■「そんな場所はほかの誰かが撮る」
一方、当時の東京は、オリンピック開催に向けて徐々に盛り上がりをみせていた。しかし、石川さんは「自分にはあまり関係ない」と、感じていた。
「いまの日本って、少子化とか、いろんな問題を抱えているじゃないですか。そんなことを考えると、オリンピックには乗れないな、と。そんな違和感を抱えていた」
都心部では再開発が急ピッチで進んだ。
「あのころ、東京の渋谷で仕事をしていたんですけれど、お気に入りの定食屋がなくなり、ときどき通っていた国立競技場近くのフットサル場が改修工事で入れなくなった。身近な場所が再開発で変わっていく様子を目の当たりにした」
そんな出来事が、写真家としての気持ちを揺り動かした。
「でも、そんな場所はほかの誰かが撮ると思った。だからぼくは同時期に、東京の周縁地域がどうなっていくか、記録しようと思った。でも、単純な記録にはならなかったわけです」
そのころ、トランプ政権下のアメリカでは、IT産業を軸に活気を帯びる都市と、衰退する『ラストベルト』と呼ばれる地方との分断がクローズアップされていた。石川さんは「それと似たようなことが日本でも起こっているだろうな、とも思った」。
撮影は「東京周辺の地方がどうなっているか? 見たい、記録したい、という欲望」から始まった。
「ところが、だんだん写真がたまっていくと、アメリカナイズされたものが散見されるのが気になったんです。調べていくと、昔、関東にはアメリカの基地がたくさんあったことを知った。実際、そういう地域を訪れると、アメリカンなものに遭遇することが多かった」
■熊谷で見つけた米軍の痕跡
終戦後、関東地方には多くの米軍部隊が駐留し続けた。その背景には深まる東西冷戦があった。
「例えば、東京周辺の米軍基地が朝鮮戦争の後方支援をした。その一方で基地周辺にアメリカの文化が入っていった。撮影を続けると、そんな時代的側面が垣間見えてきた」
作品のなかに、白く塗られた板塀のそばに自由の女神のミニチュアが置かれた写真がある。そこは、かつて進駐軍の軍人や軍属の家族用に建てられた「米軍ハウス」の裏庭。
「横田基地のある福生市で写した、アメリカ文化が定着した風景。その象徴という感じですね。以前はすごく暴力的な最前線のようなところだったと思うんですが、いまは米軍ハウスを改装してコミュニティー施設として使っている。観光地としてPRしている」