この映画進出と大物外タレによるカバーは、桑田のバブルと日本のバブルとがシンクロしていたあらわれだろう。当時の日本経済同様、彼をめぐる状況もイケイケだったのだ。

 しかし、90年代に入ると、桑田は拡大路線を諦め、軌道修正していった。日本のバブルがはじけたのも大きいが、彼自身、自分と日本の音楽の身の丈に気づいたようだ。その後の言動からも、やみくもに海外を目指したりすることの愚を悟ったことがうかがえる。

 そういえば、82年に来日した海外のアーティストに日本のヒット曲を聴かせるという企画が「オリコンウイークリー」に掲載されたことがある。記事が手元にないので、記憶で再現してみると、沢田研二の「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」について「これがいちばんいいね。でも何か違う。アレンジの問題かな」と評していた。一方、サザンの「匂艶THE NIGHT CLUB」には「何なのこれ?そのまま『コパカバーナ』(バニー・マニロウ)じゃない。ひどいな」とこきおろしていたものだ。薬師丸ひろ子の「すこしだけ やさしく」に対しては「ヨーロッパ風でABBAみたいな、きれいな曲だね」と言っていたので、サザンの場合は目に余るパクリだと感じられたのだろう。

 もちろん、日本の音楽には日本の音楽のやり方と味があり「匂艶THE NIGHT CLUB」は優れた歌謡曲だ。が、それは世界標準(というか英米基準)のコードとは相いれないものがある。それゆえ、日本のアーティストが世界を制するのは難しいし、無理に本物の洋楽を作ろうとしても、歌謡曲としてはニセモノになってしまう。そういう現実に桑田も直面して、原点回帰したのではと思われる。

 そんな葛藤もしくは開き直りを象徴するのが、映画のサントラでもあるアルバム「稲村ジェーン」だ。配給収入年間4位という興行面はともかく、北野武(ビートたけし)らから酷評されてしまったが、音楽の評判はよかった。それは桑田らしいごちゃまぜ感がうまく発揮されたからだろう。

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