慶長五年(一六〇〇)六月、豊臣政権で独裁的地位を築きつつあった徳川家康は、会津(福島県会津若松市)の上杉景勝に謀叛の疑いありとして、出兵の号令をかけた。会津討伐は中止になるも、上杉氏の押さえとして、後の二代将軍・徳川秀忠は宇都宮城に留まることに。下野国から会津へ攻め入る白河口の総大将・秀忠を翻弄したのが、信濃国の国衆であった真田昌幸だ。その手腕を朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第十三章 著:水野伍貴)から一部抜粋、再編集して紹介する。
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生粋の戦国武将・真田昌幸
会津征討に従軍していた真田昌幸は、現・栃木県佐野市域で突如、離反して上田城に帰還した。当時、真田昌幸は三万八〇〇〇石の領地を治めていた。また、長男の信幸は豊臣政権から沼田を与えられ、二万七〇〇〇石の大名として独立している。昌幸と二男・信繁(幸村)は三成ら西軍に味方したが、信幸は徳川方に留まっている。
昌幸が西軍に与同した理由については、一般的に真田家を存続させるために父子で東西に分かれたと説明されている。しかし、史料を読み解くと、昌幸の決断が尋常ではないことが分かる。
昌幸から与同する旨を受けた三成は返書を書いている(「真田家文書」)。それによると、昌幸の書状は七月二十一日付で出されており、二十七日に三成の領地である佐和山(滋賀県彦根市)に到着したという。
少なくとも昌幸は二十一日の段階で三成に与同する決断をしていたことになるが、日数から考えて西軍が発した檄文と「内府ちかひの条々」は(二十一日の時点では)昌幸のもとに届いていない。つまり、昌幸は三成に毛利輝元ら二大老・三奉行が味方していることを正確には把握しておらず、噂として流れてきた三成と大谷吉継による反乱というレベルの認識で西軍に付くことを決めたことになる。