文麿は若い頃から学業優秀であった。第一高等学校では新渡戸稲造校長の修養主義に感動し、京都帝国大学ではマルクス主義の経済学者河上肇、『善の研究』で知られる哲学者西田幾多郎らから多くを吸収した。そこで文麿は、経済的弱者を救い個人の自由を守るためには、エリート層が国家政策を考えて国民に示す必要があると考えるようになる。典型的な国家社会主義の立場であり、以後もこの信念がぶれることはなかった。

 貴族院議員就任から二年後の大正七年(一九一八)、文麿は論文「英米本位の平和主義を排す」を発表。英米と同じ程度に日本の生存権が認められなければ真の国際協調はないと主張し、敗戦国ドイツへの同情を示した。この論文はパリ講和会議に臨む日本の真意を的確に表現した論文として評価され、文麿は講和会議の随員の一人に加えられる。

 昭和六年(一九三一)、満洲事変が起こると、貴族院副議長だった文麿は陸軍を支持する立場をとった。政争に明けくれる政党勢力に国論を統一し日本を強化する力はないと考え、それに代わる政治勢力として陸軍に注目したのである。五・一五事件の後の同八年に発表した論文では、平和を妨げているのは欧米であり、国際連盟や不戦条約で真の平和を実現することはできない。日本は資源公開と人種平等の二大原則を実現するために満州に進出したとして、満洲事変を生存権の考え方にもとづいて肯定し、満洲国の建国と国際連盟からの脱退を認める立場をとった。文麿が貴族院議長に就任したのは、この数か月後のことである。

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軍部人事への介入に成功