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多頭飼育現場からレスキューされた兄弟猫の運命の分かれ道 「また一緒に暮らす日まで」
水野マルコ 水野マルコ
多頭飼育現場からレスキューされた兄弟猫の運命の分かれ道 「また一緒に暮らす日まで」
仲良し兄弟の可愛い寝姿(提供)  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回、お話を聞かせてくれたのは神奈川県在住の会社員の石井さん。子どものころからの“猫と暮らしたい”という願いを叶え、NPO法人のシェルターから2匹の兄弟を迎えました。人懐こい彼らと幸せに暮らしていましたが、思いがけない事態が起きて、兄弟は2度と会うことができなくなります……。今の心境を語って下さいました。 *     *  * 私は今、夫と、さくらという雄猫と暮らしています。推定8歳ですが、とても甘えん坊で、私や夫の膝に乗るのが大好きな子です。さくらには、ふぶきという兄弟がいて、2年前まで私たちは賑やかに、幸せいっぱいに暮らしていました。  残念ながら、ふぶきは一昨年、虹の橋を渡りました。急に容態が変化して、まさに“さくらふぶきが舞い散る”ようにあっという間のできごとでした。あの子のことを記録に残したくて、今回、応募しました。 ◆おにぎりみたいな顔に「世界一かわいい」  私にとって、さくらとふぶきは“人生初”の猫。ずっと猫と一緒に住むのが夢でしたが、5年前の2017年の春にマンションを購入。ついに念願の猫を迎え入れることにしたのです。  迎えるなら保護猫がいいなと思っていました。また、私たちは共稼ぎで長時間のケアはできないので、子猫よりは成猫、さみしくないように1匹より2匹がいいかなとも考えました。  引っ越す前月から、NPO法人が主宰するシェルターを訪問。2度目にシェルターを訪れた時、「世界一かわいい!」と思う2匹がいました。それが、当時3歳(推定)だったさくらとふぶきなのです。大柄で、何といっても“おにぎりみたいな大きな顔”が特徴(笑)。少し離れたところにいても、兄弟とわかりました。  スタッフの方から、多頭飼育で飼いきれなくなった家から兄弟8~9匹と一緒にレスキューしたと聞きました。人に懐いていて、夫の膝にすぐに乗ってきたんですよ。夫はもう、いちころです。 ルックスがよく似ている、ふぶき(手前)とさくら(提供)  2匹とも目が悪いことに私は気づきました。ふぶきは左の眼球がもともとなくて、さくらは左目が白濁して、明るさだけ感じるみたい。どちらも、子猫時代に罹った猫風邪の影響のようです。  でも私は目のことは気にならなかったし、夫なんて(スタッフさんに言われるまで)気づかなかったくらい。猫自身、不自由なく動きまわっていて、片目がないふぶきのほうが、さくらよりむしろ運動神経がよい感じでした。とにかくかわいい2匹でした。  猫を迎えるにあたり、ひとつだけ心配がありました。夫に猫アレルギーがあったのです。でも、環境の工夫である程度は解決できると思ったのです。  たとえば人間が居住するスペースと、猫が動けるスペースを分ける。カーテンは毛のたまりやすい布のカーテンから縦型のスクリーンに変える。空気清浄機を2台設置して、ソファーをペットの毛がすぐ取れるものに買い替える。事前の準備が功を奏し、夫は健康を害すことはなかったですね。  猫たちも、わりとすぐに家に馴染みました。最初、ふぶきはキャットタワーのハウスに隠れて様子をうかがっていましたけど、家でくつろいで過ごすさくらを見て「ここは大丈夫」と学んだようですね。 家に来て二日目、右は隠れながら食事するふぶき(提供)  少し慎重なふぶきと、マイペースなさくら。どちらかというとふぶきのほうが兄のような存在ですが、とにかく仲良く四六時中一緒。そんな2匹を抱くと、思ったよりやわらかくて、「赤ちゃんみたいだ」なんて思いました。  それから、私の生活は猫が中心になりました。夜は猫が気になって早く帰るようになり、日々の様子が見られるようにカメラも猫部屋に設置。夫婦で旅行に行く時は猫シッターさんに来てもらいました。 仲良しな姿に癒されて……(提供) ◆何かまずいことが起きている  猫たちは毎日もりもりと食べて、追いかけっこをして遊んで、とにかく元気いっぱいでした。2匹とも体重があっという間に5キログラムを超え、獣医さんから「これがこの子たちの限界ですよ」といわれるほど。ただ、ふぶきは、さくらに比べて少し、お腹の調子を崩しやすいようでした。 家に来て一週間するとすっかり家に馴染みました(提供)  予兆は2019年。家に来て2年経った時、ふぶきのうんちが出なくなり、元気を失くしたのです。便秘でした。  病院に連れていくと、すぐさま「摘便(てきべん)」という処置が施されました。先生に、固くなったうんちを肛門から掻きだしてもらったのです。すると、翌日からふぶきはすっかり元気になったので、「この子は便秘をしやすいから気を付けてあげよう」と思ったものです。  その後しばらくは元気に過ごしていたのですが、一昨年の10日2日、ふぶきがごはんを食べなくなりました。よく観察すると、うんちが出ていません。また便秘かなと思って、病院に連れていくとやはり便が詰まっていて、先生が摘便をしてくれたのですが……。  前と違って、ふぶきの体調はよくなりませんでした。  その病院では、摘便をする時に(暴れないように)麻酔をしていました。だから最初は、今回は麻酔が切れるのが遅いのかと思いました。しかし、帰宅してもふぶきはつらそうにぐったりして、ごはんを食べません。翌日になっても元気がでない。水を飲もうとしても飲めず、尿の色も濃い。私はふぶきの中で何かまずいことが起きていると感じました。  その翌朝、夫とふたりでふぶきを病院に連れていきました。まさかそのまま、ふぶきと「お別れ」することになるとは、夢にも思いませんでした。 夫の膝で幸せそうに甘えるふぶき。名前はさくらと共に漫画から命名した(提供) ◆目の前で心臓マッサージ「うそでしょう?」  病院に連れていくと「黄疸が出ている」といわれました。私たちは猫を飼うのが初めてで、猫の黄疸は見たことみたこともありません。「とにかく状態がよくないので至急、処置が必要です。このまま預からせて下さい」と言われ、先生にふぶきを託したのです。  そして、家に帰ってしばらくしたら、病院から電話がありました。「危ないので早く来て下さい、心臓が止まりかけています」と。  慌てて病院に戻ると、ふぶきは心臓マッサージを受けている最中でした。 「ふぶき、なんで」 「うそでしょう?」  その後のことは、はっきり覚えていません。  ふぶきを家に連れて帰ってきて寝かせたのですが、さくらは、大好きな兄弟がそこに寝ていることに気づかず、匂いも嗅ぎにきませんでした。私も夫も、ふぶきを家に置いておくのがつらく、病院で紹介してもらった霊園に、その日のうちに預けました。箱でこしらえた棺に、大好きなおもちゃを入れて……。  推定6歳半。早すぎるお別れがつらく、夫婦で泣きました。私は2日ほど、仕事を休みました。 ◆ 人間も動物も運命には抗えない  ふぶきは亡くなった日に病院で血液検査をしていて、後から結果を聞きました。白血球が高かったので、急性の感染症だった可能性もあるということでした。でも結局、死因はわからずじまい……。 ふぶきの遺影をのぞくさくら。「兄ちゃん、僕は元気でやってるよ」(提供)  生き物なので、私たちより先に亡くなるのは頭ではわかっていたけど、目の前で起きたことはあまりに急で覚悟なんてできていなかった。もしかしたら、摘便時に何かあったのではないか、麻酔をかける前に検査をすれば別の結果になっていたのではないか……原因のわからないふぶきの死に、悩み、葛藤しました。  とはいえ、その病院を選んだのは私たちです。いちばんわけがわからなかったのは、ふぶき自身でしょう。あっという間にお空にいって。  人間でも事故でふいに亡くなることもあるし、いつでも死ぬ機会は隣にあるんですよね。車に急に轢かれたり、思いがけない病で倒れたり……。人間であっても動物であっても、「運命」にはあらがえない。  そのうち、私はこう自分に言い聞かせるようになったのです。 「短い期間でも、私たちはふぶきを毎日、徹底的に愛していたじゃないの」と。  そうです、ふぶきと出会い、愛したことには悔いがないんです。ふぶきだって、私たちに愛されていると感じていたんじゃないか。それは幸せなことなんだという思いにたどり着きました。  ……そう思うことで、ふぶきの旅立ちを、受け入れることができたのかもしれません。  ふぶきの死後、さくらの心身にも少し変化がありました。  ふぶきがいなくなり3か月ぐらい経って、さくらが吐いて体調が悪くなって。すぐに病院に連れていき、血液検査をお願いしました。でも、数値上はとくに問題が見つからなかったんです。体調不良は、半年ほど続きました。  今は落ち着いて、ご飯もよく食べています。前よりもさくらは、長い時間、私に“くっつく”ようになったかな?ひとりぼっちになって、さみしかったのかもしれません。 石井さんに甘える最近のさくら(提供) ◆いつかまたみんなで会える日まで  さくらはシェルターにいた時も、いろいろな猫の近くに寄っていき、兄弟だけでなく「仲間」の猫がすごく好きな様子でした。  だからこれから先、1匹でいるよりも、元気なうちにお友達にきてもらうのもいいかなと、最近になって思うようになりました。  さくらも、そのお友達も、みーんな一緒に、いつかお空で暮らしましょう。  だからそれまで待っていてね。私たちが心から愛した猫、世界一かわいいふぶきへ。世界一幸せな飼い主より。 和室を改造した猫の寝室(提供)  (水野マルコ)
ねこ
dot. 2022/01/29 14:00
カモンエブリバディ!書けそうなのに綴りがなかなか思い出せない英単語10選
カモンエブリバディ!書けそうなのに綴りがなかなか思い出せない英単語10選
小学校の教育課程でも必修となった英語。日常会話の中でもたびたび英単語を使う場面はありますが、いざスペルを書いてみてと言われるとドキッとしますよね。高校や大学の受験から遠ざかっているあなた!学生の頃は書けたけど、今は正直怪しい……と思しき英単語をまとめてみました。 サタデー(土曜日) 正解:saturday まずは初級編から。曜日を表す英単語は小学生が最初に習うほど簡単な単語ですが、大人になった今、いざ書いてみてと言われると意外に書けないもの。火曜日を表す“tuesday”や木曜日の“thursday”も綴りを間違えやすいですね。サタデー フェブラリー(2月) 正解:february こちらも初歩の初歩ですが、暦を英語で書く機会があまりない日本人にとって、1月から12月を英語でスラスラ書くことは意外と難しいですよね。「エイプリルフール」の4月“april”や「ジューンブライド」の6月“june”などは比較的書ける人も多いですが、1月の“january”やfebruaryなどは一度学業から離れるとなかなか思い出せません。フェブラリー デザート(食後のお菓子・甘いもの) 正解:dessert 日本人が最も聞き慣れている部類の英単語デザート“dessert”ですが、いざ書いてみると“desert”(砂漠)と“s”を重ねずに書いてしまう人が多いようです。砂漠とお菓子じゃ意味が全く違うので注意が必要ですね。デザート ジュエリー(宝石・装飾品) 正解:jewelry 「ジュエリーショップ」や「ジュエリーボックス」など、もしかしたら「宝石」という日本語よりも日常使いされることが多い英単語“jewelry”。普段英語に触れていない人は、このあたりから綴りが怪しくなってくるのではないでしょうか。ジュエリー ホイール(車輪) 正解:wheel 日本語(カタカナ)では「ホイール」や「ホイル」と書くため、綴りを間違えやすい英単語“wheel”。ネイティブの発音では「フィーェゥ」に近いので、発音で覚えておくと綴りも覚えやすいかも。ホイール アスリート(運動選手) 正解:athlete ニュースのスポーツコーナーやテレビ中継などで耳にする英単語「アスリート」。日本でアスリートという言葉が定着しだしたのは1990年代からだと言われています。昔は陸上選手、野球選手、サッカー選手というように競技名で呼ぶことが多かったのですが、最近はみな等しくスポーツに従事する専門家ということで、「アスリート」とひっくるめて呼ぶことが多くなりました。アスリート ネイバー(隣人) 正解:neighbor “neighbor”の「gh」や“know”の「k」ように、発音しない文字をサイレントレターと言います。どうやら日本人はこれが苦手なようで、爆弾=bomb(ボム)や疑う=doubt(ダウト)、キャンペーン=campaignなど、サイレントレターを含む単語を覚えるのに手間取るという人が多いみたいです。ネイバー サステナブル(持続可能な) 正解:sustainable 「サステナブルな社会を作ろう」などと最近耳にすることが多くなった英単語“sustainable”。サステナブルとは「持続可能な~」という意味の形容詞で、消費社会から循環型社会への移行を目指す全世界で共通するキーワードとなっています。 ちなみに最近耳にする「SDGs(エスディージーズ)」も「Sustainable Development Goals」の略で、直訳すると「持続可能な開発目標」という意味なんですって。知ってました?サステナブル ミレニアム(千年期) 正解:millennium 西暦2000年前後から日本でもメジャーになった英単語「ミレニアム」。“l”と“n”が2回ずつ被るので綴りを間違えやすいです。逆に「“l”と“n”は2回被るのね!」と覚えてしまえば、そんなに難しい単語じゃありません。ミレニアム カリキュラム(履修課程) 正解:curriculum 最後は「u」めっちゃ多いやん!と突っ込みたくなるような英単語“curriculum”です。学生時代にあれほど耳にしていた言葉のはずですが、なかなか書ける人って少ないですよね。カリキュラム 書けそうなのに綴りが思い出せない英単語の数々、いかがでしたか?英検ⓇやTOEICⓇなど資格取得を目指している人からすればどれもイージーでしたが、英語から遠ざかっている人には少々難問もあったのではないでしょうか。これを機に普段から意識的に英語に触れあえるようになると良いですね。イメージ画像
tenki.jp 2021/12/02 00:00
『ヘルプマン!!取材記』第2話 開業の章②
『ヘルプマン!!取材記』第2話 開業の章②
2021/10/19 11:30
九段下の人気ラーメン店店主が“客との口論”で得た気づき 「クリエーターかぶれになっていた」
井手隊長 井手隊長
九段下の人気ラーメン店店主が“客との口論”で得た気づき 「クリエーターかぶれになっていた」
「九段 斑鳩」の特製濃厚らー麺は一杯1000円。菅野製麺を使っている(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介する本連載。本物の食材で作る上質な一杯で20年以上、東京のラーメンシーンを牽引する店主の愛する一杯は、不器用なまな弟子がたどり着いた地元産の食材をふんだんに使った“おもてなし”の一杯だった。 ■「クリエーターかぶれになっていった」名店店主の気づき  2000年に九段下でオープンした「九段 斑鳩」(16年に市ヶ谷に移転)。香り高い魚介のスープに厚みのある動物系スープを加えて仕上げた「斑鳩」のラーメンは、東京のラーメンシーンを20年以上も牽引する横綱的な一杯だ。アパレル業界出身の店主・坂井保臣さんのセンスがそこここに光り、ラーメンの味のみならずその世界観すべてが上品に映る名店だ。 九段 斑鳩/〒102-0074 東京都千代田区九段南4-7-16 ヒューリック市ヶ谷ビル1階/月 ~土、11:30~15:00、日曜定休(日曜以外は祝日でも営業)/筆者撮影 「斑鳩」はオープン時から他のラーメン店とは一線を画していた。街に根付いた店づくりを目指しつつも、本物の食材を使って上品に仕上げることに注力した。坂井さんは周りのラーメン店よりも、同じ価格帯の別の飲食店の動向を気にしていた。特に気になっていたのはスターバックスコーヒーの台頭だった。 「本物志向で、今までの店よりも高額のカフェが受けるのかどうかがとにかく気になっていました。いわゆる“意識高い系”の商品への、一般からの反応が楽しみだったんです。スタバは成功をおさめましたが、我々としては、高級食材を使いながらも低価格を維持し、“数を売る”ことで頑張ることに決めました。そのほうが楽しんでいただけるお客さんの数が増えるからです」(坂井さん)  10年に10周年を迎えたのを機に、坂井さんは従業員一人ひとりと1on1ミーティングを実施。独立希望者が多いかと思いきや、「ずっと斑鳩で働きたい」という社員がいることを知る。従業員の人生を預かるにはもっとしっかりとした会社に成長しなければと考え、支店展開を決意する。 「九段 斑鳩」店主の坂井保臣さん。まな弟子の藤岡さんを見守り続けている(筆者撮影)  そのタイミングで、東京駅の「東京ラーメンストリート」出店のオファーがやってくる。正確に言うと、実はオファーはこれが初めてではなく、坂井さんはかつて出店を断った過去があった。 「もう一度お声がけいただけるとは思っていなかったので、感謝しかありません。以前は支店を考えていなかったのでお断りしていましたが、東京駅に支店を出せるというこれ以上ないチャンスをいただき、喜んで出店させてもらうことにしました」(坂井さん) 「九段 斑鳩」の特製濃厚らー麺。長野県産の石臼挽き粉などをブレンドした中太麺がおいしい(筆者撮影)筆者撮影)  こうして11年、「東京駅 斑鳩」がオープンした。開店当初はオペレーションに苦しみ、長い行列はできるものの売り上げは下から2番目だった 「九段下の本店では“クレーム”というものはほとんど発生していませんでした。それは、うちのお店を目指して食べに来てくださる方が多かったからだと思います。ただ、東京駅は何かの用事のついでで来られる方がたくさんいます。その中で、クレームに発展してしまうことがありました。私も本気で作っているので、お客様と口論になってしまったこともあります。しかし、それは大きな間違いだったんです」(坂井さん)  お客さんはあくまでラーメンを食べに来ているのであって、坂井さんの作品を見に来ているわけではない。このとき、坂井さんは自分がクリエーターかぶれになっていることに気づいたのだ。商売の基本に立ち返り、クレームに対しては、まず謝る姿勢を見せるところからスタートした。ここで坂井さんはいちラーメン店主として、目が覚めたという。 「『東京ラーメンストリート』のある『東京駅一番街』は“一番”しか入れない場所です。そこに入れていただいただけで名誉ですが、ここで商売の原点に立ち返らせてもらいました。ここからまた新しい『斑鳩』がスタートしていきました」(坂井さん) 麺をあげる坂井さん(筆者撮影) 「斑鳩」に食べに行くと、どんなに忙しくても常に笑顔でラーメンを作り続ける坂井店主の姿がいつも印象的だ。ラーメンのおいしさだけではない、店の空間自体の心地よさを感じる。20年以上も続くラーメン店には、必ず理由があるのだ。  16年には本店を市ヶ谷に移転。現在は昼営業のみとなっているが、今後は昼夜のフルオープンに向けて準備しているという。坂井さんはこれからも厨房に立ち続け、味のブラッシュアップも重ね、さらなる存在感を示していきたいという。 ■まずは道の掃除… 成田の名ラーメン店が始めた「基本」  JR成田駅から徒歩6分。千葉県成田市役所の近くの栗山公園の横に一軒の人気ラーメン店がある。「らあめん clover」である。ツタの絡まるおしゃれな店構え。千葉県産の食材にこだわった一杯を提供し、店の前には「千産千消」という造語の看板が出ている。 らあめん clover/〒286-0033 千葉県成田市花崎町766-2/平日・土曜11:30~14:00、18:00~22:30、日曜11:30~15:00※共にスープ切れ次第終了、水曜定休(祝日の場合営業)/筆者撮影  看板メニューの「醤油ラーメン」は鶏ベースのあっさり系。醤油の香りとうまみがキリッと立ちながら口の中に広がり、とてもおいしい。ゴボウが入っているのが独特で、これは成田山にまつられるゴボウをヒントに地元産のものを使っている。シンプルながらこだわりもしっかり見える素晴らしい一杯だ。 「らあめん clover」店主の藤岡敬大さんは「九段 斑鳩」出身。ラーメン作りはもちろん、おもてなしの心も学んだ(筆者撮影)  店主の藤岡敬大さんは千葉県の四街道市出身。もともと大のラーメン好きで、高校時代から千葉エリアを食べ歩いていた。友人と暇を見つけてはラーメンを食べに行く日々。自動車の免許を取ってからは都内にも繰り出した。  社会人になると、「東京のラーメン屋さん」というウェブサイトの20代限定のオフ会に参加するようになる。その頃は夜に仕事をしていたため、日中に1日5杯ペースで食べ歩きをしていたという。23歳のときには、周りの推薦もあり、テレビ東京「TVチャンピオン」のラーメン王選手権の予選に出場したこともある。  当時の藤岡さんは、ラーメンを職業にしたいという思いから、ラーメン評論家に憧れていた。だが、この予選を受けたことで、上には上がいることがわかった。そこから一転、藤岡さんはラーメン屋になることを決意する。  人気店を徹底的に研究しようと、「超らーめんナビ」というサイトの人気の上位20軒を食べ歩き、修業先を探した。このとき1位になっていたのが「九段 斑鳩」。食べて店を出るとき、居合わせたカップルが満面の笑みで帰っていくのを見て、この店で修行することに決めたという。こうして藤岡さんはラーメンの世界に飛び込んだ。 「千産千消」の造語が記された看板。千葉県産の食材にこだわる(筆者撮影)  藤岡さんが修業に入った04年は、「斑鳩」が最も伸びている時期だった。年末のテレビ番組の特番でも上位にランクインし、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで行列を伸ばしていった。  入社してからは、先輩社員が多かったこともあり、藤岡さんはしばらく接客を担当。しかし、「斑鳩」の接客は並の接客ではない。そこにも坂井店主の哲学があった。 「“にこやかで品のある接客”がモットーでした。言葉で言うのは簡単ですが、それを『いらっしゃいませ』『ありがとうございました』で表現しなくてはいけないので、これが結構大変なんです」(藤岡さん)  なかなかラーメンは作らせてもらえなかったが、藤岡さんは自分には接客業が向いていることに気づいた。お客さんとのコミュニケーションに楽しさを見いだしていたのである。この気づきが、その後の藤岡さんを作っていくことになる。  3年ほど経ち、ようやくラーメン作りに携わることができるようになったが、これがとにかく大変だった。ラーメン作りに集中すると、お客さんの顔が見えなくなってしまうのである。それが不安で不安でしょうがなかった。不器用だった藤岡さんは、陰で練習を重ねて少しずつ覚えていった。 「斑鳩」で修行を始めて5年経ち、藤岡さんは29歳になっていた。その頃には全ての仕事を任され、自信も出てきていた。「斑鳩」のラーメンではなく、自分のラーメンを作って独立したかった藤岡さんは、いよいよ坂井さんに独立について相談をすることになる。 「私は『69’N’ROLL ONE(ロックンロールワン)』や『支那そばや』の味に衝撃を受けて育った世代です。なので、鶏の利いた清湯のラーメンで独立したかった。自分の原点にある味で勝負したかったんです」(藤岡さん)  店の場所は自分の通っていた高校のある成田に決めた。もともと社会人時代に働いていたのも成田で、土地勘のある場所だった。同級生がやっていた居酒屋の居抜き物件を使えることもあり、条件も良かったのだという。  物件はスムーズに決まったが、ラーメン作りに時間がかかりすぎた。試行錯誤しながら、自分の技術がまだまだであることを痛感する日々。名店「斑鳩」出身ということで、いざオープンすれば注目が集まることもわかっていた。気づけば物件を借りてから半年が経過。足踏みする藤岡さんに声をかけてくれたのは、坂井さんだった。 「坂井さんが『評論家さんやラーメンフリークには情報を流さないでおくから、細々とオープンしてみな』と言ってくれたんです。営業しながら細かい部分を修正していこうと提案してくれました。本当に心配してくれていたんです」(藤岡さん) 「らあめん clover」の醤油らあめんは一杯800円。チャーシュー、ゴボウ、カイワレ、ネギ、ノリがのせられている(筆者撮影)  こうして10年9月「らあめん clover」はオープンした。「clover」とは“「c」hiba 「love」「r」amen”の頭文字を取ったもの。鶏清湯をベースに、千葉の食材をふんだんに使った一杯を作り上げた。  細々と営業していこうと思ったオープン初日、思いがけないことが起こる。同じ成田の人気店である「麺や 福一」の店主が食べに来てくれたのだ。「斑鳩」時代の藤岡さんを見ていた「福一」の店主が、良かれと思い千葉のラーメンフリークに向けて店を宣伝したことをきっかけに、「clover」オープンの情報は、一日にしてラーメン界に広がってしまったのである。 「『福一』さんが宣伝してくださったことはとてもありがたいことなのですが、オープン初日から落ち着かない形になってしまいました。オペレーションは大丈夫でしたが、商品はブレブレでした。納得いくものが出せない日々でしたね」(藤岡さん)  バタバタしたまま半年が過ぎた頃、東日本大震災が起こった。これを機に、客足がパタッと止まる。藤岡さんは、この店に地元のお客さんが全く来ていないことに気づいた。 麺は細め(筆者撮影) 「地域に根差したお店ではなく、ラーメンフリークだけが来るお店になっていたんです。それでは成田でやっている意味はないし、自分の目指すものにはならない。そこでまず始めたことは、道の掃除です」(藤岡さん)  藤岡さんは店の周りの掃除を通して、近隣の人とコミュニケーションを取り始めた。「斑鳩」時代に接客をやっていた頃のことを思い出し、味だけでなく、コミュニケーションでも自分らしさを出せることに気づいたのだ。  店内での接客にも変化が出てきた。お客さんの顔を一人ひとり覚えて、常に目配り気配りをする。ラーメンを作る以前に客商売であることに目を向けたのだ。これは「斑鳩」の坂井さんが東京駅に支店を出した時の気づきに大変よく似ている。  ここからは毎年少しずつ売り上げを伸ばし、成田の人気店として街に根付いていく。気づけば10年の時が過ぎ、この9月で11年目を迎える。 「斑鳩」の坂井さんは、藤岡さんが独立する頃のことを思い出しながら語る。 「不器用だけど真面目な弟子です。独立の頃は自分の思い描いた一杯が作れず悩んでいました。反対したこともありましたが、彼の思いを壊さずに成功させるにはどうしたらいいか一緒に考え抜きましたね。いつかの雑誌の企画で師弟の店として紹介され、久しぶりに一緒にラーメンを作ったとき、本当に頼もしく成長していてうれしく思いました」(坂井さん)  藤岡さんも坂井さんから学んだ商売に対する姿勢を忘れていない。 「お客さんを喜ばせることを他の何より優先する人です。あんなに高級食材を使ったラーメンを1千円にしない理由にも驚きました。『ラーメン食べた後、お釣りで缶コーヒーでも買えたら幸せだろ』と、お店を出た後のことまで考えられる人なんです。このおもてなしの心は簡単にまねできるものではないと思っています」(藤岡さん)  坂井さんが何より大事にするおもてなしの心が、藤岡さんの「clover」にもしっかり根付いている。長く続く店にはラーメンの味以外の何かが必ずある。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2021/09/19 12:00
スキー場にも続々登場!高原グランピング5選【夏のスキー場はいま】
スキー場にも続々登場!高原グランピング5選【夏のスキー場はいま】
スキー場の夏営業を紹介する連載の第3回目は「高原グランピング」です。えっ、スキー場にグランピングがあるの? そう感じた方も多いと思いますが、標高の高さゆえの清涼感や景観のよさは"グラマラス×キャンプ"のグラマラスの部分にうってつけなんです。 今回は5つの高原グランピングをご紹介。密回避のレジャーとしてキャンプが注目を集めていますが、自分でテントを設営するのはハードルが高い、そんな方、必見ですよ。 ※新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響で外出の自粛を呼び掛けている自治体がある場合は、各自治体の指示に従いましょう。舞子グランピング(新潟・南魚沼市) 舞子スノーリゾート「舞子グランピング」今夏、冷暖房完備のドーム型テントが新登場! 首都圏から約2時間、関越道 塩沢石打ICからたった2分!という抜群のアクセスで人気を誇るのが、2017年、舞子スノーリゾート(新潟・南魚沼市)に誕生した「舞子グランピング」です。 現在、サイト数は12ですが、7月末には18サイトに増設予定。しかも、ついに、冷暖房完備のドーム型テントが登場するとのこと。さらに、快適なグランピングライフが過ごせそうですね。 舞子グランピングのもうひとつの特徴が"リゾートホテルクオリティ"。グランピングといえども、スキー場という立地上、快適性は気になるところですが、隣接の「舞子高原ホテル」のサービスが利用できるのは大きなメリット。 チェックイン&アウトはホテルフロントですし、舞子温泉「飯士(いいじ)の湯」も利用可能。さらに、朝食はホテルのモーニングブッフェ。とくに、女性から高い評価を得ています。 気になる夕食は、地産地消の食材をふんだんに使ったアウトドアディナーでおもてなし。ダッチオーブンで作る魚介のブイヤベースのスープや佐渡産黒豚の自家製ロースハム、スキレットを使ったハッセルバックポテトなど、ボリューム満点、かつSNS映えしそうなメニューが目白押しです。 【舞子スノーリゾート「舞子グランピング」】 ◆住所:新潟県南魚沼市舞子2056-108 ◆電話:025-783-4100 ◆アクセス:関越道 塩沢石打ICから約2分、JR上越新幹線 越後湯沢駅から無料シャトルバス(要予約)で約20分 ◆営業期間:~2021年10月23日 ◆チェックイン14:00~、チェックアウト~10:00 ◆料金:大人14,000円~、小学生10,500円~、3歳~未就学児7,500円~ ※2歳以下無料 ※1泊2食(夕食:グランピングサイト/朝食:舞子高原ホテル)・グランピング備品・温泉利用料・ディスクゴルフ&グラウンド・ゴルフプレー料(各1回)・駐車料含む ※詳細情報は公式サイトをご参照ください。 神鍋高原「KANNABE 5 SENSE」カラーでテーマ分け!かわいらしい5種類のテント 2018年、神鍋高原に誕生したのが「KANNABE 5 SENSE」(兵庫・豊岡市)です。"五感で感じる"をコンセプトにした、1日8組限定の隠れ家的グランピングサイトとして人気を博しています。 テントはウッドデッキの上に設営されているので快適。大型のタープやダイニングテーブル、BBQグリルなど、必要なアイテムはすべて完備されています。また、「神鍋温泉ゆとろぎ」の温泉入浴券付きなのもうれしい限りです。 特徴的なのは、グリーン=芝生、ブルー=星空、赤&ピンク=お花、茶色=土、レモンイエロー=ミツバチ、これら5色を基調にした、テーマの異なる5つのテントサイト。外観・内観ともに統一した質感で、かわいらしさが引き立っています。 夕食は豪華アウトドアディナー。但馬牛のハラミステーキや神鍋高原で育ったニジマスのシーザーサラダなど、ボリュームもたっぷり。グランピングの定番スイーツとなりつつある、クラッカーにマシュマロ、チョコを挟んだスモアもあります。そして、朝食はこちらも定番、ホットサンド! 食べすぎ注意です。 【神鍋高原「KANNABE 5 SENSE」】 ◆住所:兵庫県豊岡市日高町栗栖野60-1 ◆電話:0796-45-1520 ◆アクセス:北近畿豊岡道 日高神鍋高原ICから約15分 ◆営業期間:~2021年11月末(予定) ※火・水定休(祝日は営業) ◆チェックイン15:00~、チェックアウト~10:00 ◆料金:(基本サイト利用料)24,000円~ (お客様別利用料)大人6,800円、小学生5,800円、4~6歳3,300円 ※3歳以下無料 ※1泊2食・「神鍋温泉ゆとろぎ」温泉入浴券付き ※詳細情報は公式サイトをご参照ください。 キューピットバレイ「キューピットバレイキャンプサイト」ログハウス宿泊のグランピングが人気! 菱ヶ岳のすそ野に広がるキューピットバレイ(新潟・上越市)に、この春、リニューアルオープンを果たしたキャンプ場が「キューピットバレイキャンプサイト」。高原の立地を生かしたフリーサイトとして人気を博していますが、ここで注目するのは、カナダ産ログハウスに宿泊するグランピングプラン。 今回紹介する唯一のログハウス宿泊プランで、その強みは冷暖房完備や悪天候時。たとえ、降雨でも快適な睡眠が約束されています。 また、アルコール類まで飲み放題というグリルダイニング「ブランネージュ」でのディナーや、ログハウスまで運んでくれるホットサンド朝食など、ボリューム満点の食事も人気の秘訣となっています。 【キューピットバレイ「キューピットバレイキャンプサイト」】 ◆住所:新潟県上越市安塚区須川4820 ◆電話:025-593-2041 ◆アクセス:関越道 六日町ICから約90分、北陸道 柿崎IC・上越ICから約40分 ◆営業期間:~2021年10月9日 ◆チェックイン15:00~、チェックアウト~10:00 ◆料金:(グランピングプラン)大人14,000円~、小学生12,000円、3歳~未就学児8,000円 ※2歳以下無料 ※1泊2食・温泉利用料(1回)・駐車料含む ※詳細情報は公式サイトをご参照ください。 ニンジャスノーハイランド「REWILD ZEKKEI GLAMPING RESORT」2021年5月誕生! 昨冬、峰の原高原スキー場が「REWILD NINJA SNOW HIGHLAND」(長野・須坂市)として生まれ変わりましたが、2021年5月には、キャンプ場「REWILD ZEKKEI GLAMPING RESORT」も新登場。今回、ご紹介するのは、そのグランピングプラン「ZEKKEIグランピング」です。 その名の通り、北アルプスや山野草園、満点の星空の絶景がウリ。なかでも、気象条件によって発生する雲海は一見の価値ありです! 【ニンジャスノーハイランド「REWILD ZEKKEI GLAMPING RESORT」】 ◆住所:長野県須坂市仁礼峰の原3153-656 ◆アクセス:上信越道 上田菅平ICから約30分 ◆営業期間:~2021年10月末 ◆チェックイン14:00~、チェックアウト~10:30 ◆料金:1棟4名まで(食事なし)36,000円~ ※2歳以下無料 ※5名以上の場合は、追加1名につき、6,000円 ※詳細情報は公式サイトをご参照ください。 ノルン水上スキー場「ノルン水上RVパーク」 関越道 水上ICからたった3km! アクセス抜群のノルン水上スキー場「ノルン水上RVパーク」(群馬・みなかみ町)のグランピングプランが「トレーラーキャビンプラン」。夕食は手ぶらBBQ、朝食はホットサンドなどの軽食で、お腹も大満足。早朝、目の前に広がる山々から昇る朝日は最高です。 スキー場内では宝石や化石を探すイベントや、夏休みにはカブトムシやクワガタのつかみ取りなどのアクティビティも多彩。ファミリーにとくにおすすめの施設です。 【ノルン水上スキー場「ノルン水上RVパーク」】 ◆住所:群馬県利根郡みなかみ町寺間479-139 ◆電話:080-6506-5907 ◆アクセス:関越道 水上ICから約5分、JR上越線 水上駅からタクシーで約12分 ◆営業期間:~2021年11月上旬 ◆チェックイン16:00~、チェックアウト~9:00 ◆料金:大人8,000円~、4歳~小学生7,000円~ ※4歳~小学生(食事なし)2,000円~、3歳以下(食事なし)500円 ※1泊2食 ※詳細情報は公式サイトをご参照ください。
tenki.jp 2021/06/25 00:00
あまりにも狭いところを走る58年前「上野」の都電は昭和の情緒にあふれていた!
諸河久 諸河久
あまりにも狭いところを走る58年前「上野」の都電は昭和の情緒にあふれていた!
上野公園停留所から撮影した「池之端の専用軌道」を走る20系統須田町行きの都電。画面右側は旅館街の裏手にあたり、画面左奥に上野の杜が見える。上野動物園前~上野公園(撮影/諸河久:1963年5月12日)  1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。2年前の連載で上野不忍池の弁天堂を取り上げたが、今回は不忍池の池畔を走った通称「池之端の専用軌道」を辿ってみた。 *  *  * 「花は上野か向島…」  歌の文句ではないが、今年も桜花の時節が巡ってきた。桜花が満開になり、観桜を謳歌したい気持ちに水を差すのがコロナ禍による自粛だ。花の名所上野公園の花見宴会も自粛の対象になり、立ち入り規制工事が始まった。今年も我慢するしかないが、災厄が解けて桜花爛漫の下で一献交わす日々が戻ることを祈っている。 四季折々の風情が楽しめた不忍池畔の専用軌道  冒頭の写真は「池之端の専用軌道」を走り終え、上野公園停留所に接近する20系統須田町行きの都電を上野公園停留所から写した一コマ。この上野公園停留所は、中央通りから左に分岐して不忍通りに入り、すぐに右折したところに所在し、20・37・40系統の乗降に使われた。いっぽう、中央通りに所在した上野公園停留所は上野四丁目交差点の北側にあり、こちらは1・24・30系統が使用していた。  上野公園から上野動物園前を経て池之端七軒町までの1120mが「池之端の専用軌道」と通称で呼ばれていた。上野の杜と不忍池に挟まれたこの路線は、繁華な上野広小路の近隣とは思えない閑静な雰囲気と木々の緑に溢れ、車窓から四季折々の風情が楽しめた。   上野公園停留所の近景。停留所の跡も判別できぬほど変貌していた。左奥の建物が下町風俗資料館。(撮影/諸河久:2021年3月4日) 不忍通りに面した上野公園停留所で発車を待つ101系統今井行きのトロリーバス。1950年代にデザインされた風貌が懐かしい。(撮影/諸河久:1965年11月7日)  上野公園停留所跡地の近景も見てみよう。右手前の自転車置き場の辺りが停留所跡になる。左奥の建物が「下町風俗資料館」で、現在はコロナ禍の影響で臨時休館していた。  次のトロリーバスのカットは、都電上野公園停留所の西側で折り返していたトロリーバス101系統が発車を待つシーンだ。この101系統は上野公園と今井を結んでおり、1960年代の江戸川区民には必須の公共交通機関だった。不忍池の南端に位置する上野公園停留所周辺は路面交通の要衝だったといえよう。   行楽客で賑わう休日、上野動物園前停留所で乗降中の20系統須田町行きの都電。40系統銀座七丁目行きも続行する。手前の併用軌道は上野動物園不忍池分園への通路になっていた。(撮影/諸河久:1963年5月12日) 日本で初めてのモノレールと交差する上野動物園前  冒頭のカットは、上野動物園前停留所に停まる20系統須田町行きと40系統銀座七丁目行きの都電。都電の周辺は親子連れの行楽客で賑わいを見せていた。歩道上の電話ボックスや露天商など昭和の憧憬となるような一コマ。  昔はこの界隈を上野山下と呼んでおり、画面右端の忍ケ丘には文明開化の1872年に創業した西洋料理の草分け「上野精養軒」が所在する。また、忍ケ丘の北側には上野東照宮神社もあり、道坂線の開通時には上野東照宮下と呼称されていた。上野動物園前に改称されたのは戦後の1951年だった。  背景の陸橋が上野動物園本園と不忍池分園を結ぶ「いそっぷ橋」で、その後方には日本で初めてのモノレールとなった都営「上野懸垂線」の走行桁が写っている。このモノレールは、上野動物園本園と不忍池分園330mを結ぶ懸垂方式のモノレールで、新しい交通システムの実験線として1957年12月に開通した。その後、駅名が本園→東園、分園→西園に変更。走行車両も4度にわたり更新されたが、施設や車両の老朽化が進み、2019年11月から休止されている。   上野動物園内を走る上野懸垂線のモノレール車両。写真は二代目のM型で、1967年から1984年まで使用された。上野動物園不忍池分園(撮影/諸河久:1982年1月28日) 上野動物園前の近景。上野動物園西園用地が拡幅され、様変わりしている。背景のコンクリート陸橋が東園と西園を結ぶ「いそっぷ橋」で、背後に休止中のモノレールの走行桁がある。(撮影/諸河久:2021年3月4日)  次のカットは、上野懸垂線の二代目車両として1967年に登場したM型の走行シーン。ドイツ・ブッパータールの懸垂式モノレールに範を取った構造で、座席のみ31名の定員制で運行されていた。左端に分園駅が見える。  上野動物園前の近景が次のカットだ。いそっぷ橋の背後に休止中のモノレール走行桁が見える。手前の道路が動物園通りで、右側奥が上野動物園東園(旧本園)、左側が上野動物園西園(旧不忍池分園)の施設だ。 専用軌道の終端は児童公園に変貌  上野動物園前を発車して池之端七軒町に向かう都電は、右に大きくカーブを切ると、一転して直角に近い角度で左に急カーブを切りながら専用軌道を進んだ。   薫風が心地よい「池之端の専用軌道」を走る40系統神明町車庫前行きと続行する20系統江戸川橋行きの都電。この地点は都電の踏切になっていた。動物園前~池之端七軒町(撮影/諸河久:1963年5月12日)  最初のカットが、左に急カーブを切った先の踏切から写した一コマ。上野の杜を背景に池之端七軒町に向かう40系統神明町車庫前行きの都電。その後方には20系統江戸川橋行きも続行していた。都電右側の敷地が東京盆栽組合の本部で、現在も「上野グリーンクラブ」として盆栽展や展示会の催事が行われている。撮影が5月だったので、「さつき」盆栽展示会の張り紙が見える。   半世紀ぶりに訪ねた都電の踏切。軌道跡の痕跡は霧散しており、画面左隅の洋食店を目安に定点を探した。(撮影/諸河久:2021年3月4日)  次のカットが、この地点の定点撮影だ。軌道敷跡が閉鎖されたために、都電の踏切があったことは判別できない。右側が上野グリーンクラブの建物。旧景左端の角地は青果店だったが、現在は「匠のローストビーフ キッチンフォーク 東京」の洋食店が盛業中。  最後のカットが「池之端の専用軌道」の終端にあたる池之端七軒町(1967年に池之端二丁目に改称)に到着した20系統須田町行きの都電。   根津方向から不忍通りを進んだ都電は、池之端七軒町を左折して1000m余り続く専用軌道に入って行く。 池之端七軒町(撮影/諸河久:1965年11月23日)  背景の不忍通りに敷設された道坂線を右手に進むと、戦火を免れた古い家並みが続く根津の町々を通り、明治の文豪たちが居住した駒込千駄木町や江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」の舞台となった駒込道坂町に至った。 「池之端の専用軌道」から都電が消えたのは1971年3月で、最後まで残った20系統(江戸川橋~須田町)が有終の美を飾った。  2008年になって、池之端七軒町停留所跡地に「池之端児童公園」が開設された。矩形の狭い敷地に、荒川線を退役して文京区が保存している7500型を見ることができる。 ■撮影:1963年5月12日 ※AERAオンライン限定記事
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AERA 2021/03/13 07:00
<2020年お天気総決算①>今年の天気を表す漢字
<2020年お天気総決算①>今年の天気を表す漢字
日本気象協会に所属する気象予報士100名と全国にお住まいの一般の方500名に「今年の天気を表す漢字」を聞いたところ、気象予報士は「雨」、一般の方は「晴」が1位に! 2020年「今年の天気を表す漢字」は…? 気象予報士100名と全国にお住まいの一般の方500名に「今年の天気を表す漢字」を聞いてみました。 その結果、今年1位に選ばれたのは…気象予報士は「雨」一般の方は「晴」となりました! 気象予報士と一般の方では、今年1年の天候に対する印象が真逆であることが明らかになりました。 この選ばれた「今年の天気を表す漢字」を、今年も、日本に唯一という気象の神社「気象神社(氷川神社境内)」の宮司さんにしたためていただきました。 その様子はこちらの動画をご覧ください。2020年 気象予報士と一般の方が選んだ「今年の天気を表す漢字」(気象神社宮司 松井美加子さん) ご協力:氷川神社(気象神社) 気象予報士が選んだ「今年の天気を表す漢字」 TOP3 Q.2020年の天気を漢字1文字で表すと何だと思いますか。(単一選択式、気象予報士100) 1位 雨(16.0%) 「 『令和2年7月豪雨』で九州地方を中心に四国、近畿南部、東海地方の一部地域で大雨に見舞われた(関西支社所属20代男性) 」 「今年は台風ではなく豪雨による被害が大きかった (北海道支社所属20代男性) 」 「梅雨が長くしっかりと続き、各地での豪雨災害等も相次いだ (東京本社所属30代男性) 」 2位 穏(12.0%) 「北海道では特に大きな災害もなく、冬場の雪(2020年の1~4月頃)も平年より少なく、非常に穏やかな年だった印象 (北海道支社所属30代男性) 」 「暖冬、台風上陸なしなど、大きな災害の回数が少なかった(東京本社所属20代女性) 」 「雪はほとんど降らず、大雨の回数も少なく、台風の被害も少なかった。強いて言うなら、北陸地方はフェーン現象でたびたび暑くなったことが印象に残った (北陸支店所属30代男性) 」 3位 暖(8.0%) 「今年の天候は、1月~3月の記録的暖冬と令和2年7月豪雨が特に印象に残っています。令和2年7月豪雨は影響範囲が西日本や東日本が中心となった一方、暖冬は影響範囲が全国に及んだので『暖』を選びました (九州支社所属20代男性) 」 3位 暑(8.0%) 「8月は、全国各地で40℃以上の最高気温を観測。今年はやはり真夏の暑さのインパクトが一番大きかった(四国支店所属40代男性) 」 気象予報士が「今年の天気を表す漢字」を選んだ理由では、令和2年7月豪雨や梅雨の印象が強く残っている一方、災害が少なく比較的穏やかな天候だった印象も強いことが伺えました。2020年 気象予報士が選んだ「今年の天気を表す漢字」は「雨」 一般の方が選んだ「今年の天気を表す漢字」 TOP3 Q.2020年の天気を漢字1文字で表すと何だと思いますか。(単一選択式、一般の方500) 1位 晴(10.4%) 「天気のいい日が多いように感じた(東京都在住20代男性) 」 「北海道では大きな災害も無い1年だった (北海道在住50代女性) 」 「綺麗な空をよく見た気がする (大阪府在住10代女性) 」 2位 曇(9.0%) 「曇の日が多かった(新潟県在住50代男性) 」 「晴れてる日が少なかった(宮城県在住10代男性) 」 「大雨ではないが天気が良かった日が少ないと思う(福岡県在住10代男性) 」 3位 雨(8.4%) 「梅雨明けが遅く雨が多かった(山梨県在住30代女性) 」 「梅雨が長く災害もあったから(山口県在住20代男性) 」 「住んでいる地域が豪雨に見舞われた(長崎県住20代女性) 」 一般の方が「今年の天気を表す漢字」を選んだ理由では、晴れの日が多かったというコメントが多かったものの、お住まいの地域の天気の影響が大きく反映される結果となりました。2020年 一般の方が選んだ「今年の天気を表す漢字」は「晴」 歴代の「今年の天気を表す漢字」との違いは? 気象予報士の調査では「雨」が1位に選ばれました。今年は令和2年7月豪雨のような大きな災害が発生した一方で、台風の上陸がなく比較的災害が少なかった印象もあり、本調査開始以来初めて「穏」が2位としてランクインしました。 一般の方への調査では、「晴」が初めて1位になりました。一般の方からのコメントでは、今年は災害が比較的少なかった印象をお持ちの方が多く見受けられました。「今年の天気を表す漢字」歴代1位(2013年~2020年) ----気象予報士向け調査概要 【調査対象】日本気象協会所属の気象予報士100名 【調査方法】インターネット調査 【調査期間】2020年11月11日(水)~11月19日(木) 一般向け調査概要 【調査対象】全国の10代-50代 男女 合計500名(年代男女各50名 ) 【調査方法】インターネット調査(調査会社の登録モニター活用) 【調査期間】2020年11月9日(月)~11月15日(日) ----
tenki.jp 2020/12/07 00:00
【Vol.2】奥只見のイヌワシを守れ!「自然」との対話で育む生命
【PR】【Vol.2】奥只見のイヌワシを守れ!「自然」との対話で育む生命
 水気をたっぷりと含んだ草地を歩いていくとすぐに、丈の低い水草と澄んだ水を湛えた池が現れた。空を反射する水面と水草の群落が複雑に入り混じり、理想的な湿原の風景が広がっている。言われなければ、この湿原「エコパーク奥只見」が人の手で作られたものだとはわからないだろう。 「実は、ここは水力発電所の増設工事で出た岩や土砂を捨てる場所だったんです」 湿地復元の発案者である電源開発株式会社(J-POWER)の鳥羽瀬孝臣は、成長した我が子を見るかのように少しまぶしげな表情で湿原を見つめた。 「エコパーク奥只見」に広がる湿原。山の天気は変わりやすく、水面に映り込んだ雲の流れも速い  湿原の向こうには日本最大級の貯水量を誇るダム湖、奥只見湖が広がる。豪雪で知られるこの地に、流量豊富な只見川の水を活用するための奥只見ダムが建設されたのは1960年代。地下に設けられた水力発電所は、経済復興で深刻な電力不足に陥っていた関東圏をはじめ、地元新潟にも電力を供給してきた。  電力需要はその後も増加の一途をたどり、1990年代には増え続けるピーク需要に対応するため、発電所の増設が必要となった。ところがこの時、強い反対運動が巻き起こった。奥只見ダムからわずか数百メートルほどの斜面で、絶滅危惧種のイヌワシが営巣していたのだ。 対「自然」と、対「人」 二つの面から問題と向かい合う  しかもその巣のペアは、調査工事が始まってから3年連続で繁殖に失敗。反対の声はいよいよ高まり、工事の継続が危ぶまれる事態に陥っていた。鳥羽瀬が現地に派遣されたのはそんな時だった。 「工事反対の立場に寄り添ったドキュメンタリー番組がテレビで放送され、エネルギーの安定供給という使命とイヌワシ保護運動との板挟みで、当社は非常に難しい状況にありました。私自身は増設工事の設計を担当する技術者だったのですが、ある日突然、環境管理責任者として現地に行けと言われたのです」  いったいどうしたら発電所の工事と環境保護を両立させられるだろう? 鳥羽瀬らは専門家の協力を得て長期間・長時間に及ぶイヌワシの観察を行い、そこで得られた知識と専門家の助言をもとに、多岐にわたる対策に乗り出した。  まず、イヌワシのペアが環境変化に敏感になる営巣期、11月から翌6月の8カ月にわたって地上での工事を行わないことを決めた。さらに、イヌワシを頂点とする生態系を保護するために騒音・振動や水の汚濁などに対する防止措置を施し、警戒色である黄色と黒で塗られた工事車両に鳥類がストレスを感じないよう、すべて焦げ茶色に塗り替えた。 「ただ、この問題は環境保護対策だけ考えていてもうまくいかない。反対されている方々と我々が『対立』する構造を変えなくては何も前に進まないのです。信頼関係を築くためには事業者側からの徹底した情報公開が必要だと考え、仮に自分たちに不利な情報でも、聞かれる前から積極的に発信しました」  対「自然」と、対「人」。鳥羽瀬たちが二つの軸で対策に奔走した末に、1999年、本工事は慎重に開始された。  そして翌年の2000年。イヌワシペアは卵を孵し、すくすくと育ったヒナは7月、無事に巣を離れていった。 クリーム白色の綿羽に覆われたイヌワシのヒナ(中央)。両翼を広げ、バランスを取りながら巣の中を動き回っている(写真提供/電源開発株式会社) 7月2日の巣立ちから18日後の幼鳥。両翼を大きく反らせ、営巣地近くの木に止まろうとしている(写真提供/電源開発株式会社) 前代未聞の 湿地復元プロジェクト  時計の針を少し戻した1998年の初夏。工事現場のすぐ近くで、新潟県では初記録となる希少なトンボ「ムツアカネ」を県内の専門家が確認したという記事が新聞に掲載された。  記事を見た鳥羽瀬は青ざめた。ムツアカネが発見された場所は30年前の工事で土捨場にしたところに生まれた湿地で、今回の工事でも土捨場となる予定だったのだ。  悩んだ末、新たな土捨場の上に湿原環境を作り、元の湿地から動植物を移転させられないか、と思いついた。鳥羽瀬はすぐさま、新聞に出ていたトンボの専門家、林克久さんのもとへ向かった。  当時、県内の高校で生物の教員をしていた林さんは鳥羽瀬の話を聞いたものの、そんなアイデアがうまくいくとはとうてい思えなかった。 「これまでにも類似の試みが各地で行われていますが、ある生息地から別の類似の自然環境へ移すことすら成功例はほとんどありません。ましてや人工的に作った環境では……」 湿地復元に関する指導助言やモニタリングにも携わった林克久さん(写真提供/林克久)  しかし林さんは鳥羽瀬の論理立った計画とあふれる熱意に心を動かされた。湿地の復元には年単位の時間と大きなコストがかかる。湿地の生き物を守るためにそれだけの大規模な工事をしようというJ-POWERの覚悟も感じた。 「希少なトンボをなんとか守りたいという気持ちもありましたし、どうしても埋め立て工事が避けられないのなら協力しましょう、と答えました」  鳥羽瀬の前に、一筋の光が差した。  林さんを始めとする動植物の専門家チームの助言を受けながら、J-POWERは湿地の心臓部にあたる池を残してその周りから段階的に埋め立てを始め、新しい池を作った後、2年にわたって元の池を埋め立てずに残した。元の池と新しく作った池をできるだけ長く併存させ、生き物たちが自ら移動できる時間を確保する、というのがこの湿地復元プロジェクトの肝だった。  3年後、新しい池には貴重な水草がしっかり定着し、ムツアカネがその上を舞った。前代未聞の湿地復元プロジェクトは、みごとに成功した。 エコパーク奥只見に生息するムツアカネ(写真提供/林克久)  元の湿地は完全に埋め立てられたが、その後J-POWERは新しい池のすぐ近くにもう一つ池を作り、生き物たちのすみかはむしろ以前より広がっている。林さんは言う。 「その後も外来種の増加はほとんど見られず、生物相は安定しています。トンボは、希少種を含めこの17年で40種が確認されています。以前よりも豊かな環境だと言えますね」 人の手で作られたとはにわかに信じられないほど、野趣に富んだ光景が広がるエコパーク奥只見。ムツアカネのほか、オゼイトトンボやエゾイトトンボなどの保全対象種も継続して観察されている 20年経っても続く 揺るぎない信頼関係  工事が終わって今年はもう20年になる。ところが、林さん、鳥羽瀬、当時の工事担当者など、湿地復元に携わったメンバーは現在も年に2回の調査・観察会を行い、レポートを作り、維持管理の提言を続けているという。 「今年結成したAICOの会(奥只見の重要野生生物を保全する会)には当時関わっていなかった人も加わり、仕事としてではなくこの湿原への愛着で通い続けています。20年にわたって我々の調査や提言を尊重してくださっているJ-POWERさんとの信頼関係があるから、これほど続いてきたのだと思います」  と林さんは言うが、鳥羽瀬は笑って首を横に振る。 「林先生たちの『湿地を守りたい』という強い思いに周囲が自然に巻き込まれて今があるんです」 早朝、朝靄に包まれる奥只見ダム(中央奥) 奥只見ダムの上から眼下を見下ろす。ダムの傾斜は51度もあるという  エコパーク奥只見はいまJ-POWERにとって、電力供給と環境保護をどう両立するかを学ぶエネルギー環境教育の拠点になっている。  電力の安定供給と環境保護はずっと、一方をとれば他方が犠牲になる二者択一の関係だと思われてきた。しかし奥只見の山あいにはその二つをなじませ、共生させる知恵が、豊かな湿原という形で残されている。 鳥羽瀬孝臣(とばせ・たかおみ) 福岡県出身。1981年、東京理科大学理工学部土木工学科卒業。電源開発株式会社入社後、技術開発センター茅ヶ崎研究所地盤・耐震研究室リーダーなどを経て、2019年から現職。CO2貯留プロジェクトマネージャーも務める。 文:江口絵理 写真:高山剛 このページはJ-POWERが提供するAERA dot.のスポンサードコンテンツです。
2020/11/30 10:33
【アレンジ非常食】ほんのひと手間でごちそうに変身!<洋食編>
【アレンジ非常食】ほんのひと手間でごちそうに変身!<洋食編>
 新型コロナウイルス、震災や風水害など、非常時に注目が集まる備蓄用の非常食。味付けも種類もバリエーション豊富で、どれをストックするか迷うほどだ。そんな非常食を、ふだんから食べたくなる一品に変えたり、1人分を2人でシェアしたりするヒントを紹介する。 1人前のパスタを2人でシェアできる!「2人で大満足カルボナーラ」  新型コロナウイルスの感染は少しずつ収まりを見せているが、自然災害の多い日本では非常食のストックは欠かせない。しかし、「非常食はストックしているものの、実際に食べたことはない」という人も多いのでは? 親元を離れて1人暮らしをしている長女も、その1人。そこで、食べ方や味を知っておくためにも、非常食のローリングストック(賞味期限が切れる前の買い替え)を兼ねて、食べてもらった。  とはいえ、水やお湯で戻すなど、決められた通りの食べ方だけではちょっと寂しい。毎日自炊していて、調理師と管理栄養士の資格も持っている長女は、調理やアレンジは手慣れたもの。そこで「家に常備している食材や調味料を使う」「電子レンジやオーブン、トースターは使用不可」「カセットコンロのみ使える」という条件で非常食アレンジに挑戦してもらった。  非常食は味付けせずにそのまま食べられるものが多いから、野菜や卵、水などを加えて短時間加熱するだけで食べられる。忙しい時などふだんの料理に使えば時短にもなり、手間も時間も省けて一石二鳥だ。今回作ったのは、パスタやリゾットなどの洋食メニュー。パスタやスープなど、どれもそのままでもおいしい味付けだが、食材を足せば栄養バランスがよくなりお腹いっぱい食べられるし、1人前をかさ増しすれば2人でシェアすることもできる。  また、昔ながらの硬くて味気ない「乾パン」のイメージも払拭したい。今や非常用のパンはしっとりしたデニッシュやマフィンなどのソフトタイプが主流。チョコ、オレンジ、ストロベリーなど種類も豊富で目移りするほどだ。そんなパン缶をさらにアレンジして、女性や子どもにうれしいデザートに変身させた。非常食の買い替えを考えている方は、ぜひいろいろなアレンジに挑戦して好みの味を探してみて! 「カルボナーラ」+じゃがいも、ベーコン →  1人前のパスタを2人でシェアできる!「2人で大満足カルボナーラ」 「2人で大満足カルボナーラ」材料 ●材料 <非常食>カルボナーラ(湯でもどすタイプ)1食分 <追加> ベーコン3枚、じゃがいも1~2個 ●作り方 1、じゃがいもは皮をむいて1cm角に、ベーコンは1cm幅に切る。 2、カルボナーラを作るのに必要な水+50ccを鍋に入れ1を茹でる。 3、じゃがいもが柔らかくなったら、具材ごとカルボナーラの袋に入れ、全体をよく混ぜる。 4、表示された時間(この商品の場合は3分)待てば完成。 じゃがいもが柔らかくなったら、具材ごとカルボナーラの袋に入れる ここがポイント☆パスタを戻すために沸かすお湯でじゃがいもとベーコンをゆでる一石二鳥のアイデアメニュー。1人前のカルボナーラも、じゃがいもを追加することで2人前のボリュームに。ベーコンがない場合は少しだけ塩を追加して。 「トマトスープ」+ショートパスタ、蒸し大豆 → 食べ応えたっぷり「ミネストローネ」 ●材料 <非常食>トマトスープ160g <追加> 蒸し大豆30g、ショートパスタ50g、塩こしょう 「ミネストローネ」材料 ●作り方 1、鍋に材料全部を入れ、火にかける。 2、パスタが水を吸うので、減った分だけ水を追加する。 3、塩こしょうで味を整える。 ここがポイント☆そのままでは少し物足りないトマトスープも、大豆とパスタを追加すればボリュームアップ! 炭水化物とたんぱく質が加わるので栄養バランスもばっちり。オリーブオイルをかけると味も華やかで、エネルギー補給にも効果的。 食べ応えたっぷり「ミネストローネ」 「トマトスープ」「アルファ化米」+チーズ、パセリ → チーズとトマトの相性抜群「トマトリゾット」 ●材料 <非常食>トマトスープ160g、アルファ化米1/2食分 <追加> 粉チーズ、パセリ 「トマトリゾット」材料 ●作り方 1、鍋にトマトスープ、ごはんを入れ温める。 2、皿に盛り、粉チーズとパセリをトッピングする。 ここがポイント☆非常食同士の組み合わせでもバリエーションが増やせる。水気の足りない米もリゾットにすると美味しく食べられる。 チーズとトマトの相性抜群「トマトリゾット」 「デニッシュ」+バター、砂糖 → サックサクで思わず手が伸びる「スティックラスク」 ●材料 <非常食>デニッシュ(缶) <追加> バター、砂糖適宜 「スティックラスク」材料 ●作り方 1、デニッシュをスティック状に切る。 2、フライパンにバターを熱し、デニッシュを入れてカリカリに焼く。 3、砂糖を入れてからめながら焼く。 ここがポイント☆バターの代わりにマーガリンやサラダ油でも。デニッシュ自体が甘いので、砂糖はお好みで。焼きたてのアツアツ、カリカリのうちにどうぞ。 サックサクで思わず手が伸びる「スティックラスク」 「デニッシュ」+プリン、いちご → いちごの酸味とプリンの甘味が絶妙なバランス「プリンdeシュークリーム」 ●材料 <非常食>デニッシュ(缶)  <追加> プリン1個、いちご1個 「プリンdeシュークリーム」材料 ●作り方 1、デニッシュの上下の部分を使う。底の部分を2cmに切り、少しくりぬく。デニッシュの上部はふたにするので薄くスライスする。 2、くりぬいたところにプリンの本体部分(カラメル部分以外)を入れ、アルミホイルで包む。 3、フライパンに2を乗せて弱火で2~3分、包み焼きにする。 4、底がカリカリに焼けたら取り出し、いちごを乗せてふたを乗せる。 くりぬいたところにプリンの本体部分(カラメル部分以外)を入れ、アルミホイルで包んで焼く ここがポイント☆焦げないように弱火で焼くと底がパリパリになって香ばしい。使わなかった真ん中の部分はカリカリに焼いてラスクにしても。プリンのカラメル部分はフライパンで加熱するとキャラメルクリームとしても使える。 いちごの酸味とプリンの甘味が絶妙なバランス「プリンdeシュークリーム」 文/加納美紀 監修・料理作成/管理栄養士・調理師 加納志帆 高校時代に調理を学び、調理師免許取得。大学時代にふぐ調理師免許を取得し、大学卒業後に管理栄養士取得。食品メーカーに就職して地方勤務になり、1日3食ほぼすべて自炊(昼食は弁当持参)している。
#新型コロナウイルスレシピ
dot. 2020/05/31 10:00
【Vol.23】Writer Minori Kai Recommends Places to Visit Alongside a Trip to the Oedo Antique Market
【PR】【Vol.23】Writer Minori Kai Recommends Places to Visit Alongside a Trip to the Oedo Antique Market
 Tokyo is the perfect city for people who like to make little detours. Each neighborhood and each train and subway station has its own unique character. Virtually every nook of the city packed with shops and interesting spots, so whenever I go out, I don't just focus on my initial goal but also "side attractions," like taking a break and having a drink or doing a little shopping.   After browsing articles once used in everyday life and works of art at the Oedo Antique Market, I stopped by Tokyo Kaikan, a “hospitality complex” whose history stretches back almost 100 years. The first main building of Tokyo Kaikan was constructed in 1922, at a time when Western culture was spreading through Japan. With its restaurants, bars, banquet halls and cooking school, it was long loved as a world-class social venue that anyone could enjoy. On the 1st floor of Tokyo Kaikan is Rossini Terrace. Here, you can treat yourself with a meal and dessert in spacious surroundings with a view of the Imperial Palace. Marron Chantilly is a Tokyo Kaikan specialty, a confection with the motif of a snow-covered mountain created by Tokyo Kaikan's first head pastry chef. The ingredients are simple—just dairy cream and puréed chestnut—but because of that very simplicity it requires the deft hand of a skilled patisserie. The concoction’s refined, smooth sweetness fills you with such gustatory bliss that before you know it, the exhaustion of walking through the Oedo Antique Market is a distant memory. In addition to the basic dairy cream flavor, also seasonal varieties are also on offer, so you can partake of a different Marron Chantilly each time you visit.  My next stop was the Ippodo Tea Tokyo Marunouchi store, just a stone’s throw from Tokyo Kaikan. Headquartered in Kyoto with a history of some 300 years, Ippodo is a Japanese tea specialist, selling teas such as matcha, gyokuro, sencha and bancha. Some of the shop’s lineup of teas are meant to be prepared with tea whisks or brewed in traditional Japanese teapots, while others are sold in packages of tea bags. The Tokyo Marunouchi shop is Ippodo Tea's only street-front store in Japan apart from the main Kyoto store, and is divided into three spaces: a Shop space, an Enjoy space and a Learn space. The Shop space is a sales area featuring a counter where you can sample teas and select the one you like best. You can ask the staff about the characteristics of each variety of tea and choose the one that suits you. The tea shop also offers a takeout service by the cup, making it easy to relax with soothing Japanese tea. The Enjoy space is "Kaboku," a tearoom adjacent to the sales area. Among the menu’s highlights are selections of teas you experience preparing yourself and a "full-course" selection of Japanese teas. I chose the "Gyokuro Tekiro" set of tea served in a teapot and sweets. The sweets, beautiful hand-made creations from a Japanese confectioner, vary from day to day. You can feel the atmosphere of the main Kyoto shop everywhere: the baskets available at each table for storing your belongings are custom items from Ichizawa Shinzaburo Hanpu, a Kyoto canvas-bag shop, and the uniforms worn by the shop staff were designed by Morikage Shirt Kyoto, a Kyoto shirt specialist.  Lastly, at the Learn space, you can take part in regularly held classes on how to brew tea (reservations are required) or events in which you can learn more about Japanese tea—which, despite its familiarity, is often so little understood. The next time I visit, perhaps I’ll do it not as a side trip but instead with a Japanese tea class as my primary objective.  After this side trip, I visited Intermediatheque, a free museum on the second and third floors of the JP Tower KITTE building. This building preserves part of the former Tokyo Central Post Office while updating it through remodeling. Jointly operated by the Japan Post Co., Ltd. and the University Museum, the University of Tokyo (UMUT), Intermediatheque features permanent exhibits of academic specimens and research materials accrued since the founding of the University of Tokyo in 1877. The floor of the exhibition room is the same wooden floor used when the building was the Tokyo Central Post Office, and some of the showcases and cabinets used for the exhibits are actual fixtures previously used for educational purposes at the University of Tokyo. Walking through the doors is like stepping back through time into a tranquil 19th-century museum. Specimens of skeletons of large land and sea animals. Taxidermy specimens. Minerals. Pre-modern Japanese literature. Mathematical models. Instruments. Old globes. Clocks. All kinds of exhibits, both great and small, are arranged irregularly throughout the exhibition space. No matter where you look, there is something to surprise you, to captivate you, to stimulate your curiosity. Visitors are invariably enthralled by the exhibits, and it's easy to forget that the museum is located right in front of bustling Tokyo Station.  Photography is prohibited inside Intermediatheque, but is allowed in the "Academia" space. This zone is furnished with desks and chairs formerly used in a small hall of the University of Tokyo Faculty of Medicine, reproducing a University of Tokyo classroom circa the 1920s or 1930s. The portraits of former professors adorning the walls lend the space the ambiance of a fantasy novel.  The shop on the third floor sells catalogues of special exhibitions, products that sprang from the latest research conducted at the University of Tokyo, and original merchandise. It is the perfect place to pick up a Tokyo souvenir that's a little out of the ordinary.  Every place I visited in this post-Oedo Antique Market stroll was a special one, creating a sense of excitement like I'd travelled through time itself. I enjoyed the feeling of having travelled far afield without ever leaving Tokyo. Text: Minori Kai  Author. Born in Shizuoka Prefecture. Graduated from the Osaka University of Arts with a major in Literary Arts. Minori writes books and magazine articles, primarily about travel, walks, sweets, local breads, gifts, classic hotels and architecture, knick-knacks and sundries, and lifestyle. She excels at rediscovering the allure of foods, shops, scenery, and people, as well as unique local attractions. Minori also creates sightseeing pamphlets for local governments and gives lectures.   http://www.loule.net/ Photographs: Yukari Isa Cooperation: Tokyo Kaikan https://www.kaikan.co.jp/en Ippodo Tea http://www.ippodo-tea.co.jp/en/ JP Tower Museum INTERMEDIATHEQUE http://www.intermediatheque.jp/en Museography (c) UMUT works N.B. The information on this site is correct as of August 2019. It is subject to change without notice, so please confirm the details before coming to the festival. (This is a "Tokyo Tokyo Old meets New" Project.)
2020/02/14 10:46
【Vol.23】文筆家・甲斐みのりさんがおすすめする「大江戸骨董市」と併せて巡りたい場所
【PR】【Vol.23】文筆家・甲斐みのりさんがおすすめする「大江戸骨董市」と併せて巡りたい場所
*  *  *  東京は、“寄り道”をこよなく愛する者にとって理想的な街。おのおの個性を持ったエリアや駅ごとに、さまざまなお店や名所がぎゅぎゅっと密集しているから、出かけるたび本来の目的を果たすのみに留まらず、ちょっとの合間にお茶をしたり買い物をしたり、あらゆる“ついで”を楽しめる。   大江戸骨董市で暮らしの道具や美術品に触れたあと、まず立ち寄ったのは、100年近い歴史がある「東京會舘」。東京會舘の初代本舘が誕生したのは、日本に西洋文化が広がり始めた1922年。誰でも利用できる世界に誇れる社交場として、レストラン、バー、宴会場、料理教室などをそなえ、長きにわたり愛されてきた。  そんな東京會舘の本舘1階にある「ロッシニテラス」の、皇居を望むゆったりとした席で、食事やデザートを味わう贅沢なひととき。東京會舘の名物で、初代製菓長が雪山をイメージして発案したケーキ「マロンシャンテリー」は、生クリームと裏ごしした栗のみのシンプルな素材で、その分パティシエの高い技術を要する。なめらかに口福をもたらす上品な甘さが体に染み入り、大江戸骨董市で会場を歩き回った疲れもどこへやら。基本の生クリーム味の他に、季節ごとの限定商品も出ているので、繰り返し通う楽しみがある。  その後は、東京會舘からほど近い「一保堂茶舗 東京丸の内店」へ。京都に本店を構える一保堂は、抹茶、玉露、煎茶、番茶などを揃える日本茶専門店で、約300年の歴史がある。扱う商品は茶筅や急須で淹れるお茶からティーバッグまで、ラインアップも幅広い。東京丸の内店は、京都本店以外では唯一の路面店で、「買う」「楽しむ」「学ぶ」の三つの異なる空間があるのも見所だ。 「買う」は、試飲しながら好みのお茶を選べるカウンター式の売り場。スタッフに種類ごと特徴を伺いながら好みを選べる。カップでのテイクアウトサービスも行っているから、気軽に日本茶で一息つけるのも嬉しい。 「楽しむ」は、売り場に隣接する喫茶室「嘉木」にて。「淹れ方体験付きメニュー」や、丸の内店限定でフルコース仕立ての日本茶メニューなどがある中から、ティーポットでサーブされるお茶とお菓子のセット「玉露 滴露」をいただく。日によって異なるお菓子は、和菓子屋による美しい手仕事。各テーブルに用意された荷物入れは、京都の帆布かばん店「一澤信三郎帆布」の別注品だったり、店舗のスタッフユニホームは、京都のシャツ専門店「モリカゲシャツキョウト」が手がけていたりと、本店がある京都の気配も感じられる。  最後の「学ぶ」は、定期的に開催される予約制のお茶の淹れ方教室や、イベントを通して。当たり前に身近にあるのに、知らないことも多い日本茶の知識を得ることができる。今度は寄り道ではなくて、日本茶の教室を一番の目的に再訪しよう。  寄り道最後は、旧東京中央郵便局の局舎を一部保存・再生して作られた商業施設JPタワー「KITTE」の2・3階に所在する「インターメディアテク」。日本郵便株式会社と、東京大学総合研究博物館が協働運営する入場無料のミュージアムで、東京大学が1877年の開学以来蓄積してきた、学術標本や研究資料などが常設展示されている。  展示室の床は旧東京中央郵便局時代からの木張りで、展示に用いられるケースやキャビネットの一部も、実際に東京大学の教育現場で使用されてきたものを利活用。時空を超えて19世紀の静謐な博物館にタイムスリップしたような劇的な感覚を覚える。  陸海の大型動物の骨格標本、剥製、鉱物、古典籍、数理模型、楽器、古い地球儀や時計……。巨大なものから小さなものまでが不規則に配置され、前後左右、目を向ける先々で、驚いたり見とれたり、好奇心が刺激される。来場者はみな真剣な眼差しで展示物に見入り、ここが賑やかな東京駅のすぐ目の前にあることをしばしの間忘れてしまう。  インターメディアテク内は撮影禁止だが、東京大学医学部本館の小講堂で使用されていた机や椅子を移設し、昭和初期の東京大学の教室を再現した「アカデミア」というスペースのみ、フォトスポットとして撮影可能。壁には歴代教授陣の肖像画が掲げられ、ファンタジー小説の世界さながらだ。  3階のショップコーナーでは、企画展の図録や、東京大学の最新研究から生まれた商品、オリジナルグッズを販売しており、一風変わった東京みやげを選ぶのにちょうどいい。  大江戸骨董市後の寄り道は、どこも時間の中を旅したような高揚感を得られる特別な空間。一日存分に旅気分に浸る、東京の休日を過ごした。 文:甲斐みのり 文筆家。静岡県生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。旅、散歩、お菓子、地元パン、手みやげ、クラシックホテルや建築、雑貨、暮らしなどを主な題材に、書籍や雑誌に執筆。食・店・風景・人、その土地ならではの魅力を再発見するのが得意。地方自治体の観光案内パンフレットの制作や講演活動も行う。 http://www.loule.net/ 写真:伊佐ゆかり 撮影協力: 東京會舘 https://www.kaikan.co.jp/ 一保堂茶舗 http://www.ippodo-tea.co.jp/ JPタワー学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」 http://www.intermediatheque.jp/ 空間・展示デザイン  (c) UMUT works 本企画は『東京の魅力発信プロジェクト』に採択されています。 このサイトの情報は、すべて2019年8月現在のものです。予告なしに変更される可能性がありますので、おでかけの際は、事前にご確認下さい。 →英語版はこちら(English version)
2020/02/06 13:41
「雅子さまは眉毛を太く描くように」“皇室おっかけ主婦”の一枚
上田耕司 上田耕司
「雅子さまは眉毛を太く描くように」“皇室おっかけ主婦”の一枚
新潟へ出発 (撮影/吉田比佐さん 9月16日)  天皇ご一家や上皇ご夫妻の貴重な姿をカメラに収め続ける「皇室おっかけ主婦」。今回、ベテラン4人の令和数カ月の成果を日記風に紹介。白滝富美子さん(以下、S・70代後半・おっかけ歴26年)、吉田比佐さん(以下、Y・50代後半・おっかけ歴26年)、石井さん(以下、I・70代前半・おっかけ歴10年)、小渕弘子さん(以下、K・70代後半・おっかけ歴25年)たちが偶然捉えた一枚に、歴史的瞬間や皇室の意外な素顔が写っているかも。 【5月1日】 天皇陛下が即位。おっかけ主婦らは、赤坂御所から車で移動する両陛下をカメラに収めようと、沿道で待ち構えていた。車は一瞬で通り過ぎたが、雅子さまはニッコリ。 撮影/吉田比佐さん 「シャッターを切るチャンスは1回。車の中はけっこう暗い。でも幸い、その瞬間は晴れていた。それと最前列にいたから撮れたんです。やっぱり、2列目、3列目ではダメ。赤坂御所前に最前列で2時間並んだかいがありました」(Y) 【6月17日】 日本学士院授賞式の後、受賞者や新会員とのお茶会が皇居・宮殿で催された。お出かけになる雅子皇后を赤坂御所正門でパシャリ(撮影Y)。 撮影/吉田比佐さん 【7月1日】 宮中で「旬祭」の後、天皇ご夫妻は来日したトルコ大統領夫妻と会談。その帰りを狙って、迎賓館前で走り去る車の中を撮った。 撮影/白滝富美子さん 「あっ、残念、ピンボケ。西日も当たっていたし、連写したんだけど、私の体が揺れたのかしら」(S) 【8月1日】 天皇ご一家は須崎御用邸へ。20時半ごろ、伊豆急下田駅に到着。 「雅子さまは紫の洋服に紫のバッグがステキでした。髪形を狙ってサイドから撮りました」(S) 「雅子さまは体調が優れなかったころ、髪を下ろしている印象が強かった。最近は髪の毛を編み上げてアップにされていますね」(K) 【8月5日】 須崎御用邸から帰京。愛子さまは、ちょっと肌が赤くなって日焼けしたご様子(撮影K)。 (左)撮影/白滝富美子さん、(右)撮影/小渕弘子さん 「御用邸のすぐ下に海水浴ができる砂浜があるんです。湾になっていて、外からは見えませんが」(S) 「愛子さまはだいたい、下田の帰りは日焼けしていますね。お鼻のてっぺんが赤かったり、腕が赤くなっていたりします」(Y) ご一家3人そろっての笑顔。ご静養の帰りです。愛子さまは日焼けされていますね。(石井さん)8月5日@伊豆急下田駅 【8月7日】 フローレンス・ナイチンゲール記章授与式。美智子さまが担っていた公務を雅子さまが引き継いだ。その帰り、今まさに車に乗り込もうとしたところの一枚。 撮影/吉田比佐さん 「無事に公務を終えられて車に乗る直前に雅子さまは、こちらに気づいて笑ってくださったの」(Y) 【8月15日】 全国戦没者追悼式に出席。日本武道館からの帰りを、赤坂御所の正門前で撮った。 撮影/白滝富美子さん 「連写で車の中を撮るのは得意なんだけど、手ぶれしてしまった。長いこと待っていたのに……」(S) 【8月19日】 天皇ご一家は那須御用邸へ。JR那須塩原駅で、地元の人たちがお出迎え。 「後ろにも人がいるので、前にいる人は座らないと悪い。それで、雅子さまを下から撮った写真になりました」(I) 東京ではあまり一般の人と話す機会のないご一家も、出迎えた市民らと楽しくご歓談。那須ではリラックス。(小渕弘子さん)8月19日@那須塩原駅  ご一家はバカンス先の那須では饒舌(じょうぜつ)になるとか。 「私も雅子さまと話ができました。『愛子さまの日焼けは目立たなくなりましたね』って言ったら、雅子さまは『あら、下田へも来ていただいたんですね』とおっしゃいました。気さくでしたよ」(K) 【8月22日】 上皇ご夫妻が軽井沢へ出発。上皇后美智子さまは上皇さまの腕を掴んで支えている。 (左)撮影/石井さん、(右)撮影/白滝富美子さん 「美智子さまは6月に白内障の手術をしてから、サングラス姿が多くなりました」(S) 【8月28日】 天皇ご一家が那須から帰京。 「あいにくの天気。でも雨傘をさした貴重な一枚が撮れた。おっかけ主婦は雨ニモマケズ……」(S) 撮影/白滝富美子さん 【8月30日】 天皇ご夫妻はアフリカ開発会議に出席した各国首脳夫妻と皇居・宮殿でお茶会。薄いブルーの着物姿の雅子さま。 撮影/白滝富美子さん 「頭が切れちゃったのが残念ね。顔がふっくらしていい笑顔。最近、雅子さまは眉毛を太く描くようになりました。眉尻まで角度が緩やかなのが、ロイヤル眉なんでしょうね」(S) 【同日】 上皇ご夫妻は草津から帰京(軽井沢から27日に移動)。東京駅で撮影。 「ブーケを手にした美智子さまがすてきで夢中で撮影しました」(I) 撮影/石井さん 「東京駅の撮影ポイントは、日本橋口のホテルメトロポリタン丸の内前。車を乗り降りするからです」(Y) 【9月10日】 乳がんの手術を受けて退院した美智子さまのお見舞いに向かう天皇、皇后両陛下。皇居に入る車の中のお二人を撮影。 撮影/白滝富美子さん 「奥の天皇陛下まで光が届かず、失敗」(S) 【9月16日】 天皇ご夫妻は国民文化祭と全国障害者芸術・文化祭の式典出席などのため新潟県を訪問。上越新幹線で向かう。 「雅子さまー」と叫んだら、改札口の手前で振り向かれた。珍しい写真でしょ?(白滝富美子さん)9月16日@東京駅 「雅子さまのお召し物は全身真っ白。歩き姿もカッコイイ。スーツ、スカーフ、パールのネックレス、バッグも白。靴も白だったのに、足元が写ってないのが惜しい! 写真ができあがってから、ガッカリ」(Y) 【9月29日】 茨城県訪問からの帰り。「お召し列車」から降りた雅子さま。 撮影/吉田比佐さん 「振り返るかもとカメラを構えていたがそのまま行ってしまった。狙いがはずれて残念」(Y) お手振りがないのでは?と騒がれていましたが、ちゃんとお手振りしていました。証拠写真です。令和初のお召し列車が撮れて、宝物です。(吉田比佐さん)9月28日@東京駅 ◆  一枚一枚に苦心の跡が認められる。おっかけの心理を尋ねると「雅子さまの笑顔に惹きつけられるから。お元気な姿を間近で見られると、また行きたくなる」(Y)。この純粋な気持ちが原動力。皇室おっかけ主婦の活動は今後も続く。(本誌・上田耕司) ※週刊朝日  2019年11月1日号
皇室雅子さま
週刊朝日 2019/10/26 08:00
ラーメンの鬼と呼ばれた佐野実“最後の弟子”が作る「師匠を見返したい一杯」
井手隊長 井手隊長
ラーメンの鬼と呼ばれた佐野実“最後の弟子”が作る「師匠を見返したい一杯」
「GOTTSUらーめん」は一杯980円(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介するこの連載。今回紹介するのは、ミシュランガイド東京のビブグルマンを5年連続で受賞した「RAMEN GOTTSU」の店主が愛する一杯。それは今は亡きラーメンの鬼・佐野実さんの最後の弟子が作る、決意のこもったラーメンだった。 ■トレンドから外れても魚介豚骨を追求した理由  練馬にある「RAMEN GOTTSU」は、濃厚な魚介豚骨ラーメンのパイオニア「渡なべ」で修行した齋藤雅文さん(38)が2013年3月にオープンした。濃厚魚介豚骨系は03年ごろから大ブームを巻き起こしたが、名店の味を真似たお店が乱立、新規オープンすれば「またおま系」(「またお前か」の略)と揶揄され、オープン時、すでにブームは終焉を迎えていた。  しかし「渡なべ」の味に惚れ込んでこの世界に入った齋藤さん。独立するなら濃厚魚介豚骨系と決めていた。 店主の齋藤雅文さん(筆者撮影) 「『六厘舎』さんや『とみ田』さんを真似したお店がたくさんありましたが、今はだいぶ淘汰されてきたと思います。魚介豚骨系のブームは終わりましたが、味自体には深い魅力があります」(齋藤さん) 魚介の旨味に豚骨で厚みをつけた濃厚なスープは、確かにわかりやすい美味しさだ。齋藤さんは、根強い人気を誇る濃厚魚介豚骨ラーメンの中で、オリジナリティを出そうと考えた。 魚介豚骨ラーメンは濃厚で食べごたえもあるだけに、食後にどうしてもある種の罪悪感が残る。齋藤さんは、まずその罪悪感を消すことに注力した。ドロドロ感やくどさ、油感は消したいが、スープの濃厚さは保ち、クリーミーに仕上げたい。ゲンコツ(豚の膝関節)を使わずに、背骨と鶏ガラでスープの厚みをかせいだ。タレには濃い味わいの再仕込み醤油を3種類ブレンドして、スープに負けないビターな醤油ダレを完成させた。 こうして「GOTTSU」の大人な魚介豚骨ラーメンが完成した。無骨な男くさいイメージを払拭し、女性客にも受け入れられた。お店の外装・内装は、ラーメン店とは思えぬオシャレなデザイン。友人に頼んで、自分の居心地がいい空間を作ったことが功を奏し、女性のおひとりさま需要にもマッチした。 RAMEN GOTTSU/東京都練馬区練馬1-29-16 1F、営業時間:昼11:00~15:00、夜18:00~21:00。定休日:日曜日の夜、月曜日と第3火曜日(筆者撮影)  ミシュランガイド東京のビブグルマンに選ばれると、外国人観光客も増えてきた。ここで「RAMEN GOTTSU」という横文字表記の店名が生きてくる。 「横文字で書いたらお店の雰囲気に合うなと思っただけだったんですけどね。外国人観光客を取り込もうなんて当時は全く考えていませんでした」(齋藤さん)  こうして有名店の仲間入りをした「GOTTSU」。齋藤さんはとにかく、自分のラーメンが好きなんだという。週に5日食べているが、全く飽きない。日頃から自分で作って、食べているからこそ細部に気づき、日々ブラッシュアップできる。今は多店舗展開も考えていない。 ネギをねじりながら乗せる「GOTTSU」の齋藤さん(筆者撮影) 「魚介豚骨は現在ラーメン界のメインストリームからは離れ、狭い世界となりました。工場で作るのではなく、お店で毎日炊く魚介豚骨をもう一度文化として広げたいです」(齋藤さん) 愛する魚介豚骨にもう一度火を灯すべく、「GOTTSU」は今日もトップを走り続ける。そんな齋藤さんが愛し、「一番通っている店」として挙げたのは、“ラーメンの鬼”と呼ばれた故・佐野実さんの最後の弟子が紡ぎ出す、汗と涙の一杯だった。 ■ラーメンの鬼が弟子をとる意外な“基準”  13年12月に中野の鷺ノ宮駅近くにオープンした「らぁ麺 すぎ本」もまた、「ミシュランガイド東京2017」から3年連続ビブグルマンを獲得している名店だ。鶏、豚、魚介をバランスよく合わせたスープは旨味が複合的で、まろやかな中にもキレがある醤油ダレと合わさり、得も言われぬ美味しさを繰り出す。 GOTTSU齋藤さんのお気に入り「醤油ワンタンらぁ麺」は950円(筆者撮影)  店主の杉本康介さん(41)の最初の就職先はカラオケボックスチェーンだった。エリアマネージャーとして各地の店舗を巡る日々。仕事に不満はなかったが、会社で出世しても雇われの身は続く。それよりは、自分で商売をやってみたい。自分は社長になるんだ、そう思うようになった。  ちょうどその頃、アメリカのドーナツチェーン店「クリスピー・クリーム・ドーナツ」が日本にも進出、新宿に1号店をオープンし、連日大行列を作っていた。独立の前に新しい会社が大きくなる流れを身をもって学びたいと考えた杉本さんは、入社を決意する。30歳の頃だった。  新宿店に2年間勤め、お店が成長していく様子やノウハウが積みあがる過程を見ることができた。そしてこの頃から、「ラーメンで独立したい」という思いが湧いてくる。実は杉本さん、高校の頃からラーメンの食べ歩きを続けるラーメンフリークでもあった。横浜家系ラーメンの「壱六家 横須賀店」(現在は閉店)に衝撃を受け、「吉村家」「環二家」など家系の名店を回りに回った。ラーメンのガイド本を買うようになってからは家系以外も食べるようになり、1日2杯ペースで食べ歩いた。10年間、年500杯ペースで食べてきた大好きなラーメン。これを仕事にできたらどんなに幸せだろう、そんな思いだった。  杉本さんには、35歳までには独立したいという思いがあった。ラーメン業界で一番厳しいお店で修行し、ダメなら諦めもつくと考え、32歳のときに「支那そばや」の門をたたいた。 「支那そばや」は“ラーメンの鬼”とも呼ばれた佐野実さんが1986年に創業したお店だ。スープ、麺だけでなく、具材・器・製法など全てにおいて妥協を許さない姿勢はテレビにも取り上げられ、ラーメンファンのみならず一般にも広く知られた存在だった。  面接を受けに杉本さんがお店に向かうと、佐野さん本人が待っていた。給料や働き方、志望動機などをすっ飛ばして、佐野さんは一言こう言った。 支那そばやの山水地鶏ワンタン醤油らぁ麺(筆者撮影) 「お前、ラーメンが好きなのか」  反射的に「はい」と答えると、 「じゃあ、いつから来る」  面接はこれだけだった。  こうして杉本さんは、10年春から「支那そばや」で働き始める。佐野さんからは「3年はやれ」と言われ、杉本さんも当初はそのつもりだった。しかし、修行は想像以上に過酷だった。労働時間は15時間、しかも食事以外はほとんど座ることはできない。家に帰って寝ていても、足がつることもしばしばだった。他の従業員はみんな当たり前の顔でこなしているように見えたが、自分はとてもじゃないけど、3年はもたない。 「1年でマスターするしかない」  誰よりも早くお店に行き、仕事の前に自分で買ったネギを刻んで練習した。麺の代わりにタオルを濡らして湯切りの練習もした。営業中は師匠や先輩の手つきを見て、見よう見まねで毎日一人で特訓した。 しばらくして、佐野さんから突然声をかけられる。 「これで練習してみろ」  そう言って、タオルを使うくらいならと、安価な材料で作った練習用の麺を渡してくれた。嬉しかった。さらに気合を入れて練習する日々が続く。こうして徐々に腕を上げていった杉本さんは、お店のラーメン作りも任せてもらえるようになった。 「すぎ本」の杉本さん(筆者撮影)  修行開始から1年が過ぎ、ラーメン作りの技術はかなり身についた。杉本さんは「他を見てみたい」と佐野さんに退職を申し出た。「去る者追わず」が佐野さんのスタイルだと思っていたが、行きつけの寿司屋に呼ばれ、こうたずねられた。 「今、お前が他に行っても勉強になんかならないぞ。何が不満なんだ」  給料がもう少しほしいことと、製麺を覚えたいことを伝えると、了承してくれた。こうして修行を続けるなかで、大切なことに気付いたという。 「食材の扱い方やスープの温度、炊き方すべてに意味があるのに、僕はただの“作業”としてやっていたんです。なぜその工程が必要なのかということまで、考えるようになりました」(杉本さん)  それ以来、ラーメンへの向き合い方も変わった。3年半に及ぶ「支那そばや」での修行を経た13年6月、いよいよ独立したいと佐野さんに告げると、佐野さんはこう言ってくれた。 「俺と同じものはできないだろうが、お前には俺より美味いものが作れるかもな」  杉本さんにとって、最高の褒め言葉だった。こうして杉本さんは独立に向け、歩き始める。物件を探し始めて数カ月、西武新宿線鷺ノ宮駅の近くに、家賃・広さをクリアする場所が見つかった。土地勘はないが、駅からも近いと勢いで出店を決めてしまった。13年12月「らぁ麺 すぎ本」はオープンした。 ■師匠が弟子に放った言葉  味のコンセプトは、老若男女が食べられるバランスのとれたラーメン。地元に根付く味を目指した。オープン初日に来てくれた佐野さんは、ラーメンを口にして一言こう言った。 すぎ本/東京都中野区鷺宮4-2-3、営業時間11:30~15:00、18:00~21:00、月曜のみ11:30~15:00、火曜定休(筆者撮影) 「普通のラーメンだな」  悔しかったと同時に、見透かされていると感じた。思っていたようなラーメンを作れていなかったのだ。開店1カ月は「支那そばや」出身ということでお客さんも集まったが、すぐに客足は厳しくなった。お客が1日に30人しか来ない日もザラであった。  杉本さんは師匠を見返したい一心でラーメン作りに励んだが、悲劇が起きる。14年4月、佐野さんが亡くなった。突然のことだった。  納得できるラーメンを食べてもらえないまま、お別れとなってしまった。“佐野実 最後の弟子”として、自分でこれからの道を見つけていくしかないのだ。  杉本さんは業界内で切磋琢磨できる仲間を見つけ、情報交換をしながら、ラーメンをブラッシュアップしていく。味も少しずつ仕上がっていき、客足も戻ってきた。なかでも食材選びにはとくにこだわった。 「佐野さんはインターネットもない頃から、ラーメンのために一人で食材と向き合っていました。知れば知るほど遠い存在です。でも、自分には佐野さんのDNAが根付いていると信じ、それを誇りにラーメンを作っています」(杉本さん)  美味しいという噂は口コミで広がり、やがて行列を作る人気店に。ついにはミシュランガイド東京2017でビブグルマンを獲得するまでに至る。佐野イズムを受け継いだ杉本さんは、味の研究に余念がない。 「GOTTSU」の齋藤さんは、「すぎ本」のラーメンについてこう語る。 「出身店の良さが色濃く出ているという点で、自分との共通点を感じます。一方で、『支那そばや』とはまた違う杉本さんらしさも感じる。まろやかな中にもキレのある醤油スープは本当に美味いです。仕事も丁寧で、常連になりたいなと思わせてくれるお店です」(齋藤さん)  杉本さんも「GOTTSU」齋藤さんのこだわりには目を見張る。 「とにかく熱い男です。どんなことがあってもお店を絶対に休まず、妥協しない。ラーメン屋としては理想の姿ですが、これがなかなかできない。具材の燻製や、ネギの切り方、ねじり方など、普通のお店の何倍もの手間がかかっています。それをほとんど一人でやっている。濃厚系のラーメンで頂点までいった人ですね」(杉本さん)  師匠の技術を受け継ぎながらも、自分の味を出して高い評価を受けている二人。これはなかなかできることではない。こういったお店が、新たな時代を引っ張っていくに違いない。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて18年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2019/05/05 13:00
『真田太平記』第0話 日本一の兵
『真田太平記』第0話 日本一の兵
2019/04/15 11:30
宇宙から世界中の雨を予測する技術とは?
宇宙から世界中の雨を予測する技術とは?
近年、気象庁による地上の雨量計や気象レーダーに加えて、JAXAによる宇宙から気象衛星を使った雨の観測が行われています。この技術により、地球全体で雨の観測・予測ができるようになりました。 日本から遠く離れた熱帯で発生した台風の雨のようすも、ほぼリアルタイムで確認することができるようになった上、天気予報そのものの精度も向上させるこの技術について、詳しくご紹介します!2019年台風2号:ひまわり8号による雲(左)とGSMaPによる雨(右)のようす(2019年2月24日9時) なぜ、宇宙から雨を観測するの? 天気予報において、雨を正確に観測することはとても重要です。 雨の観測においては、 ①地上に設置した雨量計による観測(AMeDAS) ②地上に設置した気象レーダーによる観測 が一般的です。 ①は「点」、②「面」を対象にしており、両者でデータを補うことで、より精度良く降水量を測ることができます。世界の雨量計の分布(JAXA/EORC, 「GPM Website」より) しかし、いずれも地上に設置するため、観測範囲に限界があり、海域までをカバーすることはできません。また、欧米や日本・韓国などでは比較的雨量計や気象レーダーが密集して分布していますが、アジア、アフリカ、南米では、まだそれほど整備が進んでいません。 雨量計や気象レーダーによる観測では、地表面の25%程度しかカバーできていないのが現状です。(JAXA/EORC, 「GPM Website」より)世界の気象レーダーの分布(WMO,「WMO Radar Database」より) それならば、地上の観測網では観測できない地域のデータを補完するために「地球全体の雨が降るようすを宇宙から捉えよう!」ということで、近年、気象衛星が活用されています。 複数の気象衛星の情報を組み合わせることで、ほぼ全球の雨のようすを観測(推定)することができます。 これが、宇宙航空研究開発機構(以下、JAXA)が取り組む、全球降水観測計画(以下、GPM計画)における「衛星全球降水マップ(以下、GSMaP)」の技術です。GSMaPによる世界の雨のようす(2019年4月8日8時観測) 宇宙飛行士や探査機だけではない、JAXAの技術 「JAXA」と聞くと、今まさにミッション遂行中の小惑星探査機「はやぶさ2」や、国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」の開発および宇宙飛行士による科学実験など、宇宙探査や宇宙開発といったイメージが強いかもしれません。 その他にも、航空技術の研究や宇宙輸送システム(ロケットなど)の開発、そして人工衛星による地球のモニタリングなど、多岐にわたるプロジェクトを行っており、今回ご紹介するGSMaPのデータも、GPM主衛星や水循環変動観測衛星「しずく」などの複数の人工衛星を用いたプロジェクトの成果の一つです。 雨量計や気象レーダが”地上”から雨を観測しているのに対し、気象衛星を使って”宇宙”から観測するのがこのGSMaPなわけですが、単に上空から測ったデータをそのまま使っているわけではありません。 複数の放射計を使用して観測を行い、それらを複雑なアルゴリズムを用いて計算し、”最良の降水観測データを推定”しています。こうした技術の開発も、JAXAが中心となって行っています。 と、ここまで雨の観測技術やGSMaPについていろいろとお話してきましたが、あまりにもスケールが大きすぎる話で、いまいちピンとこないかもしれません。 ここからは、このGSMaPのデータが、日本の天気予報にどんな効果をもたらしてくれるのかを見ていきましょう! GSMaPのデータで日本の天気予報の精度があがる!? GSMaPのデータにより、これまで雨量計や気象レーダの観測範囲内でしか把握できなかった雨のデータが把握できるようになりました。 これらGSMaPのデータは、地球温暖化や気候変動などのグローバル研究や、地上の観測網が不足している途上国における洪水予報や河川管理などに利用されることはもちろんのこと、天気予報の計算などにも利用されます。 天気予報の計算において、得られる雨のデータが増えると、日本の天気予報の精度も上がります。 なぜかというと、天気予報は、観測データをもとに、それらが予測時間後どのように変化するかを、さまざまな物理過程の方程式にあてはめて計算して作られています。つまり、計算式にあてはめる観測データがなかったり、観測データの精度が悪いと、正確な計算ができなくなってしまうのです。それゆえ、観測データの有無や精度が大変重要になってくる、というわけです。 こうした理由から、近年、日本の気象庁では、予測精度向上のため天気予報の数値計算において、GPM主衛星や水循環変動観測衛星「しずく」などのデータの利用をはじめています。天気予報(数値予報)のイメージ(気象庁,「こんにちは!気象庁です!平成30年2月号」より) 台風の発生・発達期から雨の予想が可能に! さらに、GSMaPの雨の観測データは、日本の天気予報の精度を向上させるだけではなく、遠く離れた場所の雨の予測も可能にしました。 今年の2月に発生し、2月としてははじめて猛烈な勢力に達した台風2号を例に見ていきましょう。ひまわり8号による台風2号の雲のようす(2019年2月24日9時観測) この技術ができる前は、日本からはるか遠くにある台風については、進路や強さ(中心付近の風速)は予測できても、雨の強さや範囲までは予測できませんでした。 今回、熱帯付近の雨の観測・予測ができるようになったことにより、熱帯の海上で発生し、北上して日本に影響をもたらす「台風」について、日本に接近する前の台風発生・発達期における雨のようすを観測・予測できるようになったのです。2019年台風2号の進路と強さの予想図(2019年2月24日9時発表) こちらは、日本の気象レーダーによる「雨雲の動き」の観測データです。グレーの領域は”地上に設置した気象レーダーの観測範囲外”を表しており、従来、台風の降水域が観測範囲内に入らないと、これまで雨のようすを把握することができませんでした。日本の気象レーダーによる雨の観測(2019年2月24日9時観測)※グレーの領域はおおよその観測範囲外 そしてこちらが、GSMaPによる、東アジア~オセアニアにかけた3時間後の雨の予想です。 台風の強さは中心付近の風速で決まるため、雨の強さと完全に一致するわけではありませんが、この時台風2号は、台風の強さのレベルで最も強い「猛烈な台風(最大風速54m/s以上)」に達していました。 GSMaPの予測情報では、日本の南の太平洋上には、はっきりと台風の雲に該当する、強い雨の領域が予想されていました。 日本に影響をもたらす恐れのある台風の雨のようすを、低緯度地域における発生・発達期から長期的に、しかもほぼリアルタイムでモニタリングできるようになったことは、とても画期的なことです。GSMaPによる3時間後の雨雲の予想(2019年2月24日9時発表) GSMaPの観測・予測データの確認方法 平成の時代は、驚くほどの早さでインターネットが普及し、気軽にグローバルな情報が得られるようになった時代でした。同様に、天気予報のグローバル化も、この数十年で大幅に進んでいます。 tenki.jpでは、GSMaPの観測・予測データを「tenki.jp×JAXA 世界の雨雲の動き」のページで公開しています。ぜひ、きょうの地球のようすをチェックしてみてください。 「tenki.jp×JAXA 世界の雨雲の動き」 URL:https://tenki.jp/jaxa/ 情報提供エリア:東アジア、南・東南アジア、太平洋(ハワイ付近)、オセアニア 更新間隔:30分 予測対象時間:実況から3時間先まで1時間ごと<参考> GPM Website(JAXA/EORC) https://www.eorc.jaxa.jp/GPM/index.html WMO Radar Database(WMO) http://wrd.mgm.gov.tr/default.aspx?l=en 気象庁HP「こんにちは!気象庁です!」(気象庁) https://www.jma.go.jp/jma/kishou/jma-magazine/
tenki.jp 2019/04/10 00:00
気象予報士が教える!登山で気をつけたい天気のはなし ~夏の立山へ行ってきました~
気象予報士が教える!登山で気をつけたい天気のはなし ~夏の立山へ行ってきました~
夏山シーズンも残りわずかとなりました。 普段はハードルが高い3000m級の山に挑戦できるこの機会を逃すまいと、tenki.jpチームの山好きメンバーが、夏山登山へ行ってきました。今回の目的地は・・・北アルプスに位置する立山! そこで今回は、夏山に限らず、快適かつ安全な登山のための、天気のチェック方法やポイントを解説します。美しい立山の絶景もご紹介しますよ。 山の天気の特徴とチェックの仕方 私たちがよく目にする天気予報は標高が低い「ふもと」の天気予報で、「ふもと」からの距離がそれほど変わらなくても、山の天気は変わりやすく「ふもと」とは大きく異なります。 なぜ、山の天気が変わりやすいかというと、風が吹いて山の斜面にぶつかると、風は斜面に沿って空気を押し上げます。水蒸気を多く含んだ空気が押し上げられると雲となって雨を降らせます。逆に風が斜面に沿って吹き下りると、下降気流となって天気は良くなります。 このように、山岳部の起伏によって風の流れが複雑になるため、天気が変わりやすいのです。そのため、「ふもと」の天気予報だけで判断せず、高層の天気も確認するようにしましょう。 高層の天気は、一般的には高層天気図や気象データの数値計算結果で、気温や風などのおおよその傾向を把握することができます。さらに、提供される予報に関して知識を持っている方を対象に、より詳細な山岳の天気予報を提供しているサービスもあります。「tenki.jp 登山天気」アプリもそのひとつで、400の山について、登山口や山頂など登山ルート上における、天気や登山指数・登山服装指数・落雷指数などの情報を提供しています。 こうした情報を活用しつつ、「山の天気は変わりやすい」を常に念頭に、登山計画を立てるようにしましょう。「tenki.jp 登山天気」では山頂の天気や落雷指数をチェックすることができる また、前述した山の天気の特徴に加えて、この時期ならではの注意点があります。 夏は太平洋高気圧に覆われるため、シーズンを通じてみれば天気が安定しやすい時期ではありますが、一日でみると、日中、夏の強い日差しで地面が温められ、午後は大気が不安定になりがちで、急な大雨や雷雨になる可能性があります。午後は雨や雷の確率がぐっと高くなりますので、朝早くから上り始めて、お昼には下山できるよう計画しましょう。山では、夏の間ほぼ毎日雷に注意! 前日までの準備 目的の山が決まったら、上に記載した方法で、数日前から天気予報のチェックをはじめます。予報は日々更新され、予報対象日が近づくほど確度が高くなるため、毎日のチェックが基本です。なお、悪天が予想されている場合、山では平地以上に悪天の影響を受けやすいため、「少しくらい天気が心配でも…」という考えはやめましょう。さて、ここからは登山レポートのスタートです。今回の目的地は、北アルプス北部に位置する標高3015mの立山です。 <今回の登山ルート> 『立山三峰縦走コース』 室堂ターミナル(2450m) → 雄山(3003m) → 大汝山(3012m) → 富士ノ折立(2999m) → 真砂岳(2861m) → 別山(2874m) → 雷鳥平 → 室堂ターミナル 登山前日、私たちは、高層天気図や天気予報から天気や落雷指数などが良好であることを確認した後、立山の登山口となる室堂(標高2450m)へ移動し、周辺の宿で前泊しました。室堂からは、山肌が夕焼け色に染まった美しい景色を見ることができました。室堂付近からみた、夕焼け色に染まる立山と月 いよいよ登山開始! 翌朝、いよいよ登山開始です! と、その前に、もう一度天気のチェックをします。山の天気は変わりやすいこともあり、予測も逐次変わっていく可能性があるため、定期的にチェックするのがおすすめです。 また、登山口や山小屋を離れると携帯電話の電波も悪くなりやすいため、なるべく電波が入りやすい状況下で天気予報をチェックするクセをつけておくと良いでしょう。 あわせて、事前に、登山道の電波状況も確認しておきましょう。各キャリアの山岳における電波状況は、以下のページからご確認いただけます。(2018年8月現在) ●NTT docomo https://www.nttdocomo.co.jp/support/area/mountains/ ●SoftBank https://www.softbank.jp/mobile/network/area/mountains/ ●au https://www.au.com/mobile/area/ ちなみに立山周辺は、3キャリアとも、一部のエリアを除いて電波状況は良好でした。出発前に山の天気をチェック! また、出発地点の室堂ターミナルでは、現地の気象や山岳状況に関する情報が掲示されていました。各地のビジターセンターや山小屋では、登山者の安全のため、独自にこうした情報を提供してくれているところもあります。このような現地の情報を、積極的にキャッチすることもお忘れず。 それでは、実況・予測ともに問題なさそうということで、いざ出発です!室堂ターミナルに掲示されている山岳情報 登山に最適な服装は? 早朝、気温は13℃ほどでしたが、山影で少し風があったことに加え、雪渓を歩いていることもあり、気温よりも肌寒く感ました。このため、レインウェアがとても重宝しました。 この時期、つい軽装で行きたくなりますが、天気や風などの状況によって体感温度は大きく変わるため、調整がきくベース・ミドル・アウターのレイヤリング(重ね着)が基本です。(Tシャツ1枚なんてもってのほか!)また、雨が予想されていなくても、雨や風を防いだり、防寒着の代わりにもなるレインウェアは上下必須です。 なお「tenki.jp 登山天気」アプリの「登山服装指数」では、気温をはじめとした天気や風などの要素を考慮した、服装に関するアドバイスをチェックすることができます。(※「登山服装指数」は、最も気温が下がる時間帯を基準にしています。)早朝、万年雪が形成する雪渓を歩く 絶景稜線コースで注意したいポイント 途中休憩を挟みつつ、登山開始から2時間ほどで雄山山頂(3003m)に到着しました。なんとこの山頂には、霊峰立山の「雄山神社」峰本社があり、7月から9月の間だけ開山され、多くの登拝者で賑わいます。こんな空の上に神社があるなんて、驚きですね。 私たちも登山の安全を願い、御祈祷を受けてきました。標高3003mの雄山山頂にある雄山神社の峰本社 そこから立山最高峰の大汝山(3015m)、富士ノ折立(2999m)、真砂岳(2861m)、別山(2874m)へと続く縦走路はほぼ稜線で、晴れて視界がよければ、写真のようなとても美しい景色を拝むことができます。終始絶景の中の登山で、まるで空を歩いているような気分になれますよ。 さて、この稜線上の道、この日はよく晴れて日差しが強かったため、実際の気温よりもかなり暑く感じました。一方で、風強い場合、状況は一変します。体感温度が一気に下がる上、稜線に出たとたん突風に襲われることもあります。このように、稜線は気温だけではなく、天気や風の影響を強く受けやすい場所でもあるため、注意が必要です。雄山山頂から室堂方面をのぞむ 登山中、雲行きが気になったら… 途中、下層に雲が増えてきました。晴予報ではありますが、少し心配になり、念のためチェックしてみることに。 そんなときは、「雨雲の動き」などの雨雲の観測・予測情報が便利です。また、山の上では雷も心配ですから、雷ナウキャストや発雷確率などの情報もチェックするとよいでしょう。 確認すると、現在・この先も周辺に雨雲はなく、どうやら雨を降らせる雲ではないようです。安心して、予定通り登山を続けることにしました。 このように、山の上では、常に雲や風の動きに注目し、天気の変化を見ながらの登山するように心がけましょう。スマートフォンで気象レーダによる雨雲のようすを確認中 こうして私たちは、事前・登山中に天気をチェックすることで、約7時間の道のりを無事に下山することができました。 最近は、山の上でも携帯電話やスマートフォンの電波が入る場所も増えてきました。山の天気は平地の天気よりも予測が難しく、それを知るための情報も複雑ですが。今回お伝えした情報を上手に活用しつつ、残りの夏山シーズンや、これから始まる紅葉シーズンの登山を楽しんでくださいね! ※スマートフォンや携帯電話を操作する際は、必ず安全な場所で立ち止まってご利用ください。上手に情報を活用しよう!
tenki.jp 2018/08/18 00:00
西原理恵子のダーリンも登場? しりあがり寿×西原理恵子 爆笑画力対決
西原理恵子のダーリンも登場? しりあがり寿×西原理恵子 爆笑画力対決
最初から最後まで、会場を含め大笑いの対決になった。左から、しりあがり寿さん、八巻和弘さん、西原理恵子さん(撮影/今村拓馬) 【写真2】うまくなった西原さん作の「じみへん」と「よつばと!」(撮影/今村拓馬) 【写真3】しりあがりさんの「じみへん」と「よつばと!」。八巻さんが「どっちかわからない」と評しただけはある?(撮影/今村拓馬) 【写真4】西原さん作「孤独のグルメ」。中井貴一っぽい?(撮影/今村拓馬) 【写真5】しりあがりさん作「孤独のグルメ」。会場から歓声が上がった。ちなみに、食べこぼしているのは塩辛だそうだ(撮影/今村拓馬) 【写真6】しりあがりさん作「手塚アトムと浦沢アトム」。だいたい合ってる?(撮影/今村拓馬) 【写真7】西原さん作「手塚アトムとPLUTOのノース2号」。会場の人たちも、笑いながらバシバシ写真撮影(撮影/今村拓馬) 【写真8】しりあがりさん作「ヒカルの碁」。学生服にしちゃったのが敗因?(撮影/今村拓馬) 【写真9】西原さん作「ヒカルの碁」。よーじやの人です(撮影/今村拓馬) 【写真10】西原さん作「OL進化論」。イラつくアマと書いてある(撮影/今村拓馬) 【写真11】しりあがりさん作「OL進化論」。机を定規で描いたが、線がはみ出ている……(撮影/今村拓馬) 【写真12】しりあがりさん作「ポーの一族」。今回は完璧?(撮影/今村拓馬) 【写真13】西原さん作「ポーの一族」。見開きの大作だ(撮影/今村拓馬) 【写真14】西原さん作「まんが道と手塚治虫先生」。手塚先生というよりも、左門豊作?(撮影/今村拓馬) 【写真15】前髪を描き足すと、テラさんに(撮影/今村拓馬) 【写真16】しりあがりさん作「まんが道と手塚治虫先生」。手にしているのはフランスパンではなく、ものさし(撮影/今村拓馬) 【写真17】西原さん作「ドラえもんとアンパンマンとピカチュウ」。やなせたかし先生のお墨付き?(撮影/今村拓馬) 【写真18】しりあがりさん作「ドラえもんとアンパンマン」。ドラえもんがアンパンマンを……(撮影/今村拓馬) 【写真19】西原さん作「ブラックジャック」高須ジャックに手術される西原ピノコ(撮影/今村拓馬) 【写真20】しりあがりさん作「ブラックジャック」。なんと、2色使い!(撮影/今村拓馬) 【写真21】(撮影/今村拓馬)  2016年5月29日に有楽町・朝日ホール行われた、第20回手塚治虫文化賞(朝日新聞社主催)記念イベントで、漫画家の西原理恵子さんとしりあがり寿さんによる10年後の因縁の対決「画力対決七番勝負 ふたりとも、10年経って絵は上手くなりましたか?」が行われた。実はまさに10年前、第10回手塚治虫文化賞贈呈式の記念イベントとして、「画力対決7番勝負」を行っていた2人。10年ぶりの対決では、画力もさることながら話術もさえ渡り、会場を大いに沸かせた。貴重な画力対決の様子を、ほぼ全文の形で紹介する。司会は小学館の編集者、八巻和弘さんだ。 *  *  * 八巻和弘(以下、八巻): 10年ぶりです。10年前にいらした方いらっしゃいますか? あ、いらっしゃいますね。すごい。あれ以来全然変わっていませんので。 西原理恵子(以下、西原):絵柄も全く向上してませんし。 しりあがり寿(以下、しりあがり):どっちかというと、下手になってるよね。老化してるから。 八巻:10年前にここで、まさにこの3人でやらせていただいて、僕と西原さんは商売人なので、それをそのまま「人生画力対決」というマンガの連載にしまして、単行本を8冊も出させてもらいました。おかげでマンガ連載がひとつ出来たので、大変ありがたかったです。この10年の間で、しりあがりさんはほとんどアーティスト状態で……。 しりあがり:いやいや、それは。それ、ほめてないよね? 八巻:ほめてますよ(笑)。今度、展覧会やるんですよね? 西原:なんか一個しかない椅子にうまく座ったよね、しりあがりさんは。 八巻:あと、しりあがりさんあれですよ、紫綬褒章。もらってますよね? しりあがり:一昨年ですかね。 八巻:勲章まで。 しりあがり:でもこんなちっちゃかったんですよ。うずらの卵みたいな(笑) 西原:でもなんでももらっとかないとね。はい。 ■まずは受賞作で本人確認? 八巻:それでは最初に、2人の受賞作を一回ここで書いてもらって。しりあがりさんは「弥次喜多 in DEEP」ですよね。 しりあがり:自分のマンガ描くの? 西原:もう覚えてないでしょ? しりあがり:まあ覚えてないよね。 八巻:じゃあ、ここ(プロジェクター上)で描いて下さい。生描きで。 西原:本人証明で偽物じゃないっていう。 しりあがり:なるほどね。 西原:手塚さんところのご長男じゃないってことを(会場爆笑) しりあがり:いやこれ、かえって俺怪しまれるんじゃない?(笑) 西原:本人覚えてません、弥次喜多なんて覚えてません!(笑) しりあがり:描きまーす(描く)。緊張して駄目だ……。 西原:これで数万円稼ぐんだから、一瞬で。ほんと楽な商売ですよ。 しりあがり:できました! やべー緊張した。 八巻:では続いて西原さん。西原さんは「毎日かあさん」ですね。朝日新聞の会場ですけど、毎日かあさん。 西原:ああ、かあさんで受賞したんですね、私。 八巻:あと「上京ものがたり」なんですけど、それは描きにくいでしょうから、こっちで。 西原:あんまり人のことはいえませんけどね。 八巻:でも西原さんは絵がうまくなりましたからね。 西原:うん、だいぶうまくなったよね(会場笑) 八巻:いや、笑うところじゃないですから、笑うところじゃ(笑) 西原:だいたいこんな感じ。 八巻:どうもありがとうございます(会場拍手)。(笑)すみません、本物か偽物かよくわかんなくなっちゃって(笑) 西原:偽物でも、大した違いはないですね。 ■第20回手塚治虫文化賞受賞作「よつばと!」と「じみへん」を描く 八巻: 10年前は初めての画力対決ということで、手塚治虫文化賞にちなんで手塚治虫作品限定でお題を出したんですけど、今回また同じ作品というのもあれなので、手塚治虫文化賞受賞作品の中から選んでもらおうと思ったのですが、ほとんど読んでないですよね? 西原:なんかさっき、大賞の人通って、「誰だ誰だ誰だ」って(笑) 八巻:それでですね、第20回(今回)のマンガ大賞2作品ありますよね、「よつばと!」と「鼻紙写楽」。でも、鼻紙の方は描けないですよね……一ノ関先生のは……。 西原:まあ、似ても似つかないよね。 八巻:「よつばと!」は描けますよね? 西原:憎たらしいね、あのマンガ売れてね。 八巻:じゃあ、「よつばと!」と、町田くんは描けないですよね?「町田くんの世界」。描けない? すみません、描けないものばかりで。じゃあ、「じみへん」は描けますよね? じゃあ、「じみへん」と「よつばと!」。ひとつそこで描いて下さい。 西原:和田ラヂヲさんとかぶるんですけど。 八巻:そうかもしれませんね(苦笑) しりあがり:あはははは。 八巻:何笑ってるんですか?(のぞきこむ)そう、それでいいんです、それでいいんです。これ、どっちがどっちですか?(会場爆笑) 西原:久しぶりに中崎さん見たら、もう高知の典型的な漁師のおっちゃんで。でもあの、ハローワークに登録したらぜいたくばっかり言って、仕事が一個もこないっていう(笑) 八巻:すごいなー。自ら連載をおやめになられて。 西原:ようは無職のおっちゃんなわけですよね。 しりあがり:(のぞきこんで)西原さんうまくなったね、本当に。もう30回くらいやってるんですよね? 八巻:画力対決? そうですね。いやもっとやったんじゃないですかね? (西原さんの作品をのぞきこんで)ほんとにすごい。どっちだかわかりますもんね、すぐに。 西原:うまくなってます。 八巻:うまくなってますね。 八巻:まずはうまくなった西原さんの絵です(※写真2参照)。うまいですよね? 会場:(拍手) 西原:レベルが低い! 落ちこぼれクラスと、進学校クラスって感じですね。 八巻:さて今度はしりあがりさんの、どちらかわかんないのはこちらですね(※写真3参照)。 会場:(爆笑) 八巻:まあ、あのね、両先生いらしてるんで。裏で怒ってるかもしれない。(裏に向かって)怒らないでくださいね~! しりあがり:まあ、だいたいこんな感じですよね。 八巻:だいたいこんな感じですかね。あ、写真撮って構いませんから。 西原:それをツイッターで流そうが、2ちゃんで悪口を書こうが、大丈夫です。(写真を撮っている観客を眺めながら)多分、家帰って冷静になって消すと思いますよ(会場笑) ■しりあがり寿さんの絵に会場から歓声が… 八巻:さて、次にいきましょうか。20回の賞で、落ちた人たちがいるんですけど、その人たちのなかから……これは絶対描けますよね、「孤独のグルメ」。 し:ん? 八巻:え? 孤独のグルメです、あの、あれ……。 西原:谷口ジロー! あの絵の下手な。地味な。 八巻:大きい声では……(苦笑) 西原:あの人と、大友克洋さんぐらい女性を描くのが下手な人はいない。すんげーブサイクな女が出てくるんですよ。あの、谷口さんのルーブル美術館の絵見ました? ヤクルトタフマンみたいな女神が出てくる。ドレスのドの字も描けねーでやんの。見てください、ひどいですから。さりとて、あんな特徴のない絵ってまねしづらいんですよね。 しりあがり:そうですよね。そう、特徴がないとね。 八巻:散々そこまでいじったんだから、描けますよね? 西原:うん、真面目なだけが取りえみたいな感じの。 八巻:今日のお客さんは真面目な気がする。笑い方が遠慮してますもん(苦笑) しりあがり:結局「孤独のグルメ」を描けばいいのね?(描き始める) 八巻:そうです、お願いします。 しりあがり:今度は上手に描けた。 八巻:ほんとっすか? (しりあがりさんの絵を見て)あ、ほんとだ~。(今度は西原さんの絵を見て)あ、西原さん、やっぱりうまくなりましたね。じゃあ、西原さんの方から行きましょう。こちらです(※写真4参照)。わかりますもんね? ちゃんと。なんか中井貴一っぽい感じも。 西原:そうそう、ちょっと困り顔の人が。 八巻:これが最近西原さんお気に入りの、りえくまちゃんですね。うまいですね。じゃあ、しりあがりさんの行きますね。しりあがりさん、今回はちゃんと知ってたみたいで(※写真5参照)。 会場:おおー! しりあがり:ほらー(笑) 八巻:なんかすごい、感嘆の声が(笑) しりあがり:なんかこれくらいで感心されるっていいなぁ。得だなぁ。 西原:やっぱり、落ちこぼれクラスの子がちゃんとできるようになるとね、褒められちゃってもう。 しりあがり:絵、がんばろうとか思うよね。 西原:ねぇ(笑) しりあがり:あ、落ちてんのは塩辛ね。(会場爆笑) ■波乱を呼ぶ「手塚アトム」と「浦沢アトム」 八巻:細かいですね。なるほど、なるほど。さて、次どうしましょうね。せっかく浦沢先生がいらしてたので、「PLUTO」を。手塚アトムと浦沢アトムを。 西原:いや、PLUTO自体忘れちゃったし。ミッキーマウスみたいな……あ、違う! しりあがり:あれ、手は取れなかったっけ? 西原:ミッキーマウスだ……。 しりあがり:……ミッキーマウスじゃないよ(笑) 西原:いや、ミッキーマウスを手塚先生が意識したんだって浦沢さんが言ってて、あ、ほんとだなって、あのイラつく富士額……。えっとねー、浦沢さんロボットが下手なんですよ。 八巻:(笑いながら両作品を見て)2人ともPLUTO読んでませんね? 絶対に読んでいない! 西原:いや、読んだけど忘れちゃった。 八巻:読んだけど忘れた? しりあがり:え、でも、だいたい想像つくよね? 八巻:だいたい想像つくよね?(笑) 西原:だから、なんかほら、浦沢さんのマンガってなんか忘れちゃうじゃん。華がなくて。 八巻:まあ、忘れちゃいますね。特にラストがどうだったとか……。 西原:ラストどうなったとか誰も覚えてない。 八巻:それは、そういうところがあるかもしれない。(舞台袖をうかがいながら)浦沢さんはもう帰られました? 会場:(爆笑) 八巻:ちょっと発言の強さを変えなきゃならないんで。一応小学館の社員なんで。一応。ではここで、先に正解を見てみましょうか。(プロジェクターに映し出される)浦沢さんのPLUTO。 西原:ああ、こんなんだったか。 八巻:さて、それを念頭に置きまして、しりあがりさんの両アトムさんですね(※写真6参照)。 会場:(笑) しりあがり:だいたい合ってる。 八巻:これなんか、マンガ家さん違いますよ。これ浦沢さんのせいじゃない。 しりあがり:あのアトムがちょっと年取ったら、髪形も変えて。 西原:これはなんか、ただの相撲取りかなんか……。 八巻:さて、西原さんのPLUTOは。これは、あ、あれですね、アレを描いたんですね(※写真7参照)。 西原:カニが出てくるじゃん、途中で、ジャキジャキジャキって。 八巻:メイドです、メイドの女の人ですね。いました、いました。あれ、いい話でしたね。 西原:浦沢さんがミッキーマウスだよって教えてくれたんで、よく考えたら耳、丸くしちゃったの間違いでしたね。とがらせなきゃいけないっすね。 ■衝撃的な「ヒカルの碁」誕生! 八巻:さてじゃあ次にいきましょうか。そうだな、一番苦手系の絵で、第9回の新生賞「ヒカルの碁」とか描けます? 一番はるか遠いところにいると思いますが。 西原:うーん。碁を描けばいいんでしょ。 八巻:碁を描けばいいってなんか違います。それは「3月のライオン」は将棋描けばいいってことですよね。根本的なことが違っているような……。 しりあがり:碁が光ってればいいんでしょ。 八巻:じゃあ、「ヒカルの碁」をぜひ。ものすごく絵のうまい人です。 西原:碁とか、かるたとか、なんか変なもんでみんな一山当てるよね。 会場:(笑) しりあがり:次は花札かなんかでね。 西原:なんかもう次から次へとよく持ってくるよね。発酵食品で当てたりとか、みんな。なんかいろいろだよね。 しりあがり:誰のことだよそれ(笑) 西原:ねえ、ヒカルの碁ってよーじやみたいな顔の人出てくるよね? 確か出たよね? 八巻:よーじや? 「ヒカルの碁」によーじや? 佐為のこと言ってるんですかね? しりあがり:もう諦めちゃったから。 八巻:諦めたって、顔が結構全然(笑)やる気がないでしょ? しりあがり:でも今回難しい。もうちょっと記憶のかけらでもあるといいんだけど。 八巻:いや、かけらは残ってます。読まれてるっていうのはわかります。 西原:こんなよーじやみたいなの。 八巻:ああ、やっぱりそれですか。佐為ですね。じゃあ、先に答えを(スクリーンに映し出される)。これですね、「ヒカルの碁」。 西原:ああ、そうそう、これこれ。 八巻:これのこと言ってるんですね。 しりあがり:ほぼ合ってたけどな。惜しかった 八巻:ほぼ合ってるしりあがりさんは、これですね(※写真8参照)。 西原:あ、合ってる合ってる! 八巻:合ってる合ってるって、会話がおかしいです(笑) しりあがり:学生服にしちゃったんだよね、間違って。 西原:いや、学生服に見えないから、生首がこうもげたみたいななんか……。 八巻:学生服ってこれですか? しりあがり:そうそう。 西原:いやそれは首がもげた。進撃の巨人に引っ張られたという。 しりあがり:残念だな、学生服じゃなかったな。 八巻:でも、読まれてるのはわかりますよね? で、西原さんのは……(※写真9参照)。 しりあがり・会場:ああー。 八巻:ダメです、感心しちゃ。感心されてる(笑) しりあがり:なんか今日、すごいレベル低くない? 八巻:気付きました? あの、おふたりとも美大なんですよ。ムサビとタマビです。 西原:そう、共にデザインです。 しりあがり:線引きさえあればもっと上手に描けんのになぁ。 八巻:線引きありますよ。線引き。(定規を持ってくる)ありますよ。線引きあります、はい。 西原:もー、次から上手に描くんですね。うそついたからもー。 しりあがり:(苦笑)とりあえず描いてみるか。 ■OL進化論 八巻:そうですね、次どうしようかな。もっとも意外なところで、秋月りすさんの「OL進化論」。 西原:ああ、あのイラつくマンガね。 八巻:あ、イラつきますか? 意外と、簡単そうで難しいんじゃないですか? 西原:古い女子大生のイラストみたいな絵なんだよね。私の絵と微妙に時代が近いんだけど、ちょっと古いんです私より。私が子供のころの女子大生が、ああいう絵を手紙の後ろに付けて出してた。そん時にイラッとして。その女子大生がソバージュとかしてて。 八巻:時代ですね。 西原:そう、時代です。時代です。 しりあがり:わかった。完全によみがえりました。秋月りすさん。 八巻:よみがえりました? じゃあ、ぜひ。定規使ってぜひ。 西原:あ、定規使ってる、定規使ってる。 しりあがり:あ、ホワイトがないとダメだやっぱ。 八巻:ほんとに必要ですか? あ、でもほんとに(定規)使ってるんですね。 しりあがり:OLといえば机だもんね。 八巻:ホワイトは……ないですね、ごめんなさい。 西原:なんか私が描くとサザエさんみたいになるな。でも、すごい平和でなんもない日常をずーっと描いてて、ああいうの偉いですよね。強姦(ごうかん)もないし。火事もないし。 八巻:それが連載を長く続ける秘訣(ひけつ)ですよ。 西原:そうだよね。 しりあがり:(一人で笑う)なんか、すごい新しい世界開いちゃったな。こりゃ違うと思うんだけど、どこが違うのかよくわかんないな(笑) 八巻:(のぞきこんで)それはあれですよ、つげ義春先生の絵です。どう見ても。 しりあがり:これある意味すごいな。 西原:あ、急に手が遅くなった。 八巻:定規の分だけ。 西原:こんだけ困ってんの初めて見た。 しりあがり:全然違う(苦笑)難しい。 八巻:まずこれが答えです。いやーほんとにステキに害がない線ですよね。なかなか描けないっすよこの線。 西原:あー、今見たら私の絵より新しいや。 八巻:でも連載長いですからね。じゃ、西原さんの(※写真10参照)。西原さんやっぱり絵、うまくなりましたね。この10年間で。 しりあがり:これは負けたかもしれない、俺。 八巻:でもこれだけ見て「OL進化論」とはわかんないですよね。しかもイラつくアマって書いてあるし(笑)。続いてこれがしりあがりさんのですよ(※写真11参照)。 会場:(爆笑) 八巻:あのー、定規はここ(机)に使いました。 しりあがり:そうか、本物は鼻がないんだね。鼻さえなきゃなあ。 八巻:ここ(机のはみ出た線)をホワイトで消したがってました。このはみ出たとこ。全然合ってないじゃないですかー。 西原:しかも茶箱じゃないですか。全然机じゃない。 八巻:あ、しりあがりさん、ホワイトが来ました! しりあがり:え? ホワイト? 余計なことしやがって。 西原:さあ、腕の見せどころかな。 ■世界一の引っ越し一家「ポーの一族」 八巻:そうですね、ホワイトもきたところで、「ポーの一族」にしましょうか? ちょうどね、復活したから。 西原:ああ、あの日本一の引っ越し一家。 八巻:いや、世界一の引っ越し一家です。 西原:世界一の引っ越し一家か。引っ越しが主な仕事ですね、あの人たち。 八巻:では、萩尾先生の「ポーの一族」を。 西原:(描きながら)収入はどうしてるんだと思う? 株とか持ってんのかな? 八巻:やっぱり、長生きしてますから年金が入るんじゃないですか。何百歳ですからね。 しりあがり:俺10年前に、ここの楽屋で萩尾先生に会ったんですよ。 八巻:浦沢さんと(手塚治虫文化賞10周年で)対談したんですよね。 しりあがり:すごい感激しちゃって。で、うちの子どもが「ポーの一族」のことを「ポーノー族」って読むんですよって言ったら、もうすごい何度も聞いているらしくて、ピクリともされなかった。いやーあの時は緊張した。 八巻:ポーノー族かわいい(笑) 西原:萩尾先生見ると、やっぱうれしいですね。 八巻:あ、はい。手を動かしましょう(笑) しりあがり:なんかジョジョみたいなポーズになっちゃった。 八巻:ジョジョ?! 西原:ある日リビングですごい叫び声がするので、なにかと思ったら、うちのお兄ちゃんが、妹が「11人いる!」を読んでるのに、11人目を最初のページで教えるっていう。 会場:(爆笑) 八巻:さいてー(笑) 西原:お兄ちゃんならではの嫌がらせをしていましたね。「これだよ」って(笑) 八巻:萩尾先生にも画力対決に来ていただいたんですけど、その時に、萩尾先生と、西原さん、テルマエ・ロマエのヤマザキマリさん、あと伊藤理佐先生と一緒にやったんですよ。3人とも「萩尾先生大ファンだから」って言うんですね。「なんでも描きます。大好きですから」って。「じゃあ『11人いる!』の11人描いて下さい」って言ったら、全然描けないんですよ(笑) 西原:まず、岩石がいるんですよ(笑)岩石と、オンタ(男)とメンタ(女)がおって、そっからわかんない(笑) 八巻:萩尾先生優しいから、最初にわかりづらい4人描いてくださって、あとわかりやすい人しか残ってないですけど全然出なかったですね。青いヌーっとしてる人とか。あと岩石と……岩石2回くらい描きましたもんね。 西原:うん、うろこの人もいたんじゃないかなーみたいな。 八巻:あとフロル描いてましたよね。 西原:うん、フロルと岩石と、あとハゲがいた。 八巻:ハゲ。あ、だからうろこじゃないですか? 西原:あ、うろこか。何でもいいや。私の画力対決なんでちょっと会場行ったらキャーッて言われるんですけど、もう萩尾先生のときは私が通ってもみんな素通りです(笑)。萩尾先生目当てに海外から来てる人とかいて。少女漫画家がありとあらゆるコネで入り込んでるし(笑)。「いいですか。これから萩尾先生来ますが、サインをもらってはいけません!」って、漫画家にお触れがでるの(笑) 八巻:ちなみに「11人いる!」の正解を出してもらえますか? 会場にいらっしゃる方はほとんどお読みになってると思うんですけど。意外と11人出ないでしょ? いま思い浮かべても。 会場:(赤ちゃんの泣き声) 八巻:ごめんね、いまアンパンマン描かせますから大丈夫です。出さなくて大丈夫です! いてください! 西原:大丈夫ですよ~。 八巻:この回は大丈夫です! もう遠慮なく遠慮なく! しりあがり:完璧です今回は。 八巻:あ、完璧! ほんとだ。え、どっちもうまいですねほんとに。 西原:萩尾望都の典型的な連載のオープニングの描き方を描いた。 八巻:じゃあこれ、しりあがり先生の(※写真12参照)。 西原:あ、キングポー。 しりあがり:上手だよね、なんかね。点描がちょっと大きかったけどね。 西原:いい感じに踊ってますね。 八巻:エドガーの髪形が全然違う気がする(笑)。キングポー、メリーベル、一応字体もこんな感じで(笑)。で、西原さんの方……西原さん似てるかも。これ見開きになってるんですけど(※写真13参照)。 しりあがり:あー。 八巻:確かに世界観は出てますね。 西原:萩尾望都は、髪の毛がよく空中に溶け出すんですよ。あの人ね、意外に色の使い方下手なんです。 八巻:色の使い方下手なんですか?(爆笑) 西原:あの時代絵の具が悪かったのかしんないけど、なんか緑とか赤とかの原色平気で混ぜちゃうんで、なんかねー透明感のない色の塗り方するんですねーあの人。 八巻:あ、これキャンディ・キャンディのつもりじゃないですか? 西原:違う違う、それユニコーン。 八巻:あ、だからこれ1本。 西原:角! 八巻:あ、角なんですねこれ(笑) しりあがり:はいはいはい(笑) 西原:よくユニコーン出て、その後ろによくカップルのオンタとメンタが子どもん時のやつとかがあって、そんで後ろに花があって「萩尾望都先生待望の大連載!」っていうのでドキドキしてたんですよ。引っ越し一家を見るのが大好き(笑) しりあがり:これ右だけにしとけばよかったね。 西原:いや必ずこういうシーンがあるんですよ。メリーベルもよく花の茂みから出てきたりするんですよ。 八巻:いやでもほんと上手ですね。見事です。 西原:うまくなったと思う。 八巻:10年間でうまくなってますね、2人。 しりあがり:西原さんやるなあ。 西原:そうでしょう。伊達に脱税してるわけじゃないですからね。この10年で脱税御殿がもう1軒増えましたから(笑) ■「まんが道」と手塚治虫先生 八巻:じゃあ、あれいきましょうか。歴代の受賞者でやはりこれは描いていただきたいなと思ったのが、藤子不二雄A先生の「まんが道」。 しりあがり:ん? 西原:藤子不二雄先生が帝銀事件のあったアパートでほら、なんかいろいろやった(笑) 八巻:満賀道雄さんと、才野茂さん。あと、「まんが道」に出てくる手塚先生の絵を描いてください。 しりあがり:あー。 八巻:「まんが道」の中に手塚先生出てきたじゃないですか。だって会いに行きますし、アシスタントしたりとか。 西原:うんうんうん。テラさん(寺田ヒロオ)も。 八巻:あ、テラさんも描いてください。 しりあがり:よこたとくおさんとか。 八巻:そこまではちょっと(笑)。そこまではいらないとおも……、あ、いらないって言ったらダメだな。あの、描いてもいいです(笑)。じゃあ「まんが道」をお願いします。 しりあがり:あ、なんか描けちゃうかもしれない俺。ほんとに。 八巻:(西原さんの絵を見て)これ誰ですか? 西原:え、手塚治虫。 八巻:やば、よかったー変なこと言わなくて(笑) 西原:こんなじゃない? 八巻:いやーあの、左門豊作かと思いました(笑) 西原:いや、眼鏡と鼻で。テラさんもまた変な顔した人でねー。 八巻:テラさん変な顔って(笑)。けっこう男前の感じじゃないですか。 西原:テラさん、最後頭おかしくなっちゃった人だよね。 八巻:(スクリーンに「まんが道」の絵が映しだされて)これが答えですね。 西原:あ、なんか構図もそっくりだ私。 八巻:懐かしいですね。で、西原さんはこんな感じで(※写真14参照)。なんか、巨人の星の左門豊作に似てません? 西原:あと2人とテラさんで、「まんが道」の連載1回目の構図が頭にこびりついてて、こういうことになってしまって。 八巻:テラさんって、ここにこんなふうに髪の毛ついてて。 西原:あ、三平師匠だったっけ? なんかやたら黒目がちな人だったと……。 八巻:描き足します? 西原:そうですね。 八巻:確かここにこんなんついてましたよ。それでテラさんですよ。 西原:こうするとぐっとテラさんテイストに(※写真15参照)。 八巻:そうそう、これがテラさんテイストですよ。 西原:なるほどなるほど。 八巻:さて、これが……(笑)、はい、こちらです(しりあがりさんの絵 ※写真16参照)。 会場:(笑) 八巻:まずあの、トキワ荘ビルじゃないんで(笑) しりあがり:ビルにしちゃった。 八巻:始めからビルだった(笑) 会場:あれフランスパンじゃない?(笑) 八巻:フランスパンじゃないと思いますよっ(笑) しりあがり:ものさし、ものさし。 八巻:これ(才野茂らしき人物が右手に持っているもの)ですよね。これフランスパンじゃないですよね?(笑) しりあがり:ものさしです。フランスパンで漫画描かないよね? 八巻:富山でフランスパン(笑) ■子どもが泣く? 衝撃の「ドラえもんとアンパンマン」 八巻:あ、そうださっきのチビちゃんまだいるかな? 何がいいんだろう。ドラえもんですか? アンパンマン? 西原:じゃあドラえもんとアンパンマンを両方描いてみる? 八巻:ドラえもん1回目にとってますもんね。第1回の大賞がドラえもんですよね。何かそのへんの子供向けのやつをごった煮で描いてもらえれば。それはピカチュウじゃないですよね? 西原:ピカチュウです。 八巻:ドラえもんとピカチュウ、うちのもうけがしらふたりを(笑) しりあがり:こんなでもいいかな? 八巻:これ……あはははは(笑) 西原:こんな。他になんかありましたっけ。 八巻:西原さんのこうです(※写真17参照)。 会場:(爆笑) 西原:いつもの。 八巻:ドラえもんと、ピカチュウと、アンパンマン(笑) 西原:これ、やなせ先生本人に見せたらうけてくれました。「ずっと描いてていいよー」って。「俺も売れないときはドラえもん描いてたからいいよー」って(笑) 八巻:アンパンって……会場の人はわかりますよね? きっと。 西原:今どきねー、アンパン吸ってる人なかなかいませんよね。 しりあがり:やばい(笑) 西原:まだね、新宿のバス通りのとこで売ってんだけどね。 八巻:気づきませんでした(笑) 西原:昭和40年代頃から値段が変わってなくて、物価の優等生って言われてんの(笑) しりあがり:タバコは高くなってんのにね、みんなアンパンに流れちゃうね(笑) 八巻:真面目なお客さんが絶対引いてると思うんですけど(笑)。さて、しりあがりさん。またちょっと、黒いんで(※写真18参照)。 会場:(爆笑) 八巻:あの、ドラえもんは一応うちが守るべきものなので、こんなことはしてないですから。困ってるじゃないですかアンパンマンも(笑) しりあがり:かわいく描けた。 西原:ね、かわいくかけたね。 八巻:しかもドラえもんも似てないですから! かけらも似てないです。西原さんの方がまだドラえもんに見えるのが不思議ですよね。 西原:わりとドラえもんですよね。 ■まさかのダーリン登場? 「ブラックジャック」を描く 八巻:最後は手塚先生の作品にしましょうか。 しりあがり:特徴がはっきりしてるのがいいなあ。 八巻:前回と比べて変わってないところを見るのもいいか。じゃあ「ブラックジャック」にしましょうか。 西原:前回はね、こんな2色(青と赤のペンを持って)使って描いて。 八巻:よく覚えてますね。 西原:もうばっちりですよ! ばっちりです。 しりあがり:俺ね、前回ピノコに力を入れすぎて失敗したのね。 西原:私はあれからねー手術に詳しくなったよ(笑)。オペ室とかしょっちゅう出入りしてる。 しりあがり:やばい(笑)。ブラックジャックかあー。よし。(描き始める)……なんかシャガールみたいだなあ。いろいろとうまくいかないな。 西原:今どきの手術着はねー緑とか赤があってねー足とかもせったでペタペタ走り回ってる先生が多くってねー。 八巻:あれ? 西原さんそれ高須医院長ちょっと入ってますよ。 西原:いや、あの高須ジャックを。 八巻:やっぱそうだったんだ(笑) 西原:私は一応ピノコで。えーちなみに高須ジャックは手塚先生を憎んでいます。同じ医者で漫画家になりそこねた高須先生は、ブラックジャックの手術の手順を「闇医者ってどうゆうこと? 消毒もしてないメスをこんな懐から出してそれで手術が成功すると思ってるわけ!?」とか「手順なんか全部逆なのよ!」とか「闇医者ってのに手術をさせることがどんな恐ろしいことか!」ってずっと怒ってる(笑) 八巻:あはは。西原さんそれでいいですか、大丈夫ですか? 西原:はい。 しりあがり:これは絶対、これはいいぞお。 西原:あ、赤くなってる。 しりあがり:んふふ、2色! 西原:すごいすごい、かっこいい。 八巻:ちなみに、これがブラックジャック(正解がスクリーンに映し出される)。 西原:あ、傷逆だ。 八巻:よく気づきましたね。西原さんの傷が逆なんです(※写真19参照)。 西原:西原ピノコと高須ジャックを描かせていただきました。ラブラブなもんですみません(笑) 八巻:(手術が)下手そうですね~下手そう(笑)。さて、よろしいでしょうか、次、こちらしりあがりさん(※写真20参照)。 会場:(爆笑) しりあがり:いやあー、ね(笑) 八巻:傷2箇所あります! しりあがり:なんかほうれい線と間違えちゃった。 西原:あーほうれい線とね。これおなかの中のどこ?(笑) 八巻:しかも、しりあがりさんすごいんですけどね、10年前と変わらないんですよ。これ10年前のしりあがりさんが描いたブラックジャックなんですけど(※写真21参照)。 しりあがり:あ、ほんとだー。やばい。 西原:しかも手突っ込んでますね、臓器にね。 八巻:変わってないですねーほんとに。 西原:私の絵も変わってないなー。 しりあがり:すごいなあ。ピノコが上手になっちゃったね。 八巻:なんかもう両手の感じとか全く同じですもんね。すごいなあ。 西原:2人とも傷の向きも間違えてるし、髪の毛のダラーも間違えてますね。 八巻:何もかも間違えてますね(笑) 西原:人間はやっぱり努力してもダメな生き物っているんですね。うん、精進してもダメですね。一生変わらないな(笑) ■合同色紙 八巻:じゃあ最後にせっかくですから、2人の合同色紙を作ってもらって、1名の方にプレゼントして終わろうかと思いますんで。しりあがりさんこちらに。 西原:はい。真ん中にでっかく描いてください。遠慮なしに。 しりあがり:これは自分のを描くんでしたっけ? 八巻:はい、何でもいいです。 しりあがり:えーやっぱ朝日さんだからなあ。 西原:みなさんあんまりいらないとは思いますけど。近所の肉屋とかにあげといてもいいので。蛾次郎さんのサインの横とかに。 八巻:朝日で連載してるあれですね。 しりあがり:そうですね。お世話になってまーす。 西原:朝日はいつまで続けるんでしょうね、それ。 八巻:あはは。毎日もいつまで続くんですか? 西原:毎日新聞が先に終わるから大丈夫。 八巻:あははは。 西原:私よりあの人たちの方が寿命が短い。 八巻:10年前に読売新聞さんお待ちしてますって言ったけど全然来ませんでしたね。 西原:うん、来なかったねえ。 八巻:あ、朝日新聞連載(しりあがりさん)、毎日新聞連載(西原さん)なので今。 西原:こーんな格差が。おいしい席とられたし(笑)。何で新聞社はちゃんとした正規の漫画家に漫画を頼まないんでしょうね? 会場:(笑) 八巻:んーやっぱり原稿料とか折り合わないんじゃないですか(笑) 西原:あーそっか。普通のちゃんとした漫画家だと折り合わないんだ。 八巻:きっと。 西原:なんか、ちょっと違うところの漫画家連れてきますよね。どこも。 八巻:読売もけらえいこさんでしたもんね。 西原:「毎日かあさん」を描いてもう十何年ですかね、毎日新聞で。あのかわいい娘が、先日2度目の朝帰りを……。 しりあがり、八巻:あっはっはっは。 西原:「あんたどーゆーつもりなのよ」って言ったらさ、「なんでぇ? 行って帰ってきただけでしょお」とか言って。「どーしてお前は誰々ちゃんち泊まりに行くってうそつかないわけぇ」って話なわけよ(笑)。私だったらちゃんとうそついて外泊するのにさあ。演劇観に行って、深夜バスで帰ってきたんですよ。どうしても舞台が観たくなって。そういうサブカル系にはまってるみたいなんですけどね。「てめえのケツも拭けねえバカガキが何そんなことこいてんだよ」って私が怒ったら、後ろから息子が来て「お母さん、下品だよ」って。「落ち着いて」って言われて(笑) 会場:(笑) 西原:なんかいま一番息子が大人になってる。でも息子が「俺だってまだ朝帰りしたことないのに、くやしぃー」って言って。あ、なんか手が短くなってる。 八巻:いいです、いいです。おかしいけど。 西原:最近娘がこんなわわいくない始祖鳥みたいになっちゃって。 八巻:始祖鳥(笑) 西原:「お母さんのことは好きだけど、漫画家の西原理恵子はきらーい」とか、「てんめえ言いやがったなこのクソガキが」って(笑)、そのたびに息子が「お母さん、お母さん、ここはね」とか言って(笑) 八巻:さて、じゃあどうしようかな。今日誕生日の方います? 自分の誕生日を証明できるなんか免許証とか持ってて。います? えっと、昨日とか、います? 昨日の人いません? 西原:ほしくないんですね、みんな。 会場:(爆笑) 八巻:あはは、言わないって。えっと笑ってる場合じゃない、時間がないんですよね。 会場:5日後! 八巻:5日後でいいですか? 西原:はい、全然構いません 八巻:5日後より近い方います? 西原:いやみんな本当ほしくないんだな(笑) しりあがり:(笑) 八巻:じゃあどうぞ、上がってきてください。どちらから受け取りたいですか。あ、じゃあ西原さん。 西原:すいませんねえ、こんないらないものをねえ。引っ越しのときに捨ててくださって結構ですので(笑)。どうもありがとうございました。 八巻:今晩ヤクオフに出てたらあなたですからね! しりあがり:んふふ(笑) 西原:ヤフオクに出てて、1000円くらいで売れてたら、花嫁のブーケトスを誰にも受け取ってもらえなかったみたいな、そういう悲しさがありますね(笑) 八巻:じゃあ、お笑いの部はここまでってことで、一言ずつお願いします。 しりあがり:はい。あのー楽しかったです。ありがとうございました。なんか、10年ぶりにまたできたって、いいことですね。本当にね。 西原:こうなったらまた10年後……いや、5年後にもういっぺん。 しりあがり:それは10年生きてないとってことだね(笑) 西原:そうですね。小刻みにしておかないと危ないですね。成人病とかきますから。出版不況の中ね、あと新聞もね、どんなになってるかわかりませんから。引退する引退すると言いながら、次は5年後ぐらいにやりたいと思います。みなさまも成人病にはお気をつけて、また来ていただければと思います(笑) しりあがり・西原・八巻:どうもありがとうございました! ■7月開催の、しりあがり寿さんの個展「回・転・展」特設サイトはこちら http://www.saruhage.com/kaiten/
dot. 2016/06/18 16:00
[連載]アサヒカメラの90年 第4回
[連載]アサヒカメラの90年 第4回
1936年12月号表紙。画家・藤田嗣治が登場。モノクロ写真に色彩を施したモダンな洒落っ気が目を引く。「アサヒカメラ」のロゴは上部が大胆にカットされている 「最新型ライカD型」を宣伝する、東京・銀座の特約販売店の広告 35ミリレンジファインダーの試作機「カンノン カメラ」の広告。潜水艦、飛行機とともに「世界一」を謳っている 1935年10月号 DR・PAUL WOLFFの作品を傾向別に多数掲載 1936年7月号 野島康三による優雅で美しいハワイ旅行 1934年1月号 木村伊兵衛が撮影した文芸家たちの肖像。山田耕筰(左端)、林芙美子の顔も 1937年10月号 特集「戦争」から。戦線で活躍するニュース・カメラマンを紹介している 1937年10月号 戦意高揚が強調されたコラージュ。前線の兵士 1937年10月号 戦意高揚が強調されたコラージュ。銃後の女性たちの姿 「アサヒカメラ時代」来る! 『朝日新聞出版局史』によると、創刊時が7千部台だった「アサヒカメラ」の発行部数は、10周年を越えた1937(昭和12)、38年ごろ9万部台に達したとある。  じっさい37年1月号「昭和十二年を迎へて 本誌発行部数の驚異的飛躍」には、33年以降、毎年50~60%の伸び率を記録していること、掲載広告も記録的に増加したことが報じられている。この実績を背景に筆者は、「今や全く『アサヒカメラ時代来る』の観を呈するに至ったのであります」と得意げだ。確かに、部数と内容とも、この時点がひとつの絶頂だった。  この成功に導いたのは、3代目編集長の松野志気雄である。松野は25(大正14)年、早稲田大学在学中に東京朝日新聞社に入社。成沢玲川のもとで「独逸国際移動写真展」などに携わった後、33年7月号から編集を任されると、より娯楽性に富んだ大衆路線を推し進めた。誌面に漫画や小説的なグラフ構成を取り入れるほか、先端の芸術論だけでなく、体験談や座談会など写真家の生の声を積極的に紹介した。さらに別冊付録や、安価な増刊号(季刊)の発行など新企画を打ち出している。  もっとも本誌だけが順調だったわけではない。すでに大小合わせて20以上の写真雑誌が発行されていて、その多くが初心者を対象に成果を上げていた。つまり写真趣味のすそ野自体が急速に拡大していたのだ。  背景には昭和恐慌からの経済回復があった。高橋是清蔵相の主導する為替切り下げによる輸出増、低金利と財政出動による景気刺激策が奏功したのだった。重工業に大きな発展がみられ、自動車会社など新しい産業も誕生した。写真関係では、34年に富士写真フイルム(現・富士フイルム)が設立されている。  なにより写真趣味に決定的な影響を与えたのは、カメラの小型化と感光材料の進化だった。小型カメラは、すでにヴェスト判の各種カメラに一定の人気があったが、フィルムの感光・感色性能やレンズの描写力も貧弱で、新興写真ブーム以降の精密な描写を求める声に応えられない。そこで注目されたのが、ドイツのライツ社製のライカだった。  最初のライカA型が発売されたのは25年で、本誌ではすでに創刊年から広告が掲載されている。だが固定レンズであることや、映画用の35ミリフィルムという原板の小ささからアマチュア写真家は好まず、記事でもあまり取り上げられていない。  だが30年のC型からレンズ交換式となり、2年後のD型でレンジファインダーが採用されたことで活用範囲が広がった。さらに、このころ映画用フィルムが改良されてパンクロマチック(全色感光)になり、トーキー化にともない微粒子現像の技術が発達したことで高画質な印画が得られるようになり、一気に人気を得た。  さらにライカの後を追うように35ミリのコンタックスI型(32年)などの高性能機種が登場したことで、小型カメラブームが訪れた。そんな折、佐和九郎らが35年8月号に執筆した「『ライカ』と『コンタックス』とどちらがよいか?」はさらに人気を煽って、長きにわたるライカ・コンタックス論争の突端となった。  同時に日本でも小型カメラの可能性が模索され始めた。たとえば精機光学研究所(現・キヤノン)による35ミリレンジファインダーの試作機「KWANON」の広告が掲載されたのは、34年6月号のことである。  本誌でライカが特集されたのはその前年、33年10月号の「特集小型カメラ写真術」が嚆矢である。そのうち「ライカ写真術」の項を執筆したのが30年にA型を購入して以来、そのメカニズムを研究し尽くしていた木村伊兵衛だった。彼はまず自信に満ちて「ここ数年間はライカカメラを凌駕する程の、精巧にして堅牢、又多面的なカメラは現れないでせう」と前置きしてから、2号にわたり扱い方を解説した。  ちなみにこの時点でのライカの値段はC型がおよそ300円、D型で420円と極めて高額。その値段にふさわしいことも、木村が実作によって立証したのである。 報道とスナップ  木村がライカ使いとして手腕を発揮し始めるのは、32年創刊の同人誌「光画」からと見てよい。同誌は木村のほか野島康三、中山岩太という個性的な実作者と、2号から参加した先鋭的な評論家の伊奈信男という同人に加え、多彩な実作者や理論家が寄稿したこともあって写真界の耳目を集めた。  木村は同誌で、近代化されてゆく東京の、庶民の日常的な暮らしをスナップした作品を相次いで発表した。そこにはモダンデザイン的な感覚で都市空間を切り取った新興写真とも違う、リアリティーの追求があった。木村の志向は、創刊号に掲載した「工場地帯」を指して野島に放ったという次の言葉からもうかがえる。 「ここに人間が住み、ここには人間の赤裸々な生活がある。これが本当の写真だ」(『フォトアート 臨時増刊 木村伊兵衛読本』研光社 56年)  木村の実作を、理論面で補完したのは伊奈である。創刊号に掲載された論文「写真に帰れ」で、彼は機械の目を通して生まれる新しい写真芸術は「その人間の属する社会世界の断面であり、自然世界の一般事象以外にはあり得ない」とし、そうした写真を「現実写真(レアール・フォト)」として位置づけている。  33年のヒトラー政権の誕生で、ドイツでルポルタージュ・フォトの仕事ができなくなり帰国していた名取洋之助もまた、木村や伊奈の活動に注目していた。彼には、ある構想があった。海外に向けて日本を紹介する写真の配信などの版権業務と、写真を使った印刷物の制作のための組織を立ち上げることで、そのために必要な人材だと考えたのである。  そこで2人に加えて図案家の原弘など「光画」に集った人々を誘い、名取は同年8月に日本工房を立ち上げた。そのさい伊奈が、日本にはなじみの薄い組み写真をもとにしたルポルタージュ・フォトを「報道写真」という言葉に置き換えている。  日本工房は、彼らの掲げる報道写真を実例で示すため、12月に銀座で木村の「ライカによる文芸家肖像写真展」を開催した。展示された二十数名の作家や評論家らの肖像写真は、顔に強く照明を当て一瞬のナチュラルな表情を切り取ったもので、ローキーに仕上げられていた。それは写真館で撮られるのとはまるで異質な表現であった。木村自身「この文芸家の肖像写真は、従来の肖像写真への対決」(『木村伊兵衛読本』)と位置づけ、被写体の性格描写に取り組んでいた。本誌34年1月号にも掲載され、木村の技量とライカの性能が全国の読者に広く知られた。  このように、活用範囲の広いライカをじっさい実用に使ったのは木村や名取をはじめ、渡辺義雄、堀野正雄、濱谷浩といった新しい報道写真の担い手たちだった。それに対して、新聞社や通信社など、既存の報道機関で採用されるのは遅く、その契機は36年の「2・26事件」だったといわれている。ただそれでも長く手札判以上のパルモスなどが主流だった。  その理由については、32年7月号「新聞写真 未発表の撮影戦」座談会がヒントを与えてくれる。原板の小ささに不安があり、撮影枚数も多すぎて持て余すという発言があるのだ。これは起こった事実を一枚で的確に表す新聞写真と、複数枚による組み写真によって事実の経緯を多面的に物語るルポルタージュ・フォトが、報道という同じ分野にあっても違った思想に基づくことを示している。 あこがれのハワイ航路  当時、ライカ作家として読者から最も人気があったのはパウル・ヴォルフ。躍動感をともなった明朗なカメラワークと、35ミリの原板から全紙への大伸ばしに最適な現像法を発見したことで知られるドイツの写真家である。35年に東京で「パウル・ウオルフ写真展」(東京朝日新聞社主催・日本工房提供)と「パウル・ヴォルフ・ライカ作品展」(ライツ社主催)を開催して大きな成功を収めた。本誌でも展覧会に合わせ10月号で「DR・PAUL WOLFF傑作写真集」が特集された。その解説に成沢玲川は、ヴォルフの作品は芸術的であり実用的、また作風の中庸さゆえに「永遠性」があるとし、「古い『芸術写真』も新しい『新興写真』もその使命を終えた」と宣告している。  この時期の誌面は小型カメラブームによって、活動的なスナップ写真で彩られている。それを通して見えてくるのは、当時の都市文化やレジャーブームに、写真が強く密接に結びついていることだ。  前者は木村が審査に当たった「都市美・都市醜の写真懸賞募集」(36年8月号)のほか、矢野修二の「冬の都会に取材を探る」(37年12月号)といった記事に表れている。また脚本家北村小松が原作を、金丸重嶺が写真を担当した、ミステリー仕立てのグラフ構成「連載小説 骰子」(36年1~3月号)なども都市の暗黒的な魅力をよく描いた。  後者についても、実践的な撮影ノウハウや作例が繰り返し掲載されている。それは郊外へのピクニックから始まり、山野での野鳥の生態観察、登山、航空写真、各種スポーツなどと多彩である。具体的な撮影地ガイドが本誌に掲載され始めたのもこの時期からで、鉄道のほか普及し始めたばかりの自動車からの撮影術を教示しているのも興味深い。  一般の読者にとって、夢のような特集も登場した。36年7月号の野島康三による「ワイキキの唄 布哇カメラ行脚」だ。野島夫妻が福原信三夫妻とともに訪れたハワイ旅行の記録を、16ページにわたって構成した、いわば観光ルポである。重厚な作風で知られた野島が伸びやかなスナップ写真を披露したことも、新鮮な印象を与えた。  この30年代における観光ブームは、外国人観光客の誘致を目的とした国策から生まれている。鉄道省に国際観光局が設けられたり国立公園法が制定されたりするなど、観光インフラが整備されて、日本人の国内旅行も活性化した。  誕生したばかりの報道写真の揺籃も、この観光政策だった。外務省系の国際文化振興会の協力によって、34年に日本工房から創刊された対外宣伝誌「NIPPON」には日本の文化的魅力をアピールする目的があった。その日本工房から早々に分かれた木村伊兵衛らが参加した国際報道写真協会は、国際観光局発行の観光用グラフ誌「TRAVEL IN JAPAN」の編集に携わり、37年のパリ万博では巨大な「日本観光写真壁画」の制作を担当した。さらに同年11月の木村による「日本を知らせる写真展」と、翌年それをまとめた英文写真集『JAPAN THROUGH A LEICA』(三省堂)も同様の目的をもっていた。 暗転  さらにこの時期の誌面の特徴として挙げたいのは、学生写真家の登場回数の増加だ。このころ多くの私学や帝国大学に写真部が次々と誕生し、横断的な組織である全日本学生写真連盟も結成され、その盛り上がりは、中年層が主流だったアマチュア写真界に爽やかさを与えた。  大学写真部のなかで有力だったのは慶應のカメラクラブ(KCC)と早稲田の早稲田写真会で、それぞれに百数十人の部員が所属し、両校の対抗写真展も行われた。ことに慶應にはライカやコンタックスを使うものも多く、野島康三や佐和九郎らを顧問に迎えて写真の質を高めていた。そこから在学中に写真工房を開き、指南書さえ執筆した原正次のような才能も育った。  ともあれ絶頂期の本誌は若々しく華やいでいて、写真界の将来性も予感させる。その気分をより端的に知ってもらうには、37年3月に本誌提供で発表された流行歌、サトウハチロー作詞による「恋のプロフィル」の歌詞に触れるのが早道かもしれない。 「むねのレンズに いつよりか あの面影が やきついて いくらふいても 消えませぬ いっそシャッターを きりましょか」  この甘く切ない曲が、どれほどヒットしたかは定かではない。結果を知る前に、この絶頂期は突如として終わりを告げたからだ。  37年7月の盧溝橋事件と翌月の第2次上海事変から始まる日中戦争が、本誌の誌面を一気に変えた。事変以降の特集をみると、10月号「戦争」、11月号「決死従軍写真班 北支・上海を語る」、12月号「戦争写真物語」と並ぶ。戦場写真のグラフ・モンタージュや写真記者の体験談が大きく扱われ、無論、銃後のアマチュア写真家への指導的提言も掲載されはじめた。  一方、多くの読者の気持ちは、39年版の『日本写真年鑑』(朝日新聞社)に唐澤純正が寄せた「アマチュア写真界の足跡」の冒頭に書かれているようなものであったろう。 「いい気になってカメラ片手に浮かれていると、いきなり後ろから、それこそ予期しなかった強力な手で、いやと云ふ程どやされた。それも一度ならず、二度三度と続け様に殴られた。そして当然、意識朦朧として茫然自失してしまった」  以降、戦争が長期化するにつれ本誌の編集方針はより委縮し、積極的に国策に沿うようになるのである。
アサヒカメラの90年
dot. 2016/04/19 11:00
広瀬隆「再稼働を阻止するために」
広瀬隆「再稼働を阻止するために」
 1月6日に細野豪志原発大臣が、原発の運転期間を原則40年にする方針を発表して、これで原発廃絶に向かうかのような論調がマスコミに流布しているが、トンデモナイ解説だ。これは原発の全基"即時"廃止論が高まったために、原発を40年も運転してもよいという延命を目論む謀略なのだよ。現在電力会社と官僚は、ヨーロッパ式のストレステストなるものをすべての原発に適用して、机上の計算で、「運転しても安全である」という結論を出し、原子炉を再稼働するべく着々とそのデタラメ審査を進めている。ストレステストとは、そも一体何であるのか。  昨年10~12月末に安全評価の1次評価(ストレステスト)を原子力安全・保安院に提出した原子炉11基は、報告順に次の通りで、そこに秘密が隠されている。  大飯3号機(福井県)・伊方3号機(愛媛県)・大飯4号機(福井県)・泊1号機(北海道)・玄海2号機(佐賀県)・川内1・2号機(鹿児島県)・美浜3号機(福井県)・敦賀2号機(福井県)・泊2号機(北海道)・東通1号機(青森県)  保安院の審査には数ヶ月かかる見通しで、そのあと原子力安全委員会があらためて審査し、さらに地元住民の同意が不可欠だというので、そうやすやすと再稼働はできまいと国民がタカをくくっていると、トンデモナイことになる。これを食い止めるには、国民が圧倒的な反対の声をあげることが必要になる。  このストレステストを実施する保安院が、悪の巣窟(そうくつ)で、精神が悪いだけではなく、原子力発電所のメカニズムについてまったく無知な集団である。だからこそ、福島原発事故を起こしてしまったのである。さらにこれをダブルチェックする安全委員会とくれば、フクシマ事故前には、「すべての危険性を考えていたら原発なんか運転できない」とまで暴言していた班目(まだらめ)春樹委員長を筆頭に、何も事故解析ができない集団なのだ。加えて委員たちは、原子力業界から多額の寄付を受けていたことが、今年の年頭から各紙で報道された腐敗集団である。班目春樹が、フクシマ事故のあともなぜ平然と委員長をつとめているのか、こんな馬鹿げた原発の管理体制を理解できる日本人は一人もいるまい。  それは、現在の野田クズ内閣が、そのように仕組んでいるからである。つまり日本の悪事のすべては、人事によって、勝手に都合よくレールを敷くことが可能なのである。  ストレステストを終えた原子炉のリストは、見た通り福井県を除くと、予想された通り、日本列島南北の両端に集中している。予想されたというのは、いずれも原発の危険性について子供でも分ることについて、判断する能力のない腐敗した知事や首長のいる地方だからである。北海道の高橋はるみ知事、青森県の三村申吾知事、佐賀県の古川康知事、鹿児島県の伊藤祐一郎知事、この4人が、経済産業省の原発官僚の言いなりになる飼い犬の代表者であることは有名である。政界と官僚によって切り崩されるこれらの道と県が危ないのである。また愛媛県の中村時広知事は、表向きは「伊方原発の再稼働は白紙」と言いながら、最終的に国がお墨付きを与えればそれでゴーサインに踏み切る、という危険な態度だと、県民から批判を浴びている。  これらに対して、そのほかの原発立地県では、新潟県の泉田裕彦知事と静岡県の川勝平太知事が、再稼働に強く反対して、住民の生命と財産を守ろうとしている。茨城県の橋本昌知事はまったくあてにならないが、東海第二原発をかかえる東海村の村上達也村長が廃炉を請願したので、周辺の自治体も次々に呼応して、強力な廃炉包囲網を形成しつつある。さらに福島県の佐藤雄平知事までもが、福島県内の原発の全基廃炉を明言するところまできた。したがって日本の中心部の原発銀座では、圧倒的に廃炉への動きが明確になってきた。これらの県では、ストレステストの評価報告書が出されていない。  残る島根県と石川県と宮城県は、首長の態度が曖昧なままはっきりしないが、宮城県の村井嘉浩(よしひろ)知事は、フクシマ事故による県内の放射線測定をやめさせ、住民の大量被曝と、食品の高濃度放射能汚染を隠し続けている人物なので、まったく信用できないが、女川原発は東日本大震災で致命的なダメージを受けたので、運転再開は不可能であろう。 ◆「正しい知識」が状況変える力◆  例外的にストレステストが進んでいる福井県の場合は、西川一誠知事とそのブレーンが新たな安全基準がない段階での運転再開を認めていないにもかかわらず、敦賀市の河瀬一治市長が、玄海町長と並ぶ金権亡者として悪名高い。そして西川知事に対しても、関西電力と、敦賀原発を操業する日本原子力発電が「再稼働を求めて」、年明けから猛烈な働きかけを強めてきた。こうして見ると、そもそも、ストレステストをすれば原発の安全性が保証されるかどうか以前の問題として、官僚と電力会社は、動かしやすい地元の首長を選んだ上で、順次このような安全評価をスタートした感触が強い。つまり経産省が高橋はるみ知事を抱き込んで、昨年8月17日に、北海道泊原発が狂気の営業運転に入ったパターンの再現を狙っているのである。  昨年末に畑村洋太郎率いる政府の事故調査・検証委員会が出した「福島原発事故に関する中間報告」は、まったく地震の揺れの問題にふれず、事故原因はすべて津波によるものとしてしまい、どうしようもない無内容の報告だ。それは、この委員会の人選もまた、官僚差配の人事によって決められてきたからである。さらにその無能委員たちを取り巻く顧問役が、関村直人をはじめ、みなフクシマ事故後にテレビでデタラメ解説をし続けた原子力工学の専門家と称する集団で、彼らもまた、原子力産業からの寄付金にたかってきた。  危険性をマスコミが報道しなくなったために、国民が事故の恐怖を忘れつつあるが、こうした絶望的な状況を変える唯一の力は、われわれ国民が「正しい知識」を持って、強烈な再稼働反対の声をあげることにある。そもそも昨年まで稼働中とされた54基のうち、太平洋岸にあった東通原発、女川原発、福島第一・第二原発、東海第二原発の15基が東日本大震災で一挙に全滅し、その前に新潟県の柏崎刈羽原発の3基が2007年の中越沖地震で運転不能になっていた。ちょうど3分の1の18基が、地震の直撃で運転不能になったのである。要するに原発は、強い地震の直撃を受ければすべてだめになることが実証されたのだ。そうした原発のトテツモナイ危険性を、再稼働を迫られている地域から順に、次号からくわしく解説しよう。  (構成 堀井正明)    * ひろせ・たかし 1943年生まれ。早大理工学部応用化学科卒。『原子炉時限爆弾――大地震におびえる日本列島』(ダイヤモンド社)、『二酸化炭素温暖化説の崩壊』(集英社新書)、『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』(朝日新書)、本連載をまとめた『原発破局を阻止せよ!』(朝日新聞出版)など著書多数 週刊朝日
原発
週刊朝日 2012/09/26 00:00
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どんな人にも「忘れられない1日」がある。それはどんな著名な芸能人でも変わらない。人との出会い、別れ、挫折、後悔、歓喜…AERA dot.だけに語ってくれた珠玉のエピソード。

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教育
「正しくない自分がどうあるか考えるのも文学」小説家・麻布競馬場さん 新刊の原点となるような3冊
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読書
AERA 1時間前
エンタメ
〈先週に読まれた記事ピックアップ〉磯山さやか「結婚したらグラビア卒業」に落胆の声続々 40歳になってもファンが減らない理由
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磯山さやか
dot. 1時間前
スポーツ
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プロ野球
dot. 15時間前
ヘルス
「寝ても疲れが取れない」女医が陥った紫外線疲労 GWの外出に気をつけたいことは? 山本佳奈医師
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山本佳奈
dot. 1時間前
ビジネス
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転職
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