忍城址の御三階櫓
忍城址の御三階櫓
この記事の写真をすべて見る

 和田竜氏の歴史小説『のぼうの城』で、一躍知られることになった忍城の戦い。忍城攻城戦は天下統一を目指す豊臣秀吉軍の猛攻を耐え抜き、和睦開城したことで知られる。俗説では、石田三成が城攻めに苦戦し水攻めを採用したとされるが、一次史料からは異なる事情が見えてきた。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の天下人の攻城戦を解説した、朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第十章 著:秦野裕介)から一部を抜粋、再編集して紹介する。

【地図】忍城の戦い関連の図はこちら

*  *  *

 天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉による小田原攻めが開始された。成田氏長も北条氏からの下知で相模に在陣、北条氏が小田原籠城を決定した時には氏長も小田原籠城に参加し、忍城は氏長の叔父の成田泰季を城代として泰季の子の長親(彼が『のぼうの城』主人公である)、家臣の正木丹波守らが忍城に立て籠もった。

 四月には秀吉軍は小田原城に布陣し、同月二十六日には浅野長政らによる別働隊が武蔵・下総の攻略のために小田原を出発、北陸から進んできた上杉景勝・前田利家らの北国勢も加わって関東各所の城は落城し、小田原城と忍城だけが最後まで残っていた。

 石田三成は館林城・忍城攻めの総大将に任ぜられ、大谷吉継・長束正家という秀吉の側近と佐竹義宣・多賀谷重経・水谷勝俊・宇都宮国綱・結城晴朝ら関東の諸将など二万余りの軍勢を率いて館林城を五月末に陥落させると六月六日には忍城を包囲した。

次のページ
攻城戦にまつわる俗説