80年には5カ月連続でシングルを出すと宣言。原田のトリプルデビューに倣ったものかもしれないが、結果的に半年で5作というかたちとなり、セールス的にも成功しなかった。このうち「恋するマンスリー・デイ」は女性の生理をレゲエに乗せて描いた実験的試み。これも全面的に受け入れられたとはいいがたい。

 ただ、桑田の強みは根っこに歌謡曲があることだった。アルバム曲の「私はピアノ」が高田みづえにカバーされてヒットしたり、グループサウンズなどの懐メロ要素を盛り込んだ「チャコの海岸物語」で巻き返したりしたのも、そのおかげである。また、夏向けの曲が出身地もあいまって「湘南サウンド」として支持されたことで、リゾートソングのブームにも乗ることができた。

 さらに、82年には原由子と結婚。大学とバンドで愛を育んだカップルは、ファン以外からも好感を持って迎えられた。

 こうしてデビューから5、6年後には揺るぎない地位を確立するわけだが――。86年に一種の危機が訪れる。

 この年、サザンの活動を休止して、KUWATA BANDを結成。全曲英語詞のアルバムを発表するなど、初期サザンの持ち味でもあった学生バンド的なノリを払拭するかのように、本格派志向を打ち出した。

 原の出産・育児にともなうものでもあったが、桑田自身、海外進出をにおわせたり「そろそろヘビー級で戦いたい」などと語っていたものだ。また、ロックには英語詞しか合わないとして、中華料理店で「中国語のロック」を聴いたら「笑っちゃった」という発言も。さらに、

「日本のミュージシャンて、かわいそうだよ。ロックやってきても結局、行き着くところは『おニャン子』のアレンジとかやっててさ」(「GORO」)

 と、同業者をディスることまでしていた。

 また、87年にはソロデビュー。翌年には、ソロアルバムを発表した。それを出したあと、サザンの活動も再開させたが、89年には映画監督業への進出となる「稲村ジェーン」(90年公開)の撮影がスタート。その翌月、レイ・チャールズが「いとしのエリー」をカバーしたりもした。

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桑田佳祐らしい「ごちゃまぜ感」