも江さんは、こう指摘する。 「高齢者の場合は、運動機能も心肺機能も低下し、全身が衰弱、感染症にかかりやすくなり、寝たきりになる。そうなると、より深刻な機能低下と衰弱をもたらす。その末路は『抑制死』と呼ばれています」  もちろん、心理的ダメージも大きく、「トラウマとして残る」とも言われる。  このような弊害から身体拘束廃止の動きが盛んになり、介護保険制度では「原則的に身体拘束は禁止」となった。2004年からは、身体拘束を受ける患者を減らすための委員会設置が、病院の診療報酬の要件に盛り込まれた。  にもかかわらず、その数は増えている。前出の長谷川教授は「身体拘束実施の適切さを検証できるシステムが必要です」と提案する。  一方、病院では安全のために仕方ない対応と考えている側面がある。  例えば、手術後の意識障害によって暴力をふるったり、傷口を触ったりすることがある。処置によっては、患者がチューブを抜いてしまうと生命の危機につながることもある。こうしたケースでは、最小限の拘束が必要になる。  だが、このほかにも看護師は「病院に預けているのだから、絶対、転ばせないで」と家族にきつく言われ、転倒すると病院から「どんな看護をしているの」と責められる。ベテランになるほど、患者の骨折や死で自分も悲しい思いをした人もいる。現実には、身体拘束に罪悪感を持ってはいるが、訴訟の恐れや責任感から対応するという。  認知症患者のケアに限らず、病院の人手不足も拘束が増える要因の一つ。特に、精神科病院は1958年、急増する病床数に医療者の養成が追いつかず、厚生事務次官通知で医師の配置は一般病床の3分の1、看護師は3分の2と決まった。医療現場では時代に合わせて、この基準の廃止を切望する。ある看護師は言う。 「患者さんを抑制したくないが、つきっきりになるわけにもいかない。ほかの患者さんはだれがケアするのでしょう」  こうした中でも、身体拘束をやめようと取り組む病院や介護施設もある。  東京都立松沢病院(898床)は齋藤正彦院長着任後、本格的に「身体拘束ゼロ」に取り組む。齋藤院長はこう言う。 「『絶対ダメ』とは言っていません。でも、『人が人を縛るのは尋常ではない』と言い続けています」  研修医には身体拘束を経験させる。「ガリバーのように手足を縛られ、『おしっこはおむつに』と言われ、屈辱だった」など患者のリアルな声は院内で共有している。  12年の身体拘束率は15.3%だったが、現在は公立病院の役割として、対応の困難なケースを引き受けるにもかかわらず、4.9%まで減少した。認知症病棟(77床)は、現在ほぼゼロ。多くても日に1、2人という。  しかも、身体拘束廃止に取り組むことでの骨折は増えていない。患者は院内を歩くが、医師が慎重に薬を処方し、他職種スタッフがしっかり見守ることで転倒リスクを回避している。  齋藤院長は「家族のコミットメントの必要性」を強調する。 「家族もリスクを理解し、拘束をやめることについて、いろいろな側面から病院を支えてほしい」  精神科以外の病床でも、認知症患者には苦労する。入院すると環境が変わるため、落ち着かなくなるからだ。対策として、フランスの介護哲学による「ユマニチュード」という技法に研究で取り組んだ病院もある。  東京都健康長寿医療センター研究所の伊東美緒研究員はこう説明する。 「『ケアする人はどうあるべきか』を軸に、ケア前の3分間の関わりを大切にします。優しさを伝えてから、本題に入るようにします」  この技法では、ケアをする人が「見る・話す・触れる」動作を同時に行うことで、相手に安心感を持ってもらう。例えば、認知症の人が着替えや入浴を嫌がるとき、まず相手の視界に入るよう、正面からゆっくり近づく。目を合わせたら、笑いかけてから話しかけ、自然に手に触れるようにする。相手の気持ちが穏やかになり、「いい人」と認識されたら「着替えましょうか」「お風呂入りましょうか」と話しかける。 「ユマニチュードを取り入れて、日中の身体拘束をできるだけ減らそうとしている病棟もあります。それでも、患者が点滴などを抜いてしまう場合は、医師の協力を得て、その治療が本当に必要かどうか再検討することもあります」  最後に介護保険施設の取り組みを紹介しよう。先述のとおり、介護保険制度では、身体拘束は禁止されている。だが、拘束ゼロの施設は、厚労省の調査(2014年)では、特別養護老人ホーム、介護付き有料老人ホームで約7割、介護老人保健施設で約6割にとどまる。「入居者全員を拘束している」と答えた施設も97施設あった。  脳血管研究所併設の老健アルボース(群馬県)は、01年から16年間、「身体拘束ゼロ」を継続する。現場のリーダーが徹底して例外をつくらず、教育研修で職員一人ひとりに「身体拘束はしない」という意識を確立させてきた。  入所者の家族へのアンケート(回答者23人)では、約7割(16人)が「(過去に病院や他介護施設で)身体拘束を受けたことがあった」と回答。拘束時の様子は、「元気がなくなった」「寝ることが多くなった」「認知症症状が進んだ」「言葉遣いが荒くなった」。その様子を家族は「気になるが仕方ない」(15人)と感じていたという。  だが、アルボース入所後は「表情が豊かになった」「症状が落ち着いた」「日中、起きていることが多かった」と変化がみられた。  例えば、ある認知症の男性は、入所前の病院で手足の拘束を受けていた。誤嚥性肺炎の治療による痰の吸引時、男性は状況がつかめず、嫌がって暴力をふるっていた。  アルボースでも痰の吸引はしている。だが、身体拘束をしないことで普段からスタッフとの信頼関係が構築されているうえ、吸引時は一人が説明しながら手を握っているので、男性は我慢できている。取材時、スタッフが前を通りかかると、無表情だった男性がニッコリほほ笑んだ。  アルボースの認知症専門棟主任(介護福祉士)の木村聡さんは話す。 「身体拘束をしないことが目標ではありません。一人ひとりの、穏やかで、その方らしい表情を引き出すことをゴールにしています」 ※週刊朝日 2017年9月22日号
週刊朝日 2017/09/19 07:00
“放置老人”の実態 ゴミ屋敷化に支援を拒み孤立も
“放置老人”の実態 ゴミ屋敷化に支援を拒み孤立も
道路からはわかりにくいが、枝を伐採すると、敷地内が廃材で埋まったゴミ屋敷が現れた “放置老人”転落を防ぐ、異変察知の7つのチェックリスト(週刊朝日 2017年9月22日号より) 自分の現在の状態は、まったく価値のないものと感じますか?(週刊朝日 2017年9月22日号より)  体が思うように動かなくなる。連れ合いとの別れを迎える。収入が減り、家計が苦しくなる。そんな出来事を機に、人生を無価値だと感じる人が現れる。身の回りのことがどうでもよくなり、放置してしまう高齢者。そんな「放置老人」に陥るのを防ぐ術を考えたい。  東京都内の女性(55)は関西にある実家を毎月訪れ、親を見守っている。その実家に異変が起きたのは、今年初めだった。  年明けに父が急死。すると、買い物や食事などでこまめに父の面倒をみてきた母(83)が、喪失感からか、何事にも手をつけなくなってしまったのだ。  家の中は片付かずに散らかり放題。女性は帰省するたびに部屋を大掃除する。45リットルのゴミ袋3袋分を、一気に片付けた日もあった。今は、一人暮らしの母が心配で仕方がない。「ゴミの出し方は自治体によってルールが違い、休日に集積場に出せない。兄嫁にゴミ出しをお願いしたこともありました」と話す。  お盆に実家へ帰省し、親の老いを改めて感じた人も少なくないだろう。けがや病気、夫や妻との死別など、老親の姿はさまざまな出来事を機に大きく変わる。  ふさぎこんだり、掃除、洗濯、入浴など身の回りのことをやる気力を失ったり。周囲の支援も拒んで孤立し、やがて健康や生命も脅かされる。こうした状態は「セルフ・ネグレクト」(自己放任)と呼ばれる。チェックリストを参考に、異変に早く気づくことが大切だ。  冒頭の女性の母のように精神的なショックを機に自暴自棄となると、セルフ・ネグレクトに陥りかねない。  内閣府の2011年の調査によると、全国に約9千~1万2千人いると推計されるが、詳細はつかめていない。厚生労働省は自治体に対し、見守りなどの対応強化を呼びかけている。  身の回りのことがどうでもよくなり、放置してしまう。いわば“放置老人”になると、周囲とのあつれきも高まる。その典型がゴミを片付けずに家にためこんでしまうゴミ屋敷だろう。  高齢者が家にためこんだゴミを「これは財産だ」と主張すれば、第三者はすぐには片付けられない。悪臭などで近隣から苦情を言われると地域からも孤立する。  ゴミ屋敷問題にいち早く取り組んできたのは、東京都足立区。8月時点で高齢化率は約25%と都内平均より高く、一人暮らしも多い。  問題解決の専門部署「生活環境保全課」を12年に設け、近隣住民からの相談窓口を一本化した。道路管理、福祉、介護など行政の各部門が縦割りの壁を越えて協力するしくみを整えた。  祖傳和美課長は言う。 「例えば、ゴミ屋敷の家主が認知症の高齢者ならば医師につなぐ。ゴミを片付けられなければ、ヘルパーさんにも入ってもらい、介護保険のサービスを使えるように担当部署と連携する。これまで苦情を受け付けると、内容によって様々な部署にたらい回しになることがありました。窓口を一本化することで、ゴミをためる原因を各部署と話し合って対策を講じています」  13年には「足立区生活環境の保全に関する条例」を施行し、悪質なケースは強制撤去も可能にした。費用を捻出できない家庭には、審議会の同意を得て100万円を限度に支援する。 「条例には調査権を盛り込んでいます。身寄りがないと思われた高齢者のケースでも、調査権を使って戸籍謄本を閲覧して遠い親戚にたどり着き、解決できました」(祖傳氏)  ゴミ屋敷対策への相談件数は、12年度から今年8月までで計691件。うち540件を解決した。これまで強制撤去の例はない。最終目的は、ゴミの片付けだけではなく、家主が人間らしい暮らしを取り戻すことに置いている。  ゴミ屋敷をつくらないためには、一歩手前の“隠れゴミ屋敷”への対応も大事という。どういうものか。 「庭の木が小学生たちの通学路の邪魔になっている」  近隣住民の苦情を受け、祖傳氏が70代の男性の自宅に駆けつけた。男性は認知症ではないようで、普通の受け答え。道路側に飛び出た枝を切り落とすうちに、異様な光景が現れた。木の葉で隠れて道路側から見えなかったが、敷地内に廃材などが積まれていた。  祖傳氏は「塀にハシゴがかかっていたので、『ちょっと登らせてください』と上がると、敷地内は建設資材のゴミで埋まっていました」と振り返る。  男性は建設関係の仕事をしていたため、廃材を自宅に持ち帰って保管していた。放置してたまり続け、いつしかゴミ屋敷に。男性は神奈川県内の甥の近くへ引っ越すことになり、自宅を売却して、撤去費用を捻出できた。  こうした隠れゴミ屋敷の段階で気づけないと、本当のゴミ屋敷となってしまう。  特別養護老人ホーム(特養)で現在暮らす80代男性の自宅は、かつてゴミ屋敷だった。  今は家を取り壊して駐車場になったが、当時は自宅前のゴミから缶ビールの残汁などが異臭を放ち、虫やねずみがたかった。  男性は元々商売を営んでいたが、妻に先立たれて店をたたんだ。生活費の足しにするため、スチール缶や鉄くずを拾い集めて自宅で保管したことが、ゴミ屋敷へとつながったようだ。  片付けるように言われると、「近寄るな!」と男性は怒鳴る。「危ない人」と近所からも煙たがられるように。祖傳氏らは男性の娘に状況を説明し、一度はゴミを片付けてもらった。しかし、しばらくすると、またゴミ屋敷に戻った。 「精神科の受診を勧めても、服薬を管理できず症状が悪化していました。検査入院して認知症と診断され、ほかの疾病も発見。入院中に介護認定を受け、特養へ入居しました。男性を後日訪ねると、人が変わったようにいきいきとした笑顔。入居者のリーダー的存在になったようで、『よかったですね』と声をかけたら、にっこりとうなずいていました」(祖傳氏)  この男性のように、身の回りのことの放置には認知症が関係する場合もある。  記者が3年前に取材した神奈川県内の集合住宅のゴミ屋敷は、認知症の女性(当時72歳)が住んでいた。女性はその後、グループホームに入って穏やかな生活を取り戻したようだ。  ゴミ屋敷だった当時、女性は見守りを兼ねた3度の配食を受け取ると、テーブル下にそのまま置く癖がついていた。夏場、食事が腐ってゴキブリがわいた。  こうした女性の“放置”に気づいたのは、週3回通っていたデイサービスのヘルパー。玄関のドアを開けるとゴキブリがはい出ることがひんぱんにあったという。ヘルパーが女性の長女(当時30歳)に連絡し、事態が解決に向け動きだした。  都市部は隣近所の付き合いが希薄になりがちだ。特に、マンションなどの集合住宅だと、周囲はなかなか異変に気づきにくい。  行政だけでなく、高齢者のよろず相談窓口の「地域包括支援センター」や、ケアマネジャーやヘルパーなど介護の専門家が中心になって対策をとることもある。  セルフ・ネグレクトへの転落や、ゴミ屋敷の発生をどう防ぐか。高齢者が示すささいなシグナルに周りが早く気づき、自治体などの支援につなげることが重要になる。 “放置老人”転落を防ぐ、異変察知の7つのチェックリスト 【1】ゴミや食べかすが、家の中に散らかり始めた。 【2】同じ服を着続けたり、入浴や歯磨きが億劫になったりしている。 【3】他者との関わりを拒み、家の中に引きこもりがちになった。 【4】家の中のにおいや、体臭がきつくなっている。 【5】病院受診や介護サービスを勧めても、「必要ない」と言い張る。 【6】金銭管理ができなくなり、家賃や公共料金を滞納している。 【7】失禁に気づかない、使用済みの下着やおむつを隠している。 (取材をもとに編集部作成) ※週刊朝日 2017年9月22日号
シニア
週刊朝日 2017/09/14 07:00
レディー・ガガが告白した「線維筋痛症」の怖さ 光や音で痛みも…
レディー・ガガが告白した「線維筋痛症」の怖さ 光や音で痛みも…
レディー・ガガ (c)朝日新聞社 レディー・ガガ (c)朝日新聞社  活動休止を宣言していた日本でも人気の米歌手、レディー・ガガさん(31)が自身のツイッターで病名を告白。全身に激しい痛みを起こす病気「線維筋痛症」を患っているという。日本リウマチ財団のホームページによると、米国では人口の約2%に線維筋痛症がみられるとされており、日本でも患者数は約200万人と推計されている。いったい、どんな病気なのか。 *  *  *  線維筋痛症は全身に激しい痛みが起こる原因不明の病気だ。30代後半~40代前半の女性が発症することが多く、気圧、気温、光、音などあらゆる外的刺激を痛みとして感じるため、進行すると外出が苦痛になるなど、社会生活が困難になる。  多くの病気は痛みを感じる部位に、炎症など痛みを招く原因が存在する。しかし線維筋痛症の場合、血液や画像の検査をしても、とくに異常は見つからない。 「人間のからだを守る反応である“痛み”を過剰に感じてしまうのが線維筋痛症という病気で、2段階のステップがあって発症すると考えています」  と東京医科大学医学総合研究所所長の西岡久寿樹医師は話す。たとえば、子どものころに親と死別する、転居を繰り返す、入院するなどで受けた精神的・肉体的ストレスがまず患者の中に存在する。それから一定の時間が経過して、さらに外傷、手術、身内の不幸や離婚など、新たなストレスが加わると痛みという形で症状が現れるという。免疫異常や感染症の潜伏期に似ていると、西岡医師は解説する。  線維筋痛症は全身の痛みのほか、ドライマウス(口が渇く)、ドライアイ、うつ状態、不眠、過敏性腸症候群など、さまざまな症状をともなう。そのためこれまでは関節リウマチ、シェーグレン症候群、膠原病など、他の病気と診断されることも多かった。  治療は、痛みやその他の症状を取り除く対症療法が中心になる。  西岡医師によれば、鎮痛剤リリカ(一般名プレガバリン)や、抗うつ剤などが使われることもある。 「たとえば人が腕をつねられたときに痛みを感じるのは、痛みの信号が脳に伝えられるからです。この痛みを伝える信号を弱めて、痛みを和らげるのがリリカの作用です。一方、痛みを抑制する信号を強めるのが抗うつ剤。患者さんにどちらのタイプの鎮痛剤が効くかは、使ってみないとわかりません」(同)  リリカが2012年に認可されるまで、保険治療で使える線維筋痛症の治療薬はなかった。 「リリカの認可によって、ようやく線維筋痛症という病気も保険診療上認められ、その治療も大きな一歩を踏み出したと言えるでしょう」(同)  ただしリリカにはめまい、眠気、コレステロール値を上げるなどの副作用があるため、医師の管理のもとで使用する必要がある。また線維筋痛症はさまざまな症状を持つ病気なので、リリカ単剤でコントロールできることはまれだ。 「たとえば睡眠障害やうつ症状は精神科の医師、末梢神経疾患のような症状は神経内科、関節痛はリウマチ科と、各診療科の医師が連携して治療を進める、チーム医療が必要でしょう」(同) ※週刊朝日MOOK『新「名医」の最新治療2014』から抜粋。所属は取材当時
朝日新聞出版の本病気
dot. 2017/09/13 00:00
「母ロス」でうつを発症 解決する方法とは
野村昌二 野村昌二
「母ロス」でうつを発症 解決する方法とは
中川葵さん(27)が母との思い出に大事にとっている、小学校から高校まで使っていた弁当箱を入れていた巾着袋。裁縫が得意な母が、縫ってくれたという(撮影/写真部・片山菜緒子) 小平知賀子さん(55)が母に抱き締められた最後の写真。母が亡くなる数日前で、この翌日から母の意識は低下し、会話もままならなくなったという(写真:本人提供)  親の看取りは誰しもが経験するもの。しかし、ゆっくりと最期のお別れをすることができなかったと、後悔する人は多い。まだまだ元気だからと、話し合わずにいると、その日は急にやってくる。お墓のこと、相続のこと、延命措置のこと、そろそろ話し合ってみませんか? AERA 2017年7月10日号では「後悔しない親との別れ」を大特集。  母親を亡くした時、「母ロス」と呼ばれる苦悩や悲しみに襲われる人は少なくない。精神的に母への依存度が高い日本では顕著だ。母ロスを乗り越えるには、どうすればいいか。 *  *  *  遺影の母は、笑っている。 「笑っている写真にしたんです。だけど、見るとつらいです」  中川葵さん(27)は、そう言うと涙ぐんだ。  今年1月、最愛の母を亡くした。胃がんだった。がんが見つかったのは2015年冬。その時点で、ステージ3。  治療すれば治ると信じ、母も治療に積極的だった。母とは離れて暮らしていたが、仕事が休みのたびに実家に戻り、母との時間を過ごした。しかし、昨年12月上旬ごろから母の病状は悪化し、入院。年が明けると体調は一気に悪くなり、最期は家族に看取られ亡くなった。享年59。 「もっと、一緒にいたかったです」  中川さんにとって母は、どんな時も味方でいてくれ、支えてくれる存在だった。中学・高校と反抗期だったが、母は毎日弁当を作ってくれた。部活で朝が早い時も、朝ご飯を作ってくれた。  大学を卒業するとCA(客室乗務員)になった。入社してすぐ、会社を辞めざるを得ない状況になったが、「その時はその時でしょうがないわ」と言ってくれた。そんな優しかった母の死を、まだ受け入れることができないという。 「いつも母のことを頭のどこかで思っている感覚です」 ●寂しさはなくならない  今も、ふとした瞬間に、悲しみのスイッチが入る。  仕事中でも、自分たちと同年代の親子が搭乗してくると、「一緒にどこか連れていってあげたかったなあ」と思う。とくに母と過ごした実家に帰ると、さまざまな思い出が鮮明によみがえり、涙がこぼれるという。  洋裁が得意だった母が残してくれた洋服や小物、生地を入れていた缶。一つひとつに母の思い出が重なる。中川さんは言う。 「いつか母の死を受け入れられるとは思うんですけど、寂しさはなくならないと思います」  人には必ず誰かとの別れが訪れる。だが、母を亡くした時、「母ロス」と呼ばれる苦悩や悲しみに襲われる人は少なくない。 『母ロス』(幻冬舎新書)の著書がある心理学者の榎本博明さんによれば、母ロスとは、心理学の専門用語で「対象喪失反応」、つまり愛着の対象を失うことに伴う心理反応のことだという。 「欧米では配偶者を失った場合に対象喪失反応が出やすいのに対し、日本では親を失った時に顕著です。欧米では配偶者同士の絆が強いのに対し、日本では親子間の距離が近いため。また、父親より母親を亡くした時の喪失反応が強いのは、それだけ母子関係が強いからです」  一般的な母ロス反応として(1)心身の不調、(2)故人のことばかり考える、(3)故人の死にまつわる罪悪感、(4)敵意のある反応、(5)喪失前に果たしていた役割がうまく果たせなくなる、などがあるという。  今回、本誌ではAERAネットを通して、母親を亡くしている人を対象にアンケートを行った。29人から回答があり、「まだ母の死を受け入れられていない」と回答したのは、全体の約20%に当たる6人。そのうち、母の見送り方や治療法に「後悔」や「自責の念」があると答えた人が目立った。 ●冷静な対応ができない  都内の自営業の女性(44)もそんな一人。昨年10月に母をがんで亡くした。67歳だった。母は6年ほど前にがんを発症。その後は入退院を繰り返したが、亡くなる前日は自宅で家事をこなし、普段とあまり変わらない生活をしていた。それが明け方、急に具合が悪くなり、病院に搬送されその日の夜に亡くなった。最期は家族全員で母を見送ることができた。しかし今も終わらない後悔が続いているという。女性は言う。 「何度も思い返すのは、最期の見送り方があれでよかったのかということです」  母と離れて暮らしていた女性は、母の危篤を聞くとすぐ病院に駆けつけた。すると、母は「のどが渇いた」と言って、しきりに水を飲みたがった。だが、水を飲むと誤嚥を起こす心配があるので飲ませないでほしいと看護師から言われ、小さな氷を口に運ぶことしかできなかった。だけど、水ぐらい好きなだけ飲ませてあげたかった。感謝の言葉を伝えることができなかったことにも悔いを残している。母に、「今までありがとう」の一言を言えなかった。母に最期であることを認識させたくないとの思いからだった。 「すべてをやりつくして母親を見送れた人は多くないと思います。私も、何とか前向きにいこうとは考えていますが、もう少し時間がかかりそうです」  先の榎本さんによれば、悲嘆や後悔の念などは、愛着の対象を失った人たちの多くが抱く対象喪失反応。そのダメージは、母への依存度が高ければ高いほど、強くなるという。 「母親が亡くなった場合、混乱して自己コントロールを失って冷静な対応ができなくなり、攻撃的な衝動が表れます。それが医師や看護師などの病院関係者に向くこともありますが、自分に向かった場合は、罪悪感や自責の念になります」(榎本さん) ●現実を直視すること  母ロスから立ち直るには、どうすればいいか。アンケートでは「母への手紙を毎日書いて客観的に自分の気持ちを知るようにした」「時間が解決してくれた」など、様々な意見があった。  都内の会社員の男性(56)は、12年前に母を80歳で亡くし、うつを発症したが、現実と向き合うことで母ロスから立ち直ることができたという。  人は必ず死ぬ──。頭ではわかってはいたが、母を亡くし心にぽっかり大きな穴が開いた。母の死から2、3カ月経ったころから物忘れが激しくなり、気分が晴れず、一日のうちで気分がコロコロ変わる気分変動が大きくなった。仕事にも支障が出るようになった。 「雨が降っていたなと思ったら日が差してくる。そんな感じでした」(男性)  症状がよくならず、精神科に入院。入院中、投薬を中心とする治療がなされたが、同じ入院患者や友人らに励まされる中で、現実を見つめ直すことができた。人は遅かれ早かれ必ず死ぬと心から思えるようになったという。積極的に治療に取り組み、母の死を受け入れることができるようになり、半年で退院できた。今は、母親のいない生活を普通に受け止めている。男性はこう振り返る。 「僕がこの状態でいても母は決して喜ばないと思ったんです」  榎本さんは、日本人の場合、愛着の対象は死んでも心の中に生き続けるため、現実を直視し思い切り悲しむことが大切だと話す。 「配偶者や友だちなど、グチを聞いてくれる人がいることが大切。そうして心の中にしっかりとした居場所をつくり、心の中に生かし続けることが大事。逆に、対象喪失という事実から目を背け、一心不乱に仕事に没頭したりするばかりでは、いつまで経っても喪失というつらい現実を消化することはできません。これは母親に限らず、配偶者や子どもなど、大切な人を亡くした人も同じです」 ●自分の人生を生きる  終活コミュニティー「マザーリーフ」を主宰する、葬儀社「ライフネット東京」代表の小平知賀子さん(55)は、こう話す。 「何をしても100%はありません。見送り方にしても治療法にしても、その時はわからないなりに最善のことをしてきたと思います。そんな自分を容認してあげましょう」  実は小平さんも今年3月、母を急性白血病で亡くした。享年84。愛情の深い母だった。  今も夜寝る時など、母のことを思い出し、会いたいと思う。余命を告げたほうがよかったのか、抗がん剤をやめさせればよかったのか、病院を変えればよかったのか……。治療中のそんな後悔も押し寄せてくる。それでも少しずつ、悲しみや後悔と折り合いをつけていると話す。 「まずは、頑張れた自分をほめてあげてください。これからも自分の人生を生きていくのですから」(小平さん)(編集部・野村昌二) ※AERA 2017年7月10日号
がん
AERA 2017/07/09 16:00
一人前になるまで10年… 精神科医に必要なものとは?
一人前になるまで10年… 精神科医に必要なものとは?
精神科医データ(『AERA Premium 医者・医学部がわかる』より)/厚生労働省の「医師・歯科医師・薬剤師調査(2014年)」を参照しながら、診療科ごとの「医師数」「34歳以下の割合」「男女比」「開業医の割合」を算出した。「開業医の平均報酬額」は2015年に同省が公表した「医療経済実態調査」をもとに、「週の勤務時間」は労働政策研究・研修機構「勤務医の就労実態と意識に関する調査(2012年)」をもとに記載した(報酬額は一部経費を含む場合がある)  厚生労働省によれば、精神疾患により医療機関にかかっている患者数は近年、急増しているという。内訳はうつ病や統合失調症、認知症などさまざまだ。扱う疾患が幅広い「精神科医」とは、いったいどんな仕事の内容なのか。医学部志望生向けのアエラムック『AERA Premium 医者・医学部がわかる』では「診療科別仕事図鑑」として、現役の医師に「精神科医」の仕事内容を聞いた。 *  *  *  精神科は、脳と心を扱う診療科だ。患者が、生まれた時からどのような生活をしていて、何に困っているのか、それはどのような病気に当てはまるか、病気でなくても生活の支援が可能か―と、じっくり病気と生活の両面をアセスメントしていく。このため、とりわけ初診には時間を割き、1時間近くかかることも珍しくない。  扱う代表的な疾患は、うつ病や躁うつ病といった気分障害、不安障害、統合失調症、発達障害、認知症などの精神障害から、アルコールなどの依存症であるが、疾患以外にも、企業や学校でのメンタルヘルス支援も行う。  少しもどかしく思えるのは、脳の中で起こっていることを、客観的にきっちりと捉えにくいことだ。最近は、MRIや光トポグラフィーという機器を使って脳の活動を可視化する検査も導入されつつあるが、あくまでも補助手段で、診察には問診が何よりも重要になる。  東京女子医科大学精神科講師の稲田健医師は、 「まず、患者さんとの関係性をうまく作り出せるかどうかをとても大事にしており、そこが精神科医の腕の見せどころでもあります」  と語り、こう続ける。 「様々な患者さんが来院しますが、それを『◯◯病ですね』と決めつけるような人は精神科には不向きだと思います。いろいろな可能性を考えられる人のほうがいいですね」  例えば、うつ症状を示す病気はいろいろなものがあり、背景は患者ごとに異なる。  精神科医を目指す後期研修医は、病棟そして外来で経験を積み、10年ぐらいかけて一人前の精神科医として育っていく。  治療の柱は、薬物療法などの身体的な治療と、精神療法や認知行動療法などの心理社会的な治療を組み合わせて、患者の心を解きほぐしていく。また、静養に専念する、生活リズムを整えるなどの目的で、入院治療も行う。体と心の病気は切り離せないので、他科に入院している患者のもとに出向いて、心の面から治療を行うこともある。 ■すべての経験を診療に役立てられる 「かつては病気の治療を重視していましたが、今はその人を支える障害支援という視点に変わってきました」  入院患者が減る一方、外来患者は増加している。病を抱えても、その人らしい生活や仕事ができるように、精神保健福祉士、リハビリテーションスタッフ、さらには行政や企業関係者などとの関わりも不可欠なため、幅広い連携をしていくスキルも求められる。社会の動きに敏感であることも必要だ。  精神科医は増加傾向にあるが、そういう意味でも、増えているのは開業の医師である。急患がないわけではないが、勤務医でも特に長時間の拘束を強いられることはなく、女性も家庭と両立しやすい科目でもある。  稲田医師は、「精神科は、すべての経験を診療に役立てることができる。浪人、留年、挫折、失恋、離婚、さらにエリート一筋という経験も、年を取ることもプラスになります」と語る。心が晴れ、新しい自分に向き合えるようになった患者から、「ありがとう」と言われることが、何よりの喜びだ。(文/塚崎朝子) 稲田健 東京都出身。1997年北里大学医学部卒。同大で初期研修。2003年同大大学院修了。04年、米国ノースカロライナ大学留学。東京女子医科大学精神科助教を経て、09年から講師。専門は精神薬理学で、標準的で適正な薬物療法を目指している
大学入試朝日新聞出版の本
dot. 2017/05/02 16:00
「そもそも、女は外見でモテるわけではない」小谷野敦が「木嶋佳苗」を分析
「そもそも、女は外見でモテるわけではない」小谷野敦が「木嶋佳苗」を分析
朝日新聞の藤田絢子記者に届けられた手紙の達筆な文字 (c)朝日新聞社  2009年に首都圏で起きた男性3人の連続不審死事件で、殺人などの罪に問われた木嶋(現姓・土井)佳苗被告(42)の死刑判決が確定することとなった。「平成の毒婦」と呼ばれた木嶋被告。彼女は一体何者だったのか。  4月14日午後3時半。最高裁第2小法廷で上告棄却の判決が出された。その20分後。東京拘置所の面会室に、春の装いに身を包んだ木嶋被告が姿を現した。 「どうも」  桜色のシャツに白いパンツ。わずかに微笑んで見せると、ボブカットの頭をつぅっとさげた。  面会の相手は、2012年の一審の公判から足かけ6年にわたり、手紙と面会で交流を続ける朝日新聞の藤田絢子記者だ。  判決の内容を聞いても木嶋被告の表情は変わらない。いつものとおり、落ち着いた口調で答えた。 「一審後から覚悟していたことですから。驚きはありません」  そして、こうも答えた。 「死刑は怖くない」  1年ほど前から死刑確定後の生活を見据え、備えてきたからだという。死刑確定後は、面会や手紙の相手が限られるため、養子縁組によって親族を増やした。  20年来の付き合いがある女性に養母になってもらい、養父は前夫だ。支援者だったこの男性と、15年3月に拘置所で結婚した。だが、昨年、彼が事故で入院して木嶋被告の支援ができなくなったために離婚し、木嶋被告は別の男性と再婚。養父母の子や孫を含めると、親族は10人以上だ。  木嶋被告は、判決の前日発売の週刊誌に手記を寄せ、「再審請求はしない」「刑の早期執行を求める」とつづっていた。その理由は、「私の死を誰よりも強く望んでいる母を思うと、今生の別れを引き延ばすべきではない」。  だが判決が出たこの日、早期執行を求めることには、親族らが反対していると藤田記者に明かした。 「生きることを望む人ができたことはありがたいと思う」(木嶋被告)  あらためて裁判をふり返ってみよう。  12年1月にさいたま地裁でスタートした一審。  父親は弁護士で母親はピアノ講師、自身は大学院生などという設定で、出会い系や婚活サイトで知り合った男性らと肉体関係を持ち、1億を優に超えるカネを貢がせた木嶋被告。関係した6人の男性が死亡し、そのうちの3人は練炭による不審死だった。木嶋被告は、彼らから「頂いた」お金で、高層マンションの最上階で暮らし、ワインレッドのベンツを運転。高級住宅地にある料理学校「ル・コルドン・ブルー」に通っていた。  派手な生活ぶりやセックス観、男性観が赤裸々に明かされる「100日裁判」は、木嶋被告の服装から表情まで連日メディアに報道され、傍聴券を求める人びとで溢れかえった。  精神科医の香山リカさんも3回の傍聴をふり返る。 「傍聴前は、木嶋被告を精神医学的な病理を抱えた人だと思っていたけれど、その印象が私の中で崩れていったのが印象的でした」  感情的に問い詰める男性検事に対し、木嶋被告は、よく通る声でよどみなく理路整然と返す。 「私でも会話の間に、『あー』とか『えー』と言葉をつなげてしまいますが、彼女の場合はまったくそれがない。法廷ファッションショーと言われたように、午前と午後で服装を替えた。折り目のついたハンカチを手に持つ姿に象徴されるように、清潔で神経が行き届いた服装。彼女の手紙を見て誰もが驚くのは、達筆な文字。きちんと信用にたる女性だという完璧なイメージで武装して生きてきたのでしょう」(香山さん)  作家の岩井志麻子さんは、著書『「魔性の女」に美女はいない』で、かならずしも美女ではないが男を狂わせる女のひとりとして木嶋被告を挙げた。 「1億を優に超える金額を数多くの男性から『頂いた』と答えていますが、成功より失敗例のほうがはるかに多かったはず」  その中で彼女は、成功例だけを抜き出して、「セレブ」としての自分を演じてきた。岩井さんはそんな木嶋被告を「虚構の中に生きる女」だと分析する。  それは拘置所の中でも、同じかもしれない。ブログ「木嶋佳苗の拘置所日記」で公開する内容や、週刊誌への手記では、東京拘置所を「小菅ヒルズ」「ヒルズ」と呼ぶ。ヒルズの日常には、長身イケメンの「王子」や富裕層らしきセレブな夫婦や拘置所内で結婚した夫が登場。彼らは、熱心に手紙や面会で木嶋被告を励まし、シルクの靴下やブランド品などを差し入れする支援者として紹介されている。  フェンディのカーディガン、クリスチャン・ディオールの下着、エルメスの手袋。華やかなブランド名が日記の中で飛び交う。 「一般的に勾留されている被告の生活、つまり現実とは違う空間で呼吸をして、生きている印象です」(岩井さん)  なぜ良きにつけあしきにつけ、木嶋被告の周りに人が絶えず、金銭的な支援も途絶えないのか。作家で比較文学者の小谷野敦さんは、こう解説する。 「木嶋被告が15年に出した自伝的小説、『礼讃』を読みました。彼女の文章からは、通俗的な教養がにじむ。あくまで事件とは切り離した評価ですが、あれほどの分量を書ける人はなかなかいないのは確かです」  木嶋被告の周りには、男性の影が絶えない。 「そもそも、女は外見でモテるわけではない。性的な営みに長(た)けている、言葉に長けている、教養もある」(小谷野さん)  それで十分なのだという。 「平成の毒婦」「婚活詐欺女」「練炭女」……。木嶋佳苗とは何者だったのか。  木嶋被告が事件を起こした00年代後半は、男性を手玉に取って自分のステータスを上げる生き方はやや古く、女性が自分で人生を切り拓く時代。木嶋被告は、男女平等を目指す社会で、あえて女であることを強調した時代錯誤的な生き方をした、と香山さんは見る。 「ただ、仕事を持ってがんばってきても、男性社会でくじけた女性も多かった。犯罪は許されることではないことが前提ですが、女を最大限に利用したほうが『正解では?』という逆説的なメッセージを送った存在。それが、木嶋佳苗だったのかもしれません」  木嶋被告から「なぜ私を取材しないの」とブログで関心を寄せられたジャーナリストの青木理さんは距離を置く。 「僕自身、木嶋被告にあまり関心がありません。ただ、冤罪を訴えながら『早期執行を望む』などと死刑制度のありようにも影響しかねない文章を公にするのは、最後まで軽率な人物という印象です」  判決が出た当日も木嶋被告は、「捜査機関や報道機関の情報で遺族は私に殺されたと思っている」「遺族の方だけにはきちんと説明したい」と、自身の「正義」を主張している。この木嶋被告の一連のメッセージを遺族は複雑な思いで見つめているに違いない。 ※週刊朝日  2017年4月28日号
週刊朝日 2017/04/20 11:30
認知症は予備群も入れると1000万人時代に! 認知症の常識を変える「本人の力」とは?
認知症は予備群も入れると1000万人時代に! 認知症の常識を変える「本人の力」とは?
認知症の有病率。出典・2012年度厚生労働省研究班(代表研究者・朝田隆筑波大学教授)調査研究から 『ルポ 希望の人びと ここまできた認知症の当事者発信』(朝日選書955)/生井久美子著/朝日新聞出版※Amazonで購入  認知症はつい10年前まで「痴呆」と呼ばれ、何もわからなくなる、なったら人生の終わりだ、徘徊で大変だ……といわれてきた。だが近年、本人が思いを語り始め、日本で初めて当事者団体ができ、安倍首相に政策を提言。23年前「痴呆病棟」で取材を始めた朝日新聞記者が、当事者の変化と最先端の「いま」を、『ルポ 希望の人びと ここまできた認知症の当事者発信』で伝えている。著者である生井久美子(いくいくみこ)さんにご寄稿いただいた。 *  *  *  認知症は予備群(MCI)も入れると、2012年当時で860万人をこえ(厚生労働省研究班推計)、同研究班代表の朝田隆さん(現・筑波大学名誉教授)は、「2017年1月時点ですでに1000万人をこえた」と予想している。認知症になる人の割合(有病率)は、85~90歳では実に半数に迫る。夫婦とも平均寿命まで生きると、どちらかが認知症になる計算だ。私たちは認知症に向かって生きているといってもいい。「認知症だけにはなりたくない」とおそれる人も多いが、「当事者発信」の取材を続けて、不安は薄れ、希望を感じるようになった。認知症になってからも、新しくよりよく生きることができる。それは夢物語ではない、と実感したからだ。  認知症の「当事者発信」はどのように広がってきたのか。  認知症になってからも発信できるのは、「特別な人」と思われがちだが、そうではない。 最初は「人生は終わった」と落ち込み、茫然自失。自殺を思った人もいる。そんな「早期診断→早期絶望」した人が、同じ経験をもちながら前向きに生きる人と出会い、心底話し合い、立ち直ってゆく。つながり、発信を始める。 「支援者」はいっしょに歩む「パートナー」へ。医師や行政まで変え、認知症の常識を変える「当事者の力」!  39歳でアルツハイマーと診断された丹野智文さんは、「2年で寝たきり」の情報に落ち込んでいたとき、診断後5年たっても明るく元気な竹内裕(ゆたか)さん(恩人、タヌキのおっちゃん)に出会って、わくわくと生きる力を取り戻した。いま、仙台で認知症と診断された本人のための相談窓口「おれんじドア」を開くリーダーだ。  IT時代、「記憶は残らないけれど、記録は残せる」と、パソコンやiPadを駆使して工夫を発信するのは佐藤雅彦さん。名前は忘れても「フェイスブック」は、顔がわかるから大丈夫。どんどんつながって、丹野さんのフォロワーは1000人を越えた。  胸打たれたのは、本人が自分の中にある認知症への偏見に気づき、仲間と人間観を語り、「権利」「人権」に思い至る過程だ。そして、力をぬいて、もっと楽しく笑顔で生きよう! 自分たちの声で社会を変えよう! と意志をもち続けていることだ。「進化」し、「深化」する「希望の人びと」の人生の物語。そこにはどんな状況になっても、自分を投げださずに「いま」を生きる、いくつものヒントがあった。  認知症の当事者発信を追い続けて気づかされたのは、能力主義からの解放の大切さだ。何かが「できる」からよいのではなく、そこに「いる」「存在する」意味と価値の重さである。いま、問われているのは社会の、私たちの人間観だと痛感する。  本書は、04年、京都で開かれた国際アルツハイマー病協会国際会議に、海外の当事者たちが参加した前後から、10年後日本の当事者団体(JDWG)誕生の軌跡、最先端の「いま」を伝えるものだ。  ありのままの「その人」と出会っていただけたら、「認知症の常識」はきっと変わる。読者の内面と響き合う「本人の言葉」が、この本の中にきっとあるに違いない、と信じている。  春一番が吹いた2017年2月17日。東京・有楽町朝日ホールで、認知症本人の視点を重視した厚労省の研究事業(粟田主一代表)の報告会が開かれ、当事者団体の共同代表、藤田和子さん、佐藤さんも登壇。丹野さんたち仙台チームも発表した。そして、この日初めて勇気を出して舞台に立った人たちもいた。  一方で、この瞬間、心ならずも精神科病院に入院している認知症の人が5万人以上いる。当事者発信の取り組みには地域差もある。だが、いま「希望の人びと」のネットワークは、確実に広がっている。(朝日新聞記者・生井久美子)
シニア朝日新聞出版の本認知症読書
dot. 2017/02/28 07:00
25歳でアルコール依存… 作家・月乃光司さんが語る「生きづらさ」
25歳でアルコール依存… 作家・月乃光司さんが語る「生きづらさ」
月乃光司(つきの・こうじ)/1965年生まれ。2014~16年、内閣府「アルコール健康障害対策関係者会議」委員。著書に『窓の外は青』(新潟日報事業社)など(撮影/編集部・小柳暁子)  アルコール依存、薬物依存などの依存症は、生活習慣などではなく、病気だ。個人の意志や心がけなどで対応できるものではなく、治療が必要なもの。近年、医療現場ではさまざまな試みが行われている。AERA 2017年1月30日号では、依存症治療の最前線を大特集。過去に、アルコール依存症におちいり、自殺未遂までしてしまった作家の月乃光司氏に、自身の体験を踏まえ、アルコール依存症について語っていただいた。 *  *  *  25歳の時、大量の酒と精神安定剤、睡眠薬を同時に飲んで自殺未遂をして精神科に強制入院させられました。運び込まれた病院にたまたまアルコール病棟があったことは、不幸中の幸いでした。27歳で断酒してから、酒を飲まない人生を過ごしています。再発しないよう、週2回、自助グループにずっと行っています。自助グループに通うなかで、いろいろな方に会いますが、アルコール依存症者には、大きく分けて2タイプあると思います。ひとつは、営業マンの接待が典型ですが、長年ある一定量のアルコールを毎日摂取して依存症に至るタイプと、もうひとつは孤独から依存に至る「生きづらさ系」です。最近は後者が多いようです。 ●治療の基本は自己分析  若い人の間では、「クロスアディクション」が目立ちます。アルコールと摂食障害と薬物とか、アルコールと自傷とか、複数の依存を持っていることです。ひとくちに依存といっても、「生きることができる依存」と、「生きることができなくなる依存」があります。死にたくなったら、誰かのファンになればいいと助言しています。私もそれで、随分救われました。  自助グループの基本は自己分析、自分語りです。自己分析は治療のプログラムに必ず関わってきます。共通しているのは、自分の歴史の確認。病院では酒歴を書かされ、自助グループのミーティングではいろいろなテーマについて順番に語ったりする。常に自分の歴史を語ることで、自分がかつてどうであり、いまどうかということを繰り返し反復するわけです。  2002年から、「病気でどう苦しみ、そこからどう回復したか」を話し、その病気に関するパフォーマンスを行う「こわれ者の祭典」というイベントをやっています。現在まで、アルコール依存症、ノイローゼ、うつ、幻聴幻覚、過食症、引きこもり、脳性まひ、リストカット、自殺未遂、パニック障害などの当事者の方が出演しました。これは自助グループの方法論をイベント化したものです。自分を語ることが他者との共感につながり、それを下の世代にも伝える。自助グループの案内も配り、継続的につながれる居場所を見つけてほしいと思っています。  以前、新宿のロフトプラスワンで開催した際は、若いゴスロリの女の子たちがずらっと最前列に座っていました。最初に「病気だョ!全員集合~!」と片手をあげるんですが、あげているその腕がみんなリストカットの痕だらけだったりするんです。そんな女の子たちが、イベントの後の交流会で自己紹介をするとき、とても嬉しそうな顔をするんですね。それまでそんなふうに自分を語ったことがないですから。  孤立の原因、生きづらさの原因が、そこで共感の手段になる。依存症の治療で重要なのはその部分です。言い古された言葉ですが、依存症予防には「居場所」と「絆」が大事なんです。 ●素人判断は逆に危険  例えば肝臓が悪くγ-GTPの数値が悪いが、内科で治療を受けるとちょっとよくなり、するとまた飲酒して悪くなるということを繰り返す人がいます。本来ならそこで内科の医師がアルコール依存症と診断して専門の科に回すことができればいいんですが、なかなかそうはいかない。外科の患者でも飲酒運転で事故を起こすとか、飲酒で転倒を繰り返せば、原因がアルコール依存症である場合もあるでしょう。アルコール依存症という病気だとわかって、専門の病院か治療施設にかかれるかどうかは大きな問題です。  お酒に問題がある人が家族や身近にいたら、当事者は簡単には自覚できないものなので、家族や周りの人が専門家のところに相談に行ってほしいです。  家族や周りが本人を責めたり、あるいは世話を焼いたり面倒を見たりと、素人判断で対応すると、逆に飲酒を助長する可能性があります。イネーブラー(enabler、助力者)といいますが、アルコール依存症者が酒を飲むことを可能にさせる(enable)人になるケースがあります。自分で判断せず、地域の保健所や精神保健福祉センターに相談してみてほしいです。  飲んだ上での失敗などは、いまだに笑い話のように語られることが多いです。薬物依存のニュースが流れると「危ない薬を使わないでお酒を飲めばいいのに」という人がいますが、それは違います。お酒が安全なものという認識でしょうが、それは誤解です。アルコールは合法ですが、飲みすぎると危険なのだという意識はあったほうがいいんです。(談) (聞き手/編集部・小柳暁子) ※AERA 2017年1月30日号
病気
AERA 2017/01/28 16:00
「社交不安症」は働き盛りで発症するケースも!
「社交不安症」は働き盛りで発症するケースも!
人前に出るとあがってしまい、うまく話せない「社交不安症」(写真はイメージ)  人前に出ることへの不安や恐怖から、日常生活に支障をきたす社交不安症。薬物以外ではカウンセリングが治療の中心だ。2016年4月から認知行動療法が保険適用となり、保険診療が広がることが期待される。  人前に出るとあがってしまい、うまく話せない、または、話せないのではないかと不安になる──。これは、重要なプレゼンテーションの前日など、一時的には誰でも経験することだ。しかし、こうしたことが「毎日、半年以上続いている」、また「不安感で外出できず、日常生活に支障が出ている」などにあてはまると、社交不安症(SAD)の恐れがある。従来、社交(社会)不安障害と呼ばれており、いわゆる対人恐怖症、あがり症、赤面恐怖なども社交不安症に含まれる。  東京都在住の大学生・石野啓介さん(仮名・22歳)は小学生のころ、授業で教科書を読む際、極度に緊張してうまく読めない経験をした。その様子を笑われたことが、心の傷になっていた。高校生時代には、教師から「目つきがきつい」と言われ、「相手を不愉快にさせてはいけない」と考えて、人の目を見ることができなくなった。大学に入ると、教室でほかの学生に見られているなかで席を選ぶことすら苦痛になった。 「このままでは大学生活が続けられない」と思い詰めた石野さんは、インターネットで「認知行動療法」を見つけた。2年生が終わるころ、すでに通院していた自宅近くのクリニックに紹介状を書いてもらい、千葉大学病院を受診した。  同院認知行動療法センター長の清水栄司医師は、 「認知行動療法とは、不安や緊張の元になっている考え方(認知)や行動パターンに自ら気づき、どちらも修正することで、不安や緊張が大きくなりすぎないようにするという治療法です」  と説明する。認知行動療法は精神科や心療内科などで受けることができるが、今回保険適用となったのは、千葉大学病院が中心となり作成したマニュアルに沿って医師が実施する場合だ。同院では現在、臨床心理士などによる場合の保険診療化をめざし、自由診療でおこなっている。内容を見てみよう。  毎週1回(50分)合計16回の、医師と連携した臨床心理士らによるセッションが基本となる。まず、「変わったやつだと思われているに違いない」などの思い込み(自動思考)をはじめ、社交不安症にかかわる考え方や行動を書き出し、対人場面での現状のモデル図をつくる。同時に、人と会ったときにうつむくような、不安や緊張を隠すための行動(安全行動)も明らかにし、セッション中に顔を上げて話すなど、安全行動を修正するための練習をする。  こうしたセッション中の様子をビデオに撮り、ビデオに映った自分と、普段、思い込んでいた自分の姿の違いなどについて話す(ビデオフィードバック)。  さらに、不安になるもの以外に注意を向ける練習をする(注意トレーニング)。例えば、人の目を見ることが不安でも、うつむかずに、せめて相手の胸の名札やネクタイを見る、などだ。そして最終段階では、以上を総合した練習として、実際に知らない人に話しかけるなどする。コンビニに出かけ、支払い時に視線を上げて店員の名札や目を見たり、話しかけてみたりするのだ。 「今まで怖くてできなかったことを、おそるおそるでもやってみる。思っていたような最悪のことは起こらないことを体験するわけです。そんな体験の積み重ねが“気にすることはなかったんだ”との、治る力になっていきます」(清水医師)  セッションごとにホームワーク(宿題)として、練習したことを次回までに日常生活のなかで実践する。石野さんはとくにコンビニでのトレーニングで自信をつけ、人の目を見て話ができるようになった。  石野さんはサボらずに通院し、16回で治療を終えることができたが、16回終了後も不安や緊張がとれない場合は、セッションを追加する。人前での不安感が多少あっても行動できる状態が半年続くことが治癒の目安となる。この間、患者によってはそれまでの薬物療法を継続することもある。  石野さんは就職活動にも意欲的に取り組み、無事就職が決まったという。 「社交不安症は若い人に多い傾向がありますが、人前でのプレゼンなどの仕事上の失敗などから働き盛りに発症するケースもあります。認知行動療法は年齢に関係なく、今の自分の状態を変えたいという気持ちが少しでもあれば、効果的に取り組んでいただけます」(同)  認知行動療法は、不安は考え方や行動パターンの修正によりコントロールできる、との考え方に基づく。  同じ社交不安症に有効とされる治療法でも、「森田療法」はまったく逆の見方をする。すなわち、不安はコントロールできるものではないと考え、不安を抱えながら生きていくことのサポートを中心とする。森田療法は日本発祥の心理療法で、もともとは入院治療が基本だが、現在は外来が中心になっている。  飯田橋メンタルクリニック院長の三宅永医師は、 「森田療法の基本は、不安感はあって当然のものと考え、気になって仕方がない自分を“あるがままに”受け入れること。そのうえで、家事や仕事、学業、趣味など、“自分のなすべきことをなす”、つまり行動をすることに注力していきます」  と解説する。気になることや嫌なことがあっても、とにかくその日にやるべきことをやる。これを繰り返していると、やるべきことのほうに意識が集中して、不安を意識しなくなる、このような状態をめざすのだ。 ※週刊朝日 2017年1月6‐13日号より抜粋
病気
週刊朝日 2017/01/06 07:00
ASKA追い詰めた“使命” とは…
ASKA追い詰めた“使命” とは…
ASKA容疑者の自宅に捜査に入る警視庁の捜査班 (c)朝日新聞社 「もう100%あり得ないですから」  悲しき歌のはじまりは、また薬物だった──。ASKA(本名・宮崎重明)容疑者が覚醒剤取締法違反(使用)の疑いで11月28日に逮捕された。その翌日、日本テレビ系列の情報番組「ミヤネ屋」で放送された司会の宮根誠司氏との電話口でのやりとりで、確信めいた口ぶりで疑惑を否定した。2014年、ASKA容疑者と同じ千葉県内の精神医療センターの閉鎖病棟にいた作家・翻訳家の石丸元章氏(51)は言う。 「自信満々の声と『逮捕へ』とのギャップに驚きましたが、あれは錯乱です。何だかわからない状態になるのも錯乱の一つ」  入院時の生活ぶりにその後を暗示する光景もあり、石丸氏によると、患者は療法士の指導で絵を描くなど指定の作業療法に取り組むが、ASKA容疑者はこう“宣言”したという。 「自分は歌を作り、歌うのが社会的使命で、生きがいです。復帰するときのために歌を作り続けたい」  並々ならぬ復帰と曲作りへの意欲に、当初は「それでは仕事と同じ」と難色を示した療法士も意向を尊重した。一方でASKA容疑者はこうも言っていた。 「治療は受けているが、依存症ではない。いつでもやめられる。妄想も幻聴もない。閉鎖病棟も、(仕事で)スタジオに缶詰め状態になるので慣れている」  症状は一般人にはわかりにくい。精神科医の岩波明氏によると、典型は悪口や監視カメラ、盗聴器が気になりだす被害妄想。「本人にとっては、意識が鮮明な状態でリアルに起こる。ASKAさんはもう正常な心理ではなく、ある意味、別世界の人になっているとみていい」  症状は統合失調症と似て、被害妄想が高じて自ら警察に通報するケースも珍しくない。薬物依存症は投薬などの治療で治る人もいるが「病気という認識に欠けている場合はなかなか治療が進まない」という。  逮捕の一報に、前出の石丸氏は向かい合わせで過ごした食事時間も思い出した。「病院食って薄味でまずくて、みんなで文句を言っていた。でもASKAさんは『全国ツアーで各地の最高のものを食べたけど、出されたから食べただけ。グルメではないし興味もないから。何も不満ないんだよね』と。仕事に真面目で、意外に楽しみが少ない人なのかもと思いました」  逮捕前日のブログにあるのはアルバムの話題。彼の使命は犠牲の上でしか果たせないのか。奇(く)しくもASKA容疑者の自宅に殺到した報道陣がベンツのエンブレムを無残にも壊したが、底に流れているものは同じなのかもしれない。 ※週刊朝日 2016年12月16日号
週刊朝日 2016/12/07 11:30
医師676人のリアル

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すべては命を救うため──。朝から翌日夕方まで、36時間の連続勤務もざらだった医師たち。2024年4月から「働き方改革」が始まり、原則、時間外・休日の労働時間は年間960時間に制限された。いま、医療現場で何が起こっているのか。医師×AIは最強の切り札になるのか。患者とのギャップは解消されるのか。医師676人に対して行ったアンケートから読み解きます。

あの日を忘れない

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どんな人にも「忘れられない1日」がある。それはどんな著名な芸能人でも変わらない。人との出会い、別れ、挫折、後悔、歓喜…AERA dot.だけに語ってくれた珠玉のエピソード。

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3月8日は国際女性デー。AERA dot. はこの日に合わせて女性を取り巻く現状や課題をレポート。読者とともに「自分らしい生き方、働き方、子育て」について考えます。

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