しかし、東海道を進む家康が三万二七三〇騎、秀忠が三万八〇七〇騎といわれているので、忠勝(本多家)が抜けることで兵力に大きな支障をきたすとは思えない。本多家が戦力を分散させてまで秀忠の隊に忠政を残したのには、戦略上の理由があるだろう。
筆者は、秀忠の隊に忠政を残した背景には、対真田交渉があったと考える。昌幸の長男・信幸は、忠勝の娘(小松殿)を妻としていた。忠勝は、真田家臣・湯本三郎右衛門尉(三郎左衛門)に宛てて、信幸の子供たちが忠勝のもとに無事到着した旨を報じており(「熊谷家文書」)、忠勝と信幸の関係は、形式的な縁戚ではなく、実質的な交流があったことが分かる。また、秀吉が健在であった頃、忠勝が信幸を介して、(真田氏の奏者である)石田三成と交流していたことも確認できる(「真田家文書」)。徳川氏は、忠政を秀忠の隊に残すことで、徳川秀忠─本多忠政─真田信幸─真田昌幸の交渉ルートを足がかりとして上田城を迅速に開城させようとしたのではないだろうか。
後世の編纂史料であるが、『真田家御事蹟稿』によると、昌幸が会津征討から離反した際、信幸は昌幸の離反を忠勝へ通報し、それを忠勝が井伊直政へ取り成したという。そして、上田城の攻撃前には、信幸とともに忠政も降伏勧告にあたったと記されている。
また、『真田家武功口上之覚』には、関ヶ原合戦の後、信幸が、昌幸と信繁の助命嘆願のために忠勝と井伊直政を頼り、直政の取り計らいによって助命された旨が記されている。
このように、真田氏が徳川氏と交渉を行う際、窓口となったのは本多家であった。秀忠の隊に忠政を残した理由は、上田城を迅速に開城させるための対真田交渉にあったといえる。つまり、上田城に侵攻するに当たっての徳川氏の方針は、力攻めではなく、交渉によって上田城を迅速に開城させることにあった。関ヶ原の役という大局でみれば、三万八〇〇〇石の大名である昌幸の所で徳川の主力が釘付けになるのは得策ではなく、昌幸を赦免してでも迅速に西上するのがよいことは明らかである。