藤原北家嫡流の五摂家である近衛家の血統を持つ近衛文麿。「新日本のホープ」として政界に登場し、日中戦争から太平洋戦争開戦直前まで3度にわたり首相を務めた。その生涯とはいかなるものだったのか。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して紹介する。
* * *
「新日本のホープ」として政界に登場
「今頃、人気で政治をやろうなんて、時代遅れな考えじゃあだめだね」。第二次近衛内閣の発足直前、西園寺公望はこのように語ったという。確かに文麿の人気は絶大だった。近衛家嫡流という血統に加え、若く知的で、百八十センチ近い長身に「目から受ける感じが苦み走って申し分ない」というほどの男前。日本中から「新日本のホープ」ともてはやされた。
文麿は近衛家の祖基実から数えて三十代目にあたる。父篤麿はドイツで国家学を学び、貴族院議長・枢密顧問官などを歴任した政界の大立者であった。日本主導によるアジアの自立をめざすアジア主義の外交を唱え、対ロシア強硬論を唱える国民同盟会を結成して日露戦争の遠因を作った。だが、活発な政治活動は多額の借金を生み、篤麿の死後、近衛家は激しい取り立てにあう。こうしたこともあって、若い頃の文麿は社会への反抗心から「トルストイなどを読みふける、ひがみの多い憂鬱な青年」だったと自ら回想している。