しかし七月六日には小田原城の北条氏直が秀吉に降伏、小田原城は開城することとなった。秀吉の命で氏長は忍城籠城軍に書状を送り、開城を促した。その結果七月十四日には甲斐姫らは鎧を着用して馬に乗り堂々と退城していった、という。彼女らの退城後に三成は城内に入り、城代の長親と忍城の明け渡しの交渉に入ったという。
一次史料から見た忍城攻略戦
前項で述べた石田三成による水攻めの計画及び実行、そしてその失敗や甲斐姫の活躍とそれに振り回される秀吉軍の姿は、三成の戦下手というイメージを作り上げる一端となっている。しかし甲斐姫の奮戦は当時の史料(一次史料)には見えず、江戸時代末期に編纂された『成田記』をはじめとする軍記物に描かれているものである。
近年軍記物に基づく歴史像を相対化する試みが多くの合戦について行われている。
行田市から発刊されている『行田市史 資料編 古代中世』には、忍城攻略戦に関する一次史料とその読み下し及び解説が収められており、忍城攻略戦の実態を知ることができる。また行田市郷土博物館の「開館二〇周年記念 第二一回企画展 忍城主成田氏」展示解説は、成田氏関連論文を収めた黒田基樹氏編著や石田三成関連論文を収めた谷徹也氏編著にも入っており、忍城攻略戦及び成田氏の歴史がまとめられている。
まずは豊臣秀吉の朱印状に三成のもとに佐竹義宣ほかの諸将二万人を忍城に遣わしたことが見える。そして六月十二日付の三成宛の秀吉朱印状には忍城から命乞いが出されていること、秀吉の指示に従い水攻めを実行すると周辺は荒地となるため、救済措置として非戦闘員を周辺の城に避難させることを命じている。