新たに本店となった難波店では、フランス料理のフルコースも提供することに。その際、料理顧問からの助言もあり、本国同様に内臓料理も出すことにした。
「牛の目玉を使ったスープやら、脳みそのオムレツやらを出しました。人気が高かったのは、胃袋をホワイトソースで煮込んで、その上に卵黄をのせた料理。それと睾丸のバター焼きですね」
北橋氏は、こうした内臓料理を「ホルモン料理」と呼ぶことにした。
当時、日本では健康ブームが起きており、内分泌臓器などで作られ身体の機能維持に欠かせない「ホルモン」は非常に注目を集めていた。34年には女性ホルモン配合クリーム「資生堂ホルモリン」が発売され、36年には日本赤十字社が「ホルモン・ビタミン展覧会」を開催している。
北橋氏は、健康にも良い料理という意味を込めて命名。37年には、「ホルモン料理」の商標登録を出願した。
当時のメニューには<幸福は日々の食べ物から それは戎橋北極星の二階の保健食から!!>という大見出しと<世界で初めて料理にホルモンと名付けた北極星>という小見出しの後に、商標登録番号が記載されている。
「今はもう、ホルモンは一般名詞みたいになってますから、料理の名前に使うのも当たり前です。でもずいぶんと昔のこと。阪急百貨店で内臓の売り場に『ホルモン』と書いておられたんで、『ホルモンについては、うち、商標ありまんねん』と言って、心臓とか胃袋とかと名称を変えられたというのはありました」
売れっ子漫才師の花菱アチャコは「ホルモン料理」を大いに気に入って、よく来店したという。
順調に営業を続けてきたが、戦争で支店はすべて焼失。本店のみがかろうじて残った。
戦後は事業の多角化を図った。50年、北極星本館の2階から上に客室50室を整備してホテル経営に着手。60年には和歌山に旅館を建てた。68年には大阪府堺市のショッピングセンターに、そば、うどん、寿司などを出すレストランを出店。79年にはふぐ料理「北はし」を出した。