かつて球界を席巻した松坂世代も、現役で残るのはソフトバンク・和田毅だけとなった。
【写真】一時は“不動の4番”だった!大成できなかった打者がこちら
和田、松坂大輔、藤川球児、杉内俊哉、館山昌平、久保田智之、木佐貫洋、久保康友と、タイトルホルダーがズラリと並ぶ投手組に対し、野手組は小谷野栄一、梵英心ら、それほど多くないのも、この世代の特徴だ。
中でも大砲は、2年連続本塁打王の村田修一が目立つぐらいで、プロで大輪の花を咲かせることなく消えていった者も多い。
1998年に松坂の外れ1位として横浜に入団した古木克明もその一人だ。
高校通算52本塁打の大砲は、2軍では本塁打を量産しながらも、1軍になかなか定着できなかったが、4年目の02年シーズン終盤にチャンスを掴む。
9月4日の中日戦でプロ初安打を記録すると、同7日の阪神戦では中越えにプロ1号。豊田大谷高時代に2年連続出場した甲子園でのメモリアルアーチに「この場所で打ててうれしい」と感激もひとしおだった。
さらに森祇晶監督が退任した9月25日の広島戦では、黒江透修監督代行の若手起用策で3番に抜擢されると、7回に満塁の走者一掃の逆転二塁打を放ち、翌26日の阪神戦から“不動の4番”に。1カ月半の間に9本塁打を固め打ちした。
翌03年にも自己最多の22本塁打を記録し、和製大砲として開花したかにみえたが、打率.208、リーグワースト2位の131三振と確実性に欠け、守備もリーグ最多の20失策と粗さを克服できなかった。
その後、三塁のポジションは同世代の村田に奪われ、外野に活路を求めたが、出番は限られた。04年、06年にも二桁本塁打を記録するなど、長打力は健在ながら、“真の主砲”になれないまま、オリックス時代の09年を最後に現役引退。その後、格闘家に転身したことでも知られる。
98年夏の甲子園で“大会ナンバーワンスラッガー”の評判どおり、2打席連続アーチを放ち、ネット裏のスカウトたちを「(初戦敗退)もっと見たかった」と感嘆させたのが、九州学院の3番打者・吉本亮だ。