奥田:俳句は、自分の本質が問われるでしょ。あれこれ苦心して一句ひねり出しても、五七五には結局「素の自分」がさらけ出される。大きい人間、カッコいい人間であるかのように見せたくても、残念ながらそうはいかない。
要するに、カッコつけられないわけです。
なぜなんだろう? と一時真剣に悩んだこともあって、ああ、これは俳句に限らず、茶道や華道、柔道や空手などにも共通することだと思い至ったんです。要は「エステティック」ではないということ。おっぱいを大きくしたい、上半身をマッチョにしたいとジム通いするのとは全然違うんだなと。
夏井:アハハ、言いたいことは分かった。なるほどね。
奥田:俳句は、装いやお飾りをはぎ取って、個人の骨の髄をまな板の上にのせちゃうんです。言葉を削ぎ落としていくと、無意識に隠してきた本性が露わにされてしまうわけ。
夏井:奥田さんらしい視点だなあ。十七音の俳句では、「こう見られたい」と着飾ることができない。「実はこうです」というのがバレちゃうと。
奥田:俳句が他の趣味と異なるのはその点で、僕にとっては、教養を磨くためのものではない。心を本質的なレベルで鍛え抜こうという覚悟が伴わないと、俳句を続けてはいけない気がします。
たとえば「僕、俳句をやっているんです」と言った瞬間、相手のスイッチが、カチッと入ることありませんか? 「ああ、俳句をされているんですか」と相手も軽く応えているようでも、明らかにモードが変わる。その瞬間、「ああ、武道と一緒だな」と。
夏井:武道と同じスイッチなんだ。
奥田:ビリッと音がするんですよ。刀をどちらが先に抜くか、互いに間合いをはかりながら対峙しているような。それでいて抜いた瞬間、「うん」とお互いにその刀をさやに収めて、「じゃあ、酒飲もうか」となる。
夏井:奥田さんにとっての俳句は、見えない刀を抜き合っているような感覚なんだね。
奥田:俳句はその十七音に、「日本刀の切っ先が見える」から、生半可な気持ちではその刀を持てない。だけど持った以上は、ちゃんと鍛えていかなきゃいけません。
夏井:面白い捉え方だなあ。