忍城には正規の兵が一〇〇〇人前後、周辺の農民・町人・僧侶などが逃げ込み、総勢三〇〇〇人前後が籠城していた。その忍城では六月七日に城代の成田泰季が死去し、嫡男の長親が新たに指揮を執ることとなった。
攻城戦にまつわる俗説
滋賀県が「石田三成発信プロジェクト」として、同県出身の石田三成と滋賀県の認知度・好感度の向上をはかるために作成した石田三成のCMに次のような場面がある。工事現場風の男性が「えっ? たった五日で二八キロの堤防!? そんなの無理」というと、石田三成が「Possible!!」と答えるというものであるが、この「五日で二八キロの堤防」こそ忍城攻めの時に三成が築いたいわゆる石田堤である。ちなみに踊る石田三成の下に字幕で小さく「築堤においての実績であり、戦果を保証するものではありません」とあるが、この戦いで三成が手痛い反撃を受けたことを示しているのであろうか。
三成は忍城の攻撃を開始するが、湿地帯の中に浮かぶような忍城の地理的条件から攻略に手間取り、その地形を利用して水攻めを採用したという。六月七日には水攻めのための堤防である通称石田堤が着工され、五日後には堤は完成、荒川と利根川の水を引き込み、堤内は水で満ちた。しかし二日後には堤防の一部が決壊し、石田勢は三〇〇人近い溺死者を出したという。
六月二十五日には浅野長政の軍勢が援軍として到着し、二十七日には長政軍は大手口から本丸に迫る猛攻を見せたが、成田氏長の娘の甲斐姫が奮戦して長政軍を退け、七月五日にも持田口から攻めかかる浅野長政・真田昌幸・真田信繁(幸村として知られる)の軍を甲斐姫が退けた、という。