また、54年に南海にテスト入団した野村克也、61年に高校を中退して近鉄に入団した土井正博は、1年目のオフに解雇通告を受けながら、運良く首がつながり、球界を代表する大選手になった。たった1年で消えていった選手たちの中にも、第2の野村、土井がいたかもしれない。

 65年のドラフト制導入後も、1球団で10数人の指名が当たり前だった草創期には、ドラフト外入団組とともに、1年で退団したドラフト指名選手も多かった。

 68年の巨人は、1位・高田繁をはじめ前年のドラフトで指名された15人中11人が入団したが、2人が1年で戦力外に。うち1人は、夏の甲子園準優勝投手・新浦寿夫(静岡商)が9月に高校を中退して入団した結果、支配下60人枠から外れたのでは?とも噂された。

 また、72年のドラフト15位でロッテ入りした196センチの長身内野手・鈴木弘(大東大出)は、メジャーリーグ球団と契約した日本人野手第1号として知られるが、変化球に対応できず、1軍出場のないまま1年で退団した。

 箕島高時代の79年夏の甲子園大会、星稜高戦で延長18回にサヨナラ打を放った強打の内野手・上野敬三も、支配下選手としては実質1年で引退した。

 79年のドラフト4位で巨人に入団。80年5月25日のイースタン、大洋戦で9回2死から同点1号3ランを放つなど、6試合で14打数4安打3打点1本塁打を記録したが、春季キャンプ中から腰痛に悩まされ、81年は練習生として治療に専念することになった。

「高校時代の苦労を考えれば、ここでくじけては何もならない。もう一度必ず巨人のユニホームを着てみせる」(週刊ベースボール81年3月30日号)と誓った上野だったが、復活できないままユニホームを脱いだ。

 03年のドラフト5巡目でヤクルト入りした吉田幸央(城郷高)は、入団会見で「世界一の投手になる」の“ビッグマウス”が話題になったが、わずか半年後の6月、内臓疾患を理由に任意引退となった。

暮らしとモノ班 for promotion
「最後の国鉄特急形」 381系や185系も!2024年引退・近々引退しそうな鉄道をプラレールで!
次のページ
1年で退団した育成ドラフト指名選手