「Mountain line “Mt Fuji“」(C)西野壮平
「Mountain line “Mt Fuji“」(C)西野壮平

■大学時代はふさぎ込んでいた

 写真を張り合わせたコラージュの作品をつくるようになったのは大阪芸術大学時代。

「初期はポストカードくらいのサイズだったんです」と言いながら、実物を手にして、見せてくれる。

 25枚ほどの小さな写真を張り合わせた作品で、どの写真にもビルの屋上から写したような風景が写っている。そこで聞かされたのは意外な話だった。

「これは別に、写真を張り合わせて作品をつくるために撮っていたわけではないんです。都市に惹かれる、という感じでもなかった。ただ、高い場所に行って、過ごす時間が多かったから、そこで写したものをちょっと派生させたら、こういうかたちになった」と、打ち明ける。

 そして、「大学時代は、いろいろなことにふさぎ込んでいた。心を閉ざしていた」と言う。

「家族のこととか、友人関係で嫌なことや悲しい出来事があって、人とコミュニケーションするのが嫌だった。それで気づいたら、誰もいない、高いところに行っていた。マンションの非常階段の屋上の一つ手前の踊り場とか、百貨店の屋上とか」

 写真を学ぶために大阪芸大に入学したものの、教育としてアートを勉強することにも違和感を覚え、葛藤した。

「WAVES Part1」(C)西野壮平
「WAVES Part1」(C)西野壮平

■心境の変化が作品に表れた

 04年に大阪芸大を卒業すると、翌年、「Diorama Map」でキヤノン写真新世紀優秀賞を受賞。しかし、受賞の喜びは長くは続かなかったという。

「そこから、写真家としてやっていけるかなあ、なんて思ったんですけれど……。なかなかうまく展開しなくって」

 アルバイトを転々としながら都市を撮影。その後、出版社に就職し、撮影の仕事についた。

「2年半くらいですけど、会社の仕事をしながら自分の作品づくりをしていたんです。でも、なかなか、しんどかった。その後、フリーランスになって広告や雑誌の仕事をしていたときは、ほんとうにどうしようかな、という感じでしたね」

 そう話すと、「ぼくは悩みを抱えやすいタイプなので」と言い、小さく笑った。

 作品が売れて手応えを感じるようになったのは「2013~14年くらいから。それで、気持ち的に楽になって、『ああ、やっていてよかったんだ』と思えるようになりました。徐々に作品をつくることが楽しくなった」。

 そんな心境の変化が作品にも表れているそうで、「Diorama Mapシリーズは、初期のものと、最新のものでは、かなり視点が違う」と言う。

 最初のころは高い場所から撮影した写真だけで作品を構成していた。

「それは都市の無機質な部分を撮りたかったわけじゃなくて、むしろ、人って何なんだろう、とか。自分がどういう世界にいるかを俯瞰(ふかん)することで、人を間接的に撮っていた。それが徐々に人に直接的に向かっていった」

 気持ちが軽くなってくると、写真を撮る目線がどんどん下がっていった。

「いまはもう、人に近づいてポートレートを写したり、ほんとうに多視点で撮るようになりました。現地の人と関わりながら、その場所を見ていく。すると、より深いところまで見えてくるわけで、街の見え方も変わっていった。人を通してその場所を見ることに興味が湧くと、積極的に人と交流するようになっていきました」

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