西郷が謫居させられた沖永良部島の再現された牢屋(西郷南洲記念館)
西郷が謫居させられた沖永良部島の再現された牢屋(西郷南洲記念館)

●最期の姿に敵軍の将の涙

 幕末において西郷は八面六臂の大活躍を果たすが、維新後は政府内で対立が起こり、結局辞職し鹿児島へ戻ってしまった。この時、西郷の辞職に追随した政治家や軍人たちは600名ほどにのぼっている。その後2年の間に、新政府のやり方に反発した士族たちが全国各地で反乱を起こし始めた。このような時代の中で最終的に西郷は、鹿児島で決起することになるのである。この西郷の戦いは西南戦争とよばれ、本城などを攻めるも政府軍に敗れ、鹿児島の城山で自刃して果てた。西郷の遺体は新政府の陸軍将であった山縣有朋(のちの内閣総理大臣)が涙を流しながら検認したという。

●薩摩軍の戦死者がまとめて眠る墓地

 この西郷たちが最後に立てこもった城山のそばに薩摩軍の戦死者が埋葬された南洲墓地が作られた(南洲は西郷隆盛の号)。西郷の墓を囲むように2000名を超す人たちが眠る南洲墓地は、西南戦争後のわずか2年後に政府の許可のもと整備され、その翌年には参拝者のための社が設けられた。これが現在につながる「南洲神社」の始まりである。祭神はもちろん西郷隆盛と薩摩軍の戦没者6800柱である。幕末に新政府軍に歯向かった幕府軍(たとえば彰義隊)は埋葬すら許可されず、朽ち果てるままに捨て置かれていたことなどを考えると、西郷に対する政府の中枢にいた人たちの気持ちがよくわかる。

●西郷の人望が神社を分社させた

 そんな南洲神社には全国に分社がいくつか存在する。流刑中の西郷から教育を受けた人物によって建立された沖永良部島、その後に奄美大島にも、また薩摩軍として戦った宮崎県の旧庄内郷(現在の都城市)にも社が建てられた。注目すべきは、昭和51年に創建された山形県酒田市にある南洲神社である。こちらの祭神は西郷に加えて郷土の偉人で西郷に師事していた菅実秀も祀られている。これが酒田市に南洲神社がある理由のひとつでもあろうが、「戊辰戦争で、官軍に激しく抵抗した荘内藩に対し西郷が寛大な降伏条件を出したこと」に対して、地元では恩を感じているのだという。どれほどの人々に慕われていたのかわかるエピソードである。

 そんな西郷だが、現在、彼の正確な容姿は不明である。一切写真を撮らせず、今残る銅像なども作家たちの創造を元に作られたものだからだ。顔が知れると刺客に襲われやすくなるといった説もあるようだが、果たしてわれわれのよく知る顔が西郷なのか。西南戦争の様子を世界に伝えたル・モンド(仏新聞)の挿絵や沖永良部島の像などの姿は、まったく別人だ。やはり神として祀られる偉人は、ベールに包まれた部分も多く、易々と理解や分析などできるはずがないのは当然なのかもしれない。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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