だが紫式部は、現実にひれ伏すだけではなかった。彼女は心というものの力にも気づいたのだ。「心だにいかなる身にか適ふらむ思ひ知れども思ひ知られず(現実に従うという心だが、それさえどんな現実に収まるものだというのか。心は現実を思い知っている。でも思い知りきれず、はみ出すのだ)」(同五十六番)。そう、心は何にも縛られない。易々と現実から抜け出て、死んだ人とも会話し、未来を夢想する。架空の世界まで創りだす。時空を超えて、それが心というものの普遍だ。紫式部はこの「心」という世界に腰を据え、人というものに考えを致し続けた。彼女にとって、「置かれた場所」で「下へ下へと根を降ろす」とはこのことだった。『源氏物語』はその結実であったと、私は思う。

 無駄に漢学の才のある娘だと、父親に嘆かれたこと。新婚わずか三年で、娘を抱え寡婦となったこと。『源氏物語』を書けば書いたで、意に沿わぬまま中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)の女房(にょうぼう/侍女)にスカウトされ、同僚からは高慢な才女と誤解されていじめにあったこと。「人生は憂いばかり」と、紫式部はため息をつく。だがそれぞれの場で、彼女は考えることを手放さず生きた。果たして、漢学は彰子に請われて進講するに至り、娘は母の背を見て成長し、同僚たちの信頼も勝ち得て、紫式部は彰子後宮(こうきゅう)に欠かせない女房となった。「心」という根が、ぶれることなく彼女を支えたのだと私は思う。

『源氏物語』の最終場面。浮舟も薫も揺れ動く心を抱えて、いったいどうなってしまうのだろう。紫式部は答えを用意している。それは、どうなろうと「それでも、生きてゆく」ということだ。

『紫式部集』の最終歌が、紫式部の至った最後の境地を私たちに教えてくれる。「いづくとも身をやる方の知られねば憂しと見つつも永らふるかな(憂さの晴れる世界など、どことも知れませんからね。この世は憂い。そう思いながら、私は随分長く生きて来ましたし、これからも生きてゆきますよ)」(百十四番)

 この和歌に励まされつつ、私たちもそれぞれに置かれた場所で咲こうではないか。

暮らしとモノ班 for promotion
大人のリカちゃん遊び「リカ活」が人気!ついにポージング自由自在なモデルも