「真夏の果実」や「希望の轍」のようなお家芸パターンの曲のほか、当時流行していたジプシー・キングスの影響が見られる曲や、ビーチボーイズ風の曲、ハワイアン風の曲、スペイン語詞の曲があったり。そんなごちゃまぜ感の最後を締めくくるのが「愛して愛して愛しちゃったのよ」だったりする。

 これは1965年に和田弘とマヒナスターズ(と田代美代子)がヒットさせた曲のカバー。作詞作曲はハマクラこと浜口庫之助だ。桑田が敬愛するソングライターのひとりで、その役をテレビで演じたこともある。4年前の「NHK紅白歌合戦」で行われた「ひよっこ 紅白特別編」でのこと。彼は有村架純ら、この朝ドラのメインキャストとともに、ハマクラの代表作のひとつ「涙くんさよなら」を歌った。

 このアルバムの最後に「愛して愛して愛しちゃったのよ」を持ってきた意図は不明だが「アルバムの最後の曲で次の予告をする」と言ったのはさだまさしだ。桑田がその後、日本人の感性にいっそう寄り添うような方向性に転じていくことを思うと、この選曲と配置は暗示的でもあった。

 それから10年後「TSUNAMI」が大ヒット。日本レコード大賞を受賞する。その際、彼は「ひばりさんの背中が見えてきました」と語ったという。たしかに、美空ひばりが「歌謡界の女王」なら「Jポップのカリスマ」は桑田だと感じる人は多いはずだ。また、世代交代の話でいえば、もうひとつ興味深い事実がある。

 サザンのデビューは78年6月。その翌月に、ひばりの「柔」や「悲しい酒」で知られる作曲家・古賀政男が世を去った。古賀メロディーから桑田サウンドへという日本人の感性に寄り添う音楽の入れ替わりも、どこか運命的だったのだ。

 桑田がもし、90年代以降も海外進出を目指し、本物の洋楽に近づこうとしていたら、今の姿はないだろう。そこで日本人の感性に寄り添う方向を選べたことが、Jポップのカリスマになれた最大の決め手である。これからも多くの人が年末には彼の歌を聴きたくなる、そんな時代が続くのではないか。

宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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