近衛前久と親交の深かった信長《織田信長像(模本)[東京国立博物館蔵、出典:ColBase]》
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 戦国時代といえば、名だたる武将たちが注目されがちだが、公家の存在も忘れてはならない。名門・藤原一族の近衛前久だ。公家でありながら上杉謙信と盟約を結び、織田信長とも親交が深かった。そんな型破りな近衛前久の生涯とは──。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して紹介する。

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近衛前久 秀吉を猶子として武家関白の誕生を演出

 応仁の乱後、五摂家がことごとく零落する中、近衛家は将軍家と結ぶことで地位の回復をめざした。関白近衛稙家の妹(慶寿院)は十二代将軍足利義晴の正室となり義輝・義昭をもうけ、義輝も稙家の娘を妻にした。しかし、義晴の権力は不安定で細川・三好氏に敗れてたびたび近江に逃れたが、そのたびに稙家は随行せざるをえなかった。

 一方、稙家の嫡子前久は将軍家と距離をおいた。十九歳で関白となった翌年、足利義晴からもらった「晴」の字を捨てて晴嗣から前嗣に改めたのも、その表れといわれる。前久が期待をかけたのは、斜陽の幕府ではなく強力な戦国大名だったのである。

 中でも頼みとしたのが越後(新潟県)の上杉謙信(長尾景虎)だった。永禄二年(一五五九)、謙信は北条・武田との抗争に備えて、将軍義輝から関東出兵の御墨つきをえるために上洛する。この仲介役を稙家・前久父子が務めたのをきっかけに、前久は謙信と盟約を結び、同三年、義輝の許しをえて越後へ下った。現職の関白として初めての東国下向である。関白の権威をもって謙信の東国平定をバックアップし、その力を借りて幕府と朝廷を立て直す野望を抱いていたといわれる。

 翌年、謙信は上杉憲政の譲りを受けて関東管領となり、川中島(長野市)で武田信玄と歴史に残る激闘を繰り広げた。この間、前久は前線の武将さながらに厩橋城(群馬県前橋市)、次いで古河城(茨城県古河市)に駐屯し北条方を牽制した。前久に改名したのもこの頃である。しかし、前久は北条氏の攻勢をうけて越後に撤退し、同五年、謙信の制止をふりきって京に帰る。前久は「若気の至りで短慮に任せてしまった」と反省したが、盟約を反故にされた謙信は怒り二人の交流は絶えた。

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幕府財政の構造転換のきっかけ