独身。「プライベートを大事に保存したいという想いがある」と話す。30年来の付き合いの東京大学教授の高橋孝明は、新沢を「自分を演じているところがある」と評す(撮影/山本倫子)

「留学中は大変なこともたくさんあって、やっぱり寂しかった。ピーマン(新沢の愛称)は、すごく多才でいい人だけど、それだけではなくて、いろんな感情を理解する心を持ち合わせている。だからこそ、歌詞のひとつひとつが沁(し)みたのだと思います」(藤田)

 ICU高校卒業後、新沢は明治学院大学社会学部社会福祉学科に進学した。高校3年の時、担任の女性教諭に、

「新沢くんは浪人しちゃダメよ。浪人しても遊んじゃって伸びないから。内申点は悪くないんだから、推薦で入れるところに行きなさい」

 と言われて決めた大学だったが、キリスト教系の大学の社会福祉学科であり、両親は大喜び。新沢が歌ったり、絵を描いたりすることを「音楽と芸術は、保育に役立つからね」と言って応援していた誠治は、新沢に自分の勤務先を含めていくつかの保育園でのアルバイトを勧めた。

 新沢は、

「歌うことも絵を描くことも、そのためじゃないんだけどな(笑)」

 と思いつつ、子どもは大好きだったから、二つ返事でOKして、軽い気持ちで出かけたという。

 だが、現実は甘くなかった。天使のような子どもたちが若いお兄さんを大歓迎してくれると思っていたら、目の前に現れたのは、超絶悪ガキ集団。ちょうど節分の準備をしていた年長クラスでは、鬼退治をするための紙の棒でバンバンぶたれたり、けんかが起きたり。新沢は言う。

「びっくりしたけど、すっごく面白かった。子どもだって人間で、大人と何ら変わらない。そのことに気づくことができたのは、大きかった」

 東京都豊島区の千早子どもの家保育園では「創作あそびうた」の第一人者であり、副園長の湯浅とんぼ(故人)と、後に多くの歌を一緒に作ることになる中川ひろたかと出会った。湯浅のアシスタントとしてギターを持ってあちこちの講演会に同行したり、中川と曲づくりをしたり。高校生の頃に抱いた「歌や絵を多くの人に届ける仕事がしたい」という想いと、いくつもの縁が掛け合わさって、自分だけの道が拓けつつあった。就職活動はしなかった。

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