しかも、三成は書状の中で、挙兵の計画を事前に伝えていなかったことを昌幸に詫びている。詫びの文面が長く具体的であることから、昌幸は計画を伝えられていなかったことに対して不満を露にしたのであろう。この争乱に対する昌幸の意気込みが伝わってくる。
昌幸は、争乱に巻き込まれて御家存続の危機に直面してしまったとは思っておらず、むしろ、この争乱を領土拡張の好機ととらえていたのであろう。三成が豊臣政権と昌幸を繋ぐ奏者であったことから、論功行賞で有利な条件が期待できると昌幸は考えたと思われる。実際に昌幸は、西軍首脳部に甲斐国・信濃国(深志・川中島・諏訪・小諸)の切り取り次第(征服した土地の領有権の獲得)を約束させている。
昌幸の領地は、徳川領国の上野国に隣接している。また、西軍の勢力は美濃国(岐阜県南部)を東の限界点とし、信濃国は東軍に味方する諸大名が大半を占めている。こうした状況を顧みずに、千載一遇の好機を逃すまいと昌幸は西軍に与同する決断をした。生粋の戦国武将といえよう。
当時、秀忠は二十二歳。『徳川実紀』には、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原の役の際、秀吉に呼ばれて秀吉の陣へ赴いたとあるが、実質的にはこの争乱(関ヶ原の役)が初陣であった。初陣の秀忠の前に、生粋の戦国武将・真田昌幸が立ちはだかったのである。
交渉の窓口となった本多家
白河口の防備を整えた秀忠は、上田城を制圧して上洛するために、八月二十四日、宇都宮城を出陣する。榊原康政、大久保忠隣、酒井家次、本多康重、牧野康成、酒井重忠、小笠原信之、本多正信ら、万石超えの大身家臣が多く編成された徳川軍主力を率いての出陣である。
これに川中島(長野市松代町)の森忠政、小諸(長野県小諸市)の仙石秀久、松本(長野県松本市)の石川三長、諏訪(長野県諏訪市)の日根野吉明ら信濃国の大名が従った。
本来は、本多忠勝も秀忠の隊に属していた。しかし、東海道を進んで、豊臣系大名の監督や、諸大名との交渉に当たる予定であった井伊直政が出発の直前に病にかかってしまったため、忠勝が東海道を進むこととなった。そして、嫡男・忠政が忠勝に代わって秀忠の隊に属すこととなったのである。