偽りの降伏
八月二十四日に宇都宮を出陣した秀忠は、同月二十八日に松井田(群馬県安中市)に到着した。そして、九月一日に軽井沢(長野県北佐久郡)を経て、二日に小諸城に入城した。
小諸城に入った秀忠は、信幸と本多忠政に対して昌幸に降伏勧告を行うように命じ、両者と昌幸は国分寺(長野県上田市)で会談した。秀忠の家臣・遠山九郎兵衛と、信幸の家臣・坂巻夕庵が交渉に当たったともいわれている。
交渉の結果は、九月四日付で秀忠が森忠政に宛てた書状に記されている(「森家先代実録」)。それによると、昌幸は信幸を通じて頭を剃って降伏すると嘆願して来たため、昨日(三日)秀忠が助命を了承する旨を通達したが、今日(四日)になって昌幸が文句を言ってきたので赦免は取り止めて、攻め入ることにしたという。
赦免が受け入れられたにもかかわらず、急に態度を一変させているところから、軍記に描かれているとおり、昌幸は偽りの降伏をしたとみていいだろう。徳川氏は上田を迅速に平定するために、交渉の手筈を整え、昌幸を赦免する意向で臨んでいたが、昌幸はこれを逆手にとって時間稼ぎに利用したのである。
昌幸の巧みな戦略
九月五日、秀忠は小諸城を出立して上田城の東方にある染谷台に布陣した。そして、城に籠もる真田軍を城外に誘き出すため、翌六日に刈田を行った。
物見に出ていた真田兵と、刈田をおこなっていた徳川兵が小競り合いとなると、酒井家次らは真田兵を蹴散らして、大手門まで攻め込んだが、多くの犠牲を出した。これを見た秀忠は使者を派遣して「大将の下知なくして城を攻めるな」と叱責し、兵を引かせている。真田軍を城外に誘引する作戦であったが、逆に城まで深追いして犠牲を出す結果となった。
なお、秀忠の旗本である朝倉宣正、辻久吉、小野忠明(神子上典膳)、中山照守、戸田光正、斎藤信吉、鎮目惟明ら七人が、真田兵の追撃で活躍したといわれ、後世に「上田七本槍」と称されるが、この後、軍規違反を咎められて謹慎となっている。