古長拓(写真提供・オリックス・バファローズ)
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 NPBには毎年数多くの新人が入団してくるが、せっかくプロ野球選手になる夢を叶えたのに、さまざまな事情から、わずか1年でチームを去った選手もいる。

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 2リーグ分立直後の1950年は、選手不足で入団のハードルも低めだったことから、1年で見切りをつけられた者も少なくなかった。その中には、今もファンに名前を記憶されている“有名人”もいる。その一人が東急の投手で、後に池田高監督として春夏3度の全国制覇をはたした蔦文也だ。

 徳島商時代に春夏3度の甲子園に出場し、同志社大で徳網茂(元阪神)とバッテリーを組んだ蔦は復員後、全徳島で都市対抗に3度出場し、50年、26歳で東急に入団した。契約の席に下駄履きで現れたという痛快なエピソードも伝わっている。

 4月23日の西鉄戦、4回から先発・桑名重治をリリーフし、プロ初登板のマウンドに上がった蔦は、5回を6安打1失点とまずまずのデビューを飾る。

 だが、プロ初先発に抜擢された同29日の毎日戦では、2回途中KOで敗戦投手に。さらに5月11日の大映戦では、0対12とリードされた5回に3番手として登板したが、2本塁打を浴びるなど6失点と炎上し、プロ初登板の塩瀬盛道にマウンドを譲った。

 同年は5試合に登板し、0勝1敗、防御率11.70と結果を出せず、1年で退団。「プロでええ思い出なんかない」と回想している。

 翌51年、教員試験を経て、池田高に社会科教諭として赴任。野球部監督になった。もし、蔦がプロで活躍し、郷里に帰らなかったら、同高野球部の歴史も違ったものになっていただろう。

 前出の塩瀬も1年で戦力外になったが、蔦をリリーフした5月11日の大映戦のプロ初打席で本塁打を記録したことから、投手としては1回1/3、被安打2、与四球5、自責点2の防御率13.50ながら、打撃では1打数1安打2打点1本塁打の生涯打率10割、長打率40割を記録した最初の男(1991年にオリックス・シュルジーも記録)として球史に名を残した。

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ドラフト制導入後に1年で退団した選手