入りたくはなかったと言いながら、畑島の顔つきは、いかにも「語れることがある」という雰囲気になってきた。
「1回だけ、高3の春のセンバツ(1992年の第64回大会)で甲子園に行きました。忘れもしません、徳島県立新野(あらたの)高校に、逆転負けしてしまったのです。正直、応援指導部は、厳しい世界でした」
畑島によれば、当時の横浜高校応援指導部は法政大学の応援団と縁が深く、応援の振り付けも法政の振り付けを真似ていたそうである。畑島は、法政大学だけでなく東京六大学の応援団から学ぶために、神宮球場に野球の応援を見に行ったり、日比谷公開堂で行われる六大学の応援団のイベント「六旗の下に」なども見学に行ったりしたというから、かなり熱心なクラブだったのだろう。
「もう、チアリーダーばっかり、いいなーって指をくわえて眺めていました」
一番きつかったのは、夏の合宿だ。
野球部が県大会で敗退して夏の甲子園に出場できないと、応援指導部のせいでもないのに、千葉県の岩井海岸で6泊7日の地獄の特訓が行われる習わしだった。畑島が在校した時代の野球部は春のセンバツに1回出場しただけだから、畑島は夏の合宿をみっちり3回経験したことになる。
夏の合宿では、早朝からのランニング、腕立て伏せ、腹筋といった基礎体力づくりに始まって、応援歌の振り付けや、大太鼓を叩きながら大声で校歌を歌う練習を、一日中延々と続けなければならなかった。
「太鼓を何時間も叩いていると、親指と人差し指の皮が、撥と擦れてめくれてしまいます。そうなると痛くて叩けないので、最後は、テーピングで指を撥に縛りつけて、太鼓を叩き続けました」
応援指導部と聞くと、いかにも先輩によるしごき、しかも不条理なしごきが日常茶飯事に行われているイメージがある。小学校2年生から不条理ないじめに悩まされ続けてきた畑島は、自ら進んで、再び不条理な世界に飛び込んでしまったのだろうか。
「あの、たしかに先輩の言うことには、絶対服従ということはありましたが、それはいじめではなかったです。上下関係は厳しかったですが、応援指導部にいじめはなかったです」