『源氏物語』の巻名尽くし

源氏物語』の巻名を織り込んだその場面には、源氏ファンならずとも、その巧みな言説に驚かされる。サワリの部分のみを紹介すれば、「そもそも桐壺の、夕の煙速やかに、法性の空に到り、帚木の庵の言の葉は、つひに覚樹の花散りぬ」といった具合だ。以下、引用は煩雑だから超訳で簡略にふれておこう。

「桐壺」の更衣(光源氏の母)はこの世を去って速やかに仏の身となり、光源氏たちが雨夜に女性の品定めをした「帚木」のとりとめのない言葉は、終には悟りを開くたよりとなった。「空蝉」の空しきこの世を厭いては、人の命は「夕顔」の露のようにはかなかったことを感じ、「(若)紫」の雲に乗った阿弥陀如来に迎えられ極楽に到り、また「(末摘)花」の台(蓮台)に居るならば、「紅葉賀」の秋の木の葉として散るのもよい。ただ仏の教えの機会は「榊(賢木)葉」(神のこと)に求め往生したい。また「花散里」に住んだとしても、愛する者と別れるのは苦しい。なすべきことは光源氏が流浪した「須磨」を発って「明石」に移ったように、生死の流転する迷いを脱して、仏果を得て円明の境地に身を尽くし(「澪標」)、その処にいつまでもいたい。「蓬生」のいぶせき宿(いとわしいこの現世)にあって、仏果を得たいものだ……。

 冗長でもあるので、前半部分のみを抄出すれば、およそこんな感じとなる。『源氏供養』自体の原典その他については、いろいろと議論もある。それはそれとして、『源氏物語』自体が王朝人の心をつかんでいた点に、改めて着目する必要があろう。仏教的表現と調和させ作品に織り込み、構想化する試みは興味をそそられる。虚構化された王朝世界だとしても、多くの人に共有された観念だった。

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