そもそも「機械は対話ができるか?」という問いは、「機械は考えられるか?」という問題と同じように、奇妙です。なぜならこれらの質問は、人間だけが行える対話や思考という言葉の意味を逸脱しているからです。

 イギリスの数学者のアラン・チューリング(1912-1954)は、「計算する機械と知能」と題する論文(Mind49:433-460,1950)において、そうした意味のない問いを立てる代わりに「模倣ゲーム(imitation game)」を提案しました。

酒井邦嘉『デジタル脳クライシス』(朝日新書)
図版作成:上泉隆

 このゲームでは、質問者が、隔離されて姿の見えない男性Aと女性Bを相手に、文字だけで髪型や趣味などについて自由に質問をします(図1)。そうしたやり取りを通して、女性のふりをする「模倣者」Aを見破れたら質問者の勝ちです。逆に、見破れなかったらAの勝ちというわけです。

 さらにチューリングの論文では、質問者の相手A(男)、B(女)を、A(機械)、B(人間)に入れ替えるという「メタファー」が提案されています。常に正しく応答する人間Bに対して、人間のふりをするチャットボットがAだったら、質問者はゲームに勝てるでしょうか。

 その後、このゲームが実際に試されるようになり、チューリング・テストと呼ばれるようになりました。要するに質問者は、言葉のやり取りを通して相手がどのような「心」を持ち、噓(うそ)をついているかどうか探ることになります。たとえチャットボットに人間らしい言葉づかいをプログラムしたとしても、心のない言葉は簡単に見破られますから、人のふりをするだけでは明らかに不十分なのです。

 こうした対話の問題は、どの言語を用いようとも何ら変わりはありません。外国語だからといって、対話風AIや自動翻訳機で事足りるはずはないのです。ですから外国語の学習に合成AIを使う提案など、決してすべきことではありません。心の翻訳機など、この世に存在しないのですから。

 人が文章をつづったとしても、「翻訳は創作である」と言われるほど、訳者が持つ裁量の余地は大きいものです。人間でも言外の意までくみ取るのは至難の業(わざ)ですから、まして心を持たない機械にそれを期待するのは禁物です。

 心がなく、人の心を理解しようともしないAIは、録音・再生機能がついただけの人形と大差ありません。合成AIを相談相手にすること自体、人同士の会話からの逃避であり、何ら問題の解決にはなっていないことを自覚する必要があります。

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チャットボットに足りないもの