翌日、三成が浅野長政・木村常陸介に送った書状では、忍城攻めの準備が終わったために先鋒隊を引き上げるように秀吉から指示があったことなどが記されている。

 二十日付の三成宛の秀吉朱印状では、水攻めのための築堤の絵図を承認したこと、浅野長政や真田昌幸を派遣すること、油断なく水攻めを行うべきことが伝えられている。

 六月付の加藤清正宛の榊原康政書状では、忍城の水攻めの準備に対し「種々の懇望」があったと記している。

 七月三日付の長政宛の秀吉朱印状では、忍城皿尾口で奮闘した長政の戦功を褒賞するとともに、皿尾口は手薄であり簡単に攻略できること、忍城は水攻めに決定していることを伝え、いたずらに城攻めを行うことに対して釘を刺している。

 七月六日、北条氏直の降伏と小田原開城を受けて出された上杉景勝・前田利長・木村常陸介・山崎堅家宛の秀吉朱印状には、氏政らの切腹の決定とともに忍城の堤の様子の視察を命じている。さらに秀吉自身も岩付城に向かう途中で忍城の視察を行う予定であることも述べられている。

 七月十日付の長政宛の町野重仍(繁仍)書状では、七月五日に忍城から打って出てきた城兵と交戦した長政勢に多くの負傷者が出たことが記され、浅野勢の負傷者の件については織田信雄の書状にも見られる。忍城からの抵抗が熾烈を極めていたことがうかがえる。

 七月十四日に浅野長政が忍城攻めの検使であった滝川忠征に宛てて、忍城からの懇望によって長政と木村常陸介が忍城に入城することを知らせており、同様の書状は木村常陸介からも忠征に送られている。

 一連の動きを見ていると、水攻めを決めたのは三成ではなく秀吉であったらしいことがわかる。さらに力攻めを行った長政に対しても水攻めの方針を強く伝えるなど、秀吉の水攻めに対するこだわりがうかがえる。

 中野等氏は忍城の水攻めについて、「秀吉軍の圧倒的な物量作戦・組織力を見せつけるためのデモンストレーションであったと見るべき」としている。そしてその資材や陣夫を管理し、物量作戦を指揮する上で三成は格好の主将であったとしている。

暮らしとモノ班 for promotion
大谷翔平選手の好感度の高さに企業もメロメロ!どんな企業と契約している?