死について知りたい
1964年、東京生まれの三島さんは子どものころから「死」について興味があった。
「ぼくは生まれてからずっと都会暮らしでしたから、死はいつもブラックボックスに入っているような感じがした」と振り返る。
「誰かが具合が悪くなったら、病院に行く。症状が重かったら入院する。で、さらに具合が悪くなったら、面会謝絶になって、会えなくなる。何となく、どうしたのかなと思っていると『亡くなった』と、親から告げられ、その後、葬式に行く、みたいな。だから、『肝心のところ』は、よくわからなかった」
三島少年はそれが怖かった。「知らない、イコール、怖い、という感じ。だから、死について知りたいと、漠然と思った」。
高等専門学校を卒業すると、広告の制作会社をへて、週刊誌の世界に入った。
「週刊誌の仕事を始めてから、子どものころから抱いていた死への疑問が気になるようになった。知り合いの記者に話したら、『三島さん、そんなことに興味あるんだったら、脳死っていうのがあるんだけど、やってみない』と、取材に誘われた気がします」
三島さんは「週刊ポスト」(小学館)の取材で都内にある有名大学病院に通った。
「当時、脳死は、人の死としてはグレーゾーンでした。その大学病院は、脳死は人の死ではない、という立場で治療していた。一方、脳死というものを知ってほしい、ということで、取材を受け入れてくれた」
実際、脳死とされる患者を目の前にすると、生きているような気がした。体は温かく、人工呼吸器を装着しているとはいえ、息をしていた。
脳死の取材に半年ほど携わった後、救命救急センターに足を運ぶようになった。さらにホスピスや終活など、人の死をテーマにした取材は断続的に続いた。
通気口の向こう側の世界
ところが、50歳を前にしてその対象はがらりと変わった。
「それまでは他人の命が撮影の対象だったんですけれど、10年前からは自分の命が対象になった、という感じです」
その日は突然やってきた。取材を終えてスタッフと食事をしている最中だった。急に胸が痛み、倒れた。意識を失った。
「気がついたら集中治療室の中でした。『三島さん、三島さん』って、医師から声をかけられて、目を覚ました。『手術をしたんですよ』と、言われた。かなり大きな手術だったみたいです」
規則正しい電子音が絶えず聞こえた。口には太いチューブが差し込まれ、体は何本もの点滴とつながれていた。
ベッドに横たわり、斜め上にある通気口を何とはなしに見ていた。すると「あるとき、通気口の向こうに『この世界のありようをひもときたい』というテーマの答えが広がっているような気がした。事象のすべてが等しく、ゆらぎのない秩序のもとで、たるむことなく連鎖を続けている光景が脳裏に浮かんだ」。
その後の社会復帰は「もうとんでもない感じだった。10年くらいかかった」。
「リハビリのために毎日、散歩をしてください」と、医師から言われ、退院したものの、「最初は体がとにかく痛かった。呼吸を安定させるのも大変だった。で、とにかく外に出て、歩いたんですけれど。1歩じゃなくて、半歩、足を前に出すのもやっとだった」。