3年春の練習試合で2試合にまたがり5打席連続弾を記録するなど、通算66本塁打の大砲は、新垣渚の外れ1位でダイエー入り。01年にウエスタンで本塁打王と打点王を獲得したものの、1軍では03年終了時点で通算26打数5安打2打点と伸び悩んだ。

 登録名を「龍生」に変えた04年、小久保裕紀の巨人移籍で空いた三塁のポジションを本間満らと争い、自己最多の56試合に出場。打率.200、16打点と飛躍のきっかけを掴んだかに見えた。

 しかし、翌05年はトニー・バティスタの加入で出番が激減。その後も松田宣浩や巨人からFA復帰した小久保の陰に隠れ、1軍出場ゼロで終わった08年オフに戦力外通告を受けた。

 トライアウトを経てヤクルトに移籍した吉本は、宮本慎也の離脱で1軍登録された直後の09年8月21日の巨人戦で、11年目の光輝を放つ。

 7回2死三塁、豊田清から右越えにプロ初アーチ。「必死で振った。入ってくれと願いながら走りました。去年のこと(自由契約)もあったし、本当にうれしかった」とこれまでの苦労が報われる思いだったが、これが最初で最後の本塁打となった。

 11年オフに2度目の戦力外通告を受け、13年間の現役生活に別れを告げたが、古巣・ソフトバンクのチーム運営部で若手の教育係的な仕事を続けるうち、18年に3軍打撃コーチとして再びユニホームを着ることになった。

 そして、「誰よりも失敗してきた」経験をもとに、若手の失敗を減らす役割に徹した実績を買われ、今季は1軍打撃コーチに就任。高校の後輩でもある村上宗隆2世の育成を目指す。

 大砲としては大成できなかったが、本塁打にまつわる珍プレーや珍記録で名を残したのが、竹原直隆だ。

 城西大、三菱自動車岡崎で本塁打を量産した強打の外野手は、04年のドラフト4巡目でロッテに入団。05、06年とイースタンで2年連続本塁打王を手にしたあと、初の開幕1軍を掴んだ07年にプロ野球では珍しい左投げ右打ちの“左キラー”として売り出す。

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強打の外野手はまさかの珍プレーで“主役”に?