しかし、本能寺の変が起こると前久に危機が訪れる。頼みの信長を失った前久は出家して嫡子信尹に家督を譲り、徳川家康を頼って浜松(静岡県浜松市)へ落ちた。本能寺の変の際、明智勢は前久の二条屋敷から織田信忠のいる二条御所へ攻撃を仕かけたため、織田信孝(信長の三男)と秀吉から光秀との共謀を疑われたことが出奔の理由と考えられている。
翌年、家康のとりなしにより帰京したが、続いて前久に降りかかった難題が秀吉の関白就任であった。律令官制の序列を利用して諸大名を屈服させようと考えた秀吉は、同十三年、前久の子信尹と二条昭実の争いにつけ込んで関白への任官を希望したのだ。秀吉は前久の猶子となって信尹と兄弟の契りを結ぶこと、いずれ関白職を返すこと、近衛家に千石、他の摂家に五百石の永代家領を与えることを条件として関白に就任する。前久は「秀吉が天下を握っている以上、是非におよぶまい」といって信尹を説得するしかなかった。
しかし、秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、文禄三年(一五九四)には信尹を薩摩(鹿児島県)へ配流した。信尹が内覧に就任したいと働きかけたことが主な理由といわれている。秀吉には、内覧を含め摂関にまつわる伝統的な権威を藤原氏に返す気は毛頭なかったのだ。
豊臣政権で冷遇された近衛家であったが、江戸幕府の成立後、信尹は関白に任じられ、武家関白は幕府による権力統一をめざす家康によって否定された。晩年の前久は家族とたびたび会い、島津義久ら風雅の友と交流を楽しみながら穏やかな余生を過ごしたという。