同年、第二次世界大戦が始まりドイツが西ヨーロッパを席巻していく中、国内では短命の内閣が続き、近衛待望論が高まっていく。そして同十五年七月、外相松岡洋右、陸相東條英機をようする第二次近衛内閣が成立。文麿は国民・軍・行政を包含した挙国一致を実現するべく新体制運動を展開し、その中核組織として大政翼賛会を発足。国民には「一億一心」を説いて一致団結と耐乏生活の継続を求めた。しかし、新体制には批判も多く「藤原氏の不逞を歴史に見る」という怪文書まで出た。

 さらに、英米の経済制裁に対抗するために日独伊三国同盟を締結したことで、アメリカとの関係も悪化する。アメリカとの衝突を回避するため、近衛は日米交渉に着手し、これに反対する松岡外相を更迭して第三次内閣を発足させた。しかし、日本が南部仏印進駐を強行したため、アメリカは日本への石油輸出を停止。危機を感じた文麿はルーズベルト大統領との会談を申し入れたが拒絶され、中国からの撤兵も東條陸相の反対で阻止され総辞職を余儀なくされた。ギリギリまで戦争回避を模索した文麿の努力は水泡に帰し、代わって組閣した東條内閣によって日本は泥沼の戦争に突入していくのである。

対ソ交渉の特使として和平案を作成

 文麿は開戦の責任を感じ、緒戦の勝利にも浮き立たない様子であったという。同十九年には「悲惨なる敗北」を予見したが、東條内閣の打倒には動かず名誉挽回の機会を失う。

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