「満塁ホームランを打った直後、たぶん初めてじゃないですかね、バンザイしたのは。なぜバンザイが出たかっていうのは、恐らく、怖さというものをホームランの感触が一瞬、忘れさせてくれたからじゃないですか。でもホームベースを踏んでベンチに帰ってきたらまた我に返るわけです。次の守備、次の打席がさらに怖くなっていることに気づく。大げさじゃなく、ベンチでブルブル震えてましたよ」

 周囲には飛ぶ鳥を落とす勢いの若虎が、満塁アーチで最高のスタートを切ったかのように見えた開幕戦の初回。しかし本人の胸の内は言い得ぬ恐怖で支配されていたのである。言い換えれば、阪神でスタメンを張り、チームや周囲、自分の期待に応えられるかどうかという恐怖。このホームランが教えてくれたことは、掛布にとってとてつもなく重かったということだ。

■江川卓という男との濃密な時間

「一本のホームランで、先輩方がどんな気持ちで野球と向き合っていたかを初めて知ったんでしょうね。それまで調子に乗っていた若者が怖さを知り始め、扉を開いたらさらに怖いものがあったという。野村(克也)さんにしても、落合(博満)にしても、イチローにしても松井(秀喜)にしても、どれだけ打っても楽しいわけなかったって言うんじゃないですか? だからあのホームランが僕にとってのスタートになった。あれ以来、野球が楽しいと思ってプレーしたことは一度もなかったんです」

 一方で、「怖さ」は戦う対象ではなかったとも話す。その怖さが半歩前にあることをしっかり感じながら過ごした現役時代。言いしれぬ「恐怖」は、その後の自分にとって最高の先導役になっていったという。

「自分のような選手は怖さがあるからとにかくバットを振るわけです。だからこそあれだけやれた。怖さが僕を育ててくれたという意味では、やっぱりあの満塁ホームランは忘れられないんですよね。もちろんファンとかチームメイトには、僕がそんな怖さを感じていることを気づかれないようにしてました。でも、女房は感じてたんですよね。毎シーズン、開幕の前日は気を使った食事を出してくれてですね。まずヤクルトを飲むでしょう。巨人大鵬ということで卵焼きを食べて、ドラゴンズは竜だから鰻か穴子。それから大洋はクジラだからそれを食べ、鯉は嫌いなんだけど広島だから一口だけ食べる。食事が終わるとグラブを枕元に置いて寝るという感じです。そうでもしなければ怖くて仕方ないってことを女房も気づいていたでしょう」

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