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早見優 大学時代、付き合っていた人とは別の男性と写真を撮られ…
早見優 大学時代、付き合っていた人とは別の男性と写真を撮られ…
早見優はやみ・ゆう/1966年、日本で生まれ、3歳から14歳までグアム、ハワイで育つ。単身帰国し、サンミュージックからデビュー。「夏色のナンシー」でブレークする。元祖・バイリンギャル  1978年のキャンディーズ解散、80年の山口百恵の引退で、心にポッカリと穴が開いた人が多かった。しかし、ファンの傷心は、すぐ癒やされていく。日本中が熱く燃えていた80年代、それは史上最強のアイドル時代でもあった。80年代ブームが再燃するなか、早見優さんに当時の話を聞いた。 *  *  *  14歳の時に、住んでいたハワイでスカウトされたんです。ハワイのモデルエージェンシーをしている女性の社長に。  そのとき、「実は私、日本に帰って歌を歌いたいんです」という話をしました。  というのも、私は山口百恵さんが大好きだったからです。ものすごく憧れていました。ハワイでも映画が公開されたり、テレビの「赤い」シリーズが放送されていたんです。何かの歌番組が遅れて放送されて、「ロックンロールウィドウ」とか「乙女座宮」とかを歌う様子も見ていました。  社長は「そういうプロダクションの社長と知り合いだから、紹介してあげるよ」と。それで日本でオーディションを受けて、デビューが決まったんです。  スカウトされたのが9月の1週目。11月には日本に住んでいましたので、ほんとにあっという間でした。  日本では叔母のところに世話になりました。母からは毎週手紙が来ましたし、私もホームシックになってハワイに帰りたいという手紙を書いたのをうっすらと覚えています。  日本に戻ってきてすぐはアメリカンスクールに通ったんですけど、翌年4月に堀越高校に入りました。いっこ上に松本伊代ちゃんがいて、同じ年代に松本明子ちゃんと堀ちえみちゃんがいました。  日本の学校に通うのは初めて。授業の運び方や厳しい校則に戸惑いました。あとは女子がお手洗いに1人で行かないで、必ず連れ立って行くのにビックリ。「え、1人で行くの? 一緒に行ってあげるよ」と言われて、「なんで来るの?」と聞いたら、「冷たいんだから」と。なんか面白いなあと思いました。文化の違いを発見できたんです。  デビューは82年4月21日。憧れていた百恵さんは引退されていて、当時は田原俊彦さん、近藤真彦さん、事務所の先輩の松田聖子さんが大スターだったんです。でも私は日本のことをよく知らなかったので……誰なんだろうな? という感じで。その頃の私にとっての大スターは、郷ひろみさんとか西城秀樹さん。ハワイにいたために、時差があったんです(笑)。  私が12歳くらいのとき、秀樹さんが番組の収録のためにハワイにいらっしゃいました。私の友達のお父様がその仕事に携わっていたこともあって、リハーサルを見に行くことができました。秀樹さんがお弁当を食べていたときに、「サイン下さい」とお願いしましたら、すごく快く引き受けてくださって。  デビュー後、「レッツゴーヤング」で秀樹さんとご一緒させていただいたときにそのことをお話ししたら、「覚えているよ」と。今考えると、絶対覚えてないと思うんですけど、そう言っていただいて嬉しくて。優しくて素敵な方ですよね。今でも「覚えてる」と言って下さるんです(笑)。  初めてチャートイン、ベスト10入りしたのは、「夏色のナンシー」。5枚目のシングルです。毎回、シングルを出すと地方に行って発表をして、レコードを買って下さった方と握手会・サイン会をするんです。たしか広島だったと思いますが、「夏色のナンシー」で行ったときにはものすごい数の方々と握手やサインをした覚えがあります。それと移動で乗ったタクシーで、ラジオから曲が流れてびっくり。雑誌の取材でも、それまでレギュラーで後ろのモノクロページに載せていただいていたのが、「優ちゃん、今月は巻頭のカラーなんだよ」って。曲がヒットするってこういうことなんだ、と初めて感じました。  それからは急にものすごく忙しくなりました。毎朝、明るくなる前に家を出て、帰るのは夜の11時か12時。「ああ、きついな」と一回言ったら、社長さんが「ピンクレディーはもっときつかった。睡眠時間は1時間か2時間だったんだ」と。それを聞いて、あまり文句は言えないなと感じました。でも考えたら、全然別の事務所なのに、なんで知ってるんでしょうね(笑)。  今では考えられないことですが、地方に行ったときに、ファンの方からホテルの部屋に電話がかかってきたこともあります。たぶんフロントに「早見優さん、お願いします」とかかってきたのを、普通に部屋に取り継いだんだと思います。「もしもし」と電話に出たら、「あ、本物ですか?」と。それでお話をしたことが何回かあります。「もう寝ますので」と言うと「あ、分かりました」「おやすみなさい」って感じで(笑)。  その頃は英語ができるアイドルというのがいなかったので、英検のポスターに起用されたり、「100万人の英語」という教育ラジオの番組を担当させていただいたりして、優等生のイメージが付いたと思います。  少し経って、19歳のときに、変装してディスコに行きました。踊るのが大好きですから。変装といっても、野球帽をかぶって、アラレちゃん眼鏡をかけたくらいですけど。それで渋谷のキャンディキャンディに。仲のいい友達大勢と行ったので、目立ってはいなかったと思います。グループで踊って汗をかいて、スパッとよし帰ろうと。健全なディスコでしたね。ジュリアナが流行りだした頃から、音楽の好みが合わないので、ディスコに行くのは止めました。  私がデビューした頃に、写真週刊誌が創刊されました。自宅の前に、宅配ピザのバイクがズーーッと止まっていて、近づいてみたら荷物のところに穴が開いていて、中にビデオカメラのようなものが入っていたなんてこともありました。  私は一浪して大学に入ったんですが、もうその頃はバリバリアイドルではなかったし、学校の友達と一緒に居酒屋さんとかに出かけるじゃないですか。事務所からは「男性と二人きりで写真を撮られないように気をつけて」と言われました。  大学のときには今の主人とデートするなど普通にお付き合いをしていました。主人とは写真を撮られなかったんですが、別の男の子と一緒に映画を見た後でコーヒーを飲んでいるところを撮られたんです。夜遅かったから「深夜デート」とか書かれて。全然怪しい関係でもないから良かったんですけど、表に出ちゃったから彼に悪いなあと思って……。そんなこともありました。  アイドル当時から仲の良かった石川秀美ちゃん、松本伊代ちゃんとは、今でも交流しています。秀美ちゃんは家に料理の先生を招いて、教室を開いてくれたこともありました。三十数年間、変わらずに友達付き合いができるって、嬉しいですよね。  私はこれからもずっと歌い続けたいと思っています。伊代ちゃんとは、70歳になってもジョイントで歌いたいよねって話をしています。 早見優(はやみ・ゆう) 1966年に日本で生まれ、グアムとハワイで育つ。82年4月「急いで!初恋」でデビュー。翌年4月発売の「夏色のナンシー」でトップアイドルに。8月24日にミニアルバム「Delicacy of LOVE」を21年ぶりにリリース。11月6日、銀座ケントスでライブ ※週刊朝日 2016年9月30日号記事に加筆
週刊朝日 2016/09/26 11:30
第55回 ただいまビータ中  その7 南相馬~青森~浜松~豊橋~大網~東御~山形~仙台~金沢 回遊魚は泳ぎ続ける
第55回 ただいまビータ中  その7 南相馬~青森~浜松~豊橋~大網~東御~山形~仙台~金沢 回遊魚は泳ぎ続ける
梅野記念絵画館にて望月画伯ライブペインティング けっこうくすぐったい (撮影/谷川恵) 東北文教大コーラス部の面々と指導の加藤隼人先生と (撮影/東北文教大コーラス部)  このコラムを書き始めて二回目の秋のコンサート&ライブシーズンです。毎年、秋は片時も止まることなく泳ぎ続けております。ワーカホリック? はい。どうやらそのようです。スケジュール表に「白い一日」があると、どうにも落ちつかなくて、なんとか打ち合わせやリハや仕事を入れようとしている自分がいます。  朝のホテルでチェックアウト前の時間に必死に書いている(ほめちぎ第12回参照)という状況も2年前と変わらず。う~む。私の辞書には進歩とか改善とかいう言葉はないらしい。  しかしこれだけ動いていると、いつも「お家にはいつ帰るんですか?」「一年のうち家にいるのは何日なのですか?」と、よく聞かれますが、実は帰れると判断したら、すぐに自宅に戻るようにしています。“腰痛君”はそれがいやらしいのだけど。  今回は実際の公演内容にはあえて触れずに、私の“移動の妙技”をきいてください。って別にえばるものでもないですが。ひたすらあくせく動いていて、泣けてくる。。。  9/9(金)新中野駅、朝7時半集合。劇団TAICHI-KIKAKUの皆様と車で南相馬へ。常磐道も整備され11時には南相馬着。前乗り日なので、公演会場のお寺さんで仕込みとリハをし、翌日9/10(土)本公演。9/11(日)5時42分原ノ町発の常磐線で仙台へ。一部区間、相馬駅から亘理駅まではまだ不通なのでバスに乗り換え。8時6分仙台発「はやぶさ1号」で新青森に向かうが、ここで大誤算。指定席満員。「立ち席特急券」なるもので仙台から新青森まで約2時間デッキに立っている私。喜ぶ“腰痛君”。そして、目の前にはぐずる少年をビシバシ叱る母親。がんばれ少年!  9/11(日)は青森・浪岡の森の中での、こどもたちとのワークショップ&詩人の藤田晴央さんとの野外ステージコラボ。森林浴で束の間ホッとするも、9/12(月)は朝9時52分新青森発「はやぶさ14号」で自宅直帰。もちろん指定券はあらかじめ購入。  9/16(金)、13時26分東京発「こだま659号」で浜松へ。「こだま」なのになんでこんなに混んでるんだ!JR東海の一人勝ちな現在をあらためて痛感。この夜はDiVaでライブ。翌9/17(土)は豊橋公演なので、移動距離が短くチェックアウト後時間を持てあます。仕方ないのでネットカフェ「快活CLUB」で映画『ボーイソプラノ』を見て過ごす。“エゴ丸出し少年”の改心話。ちょっとしらけるが、音楽がきれいなのですべて許す。ゆるゆると豊橋に動きDiVaライブ。  9/18(日)8時47分豊橋発「ひかり508号」で東京へ。総武線の快速&外房線に乗り継ぎ大網駅へ。DiVa応援団千葉支部の「studio:b」で熱狂ライブ&打ち上げ後、20時54分大網発の「わかしお24号」東京駅経由で自宅へ。  9/19(月・祝)8時44分東京発「はくたか555号」で上田駅経由、しなの鉄道、田中駅へ。「東御市梅野記念絵画館」にてオヤジと染織家の望月通陽さんとワイワイがやがや。望月さんに白いTシャツにライブペインティングで絵を書いて頂く。線が動いているのを見ているだけで快感。18時34分上田発「はくたか572号」で自宅へ。  9/21(水)12時東京発「つばさ137号」で米沢駅経由、米坂線、羽後小松駅へ。川西町「jam」alto saxの名雪祥代バンド公演。終演後、drummerの今村陽太郎君の車に便乗して仙台へ。9/22(木)名雪バンド仙台公演。もちろん※音符もりあがって、うちあがった後、制作の小山田和則さんの車に便乗して山形へ。  9/23(金)「河北町総合交流センターサハトべに花」にて、東北文教大学短期大学部開学50周年記念曲「母のまなざし父のひとこと」をレコーディング。学長先生はじめ教職員の皆さんも参加してくださる感動の仕上がりに皆で喜びをわかちあいつつ、プロデューサーの早坂実さんに車で山形空港まで送って頂き、19時山形空港発JAL178便で自宅へ。  9/24(土)13時24分東京発「はくたか565号」で金沢へ。旧知の「茶房・犀せい」でボーカルの小野榮子さんのライブ。翌9/25(日)は7時50分金沢発「かがやき502号」で大宮経由、南浦和駅へ。「さいたま市文化センター」で行われる「きょうはみんなでラボまつり」で講師担当。  一つ一つの活動がすごく充実しているにもかかわらず、余韻に浸ったりすることはまったくできずに、ドライに次の仕事へ向かう。誤解しないでほしいのですが、これは全然かっこいいことなんかじゃありません。スケジューリングはもちろん自分の都合で決めていくものですが、大勢のミュージシャンやプロデューサー、その他関係者の皆さんとの協議で決まっていくものでもあり、網の目のような人的交流を考慮すると、結果、このような毎日をおくることになる。別に「売れっ子!」とか言ってほしいのではなく、毎日きちんと体調を整え、音楽家としてベストな状態を維持できるかが、一番肝心なことです。引っこんでてね“ 腰痛君”! [次回10/11(火)更新予定]
2016/09/26 00:00
[連載]アサヒカメラの90年 第10回
[連載]アサヒカメラの90年 第10回
1964年12月号表紙 60年代前半は広告の現場からデザイナーと写真家をコンビで招聘しグラフィカルな路線を敷いた 1963年10月号 今井寿恵「独<ひとり>」から 1963年10月号 今井寿恵「独<ひとり>」から 1962年2号表紙 構成:細谷巌、撮影:安齋吉三郎。タイトルは「静かなドラマ」 1963年4月号 横須賀功光「黒」 1962年1月号 奈良原一高「モードの周辺」 1963年1月号 田中光常 日本野生動物記 第1回「モモンガとムササビ」 1966年1月号 佐々木崑 小さい生命 第1回「サケの稚魚」 「女流」写真家の挫折  1960年代前後は、日本の写真史上ではじめて、女性の写真家たちに注目が集まった時代だった。戦後の女性解放と社会進出の気分を背景に、アメリカのマーガレット・バーク=ホワイトやベレニス・アボットなどの活躍も知られており、日本の女性たちの活躍への期待も高まっていた。  ことに注目されたのが、前号でもふれた「第三の新人」の今井寿恵である。今井のデビューは56(昭和31)年7月の銀座・松島ギャラリーでの初個展「今井ヒサエ写真展 白昼夢」で、モノクロとカラー合わせて30点のシュルレアリスティックで実験的な作品は、写真で描く心象的な詩として「フォト・ポエム」と形容された。  今井の父は浅草と銀座の松屋デパートで写真室を経営する写真家だが、彼女自身には写真を手掛けるつもりはなかったという。しかし母校である文化学院講師の柳宗理に勧められ、初個展を見た美術評論家の瀧口修造からは励ましを受けて、手ごたえを覚えた。また同年の奈良原一高、細江英公の個展からも非常な刺激を受けた。  今井の本誌初登場はこの年の10月号で、横浜の赤線地帯などの女性をテーマに初個展「女から見た―働く女性」(同年4月)を開いた常盤とよ子とともに、「個展を開いた二人の女流写真家」という記事で紹介されている。常盤が報道写真をめざす「リアリズム派」、今井が前衛芸術の「アブストラクト派」という位置づけであった。同じ女性の立場から女性のおかれた社会的状況をとらえた常盤は、木村伊兵衛から「数少ない日本での本格的な女流報道写真家」への道を歩むよう期待をかけられた。一方の今井は、これから「実用的な商業美術の方向に進んでゆきたい」との希望を口にしている。  翌57年6月、今井と常盤は二人展を月光ギャラリーで開いた。また赤堀益子を世話役として、関西のベテランの山沢栄子らを加え結成された、女流写真家協会に参加している。同会は活動2年で自然解散となったが、これも写真界のなかでの女性の地位が変わりつつあることを予感させた。本誌では、こうした流れを受けて8月号で座談会「写真商売うらおもて(5) 女流プロカメラマン」が企画され、今井と常盤のほか、主婦の友社の小川千恵子、フリーとしてダム建設や造船業の現場をルポしている赤堀が参加した。司会をつとめた文芸評論家の中島健蔵は、座談会の冒頭で、彼女たちは日本で初の「女流写真家」と呼ばれる人たちであり、「女性カメラマンの進出でこれから写真界がどう変わっていくかということは興味深々(ママ)」と話を切り出している。  これら女流写真家のなかで、今井の活躍は抜きんでていた。59年には日本写真批評家協会新人賞、翌60年には「カメラ芸術」誌の芸術賞を受賞。また、自身が望んだように「ハイファッション」「装苑」「婦人画報」などのファッション雑誌でも活躍を始めたのである。  しかし本誌62年8月号の「写真界消息」欄には、彼女のつらい近況が報告された。6月22日早朝に横浜で交通事故に遭い入院、現在は自宅療養中とあるのだ。この事故が今井に与えたダメージは大きく、顔面に大けがを負い、一時は左目失明の危険さえあった。また入院中に婚約を一方的に解消されるという精神的ショックも受けていた。  それでも翌63年に復帰し、以前と同様の活躍を始めるが、心に落とした影は大きかった。その影は、この年6月の復帰個展と10月号の本誌に発表した作品「独<ひとり>」に表れている。編集部の紹介には「完全に立ち直って」とあるが、作品は女性の顔をさまざまな手法で変形させたもので、痛々しさを感じさせる。彼女自身が付した作品解説からは、生と死、美と醜をめぐる強い葛藤の末に生まれた重たい表現だったことがうかがえる。 「生のままの顔が美しすぎるとき、私はその顔を死の世界へ送り込んで、永遠に生かし続けたい欲望が起きます」  今井や常盤の登場の後にも、本誌に女流写真家は登場する。「女性自身」誌での唯一の女性スタッフカメラマンからフリーの社会派となった清宮由美子、アジア各地を撮影した上野千鶴子などだが、その数は少数にとどまり大きな活躍はなかった。つまり「女流」とは、完全な男性優位社会というきわめて高い壁を表現するときに使われる形容詞だったのである。 「広告」写真家の飛躍  今井の活躍にみられるように、60 年代前半には多くの写真家が広告やファッションなどを手掛けるようになっており、その潮流は本誌の掲載作品によく反映されている。たとえば奈良原一高が62年に連載した、イマジネーションあふれる「モード写真の周辺」などは、ファッション写真の仕事を契機に生まれた斬新な作品といえるだろう。  復刊後における商業写真と本誌との関係を振り返ると、まず復刊の翌50(昭和25)年には、戦前に盛んだった広告写真懸賞が復活している。これに2年連続で入選を果たして才能を見せたのは、米子のアマチュア写真家だった杵島隆である。その杵島は知人の紹介で53年に上京して、2年前に設立されたライトパブリシティに入社する。そこでデザイナーの波多野富仁男とのコンビで能力を発揮し、「同社の表現スタイルを決めた」(中井幸一『日本広告表現技術史』玄光社)と評される仕事を相次いで発表した。また57年に入社した早崎治は、64年に開催された東京オリンピックの有名なポスター写真を担当して日本の広告写真表現の水準を世界に示している。  その間58年には日本広告写真家協会(APA)が結成され、60年には日本を代表する企業8社(朝日麦酒、旭化成、富士製鐵、東芝、トヨタ自動車販売、日本光学、日本鋼管、野村證券)の出資により日本デザインセンターが誕生した。玄光社から専門誌として「コマーシャル・フォト」が創刊されたのも60年である。潤沢な資金を背景に、さまざまな表現上の技術的実験が試みられていた当時の広告写真の世界は、現場の写真家にとっても写真雑誌にとっても魅力的なジャンルになりつつあった。  本誌における広告写真ムーブメントの影響は表紙にみられる。59年からグラフィックデザイナーと写真家が数カ月ごとにコンビを組んで担当するようになり、より視覚的にインパクトの強いものになっているのだ。これは広告業界でも話題になり、なにより手掛ける若い写真家やデザイナーたちがやりがいを感じられる仕事であった。  例えば62年は、細谷巌がデザイン、写真が安齋吉三郎というライトパブリシティのコンビが1年を通じて担当している。このときの経験について細谷は、原稿料が安くロケには行けないため、イメージをデザインするのに工夫を凝らしたと、愉快そうに語っているのである。(『タイムトンネルシリーズVol.19 細谷巌アートディレクション1954→』ガーディアン・ガーデン)。制作予算は少ないがデザイナーと写真家には、自由な発想による実験的な表現ができたのである。  より若い広告写真家たちは、誌面においてもその存在感を増していく。それは新しい写真家を発掘するためのページによく表れた。本誌では新人の紹介のために61年5月号から「現代の感情」を、翌62年から4年間は「新人」欄を設け、自由な作品発表と写真家の自作解説、そして評論家の伊藤知巳による写真家評が掲載されている。ここに登場した写真家は計56人に上るが、広告写真家の割合は編集部の予想より多かったようだ。64年6月号の編集後記には、同欄の編集担当者が取り上げるべき硬派な「社会科のフリーランサーがきわめて少ないこと」が最近の悩みの種だと告白しているのである。  ここに登場した広告写真家で伊藤に絶賛されたのが、63年4月号で作品「黒」を発表した横須賀功光である。資生堂の広告で才能を発揮していた横須賀は、白と黒の衣装を着た女性モデルによるコンポジションを、特有のハイコントラストなライティングによって際立たせた。さらにページ構成はデザイナーの村瀬秀明が、衣装には三宅一生が協力している。  伊藤は「発想とイメージの新鮮さ」を追求する横須賀の妥協なき姿勢に可能性を感じ、「第三の新人」たちの個性に「正面から太刀打ちできる強烈な個性が、いまようやく私の前に立っている」と書いた。とくに「奈良原の出現以来、もっとも新人らしい新人」だと評した。  また翌64年11月号の「新人」にはライトパブリシティの篠山紀信が登場して「肖像」を発表している。横須賀、細江、秋山庄太郎、今井、木村、北井三郎の6人の写真家をモデルに、彼らの作風にのっとって、その肖像を撮ったものである。  伊藤は篠山の感受性の非凡さを認めつつ「容易なことでは自己の正体を他人の前にさらけ出そうとはしない」複雑さを持つ写真家であり、あるいはそれを「極度に恐れる人間」と指摘する。そして本作も、既成の権威に対する血気にみちた反抗と否定とが、いまだ体系的な秩序や論理をもたぬままに、いわば八方破れ的にここに打ち出されていると評した。  篠山自身もまた、それを認識していたようだ。この一作をもって彼に影響を与えてきた先人たちの仕事、つまり「過去の記憶から生まれた影像」とは決別することを自身の言葉で付しているのである。 「動物」写真家のフロンティア 「新人」欄が始まったのは、伊藤が横須賀について述べたように、「第三の新人」たちに対抗できる才能が待たれていたからだった。だが、それはなかなか見つけられない。その理由について伊藤は、広告業界の活性化や、週刊誌の創刊ラッシュなどによる、写真の商業化と関係があると考えていた。  つまりこの時代の新人たちは、最初から表現上の制約や了解のなかで、仕事をこなすところから出発しなければならない。そのため多くの自由を与えられた「新人」欄の作品も、全力で取り組みながらも結果的にオーソドックスなものに落ち着いてしまう。だから「通観してみて、とくにズバ抜けた者もいないかわり、とくに目立って質のおちる者もいない」( 63年1月号「私の見た《新人》たち」)のだと、伊藤は分析した。  こうした時期の本誌に新しい風を吹かせたのは、動物写真という新しいジャンルだった。具体的には、63年にはじまる田中光常の「日本野生動物記」がこの分野を開拓した。  田中が動物をライフワークとしたのは53年からで、当時の主な撮影地は動物園だった。なぜなら野鳥以外の動物の分布図がなく、機材の選択肢も乏しかったからだ。その半面、ベビーブームの追い風を受けて日本中で動物園の数が増え、施設や動物種も拡充されていた。  田中はまた、アメリカの動物写真家イーラが出版した『動物の世界』(平凡社 57年)の生き生きとした描写や、ディズニーの「砂漠は生きている」(55年日本公開)などのネイチャードキュメンタリー映画から強い刺激を受けた。そして58年に、動物園で撮りためた作品で「田中光常動物写真展」を開催すると正統派動物写真家として注目された。そこで次のステップとして、本誌で野生動物の撮影を試みるのである。  田中は連載にあたり、まず朝日新聞社の図書室で、動物に関する各新聞の切り抜きをチェックするなど資料を精査した。さらに全国を調査して、白地図に動物の分布図を書き込みながら撮影を行った。こうした準備を経て連載の第1回は小田原で撮影した夜行性の「モモンガとムササビ」で、これらは幼少期にはじめて自然の怖さを意識させた印象深い動物であった。 「日本野生動物記」は2年で終了したが、シリーズは「続・日本野生動物記」(66、67年)へと続き、やがて海外にも足を延ばして「アメリカ野生動物記」(69年)、「世界野生動物記」(70、71年)に発展、計7年の長期連載となった。さらにこの間、朝日新聞社から、68年には写真集『日本野生動物記』が、70年には同『世界野生動物記』(全5巻)が刊行された。  この間動物写真は多くの写真ファンを獲得し始めており、ライバル誌の「カメラ毎日」でも岩合徳光の「カメラ博物誌」が64年2月号から始まっている。田中と岩合は、これらの仕事によって、日本のネイチャーフォトの展開にひとつの基礎を築いていくのである。  また、昆虫や魚など、微細な生物の発生の瞬間をとらえた佐々木崑の連載「小さい生命」が66年から始まっている。読者に新鮮な驚きを与えたその第1回は「サケの稚魚」で、誌面では孵化した直後の姿を見事にとらえている。しかし、この一枚が成功するまでに、ライトの熱で水槽の水温が上がり、シャッターを切る前に魚が煮えてしまったという。  こうして思いどおりにならない対象を相手に失敗や苦労を重ねながら「小さい生命」の連載は79年6月号まで続いた。さらに約4年間のブランクの後、83年3月号からは「新・小さい生命」として復活し、8年後の91年12月号に終了した。ふたつの連載を合わせるとその連載期間は約22年、計256回は、今後抜かれることのない数字となった。  60年代前半の本誌は、全体的に高度経済成長期の明るい高揚感を反映している。もちろん社会には矛盾や問題が多く、それは経済成長に比して増大していた。これに続く時代にはこうした流れに、さまざまなレベルで抗する写真家たちが登場する。  そして彼らの批判は、日本の写真表現の歴史的展開にも向かうのである。
アサヒカメラの90年
dot. 2016/09/21 00:00
【ニッポンの課長】商船三井客船「気配りの2代目『海の女』」
【ニッポンの課長】商船三井客船「気配りの2代目『海の女』」
商船三井客船「気配りの2代目『海の女』」商船三井客船マネージャー 森田純子(46)撮影/門間新弥  アエラにて好評連載中の「ニッポンの課長」。  現場を駆けずりまわって、マネジメントもやる。部下と上司の間に立って、仕事をやりとげる。それが「課長」だ。  あの企業の課長はどんな現場で、何に取り組んでいるのか。彼らの現場を取材をした。  今回は商船三井客船の「ニッポンの課長」を紹介する。 *  *  * ■商船三井客船 マネージャー 森田純子(46)  1990年に就航し、現在3代目になる豪華客船「にっぽん丸」。楽しみの一つが、朝、昼、夜の食事だろう。8階まである客船には様々な食事場所があるが、その中でもメインとなるダイニングを統括しているのが森田純子だ。 「父親も船乗りでして、働くステージが海っていいなと思いました」  職業柄、海での生活が1年の半分以上を占める。入社間もないころには船酔いに苦しんだが、「船酔いは病気じゃない。弱音を吐くな」と励まされた。今では、プライベートで海外旅行をするときも、海のある国を選ぶ。  高校を卒業し、88年に入社。客室担当や船内ショップの裏方、バーテンダーなどを経て、2014年7月から現職。フィリピン人スタッフが3分の2以上在籍する10~30人のダイニングチームをまとめる。  夕食前になると、「オーシャンダイニング春日」の入り口に、乗客を出迎える森田の姿があった。長いクルーズの場合、食欲の有無や食事時間が遅れていないかなど、一人ひとりの細かいところまで気を配る。 「ご利用されるお客様70人ほどの顔や名前などを2日目の食事までに覚えるようにしています」  日本酒好き、赤ワインは好みでも酸味のあるタイプは苦手など、乗客ごとの好みに合ったものを提案するだけではなく、食物アレルギーの有無も把握し、あらゆる人に心地良い時間を過ごしてもらいたいと思う。 「日々勉強です。サービスに終わりはありませんから」  大型連休最終日の5月8日。取材後、にっぽん丸は東京・晴海埠頭から神戸、九州、山陰を経て、ロシアのウラジオストクへ回り、東北地方経由で東京へと戻る13日間の船旅へと旅立っていった。 「何回でもお帰りいただいて、にっぽん丸を別荘代わりにしてほしいですね」 (文中敬称略) ※本稿登場課長の所属や年齢は掲載時のものです (編集部・小野ヒデコ) ※AERA 2016年6月6日号
ニッポンの課長
AERA 2016/09/20 11:30
「卒婚」うまくいく夫婦、いかない夫婦
「卒婚」うまくいく夫婦、いかない夫婦
“新しい夫婦のカタチ”とは…(※イメージ)  熟年離婚などの言葉が定着するように、長い夫婦生活のなかでひずみは生じるもの。そうしたなかで、あえて離れて暮らす“卒婚”や夫婦関係の“リフォーム”を行う人たちがいる。どちらも互いの自由を尊重するライフスタイルだ。その“新しい夫婦のカタチ”とは。  首都圏でネットショップの運営会社を経営する加納みどりさん(仮名・59歳)は結婚30年目を迎えた今年4月、“自然の流れ”で卒婚した。  夫で地方公務員の良一さん(仮名・60歳)が、街づくりを担当していたキャリアを買われ、東日本大震災の復興支援業務のスタッフとして東北の被災地で働くことになったのが、きっかけとなった。 「これまでの生活ががらりと変わったことは確かですね」とみどりさん。  子供のいない二人だけの夫婦生活だった。経営者として多忙なみどりさんに代わって、良一さんが食料品や日用品をこまめに購入していた。結婚に大反対していたみどりさんの両親は、7年前に相次いで亡くなったが、良一さんはその両親を引き取り、3年間も介護してくれた。 「今は、トイレットペーパーを始め、Amazonで買っています。掃除も洗濯も、これまで夫にやってもらっていましたが、全部自分でやっています」  離れて暮らしてみると、相手の良さが「悔しいほど」わかるようになったという。 「夫が赴任してから、LINEやスカイプで連絡をとろうとしましたが、現地はネット環境が悪くて。そこで毎朝7時に夫が電話をしてくれます。誕生日も結婚記念日も、親の命日も忘れる私なのに、彼はちゃんと覚えている。ちょっとしたことですが、とてもありがたく感じます」  別れた暮らしは、体調を見直すきっかけにも。良一さんは、三陸の魚介類や野菜を毎日食するうちに、健康診断で懸念していたような病気の兆候は消えた。朝、昼、晩の食事の写真をメールで送ってくるそうだ。みどりさんもかねて挑戦したかったダイエットがうまくいき、4カ月で5キロ痩せ、高血圧気味だったが、正常値に戻った。  会えるのは年5回ほど。人前でもかまわず大げんかをしていた姿は、ない。みどりさんは30年にわたる夫婦の積み重ねが支えであることを認め、“自然卒婚”の成功を次のように語る。 「子供はいないし、どちらも両親が亡くなりました。お互いに帰る故郷がないから、離れていても二人で助け合って生きようと思うのでしょう」  残念ながら取材を断られた夫婦もいたが、いずれも卒婚のデメリットが表面化している状況だ。一組は、卒婚をしてみたら居心地が良く、再会したら「老後の生き方の価値観が違う」と悟り、離婚を考えるようになった50代夫婦。「別れたい。けれど、年をとってひとりになった将来が不安」と揺れている。もう一組は60代夫婦。卒婚を宣言して別居してみたが、生活費など経済的な負担が身に染みた。  中高年になるほど、これまで築いてきた過去を否定したり、捨てたりすることが難しいようにも思える。高齢の域に突入しながら、夫婦関係を見直したい場合、『卒婚のススメ』で杉山さんが提案するように、介護を視野に入れた老親との関係、経済的な自立、子供とのつきあい方など、じっくり考え、準備する必要があるようだ。  一方、卒婚を選択せずに、たとえば定年して子育てを終え、二人で過ごす時間が増えたときに、ともに旅行やボランティアを楽しみ、ステレオタイプになりがちな夫婦関係を「リフォーム」する場合もある。また、新居を設けることで、夫婦の在り方を見直すことだってある。  大人ライフプロデューサーのくどうみやこさん(49歳)は、結婚15年目の節目となる3年前、一つ年下の夫と神奈川県の湘南地方に家を購入した。 「亡き著名作家の敷地内の半分を、さらに3分割した土地が売り出されていて、一目で気に入りました」  注文住宅の担当者との相談で子供部屋を提案され、「うちは夫婦二人きりだから」と口にしたことで、「子供がいない人生」を自覚。「男女の役割がある夫婦関係から解き放たれた感じがした」という。  結婚を機に会社を辞めたくどうさんだが、パソコン教室に通い、サイトを立ち上げ発信。次第にトレンドウォッチャーとしての仕事が増えていく。子供がほしかったが、不妊治療をせずに自然の摂理に任せた。  メーカー勤務の夫は、正月も盆も出勤する“仕事一筋”。子供のことが話題にならなくなって久しくなったころ、おのずと転居先を探し始めた。 「仕事が深夜に及ぶこともありますので、早朝から出勤する夫のために、夜のうちにお弁当を作り置きしておきます。夜遅く帰宅する日が続くと、すれ違いで何日か顔を合わせないこともあります」  決して仲が悪いわけではない。時間差生活は、まるでおひとり様同士が合宿生活をしているような形になったくどうさん夫婦。  コミュニケーションのツールのひとつが、手書きのメモ。「チンして温めて食べてね」。飼い犬のポメラニアンが気になると、「昨夜ぐったりしていたようだけど、今朝は元気ですか」と記してみる。すると夫から「元気になったよ!」と返事のメモ。  引っ越したことで、休日があれば、午前中は犬を連れて近くの海を散歩し、海が一望できるカフェでモーニングを楽しむようになった。ゆったりとした時間の流れに浸り、“夫婦”としての信頼関係を確認しているのかもしれない。(作家・夏目かをる) ※週刊朝日  2016年9月23日号より抜粋
夫婦男と女離婚
週刊朝日 2016/09/20 07:00
ニトリ会長・似鳥昭雄が作家・伊東潤に語った「経営と創作は『短所あるを喜び、長所なきを悲しめ』」
ニトリ会長・似鳥昭雄が作家・伊東潤に語った「経営と創作は『短所あるを喜び、長所なきを悲しめ』」
【略歴】にとり・あきお ニトリホールディングス会長。1944年樺太生まれ。北海学園大学卒。1967年に23歳で似鳥家具店を札幌市で創業。2016年、29期連続の増収増益を達成。 【略歴】いとう・じゅん 作家。1960年神奈川県生まれ。早稲田大学卒。2013年に『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を受賞。『江戸を造った男』はデビュー10周年記念作品。  『ニトリ 成功の5原則』を書き下ろしたニトリホールディングスの似鳥昭雄会長と、週刊朝日連載の長編時代小説『江戸を造った男』(いずれも朝日新聞出版刊)を刊行した作家の伊東潤さんが、男のロマン・経営の神髄について熱く語り合った。 伊東 今回、江戸の豪商・河村瑞賢(ずいけん)のことを書いたのですが、彼の「己のためではなく、他人のために役立つ仕事をする」という信念は、日ごろ会長がおっしゃっていることと一致しますね。 似鳥 瑞賢は、江戸の様々な危機に対して人々のためならと真剣に立ち向かっていった。この「世のため人のため」という熱意がすごい。これは今の言葉で言うなら『ロマン』と『ビジョン』、そして志があるからで、僕が常々標榜(ひょうぼう)していることとまったく同じです。とにかく瑞賢のすごいところは、一つ事を成し遂げてもまた次の事業へと、少しも現状に満足することがない。死ぬまでその意欲や熱意、情熱が衰えなかった。 伊東 当時は経営理論なんてないですから、瑞賢自身が試行錯誤の中でいろんなことに気づいていく。その結果、種々のインフラ構築を通じて、人口百万人を抱える世界一の都市・江戸のベースを造ったわけです。 似鳥 我々のように教科書があっても実践するのは難しいのに、教科書がなくてあれだけのことを成し遂げたんですから素晴らしい。 伊東 役人が上に立つとうまくいかないことも、下々の気持ちがわかる瑞賢が間に入るとプロジェクトの効率が何十倍も上がりました。やはり何事も人ですね。 似鳥 それって今の時代も同じですね。役人は現場を知らないですから。 伊東 まさに今日の東京が抱える問題と同じですね。例えば、新国立競技場の建設にしても役人がイニシアチブを取ると全然うまくいかない。ああいうものこそ民間企業に請け負わせるべきで、腕のいいプロジェクト・リーダーが仕切れば経費削減もできると思います。 似鳥 そうですよ。半分とか、それこそ3分の1も夢じゃないんじゃないですか。我々の商売は昔からの習わしで問屋から仕入れるものだとされてますが、僕は少しでも安く売りたいという思いでまず北海道のメーカーと直取引をしたんです。それが見つかり問屋からは徹底した迫害を受けることになりました。で、北海道がダメなら東北、そこも見つかると静岡、九州とドンドン南下して直取引をしていった。自分たちでトラックを手配したり、倉庫を借りたりしてあらゆる工夫をして乗り切ったんです。 伊東 直取引だと、安く仕入れられたでしょうね。 似鳥 ええ。倒産した店の商品だとかいろいろありますから、だいたい5分の1とか10分の1です。ただ、ずいぶん危ない目にも遭って、それこそスリルとサスペンス、ハラハラドキドキの毎日でした。こっちも生活がかかっているから進まざるを得ないんですよ。大きい商談が成立すると、相棒と温泉で芸者さんを上げてどんちゃん騒ぎをしましたね。やっぱり綱渡りみたいな毎日で緊張感とストレスが半端じゃなかったですから、たまにはパァーッと騒がなきゃ滅入ってしようがないんです。最終的には、台湾や韓国へと販路を広げていくわけですが、トラブル続きで、本には書けない話がたくさんあります。 伊東 会長の本には実際に経験した時の具体例がちりばめられているので説得力があります。「落ちこぼれでも成功できる」なんて話は読者にも自信と勇気を与えます。その落ちこぼれ方も半端じゃない。 似鳥 子供の頃から遊んでばかりで勉強した記憶がない(笑)。高校なんて夜学すら落ちて、闇米屋をやっていた母が最後に落ちた高校の校長先生に米俵を1俵持っていって、何とか補欠合格で入れてもらったんですから。だから、大学も4年制は全滅だった。高校時代も勉強は全く分からず、試験のたびにカンニングをしてギリギリの成績で進級したんですからそりゃ受かりっこないんです。うちの親父からも「おまえは頭が悪いんだから、人のやらないことをやるか、人の3倍働くか、どっちか自分で決めろ」と言われたぐらいでね。じゃ、人のやらないことをやるしかないな、と。 ●劣等感をバネに短所を克服する 伊東 24歳の時に20歳の奥様と結婚なさったそうですが、事業をこれだけ大きくできたのも奥様の支えが大きかったからですか。 似鳥 うちの家内と結婚していなかったら会社は潰れていたかもしれません。いや、もう食べていけなかったでしょうね。 伊東 どこが一番の支えになったのでしょうか。 似鳥 僕は対人恐怖症で接客が全くできなかったんです。だけど、家内は気楽に「いらっしゃいませ」とお客さんに話しかけるんですよ。家内が店に出るようになったおかげで売り上げも倍の80万円になって何とか赤字続きだった店も立ち直ることができたんです。以来、接客は家内に任せて僕は商品の仕入れと配達に専念することができました。 伊東 それぞれの長所を生かしたわけですね。 似鳥 ええ。僕は社員にも「短所あるを喜び、長所なきを悲しめ」といつも言ってるんですね。みんな短所を気にするけど、そんなもの気にするな、と。僕自身、接客ができないから俺はダメな男だといつもコンプレックスを抱いていたんですが、自分の仕入れた商品が売れるようになったら仕事が俄然(がぜん)面白くなってきたんです。 伊東 僕も同じです。文学賞の選考委員からは「女性が描けてない」と毎回言われるんですが、どうも恋愛とかラブシーンを描くのが面倒なんです。逆に躍動する男たちを描きたい(笑)。そこで開き直り、もう短所は放っておいて、得意なことだけ書こう、と。そうしたら、『巨鯨の海』などダイナミズムにあふれる作品が次々と生み出せました。自分の強みを生かすというのはすごく大事で、短所なんか放っておいてよいと思います。 似鳥 僕が店内を歩いていると今でも店員に間違えられてお客さんに声をかけられるんですが、もう緊張して全身から汗が噴き出ちゃう。で、「もっと詳しいのがいますから連れて来ます。おーい」なんて店員を呼んですぐに退散します。だからいいんですよ、欠点なんか気にしなくても。 伊東 任せるところは人にまかせ、長所を伸ばすことが大事なんですよね。ただ、なかなか自分の強みってわからないんですよね。 似鳥 だから、うちは2年、長くても3年で無理やり配置転換させるんです。いろいろな部署を経験すると、案外自分に合う仕事が見つかるんです。そこで上司が長所を見つけて伸ばしてやると、本人がビックリするほどの能力を発揮するんですね。だから、みんなで長所を探し合え、と。それと、配置転換にはもう一つの利点があります。5年、6年経つと、例えば電話が携帯になったり、作業のやり方にしても今はポケット端末で全部在庫がわかるわけです。時代がドンドン変わっているのに役員が旧式のやり方で指揮していたら、現場は混乱するばかりなんですね。だから、社長以外は執行役員もドンドン入れ替えて風通しをよくしています。 ●40歳が「己を知る」人生の分岐点 伊東 瑞賢は、明暦の大火を経験したのをきっかけに材木の買い付けや独創的な日本列島海運航路の開発などを手掛けていくんですが、彼が世に出るのは、ちょうど40歳の時なんです。 似鳥 やはり人生観は40歳ぐらいにならないと変わらないですよね。僕も28歳の時にアメリカの視察旅行で圧倒的な低価格と高機能、そしてトータルコーディネートされた巨大家具チェーンに衝撃を受けまして、同じような店を目指そうと思ったんです。でも、俺の一生を賭けて命がけで取り組もうと決意したのは30代も半ばを過ぎていました。さらにその思いが強くなったのは40を過ぎた頃で海外輸入を始めたんです。台湾、韓国、インドネシア、マレーシア、タイと現地で通訳を1人雇って自分1人で買い付けたんですが、最初はテーブルも椅子もお客さんからのクレームの山でね。だけど、諦めずに続けているうちに、それが海外生産に発展してニトリの商品の中核を担うようになったんです。 伊東 ビジネスでも何でも固定観念に縛られずに飛び込んでみると、意外にチャンスはあるんですね。 似鳥 そうなんです。僕はソファもベッドもまったく造った経験はなかったですが、それでも完璧に造るぞ、と思えばできましたから。 伊東 僕も初めて小説らしきものを書いたのは42歳の時で、ほかの作家に比べて後発なんです。それまでは小説家があふれているので自分が入り込む余地はないと思い込んでいたんですが、イザ飛び込んでみると結構抜け道があるというか、自分の座るべき椅子を見つけられるものです。それが歴史解釈力とストーリーテリング力の融合で、新しい歴史小説の地平を切り開き、誰も追随できない世界を築くことができました。今では大きな財産になっています。ただ、自分の強みや適性を見つける、いわゆる「己を知る」のは40を過ぎないと、なかなか難しいですね。 似鳥 僕もよし、海外を開拓するしかないと思ったのは42です。人生がガラッと変わって見通しもつきました。そして、50代、60代とさらに事業を拡大できたんです。今、72歳ですけど、60代よりも面白いですよ。伊東さんも60代になったらさらに進化した境地は必ずあると思うな。 伊東 今は女性視点の作品も書いています。ところが、ラブシーンが苦手でも女性視点の作品は手ごたえがあるんです。会長は常に前向きでいらっしゃいますが、最後にリーダーに一番必要なものをお聞かせください。 似鳥 基本は「明るい哲学」ですね。障害が出てきても、そこを乗り越えるたびに1歩ずつビジョンが実現していくんだと、考え方を明るく前向きにしていくこと。そして、男女を問わず愛嬌(あいきょう)がある人がいいですね。うちの社員に「結婚相手にはどういう人を選んだらいいですか?」とよく聞かれるんですが、僕は『愛嬌と度胸』と言ってます。 伊東 度胸というのはどういう場合に発揮されるものですか。 似鳥 とにかく失敗を恐れず、たとえ失敗しても後悔しないことです。と言っている僕自身、度胸が足りなくて決断できなかったこともありました。プロ野球チームも、ホテルチェーンも度胸がなくて買わなかった。ホテルなんて4年後に東京でオリンピックもあるからあの時買っておけばよかったと、今となれば思う時もあります。ですから、今でも反省と後悔の毎日ですよ。 伊東 今日は貴重なお話が聞けて本当によかったです。 構成 大西展子
週刊朝日 2016/09/20 07:00
職員会議も農作業も、医療の現場もSNSで変わる!
職員会議も農作業も、医療の現場もSNSで変わる!
【オプティム】ドローンのほか、「IT農業」をキーワードに遠隔操作を支援するウェアラブル端末などの新しい機器の開発を進めている(撮影/山口亜祐子) 【トークノート】社内SNSツールとして、現在2万社以上が利用する。聖徳学園中・高では、ICT教育の一環としても使っている(撮影/写真部・岸本絢) 【佐賀大学医学部附属病院】の申し込みもアプリの利用も無料。通常の診察券とは別に、希望する患者が必要書類に記入して専用窓口で申し込む(撮影/山口亜祐子)  教育現場では何かと評判の悪いSNSが、教員間のコミュニケーションを活性化する救世主に。農作業の負担軽減も、医療データの管理も、丸ごとアプリが実現する。 ■教育■ SNSの活用で職員会議が一変した  タブレットの画面に映るのは、夏休みで合宿中の演劇部の生徒たち。私立聖徳学園中学・高等学校(東京都武蔵野市)の伊藤正徳校長は、タイムラインの写真と文章に「いいね!」を押して、コメントも書き添えた。  伊藤校長が手にしているのは、ビジネス用のSNSアプリ「トークノート」。企業内でのコミュニケーションや情報共有ツールとして使われている。 「いままでは、出張伺や報告書などの書類に目を通して学校の様子を把握することが少なくありませんでしたが、現場の動きがわかり、先生たちとのコミュニケーションが取りやすくなりました。情報をリアルタイムに把握できる。なくてはならないものになっています」(伊藤校長)  事務作業や生活指導などの業務も抱える日本の先生たちは「世界一忙しい」とも言われる。聖徳学園中・高でも、以前は報告書などの書類が教職員の間を行き交い、授業内容や行事の相談のための会議や打ち合わせの調整に時間を取られていた。 ●使うことで教えられる  だが、その職員室の風景が、昨年12月にトークノートを導入して一変したという。職員会議の資料は、事前にSNS上に流す。事務連絡や報告はもちろん、教職員同士の情報共有にも使えるため、職員会議では事務連絡の時間が短くなり、新しい授業の事例紹介や質疑応答など、本来の教育指導に活用できる議論の場に変わったという。  アプリ活用の場は職員室以外にも広がっている。たとえば保健室。これまで養護教諭は、生徒がやってくると担任教諭にメモを渡したり、授業が終わるのを待って説明したりしていたが、いまはトークノートのプッシュ通知を使って、どの生徒がどんな症状で訪れ、どう対処したかを伝えられるようになった。既読・未読もわかるため、該当する生徒のクラス担任がその情報を把握しているかどうかも確認でき、保健室を空けることが少なくなったという。 「授業中の場合は、職員室の机の上にメモを置くなどしていましたが、読んでもらえたかどうかが気になっていました。情報共有がとても楽になりました」  と臼井花梨・養護教諭は話す。  すでに生徒と先生、生徒同士の情報共有や対話ツールとしての運用も始まっており、今後は保護者に利用の輪を広げていくことも検討中だ。SNSは、教育現場ではネガティブに受け止められがちだが、 「先生たちが実際に活用することで、正しい使い方や交流のあり方を生徒に教えられる」  と伊藤校長は考えている。 ■農業■ 家にいながら害虫を駆除できる  厳しい自然が相手の農業は大変な仕事だ。システムやソフト開発などを手がけるオプティム(本社・東京)社長の菅谷俊二さんは農学部出身。 「農学部に入ったのは、ITの力で農業を変えたいという思いがあったからです」  開発したのは、AI(人工知能)を備えた農業用の「アグリドローン」と、その動きや機能を支えるアプリ。昨年8月に佐賀県、菅谷社長の母校の佐賀大学農学部と連携協定を結び、実証実験を重ねてきた。今秋からは一般への販売も始める予定だ。  佐賀県は、県内の土地総面積のうち耕作地が21.9%を占める農業県。農業従事者も2万4千人いるが、65歳以上の高齢者の割合は増えており、全体の6割近くを占めるようになってきている。1人あたりの耕作面積が増えて作業の負担は増す一方。後継者不足が深刻な問題だ。  アグリドローン×アプリなら、夏の暑い日や寝静まった夜でも、離れた場所から自分の畑を管理できる。 ●ITの力で在宅農業  設定されたルートを飛ぶドローンが空から農地を撮影すると、AIで作物の状態を分析。それをアプリで確認できる。たとえば大豆の場合、10ミリ程度の葉の異常まで捉えられるという。  実際に畑に行って異常がないか目視するという作業から解放されるうえ、病害虫が確認されれば、ドローンにピンポイントで農薬を散布させることもできる。農薬をまんべんなくまくのに比べると、使う農薬の量を減らせて、散布者も安全だ。  天敵の鳥がいない夜に活動する害虫を、紫外線ライトを搭載したドローンの夜間飛行でおびき寄せ、殺虫器で駆除することも可能だという。 「今までは手間やコストがかかっていた低農薬・無農薬栽培にもつながり、商品価値も上がると思っています」(菅谷社長)  現在、国内で農薬散布に使われている小型の無人ヘリコプターは1機1千万円以上するが、オプティムでは、50万円から100万円の価格帯でドローンを販売する予定だ。ドローンの利用に特化したアプリも同時にリリースすることにしている。  菅谷社長は、いずれは充電も飛行も自律して行う、掃除用ロボット「ルンバ」のような「完全自動運転」型ドローンに改良することを夢見ているという。 「ITで農作業を自動化していくことで、昼でも夜でもクーラーの利いた家の中にいながら作業ができる時代がやってくる。農家の方々が楽になる農業を実現したい」 ■医療■ 患者の手元で医療情報を管理する  患者本人が自分の医療情報を管理し、健康状態を把握して、病院は情報管理にかかる時間や人的コストを減らせる──。  そんなアプリを開発したのは、佐賀大学医学部附属病院だ。  顔写真の入ったQRコード付きの自己疾病管理カード「MIRCA(ミルカ)」をスマートフォンやタブレットの専用アプリで読み取ると、診察記録や検査データ、処方された薬などの医療情報が画面に現れる。一昨年の秋からサービスがスタートし、これまでに同病院で治療を受けた患者のうち希望者約500人がミルカを作成している。  診察を受けると、ほぼその日のうちに、情報が更新される。開発にあたった同病院医療情報部の藤井進副部長によると、ミルカの裏面に書かれたID番号を共有し、遠く離れて住む娘や息子が親の通院状況や検査結果を把握するのに役立てているケースもあるという。 ●「同意」作業が不要に  病院周辺にある約20カ所の調剤薬局にもiPadを配布し、ミルカ利用者がアプリを利用して薬情報にアクセス、薬剤師に相談できる環境も整えた。 「患者本人が医療情報を把握していることで、たとえば旅行先で知らない病院にかかっても、『こんな病気で普段こんな薬を飲んでいます』という情報を医師に正確に伝えられます」  と藤井副部長は話す。  病歴・通院歴を含む医療データを病院ではなく患者が管理するというシステムは、医療機関にとってもメリットが大きい。効率化につながるからだ。  カルテの情報を医療機関が保持する場合、他の医療機関との共有にあたってはその都度、医師らが一つひとつのデータについて患者に説明して共有の同意を得る必要があり、時間と手間がかかっていた。同意書の管理も必要だ。だが、患者がアプリを使って医師に自らの医療情報を提示するなら、「同意」にまつわる作業が不要になる。 「使い進めれば、二重の検査や薬の投与などの無駄もなくなり、医療費削減にもつながると考えられます」(藤井副部長)  セキュリティーは、患者自身が設定するパスワードとカードにあるQRコード、またはID番号の2段階。ミルカ専用のアプリでしか情報を引き出せないシステムを整えており、今後は他の病院との連携も検討している。  医療機関でのアプリ活用が広がれば、診察室の光景は確実に変わっていく。(ライター・山口亜祐子) ※AERA 2016年9月19日号
AERA 2016/09/12 11:30
渡辺謙&宮崎あおい『怒り』プレミア上映でトロント国際映画祭に登場
渡辺謙&宮崎あおい『怒り』プレミア上映でトロント国際映画祭に登場
渡辺謙&宮崎あおい『怒り』プレミア上映でトロント国際映画祭に登場  2016年9月17日に公開される映画『怒り』が、第41回トロント国際映画祭スペシャル・プレゼンテーション部門に出品され、本編で父娘を演じた渡辺謙と宮崎あおい、そして李相日監督が招待を受け、現地時間9月10日にプレミア上映を行った。渡辺謙&宮崎あおい トロント国際映画祭写真  上映に先駆けて、渡辺謙、宮崎あおい、李相日監督はトロント市のシンボルであるCNタワーが一望出来るトロント市の名所・センターアイランドを訪れた。トロントの印象について渡辺は、「アメリカのパブリシストとよく話をするとき、行くならトロント映画祭だと。マーケットに対しての影響力が一番大きな映画祭だと聞いていたので、賞を獲るということではなく、世界中からこの地に集まる映画人に『怒り』を観ていただく。そういう意味では非常に価値のある映画祭だと思います」とコメント。  過去にトロントへ留学経験がある宮崎は「13~14年前にホームスティをしたことがあったのですが、家と学校の往復のみでほとんど観光をしたことがなかったんです。昨日監督と夜の街をフラフラ歩いたのですが、人がたくさんいて活気のある街だなと感じました。思い入れのあるトロントに映画祭で戻ってこれて、すごく贅沢で嬉しい気持ちです。」と感想を語った。  その後3人は、14時半からTIFF Bell Lightboxで行われた公式会見に参加。海外メディアからの質疑応答に答えた。李監督作品に出演することに対して渡辺は「李監督は日本映画業界の宝物。一緒に仕事を出来たことを誇りに思っています。いつでも素晴らしく、俳優、女優はみんな彼を信頼しています。たぶん、また何度でも彼の作品に挑戦すると思います」とコメント。  李監督は本作の信じるというテーマについて聞かれると「この作品は、日本の社会の隅にいる人たちの物語ですが、同じようなことがたぶん世界でも起きていると思います。我々は知らない人たち、改めて知り合う新しい人たちをどれだけ信頼できるか、信頼することがいかに難しいか、信頼することによって失うこと、疑うことによって、失うことがどれだけあるのかは、今まさに世界で同じように起きていることだと認識しています」とコメントした。  また、本作に参加したことがスペシャルだと話す宮崎は「自分にとって今までしたことがない挑戦になる役だなという気持ちで現場にはいりました。現場では毎日監督と話をして、感情を監督と共有しながら愛子を一緒に作っていった気がしています。また、渡辺さんと初めてご一緒させていただいて、現場でのたたずまいやスタッフへの対応、私たち役者への接し方など、すべてをそばで見れたことが幸せでしたし、自分にとって存在的にも大きな方です」とその想いを語った。  プレミア上映会場となったのは、1913年に建てられた歴史ある映画館・エルギンシアター。カーペットアライバルには、10代からシニア層まで約500人もの観客が劇場前に詰めかけ、上映は映画祭最大級のキャパシティを誇る劇場を埋め尽くす1400人もの観客が来場。場内満席の大盛況の中、上映前の舞台に登壇した渡辺、宮崎、李はそれぞれ流暢な英語で挨拶をし、上映後は舞台挨拶に登壇した。 ◎渡辺謙-コメント 一緒に上映を見ていて、お客様がすごく素直に笑えるところは笑って、楽しんでもらえているな、と感じました。今回自分は2回目の鑑賞なので、疲れましたね(笑)。1回目に観たときよりも、ものすごい温かいものを感じたんです。この監督は本当にやさしい人なんだ、温かいものを届けたい人なんだ、とすごく感じました。終わってからしゃべるのって難しいですよ。ただ泣けるとかではなく、本当に心の芯をつかまれているそんな作品だと思います。最後には心から温かい拍手を受け取りました。 ◎宮崎あおい-コメント 皆さんと一緒に見れる機会をいただけたということを光栄に思います。上映中に笑い声が聞こえたのは、海外ならではと思いましたし、今回私は本作を見るのが2回目だったのですが、やっぱり前回とは違うところで感情を動かされました。謙さんとご一緒に取材をさせていただく中で、お父ちゃんがどんな気持ちで私(愛子)を見ていたのかを聞いたりして、それを聞いているせいか、お父ちゃんの気持ちになってしまって、こんなに自分のことを思ってくれているのに、、その気持ちにものすごく心が打たれて、お父ちゃんの顔にぐっときてしまいました。1回目とは違う観方ができたかなと思います。 ◎李相日監督-コメント 観客と一緒に観るっていうのは、僕にとっては試練です。厳しい試練を乗り越えた達成感です(笑)。ピエールさんのシーンが、こんなに笑いをとるのが驚きでもあり、楽しくもあり。物語が進むにつれて、僕はどうしても観客の後頭部をずっと見てしまうんですが、映画が進むにつれて笑ったり、ゆるく観ていたのが、どんどん皆が皆スクリーンにまっすぐに向いていくのを感じました。何かしら圧力がスクリーンから観客に放たれていたのかなと思います。
billboardnews 2016/09/12 00:00
「保育園入園予約制」で保活は改善するか? 導入にはハードルも
「保育園入園予約制」で保活は改善するか? 導入にはハードルも
年々激しくなる「保活」で0歳児4月入園を目指すケースが増えている。保育現場の負担が増して保育士不足にもつながる(写真部・岸本絢)  0歳児のうちは家で育児をし、その後に仕事復帰する。そんなささやかな願いがかなわない。厚生労働省が導入を促すという認可保育所の「入園予約制」は、そんな状況を変える一打になるのか。  今年4月、前年の11月に生まれたばかりの生後5カ月の長女を認可保育園に入園させ、仕事に復帰した都内のIT企業に勤める女性(34)は、地方に住む夫の両親からさんざん非難された。 「まだ離乳食も始まっていないうちから保育園なんて」 「もう母乳やめちゃうの」  女性自身も生後5カ月での入園は不本意だったから、それらの言葉が心にぐさり、ぐさりと突き刺さってきた。 「私だって、せっかく育休制度があるんだから1歳ぐらいまで一緒に過ごしたかった。でも、0歳のうちに入園させなければ、保育園に入るのはもっと難しくなる。追い詰められて、そうするしかなかった」  待機児童問題が深刻化し、子どもを保育園に入園させる「保活」も厳しくなる中、保育園の定員は4月入園ですべて埋まり、年度途中での入園は絶望的な状況だ。さらに、1歳児クラスへの入園は、0歳児からの持ち上がりで枠がほぼ埋まってしまい、より厳しくなるため、0歳児4月での入園を選択し、法律では本来、子どもが1歳になる前日まで取れるはずの育児休業を途中で切り上げる人も多い。 ●復帰時期見えず戦力外  そんな中、厚生労働省が育休をしっかり取得して、年度途中でも入園できる「入園予約制」の導入を自治体に促すことを決めた。予約制を設ける自治体に対して、保育士の人件費を補助するための予算を来年度の概算要求に盛り込むという。厚労省の担当者は言う。 「親御さんの権利である育児休業を、安心して取れる環境をつくりたい」  ただ、予約制の枠をどう捻出するかが課題だ。担当者によると、保育所定員を超えて入所できる「弾力化枠」での対応を想定しているという。  予約制の導入については、企業側も歓迎する。 「仕事復帰の時期が早めに確定するのは会社側も助かります」  と言うのは、都内のベンチャー企業の人事担当者(35)。昨年も、子どもが1歳になるのに合わせて7月に仕事復帰を予定していた女性から、保育園に落ちたので育休を延長したいという申し出がその1週間前にあった。女性が住む千葉県内の自治体では、入園希望の前月の23日に入園の可否の通知が来る。その後も毎月、「今回も落ちた」との連絡が続き、やっと10月下旬に「来週から復帰できます」と報告があった。この人事担当者は言う。 「『女性活躍』と言いながら、現在のシステムでは、会社が女性社員を戦力と期待して待つことが難しい。予約制を早く導入してほしい」  もし、年度途中の入園がかなえば、0歳児4月入園の土俵に乗れない人も救われるようになるかもしれない。 「生まれ月によって『保活』にこれほど有利不利が出てしまうのは解せない」  と感じているのは都内の会社員で、第1子を妊娠中の女性(38)。現在住んでいる、保活の激戦区・世田谷区では、1次選考の申し込み締め切りが11月30日。女性は出産予定日が12月4日のため申し込みに間に合わず、競争率が格段に高くなる2次選考にしか申し込めない。これでは保活は絶望的なので、「出産予定」でも申し込みを受け付けてくれる他の区に引っ越すことを決めた。 ●嫌でも0歳4月を狙う  認可保育園に入園できなかったときのために無認可の保育園にも見学に行ったが、月ごとの誕生日の園児を紹介する掲示物には10月以降生まれの子ばかり。きっと、認可園に入れなかった子たちだろう。保活では秋冬生まれが絶対的に不利なのだと感じたという。  産後1年は休んで子育てしたいという思いはあるが、0歳児4月を逃すと保育園に入れないかもしれないため、職場の人たちから「早すぎるんじゃないの?」と言われながらも、来年の4月入園に申し込むつもりだ。女性は言う。 「親も0歳児で預けたくないし、保育園側も負担が大きいから受け入れたくないのに、現実は0歳じゃなきゃ入れないから無理やり入れる。矛盾しているなと思いますね。予約制などで年度途中に入園できる仕組みがあれば、ぜひ利用したい」  実はいくつかの自治体ではすでに予約制度がある。  東京都葛飾区では10年以上前から、育児休業を取得する人を対象に、5月から10月までの入園を事前に内定する制度を設けている。同区子育て支援課入園相談係長の宅間大介さんは、 「安心して育児休業を取得していただき、スムーズな職場復帰のために利用してもらえたら」  と制度の目的を説明する。  予約制度は0歳児の受け入れが12人以上の比較的大きい公立の認可園で実施していて、19園が各3人ずつ予約枠を設けている。2016年度は159人が申し込んだ。ただ、申し込みは年1回で12月上旬に締め切るため、それ以降に生まれた子どもは利用できないのが難点だ。 ●夜泣きと仕事両立ムリ  マーケティング会社に勤める女性(39)は、この制度を利用して、秋生まれの次男の9月入園が実現した。長男の時は、生後7、8カ月での夜泣きがひどく、今回もこの時期に仕事復帰はできないと思い、予約制度を利用することにした。 「長男のときはまだ育休中でしたが、仕事しながら夜泣きに対応するのは体力的に持たないので、次男のときも1歳近くまで育休を取りたいと思いました。素晴らしい制度があって、葛飾区に住んでいてよかった」  予約制を導入している東京都品川区では、37の区立認可保育所で146人分の予約枠を設けている。子どもの1歳の誕生日前日以降まで育休を取得することが条件で、出産の翌月の月末までに申し込み、選考は入園希望日に基づいて年4回。昨年度は582人の申し込みがあった。外れた場合は4月入園にも申し込めるので、タイミング次第では2度チャンスが生まれる。  ここまで見てきて、入園予約制は利点が多く、期待も高まるが、「実現は簡単ではない」と指摘するのは、待機児童問題に詳しい東京都市大学客員准教授の猪熊弘子さんだ。 「予約を受けるためには、事前に保育士を確保しておく必要がある。入園の枠を空けて待つのは、待機児童が多い中ではなかなか難しいのではないか。また、育休がない自営業者は利用できず不公平。保育園が圧倒的に足りない現状が変わらなければ、結局は予約枠の取り合いで、解決にはなりません」 ●恩恵ないフリーランス  予約制度は、予約者よりも保育の必要性が高い家庭の子どもが待機児童になってしまう「逆転現象」の可能性があることや、育児休業制度がない自営業者などから見て公平でないと指摘される。実際、横浜市は予約制の導入を検討していたがそういった理由で見送った。  自営業者や自宅で勤務しているフリーランスの人は、もともと会社員と比べて保育園に入りにくい。そのうえ、ただでさえ少ない枠が会社員を前提とした育休制度利用者に取られてしまえば、自営業者が子どもを認可保育園に入れるのはますます難しくなる。  4歳の息子と2歳の娘がいるイラストレーターのうだひろえさん(39)は自身の経験から、 「国が女性活躍や自由な働き方を掲げるなら、フリーランスの子育てについてももっと考慮してほしい」  と訴える。2年前まで横浜市に住んでいたが、第1子はなかなか保育園に入れず一時保育や夫の休日などを利用して仕事を続け、1歳半のときに空きの出た認可園に入園した。ただ、第2子を妊娠した後、育休のないフリーランスの場合は、出産後8週間の産休明けに子どもを預けないと働いていないとみなされて、第1子が退園させられることを知った。だが、息子の通う保育園には、生後6カ月経たないと預かってもらえない。うださんは、1カ月健診が終わってすぐに保育園を見学し、3月に空きの出る認可外の園を見つけた。2園は家からそれぞれ反対方向にあり、朝夕1時間かけて送り迎え。毎日無駄な時間だと感じていたという。  保育園を考える親の会代表の普光院亜紀さんは言う。 「限られたパイを争っている保活では、どっちかを立てればどっちかが泣き、根本的な対策にはならない。ただ、0歳児は保育園での事故のリスクも高く、親が望むならできるだけ手元で育てられるほうがいい。命の問題を考えても、育休を切り上げないですむ予約制はメリットがある」  入園予約制は、理不尽な保活を少しでも改善できる救済策になり得るだろうか。(編集部・深澤友紀) ※AERA 2016年9月12日号
出産と子育て
AERA 2016/09/07 11:30
佐々木俊尚、松尾たいこ夫妻 結婚のきっかけは“家族割引”!?
佐々木俊尚、松尾たいこ夫妻 結婚のきっかけは“家族割引”!?
ジャーナリストの佐々木俊尚さん(左)とイラストレーターの松尾たいこさん夫妻(撮影/写真部・加藤夏子)  新聞記者を経てフリージャーナリストとなった夫・佐々木俊尚さんと、大手自動車メーカー勤務を経てイラストレーターになった妻・松尾たいこさん。「お互い家庭というものに、あまり恵まれていなかった」という二人が築いてきた“自分たちらしい”暮らしとは──。 *  *  * 妻:出会いは2001年の夏。彼が新聞社を辞めて出版社のアスキーにいたとき、私にイラストの仕事を依頼してきたのがきっかけです。 夫:確かイラストレーションの雑誌に載ってたのを見たんです。 妻:7人くらいの中から私の絵を気に入ってくれて「作者近影は一番ブスだけど、まいっか」って頼んでくれたんでしょ(笑)。 夫:そうだっけ。 妻:もう忘れてるの? で、打ち合わせをしに行ったらそっちが一目ぼれをしたんでしょ? 夫:そうでした。 妻:そのとき映画の話ですごく盛り上がって、映画を一緒に見に行くようになったんです。 夫:行った行った。ウォン・カーウァイ監督の「花様年華」ね。 妻 ハリウッド映画を選ばないところも趣味が合ったんです。  当時、夫は39歳。少し前まで新聞社の社会部記者として「オウム真理教事件」などを第一線で取材していた。 夫:とにかく忙しくて結婚を考える暇もなかったですね。デートしようと思ってもドタキャンばかりするから嫌われるんですよ。夜の9時にごはんを食べてたらポケベルが鳴って会社に呼び出されて、そのまま海外の事件現場に行かされたこともあった。 妻:そうやっていて、体を壊したんだよね。 夫:そう、耳鳴りがするから突発性難聴かと思ったら脳腫瘍だった。それで糸が切れたんです。それに僕は社会を分析するような仕事が好きなのに、事件記者は特ダネが第一で解説記事を書いても評価されない。「何か違うな」と思っていた。でも辞めるときは悩みましたよ。お遍路に行ったりもした。結局、転職して、人生を考える余裕もできたんです。  妻も大きな転身を経験している。地元・広島の大手自動車メーカーでシステム開発をしていたが、夢を諦められず、32歳で上京してイラストレーターとなったのだ。 妻:彼に会ったとき、私結婚してたんですよ。23歳から15年間くらい。でも前の夫とは「価値観が違う」というモヤモヤがずっとあったんです。「どうしても価値観が合わない。離婚したい」と言ったらびっくりされたけど、「そうか……わかった」と言ってくれて。離婚して、そのあと彼と一緒に暮らし始めたんです。 夫:僕は別に過去なんて気にしなかった。家庭を持ちたいという気持ちも特になかったし、長らく事実婚だったしね。 妻:そう、子どもを欲しいと思ったこともないし、「ただ一緒にいられればいい」と思っていた。家庭に憧れがなかったのは、二人ともあまり家庭に恵まれていなかったからかもしれません。  夫の思春期はかなり厳しいものだったようだ。小学校低学年のときに両親が離婚。養父となった人からはいつも暴力をふるわれていた。 夫:僕は子どものころ、頭はよかったんです。本もものすごく読んでいた。本の世界だけが自分の居場所だったというか。でも両親が離婚して、小学校から中学まで養父に本を読むのを禁じられていたんです。 妻:「本を読んでると頭でっかちになる!」って言われたんだよね。 夫:しょうがないから釣りに行くふりをして図書館に行っていた。高1で『マルクス主義入門』とかを買っていたので、書店のおじさんに目をつけられて「本当にそれ、自分で読んでいるのか」って言われました。 妻:高2くらいから親とも離れて、ほとんど一人で生きてきたんだよね。 夫:別にいまも付き合いがないわけじゃないですが。 妻:彼から子ども時代の話を聞いたときは、けっこう衝撃的でした。でもうちの両親も離婚しているんです。そのせいか二人とも「理想の家庭」みたいなのがまったくなかった。 夫:ライフスタイルが合っていればそれでいいんじゃないか、と。 妻:07年に籍を入れたのも、スポーツジムに申し込みに行ったら「家族のほうが入会金が安い」って言われたからなんです(笑)。 ※週刊朝日  2016年9月9日号
夫婦結婚
週刊朝日 2016/09/05 11:30
昭和には「流し」という生き方があった…
昭和には「流し」という生き方があった…
渥美二郎。最近の舞台では、流しをしていた時代の思い出話をすることも (c)朝日新聞社  社会風俗・民俗、放浪芸に造詣が深い、朝日新聞編集委員の小泉信一氏が、正統な歴史書に出てこない昭和史を大衆の視点からひもとく。今回は昭和に活躍したネオン街の「流し」のお話。 *  *  * 「飲めや歌えやの大騒ぎ」という言葉がある。酒を飲み、酔えば、好きな歌の一曲でも口ずさみたくなるのが人情である。カラオケなどない時代、北海道から沖縄まで、それこそ全国津々浦々のネオン街には「流し」と呼ばれる芸能者や職能集団がいた。ギターやバイオリン、三味線を手に「一曲いかがですか」。飲み屋をそれこそ流すように一軒一軒まわり、客のリクエストに応じてメロディーを奏でるのをなりわいとしていたのである。  北アルプスの山々に抱かれた奥飛騨温泉郷(岐阜県)には、伝説の流しがいた。「君はいで湯の ネオン花あゝ奥飛騨に 雨が降る……」と、自ら作詞作曲した「奥飛騨慕情」が250万枚のミリオンセラーとなり、昭和の歌謡界を席巻した盲目の歌手・竜鉄也(2010年、74歳で死去)である。  昭和11(1936)年、奈良県生まれ。飛騨高山で父と義母に育てられた。病気が原因で視力が落ち、26歳のとき光を失った。独学で体得したアコーディオンを抱え、流しの世界に入ったのである。  奥飛騨でスナックのママをしていた美津枝さんと出会ったときは、40歳近くになっていた。美津枝さんによると、竜は極寒の真冬でも流しをしていた。屋外から暖かい店内に入る。髪の毛に凍りついていた雪がとけて額からポタポタ落ちたが、途中で演奏をやめることはなかったという。  竜の口癖は「歌は語りだ」。聞く人の魂に届くように魂をこめて歌っていた。やがて美津枝さんは竜と駆け落ち。郡上八幡で開いた歌謡酒場は昭和54年の火事で全焼するが、翌年に発売した「奥飛騨慕情」の大ヒットで生活は安定するようになった。  哀愁にじむ歌声。「演歌とは人の世に踏まれて咲く花」と竜。「流し」という仕事では、酔客にからまれて酒をかけられたり、殴られそうになったりすることもある。しかし、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶのがこの商売。「このバカやろう!」と罵倒されても、「下手くそ」と叱られても、「ヘイすみません」と笑い、丸く収めるのも芸なのである。  流しにとって大切なのは情報だ。とくに地元のタクシー運転手や屋台の店主から聞いた情報は貴重である。どんな客がいるのか。年齢層は。何時ごろ行くと店はにぎわっているのか。いきなり店に入らず、ドアの前でしばらく耳をそばだてる。漏れてくるカラオケのメロディーでギターのキーを合わせ、「こんばんは。一曲いかがですか」と言いながら店の中に入るのである。  その絶妙のタイミングが難しい。演奏のうまい、下手は関係ない。相手の心をいかにつかむかが大切。銀座の高級クラブのママのように、話題のニュースは頭の中にたたき込んでおく。客を楽しませる会話術も大切。ときに人生相談の相手になることもある。  だが、流しという商売は漂泊が宿命。どこから来て、どこへ去るのか。なぜこの商売をしているのか。身の上ばなしをうかがうこと自体、ヤボなことである。家庭を持つこともなく、諸国放浪のしがない人生。「道楽の果ての稼業ですよ。ひとさまにも言えんような裏街道も歩いてきました」と竜の流し仲間は言っていた。  流しは「声色屋」とも呼ばれ、歌舞伎や新派の古風な声色芸で粋に流す人もいた。京都の円山公園には花見の季節になると、尺八や竪琴、太鼓で流す芸人も現れた。客も自分の心情に合う歌を持っていた。だから心がこもっていた。伴奏は流しが合わせてくれた。人を立てることに徹するのが彼らのモットーだった。  宿場町として古くから栄えた東京は足立区の下町、北千住は、演歌界の大ベテラン、渥美二郎(64)が流し時代に過ごした街である。父も祖父も流し。母はクラブ歌手。渥美にとってギターは子どものころから遊び道具だった。  北千住には、流したちが泊まる寮もあったという。渥美は昭和44(1969)年、16歳のとき高校を中退して流しの世界に。3曲200円。ギター一本で名曲をしぼり出した。  自分のレコードを売ったこともある。「いらねえよ。こんなもの」と目の前でレコードを割られたこともあったが、3曲目のシングル「夢追い酒」が昭和54年度の日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞。売り上げ枚数260万枚。日本の演歌史上、ベスト3に入るヒット作となった。渥美にとって流しの経験は大きかったにちがいない。飲み屋こそ学びや。大衆の喜怒哀楽を敏感にかぎ分ける力を流したちは養ったのである。  私が足しげく通っている東京・新宿のゴールデン街にも「マレンコフ」と呼ばれた流しがいた。よれよれのジャンパーにギターを抱え「どうです、一曲」。3千曲近いレパートリーを持っていたといい、2曲1千円で客の注文に応じていた。  本名「加藤武男」。半世紀以上も流しを続けていたそうだが、酔客はそんなことなど関係ない。マレンコフ自身も口数は少ない。いつも口をへの字に結んでおり、旧ソ連の元首相に似ていることから、いつの間にかマレンコフと呼ばれるようになった。  ギターを奏でては、客を楽しませ、いつしかふらりと去っていた。2009年9月、82歳で死去。ゴールデン街の名物男だったから、その訃報は新聞記事にもなった。  自分の歌声と演奏の技術だけで客をひきつけた流し。いま、日本に何人いるのだろう。飛騨高山には竜鉄也の友人が現役で頑張っているそうだが、夜のネオン街は不景気だという。  ときには、グラスを傾け、しみじみとした流しのギターの伴奏で歌いたい。それこそ、裏通りにドブの臭気が漂うような飲み屋街だったら最高。昭和に生まれ育った人間は、そうした風景に郷愁を感じてしまうのである。 ※週刊朝日 2016年9月9日号
週刊朝日 2016/09/02 16:00
集団生活でプライバシーなしが最もつらかった 熊本地震の被災者が語る
野村昌二 野村昌二
集団生活でプライバシーなしが最もつらかった 熊本地震の被災者が語る
農テラス代表(益城町在住) 山下弘幸さん(47)/「ドンと下から突き上げられた瞬間、本当にゴジラが現れたと思いました」。益城の町中は、いまだ倒壊した多くの住宅が手つかずのまま(撮影/編集部・野村昌二)  熊本を襲った大地震から約4カ月。被災地にはいまだ震災の爪痕が残る。目に見える被害だけでなく、仕事の不安やメンタル面、家族関係など、どう日常を取り戻したのか。 *  *  *  先が見えないとはこういうことか……。  熊本地震の震源地となった熊本県益城(ましき)町の自宅アパートで被災した山下弘幸さん(47)は、被災してから自宅に戻るまでの2週間を振り返る。  震度7の「前震」が襲った4月14日午後9時26分、自宅アパートで、テレビを見ながら焼酎を飲みくつろいでいた。妻(43)と長女(19)と次女(17)の家族4人、全員1階にいた。地震だとわかると、子どもたちを守るため妻と一緒に娘たちの上に必死に覆いかぶさった。そこにタンスなど家財道具が倒れてきて下敷きになった。何とか全員抜け出したが、娘たちはパニックになり、妻は倒れたタンスで負傷し血だらけに。室内は危険と判断し、スマートフォンの明かりを頼りに外に飛び出し、車で10分ほどの実家に避難した。 ●気分を紛らわしたFB 「その日の深夜12時ごろだったと思います。熊本市上空を何機ものヘリコプターが飛び交いサーチライトで市内を照らす光景を見た時、初めて『被災したんだ』と思い、呆然としました」  益城町の代々の農家に生まれ、2012年に全国でも珍しい農業参入のコンサルティング会社「農テラス」を設立すると、仕事は順調に伸びた。  それが、明日からの暮らしが何も想像できなくなった。さらにそこに16日未明、今度は、実家で寝ているところを震度7の「本震」に襲われる。 「まさか私の住む町にこんな激震が、しかも、2回続けてなんて夢にも思っていませんでした」  車中泊を余儀なくされたが、車の中は、狭く、暑苦しい。風呂やトイレの水がない不便さ……。つらかったことは山ほどあったが、もっとも大変だったのは「プライバシーがないこと」だったかもしれないと話す。 「私にとって日常とは自分のペースを維持できること。震災前は、家族といっても娘も大きくなり、それぞれのペースで過ごしていました。それが一転、24時間一緒。集団生活を強いられ、プライバシーはなく、自分勝手な行動なんて許されない。こんな暮らしがいつまで続くのかと、ストレスでイライラしながら渋滞の道を運転する気持ちで過ごしていました」  時間の経過がとてつもなく長く感じた。助け合うはずの妻とも、四六時中一緒にいることで小さなことに不満が。気分を紛らわすのに役立ったのが、フェイスブック(FB)。「死ぬかと思った」「道がぼこぼこでさあ」……。そんな言葉を投稿しても、「友だち」からは「大丈夫?」といった程度のコメントしか返ってこない。それでも、 「聞いてもらえるだけで癒やされました」 ●不遇嘆くより前向き  仕事には影響が出た。熊本県内のクライアント先も何社か被災し、業務は中止に。だが、仕事の大変さは、妻や娘には言わなかった。来春、次女が東京の私立の大学に進学するが、親の大変さを知れば、娘が進路を迷ったかもしれない。 「震災を理由に、娘に夢をあきらめさせたくありません。これは、どの親も考えるはずです」  自宅は幸い「一部損壊」。震災から2週間ほどで、自宅に戻ることができた。家族4人で食卓を囲んだ瞬間は、感慨深かったという。 「家族で揃って家で食事する時は格別。焼酎も進みます(笑)」  山下さん自身、今回の地震で死んでいてもおかしくなかったと思っている。益城町だけでも約20人が亡くなった。 「生きているだけで幸せです」  自宅の家財道具を一新せざるを得なかったが、「新たな生活を始める良いきっかけづくりになった」と考える。不遇を嘆くより、前向きに生きていこうと決めている。(編集部・野村昌二) ※AERA 2016年9月5日号
地震
AERA 2016/08/30 07:00
築地市場を走りまわる「ターレ」の謎に迫る
築地市場を走りまわる「ターレ」の謎に迫る
築地市場の目利きたち  2016年11月に豊洲への移転を控える築地市場。約80年に及ぶ築地市場の歴史を支えてきた、さまざまな“目利き”たちに話を聞くシリーズ「築地市場の目利きたち」。フリージャーナリストの岩崎有一が、私たちの知らない築地市場の姿を取材する。  築地市場を訪れたことがある人なら、誰もが目にしたであろう「ターレ」。場内・場外を縦横無尽に走る姿は、とても印象的であり、市場を象徴する光景ともいえる。そんなターレを整備・修理し続けて50年以上。築地市場の縁の下の力持ち榊オートに岩崎が話を聞いた。 *  *  *    築地市場に近づくと、場内に入らずとも目に入るものがある。ひょっとすると、築地のなによりも、市場の風景をかたどっているものかもしれない。ハンドルを伴った円筒形の動力部と畳1枚程の荷台がコンパクトにおさまった、通称「ターレ」と呼ばれる運搬車だ。築地市場の場内・場外を、早朝から閉場まで縦横無尽に走りまわる姿は象徴的だ。  店作りの始まる朝の2時ごろから、セリが終わり客入りの始まる6時ごろにかけては、歩いている人よりもターレの台数のほうが多いのではとすら感じられる。セリ落とされた巨大な冷凍マグロや、大人がすっぽり入れるほどのダンベ(バケツ状の容器)、氷とともに魚が梱包(こんぽう)された発泡スチロールの箱(以下、発泡)など、大きく重いものだけでなく、小さな発泡ひとつでも、荷物という荷物はとにかくターレで運ばれていく。  築地市場では、約1600台のターレと、約600台のフォークリフトが稼働していると聞く。築地市場の水産部門でターレとフォークリフトのメンテナンスを行う最大手、株式会社榊オートを訪ねた。  榊オートの創業は1961(昭和36)年。以来、ターレ一筋で営んできた会社だ。榊オート初代社長の榊幸彦さんに、ターレが築地に導入されたいきさつを聞いた。  ターレが導入されるまでは、長くネコと呼ばれる手押し車で荷が運ばれてきた。かつては鮮魚だけでなく合物(干物のこと)の取引量が多く、築地市場には140社ほどの合物専門の仲卸業者があったという。当時の合物のセリ場は、買荷保管所(仲買人や、買い出しに来た鮮魚店や料理店が、積み荷を一時的に保管する場所。ここで積み荷が自動車に積まれる)にほど近い時計台の下にあったため、合物の運搬はそれほどつらい作業ではなかった。しかし、昭和36年に合物のセリ場が勝どき門付近に移動することとなり、うずたかく積んだ重たい合物をいかに早く効率的に運ぶかが、課題となった。  当時の合物協会の会長が、工場などで各種工業部品を運ぶために使われていた運搬車(ターレのこと)の存在を知り、これを築地市場でも使えないものかと思案。その当時、富士重工の代理店を営んでいた榊さんに声がかかり、ターレの導入が始まったという。こうして導入されたターレは、またたく間に場内に広まっていった。  導入初期、ターレには複数の名称があり、富士重工業の「モートラック」と富士自動車の「ターレットトラック」が2大ブランドだった。その後まもなく、円筒形の動力部分(ターレット)の呼称がそのままこの運搬車の呼び名となり、現在ではほとんどの人が「ターレ」と呼んでいる。  その後、朝霞製作所が「ターレットトラック」の販売権と特許などすべてを含む事業譲渡を受けるも倒産。また、ニチユ三菱フォークリフト(以下ニチユ)が「エレトラック」の名称で、関東機械センター(以下関東機械)が「マイテーカー」の名称でそれぞれ自社のターレを導入。現在は、ニチユと関東機械の2社が、築地市場を走るターレのほぼ全てを占めている。  ガソリン車から電動車へと移り変わった歴史もある。およそ20年前に電動ターレが登場し、徐々に電動車への移行が進み、2006年前後にはほとんどのターレが電動車となった。ターレは買い取りではなく、リース契約で使用されている。現在、榊オートが抱えるターレは約780台。そのうち11台がガソリン車だ。  榊オートのターレのリース先は、水産部門のみ。築地市場の青果部門を走るターレは、別の業者が管轄している。なにか縄張りのようなものがあったからなのかと聞いてみると、そういうわけではないと榊さんは首を横に振った。 「私はもともと漁師だったんですよ。だから、水産のほうが、考えが合うんです。漁師はその日その場で結論を出す。農家は熟考する。どっちがいいって話をしているわけではありません。ただ、自分は漁師だったから、やっぱり(水産部門のほうが相性がいい)」  榊さんはまた、毎日魚が食べられることが幸せだとも話していた。機械を取り扱う仕事とはいえ、榊さんにとっては、魚あってのターレなのだ。  榊オートの建屋は、波除神社のすぐ脇に、ひっそりと構えている。各フロアが30平米ほどの2階建で、1階が整備工場、2階が事務所となっている。整備工場の中には、事務机が二つと、さまざまな部品が整理して収められた棚が並ぶ。ターレの整備は建屋周辺の屋外で行われていた。  仕事の開始は朝6時から。整備を担当するのは、工場長の白石さんを含め総勢6名。黙々とそれぞれの作業にいそしんでいるものの、築地市場内の朝に広く感じるピリッとした雰囲気はなく、穏やかな空気を感じた。1日に整備するターレの台数は、20~30台ほど。「サイドブレーキ、よろしいでしょうか(サイドブレーキの不具合を見ていただけますか?)」といった具合に、ターレが持ち込まれ続ける。  朝6時の業務開始から8時ごろにかけては、場内をターレがフル稼働で走りまわっている時間帯のため、忙しいなかあえて車両を持ち込むということは少ない。電装系の故障など、走行できないような重症のトラブル車両の対応と、サイドブレーキ調整のような、その場ですぐに対応できる簡単な処置がなされる。  8時頃になると、大卸(仲卸各店舗などへ魚を卸す業務)各社でのセリと取引がひと通り終わるため、大卸の車両が修理に入り始める。このころはまだ、仲卸で使われている車両は依然稼働中だ。  その後、仕事の終わった仲卸の車両が、午後1時ごろまでにかけて、順次修理に入る。仲卸の業務は店舗により大きく異なるため、修理に入る時間にはばらつきがある。このように、榊オートにおける仕事の1日の流れは、場内における仕事の流れとリンクしている。  整備台帳をのぞくと、「B△」と書かれた行が続く。ほかには、サイドブレーキやハンドル部の不具合など。Bはブレーキを、△は修理を意味する。ブレーキまわりをはじめ、後輪部分の整備が多い。ターレは1輪のみの前輪駆動で、ブレーキは2つある後輪にかかるようになっている。「B△」の整備は、ターレごとフォークリフトで持ち上げて行われていた。  目の高さまでフォークリフトで持ち上げられたターレの裏側を見て、ブレーキをはじめとした後輪まわりの可動部分の整備が大半を占める理由を、私はすぐに理解した。どのターレを見ても、フレームも、ブレーキを動かすアーム部も、後輪のホイールも、さびですっかり茶色く変色している。さびているだけでなく腐食が進み、カキの貝殻のような状態なっているものも少なくなかった。  築地市場では、活魚の入った水槽以外でも、魚を洗ったり床を洗ったりする際などに海水を使う。海水にぬれた路面を日々行き来することで、ターレの底面はあっという間に腐食が進んでしまう。分解し、さびを落とし、絡んだビニールやごみを取り除き、油脂を塗布して再び組み上げるというのが全体の流れなのだが、おそらく一般的な車両整備と比べれば、さびを落とすことに多くの時間を要しているように、私には見えた。  さびを落とすといっても、細かいヤスリがけをしていくだけでは到底追いつかないため、ハンマーでたたいて、腐食部分を落としていく。また、ハンドドリルの先端に剣山が取り付けられたような器具「エアーニードルチゼラー」を使い、金属製の針で表面を強力にたたきながら、さびを落とす手法も取られていた。しばらく見ていると、それが当たり前の光景に見えてくるが、先のとがった剣山で、自分のバイクのフレームやホイールを直接削るように磨くことはありえない。築地ならではの、なかなか猛烈な整備だ。  ターレ1台の整備を終えると、周囲は落とされたさびの山。ほうきで掃き寄せられたさびは、ちりとり一杯には収まらないほどだ。榊オートにおける整備は、さびとの戦いだった。  さびをたたき落としている傍らで、ニチユからターレの新車が納品された。さびたフレームしか見ていなかった私は、本来のフレームは灰色だということを知った。そばで整備をしていた須藤さんに「やっぱり新車はいいですね」と私が話しかけると、「こうなる(さびて腐食が進む)まで、あっという間ですよ」との返事がかえってきた。 「(ターレの寿命は)4、5年なんです。モーター部分が壊れることはまずありません。フレームがさびて駄目になる(折れる、または著しく強度不足となる)か、バッテリーが駄目になる(十分に充電されない、力が出ない)か、どっちかですね。」  さびることが寿命の2大要因のひとつとなっていることに驚く。一方、バッテリーならば交換すればいいのではないかと思ったが、それは現実的な選択肢ではないと、須藤さんは話してくれた。  バッテリーを交換して延命させると、車両のさびが原因で車両が寿命を迎えた際に、バッテリーだけが生き残ることが起こりうる。バッテリーの価格は、ターレの車両価格の3分の1をも占める高価なもの。さびとの戦いとなる車両寿命とのバランスを考えれば、バッテリー交換は、決して最善の策とはならないのだ。  一方、バッテリーの寿命は車両の使用頻度によって異なる。1日の使用頻度が高いために劣化が著しく、現状のままでは日々の使用に耐えられそうもない場合だけは、新品バッテリーを投入することもあるという。  フレームのさびが先か、バッテリーの消耗が先か。築地のターレの寿命と、一般道を走る一般車両の寿命とは大きく異なることを知った。  ターレ本体の整備に加え、榊オートのもうひとつの大切な整備事項に、バッテリーへの補水がある。ターレで使用されているバッテリーは、一般車両に使われているものと異なり、定期的なメンテナンスを要する。使用のされ方によってさまざまに異なるバッテリー液の減り具合をチェックし、必要に応じてバッテリー液を補水しなければならない。  1台あたり8個のバッテリーを搭載したターレが、約780台。1台のターレに搭載されるバッテリーは8個あるため、榊オートで管理するバッテリーの数は約6240個にのぼる計算となる。 バッテリー管理を主に担っている宮口さんを、榊オートで見かけることは少ない。常に築地場内を巡回しているからだ。バッテリー液の入ったポリタンクと工具を乗せた宮口さんのターレに、私は同乗させてもらった。  バッテリーのメンテナンスは、築地に点在しているターレを見つけ出しながら回るわけではなく、充電中のターレを計画的に巡回していく。大卸の作業場には、会社ごとに充電する場所が指定されており、大卸以外のターレは、共同充電スペースが場内に数箇所設けられている。しかし、これら共同充電スペースだけでは、1600台ものターレの充電は到底まかないきれない。私はかねて、これだけの台数のターレが、いったいどこで充電されているのか不思議に思っていた。宮口さんが、ターレの1日の動きを教えてくれた。  築地市場場内で仕事を終えたターレは、「正門2階」と「新立駐」の2箇所いずれかに戻ってくる。「正門2階」とは築地市場正門にある立体駐車場2階を指し、「新立駐」とは勝どき門立体駐車場地下1階を指す。いずれの場所にもターレの充電設備があり、夜間から未明にかけて、ターレを駐車しながら充電できる仕組みだ。宮口さんは、この2箇所で休んでいるターレを回りながら、バッテリーの整備をしている。  正門2階も新立駐も、その光景は圧巻だ。延々と、果てしなく、どこまでも同色同型のターレが並ぶ。 「これだけのターレの充電管理を担当しているのは、駐車場の警備員さんなんですよ。あの人たち、すごいんです」と宮口さん。   全台を同時に充電することはできないため、充電が終わったターレから、向きを逆にしていく。正門2階では後部が手前に向けられているターレが、新立駐ではその逆の向きのターレが、充電済みのものだ。  警備員は、充電管理だけでなく、ターレの配置にも気を配っている。この使用者のターレはこのあたりにと、それぞれの使用者が出しやすい位置に、最終的にターレが配置されるよう、並び順まで考慮しながら管理されているのだと話してくれた。  ターレにも鍵は付いているが、メーカーと車種で共通のものだ。榊オートや警備会社は、メーカーと車種ごとの共通キーを持っている。よって、ターレの所有者がキーを預ける必要はない。翌朝(または翌未明)には、充電を終えてそれぞれの定位置に配置されたターレに再び使用者が乗車し、そこから場内の各方面へと出動していくのだった。  充電管理を担う警備員さんも確かにすごいが、6000個を超えるバッテリー管理を担う宮口さんたちもすごい。静まった築地で、眠るターレを管理する人々は、まさに縁の下の力もちだと思った。  市場の豊洲移転後、榊オートは、築地のターレは、どうなるのだろう。 「わずかに残っているガソリン車は、豊洲には引っ越さないことになっています。豊洲のターレは電動のみ、との取り決めになっているためです。他のことは、まだ何も決まっていません」  工場長の白石さんは、そう話していた。さびとの格闘についてたずねても、白石さんの受け答えは淡々としている。 「水産の市場である限り、魚を運び、塩水を浴びるっていうことには変わりません。豊洲に移ったからといって、私たちの仕事が劇的に変わることはないだろうと思っています」  しかし同時に、まだ何も決まっていないとはいえ、白石さんの頭の中では綿密なシミュレーションが始まっている。白石さんに初めてお会いして話をうかがった際に、白石さんは豊洲の新市場を訪ね、ターレの動線を調べ、豊洲でターレがどのように使われるのか、具体的な使用状況の想定を重ねていることを、私は知った。 「築地では(平地のため)平面での動線がほとんどですが、豊洲(新市場)では(大卸・仲卸ともに複数階の階層構造をもつ建屋のため)、立体の動線が必ず入ります。(階上階下への移動と)広い敷地、ましてや動線そのものがいまだ確立していない新市場においては、ターレの走行距離は(築地市場での使用よりも)伸びると考えられます。すなわち、バッテリーへの負荷が増すことが想定されるのです。築地において6年超えのターレでも使うことのできたユーザー層にとっては、(新市場になるとターレの寿命が縮まることが想定されるため、ターレにかかる費用負担が)かなり厳しくなるのではないかと考えています」  ターレの動線にまで熟考を重ねていることに感服したことを私が話すと、白石さんはこうこたえてくれた。 「私たちはターレを扱っているんだから、ターレを使っている仲間がどんなふうに仕事をするのかを理解しておくことは、それは当然のことです」  白石さんは、ひと呼吸おいて、話を続けた。 「築地の人間っていうのは、もうそれだけでみな仲間なんですよ。どこかで誰かが困っていたら、仲間が困っていたら、すぐに飛んでいって助けてやるのが、築地の人間なんですよ。職種が違っても、名前を知らなくても、仲間ですから」  穏やかで柔和な白石さんの表情の奥に、私は、築地市場の人々に共通する、力強い人情味を感じた。  無音でも力強く動く築地のターレは、寡黙で力強い人々によって、支えられていた。榊オートでは今日も、淡々と穏やかに、ターレの整備が続く。 岩崎有一(いわさき・ゆういち) 1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。アサヒカメラ.netにて「アフリカン・メドレー」を連載中
企業築地市場築地市場の目利きたち
dot. 2016/08/25 07:00
"リアリズムの名手"が贈る、認知症の父と過ごした10年間
"リアリズムの名手"が贈る、認知症の父と過ごした10年間
 リアリティ溢れる描写力には定評があり、「リアリズムの名手」との呼び声も高い作家・盛田隆二さん。そんな盛田さんが、26年の作家人生において初めて世に送り出したノンフィクションが、『父よ、ロング・グッドバイ 男の介護日誌』(双葉社刊)。タイトルの"ロング・グッドバイ(長いお別れ)"とは、アルツハイマー型認知症を意味する言葉で、症状の進行とともに少しずつ記憶が薄れ、周囲の前からゆっくりと遠ざかっていく様子をさしています。認知症の父と過ごした、10年におよぶ"長いお別れ"の日々を描いた本書は、もはや誰しも他人事ではない、親の介護問題に直面した当事者の悩みをリアルに描き、今年4月に上梓されるや否や、各界で話題となりました。そこで今回は、著者の盛田さんに、介護体験および、渾身のノンフィクションへの思いをお聞きしました。  * * * ――まず、ご自身の介護体験を書こうと思われたきっかけについて教えて下さい。実は、父の介護については、『二人静』(光文社刊)という作品で、小説の形で一度書いているんですよ。お互いに過酷な境遇にある同い年の男女――認知症の父を介護中の男性主人公と、夫のDVで離婚後、場面緘黙(ばめんかんもく)症の娘を女手一つで育てている介護士の乾あかり――が出会い、恋に落ちるというフィクションなのですが、連載執筆当時、私生活では父の介護をしていたので、主人公の介護体験については、ほぼ実話。本書にも登場する介護士・乾あかりは、父をずっと担当してくれた介護職員の方がモデルです。とはいえ、『二人静』はあくまでも恋愛小説の形を取っていたので、書けなかったこともたくさんありました。ある編集者から「『二人静』のようなフィクションではなく、盛田さんの介護体験をストレートにノンフィクションで書いたものを読みたいです」と言われたのが、初めてノンフィクションに挑戦したきっかけなんです。――本書の帯には、作家・重松清さんが"読み進めるのがつらいのに、本を閉じられない。我が身を斬りながら「家族の晩年」を真っ向から描いた作家の覚悟に、圧倒された"と寄せている通り、非常にリアルな筆致で、ぐいぐい引きつけられました。重松さんは作家になる前の編集者時代、僕のデビュー作『ストリート・チルドレン』の担当編集だったんです。本書の推薦文をお願いした時は、重松さんのお父様が危篤状態で、病室のベッドの傍らで、我が身に重ねながら、本書のゲラを読んでくれたそうなんです。寄せて下さった推薦文はもちろんですが、そんな状況の中で、僕の作品を読んでくれたという事実がとてもありがたかったですし、なによりも胸に迫るものがありました。――それにしても、ここまで直接的に、家族の事情を書くのは、相当の勇気がいったのではないですか?実は依頼を受けた時は、一度はお断りしたんですよ。認知症の父はもちろんですが、母もパーキンソン病という難病で亡くなっています。さらに父と同居していた妹は統合失調症を患っていた。この精神疾患に対しては、いまだに社会的な偏見も持つ人も多い。それに父母は亡くなっていますが、妹はこれからも生きていかなければいけないわけですから、どこまで書いていいものか、本当に悩みました。正直、自分の家族の事情を、世間に晒すことに不安がなかったといえば嘘になります。――それでも書かれたのはどういうお気持ちからですか?今まさに、両親や配偶者、家族の介護に直面している方にとって、僕の介護体験が少しでも役に立てたら、と思ったからです。もうひとつ、書き手としての挑戦、自分の家族と自分自身のことを、どこまで偽りなく、正確に描き出せるかという気持ちもありました。今回、初めてノンフィクションを書いたのですが、自分の体験を核にして描く小説を執筆するのとは違う充実感を得られました。――時に冷徹に、時にユーモラスに描写されるお父様の姿は非常にリアルで、真に迫って来るものがありました。大正生まれの父は、自分でお茶一つ入れたこともないような、亭主関白な人でした。それに「銀流し」と呼ばれるような、ダンディーでオシャレな人だったんですよ。だけど、その父が、母が亡くなったショックで、生きる意欲を失ってしまう。頑固でプライドも高かった人なのに、介護施設に入所した日は、まるで赤ちゃん返りしたかのように、顔をクシャクシャにして泣き出してしまったんです。厳格だった父が、まるで子供のようになってしまった姿を目にして......さびしいなって気持ちもありました。さらに認知症の人は、往々にして一番身近な人に対して攻撃的になったり、被害妄想を抱いたりしてしまうことがよくあるのですが、父も息子の僕に「お金を盗まれた」と言い出したことがあって、そのときはショックでしたね。――著書の中では、盛田さんが仕事と介護の板挟みになってしまう苦悩がまざまざと描かれています。あの頃、作家として脂が乗って来た時期に、介護で連載を中断したのは、痛手でした。執筆に当てたい時間を、介護に割かざるを得ない忸怩たる思いもありましたし、僕自身も、介護疲れから鬱病を発症し、一時期何も書けなくなった。あの時、「このまま書けなくなったら、作家を引退するしかないか」とまで追い詰められていました。――まさに共倒れになりかねない状態だったわけですね。ちょうどその頃、妻が重度の腰痛になって、寝たきりになるかもしれないと言われたんです。父の介護と、妹の病気、それに追い打ちをかけるように妻も...まさに八方ふさがりな状態。だけど、そこで、妻のために食事を作って、1週間の献立を考えてスーパーに行ったり、家事をしたりしていたら、少しずつ楽しくなった。だんだん眠れるようになって、鬱病の症状も改善し始めたんです。不思議なことに、とりあえず自分のことは後回しにして、人のために時間を使うようにしたら、立ち直れたんですね。本書の中でも日野原重明医師の「自分の時間を人のために使うことが、命を大切にすること」という言葉を書きましたが、まさにその言葉通りの結果になった。最初にその言葉を知った時は、日野原医師の言っている意味、意図がよくわからなかったのですが、50歳を過ぎて父の介護をはじめあらゆる体験をしたら、スッと納得できたんですよね。――介護を終えた今、思うことはありますか?これは今振り返って思うことですが、介護をする中で「父のプライドを傷つけてしまった」という後悔があるんです。父が望んでいない事を、僕の都合で、先回りしてやってしまったり......たとえば、父が汚れた下着をなかなか着替えようとしないのを、無理やり着替えさせたりなんかして。きっと、父は「自分が弱っている姿を息子に見せられない」って思っていたんでしょう。自分が老いて糞尿を垂れ流した姿を、一人息子である僕に見せたくなかったんじゃないかな。父なりにプライドがあっただろうに、僕が「世話をしてあげている」という少し傲慢な気持ちもあって、そのプライドを打ち砕いてしまった。だけど、これは今だから気付けたことで、あの時はああするしかなかったでしょうね。こういうことをノンフィクションとして書いたことで、もう一回心の中で整理できた面もあります。 <プロフィール>盛田隆二(もりた・りゅうじ)1954年生まれ。情報誌「ぴあ」編集者の傍ら小説を執筆し、90年に『ストリート・チルドレン』でデビュー。04年刊行の『夜の果てまで』(角川文庫)は30万部のベストセラー。父の介護体験を基にした小説『二人静』(光文社刊)、『きみがつらいのは、まだあきらめていないから』(角川文庫)など著作多数。新著に、初の犯罪ミステリー『蜜と唾』(光文社刊)があるほか、『小説NON』(祥伝社刊)にて、母をモデルに描く『焼け跡のハイヒール』を好評連載中。※本日、8月24日20時より、NHK-Eテレで放映の「ハートネットTV」【盛田隆二「父との長いお別れ」―認知症の親とともに】には、盛田さんも出演されます。http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2016-08/24.html
BOOKSTAND 2016/08/24 07:00
[連載]アサヒカメラの90年 第9回
[連載]アサヒカメラの90年 第9回
1961年6月号表紙。撮影は高梨豊。構成を担当した浜田浜雄は映画のズーミングのイメージを写真に持ち込もうとした 1959年9月号「ニューフェース診断室」ニコンF キヤノンの広告には「平均年令27才」のコピーが 1960年8月号 長野重一「話題のフォト・ルポ 警視庁機動隊」 1960年1月号 東松照明「基地 HARLEM(黒人街)」 1961年1月号 濱谷浩「日本列島 火山地帯(桜島・霧島)」 1961年5月号 「現代の感情 石黒健治〈ジムの若者〉」 1960年11月号 若い写真家の発言・1 東松照明「僕は名取氏に反論する」 1962年10月号 奈良原一高「モード写真の周辺10 プリントのドレス」 写真産業の青春期  1962(昭和37)年6月号に、木村伊兵衛の「57台のカメラで銀座夜景を撮影する」というリポートが掲載された。 「銀座夜景」といっても、ロマンチックな思い出を語ったわけではなく、57年8月号から担当してきた「ニューフェース診断室」で取り上げたカメラやレンズについて振り返っ たものだ。 「銀座夜景」とは、銀座4丁目の三越百貨店前から晴海通りに沿い、日比谷方面を狙って夜間にテスト撮影を行うからだ。見通しがよく、通り沿いの建物が立体チャートの代わりになるし、夜であれば季節ごとの天候や光線状態に左右されない。  この欄を担当してからの5年間の変化はまことに激しい、と木村は言う。まず晴海通りを走る自動車の量や、ネオンサインの数が飛躍的に増えた。しかし、こうした風景の変化よりも重要なのは、カメラの主流が変わったことで、「五年の間に距離連動カメラから一眼レフになり、大衆用カメラに露出計が内蔵され、近ごろではEE式になってきた」のだ。  日本のカメラメーカーが一眼レフの可能性を模索し始めたのは、50年代半ばから。それは54年に発売された、初めてクイックリターンミラーを採用したアサヒフレックスⅡ(旭光学工業)や、翌年のペンタプリズムを付けたミランダT(オリオンカメラ、後のミランダカメラ)から始まった。開発への努力は54年にレンジファインダー機の完成形、ライカM3が発表されると拍車がかかり、5年後にはニコンFとキヤノンフレックスという高級機が発売されるに至った。  このうちニコンFは、一眼レフの代名詞的となる世界的なヒット機種に育ったことはよく知られている。ただし59年9月号の「ニューフェース診断室」では、工作精度は高いが、内面反射が多くミラーショックも大きく、デザインにも難点があると指摘している。  興味深いのは、これを読んだニコンの若手技術者が編集部に乗り込んできたことだ。木村は彼らの行為に驚きつつも、「疑問をはらすための熱心さかと思えば、却って好感が持てた」と振り返っている。また、この話とは直接関係はないが、61年5月号に掲載されているキヤノンの広告には「平均年令27才」というコピーが入っている。これは前年のフォトキナで発表した50mmF0.95のレンズを開発した技術者たちの年齢だとある。  いずれのメーカーも若い情熱によって、戦前から追いかけてきたドイツ製カメラの量と質とを猛追していた。そして工作精度の向上、自動演算装置を使った合理的な設計、徹底したコストダウンと品質管理によって輸出は急増し、その目標は手の届くところまできていたのだ。木村はこうした努力を重ねるカメラメーカーの努力を認めながらも、機材の個性、ことにレンズの味を出すように求める。「もっと各社が個性をもつべきだ。解像力だけにきゅうきゅうとなってはいけない」と、呼びかけたのである。 「第三の新人」  本誌の編集長は、60年7号に伴俊彦から小安正直に代わっている。  休刊期を除き、36(昭和11)年から本誌の編集に関わってきたこの大ベテランは、12月号の巻頭に今年の10大ニュースを挙げた。それは土門拳の『筑豊のこどもたち』(パトリア書店)の出版、第1回日本カメラショーの開催、安保反対デモへの写真家たちの参加と濱谷浩の『怒りと悲しみの記録』(河出書房新社)など関連写真集の出版、日本写真家協会による共同制作展「ここにあなたは住んでいる」の開催などである。  加えて、小安は「とくに目立ち、問題を将来に残している二つの傾向」を紹介した。それは「若い写真家たちによる“新しい写真表現”の試み」と「高級カメラの大衆化」で、後者は前節で触れたことと関連する。  また前者はテーマをより主観的に解釈して、写真家個人と世界との関係を一種のイメージとして描き出す写真家を指す。ただ、彼らが悩ましいのは、「今年のカメラ雑誌のほとんどを圧倒したといってよいほど、立派な問題作を残した。それと同時に、抽象化された画面、非常に強調された色調、そして特異な写真処理といった特徴は、アマチュアたちの間に“自分たちはついていけない”の嘆きさえ生みだし」ていたからである。  そんな写真家たちの先頭にいたのが奈良原一高だった。56年5月に2部構成の初個展「人間の土地」を開催した当時、奈良原は写真界とは縁がない、美術史を専攻する25歳の大学院生だった。つまり突然現れた新人が、こと同世代に痛烈な刺激を与えたのである。  たとえば奈良原より3歳年長の写真評論家福島辰夫は、展示から数カ月を経てもその記憶が薄れなかった。なぜなら、「あんなに時代のいぶきを全身に受けて、いきづいている写真を見たことがなかったからである。自分の世代と人生を誠実に生きている写真を見たことがなかったからである」(「カメラ」57年2月号「これからの写真家・2 青白い火花 奈良原一高」)。  この展示に刺激を受けた福島は、翌57年、同じ時代感覚を共有する若い写真家による「10人の眼」展を企画、奈良原をはじめ細江英公、石元泰博、川田喜久治、川原舜、佐藤明、丹野章、東松照明、常盤とよ子、中村正也がこれに参加した。彼らは年長の、三木淳ら集団フォトの世代とは区別されて、写真界の「第三の新人」あるいは「映像派」などと呼ばれた。  そのなかでも奈良原は一頭地抜けていた。ことに58年9月に、北海道のトラピスト修道院と和歌山の女子刑務所を撮影した、やはり2部構成の写真展「王国」によって日本写真批評家協会賞新人賞を受賞すると、世代を超えた評価を確立した。  福島と同じく、写真評論家の伊藤知巳もまた奈良原を強く支持し、「フォトアート」誌59年9月号の「今月の話題・問題」では「奈良原の存在意義は、一般に考えられている以上に重要な意味合いをもつ」と位置づけている。それは「第三の新人群と総称しても、方法意識の強烈さでは、かれの右に出るものはないと思われた」からで、常に自己の孤独な内面を見つめる奈良原は、思想を持った写真家と呼びうる希少な存在とした。伊藤は写真界の発展には、このような写真家のさらなる出現が必要だと訴えた。  伊藤がこの原稿を書いていた7月、その奈良原を含め、東松、細江、丹野、佐藤、川田はセルフエージェンシーであるVIVOを結成した。新しい写真家たちそれぞれの、経済的自立と創作の場の確保を目的とした有限会社であった。 1960年の戸惑い  60年は新年号から「“新しい写真表現”の試み」といえる3本の連載が始まっている。北海道の歴史性を重層的に浮かび上がらせた奈良原のカラー作品「カオスの地」、時事問題をテーマにした長野重一の「話題のフォト・ルポ」、そして在日米軍基地の周辺を撮影した東松照明の「基地」である。  このなかで長野は、奈良原や東松より5歳ほど年長で、集団フォト世代に入る。ただ、その「フォト・エッセイスト」と称された作法は、「第三の新人」たちの表現性と近い。日常生活から社会的なテーマを見つけ、正論やコンセンサスをひっくり返して、個人的な視点と生理的な感覚によって撮影していた。  そんな長野だが、この連載では様子が違っていた。日常生活ではなく、日米安保条約改定前後の政治状況をテーマに据えることが多く、「ある学生たち」(2月号)、「警視庁機動隊 国会流血事件前後」(8月号)、「政治屋たち」(9月号)、「選挙区の名士たち 池田首相のお国入り」(11月号)と全体の3分の1を占めたのである。そこには戦時下に大学時代を過ごし、多くの同輩を戦場で失った世代としての怒りがストレートに表明されている。  また翌年7月号では「空と海との間に ある鉱山企業の歴史」を15ページにわたって発表している。愛媛県にある別子銅山の現在から、財閥を基礎にし、日本の資本主義の発展過程を象徴的に表現しようとした意欲作だった。  東松の「基地」は、戦後の社会状況を米軍基地の街を通して描出したもので、長野の「話題のフォト・ルポ」に比べてかなり詩的である。後にこれが「占領」シリーズと呼ばれるのは、いずれの冒頭にも「とつぜん 与えられた 奇妙な果実 それをぼくは<占領>と呼ぶ」というコピーが挿入されたからである。  占領は以降も東松にとって重要なテーマであり続けるのだが、このときは「HARLEM(黒人街)」(横須賀)、「視線」(千歳)、「周辺の子供たち」(三沢)の3回で終わった。一部の強い支持を集めたものの、多くの読者と編集者には戸惑いを与えたようだった。  その戸惑いを解きほぐすべく、評論家の渡辺勉は9月号に「新しい写真表現の傾向」を寄稿した。渡辺は、新しい写真家たちは写真という表現ジャンルが確立した後に育った世代だから、「写真の視覚的表現力を自由に探究」できるという。そんな彼らは、事実を伝達するために映像的レトリックの効果を用いるのではなく、方法論そのものに自己のイメージを託す。このような傾向は「これから普遍的となりつつある」のだと渡辺は説いた。  だがこの理解に対し、翌10月号で名取洋之助が「新しい写真の誕生」で異議を唱えた。名取は、「新しい写真」とは組写真におけるイメージの連なりのなかでこそ現れる傾向だとし、それを論証するために同じ「岩波写真文庫」出身の長野と東松を例に挙げる。 小さな論争  長野と東松、この二人は報道写真から出発したものの数年前から違う道を選んだ、と名取は言う。長野の場合、映像的なレトリックを駆使してもそれは「ストーリーを理解しやすくするための手段に過ぎず」、本来の報道写真家の舞台ではない写真雑誌でひとつの「芸当を見せただけ」のことである。  一方、東松は組写真からストーリーを消し、イメージのみを残す道を選んだ。それは報道写真家にとって必要な「特定の事実尊重を捨て」て「時とか場所に制限されない方向に進む」ことである。つまり、彼は「報道写真とは、時間、場所にとらわれないことによって絶縁してしまったのだ」。  さらに11月号では東松が「僕は名取氏に反論する」を、奈良原が「ある未知への発端」を発表してこれに反論した。ここで東松は、自分はそもそも名取のいう報道写真家ではなく、「いわゆる報道写真を拒否したまでだ」と述べる。なぜなら「写真の動脈硬化を防ぐためには『報道写真』にまつわる悪霊を払いのけて、その言葉が持つ既成の概念を破壊すること」が必要だからだ。この「悪霊」とは、名取らが主導して軍国プロパガンダに陥った、戦前の報道写真の歴史に対する端的な形容である。また奈良原は、自身が写真に関わる理由は、個人的な生理感覚によるものだとした。  以上のやり取りは「名取・東松論争」と呼ばれ、誌面に小さな波を立てた。  その余談ではあるが、論争の発端となった名取の「新しい写真の誕生」は、当時から名取ではなく、そのマネジャーの犬伏英之が書いたものと推測されている。それは東松自身も感づいていたようだ。ただ、さらに後になって、「岩波写真文庫」時代から常に名取が自分に仕事を回していたことを知り、「そういうことを分かっていればあんな論争できないですよ」(『写真年鑑2008』日本カメラ社)と振り返っている。  さて、翌61年にはかつて朝日新聞出版局写真部のカメラマンが担当していた「現代の感情」が、新しい写真家を紹介するためのページとして復活している。そのラインアップは川田喜久治、川島浩、今井寿恵、中村正也、石黒健治、藤川清という、すでに知られた才能だった。これが62年には「新人」と改題され、キャリアの少ない若手にとって登竜門的な役割を果たすようになる。  むろん本誌は、新しい写真家ばかりを取り上げていたわけではない。61年には濱谷浩が「日本列島」を連載し、その迫力に満ちた空撮は読者の大きな反響を呼んでいる。これは国民的な盛り上がりを見せた安保闘争をすぐに忘れた日本人の国民性に疑問を感じた濱谷が、その心性がどんな地形や風土から育ったのかを見つめようとしたシリーズだった。  日本人が戦後の高度経済成長を実感しているこの頃、日本人の民族性をテーマに据えた作品は少なくない。その筆頭は間違いなく土門拳で、彼は59年に1年間、「カメラ毎日」で「古寺巡礼」の連載を手がけ、それと並行して本誌でも全国の祭礼をめぐる「日本風土記」を、62年には歴史的な建築や遺物を凝視した「偏執狂的な風景」を連載した。さらに、この間の60年には『筑豊のこどもたち』とその続編を出版したが、同年、脳出血で入院を余儀なくされ身体的なハンディを負った。  こうして写真雑誌の主役が交代しながら、誌面を飾る写真表現の範囲も拡大していった。高度経済成長とともに広告やファッション、あるいは自然をテーマにした写真が誌面に華やぎをもたらすのである。
アサヒカメラの90年
dot. 2016/08/22 00:00
第58回 エモーショナル・エレクトロの旗手、fu_mouインタビュー その1「“アプガミュージックフェスティバル”の舞台裏で、アルバム制作の話が決まりました」
第58回 エモーショナル・エレクトロの旗手、fu_mouインタビュー その1「“アプガミュージックフェスティバル”の舞台裏で、アルバム制作の話が決まりました」
サウンド・クリエイター、fu_mouさん 『with open』fu_mou  前回は李香蘭、二葉あき子など戦前戦中のガール・ポップにまでさかのぼったが、今回からは新コーナーに突入、再び時計の針を2016年に戻す。現代屈指のサウンド・クリエイター、fu_mou(フモウ)さんへのインタビューだ。  Google ChromeのCMで一躍話題となったlivetune《Tell Your World》のリミックス、劇場版『とある魔術の禁書目録-エンデュミオンの奇蹟-』の劇中歌や 『蒼き鋼のアルペジオ』ED曲や『プリパラ』主題歌などを担当。平野綾、アップアップガールズ(仮)、私立恵比寿中学などにも楽曲を提供するいっぽう、ライヴをはじめとするソロ活動も精力的に展開し、自身の代表曲《Green Night Parade》はイギリス国営放送《BBC Radio 1》でもオンエアされた。  そのfu_mouさんが8月3日、待望のCDアルバム『with open』をリリースした。正直申し上げて、ぼくはエレクトロに精通しているとは言えない。というか自分が音楽に親しみ始めた頃には、エレクトロというものはなかった。しかしキャラクターの立ったメロディ、歌詞はカテゴリーを飛び越えて、我が心に飛び込んできた。これはぜひ話をうかがいたいと思い、都内某所に足を運んだのだが、なんと途中でスペシャル・ゲスト(特に名を秘す)も登場、ますますエモーショナルな取材となった。楽しくお読みいただければ幸いだ。 ―― アルバム『with open』制作のいきさつについて教えていただけますか? fu_mou 去年、名古屋でアップアップガールズ(仮)がカウントダウン・イベントをしました。そこに僕も出演したんですが、出番が終わった時に、アプガのマネージャーの山田さんから唐突に「fu_mouさん、CD出さないんですか?」と言われて。「出したいんですけどね」、「じゃ、出しましょうよ」っていう話になって、その場にはタワーレコードのアプガ担当の吉野さんもいて、すぐ話が決まって。もともと自分名義のCDを出したいという気持ちはあったんですよ。  最初に(自分名義の)リリースをしたのは2011年です(『Green Night Parade EP』)。その時は、ALTEMA Recordsという北海道のネットレーベルでした。そこにはPandaBoYさんのリミックスも入っていて、それがきっかけで山田さんにも声をかけていただけるようになって今に至るという感じですね。 ―― CDとしては初めてのアルバムです。リリースを楽しみにしていた方も多いと思います。 fu_mou ずっと(自分の作品を)出していなかったんです。事務所に入ってからは、作家仕事の方で手一杯になってしまって。自分のライヴはちょくちょくやらせてもらっていて、そこに向けて曲を書き溜めてはいたので、それをどこかで出したいなと思っていたところに、山田さんからオファーをいただきました。 ―― あの「アップアップガールズ(仮) UMF~アプガミュージックフェスティバル~」(名古屋ダイアモンドホール、元日の午前2時開始。アプガはその前の大みそかに同会場で約2時間のライヴ2本を行ない、UMFにはK-POPのダンスカヴァーユニット“UFZS”としても登場)は“真夜中の狂乱”という感じでした。michitomoさんが《まつり》や《サライ》でフロアをブチあげていたときに、舞台裏ではそういうクリエイティヴな話が進んでいたんですね。 fu_mou でも、当日の僕のコンディションは最悪だったんですよ。元々ちょっと風邪気味だったんですけど、名古屋に着くなりグロッキーになってしまって。泊りじゃなくて(ライヴ終了後に)そのまま帰るスケジュールだったんですが、ホテルを自分でとって、そこで夜公演が始まるまで休んで、舞台裏で本番まで休んで、ギリギリまで体力温存して本番に臨むっていう……。 ―― ゼロ泊なのにホテルをとって。 fu_mou ゼロ泊だった。出演者もコンサートスタッフも皆、始発の次ぐらいで帰りました。帰りは泥のように寝ましたよ。すさまじいカウントダウンでした。 ―― 『with open』の選曲や曲順はどのようになさいましたか?  fu_mou 今回のアルバムのために書き溜めたというより、作ってきた曲を集めたという感じですね。いちばん古いのは2011年の《Abyssal Drop》、いちばん新しいのは去年の終わりくらいに作った《I wanna see》ですね。その時々で思い思いで作った曲を集めたんですが、今回曲順を並べてみたら、奇跡的にいい流れができました。全部、すでにライヴではパフォーマンス済みの曲です。ライヴのために作っていったラフ音源を、今回ちゃんと仕上げたという感じですね。《Abyssal Drop》に関しては、一度別のところでCD化しているんです。秋葉原MOGRAという僕が一番お世話になっているクラブがあって、そこの公式ミックスCDを2012年に出したんです(『MOGRA MIX VOL.1 mixed by DJ WILDPARTY』)。その時に、エクスクルーシヴ・トラックとして《Abyssal Drop》が入って、iTunesでも配信されました。でも今回のヴァージョンはその時とだいぶ変えていますね。アレンジもテンポも違います。 ―― 《Abyssal Drop》の“Abyssal”という単語を辞書で引くと“深海”“計り知れない”“底知れぬほど深い”などと説明されています。すごく想像力をかきたてるタイトルですが、どのようにして構想されたのですか? fu_mou 2011年3月の震災の直後に作りました。その少し前から東北在住のDJの方たちが北関東でやっているイベントに呼んでもらえるようになって、その時(震災の頃)の、「向こうの人に連絡取れないし、こちらからも行けない」という、やるせない気持ちと、当時 所属していた別の事務所での「箸にも棒にもひっかからないという感じ、くすぶっていた思い」がごちゃまぜになって出てきたという感じです。 ―― それをあえて、最新アルバム『with open』のリード曲としてオープニングに持ってきたのは? fu_mou 《Green Night Parade》以降、まとまったリリースをする時が来たら、《Abyssal Drop》をリード・トラックに選びたいとずっと思っていたんです。 ―― 『with open』のジャケットと、《Abyssal Drop》のミュージックビデオ(MV)にはアップアップガールズ(仮)の佐保明梨さんが登場しています。正直言って驚きました。 fu_mou MVを作る話は、ジャケットの打ち合わせをしていた時に出たんです。確か6月のどこかだったと思いますが、佐保さんの隠れ美人的なところを出して行こうという案が出て、アートディレクターの近藤幸二郎さんも入って話しあって。 ―― 運動神経抜群でユニークなツイッターを書く“陽”のイメージのある佐保さんが、ものすごく陰影に富んだ表情をしていて、引き込まれました。これで彼女のファンはさらに激増すると思います。でも、fu_mouさんの姿は画面で確認できなかったんですが。 fu_mou 画面には出ていないです。このMV、最初の段階ではフル・ヴァージョンでという話だったんですけど、《Abyssal Drop》は5分くらいかかる長い曲なので、それならティザー動画みたいにしようということで、現在公開されている形になりました。 (ここで突如、取材部屋のドアが開く) スペシャル・ゲスト こんにちはー、お疲れさまです。 fu_mou あー、佐保さん! お久しぶりです。 スペシャル・ゲスト こちらこそお久しぶりです。レコーディングが終わって、ここに来ました。 <次回に続く> [次回9/5(月)更新予定] ■『with open』リリース記念 スペシャルコラボレーションライブ fu_mou × アップアップガールズ(仮) 出演:fu_mou、アップアップガールズ(仮) 日程:2016年8月15日(月)開場18:30 / 開演19:00 会場:初台 The DOORS チケット料金:全自由 3,000円(税込) ※入場時にドリンク代として別途600円必要
2016/08/10 00:00
「忍者」は現代のビジネスパーソンの教科書だ
「忍者」は現代のビジネスパーソンの教科書だ
忍者の真の姿を解き明かす企画展「The NINJA─忍者ってナンジャ!?」の会場。10月10日まで/東京・お台場の日本科学未来館(撮影/伊ケ崎忍) 「最後まで戦わない」「生きて生きて生き抜け」……忍者に求められた心得は決して、戦って勝ち抜くことではない(撮影/伊ケ崎忍) 忍者の武器と言えば手裏剣。ただ実際は、投げる武器としては小石を使ったり、農具の鎌を改造するなど目立たず持ち歩ける「隠し武器」を活用したりすることが多かったという(撮影/伊ケ崎忍) 外国人の家族連れもめだつThe NINJAの会場。センサーを使った忍び足の修行体験など、親子で楽しめる仕掛けが満載だ(撮影/伊ケ崎忍) 会場には「忍たま乱太郎」の作者、尼子騒兵衛氏が集めた忍び道具のコレクションも展示。10月25日からは三重県総合博物館へも巡回する(撮影/伊ケ崎忍)  超人的でカッコよく、クールジャパンの代表的存在──。そんなイメージ先行の「忍者」の真の姿が、最新の研究で判明しつつある。その生きる知恵をひもとくと……。  暗闇の中を素早く動く黒い影。高くそびえる城に着くやいなや、石垣に鉤縄を打ち込み、難なく乗り越えて城内へ侵入する──忍者のイメージといえば、こんな具合だろうか。  服部半蔵や真田十勇士のひとり猿飛佐助、はては世界的に有名になった「NARUTO─ナルト─」まで、忍者をとりあげたエンターテインメント作品は数知れず。こうした映画や小説、マンガによって、私たちの忍者イメージは作られてきた。だが、近年、歴史資料が見直される中で発見された「忍者像」は、従来のイメージとはかなり違う。  野山で過ごすときには食べられる植物の知識は欠かせないし、方角を知るためには天体の運行にも明るくなくてはならない。毒薬を作るには、薬草の知識も必要だ。従来のイメージに近い、爆破などの破壊工作も仕事のうちなので、火薬の取り扱いにも習熟している必要がある。 ●理学を修め恩を忘れず  忍者の「業務」はそれだけではない。なんといっても、ライバル藩の動向を探り、不測の事態が起きたときには、現地調査のため、すみやかに敵地に潜入しての情報収集も欠かせない。商売人や旅芸人になりすますこともあるため、疑われないような芸の技量、知識も必要だ。  まるで、単身、外国に乗り込んで、現地の社会に溶け込み、ネットワークを作ってプロジェクトを遂行する、商社員やコンサルタントのようではないか。  現代人にも通じるような「忍者の心得」を、忍術書の中からいくつか紹介しよう。 「平素柔和で、義理に厚く、欲が少なく、理学を好んで、行いが正しく、恩を忘れない者」 「弁舌に優れて智謀に富み、平生の会話もすぐに理解し、人の言う理に乗じて欺かれることを大いに嫌う者」  右は、17世紀にまとめられるようになった忍術書の一冊、『万川集海』に書かれた、「忍者可召仕次第ノ事」(忍者に必要な十の要素)にあげられている文章だ。  こうした心得のすべてを体得している者は、忍者の中でも稀有な存在で、特に「上忍」と呼ばれ、主君はこうした人物をよく見極めて用いれば、必ず勝利を得られる──とされた。  忍術書は、実際の戦闘がなくなった江戸時代になってから編まれるようになった。その背景には、太平の世となり戦がなくなったため、忍術を伝承する実践の場が減ったことがある。だからこそ忍者の存在意義を示す必要が生まれ、書物で忍術や忍者の役割をアピールしようとしたようだ。 『忍者の歴史』の著書もある三重大学教授の山田雄司さんは「忍術書を見ると、精神修養の大切さも多く語られている」と語る。  特別な訓練を受け、様々な秘密を知る立場にある忍者にこそ、高潔な人柄が求められたからだ。 「一流の忍者になるためには、多様な能力が必要でした。たとえば情報を持っている人と仲良くなり、信頼されなくては、ほしい情報を得られません。そうなると総合的な人間力が求められます。敵方の城や屋敷に忍び込んだときには、証拠を残さないようメモをとらずに建物の内部を記憶し、後で図面に起こす必要があります」(山田さん) ●全身使って記憶する  忍者の記憶術とはどんなものだったのだろうか。  暗闇の中で忍び込んだ屋敷がどのような間取りなのかを確認して記憶する。あるいは人名や数字、出来事など膨大な事項を記憶するために、忍者は独特の記憶術を持っていたという。 「江戸期の忍術書である『当流奪口忍之巻』や『人間記憶秘法』には、さまざまな記憶術が載っています。たとえば覚えにくい数字の羅列などは、あらかじめ自分の体の部位に番号を振っておいて、関連づけて覚えます。みだりにまねるべきではないですが、自分の体を傷つけながら覚える『不忘の術』もありました」(同)  ほかにも、メンタルについての心得は多く伝えられている。甲賀流忍術の継承者で、甲賀流伴党21代目宗師家の川上仁一さんによると、幼いころから受けた忍術修行では、「恐れ、侮り、考えすぎ」を「三病」と呼び、戒めるように教わったという。 「忍者はいかなるときも『心身一如』であることが基本」  と川上さんは言う。敵の城や屋敷に侵入するなど、忍者には時に命にかかわる任務が課せられるため、強靱な精神がないと遂行できなかったのだ。 ●自分の能力を見極める 「忍者の心構えとして、最も重要なのは『不動心』です。何事にも動じない心こそが、究極の精神状態ではないでしょうか。不動心を身につければ、命がけの任務でも恐れや不安を感じなくなります」(川上さん)  ではどうすれば不動心を得ることができるのか。川上さんの答えはこうだ。 「日常生活や日々の修行を通して、心を鍛えるしかありません。厳しい修行に耐えることで技術や体力とともに忍耐力が養われます。また、修行によって能力がレベルアップすることが自分への信頼につながり、恐怖心や不安が小さくなっていくのです」  まさにアスリートのような心境だが、もう一つ、修行には「己の限界を知る」という重要な要素があるそうだ。 「たとえばどのくらいの高さならば自分は飛び降りることができるのかなど、自分の能力の限界を把握しておくことで、いかなる場面でも迷うことなく、正しい判断がくだせます」(同)  むやみに努力するのではなく、まず自身の能力を客観的に判断すること──これもまた、ビジネスの現場にも応用できる心構えだろう。  江戸時代に入ると、忍者に期待されるのは暗殺や攻撃といった戦闘行為ではなくなっていく。むしろハッカーのように、ネットワーク(人間関係)に忍び込み溶け込むことで、戦わずに情報を収集するようなスタイルが求められた。 「他にも『言葉に花を咲かせよ』(=相手を褒めろ)、『わざと縁を作れ』(=ターゲットに借りを作り、返礼することで親しくなれ)など、営業にも生かせそうな教えもあります(笑)」(同) ●ルーティンは現代の印  そんな忍者、いつごろから日本で活躍していたのだろうか。  日本書紀には601年、「新羅からやってきた間諜を対馬で捕らえた」という記述が出てくる。同様に、日本でもこうしたスパイ活動にあたる人間がいたと考えられている。  奈良時代に入り、土地の私有が認められるようになると、土地を巡る争いが各地で起きるようになり、「悪党」と呼ばれる武士集団や山伏(修験者)たちが誕生した。とりわけ山で厳しい修行をしていた山伏は、過酷な状況で生き延びる知恵があり、薬草に詳しいなど、忍者の源流になっていったとみられている。  これらの知恵や術は、地域ごとの自然環境などに合わせる必要があったため、全国にそれぞれの忍者が生まれた。有名なのは「甲賀」「伊賀」といったエリート忍者集団だが、そのほかにも各地に忍者集団が存在していた。  忍者に欠かせないのが九字護身法など、密教の流れをくむ「印」の存在だ。両手を使って印を結びながら、密教の真言を唱えることで、精神をコントロールしたのだという。三重大学大学院教授の小森照久さんが、九字護身法の印を結んだときの脳波と自律神経機能について実験したところ、印を結んで10分程度は、集中力が向上すると同時に、体の力みがとれて落ち着いた状態になるとの結果が出た。つまり、「リラックスしながら集中する」という状態になったのだ。  こう書くと、「忍者ポーズ」とも呼ばれた、ラグビー日本代表、五郎丸歩選手の「ルーティン(決められた手順、一連の動き)」を思い出す人もいるだろう。忍者たちにとって九字護身法などは、自分の厳しい修行を自信につなげるための、まさにルーティンだったのかもしれない。 ●特徴がないのが特徴  ここまで、忍術が人間の内面に与える影響をみてきた。それも大切だが、やはり忍者といえば、足音を消して移動したり、水の上を駆け抜けたりといった「超人的」な身体能力だろう。忍者に関するシンポジウムを開催してきた札幌大学教授の瀧元誠樹さんに、忍者の身体技法について聞いてみた。  現代のトレーニングは、強さや速さといった身体能力を向上させることを重視する。一方、忍者に求められる身体能力は、無駄な動きを最大限省いて運動効率を上げることだ。つまり、力を抜き、緩めながら均衡をとる。これは、パワーアップを求めるよりも、教えるのが難しいという。 「体に力を入れるのは実感しやすいですが、脱力して技を繰り出すのは難しいのかもしれません。忍者は未知の領域でも臨機応変に働くのですから、ニュートラルな身体だったのでしょう」(瀧元さん)  瀧元さんは、未知のコミュニティーに潜入するという忍者の任務からも、筋骨隆々など特徴のある体はマイナスだったのでは、とみている。 「長期間の潜伏ならその土地の民になり、一時的な潜入なら旅芸人や薬売りなどの移動する民に扮します。任務に応じて何にでもなれるのが、忍者なのでしょう」(同)  過酷な状況で、心身を鍛えながらも目立つことなく存在していた忍者たち。そのスピリットを活用し、何かと厳しさを増す現代社会を生き残るよすがにしてほしい。(ライター・矢内裕子) 【忍者の歴史】 <ルーツの時代> 601年 「日本書紀」(720年成立)に新羅からの間諜の存在が記録される 1175年 「東大寺文書」に黒田荘の「悪党」の存在が記される 13世紀 「悪党」と呼ばれる武士集団の活動が活発になり、荘園領主と対立 1331年 「臨川寺領等目録」に楠木正成を「悪党」と記録 <史実の中の忍者> 1338年 「太平記」(1370年ごろ成立)に「忍」として、忍者の存在が記録 1487年 甲賀衆が足利義尚の鈎(まがり)の陣を夜襲 1578年 第一次天正伊賀の乱。伊賀国に侵攻した織田軍に伊賀衆が奇襲を仕掛け奮闘 1581年 第二次天正伊賀の乱。織田軍により伊賀は壊滅的打撃を受ける 1582年 「神君伊賀・甲賀越え」。徳川家康が伊賀忍者や甲賀忍者の助けで三河へ帰還 1585年 上田合戦(徳川氏×真田氏)で忍者が活躍 1590年 家康が江戸城入城。伊賀忍者や甲賀忍者が江戸城の警備や鉄砲隊の仕事に就く 1600年 関ケ原の戦い。甲賀忍者が家康のもと、伏見城の戦いで奮闘 1637年 島原の乱。これを最後に、戦闘任務は消滅していったとみられる 1701年 江戸城で赤穂事件が起こる。赤穂周辺の藩が、状況を探るため忍者を放った 1716年 徳川吉宗が独自の情報収集機関「御庭番」を組織。この頃から忍者が「伊賀者」と呼ばれ始める <江戸時代後期> 徳川幕府のもと、忍術道場ができ「免状」を渡すようになる。実在の忍が姿を消していく一方、小説や芸能では黒装束で手裏剣を打つといった、現代につながる忍者イメージが作られるように <エンターテインメントの中の忍者> 1911年 雪花山人『猿飛佐助』(立川文庫) 1916年 初の忍者映画「甲賀流忍術」(無声) 1958年 司馬遼太郎『梟の城』(第42回直木賞受賞)。このころから忍者をモチーフにした小説、マンガ、映画が増える 1961年 白土三平のマンガ「サスケ」連載開始 1962年 映画「忍びの者」(山本薩夫監督) 1963年 映画「忍者秘帖 梟の城」 1967年 テレビドラマ「仮面の忍者 赤影」放映開始。原作は横山光輝のマンガ 1972年 特撮テレビドラマ「快傑ライオン丸」放映開始 1974年 池波正太郎「真田太平記」が週刊朝日に連載開始 1999年 岸本斉史「NARUTO-ナルト-」。その後、アニメ、ゲームにもなり海外でも爆発的な人気に 2013年 万城目学『とっぴんぱらりの風太郎』 参考文献:『The NINJA─忍者ってナンジャ!?─公式ブック』、山田雄司『忍者の歴史』 ※AERA 2016年8月8日号
AERA 2016/08/05 07:00
“ヘイト殺人鬼”植松聖容疑者の虐殺願望
“ヘイト殺人鬼”植松聖容疑者の虐殺願望
容疑者のこれまでの言動は…(※イメージ) 「障害者は死んだほうがいい」「もう自分でやるしかない」。周囲に憎しみの言葉を吐き、相模原の障害者施設で50分間に45人をメッタ刺しにし、死者19人、重軽傷者26人となる凶行に及んだ植松聖(さとし)容疑者。これまでの言動を徹底検証する。  植松容疑者は大学進学後、言動が無軌道になり、性格にも変化がみられていく。 「相模原市のクラブへ一緒に遊びに行くようになった。彼は踊るというより、酒を飲んでナンパしていた」(高校時代の友人)  こんなこともあった。  ヘアピンカーブが連続することで、バイクや車の“走り屋”といわれる若者に人気だった大垂水峠。相模原市と八王子市の都県境にあるこのコースに、原付きバイクの少年たちが、車の前方と後方を挟み撃ちにして停車させ、車からドライバーを引きずり出して暴行や恐喝をくり返す事件が頻発したことがあった。  植松容疑者はこの“走り屋潰し”に加わっていたという。バイク仲間だった中学の同級生が語る。 「ある日、仲間10人くらいが警察に逮捕されてしまった。少年院に入ったヤツもいましたが、植松君はおとなしいほうで率先してやるタイプではなかった。グループ内では下っ端でした」 “地元のヤンチャ少年”の枠から、段々逸脱し始めていくように見えるのが、大学2年、入れ墨に傾倒し始めるころだ。肩のワンポイントから腕、太腿、背中と徐々に広がり、小学校教諭を目指す学生にはありえない姿に変容していく。  ある友人が明かす。 「相模原市内の彫り師のところへ行き始めて興味を持ったようです。般若を入れると言うので『学校の先生になるヤツが入れ墨はまずいだろう』って注意したら、『彫り師としてやっていく』と言い出し、入れ墨を彫る機器まで買い揃えた。何を考えているのかと思った」  それでも大学4年生だった11年には、5月末からの約1カ月、母校の小学校で教育実習をした。3年生を担当し、低学年が下校したあとには、5、6年生の授業にも参加したという。  友人の懸念どおり、水泳の授業で入れ墨を隠すのに腐心し、スイムスーツを着て全身を隠した。子どもと触れ合えたことはうれしかったらしく、ミクシィにはこんな書き込みがつづく。 〈心がポカポカになるエピソードがいっぱいあります〉〈(お別れ会で)手紙やプレゼントをもらい とても満足してます〉  だが、思いと行動は一致していない。ミクシィにはこんな書き込みもある。 〈教員免許採用試験の受け付けがとっくのとうに終わっていたので今年教師になれる可能性は0になりました〉 「試験の申し込みを忘れて受験できなかった。でも『さあ就活だ』とケロリとしたものでした」(大学時代の友人)  行き当たりばったりの生活に大麻や薬物が加わる。ある友人はこう話す。 「入れ墨を入れると痛いじゃないですか。それを緩和させるために大麻を始めたようです」  こう証言する友人もいる。 「好きだったのは脱法ハーブ(危険ドラッグ)。いろんなのを試しては『これはキマるな』『こっちはハイになれる』とか解説していました。印象に残っているのは、相模原のクラブ。ハーブ吸って、ハイになって、脱ぎ始めて。ビール片手にテーブルから大勢のお客のいるところにダイブ。お客の服がびしょ濡れになってブーイングでしたが、本人は全く意に介さなかった。その後、脱法ハーブが規制されてみんなが避けるようになっても、バレないからって続けていました」  自分で大麻を栽培しようとしていたという話もある。「さと(植松容疑者)のところは田舎だから、バレないだろうと。家の前の道が行き止まりだから人通りもない。栽培にはぴったりと笑っていた。でもうまく栽培できず、どうすればできるか聞かれました」(友人の一人)  12年3月、大学を卒業。清涼飲料水を扱う運送会社に入社したが、数カ月で退職する。その後に採用試験を受けたのが、やまゆり園を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」だった。  9月に試験に合格し、12月に就職したが、当初から植松容疑者には障害者への蔑視があったようだ。6年前のミクシィには、すでにこんな言葉が記されている。 〈今日は身体障害の人200人ぐらいに囲まれて来たぜ〉〈みんな頭悪いぜ〉  非常勤職員として採用され、翌13年4月には常勤職員に。だが、綻(ほころ)びはすぐ現れた。入所者の手の甲に、黒ペンでいたずら書きをした。入れ墨をしていることも発覚する。入所者に絶対見せないよう注意されても、入れ墨が見えるようなTシャツ姿で出勤してきた。  ちぐはぐな言動は続く。14年秋には相模原市内のキックボクシングジムに入門したが、その後、ほとんど通っていない。職場では「障害者は死んだほうがいい」と口走るようになり、植松容疑者の“狂気”が露(あらわ)になってくる。  友人(26)が言う。 「去年の春ごろから、過激な右翼思想やオカルト的な、『宇宙からテレパシーが来る』などと真顔で話すようになった」  昨年末、一緒に飲んだという高校の同級生(27)は最近の仕事のことを聞かれ、「お前にはもっと野望とかないの? 世界のこととか、日本の国のこととか考えないの?」と、まくし立てられたという。  奇行はエスカレートし、今年2月15日には、衆院議長公邸に犯行を予告する手紙を持参する。 〈作戦内容 職員の少ない夜勤に決行致します。重複障害者が多く在籍している2つの園(津久井やまゆり、●●●●●=実際は別の施設名)を標的とします。見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。職員は絶体に傷つけず、速やかに作戦を実行します。2つの園260名を抹殺した後は自首します〉(原文ママ)  植松容疑者は今年2月ごろ、園周辺の家庭に「障害者なんて生きていても無駄」などと書いた文書をまいたという。ある職員は植松容疑者が園の利用者へ顔を近づけて、「おらぁ」「こらぁ、障害者のくせに」「いらねえんだよ」などと暴言を吐いているのを目撃したという。  こうした言動から、前述のように園側の面談→措置入院という流れになるわけだが、退院後、植松容疑者は通院を拒んだ。友人にはこう話している。 「病院はきつかった。二度と行きたくない。うまく医者に話をつけて出てきたが、通院はしない」  4月にはバイク仲間の友人は「障害者なんていらねえ。国の税金の無駄だ」「障害者を殺す」といった暴言を聞かされた。同じころ、別の友人(26)は、「動けない、話せない障害者はごみ。もう自分でやるしかない。動かないから刃物でやれる。ただ、数が多いから大変だ」と犯行を予告するような言葉を聞き、驚いたという。2人とも、「以前の植松君じゃなかった。整形でもしたのかと思うほど表情も変わり、全然人格が違っていた」と振り返る。  6月には前出のキックボクシングジムを再訪。「格闘技の試合に出る」と言い、7、8回練習した。最後に顔を見せたのは、犯行4日前の7月22日だった。  事件前日の25日。植松容疑者が相模原市内のファストフード店の駐車場に車を放置していたとして、津久井署が同署に呼んで注意している。署も園も警戒していた男である。このとき、署員が彼の胸中を覗いておけば……と考えるのはさすがに酷だろうか。 ※週刊朝日 2016年8月12日号
週刊朝日 2016/08/03 11:30
相模原障害者施設19人殺害事件 この狂気を生んだものは何だったのか
古田真梨子 古田真梨子
相模原障害者施設19人殺害事件 この狂気を生んだものは何だったのか
事件が起きた障害者施設「津久井やまゆり園」。緑に囲まれた静かな場所が、救急車や消防車が行き交う壮絶な事件現場に一変した (c)朝日新聞社  7月26日未明。異常極まりない卑劣な犯行により、障害者19人の命が奪われた。植松聖容疑者をこの凶行に駆り立てたものは何だったのか。 「戦後最大級」という被害規模。予告通りに職員を拘束し、障害者ばかりを標的にした「差別思想」を育んだ背景と原点は何なのか。  神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、元職員の植松聖容疑者(26)が刃物で入所者に次々と襲いかかり、19人が死亡、26人がけがをした。  現場のかつての地名は津久井郡相模湖町。東京都や山梨県の境にほど近く、山や湖、ダム湖に囲まれた緑深い山あいのまちだ。最寄りのJR中央線相模湖駅からは約2キロ離れており、植松容疑者の自宅はさらに500メートルほど奥にある。駅行きのバスも1時間に1本程度。徒歩圏内にコンビニもなく、車を持っていないと生活はかなり不便な立地だ。空気は澄み、騒音もなく、凶悪な事件の発生を予感させるような特性は全くない。しかし、たった一人の若者が、全てを壊した。  筆者(大平)は事件記者として30年近く過ごし、全国で発生した殺人など凶悪事件を数多く取材してきたが、今回ほど結果の重大さと犯人の矮小さのアンバランスな事件は経験したことがない。彼がネットに自ら残した画像や動画、送検時に見せた幼児のような笑顔は、何かを達成しようと本気で取り組んだり我慢したりしたことがない人間にしか見えない。それが犯罪史上例がないほどの刃物による大量殺傷をした人物像と結びつかないのだ。  植松容疑者は7月26日午前2時ごろ、園内東側の居住棟1階の窓をハンマーで割って室内に侵入、19歳の女性らを所持していた刃物で次々に襲った。この間、見つけた夜勤の職員を用意していた結束バンドで拘束。難を逃れた職員の110番通報で神奈川県警津久井署員が駆けつけたときに姿のなかった植松容疑者は同3時ごろ、血のついた刃物3本が入ったかばんを持って同署に出頭。犯行を認めたため殺人未遂などの容疑で逮捕し、送検時に容疑を殺人などに切り替えた。 ●恐怖でなすすべなく  一方で、植松容疑者は今年2月14、15日、犯行予告ともとれる手紙を衆院議長公邸に持参した。「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」と宣言している。「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます」と異常な主張を披露し、「作戦内容」として、まさに今回実行に移したことと酷似した内容の犯行計画を書き記していた。  警視庁が神奈川県警にこの情報を提供し、植松容疑者は2月19日に退職。相模原市が措置入院させ、尿と血液の検査から大麻使用の反応が出たものの、3月2日に退院させていた。市は県警には大麻反応の情報を伝えていなかった。  犯行時の様子について捜査幹部はこう語る。 「犯行に用いた刃物は計5本。最初は胸や首を刺していたが、刃こぼれしたり先が折れたりして、現場に2本放置したようだ。夜勤の職員は8人いて、うち5人が見つかって縛られた。ある職員はロビーで容疑者を見かけ、知らずに『植松さん』と声をかけたところ、よく見ると包丁の先からポタポタと血が垂れていて『ちょっと来てくれる』と容疑者に凄まれ、恐怖のあまりなすすべもなく縛られたそうです」  植松容疑者は取り調べには応じているが、薬物検査に関して変わった反応をしたという。検査では、薬物の種類ごとに意向を聞いて尿を任意提出するのだが、覚醒剤と危険ドラッグに関しては了承したのに、大麻については拒否したため、強制採尿することになった。 「自宅の家宅捜索でも大麻らしき植物を押収したし、本人に使用している自覚があったのでしょう。派手な入れ墨をたくさん入れていて、暴力団や周辺者と付き合いはあるが『自分は違います』と言っている。ムエタイ(タイ式キックボクシング)の経験もあるようです。園の職員当時、勤務態度は怠惰でサボりぐせがあり、入所者の手にいたずら書きをするなどして注意されたこともあったが、暴力を振るうまではなかったようです」(前出の捜査幹部) ●教育実習で人気者  フェイスブックやツイッターに入れ墨や仲間と酔っ払ってはしゃぐ写真などを自慢げにさらし、予告通り凶行に及んだ植松容疑者は、意外にも自宅周辺での評判は悪くない。小学校教諭の父と、母との間のひとりっ子として育ち、ハキハキと挨拶のできる明るい子どもで、徒歩20分ほどかかる小学校へは集団登校で6年生時にはリーダーとして引率していた。私立大学在学中に母校の小学校で教育実習した際も、人気者だったという。近所の70代の男性は言う。 「その小学校は1学年1クラスしかなくて、彼は3年生を受け持って、ウチの孫がいたんです。孫は『休み時間に僕たちのやりたいことを一緒に遊んでくれる』と喜んでいました。彼は放課後も近所の子どもを集めて『先生』と呼ばれて嬉しそうに遊んでました。父親は勤め先が東京・八王子の小学校で、始発の5時半過ぎのバスで出勤するところをよく見かけましたね」  植松容疑者は小学校の教員免許は取得したものの、採用はされなかった。 「大学卒業後はしばらく、清涼飲料水の自動販売機の入れ替えの仕事をしていて『給料安くてヤバいですよ』なんて言ってたね。父親は駅で顔合わせても挨拶しないで目を背けるような人だったけど、彼は笑顔の絶えない好青年だった。家の前の道路にゴザを敷いて上半身裸で日光浴してたから、背中の入れ墨にも気づいてたけど、周囲を威嚇するようなこともなかったしね。最後に顔合わせたのは事件の4日ぐらい前の朝。車で出かけるときに目が合って、いつも通りニッコリ『おはようございます』。てっきり、やまゆり園でずっと働いていると思ってましたよ」(別の近所の男性) ●近所に告げず親転居  しかし、植松家の中では随分前から異変は起きていた。4年ほど前、ひとり息子を2階建ての建売住宅に残したまま、両親は八王子市内のマンションに転居したのだ。母親が野良猫を餌付けしていたことで近隣トラブルとなり、居づらくなって出て行ったという説や、息子と折り合いが悪くなったという説などいろいろあるが、いずれにしても近所の誰にも転居の理由は伝えていない。  そして、両親に干渉されることのなくなった植松容疑者を狂気の奥底にまで引きずり込んだ原因はなんだったのか。  今年2月に衆院議長公邸に手紙を持参したころと相前後して、特に異常な発言が目につくようになる。「障害者は周りの人を不幸にする。いないほうがいい」などと話し、園側が「それはナチスの考え方と同じだよ」と諭しても「考えは間違っていない」と言い張ったという。  ここまで歪んだ考え方を持つようになった背景のひとつには、過酷な労働とバランスを欠く低賃金があったのかもしれない。「やまゆり園」は神奈川県立だが、運営しているのは「指定管理者」と呼ばれる社会福祉法人だ。小泉純一郎政権下で進んだ規制緩和政策の一環で、公の施設の管理を包括的に民間が代行できる制度が始まった。ある福祉施設関係者は言う。 「県立の施設なら、かつて職員は限りなく県職員に準ずる厚遇だったが、指定管理者制度になってからは労働条件も低く抑えられるようになった」 ●経済合理性が生む差別  実際、同園のアルバイト募集の時給は県の最低賃金レベルだし、植松容疑者が職員になってからの月給も約19万円。さらに、福祉を学んだ経験のない植松容疑者が、介護の延長程度の認識で、強度行動障害など重度の知的障害者の生活と24時間向き合う施設で働くとどういう現実に直面するのか。前出の福祉施設関係者は言う。 「東日本大震災である障害者施設に避難していた入所者たちが、この4月に5年ぶりに福島に戻ったとき、迎えに来た保護者は一人もいなかった。もちろん高齢者が多いのも理由ではありますが、避難している間も訪ねてきた保護者は5年間で3分の1だけ。誰からも褒められないし、利用者の成長も感じられないまま現状維持をずっと続けていく。職員にとっても、やるせない労働現場であることは間違いないんです」  だからといって、腹いせに入所者を殺害する道理はまったくない。だが、事件後、ツイッターには植松容疑者の犯行や動機を擁護するような書き込みさえ、複数見られた。 「15人が死亡し、およそ20人がけがという手段はおかしいかもしれない。だが『障害者に安楽死を』という目的は非常に合理的だと思う」「植松容疑者が言ってることも正直言ってわかる。でも、殺すのはダメで。なんか、複雑」  いま、ネットの中にはむき出しの悪意に満ちた言葉があふれ、街角では耳をふさぎたくなるようなヘイトスピーチも起きる。こうした風潮が、植松容疑者の行動を正当化し、後押しした面もあったのかもしれない。精神科医の斎藤環さんは言う。 「ヨーロッパの移民差別やドナルド・トランプを見ても、過激な言説が喝采を浴びやすく、本音の部分を臆面なく出す社会状況がある。それが一番凝縮された形で表れた事件」  社会学者の千田有紀・武蔵大学社会学部教授もこう言う。 「弱者への福祉は全体のためになっていないという考え方は、この社会の中で目にする論理。昔は『気持ち悪い』『くさい』だった差別が、今は『ムダ』という表現になった。現在の差別は経済的合理性によって作り出されている」  福岡県の多機能型施設「あごら」の恒遠樹人施設長(45)は、現場の視点からこの考え方を真っ向から否定する。 「重度障害で役に立たないとか成長しないというのは完全に間違いです。障害者が発するメッセージを受け取る感性が当人にないだけ」 ●名前を出せない社会  今回の事件で、犠牲者は41~67歳の男性9人、19~70歳の女性10人と公表されているだけだ。県警によると遺族全員が公表を強く拒んでいるという。ここに恒遠さんは違和感を抱く。 「名前を出さないのは障害者への配慮じゃなくて、周囲の都合ではないでしょうか。本来は、障害者が堂々と名前を出せる社会にならないと。今回の事件の背景には、そういう社会全体の風潮もあると思います」  恒遠さんは、障害者のスポーツ大会で参加者名簿を見て思ったことがある。 「男の子の名前は健康の『健』とか、雄大の『雄』とか『大』とかがすごく多いんです。ああ、これが親の願いだったのかなって。この容疑者はそんなことも考えずに名無しの障害者としか見なかったんですよね」  ヒトラーの降臨を気取る差別主義者の凶行に、正当性など微塵もないのだ。(編集部・大平誠、高橋有紀、古田真梨子) ※AERA 2016年8月8日号
AERA 2016/08/02 11:30
「このままでは死者がでる!」 沖縄・高江で見た国家権力によるむき出しの暴力
「このままでは死者がでる!」 沖縄・高江で見た国家権力によるむき出しの暴力
国家権力の圧倒的な力を前に、抗議行動の中止を決断した山城博治氏(撮影/安田浩一) 怒声と悲鳴のなか、機動隊員に次々と排除されていく市民(撮影/安田浩一) 全国各地から沖縄・高江に派遣された機動隊員(撮影/安田浩一)  ヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)建設問題に揺れる東村高江は、沖縄県の北部、やんばるとよばれる亜熱帯森林のなかにある約150人の住民が暮らす小さな集落だ。高江は米軍北部訓練場の真横に位置しており、現在でも、昼夜問わず毎日のようにヘリが飛んでいる。  そんな小さな集落に、さらに6つのヘリパッドを建設するということが、どういうことなのか分かるだろうか。「高江に人が住めなくなる!」と考えた住民たちは、自分たちの生活を守るために、抗議活動を始めた。  なぜ国は、沖縄にばかり苦しみを背負わせるのか? 『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)の筆者である、ジャーナリストの安田浩一が現地を取材。そこで目にした、国家権力によるむき出しの暴力とは。そして、メディアに求められる「役割」、問われる「立ち位置」とは。 *  *  *  1995年、沖縄県内で米兵による少女暴行事件が起きたことで、日米両政府は米軍基地の整理縮小、一部返還を行うことで合意した。しかし、両政府が合意したのは無条件の「返還」ではなく、代替地への移設という条件を伴うものだった。  たとえば普天間飛行場の返還を理由として、辺野古新基地建設が進められようとしているのと同じように、本島北部の「米軍北部訓練場」も高江に6カ所のヘリパッドを新たに建設することが交換条件となっていた。  高江でも地域の意向を無視するかのように工事は進められたが、一部住民によって建設反対運動が進められるなか、工事は一時中断させられた。ところが、参院選が終わった直後、国は工事再開の動きをみせたのである。  そして、国はついに高江のヘリパッド建設工事を強行した。  7月22日早朝。「排除!」のかけ声とともに、全国各地から派遣された機動隊員がいっせいに、抵抗する市民に襲い掛かった。薄明かりのなか、怒声と悲鳴が響き渡る。現地で取材していた私が目にしたのは、国家権力によるむき出しの暴力だった。 「なぜ、沖縄ばかりがこんな目にあうの」  泣きながら抗議する女性を、機動隊員は柔道の技をかけるように押し倒した。地面に組み伏せられた者もいる。粗大ごみを扱うように、座り込んでいるところを4人がかりで放り出された者もいた。 「もういい。もう限界だ。このままでは死者が出る。もうやめてくれ!」  抗議行動を率いてきた沖縄平和運動センターの山城博治議長が叫んだ。機動隊員によってびりびりに引き裂かれたシャツの袖から陽に焼けた腕を突き出し、「やめろ、やめてくれ」と繰り返す。  約6時間をかけて一帯を“制圧”した機動隊は、昼すぎに大型バスに運ばれて到着した防衛局職員や警備会社社員の力も借りて、工事資材搬入路の前に設置された市民テントを解体した。10年近くにわたり、ヘリパッド工事に反対する人々の拠点だった。テントを支える鉄骨が崩れ落ちていく。そのとき、それまで晴れていた空に暗雲が広がり、たちまち土砂降りの雨となった。まるで“やんばるの森”が号泣しているようにも感じた。  同じような風景を幾度か辺野古(名護市)でも目にしている。新基地建設の導入路にあたる米軍キャンプ・シュワブのゲート前。新基地建設に抗議する人たちを、機動隊は繰り返し排除してきた。昨年秋からはデモ鎮圧部隊の“精鋭”として知られる警視庁第四機動隊も現地に派遣されている。辺野古の現場で前出の山城氏にインタビューした際、彼はこう答えた。 「非暴力を貫く。警察の暴力に暴力で対抗しても無駄ですよ。でも、それは何もしないことを意味するわけではない。徹底して抵抗する。ほかに訴える手段を我々は持たないから」  そしてさらに、こう付け加えたのであった。 「機動隊には機動隊の仕事があることも理解している。だから、誇りを持って仕事してくれと頼んでいる。せめて、我々の願いを、しっかりと見てほしい」  その「願い」が、機動隊の一部に届いていることを、私も信じたい。辺野古でも高江でも、苦渋に満ち満ちた、いまにも泣き出しそうな表情で「仕事」をする機動隊員がいることを、現場に足を運んだ者であれば知っている。  問題は、ひりひりするような熱射も、人の息遣いも感じることなく、一方的に指図する者たちだ。  高江で工事が強行されたその日、国は辺野古の新基地建設をめぐって、沖縄県が是正指示に従わないのは違法だとして、翁長雄志知事を相手に違法確認訴訟を福岡高裁に起こした。裁判所や第三者機関が話し合いによる解決を求め、県も協議継続を求めていたにもかかわらず、だ。  政府はやりたい放題じゃないか。力で押さえつければ、沖縄は何とかなるとでも思っているのであろう。沖縄は、そうしていつも、組み伏せられてきたのだ。この圧倒的に不平等な本土との力関係の中で「弾よけ」の役割を強いられてきた沖縄は、まだ足りないとばかりに、理不尽を押し付けられている。差別と偏見の弾を撃ち込まれている。  だからこそ、この場所で取材し、記事を書く者たちは、何を報ずべきかを知っている。どこに寄り添うべきかを知っている。  記者は国家の伝令役じゃない。発言の回路を持たぬ者たちの声に耳を傾け、不公正を少しでも正そうとすることが、当たり前の記者の仕事なのだ。  それが果たして「偏向」なのか──。  メディアの萎縮が叫ばれる今こそ、「偏向」とは何かを再考すべきではないだろうか。(ジャーナリスト・安田浩一)
朝日新聞出版の本沖縄問題読書
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