たまたま九鬼周造の『「いき」の構造』を読んでいたら、その中にスピノザの言葉があって、ハッとしたんです。「『嬉しさ』とは精神が一層小さい完全性から、一層大きい完全性に移ること」と書いてあった。つまり、自己充足が個を超えた広がりを持ったときに、うれしさは生じるものだと。
三浦:赤ちゃんを見ると思わずうれしくなるってのがそれに近いかもしれない。コンサマトリーなうれしさですね。
他方、たとえばホームパーティーを企画するとき、みんなのうれしそうな顔を期待して企画するでしょう。うれしい顔にあふれた“楽しい会”にしたいと思って演出する。そしてみんなが本当に楽しんでくれると、結果として当人もうれしくなる。
小林:つまり、こうなってほしいという期待だったり目的だったりがあるからその行為を行い、それが自己充足感につながっていくわけですよね。
三浦:目的が達成できて自分が承認されると、うれしいになるんでしょうね。
河尻:パーパスを達成すると自己が充足するということですよね。その結果、本人に快適がもたらされる。まあ、考えてみると社会的に意義ある行為をすればうれしくなる、逆に自分の楽しさばかり追求していくとなんだかむなしい。そこは個人も企業も共通なのかも。
三浦:「人の役に立ててうれしい」はあっても、「役に立てて楽しい」というのはない。本書にもインタビューを掲載していますが、町田市の市議会議員選挙に知り合いの女性が立候補したんだけど、彼女は『第四の消費』を読んで、「町田を楽しい町に」ではなく「うれしい町に」というコピーで当選したんです。僕にはそれがうれしいんだけど(笑)。
小林:ところでケアをシェアするというのも、うれしさにつながるということでしょうか。
三浦:ケアというのは介護はもちろん、治療から予防まで含むんだけど、やさしい日本語で言うと「手入れ」や「手当」。靴を手入れするのもケアですよね。
で、中高年のひとり暮らしがさらに増えていくと、肩が凝っても自分でサロンパスを貼ってケアするしかない。それで治らないとマッサージ店に行って5000円払う。でも5000円払えない人はどうするか。コミュニティーの中に、肩くらい無料でもんであげるという場所があるといい。そういうふうにケアをシェアする社会になったほうがいい。困ったときに人の手や知恵を借りるのがシェアの基本ですから。