中臣氏は古くから朝廷祭祀を司ってきた家系である。平穏な時代であれば、鎌足も神官として生涯を送っていたかもしれない。実際これ以前、鎌足は朝廷の神事を司る神祇伯に任じられたが辞退し、病気と称して摂津国三島(大阪府摂津市)に隠棲したという。
かつて遣隋使として隋に渡った僧旻は、自分の門下生で蘇我入鹿に匹敵する者はいないが、鎌足だけはこれに勝ると語ったとされる。進歩的な思想と先進的な知識を備えた鎌足は、新国家建設のためには蘇我氏を排除する必要があり、そのためには神祇を司る家という束縛を脱する必要があると考えていたのだろう。
入鹿の暗殺と大化の改新
法興寺での出会いを機に親しい間柄となった鎌足と中大兄は、南淵請安の塾に儒教を学びに行く道すがら、入鹿暗殺のクーデター計画を練りあげていった。そして、蘇我氏本宗家と対立する蘇我倉山田石川麻呂らを仲間に引き入れ、同四年六月、高句麗・新羅・百済の三韓の使者が、皇極天皇に貢物を奉る儀式の席で入鹿暗殺を実行する。
この時、中大兄は警備兵に命じて宮廷の十二門を閉鎖し、自ら長槍をもって大極殿の陰に隠れた。儀式の席で、三韓の上表文を読むのは石川麻呂である。しかし、終わり近くになっても刺客が斬りかかってこないため、石川麻呂は冷や汗を流し手が震えた。「なぜ震える?」という入鹿の問いに、石川麻呂が「大君(天皇)の前にいるのが恐れ多くて」と答えた時、中大兄が「やあ!」と声をかけて斬りこみ、佐伯子麻呂とともに入鹿を討ち取った。翌日、入鹿の父蝦夷も甘樫丘の邸宅で自害し、蘇我氏本宗家は滅亡した。