入鹿暗殺の際、鎌足は特段の働きをしておらず、その役割を過小評価する意見もある。しかし儀式に先立ち、道化師を使って入鹿を油断させ、巧みに剣をとりあげさせたのは鎌足であった。また、大極殿では自ら弓矢をもって中大兄を護衛し、緊張のあまり食物を吐いてしまう子麻呂らを激励するなど、計画の成功に向けて気を配っている。蘇我氏内部の対立に目をつけ、石川麻呂を誘ったのも鎌足のアイデアであった。劉備に策を授けた軍師諸葛孔明のごとく、帷幄で謀をめぐらすのが鎌足の役割だったのかもしれない。
この後、皇極女帝から弟の孝徳天皇へ史上初の生前譲位が行われ、中央集権国家建設に向けた大化の改新が始まる。鎌足は内臣という地位についたが、政治の表舞台で目立った活躍はしていない。これは、内臣が相談役のような立場だったためと考えられ、実際は政治顧問の僧旻や高向玄理とともに国政の整備に取り組んでいたのだろう。奈良時代成立の『藤氏家伝』によると、鎌足は天智天皇から礼儀と律令の編纂を命じられたという。それまでの法律を取捨し、必要なものを加えて編纂をほぼ完成させたが、その翌年、鎌足は亡くなり、数年後、初の法典である近江令として結実したといわれる。