文麿が動き始めるのは、硫黄島陥落直前の同二十年二月であった。天皇に上奏して「敗戦は遺憾ながらもはや必至なり」と述べ、敗戦に伴う共産革命で天皇制が崩壊する事態をさけるために戦争を終結すべきと主張したが、昭和天皇は「もう一度戦果をあげてからでないと難しい」といって難色を示したという。
同年七月、ソ連を仲介として和平を模索する動きがおこり、文麿は対ソ交渉の特使に任じられる。文麿はブレーンの協力をえて和平交渉の要綱を作成したが、そこには国体護持(天皇制の存続)を絶対条件としつつ領土は固有本土とすること、完全な武装解除、憲法改正や天皇の譲位まで含む大胆な和平条件が盛り込まれた。しかし、対日参戦を決めていたソ連は交渉に応じず、その直後にポツダム宣言が発表され、広島・長崎への原爆投下を経て終戦を迎える。
戦後、文麿はマッカーサーからの提案をうけ、自身の戦争責任を清算するために憲法改正作業に着手する。しかし、日中戦争の継続や日米開戦の責任を免れることはできず、A級戦犯に指定され、占領軍から逮捕指令が発せられる。文麿は戦争犯罪人として裁かれることを恥辱として、出頭期限の当日未明、荻窪の自宅で服毒自殺した。満五十四歳だった。