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【現代の肖像】精神科医・松本俊彦 「クスリをやった」と言える治療の場を
【現代の肖像】精神科医・松本俊彦 「クスリをやった」と言える治療の場を
薬物依存症の人が警察への「通報」に怯えず、安心して治療できる場が必要と説く。「社会通念」との格闘が続く(撮影/山本友来) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  大麻や覚醒剤を使用したとして何人もの著名人が逮捕されてきた。そのたびに噴出する批判とバッシング。クスリの依存症の人をたたき、厳罰に処しても、クスリをやめさせることはできない。必要なのは「やめ続けられる」道筋だ。松本俊彦は依存症の人が「クスリをやった」と言える場をつくりながら、治療に臨む。それは守秘義務と通報の間での闘いでもある。  芸能人が覚醒剤や麻薬を使って逮捕されると、多くのメディアは殺人犯並みにたたく。“薬物に溺れる者は快楽ばかり求めて生活が荒んで狂暴”といったイメージが流布される。    そうした先入観が、7月下旬、東京都小平市の国立精神・神経医療研究センター(NCNP)病院を訪ねて、こっぱみじんに打ち砕かれた。    平日の昼下がり、リハビリフロアに三々五々、薬物依存症の人たちが集まってきた。ネクタイを締めた男性、しゃれたパンツスーツの女性にジーンズ姿の若者……。外見はごく普通の人が、覚醒剤や大麻、あるいは処方薬、市販薬の乱用をやめ続けようと集団認知行動療法プログラム「スマープ(SMARPP)」に通ってくる。    スマープは、精神科医の松本俊彦(52)が手塩にかけて育んできた。週1回90分、ワークブックの「引き金と欲求」「強くなるより賢くなれ」などのテーマに沿って行われる。1クール24回、半年で修了すると賞状が贈られる。ミーティングが始まった。約30人の参加者それぞれが近況を話す。 「クスリへの渇望は強いけど、あと2日で保護観察終了なので頑張ります。外で警察が見張っているなと感じる勘ぐりは消えません」 「入院中です。覚醒剤の夢ばかり見ます。毎朝、ここに隠したはずだとベッドの下を捜してしまう。情けない……。まさか病院にはありませんよね」  笑いが起きる。そのあとだった。 「昨日、滑っちゃいました。落ち込んで、寝る前にちょっと」 「滑る(スリップ)」とは断薬中につい覚醒剤を使ってしまうことを指す。一瞬、わたしは体が強張った。「覚醒剤取締法違反」が脳裏をよぎる。  だが、誰もその人をとがめたり、嘆いたり、ましてや警察に告げたりはしない。滑らずにはいられない「痛苦」を一緒に受けとめている。切迫感のなかに不思議な安らぎが漂う。 スマープのプログラム終了後、看護師やソーシャルワーカー、支援者らを集めてミーティング。リラックスした雰囲気でスタッフをねぎらう一方、薬物依存症の参加者、一人ひとりへの目配りは細やか(撮影/山本友来) ■「やめられない」の告白は「助けてくれ」の意味  松本は薬物依存症との向き合い方を、こう語る。 「薬物依存症は、クスリの作用で脳の一部の働きが変化し、やめようと思ってもやめられない状態です。再発と寛解をくりかえす慢性疾患。だから制裁だけではだめ。事実、刑務所を出所した直後の再使用が圧倒的に多い。処罰だけでなく、回復、つまり『やめ続けられる』道筋があることを、当事者、家族、支援者、一般の方にも知ってほしい」  スマープに参加すれば回復が早まるのだろうか。 「ワークブックで治るほど単純ではない。テキストは治療継続の手がかり。重要なのは『つながり』です。当事者は差別や偏見にさらされ、孤独です。薬物依存の専門家は少なく、支援者との距離が遠い。そこをつなぐプログラム。まずは出会い。そのためには当事者が安心して『クスリをやりたい』『滑った』と言えて通える場が必要です」  クスリをやめるためにクスリを使ってもいい? と、戸惑っていると松本は言い添えた。 「犯罪の幇助ではありませんよ。ただ、薬物依存症の人が人前で『やりました』と言うのは、すごく勇気がいります。本当に使いたければ、黙って家でやる。なのにわざわざプログラムに足を運んで言うんです。これは、失敗したけどこのままではいけない、やり直したいと思っているからです。『やめられない』という告白は『助けてくれ』なんです。だから医療者は守秘義務に則って、その人を守らなくてはなりません」  こうした松本の姿勢は、処罰感情の強い世間の反感を買う。以前、出演したテレビ番組のサイトには「あの医者は犯罪者を擁護している。頭がおかしい」「薬物に手を出した奴は死刑にしたらいい」とクレームが寄せられた。それでも松本は「辱めと排除では解決できない。求められているのは科学的根拠のある対処」とまっすぐ前を見すえる。 「依存症の本質は快楽ではなく、むしろ苦痛です。虐待のトラウマで、死にたい苦しみを一時的に薬物で緩和する人。DVのつらい関係性に耐えようとクスリで脳を麻痺させて生きのびた結果、依存症に罹った女性もいる。研究者の実態調査では薬物依存症患者の約55%に統合失調症などの精神障害の合併が認められます。大半は、先に精神障害が発症し、後で薬物乱用が始まっている。病気に犯罪の烙印を押しても回復はしないのです」  松本の目線は、当事者に近い。  スマープは、薬物依存症者が回復から社会復帰を目ざす民間リハビリ施設、八王子ダルクともつながっている。八王子ダルク代表・加藤隆(52)は、毎週、スタッフの一員としてプログラムに参加し、体験を語る。当事者がダルクに関心を示せば、バーベキュー大会などのイベントに招いて接触を持つ。加藤は、松本の存在について、こう述べる。 「松本先生は、僕らが言いたくても言えないことを代弁してくれています。タレントが大麻に手を出して逮捕、保釈後、土下座して謝る。カメラに追い回され、友人や家族もバッシングされる。あんな光景には自分が責められているようなつらさを感じます。だけど僕らはそれを口にできない。声に出したら、ヤク中は黙ってろ、刑務所に行け、と言われかねない。そこで松本先生は声に出してくれる。それだけで安心できます」  松本もまた加藤に信頼を寄せている。 「薬物依存症の人は、他人に依存できず、クスリという物に依存します。人間関係が崩壊し、孤立する。もう一度、ダルクや自助グループ、あらゆる社会資源を使って他人との関係を結び直す。支援の受け皿は多いほどいい」と松本は言い切る。  ほんの10年前までスマープは松本が細々と実践する程度だったが、いまでは精神科医療機関42カ所、全国の精神保健福祉センター69カ所のうち40カ所が導入している。松本は、逆風をものともせず、サイエンスの旗を立てて進む。その力の源泉、マイノリティーへの「共感」を読み解く鍵は、ひりひりするような思春期に埋め込まれていた。 都内の自宅から東京都小平市のNCNPまで電車で通っている。通勤の流れと逆の車内は空いていて、座って大量のメールを読み、返信をする。オフィスに入ったら、もう臨戦態勢。後進の医師教育も忙しい(撮影/山本友来) ■じゃんけんで負けたため、依存症専門の病院へ  1980年代初頭、松本少年が通う神奈川県小田原市の公立中学では校内暴力の嵐が吹き荒れた。教室の窓ガラスや壁は、いつもどこかが壊され、トイレにはシンナーやたばこのにおいが充満する。生徒が教師を殴る事件が起き、警察官が暴れる生徒を羽交い締めにしてパトカーに押し込む。その荒れた中学で松本は生徒会の役員を務めた。  後年、当時の心境を次のように書き綴っている。 「私が嫌だったのは、教師と不良グループの生徒たちの乱闘騒ぎだった。立場上、私たちはそれを止めに入らなければならないが、たいてい、教師も生徒も極度な興奮状態にあり、しばしば双方の『流れ拳』を受けるはめになった。(略)ある時期から私は、学校で乱闘が始まったのを察知すると、さりげなくトイレの個室へと雲隠れするようにしていた」(「月刊みすず」2018年5月号)  松本は一刻も早く中学を卒業したかった。高校は地元の進学校に入り、1年浪人して国立の佐賀医科大学(現・佐賀大学医学部)に進んだ。ほとんど大学には行かず、本と映画と演劇の日々を送る。病棟実習が始まる5年次に教養のドイツ語の試験を受けたというから、授業に出なかったのは本当だろう。最後の2年間で猛勉強をして医師国家試験に合格。佐賀を離れ、神奈川の横浜市立大学医学部附属病院に研修医で入った。  医師になって5年目、大学医局の関連病院で、アルコールや薬物の依存症が専門の「せりがや病院(現・神奈川県立精神医療センター)」に医師の欠員が出た。医局が補充しなくてはならない。ところが、手のかかる依存症は不人気で、誰も応じず、「じゃんけん」で負けた松本が「1年だけ泣いてくれ」と上役に頼まれて赴任した。  依存症の最前線に立った松本は、「何だ、これは。またここ。この世界なの」と愕然とする。夜回りの教師が病院に連れてくる少年、少女は中学時代の不良とそっくりだった。ヤンキーのファッションも価値観も変わっていない。そのころは、戦後の第1次、暴力団が覚醒剤を資金源にした80年代の第2次に続く、第3次覚醒剤乱用期。静脈注射に加えて粉末を火で炙って煙を吸う「アブリ」が若年層に広まっていた。松本がふり返る。 「依存症患者にアルコールや薬物を拒ませる治療薬はありません。薬の処方以外に何ができるか、死に物狂いで考え、援助の引き出しを増やしました。海外に比べて薬物が蔓延していない日本で10代からそれに手を出すのはよほどの理由がある。どこにも居場所がなく、自分はこの世にいていいんだろうか、と悩む者どうしが出会ってシンナー、クスリで絆を深める。恋愛は互いのイニシャルを体に彫るような息苦しいものになるんです」  中学時代の嫌な記憶が、ブーメランのように医療的な問いをはらんでかえってきた。 シンポジウムでの語り口は軽妙だ。依存症への偏見・差別・排除をなくすためには、「薬物依存症対策基本法」のような理念法が必要と説く(撮影/山本友来) ■尿検査で陽性反応の場合、通報か守秘義務か  松本は、患者のカルテを精査して症例を分析し、特性を抽出して新たな知見を加えて論文をまとめた。その論文が、先達の精神科医、村上優(現・国立病院機構さいがた医療センター院長特任補佐)の目に留まる。74年に九州大学医学部を卒業した村上は、アルコールを中心とする依存症の治療を開拓してきた。村上は厚生労働省の委託研究班に松本を招き入れる。村上が回想する。 「思春期の患者は、融合と衝動の葛藤をはらんでいます。融合でベターッと仲間とくっつくかと思えば、衝動で自殺する。その特性を踏まえてどうするか。松本さんは探究心旺盛だった。僕らは、とにかく患者さんにいつでも戻っておいで、と関係を切らない。通っている間に本人に変わるきっかけをつかんでもらう。でも、僕らは少数派、珍しかったんだ。よそは閉鎖病棟に入れたり、大量の向精神薬でおとなしくさせたりしていたね」  松本の研究内容は英国の医学雑誌に掲載され、博士号、学位論文へと昇華した。松本は、せりがや病院から横浜市大医学部医局に戻り、さらにNCNPに移る。個人史的には神奈川の地方区から全国区へ順調にステップアップしたかにみえる。  だが、薬物依存症を犯罪とみなす社会通念は岩盤のように硬く、厚かった。「禁止薬物の依存症は犯罪だから医療の問題ではない」と主張する精神科医がいた。いや、いまでもかなりいる。  有名な都立の精神科病院では、新任院長が覚醒剤の尿検査で陽性反応が出た患者は全員警察に通報すると方針を掲げた。治療の守秘を重んじる依存症専門医は、これに反発し、全員退職したという。現場の判断は病気と犯罪の間で揺れ動く。  はたして病院にすがる薬物依存症患者を医師が警察に通報するのは妥当なのか、それとも誤りか。  覚醒剤に絞って考えてみよう。刑法134条は、医師、薬剤師、助産師らに正当な理由がない限り患者の秘密を漏らしてはならない、と守秘義務を課している。覚醒剤取締法には、医師の捜査機関への通報に関する規定はない。  一方、刑事訴訟法239条は、公務員が職務を通して犯罪があると思料するときは、告発しなければならない、と通報を義務づける。最高裁05年7月19日判決は、患者の尿から違法な薬物成分が検出された場合、医師が捜査機関に通報することは許容され、守秘義務に違反しない、と示した。  しかし松本は「守秘義務のほうが重い」と説く。 「患者さんの尿、検体の所有権は厳密には本人にある。調べるのは治療のため。通報に利用したら目的外使用でしょ。刑法の守秘義務のほうが手続き法である刑訴法の公務員の告発義務より重い。たとえ公務員医師でも、その人の本分は医療だから守秘義務が優先されます。医師は『白衣を着た捜査官』じゃない。海外の精神科医は、医師が通報するなんて、おまえの国は正気か、と驚きます」  世界の主流は刑罰より治療の優先だ。松本は臨床と研究で奮闘し、岩盤のような社会通念に挑んだ。事態が動くのは16年、再犯防止推進法の施行がきっかけだった。近年、元受刑者の再犯率が高まり、社会復帰が困難になっている。とくに覚醒剤の乱用は、初犯で約6割、50歳以上では84%の再犯率といわれる。同じ人が何度も捕まり、刑務所に入るけれど回復せず、また捕まる。  同法は「薬物依存症の人への適切な保健医療や福祉サービスの支援」の閣議決定を義務づけた。18年には薬物犯罪の捜査に力を注いできた厚労省に「依存症対策推進室」が新設される。  そして今年3月、厚労省の啓発イベントで画期的なシーンが展開された。対談セッションのホスト役だった松本は、何の前触れもなく、16年に覚醒剤取締法違反で有罪判決を受けた元プロ野球選手の清原和博をゲストに迎えたのである。法を犯した人が国のイベントに登壇するのは前代未聞だった。清原は専門的治療を受け、断薬を続けている。松本は「(治療に至る過程で)つらい時期はありました?」と問いかけた。  清原は、ひと言ずつ噛みしめるように語りだす。 「そうですね。2週に1回、病院に通って、テキストを勉強し、薬物について勉強し、そうすることでどんどん自分はこうだったんだ、ああだったんだと理解できて、すごくよかったと思います」 「自分の体験なんですが、薬物というものは一時的にやめられても、やめ続けることは自分自身では難しいことだと思います。勇気を出してですね、専門の病院に行ってほしいなと思います」 ■清原和博がイベント登壇、いま苦しいと言える 「ご本人を支えているご家族や、友人にメッセージありますかね」と松本が聞くと、清原はやや緊張の色を浮かべ、視線を宙に這わせて、答えた。 「ほんとに自分、いま、いろんな人に支援していただいて、支えられています。身近な人に正直にものを言えることが、自分はいま、一番変わったことだと思います。薬物使っているときは、それがために嘘をつき、自分をどんどん追い詰めてしまい、ほとんど苦しみの日々でした。それが、近くにいる人の理解があれば、いま、自分が苦しいんだ、つらいんだと言える環境があります」  プロ野球のスーパースターは薬物で奈落の底に突き落とされ、新たな人生を見つけていた。  松本は「海外では回復した人は尊敬されます。(元米大統領の)オバマ、ブッシュは依存症の自助グループに行ったことを堂々と述べています」と対談を締めくくった。  冒頭で触れたNCNPの集団認知行動療法プログラム・スマープが大詰めにさしかかっていた。  参加者は内面を吐露し合い、次の1週間を乗り切るエネルギーを蓄える。ミーティングの合間に席を立って尿検査に向かう人たちがいた。大切な自己確認であろう。閉会が告げられ、それぞれの生活に戻っていく。その先に何が待つのか……。  松本はことあるごとに「薬物依存症から回復しやすい社会をつくろう」と呼びかける。  かつて「覚醒剤やめますか? それとも人間やめますか?」という啓蒙CMがテレビで頻繁に流された。これを真に受けてはいけなかった。人間はそれほど単純でも、愚かでもない。覚醒剤をすぐにやめられなくても、回復への坂道をのぼれる。たとえ3歩前進、2歩後退だったにしても、希望は「つながり」のなかにある。  (文中敬称略) ■まつもと・としひこ 1967年 神奈川県小田原市に生まれる。父は不動産業を営み、3人きょうだいの長男として育つ。   80年 公立中学に入学。激しい校内暴力の洗礼を受ける。たばこ、シンナー、乱闘が日常茶飯だった。   87年 公立進学校から、1浪後、佐賀医科大学(現・佐賀大学医学部)に入学。読書と映画にのめり込み、市民劇団でも活動する。医学生らしくない生活を送る。妻となる医学生と出会う。   93年 佐賀医科大を卒業し、横浜市立大学医学部附属病院の研修医に。   96年 神奈川県立精神医療センターの精神科救急に配属され、鍛えられる。その後、同センター「せりがや病院」に異動し、依存症治療の最前線に立つ。10代の薬物乱用に直面し、自身の思春期との運命的「再会」を感じる。 2000年 横浜市大医学部附属病院精神科に戻り、助手。   03年 横浜市大医学部精神医学教室医局長に。   04年 国立精神・神経センター(NCNP、現・国立精神・神経医療研究センター)精神保健研究所に移る。司法精神医学研究部専門医療・社会復帰研究室長に就く。   06年 米マトリックス研究所のモデルを参考に「スマープ(SMARPP:Seri gaya Methamphetamine Relapse Prevention Program)」開発。   07年 NCNP自殺総合対策推進センター・自殺実態分析室長。翌年、薬物依存研究部室長を併任。   11年 第17回日本犯罪学会学術奨励賞受賞。   15年 NCNP薬物依存研究部部長に就く。その後、NCNP病院・薬物依存症センターセンター長も務める。著書に『自傷・自殺する子どもたち』『アルコールとうつ・自殺』『薬物依存症』など。 ■山岡淳一郎 ノンフィクション作家。『神になりたかった男 徳田虎雄』(平凡社)、『田中角栄の資源戦争』(草思社文庫)、『原発と権力』(ちくま新書)他、著書多数。近著に『生きのびるマンション』(岩波新書)。 ※AERA 2019年9月9日号 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現代の肖像
AERA 2020/01/09 12:00
もはや「ゴッホという病」? キュレーターがあぶり出す天才の素顔とは
中村千晶 中村千晶
もはや「ゴッホという病」? キュレーターがあぶり出す天才の素顔とは
糸杉/うねるような独特のタッチ、厚塗りの絵の具の層は実物でしか体感できない。ゴッホは描き急ぐ性質で、絵の具が乾く前に塗り重ねていた。絵の具の混じり具合も見える。ゴッホ展は1月13日まで東京・上野の森美術館で開催、その後兵庫県立美術館へ巡回 (c)The Metropolitan Museum of Art.  東京・上野の森美術館で開催中の「ゴッホ展」が好調だ。初期から晩年までの作品を通して見えてくるのは、「孤高と狂気の天才」というイメージとは別の顔だ。キュレーターの林綾野さんとゴッホの画業と人生をたどった。 *  *  * 「どうやって短期間に、こんなにも進化できたのか!? と、今回の展示で改めて思いました」 『ゴッホ 旅とレシピ』(講談社)などの著書があるキュレーターの林綾野さん(44)は言う。フィンセント・ファン・ゴッホは27歳で絵を描きはじめ、37歳で亡くなるまでの10年間に油絵だけで約800点もの作品を残している。モネが70年の画家人生で成し遂げたことをゴッホは10年でやったともいえる。 「それができた理由は、とにかく描きまくったことでしょう。やり続けることで鍛えられ、それを積み重ね、自分を進化させていったのではないでしょうか」(林さん、以下同)  そんなゴッホの足跡を年代順に追ってみよう。「疲れ果てて」は農民を描いた初期の作品だ。 「たどたどしさもありますが、これこそがゴッホの原点です」  疲れて座り込む農民の表情は大きな手に隠れている。働く人特有のごつごつとした手、その隙間からわずかに見える口もとや頬のしわなど、この男性の人生を表現しようとしている。 「ゴッホは就職したものの解雇され、27歳で人生に挫折し、絵を描き始めます。そんな彼がまず目を向けたのは、働く人々の実直さや清らかさでした」  ゴッホは一時期、父と同じ牧師を目指していた。実際に伝道師補として赴任したこともあるが、極端なやり方を教会に非難され、結局その道はかなわなかった。そこで絵を通して農民や貧しい人々へまなざしを向けた。 「ゴッホは伝道師としての想いを、絵で実践しようとしていたのだと思います」  働く人への賛歌が結実したのが「ジャガイモを食べる人々」だ。注目すべきは構図と光の表現だ。画面の中心人物を後ろ姿で影にし、周囲をランプの光で浮かび上がらせることで画面を成立させている。 「ゴッホにとって非常に思い入れのある作品で、油絵も2点制作しています。本作はそれを基にゴッホが作ったリトグラフです。量産したら売れるだろうと考えていたのかもしれません」 「パイプと麦藁帽子の自画像」は34歳のころ、パリで描かれたもの。自画像には、画家のセルフプロデュースぶりを見る楽しみがあると林さんは言う。 「例えばゴーギャンは写真も自画像もかなり自意識過剰な感じがします。ルノワールは写真と自画像がよく似ており、ありのままの自分を描こうとしていたとわかる。そのなかでゴッホの自画像は百面相的です。ゴッホは生涯で40点ほどの自画像を残していますが、どれも常に実験的な手法を試しています」  ハーグ派の影響で色彩が暗かった時代と比べて、明るい色調も特徴だ。  肖像画もゴッホをひもとく上で興味深い。見たままを写すのではなく、その人のキャラクターを読み取り、描きこもうとしていた。「人の本質をつかむような肖像画を描きたい」という手紙からもその姿勢がうかがえる。  そして圧巻は大作「糸杉」だ。うねるような独特のタッチで描かれた木は自然の神秘を感じさせる。幾重にも塗られた絵の具は、間近で見ると彫刻のようだ。 「糸杉は“死の象徴”と言われることもあり『晩年のゴッホはこの木に魅入られてしまったのではないか』という見方をする人もいます。でも私はうねるようなフォルムやその生命力に惹かれて描いたのだと思います」  ゴッホには「狂気の人」というイメージもある。実際に精神科の療養施設に何度も入院し、自ら耳を切り落とす事件も起こした。だが彼の絵画は「精神が不安定だった」ゆえのものではないだろうと林さんは言う。 「ゴッホは描いていたときは平常心だったはずです。調子が悪い時には描いていないのです」 「薔薇」は亡くなる2カ月ほど前、精神科療養院に入院しているときに描かれた。緑のグラデーションで全体を調和させ、非常に高度な技で描かれている。  なぜゴッホの絵は人を惹きつけるのか。林さんはゴッホを追究しているうちにうつっぽく落ち込んでしまったと話す。 「人に認められず、顧みられることがなくても、ただただ真摯に創作に取り組んだ。その生き方をなぞると、心がいっぱいになってしまうのです」  それは「ゴッホという病」と呼べるものではないか。 「器用に生きられない、それがゴッホの本質です。自炊もできなければ経済感覚もない。世の中の基準に自分を合わせることができずに苦しんだ。だからこそ彼の絵画は、同じような経験をどこかに持つ我々の心に入ってくるのだと思います」  世の中の理想とされていることだけが“正”ではない。そう叫ぶようなゴッホの作品は、すべての人に生きる示唆を与えてくれている。実物からもらえる力をぜひ、体感してほしい。(フリーランス記者・中村千晶) ※AERA 2019年12月16日号
AERA 2019/12/15 16:00
12月号宗教学者・上智大学グリーフケア研究所所長 島薗 進Shimazono Susumu身につまされる「老い」の事例
12月号宗教学者・上智大学グリーフケア研究所所長 島薗 進Shimazono Susumu身につまされる「老い」の事例
精神科医がみた老いの不安・抑うつと成熟 (朝日選書)竹中 星郎 『精神科医がみた老いの不安・抑うつと成熟』竹中星郎著 朝日選書から12月10日に発売予定  本年九月に世を去った著者が、数年をかけてまとめた遺著である。著者は精神科医で、苦しむ高齢者に長く向き合って来た立場から、「老い」について、とくに「不安・抑うつ」について語っている。この主題にふさわしい著者であることは、本書の第1章「老年精神医学事始め」で書かれている、そのユニークな経歴からよくわかる。  老年精神医学という分野がヨーロッパ諸国で確立したのは1970年代で、日本でその分野の意義が認知されるようになったのは80年代の後半だ(日本老年精神医学会の発足は86年)。ところが著者は、すでに70年代末から老人医療・福祉の現場に関わり、老人の精神科医療の難しさについて経験を積んできた。認知症(ディメンティア)に関心をもって、79年から老人ホームと老人病院を併設する浴風会病院に勤務し、93年までそこで老人医療・福祉の現場に親しく接した。  輸入された老年精神医学を受け入れるときに、すでに一定の経験を踏まえ、著者なりの捉え方を培っていたことになる。精神科病院や総合病院の精神科で勤務するのとは異なり、老人の生活実態に即して医療や福祉に取り組む人たちとの協働の経験が長かった。おおかたの精神医学の専門家、とりわけ老年精神医学の専門家とは異なる視座を持ち得たのだ。  もう一つ、著者の経歴がユニークなのは、93年に浴風会病院を退職してからの歩みである。精神科病院に勤務し、管理職的な地位に就くことを潔しとしなかったのだ。それを著者は、「50歳以降は医療の第一線から退いて自分本位に生きようと思っていたことと」、医療保険の診療報酬に縛られた精神科病院の管理職になることを避けたかったからだと述べている(44-45ページ)。それだけではない。 もう一つの動機は、精神科病床をディメンティア患者に転じる施策が鮮明になったことである。私は10年余にわたってディメンティア患者が地域や家庭で暮らせるよう医療に取り組んできたが、現場の取り組みが何も反映されないことで無力感に襲われた。精神科病院には「生活」はない。ケアのノウハウもない。身体疾患への保証もない。(45ページ)  本書の基底に日本の精神科医療に対する鋭い批判と、生活の場でのケアを重んじる新しい医療への展望があることが読み取れる。 「52歳で第一線を退い」たというのは、近代以前の日本仏教の「聖(ひじり)」「隠者」を思わせる。「あとがき」では、「各種の学会、研究会も辞め引きこもりだった」、「八ヶ岳に山小屋を建てて、週の前半は東京で、後半は山の暮らしを楽しむ生活になった。山歩きである」という。しかし、その20年間に実は、「地域で暮らしている高齢者や精神障碍者へのかかわりが中心になった」ともいう。「一人ひとりが違った。体系化できることではなく、テーマは広がっていった」。  それを反映して、本書には「老い」についての独自の省察がふんだんに盛り込まれることになった。認知症やせん妄をめぐる老年精神医学の専門的な課題に関するわかりやすい解説も大いに助けになる。また、サルトルの晩年を見守り、看取り、自らの老年についても積極的に語ったシモーヌ・ド・ボーヴォワール、ナチスの強制収容所での自らの体験をも踏まえた著作を残し、1978年に66歳で自殺したジャン・アメリーの『老化論』、国文学者で106歳まで生き、「長寿の秘訣は恋愛」などと放言し自由奔放に生きた物集高量(もずめ たかかず)のことなど、興味深い逸話が諸所に埋め込まれている。  だが、ここでは、老いの「不安・抑うつ」にいくらかなりと覚えのある私としては、身につまされる事例をひこう。第5章「隠喩としての『認知症』」の4「『ごみ屋敷』は個性的である」という節からである。 「ごみ屋敷」の主の多くは認知症ではない。著者が出会った75歳の老人は大腿骨骨折で入院し認知症と診断され、役所は妻の同意を得て特養入所を手配した。 「お宅の庭はごみの山と聞いているが」と話を向けると、「あれはごみではない。直せば使える」とさらりと受け流した。ここはよいところだと言って淡々と特養の生活に適応していた。(179ページ)  十分な生活能力をもち、彼を認知症というのは難しいとし、彼にとって「特養は安全な場所だった」と著者はいう。このように老人の生活実態と「不安・抑うつ」に即して臨機応変に対応していくこと、専門知を超えたそうした知恵こそが重要なのだと著者は述べている。そのような知恵を大切にしつつ老い、老いを深く省察しつつ死を迎えた著者の姿が浮かぶように感じる書物である。
最初の読者から 2019/12/02 11:30
「包丁を持ち出して脅してしまった」攻撃性へ転じる高齢者に何が? 精神科医の答えは?
大石賢吾 大石賢吾
「包丁を持ち出して脅してしまった」攻撃性へ転じる高齢者に何が? 精神科医の答えは?
千葉大学病院・精神神経科特任助教の大石賢吾医師が、認知症、発達障害に関するあなたの悩みにおこたえします! あらゆる人間関係、組織のなかで、相談者や家族の身に起きている事態をお聞かせください。採用されたご相談は本連載で紹介します。 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  高齢になると、進行性のもの忘れに加えて、つじつまの合わない会話やイライラの存在もうかがわれ、ときに攻撃性へ転じることもあります。これは認知症の症状なのでしょうか? 千葉大学病院精神神経科特任助教の大石賢吾医師が相談に答えます。 *  *  * 【70代女性Aさんからの相談】一緒に暮らしている夫のことでご相談です。以前から何かと口うるさいタイプだったのですが、ここのところだんだんと、もの忘れが目立つようになってきて、話のつじつまが合わないことも出てきました。事実ではないことに文句を言うこともあって、訂正しようとしてもこちらの話は聞き入れてくれず、怒ると手をつけられません。先日は、そばにあった湯飲みを振り上げて声を荒らげることがありました。電話で子どもに相談したら「認知症かもしれないから病院を受診してみたら」と勧められました。認知症の症状なのでしょうか? *  *  *  二人でお暮らしでしょうか。同居する旦那さまの状態が不安定とのこと。事実と異なることで口論になってしまうといったご負担もある一方で、やはり旦那さまのことをご心配されるご心労が一番かと思います。なかなか思いどおりにならず、自分の時間も思うように取れない中で、献身的に支えようとされていることを思うと素直に敬意を感じます。  さて、ご相談ですが、旦那さまについての情報をまとめてみたいと思います。おそらく高齢者に該当する男性で、進行性のもの忘れに加えて、つじつまの合わない会話やイライラの存在もうかがわれ、ときに攻撃性へ転じている可能性があるように思われます。  ほかのご相談と同じように、これらの情報だけでは認知症かどうかは判断できません。しかし、特徴としては認知症として矛盾するものではなく、実際の診療でも似たケースも経験しますので、ぜひ一度、受診してご相談されることをお勧めします。  これまで本コラムでは、お寄せいただいた相談に沿うかたちで、第2回(2019年4月4日公開)のレビー小体型認知症や第12回(2019年9月19日公開)の前頭側頭型認知症といった種類の認知症について特徴的な症状をご紹介してきたものの、認知症の種類を限定しないかたちでは、第7回(2019年6月20日公開)の被害妄想のみとなっていました。  医療が届かずに困っている人に必要な医療につながってもらうには、まず認知症の一般的な症状や受診の有用性を取り上げておくべきだったと反省しています。よって今回は、詳細にとはできませんが、上記について少しご紹介しながら医療につながることの意義について考えてみたいと思います。  まず認知症の症状を整理する場合、一つの見方として(1)中核症状と(2)周辺症状というように分けられることがあります。(1)中核症状とは、脳萎縮などの変化によって直接的に引き起こされる機能的な障害を指します。代表的な例としては、話すことにたどたどしさがみられるようになったり、記憶力や理解力の低下などが挙げられます(詳細は割愛させていただきますが、インターネットに見やすくまとめられていました。厚労省は情報量が多そうでしたのでこちらを。参考引用1)。  一方、(2)周辺症状は、ベースとして中核症状のような障害が存在する人に、生活環境での出来事が影響することで間接的に引き起こされる症状を表します。専門的にはBPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)とも呼ばれます。BPSDが指す症状は実に幅広く、一人歩きや拒絶、興奮、暴言・暴力といった行動上の症状に加えて、不安やうつ状態、幻覚・妄想といった精神的な症状が含まれます(同じく参考まで。引用2)。  いずれの症状も、本人およびご家族など周囲の支援者にとって不安を与えるきっかけとなりうる点で共通しますが、ご家族が困り果てて何とか受診に至るようなケースで、受診のきっかけとなるのは、BPSDであることが多いように思います。  医療としては、症状の程度によって入院やお薬による治療が必要になる可能性もありますが、すべてのBPSDにそのような対応が必要かというと必ずしもそうではありません。実際、症状が軽微な状態から介入することで、お薬を使わない治療が有効であるとの報告もあります(引用3)。  学会の最新テキスト(引用4)を見てみると、お薬を使わない治療法の例として「記憶の訓練」や「音楽療法」「運動療法」「動物介在療法」といったものが挙げられています。「え?音楽とか運動でいいの?」と思われるかもしれませんが、もちろん専門的な知見に基づいた治療法なので、実施には医師の指導が必要なものになります。  このように、お薬を使わないBPSDの治療効果が論じられている一方で、症状が重くなってしまうとご本人の尊厳を大きく損なってしまうおそれもあります。介入が遅れて状態が悪くなってしまうと、周囲に及ぼしうる負担から支援者との関係性を損なってしまったり、場合によっては自身や周囲に危害を与えるような事件に発展することもあります。  私が実際に診療にあたったケースでも、BPSDによって「ご家族の顔面に物を投げつけてけがをさせてしまった」「包丁を持ち出して脅かしてしまった」ということがありました。このような状態にまで至ってしまうと、医療だけでは対応しきれず、警察などの介入を要するケースも経験します。  重要なことは、やはり早期発見・早期介入であり、軽症であればお薬を使わない治療でBPSDの改善を期待できる可能性もあるということだと思います。では、本人や家族にとって負担になりうるBPSDなのに、受診が遅れてしまうケースがあるのはなぜでしょうか。  私がご家族に聞いた経験では、「普段どおりのときもあったので大丈夫と思ってしまった」「心配はしたけど受診まで気持ちが至らなかった」「受診させようとしたけど本人が嫌がった」という答えや、そもそも「認知症と思わなかった」という答えもいただいたことがあります。  普段から一緒に生活をしているご家族にとって徐々に変化していくような認知症の症状には気づきにくいのかもしれませんね。もし気づいたとしても、ご家族の健康を願う思いが空回り「まだ大丈夫でしょ」と見て見ぬふりをしたくなる心情も理解できます。このような変化を見逃さないため、ときおり普段は離れて暮らしている家族や友人などに会う機会を作って、意見を求めるのも一つの手段です。  また、もしかすると家族が受診を勧めても、「自分は病気ではない」などの思いから聞き入れてくれないこともあると思います。実際、必ずうまくいくという方法がなく、どうにか外来にたどりついたご家族からも「受診させることが大変でした」とよくお話しいただきます。  やはり、「本人といつもと違うことが起きていることを共有して、それが何かはわからないけど、何かの病気が潜んでいないか心配していることを伝えること」が基本になると思います。すんなりとはうまくいかず、根気強い対応を要することがほとんどかと思いますが、本人と共有したり、理解を得ることが難しい場合には、本人以外の家族でもいいので共有してみることが良案になることも経験します。  今回は、認知症の症状に中核症状だけでなく、BPSDとも呼ばれる周辺症状があること、早期発見・早期介入によってお薬を使わない治療で対応できる可能性があることをご紹介しました。  Aさんの旦那さまが認知症であるのかどうか判断することはかないません。しかし、もしそうであれば、適切な医療が旦那さまだけでなくAさんの健康・生活の向上に貢献できるものと思います。もしそうでなくとも、医療につながることで、生活における困難さをやわげる何らかの手段を見いだすことができるかもしれません。  確かに「認知症自体の治療じゃないんでしょ」と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、BPSDへの適切な対処は本人や支援者にとって非常に大切なものです。そして、それは可能な限り早期からの介入が重要になります。AさんやAさんと似た境遇で悩まれている読者にとって、本コラムが受診を検討する際の一助になればうれしく思います。 【引用】 1.公益財団法人長寿科学振興財団ホームページ  2.公益財団法人長寿科学振興財団ホームページ 3.de Oliveira AMら。Nonpharmacological Interventions to Reduce Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia: A Systematic Review. Biomed Res Int. 2015;2015:218980. doi: 10.1155/2015/218980. 4.日本精神神経学会認知症委員会編『日本精神神経学会 認知症診療医テキスト』新興医学出版社(第1版)
病気病院認知症
dot. 2019/11/07 07:00
「まるでドキュメント」「ほぼワンテイク」 笑福亭鶴瓶、綾野剛らが語る精神科病棟での撮影秘話
「まるでドキュメント」「ほぼワンテイク」 笑福亭鶴瓶、綾野剛らが語る精神科病棟での撮影秘話
綾野剛(あやの・ごう、右):1982年、岐阜県生まれ。出演作に「そこのみにて光輝く」(2014)、「新宿スワン」(15、17)など。「楽園」が公開中/笑福亭鶴瓶(しょうふくてい・つるべ、中央):1951年、大阪府生まれ。出演作に「ディア・ドクター」(2009)、「おとうと」(10)、「ふしぎな岬の物語」(14)など/小松菜奈(こまつ・なな、左)/1996年、東京都生まれ。出演作に「渇き。」(2014)、「恋は雨上がりのように」(18)、「さよならくちびる」(19)など(撮影/岡田晃奈) 「閉鎖病棟――それぞれの朝――」(平山秀幸監督・脚本)は11月1日から全国公開される (c)2019「閉鎖病棟」製作委員会  帚木蓬生のベストセラー小説を映画化した「閉鎖病棟─それぞれの朝─」が公開される。企画の立ち上がりから11年越しでの実現。メインキャストの3人が語った。AERA 2019年10月28日号に掲載された記事を紹介する。 *  *  *  精神科医で作家の帚木蓬生のベストセラー小説『閉鎖病棟』が、「愛を乞うひと」「エヴェレスト 神々の山嶺」の平山秀幸監督(69)により映画化された。長野県の精神科病院を舞台に、過去を背負った入院患者たちの人間模様を描く。本作が「ディア・ドクター」以来10年ぶりの主演作となる笑福亭鶴瓶(67)が、元死刑囚の梶木秀丸を演じる。 笑福亭鶴瓶(以下、鶴瓶):僕もいろいろなドラマや映画に出させてもらいましたが、初めてですね。完成した映画を観ても、自分じゃないような感じ。監督がどうしても痩せてほしいと言うので体重を7キロ落として現場に入りました。毎朝真っ裸で体重計に乗って。 綾野剛(以下、綾野):僕も体重計には真っ裸で乗りますよ(笑)。  綾野剛(37)が演じるのは、幻聴に苦しむ元サラリーマン、塚本中弥(チュウさん)だ。 綾野:病棟で起きていることやそこで感じられることを繊細にキャッチして、それをチュウさんを通して放出しているという感覚でした。わかった気でやる方が怖いので、嘘をつかないということだけを大事にしました。  義父からの暴力が原因で入院する女子高生の島崎由紀を演じるのは小松菜奈(23)。入院以前と以後、さらにその後で雰囲気が変わる難しい役だ。 小松菜奈(以下、小松):今まではどちらかというとキラキラとした役が多かったので、こういうひとりの人間の人生を描くのはとてもパワーがいることでした。由紀の壮絶な人生を重く受け止めつつも、それでも前を向ける強さや魂が見えた。それを守りたい、由紀という強い心を持った女の子を出せたらいいなと思って闘っていました。  撮影は精神科の専門医療施設・小諸高原病院(長野県)で行われた。国立の精神科病棟で精神科病棟を舞台とした映画を撮影するのは、ドキュメンタリーを除いて本作が初めての試みとなる。 鶴瓶:「ディア・ドクター」の時も主演という意識はあまりなかったんです。役がどうというより、今回も映画「閉鎖病棟」の潤滑油になれたらな、と。平山組全体の雰囲気を引っ張っていけたらと思って病院の売店の人たちと仲良なったりもしました。 綾野:僕はロケ中は小諸高原病院で一番重度と言われている病棟に毎日行って、子どもたちと交流を深めました。 鶴瓶:むちゃ仲良なったね。ほんまの病院でやっていたから、どうしても重なってしまう。でもそうならないようにしました。  脇を固めるキャスト陣も、医師の高橋和也、看護師長の小林聡美、入院患者を演じる木野花、渋川清彦など芸達者ぞろいだ。個性的な俳優たちのアンサンブルで、画面には緊張感と調和が独特の空気感を生み出している。 鶴瓶:完成した映画を観て、みんなすごいなと。芝居を見ていて、客観的にいい映画だな、優しい映画やなと思いましたね。車いすでのアクションシーンでは、相手役の渋川さんがうまいこと動いてくれました。 綾野:症状が出たりするところでは、監督に「映画にスイッチを入れてほしい」と言われたので、「思いきりやります」と言って、チュウさんが持っているものやこれまで感じたことをそのまま放出しました。 鶴瓶:ほぼすべてワンテイクやったね。 綾野:監督に初めて会った時、「僕の現場ではアドリブは困る。テストでやったことを本番でもやってもらわないとスタッフも困るから」と言われたんですよ。その時に監督が何かに恐怖している感じを僕は感じて。監督は長い時間この作品と向き合ってきて、いざ撮るとなったときの恐怖心や孤独をとても感じて、そこが信頼できました。でも実際撮影が始まると、「じゃあ回すよ」って。あ、テストやらないんだと思って(笑)。現場で起こったことを撮っていく、僕たちのドキュメントを撮っていくという感じでした。 小松:最初は監督が思っている由紀と私が思っている由紀にずれがあるなと感じていたのですが、日々現場に臨むうちに徐々に同じになっていきました。でもそれを裏切りたい気持ちもあって。自分が思い描く由紀を表現したいと、日々葛藤していました。大声で叫ぶシーンがあるんですが、そのシーンは考えずに自然とすべてが出たという感じでした。それまで言葉にしていなかった部分や秘めている部分を出し、子どものように泣いていいんだなと思いました。  病院を出た後の3人がどうなっていくのか。余韻の残るラストシーンだ。 鶴瓶:どんな状況でも前に進んでいくという気持ちが出ていますね。最後、Kの主題歌(「光るソラ蒼く」)で救われましたね。優しさがすごくある、いい歌やなと思いました。 小松:私はもっと重い感じの作品になっていると思ったんですが、人びとが寄り添っていて、ひとりひとりの生命力が画面から伝わってきて。それぞれが背景に抱えているものは大きいけれど、その中でも葛藤しながら生きているというのがちゃんと出ていて、すごく考えさせられましたし、勇気をもらいました。 綾野:まさにみんな「それぞれの朝」を迎えているんだろうなと思います。目を覚ましてまた朝を迎えるという当たり前のことが、当たり前じゃない人たちがたくさんいる。彼らにとっては一日一日がすごく緊張することなので、朝が来て安心する人や、絶望する人もいる。それでも作品の中で全員がそれぞれ立ち上がるので、希望がありますね。 鶴瓶:みんなどん底まで落ちて、そこからちょっとずつあがっている。観た人に希望を持ってほしいというのはあります。立ち上がることで希望を持つということでしょうね。 (編集部・小柳暁子) ※AERA 2019年10月28日号
AERA 2019/10/28 17:00
父殺そうと机にナイフ忍ばせて…ひきこもり当事者の焦燥と絶望
野村昌二 野村昌二
父殺そうと机にナイフ忍ばせて…ひきこもり当事者の焦燥と絶望
ひきこもり状態にある人を、「甘えている」「怠け者」とラベリングすることはたやすい。周囲が持つ偏見が当事者をさらに生きづらくさせている(撮影/今村拓馬) 当事者・経験者の声(AERA 2019年8月26日号より)  多くの人が先入観を持っているように、ひきこもりは「甘え」で「怠け者」なのか。取材を進めて 見えてきたのは、絶望感や焦燥感、孤独感に苛まれる当事者の姿だ。彼らの心の声を聞いた。 *  *  *  この先の私の未来は明るいのだろうか。  都内の湊うさみんさん(30代)は、葛藤を胸に抱え一日を送る。8年近く自宅にひきこもっている。専門学校卒業後、小説家を目指したがうまくいかず、就職活動を始めたが100社以上落ちた。向精神薬を200錠以上飲み自殺を図ったが、未遂に終わった。自分は何をやってもダメだ──。自信をなくし、ひきこもり状態になった。  寝るのは深夜2時か3時、目を覚ますのは午後1時ごろ。起きていると嫌なことを考えてしまいがちなので、目が覚めてもしばらくは布団の中でごろごろすることが多い。昼食を取ると19時ごろまでパソコンでゲームをして過ごし、夕食後、再びゲームをする。疲れてきたらベッドに寝転び、図書館で借りてきた本を読む。週に2日ほどは、 精神科や図書館に足を運び、スーパーやコンビニに食料を買い出しに行く。  多くの人から見れば、楽をしているように見えるかもしれない。だが、湊さんの心の中で繰り返されるのは、自問自答だ。 「こんなことをしていていいのか」「もっと有意義なことをしなくては」「でも何をすればいいのか」。考えても答えは出ない。  自分を「怠けている」と思っている60代の両親とは冷戦状態にある。特に父親とは6年近くまともに口をきいていない。仕事も家族ともうまくいかず、この人生をすべて無にできる魔法があるとすれば、「自殺」しかない。死を選ぶか選ばないか──。葛藤し、毎日こう思う。 「生きていてつらいだけなら、未来なんていらない」  ひきこもりは、国の定義では「仕事などの社会参加を避けて家にいる状態が半年以上続くこと」をいう。従来、ひきこもりは若者の問題とされてきたが、全世代の問題とわかってきた。内閣府が今年3月に発表した調査結果で、40~64歳のひきこもりは推計61万3千人。ひきこもり当事者たちもまた8050問題の困難に直面している。  都内在住の50代の男性は、仕事がうまくいかず25歳の頃から本格的にひきこもっている。同居する母親(87)が亡くなった後が心配だ。母親が残してくれる財産があり経済面の心配はないが、生活面の懸念が大きい。  男性は学習面での発達障害も抱えていて、その特性から身の回りのことがほとんどできない。食事、洗濯、掃除。申し訳ないと思いながら、生活のほぼすべてを母親に頼っている。 「母はまだ何とか健康ですけど、いつ認知症などでガクッとくるかわからない。自分は入院の手続きもわからない。食事から身の回りの片づけまで、どう生活していけばいいかわかりません」  AERAが行ったひきこもり当事者と経験者へ向けてのアンケートでは、ひきこもり状態になった事情も現在の状態もさまざまな声が寄せられた(下)。ひきこもる状態と社会参画を繰り返す人もいて、「怠け者」「甘え」といった、社会が持ちがちな先入観とは種類の違う背景や苦しみを多くの当事者が抱えていることがわかる。  5月、川崎市で児童ら20人が、長年ひきこもっていたという男(当時51)に殺傷される事件が起きた。ワイドショーや週刊誌の一部報道などで、ひきこもりを「犯罪者予備軍」と紐づけかねない動きがあった。筑波大学教授で精神科医として30年近く当事者の問題に取り組んできた斎藤環さんは、「犯罪者予備軍という言葉はヘイトスピーチ」と断じた上でこう語る。 「ひきこもりという言葉が使われ始めて20年経っているが、明らかにひきこもりの人が関わった犯罪は数件しかない。ひきこもりの人もそうでない人も罪を犯すが、前者の犯罪は後者の犯罪に比べ、圧倒的に少ない。統計的にひきこもりと犯罪は関係ないといえます」  当事者や家族も、相次いで見解や声明を公表。NPO法人「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」(東京)も、ひきこもり状態にある人について「無関係な他者に危害を加えるような事態に至るケースは極めてまれだ」との声明を発表した。  だが、苦しみゆえの「心の闇」を、多くの当事者が抱えているのも事実だ。 「父(66)を殺したいと、ずっとどこかで思っています」  青森県に住む、ひきこもり当事者の下山洋雄(ひろお)さん(39)はこう打ち明けた。  小学6年の時に教師から受けた体罰が原因で不登校になり、ひきこもるようになった。苦しい気持ちをわかってほしかったが、父親は理解しようとしなかった。強く登校を促し、外に出そうと毎日のように3時間近く説得を続け、寝させてもらえない時もあった。勉強ができないと責めてたたいた。高校までは、いつか父親を殺そうと机の中にナイフを忍ばせていたという。  いま下山さんは、ひきこもりながらも、ひきこもり当事者や家族の相談を受けるボランティアを行っている。だが、そんな下山さんに対して父親は、部屋のドア越しにこう言う。 「金にならないボランティアをして、いつになったら働くんだ」  父親を刺し殺し、自分も死のうとも考える。心の底で絶望や焦燥に苛まれているのに、価値観を押し付けられ追い詰められる、やり場のない怒りがある。だが、決して実行には移さない理由をこう答えた。 「父を『親』と思うのをやめたからだと思います。こわもての人がドア越しに何か叫んでいる、と思うようになりました」  危機感をバネに、ひきこもり状態から抜け出した人もいる。  30歳から3年間、実家のマンションにひきこもっていた石和(いさわ)実さん(42)は、大学を出て25歳でIT系の会社に就職した。だが、人間関係がうまくいかず、ひきこもりに。絶望の中感じていたのが、「きっかけがあれば、父親を殺してしまうかもしれない」という恐怖だった。  当時は、まだ父親の年金や貯金で生活できていた。だが、いつか父から「家にはもう金がない、早く就職しろ」と責められたら、感情が爆発してコントロールできなくなるかもしれない。親を殺さないためには自分が死ぬしかない。しかし、自分が死んで家族を悲しませたくはない。 「じゃあどうするか。社会復帰してお金を稼がなければという結論に至ったのです」  ネットで仕事を探し、50社以上落ちたが最後の1社に採用され、ひきこもり状態から脱出した。会社に勤めながら、ひきこもっている人の役に立ちたいと考えるようになり、ひきこもり相談カウンセラーとして活動している。相手から礼を言われると、生きている価値を感じる。(編集部・野村昌二) ■当事者・経験者の声 虐待、いじめ、パワハラ、性暴力が原因でひきこもるようになった。自室・自宅から出ることはほぼなく、役所や精神科で相談しようとしたけれど、話が通じず相談にならなかった。女性のひきこもりのつらさが伝わっていないと感じる(42歳、女性、当事者)  幼少期における母親からの精神的虐待で今もひきこもっている。その気になれば遠方にも外出していけるが、外出するまでが大変で、その結果ふだんはめったに外出しない。どのように死を迎えるか、親とのコミュニケーション不全に困っている(57歳、男性、当事者)  家族とは何げない会話や日常のやり取りの話はするものの、父親はこちらの話したいことを聞く気がない。金銭面での支援、精神的な支援、カウンセリングがほしい。ひきこもりの中には、セクシュアルマイノリティーもいるということも知ってほしい(40歳、経験者)  就職や仕事のこと、経済的なことを、気楽に話せる知り合いや友人がいない。歯や眼、精神科など頼れるところがない。どこに行けばよいかカンが働かない。川崎の事件で「一人で死んでくれよ」のセリフは今も耳に残っていて消えることはない(48歳、女性、当事者)  ひきこもりだからといって、頭ごなしに甘えと言わないでください。差別をしないでください。一人の人として、見てください。支援にしても、ひきこもり当事者の意見に沿った支援のありかたを考えてください(46歳、男性、当事者) ※AERA 2019年8月26日号
AERA 2019/08/23 07:00
16年間ひきこもった息子が仕事に…「助けてほしい」限界間近の86歳母を救ったのは…?
16年間ひきこもった息子が仕事に…「助けてほしい」限界間近の86歳母を救ったのは…?
※写真はイメージ(撮影/植田真紗美) 親の声(AERA 2019年8月26日号より) 行政・福祉の相談窓口/家族会・当事者会情報(AERA 2019年8月26日号より)  中高年のひきこもり状態にある人の推計は61万3千人。若年層も合わせると、総数は100万人超とみられる。中高年の子と高齢の親が社会から孤立する「8050」問題は、特殊なケースではなくなった。当事者たちは何に苦しみ、何を思うのか。ノンフィクションライター・古川雅子氏がリポートする。 *  *  *  山形県米沢市の市営住宅に暮らす母親(86)は、ひきこもって16年になる息子(42)と暮らしている。79歳まで自分がバイトに出て倹約してきたことも、努めて明るく話す。 「今日の服は私が50代の時のもの。花柄で若い人の趣味みたいで、悪くないでしょ? 痩せてブカブカなのはみっともないから、詰めて縫い直して」  息子がひきこもっていることを人前では言わずにきた。 「周りに言っても、いいことは何もなかった。私が笑顔でいて、何とかしなくちゃと。息子のダメージになるような言葉は言わないと決めていました」(母親)  地元のハローワークに足を運んでは求人情報の用紙を持ち帰り、テーブルの上にそっと置いた。折をみて家計の現状を伝えた。「お金は空から降ってこないのよ」と、通帳の残高を見せたこともある。不機嫌になりがちな息子を刺激しないよう、言葉遣いには細心の注意を払う。  父親は7年前に他界。母親自身の年金と残りわずかな貯金が、二人にとっての命綱だ。  息子がひきこもったきっかけは、仕事での挫折だった。高校卒業後に県外で自衛隊の仕事に就いたが、心身ともにハードな職務で、一番親しい同僚が自殺したのを機に「辞めたい」と訴えるようになった。4年で退職して帰郷。2年間の静養後、地元の会社に再就職したが、作業着にアスベストが付着する職場環境や社長が乱暴な言葉を使うすさんだ毎日に嫌気がさし、辞めた。当時26歳だった。 「今で言う発達障害だった」という父親に似て、息子は人との関係がうまく結べない。なんとか精神科を受診させても、言葉足らず。医師が母に家での生活を事細かに聞いたことでへそを曲げ、二度と受診しなくなった。結局、はっきりした診断はつかなかった。  公的な窓口や診療所など、「ざっと20件は相談してきた」が、具体的な支援に結びつかず、孤軍奮闘を続けてきた。  生活費をどんなに切り詰めても、1カ月15万円の年金で、家賃や光熱費、息子の社会保険までを賄いきれない。定期預金100万円が「最後の砦」だが、それも尽きかけている。口座の残高は昨年からマイナスに転じ、間もなく定期預金からの借り入れ限度額に達する。 「親亡き後に息子がどうやったら生きていけるのか、ずっと考えてきました。2年ほど前から、資金的にも私の年齢的にも限界は近いと感じていて……」(母親)  今年3月、内閣府は、定職がなく半年以上閉じこもっている「ひきこもり状態」の中高年(40~64歳)が、全国に推計61万3千人いるとの調査結果を公表した。この数は、別調査の15~39歳の引きこもり数(推計約54万人)を上回る。「ひきこもり状態」にあり自活できない子を、親が世話する。だが、高齢化する親にも限界は近づき、さまざまな困難が表面化しつつある。親と子の年齢から「8050問題」と呼ばれている。 『親の「死体」と生きる若者たち』(青林堂)の著者で、40、50代のひきこもりの子と暮らす親たちが悩みを語り合う家族会「市民の会 エスポワール」を主宰する山田孝明さん(66)は、その構造をこう話す。 「老齢の親は自分なしで子どもが生きていける見通しが持てず悶々とする。一方で、ひきこもる子の側も、社会との接点を失い誰にも悩みを打ち明けられない孤立状態の中で親の老いに直面し、焦燥感を募らせています」  親に入院や介護が必要になれば、親子で共倒れになる可能性もある。「働けない子どものお金を考える会」を主宰する、ファイナンシャルプランナーの畠中雅子さんも言う。 「私の所に来る相談者は、8050を超えて『9060』の年齢に達しつつあります。親御さんが亡くなるか介護状態かで、ひきこもる60代本人のきょうだいからの相談も増えています」  切迫した状況の、冒頭の米沢市の親子に転機が訪れたのは今年6月。息子が16年ぶりに働き始めたのだ。市役所の冊子でひきこもりの人や発達障害を抱える人の事情に詳しいNPOの支援者を知った母親が、「とにかく助けてほしい」と電話を入れた。年配の男性支援者は何度も女性宅を訪れて徐々に息子と打ち解けていった。息子と2人で自宅近くの店でランチを食べた際、支援者はこう切り出した。 「地元の小さな会社が働ける人を探している。荷物を運んだり体力は使うが、黙々と一人で作業できる。就労は朝7時から正午までの5時間。練習のつもりで短時間から働いてみないか?」  これまで、息子はあらゆる支援者が仕事を勧めても、「正社員じゃないと」などとこだわりを捨てきれなかった。だが、自分の特性に合った仕事の内容だとわかり、「やってみる」。再スタートを切って2カ月以上が経過したが、今も継続して働いている。母親は祈るように言う。 「息子が社会とのつながりをまた持てればというのが私の悲願。このまま続けてほしい」 (ノンフィクションライター・古川雅子) ※AERA 2019年8月26日号より抜粋
AERA 2019/08/20 11:30
東大卒ママが話す。夫と「子どもをつくろう」と話して変えた私の服用薬
杉山奈津子 杉山奈津子
東大卒ママが話す。夫と「子どもをつくろう」と話して変えた私の服用薬
杉山・奈津子(すぎやま・なつこ) 1982年、静岡県生まれ。東京大学薬学部卒業後、うつによりしばらく実家で休養。厚生労働省管轄医療財団勤務を経て、現在、講演・執筆など医療の啓発活動に努める。1児の母。著書に『偏差値29から東大に合格した私の超独学勉強法』『偏差値29でも東大に合格できた! 「捨てる」記憶術』『「うつ」と上手につきあう本 少しずつ、ゆっくりと元気になるヒント』など。杉山奈津子ツイッター(@suginut) 赤ちゃんばかりを気にする人が多いが、赤ちゃんを育てる母体がちゃんとしているほうが大切。お母さんの健康は、赤ちゃんに直結するのだから。  うつ病を克服し、偏差値29から東大に合格。ベストセラー『偏差値29から東大に合格した私の超独学勉強法』の著者・杉山奈津子さんが、今や5歳児母。日々子育てに奮闘する中で見えてきた“なっちゃん流教育論”をお届けします。  この連載が本になりました。タイトルは『東大ママのラク&サボでも「できる子」になる育児法』です。杉山さん自身が心理カウンセラーとして学んできた学術的根拠も交えつつ語る「私の育児論」を、ぜひご覧ください。 *  *  *  私は、中学3年生の頃から今に至るまで、ずっと双極性障害(躁うつ病)を患っています。今は薬でアップダウンをコントロールできるようになりましたが、それでもまだずっと飲んでいます。  ちなみに薬を飲み始めたのは大学に通い始めてから。さらに、長期間のうつ病になったこともありました。双極性でいうアップがない、ずっと気分が落ち込んでいる状態です。たとえば大学を卒業した後は、就職するのもやめて、1年間ずっと家で休んでいたほどでした。  そんな私が聞かれるのは、「うつで妊娠しても大丈夫だった?」ということです。 ■妊婦のときに向精神薬を飲むと赤ちゃんに影響があるの?  最も気になるのは、向精神薬が赤ちゃんに影響があるかどうか、でしょう。まず、私は「リーマス」という気分安定薬を飲んでいましたが、それは「催奇形性の疑いがある」、つまり妊娠中に飲んでいると子どもが奇形になる可能性があるものでした。ですから、「子どもをつくろうか」と決めたときから、催奇形性のない気分安定薬に変えてもらい、そちらを飲んでいました。  妊婦のときに薬を飲むと、へその緒から子どもに成分がいってしまいます。特に、胎児が内臓などの器官をつくる時期に、害があるものが入ってしまうと、奇形のリスクが高くなると言われています。  時期としては、脳や心臓、手足などの最重要器官が妊娠4週間から7週ごろ、その後、いろいろな臓器や外見がつくられるまでが、妊娠8週から15週ごろです。この期間は、特に薬に気をつけようと言われる時期です。  ただ、その時期って、ちょうどつわりがひどい時期と重なるんですね……。知人はつわりに加え、風邪でせきが一晩じゅう止まらない悲惨な状態になりましたが、病院と相談して「薬は飲まないようにしよう」となり、本当に苦しそうでした。  私も、つわりがひどくて入院したのですが、やはり吐き気止めを飲むわけにもいかず、脱水をふせぐ点滴をされ、当然気持ち悪さも治まらないままひたすら寝ていました。  持病がある人にとって大切なのは、病院選びだと思います。特にうつに関してだけ考えれば、大病院できちんと薬剤部と、できたら精神科がある場所で産むほうが安心でしょう。(私はいろいろと条件を考えた上で、最終的に、相談できる先生がいる個人病院で産むことに決めましたが)。  つわりで入院したときは大きめの病院だったのですが、私がうつの薬を飲んでいたということで、病室まで薬剤部の人が親身になって話を聞きにきてくれて、とても気がラクになりました。それにNICU(新生児集中治療室)もあるので、子どもに万が一のことがあったときも、普通の病院より早急に対処できるのは大きなメリットです。 ■比較的安定していた「うつ」、誤算は「つわり」  ちなみに私のうつは、妊娠する前には比較的安定していました。誤算は、なぜかつわりが妊娠してから産むまで10カ月も続くという、かなりきついケースだったことです。人工的なにおいが全てダメでせっけんの香料でも吐き気がして、常に車に酔った状態が続くので気持ち悪くて外にも出られず、検診以外で外に出られたのは、10カ月のうちたった3日間くらいだったと記憶しています。  はっきりいって、地獄のような日々でした。気持ち悪くてパソコンもテレビもほとんど見られず、本も読めませんでした。仕事をしようとして、電車に乗って気持ち悪くなり、そのまま電車を乗りなおして帰ったこともあります。何もできないので、つわり以外のことに集中して、気を紛らわすことができないのです。  何度も時計を見ては「やっと1時間が過ぎた」と、ただとにかく時間がたつのをひたすら待つのみ。また、さらにそこに妊娠糖尿病の問題も絡んできました。朝にほんの少しだけ甘いロールパンをかじることだけが、一日の楽しみでした。そんな状態が何カ月も続いたわけですから、いざ産む前の9カ月あたりで、さすがに「もう限界」と、ストレスが爆発してしまったのです。  そこで、病院と安定剤に関して相談することになりました。  運がよかったのは、出産予定だった個人病院の担当の先生が、昨年までたまたま大病院で勤めていたおかげで、妊娠時の薬に関してかなり詳しかったということ。そちらではわりと多くの人が薬をつかっていたようで、「これらの薬なら、飲んでも影響がないことがほぼわかっている」という紙をコピーしてくれました。  妊娠した頃、見学にいった別の個人病院では、向精神薬に関しては「9カ月になったらやめてもらう」という方針だったので、そっちにしなくて本当によかった、と思っています。  ほぼ全ての薬の添付文書には、「治療上の有益性が危険性を上回ると判断される場合にのみ投与する」と書かれています。妊婦を相手に、胎児に問題がでるかどうかの実験なんて倫理的にできるわけがないのですから、製薬会社としてもそう書く必要性があるのは理解できます。  ただ、製薬会社がわからないのに、妊婦側が「これは危険性を上回る」なんて判断できるわけがないのもまた当たり前のことでしょう。  でも、有名なサリドマイドや、私が最初に飲んでいたリーマスのように、既に催奇形性の疑いがある薬は、他の薬とまた違う位置にカテゴライズしてもよいのではないかと思います。私が9カ月の頃に飲んでいた安定剤や睡眠薬では、特に催奇形性があるとも言われてはいないもので、器官などが既にできあがっている後期は、うつである妊婦さんがよく飲んでいるというものでした。  担当の医師いわく「自分が処方していた限り、今まで問題が起きたことがない」とのこと。ただ、精神系の薬は、大人でも頭がぼんやりするのと同じように、子どもも「スリーピングベイビー」と呼ばれる状態で生まれてきてしまう可能性があるのです。 ■薬剤師からの励ましが、大きな心の支え  スリーピングベイビーとは、赤ちゃんが眠ったままの状態で出てきてしまうものです。その際、自発的に呼吸ができないので、人工呼吸器をつけることになります。もちろん赤ちゃんが苦しい目にあうのは親として避けたいものでしょう。  しかし、つわりで入院したときの大病院の薬剤師が、「スリーピングベイビーは人工呼吸器をつければ息ができるし、リズムだって生まれてから徐々に整ってくるから、実はほぼ問題ないのよ」「それより、お母さんが産む気がなくなってしまうとか、その後育てる元気がなくなってしまうほうが、よほど赤ちゃんのためにならない」と励ましてくれて、それは大きな心の支えになりました。  さらにその薬剤師は「みんな赤ちゃん、赤ちゃんってばかりいうけど、赤ちゃんを育てる母体がちゃんとしているほうが大切なの。お母さんの健康は、赤ちゃんに直結するの。だから、つらかったら向精神薬を我慢しなくていいのよ」と言ってくれたのです。  そもそも、器官形成の時期にたばこやアルコールをやめずに元気な赤ちゃんを産む親もいます。薬やカフェインを徹底的に避けていても、先天性異常がある子を産む親もいます。実は、薬の影響より、自然に起こる奇形の発生率のほうが高いとも言われているのです。だからこそ、器官形成時に注意すれば、「決して薬を飲まない」という選択をとらなくてもよいのではないか、と思います。  私が通っていた個人病院にも「スリーピングベイビー」が生まれてきたときにすぐ対応できる器具はそろっていて、何も準備がない病院よりもずっと安心して産めました。臨月である10カ月には「あと少しだから」と、飲まなくてよい日は飲まないように頑張り、飲むとしても最小限の量にはしていました。  まあ、たまたま1錠飲んだ日にちょうど破水がきてしまったのですが……。結果として子どもは全く眠ることなく、本当に元気に生まれてきてくれました。5歳になった今も、元気すぎて困るほどです。脳にも問題ありません。親バカなので、逆に、「天才なのでは」と思うことがしょっちゅうです。  まとめますと、うつで妊娠したいと思っている方は、まず自分が飲んでいる薬に催奇性があるかどうかを調べることが重要かと思います。そして産婦人科は、(里帰りも考慮して)できれば精神科と薬剤部があり、相談にのってくれるところを。さらに、スリーピングベイビーに対応している病院なら、先生と相談して、極限まで無理して薬を我慢する必要はないのでは、と思います。
dot. 2019/07/21 11:30
ひきこもり支援施設を脱走した有名私大卒31歳男性 社会復帰しても収まらない怒り
ひきこもり支援施設を脱走した有名私大卒31歳男性 社会復帰しても収まらない怒り
自立支援施設を脱走した男性(撮影/西岡千史)  ひきこもりが長期化し、80代の親が50代の子どもの生活を支える「8050」が社会問題になっている。最近では、ひきこもり経験者が、通学中の児童や付き添いの保護者を殺傷した後に自殺した事件や、父親である元農林水産事務次官に殺害されたことが大きなニュースになった。一方で、ひきこもりや発達障害の子どもを抱える親が、本人の意向を無視して民間の「自立支援施設」に預けたことで、トラブルに発展することも起きている。現場では今、何が起きているのか。 * * *  2018年3月12日、藤野健太郎さん(仮名、31)の運命は、この日に変わった。  神奈川県内のアパートで過ごしていると、突然、何者かがドアのカギを開けた。そこに立っていたのは、3人の見知らぬ男。後ろには藤野さんの姉が立っていた。そして、姉はこう言った。 「家賃のことで、この人たちが話あるって」  藤野さんは、関東の有名私立大を卒業した後、IT関連企業に入社した。しかし、激務が続いたことで双極性障害になり、4年後に退社せざるをえなくなった。その後、精神科に入院。退院後は母親から支援を受けてひとり暮らしをしていた。見知らぬ男が訪問してきたのは、経済的に自立して生活ができるよう、アルバイト先が決まった矢先のことだった。藤野さんは、こう振り返る。 「2月に母親からの経済的な支援がなくなって、家賃の振り込みが遅れていたのは事実です。ただ、現金は用意できていたので、すぐに支払うつもりでした」  不思議だったのは、家賃の支払いが数日遅れたぐらいで取り立てが家に来たことだ。入居時には、家賃保証会社に保証金を支払っている。そう考えながらも、「すぐに払います」と言ったところ、見知らぬ男は、家の外で話すように言った。ただならぬ雰囲気だった。 「前の会社を辞めてからもアルバイトをしていましたが、入院もしたので働くことのできない時期もありました。それで、とうとう行政関係の人が来て、どこかに連れていかれるんだと思いました」(藤野さん)  日本では、精神障害のために自分自身や他人を傷つけるおそれがある場合、その人を強制的に病院に連れていき「措置入院」をさせることができる。しかし、措置入院は本人の自己決定権を侵害することから、医師の診察が不可欠だ。藤野さんには、医師からの説明はなかった。  藤野さんが車に乗せられてたどりついたのは、神奈川県中井町にある施設だった。そこで、藤野さんは施設に入るための契約書にサインをするよう求められた。アルバイト先が決まっていたので戸惑いもあったが、「行政的な措置ならしょうがない」とあきらめて名前を書いた。藤野さんは、このことを今でも後悔している。 「僕が連れていかれた施設は、病院や社会福祉法人ではなく、『一般社団法人若者教育支援センター』という組織でした。『ハメられた』と思いました」  藤野さんは、子どもの頃から母親との対立が絶えなかった。特に、仕事を辞めた後は生活費をめぐって言い争いになることも少なくなかった。母親が藤野さんを多額な費用が必要となる自立支援施設にあえて入れたのも、対立が激しくなっていた時だった。  藤野さんが入ったのは、同センターが運営する全寮制の「ワンステップスクール湘南校」。ホームページでは、ひきこもりや不登校、家庭内暴力などについて<ご家族の悩みを解決いたします>と書かれ、その解決法として、24時間体制のもと<1つ屋根の下で、家庭の温かい愛情を注ぐ>を方針として掲げている。  藤野さんは、入寮の経緯に納得できなかった。なぜ、自分はここに連れて来られたのか。「人生を奪われた」という怒りが、日増しに強くなっていった。  そもそも、藤野さんは「ひきこもり」ではない。働けなくなったのも、もともとは過労が原因だった。さらに、病院では双極性障害とは診断されずに間違った薬を処方されたため、一時はからだを思うように動かせなくなっていた。 「施設に入っていた人で、ひきこもりは半分ぐらいだったと思います。そのほかは、発達障害や精神疾患の人、親から虐待を受けて捨てられるように預けられた人もいました」(同)  藤野さんの場合、寮での小遣いは月に3000円程度しか渡されず、携帯電話も使えなかった。インターネットの使用も制限されていた。寮生活では、午前中は小学生レベルの公文式のドリルをやらされ、廊下や入り口には監視カメラが備え付けられていた。施設のスタッフには退寮を求めたが、はぐらかされて認めてくれない。それで、藤野さんは決心した。 「脱走するしかない」  決行したのは入寮から4カ月が経過した18年7月。仲間を募って、計7人で夜中に玄関から脱走した。その後、別の福祉施設に保護され、一時的に生活保護の支給を受けた。今では、就職先も決まって一人で暮らしている。  施設側はどう考えているのか。同校の広岡政幸校長はこう話す。 「施設に入る前には、事前に説明し、納得をしてもらったうえで本人からサインをもらっています。プログラムは、いろんなものを取り入れている。公文式は一つのことに集中させる力などをつける目的でやっていましたが、現在はやっていません」(取材の詳細は、本文最後を参照)  今回、藤野さんと一緒に施設を脱走した元入寮者にも取材ができた。その男性は対人関係が苦手で、長年ひきこもり生活を続けていたところ、親に入寮を促された。 「最後は『何か変えないと』と思って自ら入寮しました。でも施設では何もやることがなくて、『ここでは意味がない』と思って脱走しました。規則正しい生活習慣をつけるには良い場所だと思いますが、もっとちゃんとした施設に入りたかった」  別の元入寮者の男性も親の依頼で入寮をすすめられたが、自宅で拒否し続けたところ、最後は「車まで連れていかれた」と証言する。別の男性は、「自分の育てたいように子供が育たないと考える親が、施設に入れる。『子捨て山』のようなもの」と話す。今回、元入寮者の親への取材について広岡氏を通じて依頼したが、広岡氏から「親たちは偏った取材には協力したくないと話している」とのことだった。  なお、入寮時の手続きについて広岡氏は「保護をする時は、必ず自分でドアを開けさせて、自分でドアを閉めさせることにしています。荷物も自分で持たせます」と、本人の意思に反した入寮は行っていないと主張している。  ひきこもり自立支援施設をめぐっては、東京都内の別の自立支援施設に入れられた30代男性が今年2月、施設に対して550万円の損害賠償を求める訴えを起こしている。消費者庁も、民間の自立支援施設の契約や解約をめぐるトラブルについて注意喚起をしている。  ひきこもりの問題に詳しい精神科医の斎藤環・筑波大教授は、こう話す。 「全国の自立支援施設には、ひきこもりの当事者だけではなく、他の精神疾患を抱えている人たちもたくさんいて、適切な治療を受けていない人も多い。なかには、自立支援施設に入れられたことで精神的なショックを受け、フラッシュバックに悩む人もいます。本人の意思に反して施設に入れる行為には合法性がなく、自己決定権の侵害であり、ひきこもりの治療にも逆効果でしかありません」  厚生労働省が定めた「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」では、「入室を拒否する当事者の部屋へ強引に侵入する」ことは「望ましくない」と記している。また、自立支援施設に入れられた人の家庭は親子関係に問題があることも多く、斎藤教授は、「施設に子どもを強制的に入れることで、さらに親子関係がこじれることも多い」と警鐘を鳴らす。  藤野さんも、施設を脱走してから再就職先を見つけ、自立した生活をはじめた今でも、母親と施設への怒りが消えない。現在は、母親への訴訟も視野に入れながら、裁判所で調停を続けている。斎藤教授はこう話す。 「ひきこもりや発達障害の子を抱える親の不安を『ビジネスチャンス』として狙っている業者は多い。高い費用をかけて子どもを民間の施設に入れる前に、適切な医療機関に相談してほしい」 * * * 【ワンステップスクール湘南校 広岡政幸校長への一問一答】 ──元入寮者の中には、自らの意思とは関係なく入寮させられ、退寮を求めても認められなかったという人がいます。  施設には、自分の意思で来る子もいるし、支援を求めてくる子も、親から虐待を受けて緊急で保護している子もいる。一人ひとりに入寮の事情があるが、強制的に入寮させていることはありません。  保護をする時には、必ず自分でドアを開けさせて、自分でドアを閉めさせることにしています。荷物も自分で持たせます。  退寮については、経済的にも精神的にも自立していれば許可します。 ──入寮者に対する脱走者の割合は。  月に1件あるかないかぐらいです。他の自立支援施設と比べても、比率は高くないと思います。施設への出入りも自由です。 ──携帯電話を持たせないのは、なぜですか。  持っている子もいます。逃げ出した7人のうちの1人は、入寮時から携帯電話を持っていたはずです。原則、寮の中では規則で通信機器を持ち込まないことになっています。入寮者には、ゲーム依存の人もいて、親に対する暴言もあるので、生活環境を改善させるために必要だと私たちは考えています。 ──生活改善プログラムに公文式を取り入れているのはなぜですか。  プログラムは、いろんなものを取り入れている。公文式は一つのことに集中させる力などをつける目的でやっていましたが、現在はやっていません。 ──月に支給される現金は日常生活の費用で3000円、小遣いが3000円程度とのことですが。  人によるし、親の経済力にもよります。月に3万円もらっている子もいます。施設の中には、無料で受け入れている子もいます。その子たちにどの程度の現金を渡すかは、その子の状況によりますが、生活用品以外の額として5000円ぐらいを渡しています。 ──入寮費が70万円程度、毎月の寮費が20万円程度かかるとのことですが。  一般的な額だと思います。(ワンステップスクールの寮費は)平均だと毎月17万6000円ぐらいです。社会福祉士や医師などの専門職が多く、湘南校は特にスタッフの数が多いです。施設も冷暖房を完備しているので、固定コストが高く、公的資金も入っていないので、17万円を下回ると赤字になってしまいます。 ──入寮のプロセスは。  子育ては親だけではできないこともあります。また、親の成育環境が子どもに与える影響も多い。本人の問題だけではありません。また、親から相談されてすぐに寮に入ってもらうのではなく、親にもいろんなアプローチをしています。それでも自害や他害など緊急性の高い場合は、親と子の距離を持たせるために入寮してもらうこともあります。その時には必ず親から、私たちが行くことを言ってもらっています。だまし討ちで連れてきても、すぐに逃げてしまうからです。 ──親子関係が悪いのに、本人が納得せずに入寮させても、プログラムの効果はないのではないですか。  それはその通りです。 ──監視カメラを付けているのはなぜですか。  スタッフと入寮者の間で「触った」「触っていない」などといったことを言われないようにしている。あるいは生徒からスタッフが殴られる場合もあるからです。 ──今回の集団脱走については。  親の中には、(脱走への協力を校外で)首謀した人にそそのかされて「誘拐だ」と言っている人もいる。逃げたのではなく、連れ出されたんです。今は証拠を集めているので、(脱走を主導した人を)告訴するつもりです。 ──親子関係のゆがみに介入することは専門家でも難しいですが、そこにあえて介入する意味は。  親が変われば子どもが変わると言いますけど、親も何かがないと変われません。まずは親の気持ちに寄り添って、それから親子で距離を取り、本人たちに自信をつけさせたりして、親子の和解のポイントを見つけています。ただ、入寮に納得できない人で親に怒りを持っている人がいるのは確かです。 (AERA dot.編集部/西岡千史)
dot. 2019/07/19 11:30
パリ人肉事件・佐川一政を介護する弟が実名告白「バカな奴だけど、絶縁できなかった」
パリ人肉事件・佐川一政を介護する弟が実名告白「バカな奴だけど、絶縁できなかった」
佐川一政氏の弟・純さん(撮影/西岡千史) 神奈川県内の病院に入院している佐川一政氏。映画『カニバ/パリ人肉事件38年目の真実』は、7月12日からヒューマントラストシネマ渋谷ほかで全国公開予定(写真は配給会社提供)  パリに留学中の32歳の日本人男性が、恋心を抱いていたオランダ人女性を射殺、肉体の一部を食べた──。1981年に起きた前代未聞の「パリ人肉事件」は、世界を震撼させた。加害者の名は、佐川一政。女性の遺体を遺棄していたところで逮捕された。  猟奇的な事件が発覚した直後から、家族のもとには報道陣が殺到した。その対応をしたのが、当時、大手広告会社に勤めていた弟の佐川純さん(68)だ。父は会社を辞めざるを得なくなり、純さん自身も一時休職に追い込まれた。  事件はこれだけで終わらなかった。佐川氏はフランスでの精神鑑定で、犯行時は「心神喪失状態だった」と診断され、不起訴処分となる。すでに日本で有名人となっていた彼は、帰国後に家族の反対を無視して執筆・講演活動を開始する。彼を好奇の目で見る世間とは裏腹に、家族は被害者への罪悪感とやるせなさを感じ続けた日々だった。  事件から38年。佐川氏の両親はすでに他界し、残された家族は佐川氏と純さんだけになった。その二人の今の暮らしを追ったフランスと米国合作ドキュメンタリー映画『カニバ/パリ人肉事件38年目の真実』(監督/ルーシァン・キャステーヌ=テイラー、ヴェレナ・パラヴェル)が、7月12日から全国公開される。佐川氏と純さんは、この長い時間をどのように生きてきたのか。そして、純さんは今、兄のことをどう思っているのか。 * * *  何かさしたる特徴もない、平凡な一日だった。1981年6月11日、純さん(当時30歳)は父と母と一緒に夕食をとったあと、将棋を指していた。18時半を過ぎたころ、神戸に住んでいる祖母から電話がかかってきた。その話は耳を疑うものだった。 「いま、ニュース見てる? 佐川一政という人がパリで誰かを殺したみたいだけど……」  テレビを付けると、祖母の話した内容が報道されていた。驚く両親。衝撃的なニュースに、母は「これはウソだ」と言い続けた。我が子が人を殺すなんて、信じられるはずはない。ただ、純さんだけは違ったことが頭をよぎった。 「実は事件が起きる7年前、兄は都内でドイツ人女性の家に侵入して、襲おうとしたことがあったんです。この時は未遂に終わって、父がお金を払って示談が成立したので事件にはなりませんでした。この時の記憶があったので、『またやったな』と思いました」(純さん)  ほどなくして、自宅にはマスコミからの電話が殺到する。父は当時、ある大企業の社長をつとめていた。そのこともまた、世間の関心を誘うことになった。  一方、大手広告会社に勤務していた純さんは、企業などが不祥事を起こしたときの対応マニュアルを理解していた。個別に取材対応をすれば、記者から際限なく質問が飛んでくる。そこで、自宅のリビングに記者を集め、緊急の記者会見を開くことにした。 「たしか、二十数人の記者が集まって父が対応しました。その間、私は母に『大丈夫だよ』となぐさめてました。記者がいなくなった後、父は秘書を呼んでパリ行きの航空券を手配して現地に向かい、母と私は、福岡に住んでいた知り合いの家に逃げました。その後のことは、実はよく覚えていません。テレビも見ていませんでしたから」(同)  1カ月ほど経過したころ、父がパリから帰国した。その姿を見て、純さんは驚いた。食べるのも飲むのも大好きで、恰幅の良い体格だった父がやせ細っていたからだ。世間を騒がせた責任をとって、父は社長を辞任。会社を去った。純さんも、2カ月ほど休職せざるをえなかった。心労も影響したのだろう、翌冬、父は脳梗塞で倒れた。  不幸中の幸いだったのが、純さんは会社を辞めなくてすんだことだ。むしろ、同僚たちは純さんの社会復帰を支えてくれた。 「勤務先が広告会社でメディアに知り合いが多いから、なかには兄のことが記事に出ないよう、雑誌に言ってくれた人もいたそうです。広告担当が編集に意見を言うことは御法度で、実際に記事を止めることはできなかったと思いますが。復帰した時には歓迎会も開いてくれました」(同)  パリ人肉事件をめぐっては、ザ・ローリング・ストーンズが佐川氏を題材にして曲を作り、劇作家の唐十郎が『佐川君からの手紙』と題した小説を書いて芥川賞を受賞するなど、世界に影響を与えていた。それにしてもなぜ、佐川氏は女性を“食べる”ことに喜びを感じるようになったのか。そのことを知るには、生い立ちを振り返る必要がある。  佐川氏は1949年4月26日、神戸市で生まれた。出産時は未熟児で、小さい頃は病気がち。家族からは「いつ死んでもおかしくない」と思われていたという。純さんは兄の誕生から約1年後の1950年に生まれた。子どものころから兄より体が大きく、そこで両親は、二人を兄弟ではなく双子のように育てた。  兄弟の幼年時代を撮影した映像は、いまでも残されている。1950年代に家族用の撮影機材を持っていたことから、佐川家がいかに裕福な家庭であったかがわかる。男同士だからケンカもしたが、仲は良かった。  ただ、体の弱かった兄は、家で本を読みふけることを好んだ。両親は、そんな兄の性格に合わせるよう、純さんにも外で遊ぶことよりも家の中にいることを求めた。 「兄の性格は家庭環境の影響はあったと思います。兄は否定しますが、体が小さくて頭が大きいという見た目で、私に対する劣等感もあっただろうと思います。今さら言ってもしょうがないことですが……。家は過保護なところもありました。家庭では性的なことについて厳しくて、兄が漫画で女の人の裸を書いたりすると、ものすごく怒られました」  そのような環境で、佐川氏はいつしか「人を食べること」に興味を持つようになった。  話を事件後に戻そう。前述のとおり、フランスで逮捕された佐川氏は、精神鑑定で不起訴処分となった。84年に日本に帰国して都内の精神科病院に入院したが、そこも約1年で退院した。  佐川氏はすでに、日本国内で「人肉を食べた男」として有名になっていた。退院後には執筆活動を開始し、自らの猟奇的犯罪の経験を語り、講演やトークショーにも呼ばれた。そこで得た金で、外国人女性と海外旅行に出かけた。アダルトビデオに男優として出演したこともある。人肉を食べた男の素性に、多くの日本人が興味を持ったのだ。その間、家族は複雑な気持ちだった。 「私としては『いい加減にしろ』という気持ちでした。被害者に申し訳ないですから。何度も執筆や講演活動をやめるように言ったことがあります。父親は、書店に行って並んでいる本の帯を、片っ端からはがしてきたこともあった。それでも、兄はやめようとしませんでした」  佐川氏を好奇の目でみるのではなく、出版物などを通じて精神的な影響を受けた人もいる。神戸連続児童殺傷事件(1997年)の加害者である「少年A」だ。少年Aは2015年、事件の経緯を含んだ自らの手記『絶歌』(太田出版)を発表。本の中で、「殺人作家」として活動する佐川氏に、嫉妬や羨望を抱いていたことを告白している。  ただ、「佐川一政ブーム」は長くは続かなかった。2000年代に入ってからは仕事がほとんど途絶え、一時は生活保護で暮らしていたという。佐川氏と口論しながらも暮らしを支えていた父と母は、2005年に相次いでこの世を去った。なお、インターネットでは、父の死の直後に母が自殺したことになっているが、「そのような事実はない」と純さんは証言している。  両親が死去したことで、遺産となった実家を売却し、佐川氏の暮らしは改善した。兄弟で細々と年金生活を続けていたところ、2013年に佐川氏が脳梗塞で倒れた。からだが不自由になった佐川氏を、純さんが介護することになる。 「兄の住むアパートに私が通い、面倒をみていました。それが昨年6月、弁当をのどに詰まらせてしまったんです。誤嚥(ごえん)性肺炎になって、自分で食べ物が食べられなってしまって、胃ろうにせざるをえなくなりました」(純さん)  胃ろうは、おなかに小さな穴を開け、チューブで胃に直接栄養を送り込む方法だ。それまでは歩くこともできたが、現在は神奈川県内の病院で寝たきりの生活が続いている。  それでも純さんは、今でも2日に1回は佐川氏に会うため病院に通っている。 「今は会話も難しくなっていますが、病室に行くと私の手をずっと握ってくるんですよ」  加害者の家族として、純さんはいろんな迷惑を受けてきたはずだ。そんな話も、今ではあっけらかんと話す。 「2000年代に入ってからでしょうか。私は趣味でオーケストラのチェロを演奏していたのですが、ある日、ハードケースに入れて部屋に置いていたら、なくなっていました。100万円ぐらいするものだったんですが、兄が売ってしまったんですね。警察も呼んだのですが『犯人はお兄さんではないですか』なんて言われてしまって」(純さん)  兄の行動をめぐっては、父も純さんも批判することが多かった。それでも、家族は最後まで佐川氏を見捨てることができなかった。 「バカな奴だと思っていましたが、両親も、子どもに絶縁を迫るような性格ではなかったんでしょうね。ケンカもしていましたけど、年末年始なんかは家族4人で集まっていました」  佐川氏と同じく、純さんも一度も結婚をしたことがない。そのため、両親が亡くなってからは、お互いが唯一の肉親となった。世界を震撼させた猟奇的殺人者を介護していることについて、純さんは「こういう風になってみないと、わからないでしょうね」と言う。というのも、佐川氏が脳梗塞で倒れた時、純さんの心にある変化があったからだ。 「胃ろうで、兄もいつ死ぬかわからなくなって、『かわいそうだな』と思ったんですよね。兄弟愛っていうんでしょうか。昔はとても仲が良かったですから、ようやくその頃に戻れた気がします。いろんなことがありましたけど、今では、わだかまりはまったくないです。むしろ、もっと一生懸命に介護しなきゃいけないなと」  ちなみに、佐川氏は胃ろうとなった今でも女性を“食べたい”という願望を持っているそうだ。純さんは、そんな兄のことを「まったく理解できない」と笑う。  最後に、寝たきりとなった兄の存在を今、どう思っているかをたずねてみた。すると純さんは、「うーん……」と少し考えこんで、こう言った。 「いつまでも死んでほしくないですね。そう思います」  双子のように育てられた二人の物語は、まもなく最終章を迎えようとしている。(AERA dot.編集部・西岡千史)
dot. 2019/05/23 12:00
職場で突然涙が出る…20代女性の不安「精神科に行ったら薬がやめられなくなる?」
大石賢吾 大石賢吾
職場で突然涙が出る…20代女性の不安「精神科に行ったら薬がやめられなくなる?」
※写真はイメージです(写真/getty images)  精神科の受診を勧められたけど、どんなところかわからず怖い。あるいは、他の診療科に比べ、受診に抵抗があるといった声は多いことでしょう。千葉大学病院精神神経科特任助教の大石賢吾医師が自身の経験を一例に、精神科外来について答えます。 【20代女性Aさんからの相談】新しい仕事を始めてからいろいろうまくいきません。夜に眠れなくなったりご飯を食べたくなくなったりすることは少し前からあったんですけど、最近職場でも突然涙が出てくるようになりました。会社で精神科の受診を勧められたのですが、どんなところかわからず怖いです。友人に相談したら「適当に薬をだされるだけで、やめられなくなるよ」と言われたのですが、本当でしょうか? *  *  *  新しいお仕事を始めるとき、業務だけでなく職場や人間関係も大きく変わり、うまく適応することは困難なものです。期待や不安、イメージと現実の違いなどから気持ち的にも複雑な状態になりやすく、慣れるまでにかかる心労は相当なものだと思います。Aさんも、いろいろなことに悩みながら「早く仕事を覚えなきゃ」とご無理をされていたのではないでしょうか。適切な医療が届くことを願うばかりです。  しかし、このご相談、盲点でした。日頃から診療をしていると当たり前になってしまっていましたが、初めて精神科を受診される人にとっては不安ですよね。他の診療科に比べ、受診に抵抗があるかもしれません。今回は、そのような不安を少しでも少なくするため、精神科の外来がどのような流れで進められるか、私の経験を一例としてご紹介いたします。  受診するには、まず受診しようとしている医療機関へ受診可能かどうか確認することから始まります。予約制の施設はもちろんのこと、予約制でない場合でも、「せっかく病院に行ったのに急患がいっぱいで対応してもらえなかった」「紹介状が必要と言われた」などで無駄足になってしまう可能性も考えられるので、一度電話で問い合わせてから来院することをお勧めします。  電話では、現状を把握するため「いつから、どんな症状が、どんなことをきっかけで生じたのか」や「最近の生活状況はどうなのか」などいくつかの質問があり、予約の日程調整を行います。もし、急を要しそうな場合には、私たち医師へ相談され適切な対応を検討することもあります。  予約日に受診すると、診察に入る前に問診があります。問診はこれまでの経過や身体合併症の有無、生活背景などについてあらかじめ調査するもので、医療機関ごとに準備された用紙に書き込む形が多いように思います。  実際の診察になると、問診の情報をもとに担当医がさらに詳しくお話をお伺いします。特に、初回の診察では、さまざまな可能性を考慮する必要があるため、質問が不調になる前の暮らしぶりやご家族、お仕事のことなどにも及びます。時間的には、場合によって多少の前後はあるものの(あくまで私的な感覚ですが)、おおむね30分から45分くらいが多いでしょうか。  診察で聞かれる質問は答えを強制するわけではありませんので、身構えなくても大丈夫です。事実と異なることを答えられると困ってしまうこともありますが、初診のときに話せないということだけで医師との関係が成り立たなくなってしまうことはないと思います。  私も初診のときは「答えられる範囲で答えてください」と前置きしてからお聞きするようにしています。特に重要であれば、再度医師から聞かれるかと思いますので、その際は改めてご検討いただければと思います。 「自分だけでは話す自信がない」とのことで、ご家族やパートナー同伴で受診される人もいます。逆に同席者に知られたくないことがあれば、部分的に席を外してもらうこともよくあります。一通り診察が終われば、最後に見立てを説明してその後の治療方針について協議していきます。  以前、ある人に「精神科に行ったらよくわからない薬を飲まされるんでしょ」と言われたことがあります。単に私のことを嫌いだった説も否めませんが、このようなイメージが一般的なのでしょうか。もちろん、実際にはそのようなことはありません。  全例に薬物治療が必要というわけではないですし、薬物治療が望ましいと考えられる場合でも見立てに応じて推奨される治療薬を提案します。外来治療では本人の同意が原則(入院治療でも可能な限り同様)ですので、予測される効果や副作用、中長期的な目標、内服に対する不安などがあれば担当医に相談してみてください。それでも疑問が拭えない場合、別の精神科医を受診し意見を聞く“セカンドオピニオン”利用の検討も手かもしれません。  また、Aさんのご相談からは判断できませんが「治療が必要でも、出産を強く希望している」「仕事だけは絶対に休みたくない」など、希望はケースによってさまざまです。もちろん、すべてが希望どおりにできるわけではありませんが、精神状態が切迫し緊急を要する状況でなければ患者本人の希望を可能な限り尊重し、優先順位は柔軟であるべきだと考えます。  今まで想像もしていなかった精神科受診。どのようなところかわからず「言われたとおりにしなくてはいけないのでは」といった不安があるのかもしれません。実際には、よほどの状態でない限り、薬物治療の有無にかかわらずご自身の同意によって治療方針が決定されます。軽症であればあるほど柔軟に対応できる可能性がありますので、早めに一度受診してご相談されることをお勧めします。 ○大石賢吾(おおいし・けんご)/1982年生まれ。長崎県出身。医師・医学博士。カリフォルニア大学分子生物学卒業・千葉大学医学部卒業を経て、現在千葉大学精神神経科特任助教・同大学病院産業医。学会の委員会等で活躍する一方、地域のクリニックでも診療に従事。患者が抱える問題によって家族も困っているケースを多く経験。とくに注目度の高い「認知症」「発達障害」を中心に、相談に答える形でコラムを執筆中。趣味はラグビー。Twitterは@OishiKengo
健康病気病院
dot. 2019/05/16 07:00
小4の娘に平手打ち、妻を寝かせない… DV夫からシェルターに逃げた40代女性の恐怖と再生
小4の娘に平手打ち、妻を寝かせない… DV夫からシェルターに逃げた40代女性の恐怖と再生
女性はどうして夫のもとを離れることができたのか。※写真はイメージです(GettyImages)  虐待によって子どもが命を落とす事件が後を絶たない。異常と思えるような環境からどうして逃げられなくなってしまうのか、なぜ家族も止めることができないのか。関東地方に住む40代の女性は、小学生の娘2人を連れ、暴力を振るう夫のもとを離れた経験がある。「同じ境遇にいる人たちにシェルターの心地よさを知ってほしい」と、当時の出来事が細かく書き込まれた手帳を見ながら、女性が静かに口を開いた。家を出たその日、何が起きたのか。シェルターでの日常とは。 *  *  *  PM12:45  外はいつもと変わらない平日の昼過ぎだった。関西地方にある閑静な住宅街。マンションを出た紀子さん(仮名、40代)は生きた心地がしなかった。予定時刻に合わせて、タクシーで娘たちが通う小学校に向かう。待ち合わせ場所となった校長室には、校長と数人の教師が待っていて、しばらくするとランドセルを背負った子どもたちが入ってきた。  家族4人で暮らしてきた家を、今日、母娘3人だけで出て行く。行き先は誰も知らない。  皆勤賞だったのに、学校に行けなくなってしまってごめんね。仲良しの友だちと「さよなら」もさせてあげられなくて、ごめんね。  説明しなければいけないことは山程あるのに、「ごめんね」という言葉と、涙しか出てこなかった。  初めはキョトンとした顔をしていた娘たちも、母の涙を見て、ただ事じゃないことを感じ取っていた。 「友だちと離れたくない……」  そう、言葉を詰まらせて泣く娘たちに「ママが絶対にもう一度会わせてあげるから」と約束し、急いで学校を出た。先生たちは数日後の終業式に渡すはずだった2人の通知表を用意してくれていた。それまで学校を休んだことがなかった上の子は「皆出席」になっていて、また涙が溢れた。  裏門に行くと、事情を知る唯一の近所の知人が1人、見送りに来てくれていた。タクシーに乗り、役所に向かう。ケースワーカーの女性と落ち合って、一緒に行き先の施設を知らせる電話を待ち、またタクシーに乗った。途中の警察署で行き先を探されないための捜索願不受理届を出し、ケースワーカーの女性がコンビニで買ってくれたキャンディーを口に入れた。行き先はわからないままタクシーは高速道路を走る。料金は1万9千円を超えていた。  到着したのは、「シェルター」という言葉のイメージからはかけ離れた、緑いっぱいの小高い丘に建つ明るいレンガ調の建物だった。携帯電話の電源を切って預ける。母娘3人に割り当てられた部屋は洗面台が付いている6畳一間の個室で、タンスや押入れ、布団もあった。3人分のタオルと歯磨きセット、洗面器を受け取る。  ああ、生活に必要なものってこれだけなんだ。紀子さんは不思議な感覚だった。 「ここどこ?」と心配そうな娘に、 「ママもわからない。でも絶対にパパが来ない場所だよ」と話した。  施設内には広い食堂があり、数日前に産まれたばかりであろう小さな赤ちゃんを連れた母親や、パジャマにサンダル姿で着の身着のまま来たと思われる女性、包帯を巻いている人、賑やかにテーブルを囲む若い女性たちもいた。みんないろんな事情を抱えているのだろう。それでも施設の職員たちは何も聞かずに受け入れてくれ、穏やかな空気が流れていた。  娘たちと食べた夕食のハンバーグはびっくりするほど美味しかった。これまで、もう何日も食事が喉を通らなかったからだ。  仕事の昇格試験に向けての準備をするために夫がマンスリーマンションで暮らし始めたすきに、「いま離れましょう」と言ってくれたのは同行してくれたケースワーカーだった。子どもたちの前ではつとめて平静を装いながら、児童相談所でDV証明を受け、病院で持病の薬をまとめて処方してもらい、紹介状を書いてもらうなど準備をした。貴金属や電動自転車など売れるものをすべて手放して現金化し、引っ越した先の住所に結びつきそうなものは子どもの通信教育まですべて解約した。「“引越し”をしたら行き先がわかってしまう」というケースワーカーの指示通り、荷物は宅配便でいったん実家に送った。その間に体重は普段より10キロ近くも減り、しばらくは病院で点滴を打ちながらの生活だった。(※編注=緊急度や事情によって、身辺整理を勧められないケースもあります)  シェルターでの初めての夜。上の子は押入れにこもり、「勝手にこんなところに来て、またママが怒られる」と泣いた。家では、夜が怖かった。酒に酔った夫が帰ってくる前に、子どもたちを寝かせなければいけない。「カチャ」と鍵が開く音が聞こえると、全身が凍った。寝ている子どもたちを起こさないようにしていたつもりだったが、緊張感が伝わっていたのか、上の子は10円ハゲができ、3歳下の子は小学生になってもおねしょが続いていた。  安全な場所で眠るのは何年ぶりだろう。朝起きると、ぐっすり眠れたという感覚が嬉しかった。下の子はその日からパタリとおねしょをしなくなった。  3日後から外出許可が出て、娘たちと公園に行った。  家では夫が自分の目の届かないところに家族を行かせるのを嫌がり、子どもが友だちと遊びに行くのを許さなかったり、遊んでいる公園の周りを車でうろついたりしていた。門限から2、3分遅れただけで激昂し、年齢が上がるにつれて正しいことを主張するようになった上の子を毛嫌いして、平手打ちした。 「どこに行くの?って聞かれないで、何も気にしないで外に行けるって楽しいね」  ふと娘と交わした会話で、それほど自由が無かったのだと気が付いた。  母娘がシェルターで暮らしたのは、次の住居に移るまでの3週間弱。その間にそれぞれ精神科医の診療やカウンセリングを受け、子どもたちは希望すれば学校のように集まって勉強することもでき、自由に遊べるスペースもあった。季節のイベントにみんなで参加したり、それに合わせた手作りの料理も出た。掃除当番などの役割が与えられ、徐々に日常を取り戻していった。 「とにかくご飯が美味しくて、家族だけで入る大浴場のお風呂もすごく楽しかった。寝る、食べる、お風呂に入るということがこんなに大事なんだと実感しました。私はシェルターに来たから、普通の感覚に戻るとができたんだと思います」  と紀子さんは言う。 ■初めての“暴力” 医師「通報しますか?」  大学時代に知り合った1つ年上の夫は、フットワークが軽くてお酒が飲めて楽しい人だった。長い友だち期間を経て20代で結婚。紀子さんは新婚旅行先で倒れて甲状腺の病気が見つかり、一時は実家で静養しながら治療していた。だが、親は介護や持病があり、頼れない。子どもがほしかったこともあり、夫の転勤に付いていった。  治療を続け、2人の子どもに恵まれたが、産後は紀子さんの体調が悪化。さらに合併症の難病を患い、日常生活が困難になった。それでも夫は仕事中心の生活を一切変えず、相談にさえ乗ってくれない。自分でヘルパーを手配し、検査入院のときにはまだ小さかった下の子を乳児院に預けた。何かがおかしい、と思い始めた。  初めて身体的な暴力を受けたのは、下の子がまだ赤ちゃんだったころ。昇格試験のため土日も費やしていた夫に、試験が終わったら半日でいいから自分の時間が欲しいとお願いして迎えたその日だった。趣味の乗馬を予約し、家を出ようとしたときに子どもたちがグズり始めた。 「やっぱり今日はキャンセルしよう」  紀子さんが言うと、夫は 「そんなことしなくていい!」 と大声を出し、紀子さんの右頬を拳で殴った。その勢いで倒れ、食卓に準備していた離乳食やミルク、昼ごはんが床に飛び散った。何が起きたのかわからなかった。泣きながら片付け、子どもたちを公園に連れて行った。しばらくして、公園にやってきた夫は何事もないような顔でこう言った。 「鍵、忘れてるよ」  ゾッとして、恐怖で体が固まった。家に帰ってからしばらくは、話そうとしても言葉が出なくなっていた。  数日後、あまりの痛みで整形外科に行くと、頚椎捻挫と顔面打撲、全治2週間のけがだった。おそらく骨折もしているだろうということだったが、小さな子を抱えて検査に行くのは難しいと断った。 「奥さん、通報しますか?」  医師に言われてハッとした。ああ、自分はそういう状況にいるんだ。夫は職場での評価が高く、同世代の中でも出世頭。閑静な住宅街に住んでいた。家に警察が来たら、ご近所さんに何て言えばいいのか。そんなことが頭の中で渦巻いて、躊躇した。 「頼る人がいなくて、子どもが小さく、自分が病気。一つ一つは乗り越えられそうなことだったとしても、一度に揃うと身動き取れなくなってしまうんです。まずは自分が健康にならないとと、何度も自分に言い聞かせて治療していました」(紀子さん)  紀子さんが病気で動けないときは、夫は暴力を振るうこともなく、生き生きしているようにさえ見えた。しかし、持病が落ち着いてくると、夫は次第にお酒の量が増え、紀子さんが浮気しているのではないかと疑い執拗に詮索するようになった。毎晩、仕事から帰ると紀子さんの財布と通帳、ゴミ箱に入っているレシートや洗濯物を確認する。携帯電話をロックしても、ICカードを別端末に入れてメールや通話履歴を夜中にチェックされていた。そして寝ている紀子さんを起こし、とりとめもない話を夫の気が済むまで続けた。  ある日、布団に入ると、先に寝ていたはずの下の子が起きていて「ママ、今日も頑張ったね」と小さくつぶやいたことがあった。 「ごめんね、眠れなかったよね。トイレにも行けなかったよね」  そう言いながら、夫から離れなければと決意した。 ■「シェルター行き」選択できたキーパーソン  昨年1月に野田市の小学4年生、栗原心愛さんが亡くなり、両親が逮捕された事件では、DV被害を受けていた母親も逮捕されたことで衝撃が広がった。なぜ危険な場所から離れることができなくなってしまうのか。紀子さんは言う。 「母親が前に出ないほうが、被害が少なくて済むと考えてしまう気持ちはよくわかります。夫が娘を叱り始めたとき、娘が助けを求めて私を見ると夫は『お母さんを見るな!』と余計に怒ったし、私も痛い思いをするのがもう本当に嫌でした。私はたくさんの人に支えられてシェルターに行くことができたのですが、そこで初めてこれまでの日常が異常だったと感じました。自分でも気が付かないうちに普通の感覚ではなくなっていくのだと思います」(紀子さん)  紀子さんが夫の支配から抜け出せたのは、2人の女性の存在があったからだという。  1人は近所の心療内科の女性医師。下の子が小学校に上がるころには恐怖で眠れなくなっていた紀子さんに、診察と薬だけでなく、顧問弁護士を紹介してくれた。実際にその弁護士は家を出た翌日に、離婚調停の内容証明郵便が届くように手配してくれ、調停で離婚を成立させてくれた。  2人目は区役所でケースワーカーとして、当日も一緒に行動した元警官の女性だ。夫の目を盗んで友人宅でインターネットを借り、自力で引越ししようと準備していた紀子さんに「完全に身を隠してから、次の住まいに行きましょう」とシェルター行きを勧めてくれたのが彼女だった。「DV等支援措置」(加害者らへの住民票の交付を止める手続き)を申請していた紀子さんに、電話をかけてきて「何とか面談に来てほしい」と促し、短い聞き取りをした。  警察でも児童相談所でも何度も聞き取りされ、疲れきっていた紀子さんだが、彼女に初めて「結婚前はどうだった?」と過去のことを聞かれた。意外に感じながらも、ふとある出来事を思い出した。付き合っていたころ、家の最寄り駅だけしか知らない夫に電話で「部屋から○○公園が見えるんだよ」と話したら、マンションの下にいたことがあった。夫の行動パターンや人物像を探る質問だったのだ。些細な情報も残してはいけない、引越しはしてはいけない、シェルターに行くことを誰にも言ってはいけないなど、さまざまなアドバイスを受けた。  新天地で生活を始めてからも、離婚が成立するまでは恐怖で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)とパニック障害を発症した。電車や街なかで、タバコと酒、雨に濡れた革の匂いがすると、動悸がして涙がこぼれ、体が動かなくなった。それでも穏やかな時間が母娘3人を癒やしていった。紀子さんはいま、働きながら2人の子育てに励んでいる。 「私もそうでしたが、シェルターに行くことに不安を持っている女性は多いと思います。どんな場所かもわからないし、当日までどの施設に行くかもわかりませんから。でも、とても癒やされる場所だったことを伝えたい。偏った思考回路も子どもたちの思いも、ヘトヘトだった心も体も、そのままの状態で次の場所に移っていたら、正常に戻れなかったと思います」  以前は、どうして結婚する前に気付けなかったんだろうと、自分を責めたこともあった。子どもが2人になったら夫は変わってくれるかもしれないと期待したこともあった。しかし、シェルターで会った女性相談員は、こんなことを教えてくれたという。 「DV加害者は結婚して初めて支配する喜びを知るから、みんな結婚前には気づかないものなんですよ。2人目が生まれても、支配できる人が増えるという喜びでしかないんです。ここに来るエネルギーが残っていて、良かったですね」  紀子さんは言う。 「逃げると言うと悪いことのように聞こえますが、自分の意思で離れる。そういう選択をする人が増えてほしいと思っています。今、私は幸せです」 (AERA dot.編集部・金城珠代)
夫婦
dot. 2019/05/03 17:00
変死の謎を追え! 記憶喪失ミステリーの新たな切り口
変死の謎を追え! 記憶喪失ミステリーの新たな切り口
※写真はイメージです  ミステリー評論家の千街晶之氏が選んだ“今週の一冊”は『ついには誰もがすべてを忘れる』(フェリシア・ヤップ著、山北めぐみ訳、ハーパーコリンズ・ジャパン、1167円)。 *  *  *  ミステリーの世界に記憶喪失の主人公を初めて登場させた作家が誰なのかを確認したことはないが、現在に至るまで、記憶喪失テーマのミステリーが数えきれないほど大量に発表されていることは間違いない。あまりに多すぎて、このテーマで新味を出すことは、もはや難しいように思えてしまう。  しかし、そんな記憶喪失ミステリーにも、まだまだ新たな切り口が存在するということを教えてくれるのが、クアラルンプール出身でロンドン在住の作家フェリシア・ヤップのデビュー作『ついには誰もがすべてを忘れる』である。  早い段階で明かされるように、作中の世界は、人口の70パーセントを占める、前日の出来事までしか記憶できない「モノ」と、残り30パーセントの、前日と前々日の出来事までを憶えていられる「デュオ」という2種類の人類が存在するパラレルワールドである。家柄や身分ではなく記憶力の差による格差社会が形成されている状態だが、それ以外は私たち読者のいる社会と大差ないようで、作中の世界にもスティーブ・ジョブズやクエンティン・タランティーノがいるらしい。  モノのクレアとデュオのマークのエヴァンズ夫妻は、周囲の反対を押し切って結婚して20年。二人の仲は既に冷えきっており、クレアは抗うつ剤を常用している状態だ。ある日、エヴァンズ家に主任警部のハンス・リチャードスンが現れ、ソフィアなる女性が変死した事件についてマークから供述を取ろうとする。その時の警部の発言から、クレアは夫がソフィアと深い仲にあったことを知ってしまう。  警部がマークに疑いの目を向けたきっかけはソフィアの日記だった。17年間精神科に入院していたソフィアは、マークに対して復讐を目論んでいたらしい。だがそこには、彼女がすべての記憶を保っていられる特殊な人間だという、到底信じ難い記述もあった。  物語はクレア、マーク、警部の3人の視点に加え、ソフィアの日記も挟み込まれ、4種類の視点のリレー方式で進んでゆく。記憶力に問題がある以上、事件の当事者であるクレアやマークの内面描写が、いかに本人は潔白のつもりでも信用できないことは言うまでもないし、ソフィアの日記もどこまで本当のことが記されているか疑わしいが、実は警部も問題を抱えている。24時間以内にどんな事件も解決するという評判の彼は、モノであるにもかかわらず、それを隠し、デュオしかなれない要職に就いているのだ。秘密を部下に見破られるのではないかと怯えつつ、彼は捜査を進めてゆく。  文芸の世界には「信用できない語り手」という用語があるけれども、本書の場合は主要登場人物4人の全員が信用できないのだ。それぞれの視点で読者が感じるであろう数々の疑問は、綿密な伏線回収によって次第に真相へと収斂してゆく。そして終盤には、章ごとに視点を切り替える本書の構成ならではの、怒濤のような連続どんでん返しが待ち受けており、最後の最後まで油断は禁物なのである。  どんなに使い古されたように思える設定でも、SF的要素を取り入れるなどの発想の転換によって、目新しさを演出できるというお手本のようなミステリーである。そしてこの発想は、死人が復活するようになった世界を舞台にした山口雅也の『生ける屍の死』や、何度も同じ時間帯のタイムループを繰り返す西澤保彦の『七回死んだ男』、近年の新人で言えば今村昌弘の『屍人荘の殺人』や阿津川辰海の『星詠師の記憶』といった、超現実的な特殊設定を取り入れた日本の本格ミステリーの着想とも近いように感じられる。ミステリーの新たな可能性を探る試みは、世界各国で自然と似た方向を向くようになるということなのだろうか。 ※週刊朝日  2019年5月3日号‐10日合併号
週刊朝日 2019/04/27 11:30
“やる気スイッチ”を押す「10秒アクション」って何?
“やる気スイッチ”を押す「10秒アクション」って何?
※写真はイメージです 行動力がアップする「10秒アクション」 (週刊朝日 2019年3月8日号より)  年のせいか、何となくやる気が出ないので明日にしよう……。いやいや、待っていてもやる気は湧いてこない。具体的な目標を決め、自分で動きだすしかないのだ。心理学と認知行動療法の専門家に、シニアでも簡単に押せる“やる気”スイッチについて教えてもらった。 *  *  *  自宅から徒歩15分ほどにあるスポーツジムで毎日、汗を流す70代のアキコさん(仮名)。新しくできたジム仲間と楽しい毎日を送っているが、半年ほど前まではほとんど家から出ない“ひきこもり”状態だった。  夫に先立たれ、友人は病気で入院。子どもは近くに住むが、疎遠で連絡はない。何もやる気が起こらず、朝から晩までテレビを見る日々。そんなアキコさんを変えたのは、このままではいけないという気持ちで始めた「10秒アクション」だ。 「この方法は、何をするのもおっくうだというときに、“やる気”スイッチを押す効果があります」  こう話すのは、『本気で変わりたい人の行動イノベーション』(だいわ文庫)などの著書がある大平信孝さん。「アドラー心理学」に基づく技法を活用した目標実現の専門家だ。  アドラー心理学とは、アルフレッド・アドラー博士が始めた、より良く生きるための自己啓発にもつながるもの。「なぜうまくいかないのか」ではなく、「どうすればうまくいくのか」を中心に考える。いわば、行動を起こすための心理学だ。 「一般的に、自分の思いどおりにならない体験や失敗体験が続くと、やる気が失われていきます。特にシニアの方は、肉体的に今までできていたことができなくなるなど、加齢という現実をいや応なく突き付けられる。加えて、身近な人の死や病気などを経験することで、将来への不安も抱えやすい。それだけに、やる気が失われやすいと考えられます」(大平さん)  多くの人が陥りがちな、やる気になったら始めようという先延ばしは、あまりおススメできないそうだ。 「なぜなら、やる気は待っていてもやってこないから。面倒でも自らスイッチを押すしかありません。ありがたいことに、押す習慣さえできれば、あとは自然と行動がついてくる。それは楽しく人生を生きるためのきっかけでもあるのです」(同)  では、その10秒アクションのやり方を紹介しよう。 【1】朝起きたら「今日一日何をするか」三つ挙げる  目覚めたら、「今日一日何をして過ごすか」「どんなことをしたいか」を思い浮かべる。そのなかから優先順位の高いものを三つ挙げる。覚えられないときはメモしてもよい。  ポイントは思い浮かべる内容。普段できるような、例えばこんなものにする。 「朝食はみそ汁とご飯にする」「近所の公園まで散歩をする」「借りていた本を読む」……。  逆に、「語学の勉強を始める」「部屋を徹底的に片付ける」「豪華な夕飯を作る」……など、面倒なこと、難しいことは挙げないほうがよい。 【2】三つについて「10秒アクション」を考える  次に、優先順で挙げた三つの「やること」を始めるための、10秒アクションを考えてみる(メモする)。  みそ汁を作るのであれば「冷蔵庫を開ける」でOK。散歩であれば「玄関で靴を履く」、読書であれば「『はじめに』だけ読む」など。 【3】その日のなかで三つの「10秒アクション」を実行  一日のどこかで10秒アクションを実行する。それだけで終わらせてもよいし、ついでにその先の行動を起こしてもいい。みそ汁を作る、散歩に出るなどだ。 【4】寝る前に自分を褒める  寝る前に一日を振り返り、10秒アクションを最後までやり遂げた自分を褒めてあげよう。メモにしていれば、赤ペンで○をしたり、ご褒美シールを貼ったりするなどしてもいい。  あなたでもできるような気がしませんか。  ところで、なぜ10秒でやる気スイッチが入るのか。大平さんはこう解説する。 「人って案外、しっかりやろう、ちゃんとやろうとするほど、物事を先延ばししやすい。行動のためのハードルが高すぎてしまうからです。何かを始めるきっかけを作るには、10秒アクションぐらいのハードルの低さが大切なのです」  この10秒アクションはドミノ倒しの最初の一枚のような役割を持つ。それがトリガー(引き金)となって、本来やりたいと思っていた行動をとりやすくなる。  行動の振り返りも大事な要素だ。 「どんな小さなことでも自分で決めて実行すれば、大きな自信になり、翌日のアクションにつながります。シニアにとって大切なのは、未来より毎日をよりよく生きること。先のことを考えすぎて不安になり始めると、負のスパイラルが起き始める。それを断ち切るためにも、『今日一日はいい日にしよう』と頭を切り替える。そういう思考パターンを作るためにも、この10秒アクションは役立ちます」(同)  もう一人、やる気スイッチの押し方を指南してくれたのが、精神科医で認知行動療法の第一人者、大野裕さんだ。認知行動療法とは、ものの受け取り方や考え方(認知)に働きかけて、行動を変えていく心理療法の一つ。その手法を、やる気スイッチの押し方に生かすにはどうしたらいいのか。大野さんはポイントとして、「考えずにまずは行動すること」と指摘する。 「やる気が出る一番のモチベーションは、やりがいや楽しめることですが、日々の生活でそういうものを見つけられない人は多い。その場合、気が重いとか、面倒とか考えずに、まずは無理のない範囲で動いてみる。最初の一歩を踏み出すことです」  誰でも、行動してみたら意外と簡単で楽しかった、という経験をしたことがあるだろう。それを利用して動くことで、気持ちを変えていけばいい。 「人間のもともとの性質として、何か行動を起こす前に『こういう行動をとって大丈夫なのか』『行動してもダメなんじゃないか』というネガティブな思考が働きやすい。危険な行動を回避するための本能的なものですが、それがやる気を遠ざける要因となってしまっています」(大野さん)  あれこれ考える前に行動を起こしていい体験ができれば、それが意欲につながり、やる気スイッチが入る。問題はうまくいかなかったときだが、そのときは「情報収集ができた」と考えるとよいそうだ。 「野球で考えてみましょう。3割バッターはすごいと言われますが、見方を変えると7割は失敗している。私たちはどうしても、できないことに目を向けがちですが、できることに目を向けるようになるだけでやる気は出てきます」(同) 「やる気時間」も重要だ。朝や夜など、自分が動きやすい得意な時間を知ることで、負担が軽くなる。 「考える前に動く、できることに目を向ける、やる気時間という三つを続けていけば、2~3週間で何か自分が変わったという実感が湧くと思います」(同)  うつ病や薬の副作用、体の病気などで、どうしてもやる気が出ないこともある。特に高齢者のうつ病では、「意欲の低下」が起こりやすい。いろいろ実践しても状況が変わらなければ、一度、主治医に相談しよう。  春はもう目前。あなたも明日から、やる気スイッチを押してみよう。(本誌・山内リカ) ※週刊朝日 2019年3月8日号
週刊朝日 2019/03/01 16:00
発達障害とうつ発症 45歳ひきこもり主婦が子育て疲れと夫の浪費癖に向き合えた理由
石井志昂 石井志昂
発達障害とうつ発症 45歳ひきこもり主婦が子育て疲れと夫の浪費癖に向き合えた理由
「子どもの命を守ること」を最優先にやったこととは(※写真はイメージ) 「家事手伝い」「主婦」という肩書きがあるがゆえ、内閣府の統計から漏れていた既婚女性のひきこもり。その実態が、当事者団体である「ひきこもりUX会議」の調査で明らかになった。回答した143人の女性うち、既婚者は4人に1人。中でも、専業主婦(配偶者と同居し、収入がない人)がひきこもるようになった原因は、コミュニケーション不安(81%)、精神的な不調や病気(75%)、家族以外の人間関係(66%)だった。  リョウコさん(仮名、45歳)もひきこもり主婦の一人。高校を卒業後に就職した建設会社でいじめを受け、結婚・退職後は自宅にひきこもるようになった。躁うつ状態も経験し、27歳のころに出産。子育てに追い詰められた彼女を救った人とは。不登校新聞の編集長、石井志昂さんが聞いた。 *  *  * ――「ひきこもり歴が21年」というリョウコさんですが、そのきっかけはなんだったのでしょうか?  25歳で退職したのを機にガクッときたのが直接のきっかけでした。  私は高校卒業後、すぐに建設会社に就職しました。就職したのは1990年。87年に男女雇用機会均等法が施行され、女性にも門戸が広がり始めた時期でした。私自身も「仕事さえできれば上がっていける」と感じていたときです。  ところが私は「歓迎されない新入社員」でした。入社前のあいさつ時、事務員の女性から「私、あなたには入ってほしくない」とも言われました。私も若かったので「そんな人もいるよな」と思っていましたが、かなり多くの社員がそう思っていたみたいです。  私への嫌がらせは露骨でした。  書類ミスがあれば私だけは最初から書き直しを命じられたり、わざと負担の大きい仕事を押し付けられたりしていました。「どこの馬の骨のやつかわからないから信用できない」とも言われ、社内で出回る「結婚できなさそうな人ランキング」という番付表ではいつも1位。あからさまにバカにされることも多かったです。  それでも「仕事さえできれば」とがんばっていましたが、仕事をやればやるほど「女のくせに」とバッシングされました。精神疾患にもなり3カ月間の休職をしたこともありまが、社内いじめは私が退職するまで続きました。 ――なぜこんなにも露骨ないじめをしてくるのでしょうか?  私が入社した建設会社では、女性社員といえば「おえらいさんのお嬢さん」しか採用されなかったんです。お得意先や役所に勤めている人のお嬢さんだからコネがあり、そのコネが仕事につながる。しかし私にそんなコネはありません。  私を雇ったのは会社の方針かもしれませんが、「お前のせいで何千万円も損をしている」と言ってきた社員もいました。とくに営業部は私の入社に不満が強かったそうです。 ――リョウコさんがひきこもり始めたのは退職後です。一番つらい時期ではなく、その時期を抜けたときに「痛みが吹き出す」のもよくあることです。リョウコさんの場合も、そうだったのでしょうか?  たぶんそうだと思います。就職中は苦しいと感じることよりも「自分が悪いんだ」としか思っていませんでした。 ――ひきこもっていたときはどんな状態だったのでしょうか?  一日中、ずっと布団のなかにいて、ぐっすりと寝るわけでも、眼が覚めているわけでもないという感じでした。「仮眠」と「寝ぼけた状態」をくりかえすので、現実のなかにいるのか、夢なかにいるのかよくわからない、そういう状態です。 ――ひきこもり中は「白昼夢を見ているようだった」という人もいます。  まさにそういう感じです。なので私の記憶が正しいのかはわかりませんが、ほとんど寝っ放しですごしていたのは事実だと思います。  この期間、炊事、洗濯、掃除など、家事はすべてできませんでした。外出もしませんし、お風呂に入ることも、規則的に食事をとることもできません。着替えや部屋の電気をつけることも、ままならないし、おそらく味覚も鈍くなっている状態でした。 ――その期間は、どんなことを考えていましたか?  なにかを感じたり、考えたりすることはできませんでした。ただ布団にもぐって「何も知りたくない」「何も見たくない」「何も聞きたくない」と思うだけです。寝ているあいだに会社で罵られていた当時の夢を見て、眼が覚めてしまうということはよくありましたけど。  この期間は、「うつ状態」とハイテンションな「躁」の状態を行き来していました。  躁状態に入ると今度は寝ません。家事をして、病院へ行き、ありったけのお金で買い物をして、夜中まで飲みに歩く。うつ状態のときとは人が変わったように活動的でした。 ――周囲はどんな反応でしたか?  夫は協力的ではありませんでした。躁状態のときは何も言わず、うつ状態になると「働かざる者食うべからず」「使えないやつだ」と言っていました。  母子家庭で育ったので父とはつながりがなく、母とも疎遠でした。私が休職した段階で、母は「うちの家系から精神疾患だなんて恥ずかしい」と言い、「あなたの気質が悪い」と言ってました。  友人は就職時から相談に乗ってくれ、いまでも感謝していますが、私の躁状態がひどくなってからはしだいに離れていきました。 ――誰にも相談できる状態ではなかったんですね?  相談したいと思ったことはありません。自分が「病気」「苦しい状態」だという認識すらありませんでした。 ――お話を聞くかぎり、ひきこもっていたこと自体よりも、周囲が心の傷に理解を示していないほうが危険な状態だと感じるのですが?  そのとおりです。1年半のあいだ、激しい躁うつ状態をくり返して自殺未遂に至りました。大量に服薬して気が付いたら病院で胃洗浄を行なっていました。医者からは「家に帰ってはいけない」と言われ入院しています。  この入院によって激しい躁うつ状態が、やや収まりました。今に至るまで約20年間は「ひきこもり」状態だと思いますが、苦しかった時期のひとつです。  もうひとつは「波」は子どもが生まれてからやってきました。 ――お子さんが生まれてからの「波」というのは?  引き金になったのは「経済的な不安」です。夫には浪費癖があり、子どもが生まれてからも給料の半分以上は趣味に費やしていました。生活費もままならない状態になっても、私は「食べさせてもらっている」という意識が強く、文句を言えないまま不安ばかりが大きくなりました。  そして子どもが1歳半の時、育児の疲れもあり、私の体は以前の「動けない状態」へと使づいていきました。なんとか最低限度の育児はするものの、私の不安は苛立ちに変わり、苛立ちは子どもに向かっていく。子どもを「殺してしまいたい」と思うほど追いつめられました。ふり返れば、このときが一番苦しかった時期です。 ――お子さんとりょうこさんは、どうなったのでしょうか?  まず、母を説得して子どもを預け、私自身が3カ月間、入院しました。  医師からのアドバイスもあり、「子どもの命を守ること」を最優先として、一時期は親元で暮し、自宅に戻ってからは夫の給料を私が管理しました。  その後も順風満帆というわけではありません。やはり私が受けていた傷も深く、子どもも発達障害だったため集団生活になじめませんでした。小学校の校長先生からは「出て行け」と言われたこともありますが、どの相談機関も支えてはくれませんでした。  風向きが変わったのは、入院先で知り合った児童精神科医の先生に受診してからです。先生だけが子どもや私の苦しさと向き合ってくれました。診察は3カ月に1回、10分程度。しかし、この時間がなければどうなっていたかわかりません。  先生は特別なクスリを出すわけでも、すべての問題を解決してくれるわけでもありません。でも子どもの話はどんなことでも疎まずに聞きます。私が悩んでいる時は、心の折り合いがつくまで付き合ってくれます。ホントにこの時期、先生に合わなければ、私ひとりではムリでした。  うちの子はいま、高校を卒業し、東京の会社で就職しています。先生は私の主治医になってくれ、生活費は養育費でまかなっています。 ――これまでのことをふり返って、ひきこもった根本的な理由はどこにあると思いますか?  誰からも「あなたはあなたでいいんだ」と伝えてもらえず、自己肯定感がなかったことです。私も発達障害です。でも私が生まれたころには発達障害という概念はなく、周囲からは「ヘンな子」だと言われ、親からは「恥をかかせるな」としか言われませんでした。母とは血が繋がっていますが、母から愛はもらっていません。  だから私は苦しくても会社にいたんです。小さいころからから周囲に否定され、自己否定感しか育たなかったから、いじめを受けても「ここでがんばらなきゃ」としか思えなかったんです。  自己肯定感があれば「根拠はないけど私は大丈夫、他の場所でもきっとやれる」と思い、早めにSOSをあげられました。  ひきこもったのは必然です。私がどんな道を通っていても、ひきこもっていたと思います。 ――「これがあれば変わっていた」と思うことはありますか?  ひとりでもいいので理解者に出会えればちがったと思っています。「あなたはあなたでいいんだ」と心から伝えてくれる人がいたら、と。  私は先生との出会いを通して、一人だけでも理解者がいれば変わることは実感しています。あるいは、私と同じような立場の人であれば、林恭子さんたちが開く「ひきこもりUX女子会」ですね。同じ境遇の人と共感しあえることでも気持ちは楽になりますし、私自身も女子会へ行って気持ちが救われました。 ――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂) ■リョウコさん(仮名)の略歴  45歳・女性。北海道生まれ。高校を卒業後、大手建設会社に勤務。社内いじめを受ける。24歳で結婚。25歳で退職しひきこもり。27歳で第一子を出産。ひきこもり期間は25歳から現在に至るまでの21年間
出産と子育て夫婦病気石井志昂
dot. 2018/08/20 11:30
相模原障害者殺人事件 植松聖被告の手記とマンガを出版した編集者が語る“オウム真理教との共通点”
相模原障害者殺人事件 植松聖被告の手記とマンガを出版した編集者が語る“オウム真理教との共通点”
犯行前の植松被告(ツイッターより) 植松被告が描いたマンガ(『開けられたパンドラの箱』より) 植松被告の手記を出版した雑誌「創」の篠田博之編集長  相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件から2年が経った。殺人などの罪で起訴された元職員の植松聖被告(28)は、「重度の障害者は安楽死させた方がいい」という独善的な主張を持ち、凶行に及んだ。逮捕後もこの持論は何も変わっていない。  そのなかで今月、植松被告の手記やマンガなどをまとめた『開けられたパンドラの箱』が創出版より発売された。手記については同社の月刊誌「創」にすでに掲載されていたが、一冊の本となって出版されたことに批判の声も上がっている。  なぜ、差別主義者で大量殺人犯の手記を本にまとめたのか。篠田博之編集長(66)にその理由を聞いた。 * * * ──殺人犯の手記といえば2016年4月、神戸連続児童殺傷事件の犯人が「元少年A」の名前で出版した『絶歌』(太田出版)があります。本がベストセラーになったことで「出版の自由」をめぐって大きな議論になりました。  まず前提として、「元少年A」の『絶歌』はある種の作品として書かれたもので、被害者感情への配慮といったことはほとんどなされていない本です。それに対して『開けられたパンドラの箱』は事件を解明するという報道のスタンスに立った本で、植松被告の発言はその素材のひとつなのです。ただ、彼の発言や主張がまとまった形で世に出るのは初めてなので、いろいろな議論を巻き起こしているわけですね。  ただ誤解している人もいるのですが、植松被告の発言や手記は3部構成の第1部だけで、しかも彼の主張をそのまま掲載しているのではなく批判的に検証しています。また、本では植松被告の主張に対して、事件の被害者家族や障害者家族などの批判や、精神科医による分析なども掲載しており、事件を多角的に検証したものなんです。  私自身も20回ほど植松被告と面会していますので、そこで本人に聞いた事件の経過も掲載しました。あの事件の詳細はほとんど明らかになっていませんでしたから、その取材で初めてわかったこともたくさんありました。 ──批判が起きることは覚悟していたのでしょうか。  もちろん、批判があるだろうことは予想していました。それでも出版しなければと考えたのは、この事件は日本社会に深刻な問題を投げかけたのに、この1年ほど、マスコミがほとんど報道もしなくなり、急速に風化しているという現状に危機感があったからです。  一方で、障害者やその関係者はいまだに恐怖を抱えているのですが、その恐怖は、真相が解明されていないからだと思います。障害者施設の職員だった人間が、なぜあのような考え方に至ってしまったのか、そもそも植松被告自身が精神的な病いにおかされての犯行なのか。精神鑑定も既に2回行われていますが、事件の骨格に関わる部分がほとんど明らかになっておらず、それゆえ恐怖はいつまでも続いているのです。一般の人たちの無関心と当事者たちの恐怖という、このいびつな現実を突破するのはメディアの役割と責任だと思っています。  植松被告の手紙や手記を掲載したのは「創」の昨年9月号からです。意外に思われるかもしれませんが、障害者やその関係者から大きな関心が寄せられ、真相解明を求める声が予想以上に多かった。障害者や家族、あるいは施設で働く人にとって、この事件の衝撃と恐怖がいかに大きかったかということです。  植松被告の裁判はこれから開かれますが、死刑になる可能性が高いと言われています。彼は重度の障害者だけでなく、死刑囚についても「いつまでも執行しないのは間違いだ」と主張しているので、彼に対する裁きはそう遠くないうちになされる可能性があります。ただ問題はそれで終わらず、大事なのは事件やその背景を解明することです。植松被告を罰しただけでは事件の再発防止にはなりません。犯罪というのは社会に対するある種の警告ですから、それにこの社会がどうやったら対抗できるのかが問われているのです。 ──篠田編集長はこれまで宮崎勤元死刑囚など、多くの死刑囚と面会をしています。植松被告の印象は。  植松被告の犯罪は、印象としてはオウム事件に似ています。犯罪を犯した当事者の意識は、主観的には社会改造なんですね。ですから彼はいまだに自分の考えに異様なまでに固執しています。  2016年2月に彼は総理大臣に自分の主張を訴えようとして手紙を持っていくのですが、警備が厳しいので3日間通った末に衆議院議長公邸に手紙を渡します。手紙の内容は殺害予告だったのですが、彼がそんなふうに思いつめていくのがそう以前からでなく、2月初め頃からなんですね。そんなふうに短期間におかしくなっていったプロセスや、いまだにその考えに固執している異様さを見ると、何らかの精神的疾患によるという疑いも捨てきれません。  気になるのは、彼が2016年2月にそうなっていくひとつのきっかけは、テレビでトランプ大統領候補とイスラム国のニュースを見たことなんですね。つまり混迷している世界状況を、暴力的に片づけていくという発想に、彼は傾いていくのです。今回の本に収録した植松被告の30ページにも及ぶマンガ(資料参照)があるのですが、それは人類社会に絶望して暴力的に破壊するというストーリーです。これを彼は獄中で約半年かけて描いていったのです。  暴力的な破壊は結局、社会的弱者を攻撃の対象にすることになるのですが、日本だけではなく世界で蔓延している排除の思想が明らかに植松被告に投影されていると思います。だからこの事件は恐ろしいのです。被告本人を極刑にしただけで解決するような問題ではありません。 ──事件は、日本社会にどんな問題提起をしたのでしょうか。  たとえば、植松被告は事件の約半年前に犯行を予告し、ほぼその通りに決行しています。この犯罪をどこかの段階で防ぐことができなかったのか。彼は措置入院によって精神病院に送られるのですが、精神科医はもちろん治療が目的なので、症状がおさまれば退院させるわけです。でも彼の手記を読むとわかりますが、彼は措置入院中に事件の決行を決意し、早く退院するためにおとなしく振舞っていたのです。しかも退院後は決行までの間は生活保護を受けて食いつないでいくとか、犯行へ向けて準備を進めていくのです。  それに対して退院後は何のフォローもなされていません。行政側は対応しようとしていたのですが、最初、植松被告は、八王子の親のもとへ戻ると言いながら実際は相模原に戻っていた。八王子と相模原の行政側の連携ができていなかったために何もできずに事件を防げなかったのです。  そもそも彼のようなケースに対して、精神病院に犯罪予防的な機能を負わせること自体、無理があるわけで、こういう事件に対抗するシステム自体ができていないのですね。なぜそれが難しいかと言えば、それは監視社会の強化ということと結びついているからです。「ケア」というのは、される側からみれば「監視」なのです。  そういう難しい問題をたくさん抱えている事件だけに、現時点では何の有効な対策も講じられていません。この1年間、事件の報道がほとんどなされなかったのも、そういう難しい問題に多くのマスコミがたじろいだためだと思っています。 ──日本には、まだ障害者差別の考え方が根強いのでしょうか。  19人の犠牲者がいまだに匿名のままであることが象徴的ですね。誰もが総論としては「障害者を助けたい」と言うのですが、現実にはあまり関わりたくないと思っている。この事件への無関心が広がっているのはそのためでしょう。  その一方で、ヘイトスピーチに象徴される、ある種の排外主義が日本で急速に拡散しつつあります。植松被告の考えがそれとどこかでつながっているのは明らかだと思います。  この事件は、日本社会の中にあった「パンドラの箱」を開けてしまった。障害者差別の問題を含め、これまで曖昧にされてきた多くの問題をこの事件は表にさらしました。だから、この社会は、もっとこの事件にきちんと向き合わないといけないと考えています。今回の出版は、そのきっかけになってくれればという思いから行ったものです。 (構成/AERA dot.編集部・西岡千史)
dot. 2018/07/26 11:46
オウム死刑囚6人も執行 「喋らない林、死にたいと漏らした端本」被害者、脱洗脳カウンセラーらが語る真実
オウム死刑囚6人も執行 「喋らない林、死にたいと漏らした端本」被害者、脱洗脳カウンセラーらが語る真実
端本悟死刑囚 (c)朝日新聞社 林泰男死刑囚 (c)朝日新聞社  松本・地下鉄両サリン事件などで29人の死者を出した一連のオウム真理教事件で死刑判決を受けた林(現姓・小池)泰男死刑囚(60)ら6人の刑が26日、執行された。林死刑囚のほか、岡崎(現姓・宮前)一明(57)、横山真人(55)、豊田亨(50)、広瀬健一(54)、端本悟(51)ら5人。オウム事件での死刑囚は13人で、教祖の麻原元死刑囚(本名・松本智津夫)ら7人は7月6日にすでに執行されていた。1カ月の間で2回の執行は初めてで、残された死刑囚の精神状態を考慮し、早まったとみられる。死刑囚全員の刑が執行されたことで、一連のオウム事件に終止符がうたれたが、事件にはまだ多くの謎が残されている。阿鼻叫喚の地獄絵のような現場で被害者、医師、捜査員、脱洗脳カウンセラーらは何を思ったのか? ■「接見で林、端本ら死刑囚が見せた素顔」 オウム真理教家族の会会長 《死刑囚6人と接見した「オウム真理教家族の会」の永岡弘行会長がその長い道のりを振り返る。》  東京拘置所で土谷正実、新実智光、井上嘉浩、中川智正、林泰男、端本悟と会いました。  拘置所の土谷は最初は何も話さなかったが、やがて「後悔している。両親に会いたい」ということを言いだした。それで、うちの家内が土谷の母親に会いに行ったんですが、「あの子には会いたくない」とおっしゃった。その後、土谷には彼女ができて、獄中結婚しました。戸籍上結婚していないと、会うこともできないんですね。彼女とも私は長時間話をしたことがあります。結婚生活は3~4年は続いたが、彼女からある日、「アメリカへ行きます」と電話がかかってきた。数年前に離婚したようです。  新実とは何度も会っています。麻原をまだ、尊師と呼んでいた。高橋克也被告の公判に証人として出廷したときも、オウムのころから着ていたサマナ服でした。接見したときも、「親はお前を心配してるんだぞ」と言っても、黙して語らず、そういう感じになってしまいましたね。井上は拘置所で自殺を図ったことがある。彼は房内で眠れなくなって、睡眠薬をもらっていて、それを一生懸命ためて、一気に飲んで自殺を図った。私は驚いて、飛んでいきましたよ。「卑怯なことをするな。生きて償うほうがもっとつらいんだぞ」と叱ったら、唇を噛みしめて「わかりました」と答えた。何が好きか聞いたら「オートバイが好き」と言うので、バイクの雑誌を差し入れました。彼は2年くらい前まで、短歌を作って、私に送ってきていました。2015年に証人として井上が裁判に出廷したとき、彼のお父さんが会いたいと言うので、会ったことがあります。お父さんはただただ「申し訳ない」と言うばっかりでしたね。  中川も獄中で短歌を作っている。彼とも何度か会い、同年3月4日にも接見してきました。彼のお母さんとはよく連絡をとりあうんですが、彼のお父さんは病気らしく、お母さんはちょっと面会に来れないんだよということを伝えてあげました。彼はうなずいていました。  林泰男は私が接見したときは何もしゃべらなかったんですが、公判ではよくしゃべります。彼は古参の信者だったから、母親もいい年なんですよ。私どもの会合など、いろんな会合に顔を出しておられたのですが、健康状態がすぐれないようで、最近はあまりお見かけしなくなりました。  端本君と接見したときには、拘置所の中でうちひしがれている感じでしたね。死にたいみたいなことを言うので、「そういうことはまかりならん」と、言っておきました。  私は95年1月、自宅の近くの郵便ポストに行く途中、オウム信者にVXをジャンパーの襟にかけられ、意識不明になって、病院のICUに運ばれました。今も体にしびれが残ります。けれども、私は彼らの死刑には反対しています。彼らは麻原の操り人形だった。償うことのできない大罪を犯したが、宗教法人としての認証を与えるべきではなかったんです。私はそれに反対する行動を起こしていました。先日、久しぶりにオウムのサティアンがあった旧上九一色村へ行きました。サティアンがあった場所は野っ原で牧歌的な場所になって、慰霊碑が立ち、そこでお祈りしてきました。涙が流れました。宗教法人としての認証を与えないように、あのときちょっとでも行政が聞く耳を持ってくれたならば、という気持ちも込み上げてきました。 ■「教祖を法廷で罵っても悪の教義は今も信じている信者」 脱洗脳カウンセラー  尊師の「ポア(殺せ)」という指示で凶悪なテロをためらいもなく実行した実行犯たち。事件直後から、オウム信者の脱洗脳を手掛けてきた脳機能学者・苫米地英人氏がその動機を語る。 「サリン事件は、オウムにとって“ヴァジラヤーナ”という教義に基づき、教えを実践したまでのこと。麻原は最終解脱者で、他人の魂を解脱させて転生することができ、人々はカルマ(悪業)を積んでいるから、苦しめば苦しむほど、より良い転生ができる。つまり、サリンをまいて苦しめて殺すことが、人のためという危険な教義だったのです」  苫米地氏は、重罪を免れ、社会復帰した一部の幹部らは今も確信犯とみている。 「元幹部らオウム信者の多くは麻原を否定しても、ヴァジラヤーナを全く否定していない。やはり、オウムに対し、破壊活動防止法で組織を壊滅させるべきだったと思います」(苫米地氏)  実行犯・高橋克也被告の裁判で、林泰男死刑囚や林郁夫受刑者はかつての尊師を罵った。 「本当に洗脳が解けているかは極めて怪しい。薬物を使った洗脳は簡単に解けるものではない。ずっと刑務所にいて自然に解けたなんてあり得ません」(同)  苫米地氏は、十数人の元信者の脱洗脳に成功したが、当時の苦労をこう話す。 「隔離して専門的な技術を使って脱洗脳を行い、やっと解けたのです。その中の一人の正悟師のMは、現在刑期を全うし、OLとして社会復帰をしています」  麻原死刑囚がいた東京拘置所(葛飾区)の周辺は、「麻原のエネルギーが強い」という理由から、信者の間では“聖地”とされている。ぶつぶつと何かを唱えながら巡礼する信者が近所の人の間で、たびたび見かけられている。 「麻原の死刑が執行され、神になるだけ。オウムの闇は今も解明されていないことが多いのです」(同)  だが、未解決事件を掘り起こしてほしくない人がいるようだと、苫米地氏は指摘する。 「國松(孝次元警察庁)長官狙撃事件も、K(元巡査長)が証言をしても、証拠が次々と消されて隠滅されてしまった。サティアンがあった旧上九一色村に、核廃棄物がいまだに埋められているという話も、当局は調査しようとさえしなかった。麻原ら13人の死刑が執行されて、問題がなかったことのように、闇に葬られようとしています」(同) ■「車内にシンナーのようなにおいが漂い、『毒ガスだ、逃げろ』と」 被害者が語った忘れられない記憶 《地下鉄日比谷線北千住発中目黒行きの午前7時46分発の電車に、実行役の林泰男死刑囚は、杉本繁郎受刑者の運転する車で上野駅から乗り込み、秋葉原駅でサリン液の入った三つのポリ袋を傘の先でついた。その結果、電車は築地駅で緊急停止。死者8人、重軽傷者約2500人を出し、日比谷線のこの電車はサリンがばらまかれた丸ノ内線、千代田線などの5本の電車の中で最大の被害が出た。当時、会社員だった石橋毅さんは、埼玉県越谷市で暮らし、朝の出勤途中、電車に乗り合わせることになった。》  1995年3月20日は普段と何ら変わらない、晴れ渡った朝でした。日比谷線神谷町駅の近くにある会社のビルのメンテナンスに出勤するため、午前7時くらいに自宅を出て、越谷駅から東武伊勢崎線に乗り、日比谷線の北千住駅で席に座り、車内ではスポーツ紙で好きなプロ野球の記事を読みながらウトウトしていました。  日比谷線の人形町駅か八丁堀駅を過ぎたころ、何か2回くらいドスンというような音がして、目が覚め、車内を見回したら、左斜め前に立っていた初老の男性がいきなり、のど元に手を当て、体を硬直させながら後ろ向きに倒れた。  2メートルくらい離れたドアの近くには水たまりのようなものがあった記憶があります。車内にはシンナーのようなにおいが漂っていて、クラクラした気分になった。キャーという女性の悲鳴も聞こえた。  スーツ姿のサラリーマンが、ハンカチを口に当てながら、ドアの近くにあった非常通報ボタンを押して、電車は築地駅で緊急停止した。「毒ガスだ、逃げろ」という声が聞こえ、乗っていた人たちは、ドアをこじ開け、一斉に走りだした。私も駅の外へ逃げようと全力で走ったが、階段を上っている途中で、足が動かなくなった。四つん這いになって地上を目指した。  階段を上り切って、外に出ると築地本願寺のそばに出た。青い空、澄みきった空気でした。  何が地下鉄で起きたのかはわからなかったが、とにかく会社へ行くことだけを考えていた。築地本願寺の前あたりから市場のほうへ交差点を目指して歩き、交差点でタクシーを拾い、後部座席に座り込んだ。運転手さんと話をしているうちに、息苦しくなり、大きく口を開けてハアハア言うようになって、そのうち気を失ってしまった。  気づいたら、タクシーの運転手さんにかつがれて、虎の門病院の受け付けへ到着していた。病院ではソファに倒れ込んでいる人、ハンカチで口を覆ってうずくまっている人、駆け回る看護師さん。パニック状態でした。  私は集中治療室(ICU)に運ばれ、点滴を受け、しばらく気を失っていた。スタッフが電話で「えー、サリンだってよ」と話している声が聞こえてきた。それで、サリンがまかれたのを知りました。病室がとても暗く感じました。後で知ったのですが、目の前が暗く感じるのはサリンの中毒症状だそうです。  4日間入院しました。その後、通院しているときに、病院で警察の方からも事情を聴かせてほしいと言われ、話をしました。警察官から、地下鉄の電車の車内に、私が通勤の緑のバッグを忘れたと教えられました。中には弁当が入っていました。  事件後、疲れやすく、膝に力が入らないなどの症状があり、誰かにつけられているという妄想にとりつかれた。精神科に入院したりもしました。  3~4年勤めていたメンテナンス会社は、事件の半年後に辞め、地元の新潟県に戻ってきました。サリン事件後、5回転職し、結婚もしたけれど、5年で離婚。離婚してからプライベートでは何一つ楽しいことがない日々が続いた。  2008年12月、政府はオウム真理教による八つの事件の被害者に対し、給付金を支払いました。  そのとき、私は特に申請もしなかったのですが、一時金100万円を給付されました。  その際に、警察の方が尋ねてこられ、新潟にもそういう被害者が十数人いるということを聞きました。  今は新潟県長岡市の地元の会社に勤めて14年ほどになります。心の病や引きこもりの人たちがタレントとして活動する地元のグループ「K-BOX」に参加し、地下鉄サリン事件を題材にした詩を作って朗読したり、ピアノの弾き語りをするようになり、心の安定が得られるようになりました。 ■医師が明かす「手探りだったサリンの解毒」  地下鉄サリン事件では、約700人の患者さんが東京・築地の聖路加国際病院に殺到しました。それ以外の患者さんが都内の大病院にそれぞれ30~40人くらい搬送されました。私は34人の患者さんを診ました。今度は公的機関から「爆発ではなくて、どうやら青酸ガスによるシアン中毒のようだ」という情報が入り、やがてそれが誤りで、サリン中毒だったという情報に変わりました。  救急車で患者さんが運ばれてきて、一番の症状は目の異常でした。サリンの影響で瞳孔が小さくなってしまい、光が入らなくて、まわりを暗いと感じる患者さんが多かったんです。息苦しいと呼吸の異常を訴える人や言語障害などの症状が出た人もいました。地下鉄サリン事件で、オウムが教団内部で実行犯たちの解毒剤として使っていた硫酸アトロピンやパムは、うちの病院に大量に保管してありました。特にパムは特殊な薬で、普通の病院にはあまりなかったので、東京都の他の病院にお分けしました。病院に搬送された方には、シャワーを浴びて浴室で着替えをしていただいてから入院していただきました。うちでは除染をやったおかげで、病院スタッフに誰も被害を出さずに診療ができました。体や衣服についたサリンが洗い流されたんですよね。  重症化した人には衣類についたサリンを継続的に吸い続けて悪くなった人もいます。救急車で運ばれてくるとき、4~5人を詰め込んで連れてきたため、軽症の人や救急隊員も二次汚染した例がありました。他の医療機関で、患者さんの除染をせずにたくさん診察室に入れてしまって、医療スタッフが二次被害を受けたということもあったようです。サリンの診療にかかわった医師たちは諸外国の国々に呼ばれて講演に行っています。世界のテロ災害医療では、アメリカの9.11テロと日本の地下鉄サリン事件が、大きな教訓になっています。 ■「サリン、VX液攻撃されても、平田被告らを弁護したワケ」 滝本太郎弁護士 《1994年5月9日、オウムからサリンの襲撃を受けた滝本太郎弁護士がこう事件を語る。》  当時、私は甲府地裁にいて、山梨県旧上九一色村のオウム真理教の教団施設を巡って、教団の弁護士と法廷で争っていました。開廷中、裁判所の駐車場に止めてあった、私の車のボンネットの空気口からサリンを流されました。空気口は閉じてあったのですが、帰りの車を運転していたら、突然、視界が暗くなった。親がクモ膜下出血の病気を患いましたから、私にもクモ膜下出血の前兆が出たのかと思い、脳ドックをしてもらいに病院へ行ったのを覚えています。  サリンという言葉は麻原説法で知ってはいましたが、まさか自分がやられるとは思ってもいなかった。その後、教団による一連の事件で次々に信者が逮捕され、何人かが「滝本さんの車にサリンをまいた」と自白して、事態を知ったのです。93年7月からはオウム信者の脱会カウンセリング活動を始め、95年に一連のオウム事件がはじけるまで、三十数人が脱会したことから、麻原に狙われたんでしょう。私はサリン1回、VX液2回、ボツリヌス菌1回の合計4回襲撃されました。VXは一滴かければゾウも死亡してしまうほどの猛毒。  94年10月、オウムの信者がデパートで買ってきたポマードにVX液を混ぜて、私の車のドアのノブに2回塗ったんです。私はノブを触りましたが、手袋をしていたのと、VX液も未完成だったので何とか無事でした。この事件の後の94年11月4日、今度はボツリヌス菌で殺害されそうになりました。この日、オウムから脱走した両親の2歳にもならない子供を教団施設から取り戻す交渉をしていたのです。私が静岡県富士宮市の旅館で、教団の弁護士と林郁夫受刑者と交渉していると、「これは健康的な飲み物です」とジュースを出されました。薄汚れたガラスコップだなぁとは思ったんだけど、のどが渇いていたし、飲んじゃった。そのコップにボツリヌス菌が塗られていましたが、飲んでも何ともなかった。警察は周りを見張っていたんですけどね。17年逃亡し、特別手配されていたオウム元幹部の平田信が突然、警視庁丸の内署に出頭しました(2011年12月31日)。平田が「滝本さんに会いたい、呼んでくれ」と言っていると警視庁から連絡があり、会いに行きました。  重要なのは、彼をかくまっていた元女性信者を自首させないと2人とも刑が重くなるということだった。平田は彼女の自首に同意して、私にだけ、彼女の電話番号と居場所を話してくれた。彼女は一旦、犯人蔵匿罪で指名手配されたんですが、そのあと、指名手配が解かれたんですよ。彼女はもう罪になることはないんじゃないかと誤解していてね。私が電話で「犯人蔵匿罪は、住まわせたりして逃亡を助けていれば継続しているから、まだ時効なんて完成してないよ」と教えてあげたら、彼女は「じゃあ自首します」と了解したから、私が大阪へ車で迎えに行って、その車に段ボール6箱を積んで、付き添って自首させたんです。  平田と彼女との利益対立を避けるために、私は10日間で平田の弁護人からは降りました。オウム元逃亡犯の菊地直子が逮捕されたとき(12年6月3日)は、親から弁護人になってくださいと依頼されて、面会に行った。菊地とは一度会っただけです。菊地本人が「親にいろんな迷惑をかけたくないから国選弁護人にしてください」と希望したので、私は辞退しました。 ■「オウムに先手を打たれた」残党信者が今も増加する教団の実態 元警視庁捜査一課幹部  地下鉄サリン事件の裁判では、教祖、麻原元死刑囚と信者9人の死刑、信者4人の無期懲役が確定した。  未曽有のテロの“引き金”となったのは、迫り来る強制捜査だった。当時、サリンの製造責任者だった土谷正実死刑囚など教団幹部の取り調べを行った元警視庁捜査一課理事官の大峯泰廣氏がこう語る。 「サリン事件の1週間前の日曜日、捜査一課捜査員200人全員が陸上自衛隊朝霞駐屯地に集められ、ガスマスクの装着訓練を極秘で行いました。これは強制捜査に備えたサリン対策の訓練でしたが、オウム側へ情報が事前に漏れてしまい、先手を打たれてしまった」  公判記録などによると、麻原は1995年3月18日、故・村井秀夫幹部を呼び、社会をかく乱して強制捜査を防ぐために、「ポア」(殺人を意味するオウムの概念)を指示。大峯氏がサリン製造責任者だった土谷死刑囚らを取り調べた当時をこう振り返る。 「村井は3月18日、『大至急、作らないとダメだ』と土谷に指示し、前夜に約700グラムのサリンができあがりました。それを20日朝、霞ケ関駅などでバラまいたのです。麻原は『ハルマゲドン(人類最終戦争)が起こるから教団は武装しなければならない』と言い、VX、ソマン、イペリットガスなど多くの化学兵器を土谷に作らせていました。当時、土谷は後悔した様子は微塵もありませんでした」  オウムは最盛期、在家信者1万4千人、出家信者1400人を抱える組織にまで拡大したが、公安調査庁によると、サリン事件後は信者数を千人まで減らした。  だが、組織の再興に取り組み、99年に1500人まで回復。その後も微増の傾向を示している。2007年、オウムは現在「アレフ」を名乗る主流派と上祐史浩氏(52)が率いる「ひかりの輪」の両派に分裂。昨年の信者数は両派を合計して1650人。いずれも依然、麻原の影響下にあるとされる。  昨年の資産額は両派を合計して6億9千万円。00年と比べて17倍以上の増加となった。アレフではお布施を集め、ひかりの輪では寺院を巡るツアーを企画するなどして、積極的に資金源を確保しているという。  東京都足立区でオウム対策の住民運動を行う男性はこう語る。 「施設に出入りしている信者数名が、駅で若いころの麻原彰晃の写真を眺めていました。近所の女子大生が、『ヨガに興味はないか?』と誘われたこともありました。信者は何をやっているかわからず、恐ろしい。早く解散してほしいです」  なぜ、あれだけの凶悪事件を起こした団体が、求心力を持ち続けているのか。 「新しく入信する人たちの動機は、『悪の組織だと思っていたけど、教義を聞いてみたら、すごいことを言っているじゃないか』というもの。単純に、『頭のおかしな集団がいて、危険だから監視しろ』と責め立てるだけでは、問題は永遠に解決しない。客観的な視点を踏まえた分析が必要です」(元信者) (本誌取材班) ※週刊朝日 2015年3月27日号より抜粋、加筆
オウム真理教
週刊朝日 2018/07/26 00:00
やまゆり園事件から2年 入所者の親らが投げかける「事件の本質」とは?
野村昌二 野村昌二
やまゆり園事件から2年 入所者の親らが投げかける「事件の本質」とは?
大月和真さんと長男の寛也さん。和真さんが優しく声をかけると、寛也さんは笑ってうなずくしぐさを見せる。今回、自分にできることは何でもしようという思いから、取材に応じてくれた(撮影/写真部・小山幸佑) 取り壊し工事が始まった、津久井やまゆり園。事件現場となった居住棟などは今年度中に解体され、管理棟と体育館などは改修される。新しい建物は2021年度中の完成を目指す(撮影/編集部・野村昌二)  殺傷事件から間もなく2年。現場は再生に向けて動き出しているが、今も被告の障害者差別は続く。障害者が置かれた状況も、変わっていない。二度と悲劇を起こさないために、国や私たちはどうすべきか。 *  *  *  19人が殺害され27人が負傷した事件現場は今、白いフェンスに囲まれ建て替えに向けた工事が進む。ここではかつて、入所者たちの笑い声があふれていた。  2016年7月26日、事件が起きた日、大月寛也(ひろや)さん(37)は、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で暮らしていた。入所者が次々とナイフで刺殺された、「戦後最悪」とされる事件が起きた場所だ。殺人などの罪で逮捕・起訴されたのは、この施設の元職員の植松聖(うえまつさとし)被告(28)だった。  寛也さんの父親の和真(かずま)さん(68)によれば、自閉症の寛也さんは18歳の時に津久井やまゆり園に入所した。事件が起きた時、寛也さんは被告の襲撃を免れたエリアにいたため無事だった。だが、事件直後、一時帰宅から施設に戻った際は、なかなか居住棟に入ろうとせず、ホーム(生活エリア)に着くまで母親の腕をつかんでいたという。いままで一度もなかったことだ。 「いつもと違う異様な雰囲気を、寛也なりに感じとっていたのだと思います」  寛也さんは昨年4月から、仮移転した「芹(せり)が谷(や)園舎」(横浜市港南区)に移り、事件前と変わらずマイペースで生活できている。しかし、負傷した利用者の中には、刃物を連想するため爪を切るのを怖がったり、一人でトイレに行けなかったりする人もいると聞き、「精神的な癒えない傷は今も残っているのではないか」と和真さんは言う。  被告の弱者への差別意識が、なぜ凶悪犯罪へと至ったのか。なぜ無抵抗の人間の命を奪ったのか。ヒトラーが降臨したなどと気取る被告は、報道機関などに送った手紙に「意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだ」などと記している。  だが、先の和真さんは強く否定する。 「寛也は何を話しかけてもうなずきます。言葉を一言も話さないので、本当は何を考えているのか分からないのですが、でも何となく意思疎通はできています。『ご飯だよ』といえば、テーブルについてくれます」  今回の事件が社会に大きな衝撃を与えたのは、単に犠牲者が多かったからというだけではない。これまで日本社会が直視してこなかった問題が噴出したからだ。事件は、さまざまな問題を社会に投げかけた。 ●「稼げば勝ち」という考えが排外的な差別意識を生む  精神科医の香山リカさんは、事件は、今の社会を覆う排外的な差別意識が突出したものだと指摘する。 「経済至上主義や成果主義の中、稼げば勝ち、利益を上げない人は価値がないという考えが世界の一つの『原則』になっています。そうした中、自分と異なるものへの想像力がなくなり、異質なものは排除してもいい、自分の考えは世間の支持を得られるのではないかと考えたのではないでしょうか」  日本障害者協議会(東京都新宿区)の代表、藤井克徳(かつのり)さん(68)は、事件後の対応や関連する動きから、障害者が置かれている立場が浮き彫りになったと話す。 「まずは、警察による犠牲者の匿名発表がありました」  今回、神奈川県警は犠牲者全員を匿名で発表した。通常、殺人事件では警察は被害者を実名で発表するが、同県警は匿名にした理由について「遺族の強い要望」としている。  実際、家族に知的障害者がいることを知られたくないという遺族もいた。しかしそのため、犠牲者は匿名のまま社会から忘れられ、彼らの人生はほとんど振り返られることはなく、事件を正当化する被告の供述だけが大きく報じられている。藤井さんは言う。 「隠さざるを得なかったのは、障害者への偏見という社会の本質的な問題が潜んでいるからとみるべきです」  次に藤井さんが挙げるのが、事件後も利用者は長く同じ敷地内で暮らしていたことだ。最後まで残った入所者39人が芹が谷園舎に移ったのは、17年4月。約9カ月もかかったのは、障害者の人権や感性を理解していると思えないデリカシーを欠いた事態と指摘する。 「心のバランスをとるためにも、少しでも早く凄惨な現場から遠ざかるべきでした」  最後に、大規模入所施設の問題を挙げる。津久井やまゆり園のような障害者を対象とした入所施設は、全国に約3千カ所。施設での虐待や身体拘束は後を絶たず、地域社会から遠隔地にあるものも少なくない。施設以外に安心して預ける場がないため、消去法で大規模施設に入らざるを得ない現状があるという。藤井さんは厳しく批判する。 「やまゆり園の事件の後、厚生労働省が出した対策は、措置入院制度の見直しと施設の防犯対策の徹底のみ。あまりにも対症療法的なものにとどまっている。障害者が置かれた状況も環境も、2年前と変わっていない」 ●事件の背景に何があったか総括も検証もされていない  事件が起きる直前の16年4月には「障害者差別解消法」が施行された。第1条では障害の有無に関係なく「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会」の実現を目指すとしている。法の精神には大半の人が賛同するが、多くの人に障害者に対する差別感情は根強く残り、「多様性」や「共生」といった言葉だけが躍る。  二度と悲劇を繰り返さないためにどうすればいいか。私たち社会は、障害者とどう向き合うべきなのか。  冒頭で紹介した大月さんは、仕事の悩みや不満を抱える職員を支える相談支援体制の整備が必要と話す。 「仕事の葛藤や不安を抱えている職員に専門的なカウンセリングを通して心の安定を図り、不適格であれば、別の仕事を斡旋することなどができればと思います」  次男(47)がやまゆり園のグループホームに入所している杉山昌明(まさあき)さん(78)は、大切なのは知的障害者に対する理解をもっと広げることだと話した。 「たとえば、電車内で障害者が大声を上げたり、走り回ったりしていると、乗客の方は怖がります。それは障害者のことを知らないからです。多くの人が障害者のことを知れば理解が進み、十分な支援があれば障害者が地域で普通に生活できるようになるのではないかと思います」  前出の藤井さんは、「共生」という言葉を進化させた「インクルージョン」が重要と説く。障害者も健常者も、ともに生き、ともに支えあう社会を意味する言葉だ。 「インクルージョンの実現のためには、今回の事件の背景に何があったかをあらゆる角度から総括し検証すること。事件から2年たっても国も社会も真剣に行っていない。総括も検証もないところに、社会の発展はありません」  ナイフを向けられたのは、私たち社会、そして私たち一人ひとりでもあるのだ。(編集部・野村昌二) ※AERA 2018年7月16日号
AERA 2018/07/19 16:00
「20人くらいにやった…」大口病院連続死 事件後も規則的に暮らしていた元看護師の狂気
「20人くらいにやった…」大口病院連続死 事件後も規則的に暮らしていた元看護師の狂気
久保木容疑者が勤務した療養病棟では、特別養護老人ホームなどの高齢者施設には入りにくい、点滴や酸素吸入、経管栄養などを受けている人も受け入れていた。内部は薄暗く、話すのも困難な人が多かったという (c)朝日新聞社  逮捕されたのは捜査線上に名前が挙がっていた元看護師だった。「20人くらいの患者にやった」。驚きの供述を始めている。 *  *  *  朝、自宅近くのバス停から7時18分発のバスに乗り、最寄りのターミナル駅へ。そこからまたバスを乗り継ぎ、川崎市内の物流倉庫に向かう規則正しい毎日。人の噂も七十五日と言うが、すっかり日常を取り戻したと思っていたのだろうか。  横浜市神奈川区の大口病院で2016年9月に入院患者が相次いで中毒死した事件で、捜査開始から約1年10カ月、同病院の当時の看護師、久保木愛弓容疑者(31)が殺人容疑で逮捕された。逮捕前の久保木容疑者の様子を知る人物は話す。 「(看護師を辞めた後に勤めていた)物流倉庫では派遣社員として、今年の春から働いていました。寄り道もせずに帰り、休日もほぼ出歩くことはなかった」 ●同じ場所に住み続ける  久保木容疑者が住んでいた横浜市鶴見区内のアパートの近所に暮らす住人は、驚きを隠さない。 「事件発生時に久保木容疑者が犯人に疑われ、彼女の家に報道陣が押しかけていました。でも、その後も同じ場所に住み続けていたので、てっきり犯人ではないのだと思っていました」  久保木容疑者の逮捕容疑は16年9月18日に西川惣蔵さん(当時88)の体内に消毒液「ヂアミトール」を混入させ、それに含まれる界面活性剤による中毒で殺害したものだ。西川さんの死亡の2日後には、同室に入院していた八巻信雄さん(当時88)も死亡。血液と点滴から同じ界面活性剤の成分が検出されており、点滴に消毒液を混入したとみられる。被害者は2人に留まりそうにない。 「事件の2カ月前の16年7月中旬ごろから、20人くらいの患者に(点滴への消毒液の混入を)やった」  捜査関係者によれば、久保木容疑者はそんな供述をしているという。犯行動機に関しては「自分が勤務のときに亡くなると、家族への説明が面倒だった」とし、「自分の勤務中に亡くなるかもしれない容体の悪そうな患者を選んで、消毒液を混入した」などと話している。 ●上司にもストレス  久保木容疑者が勤務していたのは大口病院4階にある療養病棟だった。自分で食事もできず、回復の見込みが低い終末期の患者などを専門的に診ていた。大口病院の近所に住む70代の男性はこんな話をした。 「病院の前を霊柩車通りと揶揄する人がいるくらい、亡くなる人が多い。大口病院は料金も良心的で、ほかで見放されても診てくれると評判だった」  終末期医療の現場も知る精神科医の片田珠美さんはこう話す。 「終末期医療は死亡退院が圧倒的に多くて、医師も看護師もやりがいを感じることが難しく、職場にストレスを生み出しやすい。患者が終末期の高齢者であることから、久保木容疑者は罪の意識や後悔をあまり感じずに済んだのかもしれません」  久保木容疑者の職場ではトラブルが続いていた。16年4月にはナースステーションにあった看護師の服が切り裂かれ、6月にはカルテ数枚が紛失。8月には看護師のペットボトル飲料に異物が混入され、職員が口に含むと漂白剤のような異臭がする騒ぎもあった。久保木容疑者の母親に近い人物は、こう話す。 「現場の上司にもストレスを感じており、病院の中で犯人捜しが始まったときには母親に『疑われるのが嫌だし警察を呼べばいい』などと話していた」  ただ、身の潔白を母親に告げる半面、供述によればこの時期から点滴への無差別な混入が始まっている。いったい、何が狂気につながったのか。  久保木容疑者は4人家族の長女。会社員の父と専業主婦の母に育てられた。神奈川県伊勢原市の中学時代の同級生は「目立たない大人しいタイプ」と振り返った。公立高校を卒業後は看護学校に進学し、08年に看護師免許を取得。別の病院勤務を経て15年5月に大口病院に転職した。元同僚はこう話した。 「仕事は真面目ですが、仕事以外の付き合いはなく、何を考えているかよくわからない」 (AERA編集部・澤田晃宏) ※AERA 2018年7月23日号
AERA 2018/07/14 07:00
ひきこもり当事者たちに会ってわかった メディアが報じない本当の実態
ひきこもり当事者たちに会ってわかった メディアが報じない本当の実態
メディアが報じない本当の実態(※写真はイメージ)  政府の統計からも支援策からも漏れていた「大人のひきこもり」。そこから立ち直った当事者たちが集い、語り合う場がある。生きづらさを抱える人々を見つめてきた作家・萱野 葵氏が報告する。 *  *  *  本誌4月23日号に、私の知人二人のエピソードをもとに、「大人のひきこもり」の話を書いた。  その際、『大人のひきこもり』(講談社現代新書)など、ひきこもりに関する著書を数多く出している池上正樹さんに話を聞いた。そして、ひきこもり当事者の会を紹介していただいた。「庵(いおり)-IORI-」という会である。庵は偶数月の第1日曜日に開催されている。  私は2月4日に東京都内で行われた集いに参加させてもらった。ここには当事者や家族だけでなく、ひきこもりに関心のある人も来ていた。  その日の会場は、どこにでもある公民館の会議室だった。机を移動し、いくつかのグループに分ける。庵ではいつも議題が決まっていて、分科会に分かれて参加者が話し合う。  私は「社会的監禁について」という分科会に入れてもらうことにした。昨年12月末に大阪府寝屋川市で起きた、両親が娘を自宅に監禁して死亡させたとされる事件をテーマにした討論会だ。  10人ほどのグループになった元当事者や母親などが、一人ずつ順繰りに発言する。話は次第に寝屋川の事件からそれ、自分たちの経験談へと移っていく。私は何も言うことがなかったので、黙って彼らの話に耳を傾けていた。 ●国谷裕子キャスター似の美女が語った仰天体験  司会者は14歳から26歳までひきこもりだったという男性だ。彼はとても愛想がよく腰が低かった。いじめを受けた自らの中学時代や環境を「悪魔」「牢獄」と称して憎んではいたが、それでも、もうわだかまりはないかのように明るくしゃべっていた。実際彼は、今は週に4日就労していて、自活し、自分で生計を立てている。「4月からは放送大学で勉強する」と話していた。  別の男性は40歳を過ぎてからひきこもりになった、と言った。彼もまたひきこもりを脱し、現在はソーシャルワーカー(社会福祉士)としてひきこもり支援に携わっている。その仕事柄、社会のマイノリティーすべてが対象になり、彼は「話が少しずれるが」と断って、ホームレスの問題に言及した。  青テントを張って河川敷に住むホームレスは、自分の住む家を建てることができ、自立して生活しているだけ恵まれている。しかし、住む家も食料も自力で調達できないホームレスは、空き缶拾いをするしかない。だが、空き缶拾いにも縄張りがあり、その縄張りを侵すと後ろから刺されて命を落とすような危険スレスレの毎日を送っている。青テントの住人がホームレスの代表のように見られているが、実際は違う……。  この話は、私に強い衝撃を与えた。  だが、だれよりも印象に残った女性がいた。「クローズアップ現代」の司会を長らく担当していた国谷裕子キャスターにそっくりの、40歳くらいの女性だ。その華やかさにマスコミ業界、それもテレビ局の人だろうとあたりをつけた。  ところが彼女の口から出る言葉に驚かされた。中学入学以降、急速に怠惰になり、学校が面倒になってひきこもり、高校へ行っていないのに、親が隠していたから親戚から入学祝いが届いた、と言ったのだ。皆笑った。 「ひどかった時は、私は精神科に入院していました……」  彼女は明るく言った。 「それで、私の周りは生活保護受給者が多くて、その人たちは皆思っていることだと思うんですが、無料のお風呂っていうのが、以前住んでいた県にはありました。それが今住んでいるところにはないんです。無料のお風呂を設けてほしいです。それと、無料の食堂も作ってほしいです」 ●ベーシックインカムっていつ導入されるんでしょう  皆なるほどと聞いているが、私は彼女の言葉と見た目のギャップに困惑したままだった。 「ベーシックインカムって、いつ導入されるんでしょうねえ……」  彼女は独り言のように呟いた。 「早く導入されるといいなあ。あとね、私、自分の家が本当にゴミ屋敷になりそうな時、2千円払って業者に来てもらって片づけているんです。もったいないけど、そういうお金は何とか工面します」  私は彼女の顔をじっと見つめた。本当にきれいな顔だった。毅然としたキャリアウーマンの身だしなみだった。金色の大きなピアスをし、指にも金の指輪をはめ、スキのない化粧とファッションに身を包んでいる。  あなたはなぜここに座っているのか、と私は尋ねたかった。今でもこれだけきれいなのだから、若い頃は人が振り返るほどの美人だったに違いない。芸能界でも水商売でも十分通用する顔立ちだ。今からだって、水商売の世界に飛び込んだら、売れっ子になるだろう。  それをなぜ、ベーシックインカム(国民配当)を作ってくれなどと言うのか、なぜ下流へ行こう、下流へ行こうとしているのか。恐らくメンタルの問題を抱えているのだろうとは思ったが、彼女の風貌を見ていると、それがダイレクトに結びつかなかった。  メールを送りたいので、もしよかったらアドレスを交換していただけませんか、とお願いすると、パソコンがない、と言われた。携帯電話番号を交換した。彼女の携帯はガラケーだった。確かに裕福ではないのは、発言の通りなのかもしれない。しかし、彼女は美貌を生かした仕事に興味を持つことなく、慎ましやかに、現状の生活に安息しているようだ。  その時、私は別の「現役」の二人のひきこもりの知り合いを思い出した。一人は50代半ばの男性で、「自分はエリートなので、I商事の商社マンと知り合いになって異業種交流を深めたい」が口癖の、中卒の生活保護受給者だった。狭い部屋で何を考えていたのか不明だ。もう一人は実家暮らしの40代半ばの女性で、中学時代に片思いした男性宅を頻繁に訪れ、相手に嫌われているにもかかわらず、「大人のおもちゃ」をプレゼントして相手を喜ばせようと必死だった。二人ともやることが見当外れで、どこか可笑(おか)しみがあった。  彼らは庵に来る人たちとまるで違っていた。  討論会が終わると、国谷裕子さん似の彼女は私の持っていた空の紙コップを手に取って、「一緒に捨ててきますね」と笑いかけてくれた。性格も正常そのものに見えた。  逆に、テーブルに置かれた何枚かのパンフレットを取ろうとした時、その前にいた男性に「これ、いいですか?」と話しかけると、男性は無視した。感じ悪いなあ、と思いながらパンフレットを集めていると、別の男性が2、3枚のパンフレットを私に渡してくれた。 ●しゃべることは壮絶でも既に立ち直っている  そうなのだ、と私は思った。これは普通の社会の縮図だ。例えば初詣でごった返している明治神宮で客を千人単位、あるいは一万人単位で区切り、その集団を観察したら、その中にキャリアウーマン風の美女が何人かいるかもしれない。愛想の極端に悪い人と親切な人もまざっているだろう。つまり、ひきこもり、という固有の母集団が存在するわけではないのだ、というのが私の得た実感だった。なぜなら、そもそもひきこもりというのは線でも円でもなく点として存在しているからだ。しかもその点がもつ色は、それぞれ全く違う。  会場には報道機関の記者もいた。メディアは必ず取材対象をカテゴライズしなければならない。そこにある特別な属性を、世間にできるだけインパクトを与えるような表現で列挙しなければならない。  しかし、私はそれをしようとは思わない。この「元」ひきこもりの人たちには取り立てて特徴がなかった。それが結論だ。それはつまり、誰でもひきこもりになり得る、ということに等しい。そして、彼らはしゃべっていることは壮絶でも、この会場に来ることができるだけで、もう既に立ち直っているのだ。それをそのまま伝えたい、と心から思った。  さて、この庵を紹介して下さった池上さんの解説に移ろう。なぜ今、大人のひきこもりが問題なのか。  池上さんによれば、ひきこもりという言葉が急速に広まり始めたのは今から20年ほど前、1990年代の後半である。その後、立ち直れなかった人々は20年の歳月を重ねた。当時20代、30代だった彼らは今や40~50代のひきこもりとなっている。  これまで、内閣府によるひきこもり調査の対象は15歳から39歳だった。立ち直れずに20年が経過した「重症」のひきこもりの人々は政府の統計から弾き飛ばされた。今、40歳以上のひきこもりが何人いるのかはっきりしない。池上さんは様々なデータを元に、おおよそ100万人と推測する(本誌1月22日号に「大人の学習障害」を書いた時、私は別の人物から40代以上を含むすべての世代のひきこもりが300万~500万人と聞いて、そのように書いたが、諸説あるようだ)。内閣府は今年度から初めて、40歳から59歳までのひきこもり人口の調査を実施することを決めた。  もちろん、ひきこもる人々は20年前に突然現れたわけではなく、昔から存在した。しかし、かつては「家庭」や「地域」でフォローされてきた。そのコミュニティーが壊れ、国が介入しなければならなくなったのだと池上さんは言う。  厚生労働省に、ひきこもり支援の変遷を尋ねた。2008年、厚労省は最初の「ひきこもり」対策に乗り出している。地域で個別に対応していたひきこもり相談の窓口が、厚労省の社会・援護局に移ったのだ。そして15年、「生活困窮者自立支援法」が施行され、40代以上のひきこもりにはこの枠組みで本格的に対応することになった。 ●20年を要した国の支援声なき声が熱を帯びた  生活困窮者自立支援法は本来、生活保護世帯の急速な増加による財政の悪化を受け、生活保護に至る前に自立支援を促す目的でつくられた。そして、この法律には「ひきこもり支援・就労準備支援の充実」も掲げられている。  当事者会、そして国の支援。20年の月日を要したが、大人のひきこもりの人たちの声なき声が、一塊になって熱を帯びた。  もっとも、私の知り合いの現役のひきこもり当事者たちのように、救われようとは思っていない人も多いだろう。だが、たとえ今すぐ外へ出られなくてもいい。彼らの心の奥底に、外界の支援のまばゆい光が、うっすらと届いているのならば。そのまばゆい光の中に、いつか彼らが太陽の輝く外へ出られる希望が宿っているのならば。(作家・萱野葵) ※AERA 7月2日号
AERA 2018/06/28 07:00
医師676人のリアル

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すべては命を救うため──。朝から翌日夕方まで、36時間の連続勤務もざらだった医師たち。2024年4月から「働き方改革」が始まり、原則、時間外・休日の労働時間は年間960時間に制限された。いま、医療現場で何が起こっているのか。医師×AIは最強の切り札になるのか。患者とのギャップは解消されるのか。医師676人に対して行ったアンケートから読み解きます。

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どんな人にも「忘れられない1日」がある。それはどんな著名な芸能人でも変わらない。人との出会い、別れ、挫折、後悔、歓喜…AERA dot.だけに語ってくれた珠玉のエピソード。

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3月8日は国際女性デー。AERA dot. はこの日に合わせて女性を取り巻く現状や課題をレポート。読者とともに「自分らしい生き方、働き方、子育て」について考えます。

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〈2024年上半期ランキング 社会編10位〉「セクシー田中さん」脚本トラブルで見えた実写版ドラマに生じる違和感の“正体” 芸能事務所との関係も
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芦原妃名子
dot. 12時間前
教育
〈2024年上半期ランキング ライフ編10位〉不登校の子どもたちにイライラをぶつける日々。片づけたら、一緒にゲームをして笑い合えた
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2024年上半期ランキング
AERA 12時間前
エンタメ
〈グータンヌーボ2スペシャルきょう〉「演技下手」汚名返上へ 西野七瀬が持つ女優の“強み”とは
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西野七瀬
dot. 7時間前
スポーツ
佐々木朗希このまま米移籍では「悪者にされて可哀想」 今オフ挑戦のための“最良の方法”とは
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佐々木朗希
dot. 12時間前
ヘルス
【ひざの痛み】病院ランキング2024年版・全国トップ40  1位はあんしん病院、2位は苑田会人工関節センター病院
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いい病院
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ビジネス
この時代に「会社」で働くとは? 「ジェンダーギャップよりもジェネレーションギャップに課題」三井住友銀行副頭取工藤禎子さん
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工藤禎子
dot. 12時間前