一方、鎌足は後に皇位を争う大海人皇子(天武天皇)と大友皇子(天智の子)の両方に娘を嫁がせ、世代交代を見すえた婚姻政策もぬかりなく行っていた。大海人も鎌足を信頼し、壬申の乱に際して「鎌足が生きていたらこんな苦労はしなかっただろう」と嘆いたという。
天智即位の翌年、鎌足は危篤に陥る。鎌足は病床を見舞った天智から大織という最高の冠位と内大臣の地位、および藤原姓を授けられ、翌日死去した。鎌足が藤原氏だったのはわずか一日であり、後世、日本一の氏族に発展するとは誰も予測できなかっただろう。以後、藤原氏は藤の葉が繁るがごとく、急速な発展を遂げるのである。