高邁な思想で日中戦争を正当化
同十一年、二・二六事件が勃発すると、文麿は時局収拾のため元老の西園寺から首相就任を推薦される。だが、文麿は右翼の排除をめざす西園寺の政治路線では国論は統一できないと考え辞退した。政策実現の見込みがなければ首相の座に執着しないというのが、文麿の政治信条だったのだ。しかし、同十二年、林銑十郎首相が後任に陸軍大臣杉山元を推すと、軍人の首相就任を嫌う西園寺はふたたび文麿に就任を打診。今回は組閣の条件をつけられなかったことから、近衛は出馬を決意し第一次近衛内閣が成立する。国内は「清新な気分に満つ」「暗雲が晴れた気分」と歓迎ムードにわいた。
文麿は対中強硬政策をとり、排日運動のとりしまりや満洲国の黙認などを中国に求めた。そのため日中関係は悪化の一途をたどり、同年七月、盧溝橋事件が勃発し日中戦争が始まる。文麿は陸軍の要請をうけて増派を決定し、国民に向けたラジオ中継で、日中戦争は正義人道の戦いであることを説き、戦争と国民生活の悪化を国家主義と世界史・哲学的な観点から正当化した。この演説は「気品高く理義深遠」と高く評価され、レコードで発売されるほどの人気だったが、高尚な理念で日中戦争を聖戦にしたことが長期化の要因となった。
翌年四月の内閣改造で文麿は陸相を更迭した。天皇と陸軍の支持を背景に、政党内閣もできなかった軍部人事への介入に成功したのである。十一月の演説では、戦争の目的を「東亜新秩序」の建設と位置づけ、中国との対等化を強調。中国に満洲国の承認や日本軍駐屯、資源開発の便宜を求める一方、領土や賠償金は求めず中国の主権も尊重する方針を示したが、米英は日本に敵対的な蒋介石政権への援助を強化。戦争収拾に失敗した近衛内閣は総辞職する。