九月七日になると、秀忠の意識に変化が生じている。この日、秀忠は井伊直政と本多忠勝へ宛てた書状で「真田表の仕置を命じて、近日、上方へ進みます」と述べており(「江戸東京博物館所蔵文書」)、西上を意識していたことが分かる。
七日の段階で家康から急ぎ西上するよう催促が来た形跡はないが、美濃国では、諸将が赤坂(岐阜県大垣市)に集結しているとの情報を秀忠は得ているので、決戦が近いことは理解していた。
翌八日には、森忠政に宛てた書状で「急ぎ上洛するようにと、家康から命令が来た」と述べている(「森家先代実録」)。秀忠の意識は、完全に西上に切り替わったといえる。
九日、秀忠は小諸城へ軍を引いた。そして、諸将に十一日に西上を開始する旨を告げている。
これをもって第二次上田城の戦いは終結した。名高い戦いではあるが、真田軍の戦術に目を向けると、城近くまで深追いしてきた敵を撃退するというシンプルなものであった。
前述のごとく、昌幸の周囲は東軍の勢力であり、援軍の見込みはない。そして、徳川軍と真田軍だけでも圧倒的な戦力差がある上に、信濃国の大名まで加わっている。まず、勝ち目はないだろう。
しかし、この戦いは上田城の局地戦だけではなく、家康ら東軍と、三成ら西軍による「大戦」である。つまり、昌幸が上田城に籠城している間に三成が家康に勝利すれば、昌幸は勝者になれるのである。秀忠の軍を破る必要はなく、拘束するだけでも十分に貢献となった。
第二次上田城の戦いに参戦していた大久保忠教(彦左衛門)は、『三河物語』に「佐渡(本多正信)が真田に騙されて、得意げな顔で数日を(無駄に)送った」と記している。昌幸がこの戦いで用いた最も巧みな戦略は、徳川氏の降伏勧告を逆手にとって時間稼ぎに利用した点である。